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無実の者たちの血の復讐をするものみの塔 1973 | 8月15日
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んでした。そこにいる間,その町の福祉に貢献するとともに,生活の糧を得るために働かなければならなかったのはもっともなことです。もしその町での生活に適しているなら,自分の職業をその町で営んで,自活することができたでしょう。そうでなければ,新しい職業を習うよう,要求されることさえあったことでしょう。もし身体上支障がないなら,お返しとして何かを寄与することなく,他の人びとに施しを乞い求めたり,あるいはそれに頼って生活したりするのを許す箇所はエホバの律法には一つもありませんでした。土地あるいは生計を立てる手段を持っていないようなやもめやみなしごでさえ,生活に困らないよう十分のものをあてがわれはしたものの,やはり物をもらうには,そのために働くことが期待されていました。(申命 24:17-22)のがれの町の中では殺人者は拘留されませんでしたし,町を出てゆくほうがよいと考える人は,自由に出てゆくこともできましたが,それでも,安全のためのエホバの規定を守ろうという気持ちをエホバが人びとにいだかせるものとなった事由が,よほど無謀な人でないかぎり,その規定を破ろうなどという考えをいだかせないような性質のものだったのは興味深いことです。
13 たとえあやまっていたにしても,命を取ることは軽く見るべきものではないことを明示する,イスラエルの律法の他の特筆すべき事がらを挙げなさい。
13 さらに,あやまって人を殺した者のために避難所を設ける点で示されたエホバのあわれみを誤用してはなりませんでしたし,また律法も,言いわけの立たない過失を,あわれみを求める正当な理由としてしんしゃくしたりはしませんでした。たとえば,新しい家を建てる場合,屋上にはさくを作ることが求められました。さもないと,だれかが屋上から落ちると,流血の罪がその家に帰されるからです。(申命 22:8)もしある人が,人に突きかかるくせのある雄牛を持っていて,警告を受けながらも,その雄牛の監視を怠ったため,だれかが殺されたなら,その雄牛の所有者は流血の罪を負うことになり,処刑される場合もありました。(出エジプト 21:28-32)もし,泥棒が夜,人の家に押し入ったところを見つけられ,家の人が泥棒を捕えようとして格闘しているうちに殺した場合,流血の罪には問われませんでした。しかし,もしそれが,相手をはっきり見ることができる日中に起きた場合,泥棒を打って殺した人は流血の罪を負うことになりました。(出エジプト 22:2,3)確かにエホバの律法は完全な釣り合いを保っており,悪人に対しては公正な懲罰を要求しますが,罪に陥ったり,あるいはあやまって律法を破る羽目にあったりする人たちに対してはあわれみを差し伸べました。
必ず,そしてすみやかに課された懲罰
14 一国民としてイスラエルは,命の尊厳さにかかわる律法の要求をどのように受け入れましたか。神の預言者たちはどんな告発のことばを伝える権限を受けましたか。
14 エホバのこの公正な規定は,古代イスラエルを告発する何と重大な手だてとなったのでしょう。イスラエルの律法全体は命の神聖さと血の尊厳を強調するものでした。それにもかかわらず,イスラエルとのエホバの交渉の始めから,エホバがその預言者たちを『しきりに遣わし』て,公正な懲罰が必至であることをご自分の民に警告するため,エホバが必要を感じて繰り返し行なわれた訴えに答え応じたのは,ごく少数の残れる者だけでした。人びとはエホバの警告の助言に留意しようとしなかったばかりか,エホバの預言者たちを激しく攻撃し,無残にも彼らを殺し,そのようにして,エホバの前で犯した自分たちの罪に加えて,それら無実の者たちの血を流しました。(エレミヤ 26:2-8)ゆえにエホバは,エレミヤを通して次のような告発のことばを彼らに送りました。『また汝のすそにつみなき貧しき者の〔魂〕の血あり われ盗人のうがちたる所にてこれを見ずしてすべてこれらの上にこれを見る』。(エレミヤ 2:34〔新〕)また,イザヤを通してこう言わせました。『民おきてにそむき法をおかし とこしえの契約をやぶりたるがゆえに 地はその下にけがされたり このゆえにのろいは地をのみつくし そこに住めるものは罪をうけ また地の民はやかれて僅かばかり残れり』― イザヤ 24:5,6。
