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マゴグのゴグに対するヱホバの言葉ものみの塔 1956 | 11月1日
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なければならぬ骨だけが残ります。生残者たちは,ゴグの軍勢の証跡を跡方なく地から清めねばなりません。それはなんとたいへんな仕事なのでしよう! ヱホバの御言葉によると,たとえ良く組織された仕事を行うにしても,骨を埋めるのに7ヵ月かかるのです。全時間の仕事をする偵察隊は地をくまなく調べ,もし骨が見つかるならば,しるしを立てます。すると,鋤や鍬を持つてその後に来る者たちは,それらを埋めます。(エゼキエル 39:14,15)その清めの仕事という特権を頂く人は,その仕事を不愉快で胸のむかつくような仕事だなどと見なすべきでありません。むしろ,長期間にわたつたゴグの圧迫の支配が終つて,悪しき者がもはやいなくなつた時でも,生命を持ち得ていることによろこぶでしよう。ハルマゲドン生残者たちは,幸福です。そして,王キリスト・イエスの統治を受けつつ地を全世界的な美と完全なパラダイスにする仕事によろこんで参加します。しかし,先ずその幸福な日の来る前に,ゴグに対するこの言葉は洩なく伝えられねばなりません。
誰が言葉を伝えるか
18 ゴグとその同盟者に対するヱホバの言葉を伝える特権は誰が持つていますか。エゼキエルは,これらの者たちをどのように良く予表しましたか。
18 マゴグのゴグに対する言葉は,神のつくり給うものです。しかし,ヱホバは献身をなして任命をうけた使者として人間を用いられ,それらの人間がヱホバの御名と権威をもつて,語るのを許しています。それで,これらの者たちは『ヱホバの証者』と正しく呼ばれます。昔の予言者たちは,証を伝えた使者であつたため,今日のヱホバの証者を予表していました。ヱホバはエゼキエルを御自分の代弁者に任命して,こう述べられています。『人の子よ,イスラエルの家に行きて我言葉を之につげよ。……わが汝に言うところのすべての言葉をなんじの心におさめ,汝の耳にきけよ。往てかのとらえ移されたる汝の民の子孫にいたり,これに語りて主ヱホバかく言たもうと言え。彼ら聴も拒むも汝然すべし』― エゼキエル 3:4,10,11。
19 (イ)ヱホバの証者のひとりであるエレミヤに,どんな権威が与えられましたか。(ロ)ヱホバの言葉を伝えるために,彼は誰のところにつかわされましたか。
19 神の忠実な証者のひとりであるエレミヤについては,次のように書かれています,『ヱホバの言葉我にのぞみて言う……汝をたてて万国の予言者となせりと。我こたえけるは,ああ主ヱホバよ,視よ我は幼少により語ることを知らず,ヱホバ我にいい給いけるは,汝われは幼少と言うなかれ。すべて我汝をつかわすところに行き,我汝に命ずるすべてのことを語るべし。なんじ彼らの面を恐るるなかれ,そわ我汝とともにありて汝を救うべければなりとヱホバ言い給えり。ヱホバ遂にその手をのべて我口につけ,ヱホバ我に言い給いけるは,視よわれ我言葉を汝の口にいれたり。みよ,我今日なんじを万民の上と万国の上にたて,……汝腰に帯して起ち,わが汝に命ずるすべてのことを彼らにつげよ。その面を畏るるなかれ。しからざれば,我かれらの前に汝を辱かしめん。みよ,我今日この全国とユダの王とその牧伯とその祭司と其地の民の前に,汝をかたき城,鉄の柱,銅の垣となせり。彼らなんじと戦わんとするも汝に勝ざるべし。そわ,われ汝と共にありて汝を救うべければなり,とヱホバ言いたまえり。』― エレミヤ 1:4-10,17-19。
20 どんな特別の点で,イザヤは音信を伝える今日のヱホバの証者を正しく予表していましたか。
20 イザヤも,現代のヱホバの証者を予表していました。予言者は,宮における主ヱホバのまぼろしを与えられたとき,こう叫びました,『わざわいなるかな我,ほろびなん。我は,けがれたる唇の民の中に住みてけがれたるくちびるの者なるに我が眠万軍のヱホバにまします王を見まつればなり。』西暦1918年に,主なるヱホバは裁きをするために実体の宮に来られました。そのとき,神の証者の残れる者は,活動しておらず,また現代のバビロンと妥協して束縛されていたため,イザヤの場合と同様に無活動のけがれた状態でした。しかし,イザヤの場合と同じことが現代にも生じました。恵みに充ちるヱホバは,御自分の民の悪を取除いて,その罪をゆるし,そしてより大きな奉仕の特権を与え給うたのです。『我またヱホバの声を聞く,曰く,我誰をつかわさん,誰か我らのために行くべきかと,そのとき我いいけるは,われここにあり,我をつかわしたまえ。ヱホバ言いたまわく,行きてこの民にかく告げよ……ここに我言いけるは,主よいつまでかくあらんか。主こたえたまわく,邑はあれすたれて住むものなく,家に人なく国ことごとく荒土とな……らん時まで』― イザヤ 6:5,8,9,11,12。
21 今日のヱホバの証者は,ヱホバの言葉を伝える正しい資格がありますか。そして,どのようにそうですか。