15 エレミヤの時代に,エホバはどんな懲罰をご自分の民であるイスラエルにもたらしましたか。この点,イエスの時代の彼らの子孫はさらに増し加えられたどんな責任を負いましたか。
15 エルサレムは西暦前607年,流血の罪を含め,エホバに対して犯した数々の罪悪のゆえに滅ぼされ,少数の残れる者だけが有罪の宣告を免れて残りました。しかし,エホバがそうした恐るべき懲罰を施す処置を講じたにもかかわらず,イエスの時代の不誠実な宗教指導者たちはエレミヤの時代の宗教指導者と全く同様,自分たちには流血の罪はないなどとはいえませんでした。というのは,そのいずれの場合も,彼らの衣のすそは,エホバの愛するみ子の血をさえ含めて,エホバに仕えた忠実な人びとの血で真赤に染まっていたからです。―マタイ 23:33-36; 27:24,25。ルカ 11:49-51。
16 今日,諸国民は命の尊厳の問題に関してどんな立場を取っていますか。わたしたちはどう見るべきですか。
16 さて今日,地上の諸国民すべての流血の罪はまさにその極に達しています。「娼婦」大いなるバビロン,つまり偽りの宗教の世界帝国の流血の罪はあまりにも大きいため,彼女はエホバの民の血で酔っていると言われています。(黙示 17:5,6; 18:24,新)エホバの血の復讐者はいつなん時でも攻撃できる態勢にあります。彼女と交わっているところを見つけられる者は何と災いでしょう。(黙示 18:4)それら流血の罪のある者たちは,ダビデが言ったように,『生きておのが日の半ばにもいたら(ない)』でしょう。(詩 55:23)わたしたちは詩篇作者と同様,次のように誠実に祈るべきでしょう。『神よわが救いのかみよ血をながしし罪より我をたすけいだしたまえ』。『血をながす人より我をすくいたまえ』。(詩 51:14; 59:2)次いで非常に近い将来,大いなるバビロンの,最後に残った分子が滅ぼされ,無実の人たちすべての血のための復讐がなされるゆえに,天でエホバに向かって賛美の大合唱の歌声が上がる時,地上ではエホバの主要な復讐者の懲罰の剣を免れた人びとすべてが,わたしたちの歌声に和するでしょう。―黙示 19:1,2,15,21。
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のがれの町を出ることは,命を失うことを意味するものみの塔 1973 | 8月15日
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のがれの町を出ることは,命を失うことを意味する
1 キリスト教世界は,イエスの時代のユダヤ人の場合と同様,どんな立場に立っていますか。
今日,キリスト教世界も,そして全世界も重大な流血の罪を負っています。自分では直接人を殺したり,あるいは直接戦争に参加したりはしなかったので,流血の罪に個人的に関係してはいても,それとは気づかずにいる誠実な人は少なくありません。それにしても,それらの人は,無実の人たちの血を流した者として預言の中で表わされている人びととともにそうした責任を負わなければなりません。今日,キリスト教世界は,イエスの時代のユダヤ人と同様の立場に立っています。イエスは当時のユダヤ人にこう言いました。「わたしはここで,預言者と賢い者と公に諭す者たちをあなたがたのところに遣わします。あなたがたはそのある者を殺して杭につけ,ある者を会堂でむち打ち,都市から都市へと迫害するでしょう。こうして,義なるアベルの血から,あなたがたが聖所と祭壇の間で殺害した,バラキヤの子ゼカリヤの血に至るまで,地上で流された義の血すべてがあなたがたに臨むのです。あなたがたに真実に言いますが,これらのことすべてはこの世代に臨むでしょう。エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,自分に遣わされた人びとに石を投げつける者よ」― マタイ 23:34-37,新。