21 今日のヱホバの証者は,主の昔の証者と同じく最高の神の御前にあつて大きな責任を有しています,『神が私たちを通してすすめをなさるのであるから,私たちはキリストの使者なのである。』(コリント後 5:20,新口)キリストの使者である真のクリスチャンとして,ヱホバの証者はキリストの残した道と手本に従います。キリストはヱホバの使者または証者でしたが,自分自身で任命した者ではありません。(マラキ 2:7。ヨブ 33:23。黙示 1:5; 3:14)彼の言葉はヱホバの言葉でした。彼は自分自身の考えを語らなかつたのです。(ヨハネ 5:19,30; 7:28; 8:28,42)同じことは,20世紀のヱホバの証者についても言えます。彼らは自分自身で任命して神の証者になつたわけではありません。ヱホバがその任命をしました。その名前である『ヱホバの証者』も,彼らが選んだものではありません。神がその名前を選んだのです。(イザヤ 43:9-11; 44:8)彼らは,初めは『子供で』あつて,訓練もなければ,経験もありませんでした。しかし,ヱホバの啓示された言葉を熱心に研究し,また神の聖霊をいただき,その努力が祝福されることによつて,彼らは神の仕事を果すのに正しい資格を持つようになりました。『私たちの正しい資格は,私たち自身から来るのではない。私たちの正しい資格は,神から来る。神は私たちに奉仕者の資格を正しく与えておられる。』― コリント後 3:5,6,新世。
22 (イ)ヱホバの証者は,自分に与えられた仕事をどのように受入れましたか。(ロ)次の記事に答えられている興味深い質問のいくらかは何ですか。
22 それで,資格と権威を持つこれらのヱホバの使者は,国家のさかいとか言語の障害があるにもかかわらず,地の四すみまで急いで出かけて行きました。なにものも彼らの伝道活動を妨げるようには見えません。エレミヤの時と同じく,彼らはひどい迫害や憎しみに充ちた反対を受けました。しかし,そのようなものはヱホバの証者を阻止しなかつたのです。ヱホバの証者は,恐れの気持を抱いたためとか,また王や,君候や,独裁者や,法王や祭司たちの命令に服するため,ひきさがるようなことをしなかつたのです。任命された仕事を行つた彼らがどれ程繁栄したか,また彼らはどの程度までマゴグのゴグに対してヱホバの言葉を宣伝えたか,そしてその結果は何であつたかは,次の記事で研究します。
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サタンの死の通告を伝えるものみの塔 1956 | 11月1日
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サタンの死の通告を伝える
『いかにして天より落ちしや……されど汝は陰府におとされ,坑の最下にいれられん。万軍のヱホバ誓をたてて言給わく……わが定めしことはかならず立たん。』― イザヤ 14:12,15,24。
1 マゴグのゴグに対するヱホバの言葉を伝えるのに誰が選ばれましたか。なぜ,他の人でなく,彼らだけが選ばれましたか。
前の記事の中で述べられているごとく,この世の終る直前に神の特別な言葉を宣伝えるよう神より任命された者は,すべての民の中でもヱホバの証者だけです。その言葉とは,悪魔サタンであるマゴグのゴグとその同盟者たちに対する亡びの言葉です。この『終の日』にあつて,ヱホバ神が他のすべての者を選ばず,かえつて有名でない小さな群の民を選んで御自分の証者となし,御名と権威によつて語らせ給うたことには,十分良い理由があるのです。神の代弁者として,神の信頼を受け得る者がヱホバの証者以外にいるでしようか。ヱホバ神もいなければ悪魔サタンもいないという不可知論者や無神論者は,決して神に用いられません。神は異教の神々を崇拝する異教徒を用いません。彼らはヱホバ神のことを聞いたこともなく,また多くの偽りの神々に仕えることを欲しているからです。神は自己の利益のみを求め,高慢で尊大の態度を取るこの世の支配者たちを決して用いません。彼らは,昔のパロのように,『ヱホバとは誰か』とぶべつの態度で言います。ヱホバは,誠実と忠節を守る人々,すなわち忠実を保つ人々のみを用います。このわけで,ヱホバはキリスト教国の牧師を用いません。なぜなら,キリスト教国の牧師は,人間を恐れたり,また別の利己的な理由の故に神の敵共と妥協したり,その友になるからです。a
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事故があると神を非難するものみの塔 1956 | 11月1日
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事故があると神を非難する
正しい宗教教育をうけていないために,不完全な人々は事故があるとしばしば神を非難します。そして,神は今でも奇跡を行つて人間の失行を救うべきであると人は考えています。ニュージャーシー州のジョセフ・ジェンキンス氏は,自動車事故のため5年間に4人の息子を失いましたが,その4人目の息子が死んだ,と聞いたとき,こう言いました,『神はなぜ伜共をこのよのに取られるか,私には分らない。』神は自動車事故を起させません。機械の故障とか人間の間ちがつた判断であるのに,神を非難するのは,神を冒瀆するものです。聖書の言葉,『すべて人に臨むところの事は,時あるもの,偶然なるものなり。』― 伝道之書 9:11。
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