2 エルサレムは何を行なったために,血染めの記録を残しましたか。エルサレムはどんな懲罰をこうむりましたか。
2 エルサレムは,エホバ神の命令による神権的な戦いに携わったために血染めの記録を残したのではありません。かえって,無実の人びとの血を流し,神の預言者の多くを故意に殺し,ひいては神のみ子イエスさえそこで死を宣告されたからです。エルサレムのそうした行為は,何の悪意もなくなされたのではありません。というのは,それより7世紀ほど前のエレミヤの時代にエホバはご自分の預言者を通して,エルサレムの流血の罪を次のように暴露されたからです。『また汝のすそにつみなき貧しき者の〔魂〕の血あり われ盗人のうがちたる所にてこれを見ずしてすべてこれらの上にこれを見る されど汝いうわれはつみなし ゆえにその怒りはかならず我に臨まじと みよ汝われ罪を犯さざりしというにより我汝とあらそうべし』。(エレミヤ 2:34,35〔新〕)西暦前607年,エホバはこのことばどおりに行動し,エルサレムに対してそのおびただしい流血のゆえに怒りを表わし,エホバが用いたバビロニア人の刑執行者たちは,エルサレムの血を地上に注ぎ出して,恐るべき滅びをもたらしました。また同様の理由で,イエスのことばの成就としてエルサレムは再び大量殺りくを招き,西暦70年の夏,その殺りくが終わるまでに,110万人が攻囲された都の中で死にました。
連帯責任による流血の罪
3 多くの人びとは直接人の命を取ったわけではないのに,なぜ滅びましたか。
3 キリスト教世界の人びとは,警告を与えるこの実例に特に留意すべきです。バビロニア人やローマ人によって殺されたユダヤ人はすべてが,神の預言者を殺す,あるいは他の仕方で人間の命を取ることに直接手をくだして罪を犯したわけではありませんが,それでも,無実の人の血を故意に流した者たちとともに滅びました。それはなぜですか。なぜなら,人びとはユダヤ教の記録や伝統を擁護し,そうすることによって,その流血の罪に対する社会的責任を負ったからです。
4 エホバはどうしてキリスト教世界の記録を見すごすことはできませんか。
4 キリスト教世界は確かに,エルサレムとその領域であるユダの現代的対型です。神のみまえにおけるキリスト教世界の記録は,4世紀つまりコンスタンチヌスの時代における同世界の始まり以来,不当に流されてきた血で染まっています。その記録が見過ごされるままに放置されることはありません。なぜなら,変わることのないエホバが,次のようにノアに述べたからです。『汝らの〔魂〕の血を流すをば我必ず討さん 獣これをなすも人これをなすも我討さん おおよそ人の兄弟 人の〔魂〕を取らば我討すべし おおよそ人の血を流す者は人その血を流さん そは神の像のごとくに人を造りたまいたればなり』― 創世 9:5,6〔新〕。
5 (イ)キリスト教世界のどんな行為は,同世界の記録を確証していますか。そうした行為はどうして弁明できるものではありませんか。(ロ)キリスト教世界の流血の罪に関する責任をともに負っているのはだれですか。
5 宗教裁判や十字軍のほかに,1914年以前に行なわれたキリスト教世界の幾百もの戦争は,疑念をいだかない,何十万とも知れぬ大勢の人びとの命を奪いました。また,何千万人もの人びとの命に関してキリスト教世界が主要な責任を負わなければならない,1914年以後の二度の世界大戦は,恐るべき血の負債を積み重ねるものとなりました。同世界は血に関する神の契約に従って,その負債を清算しなければならないのです。キリスト教世界で争われた種々の論争で敵対し合った双方の側の司祭や牧師たちは,自国の参戦者たちに祝福を与えはしたものの,それらの戦争は神の名において戦った神権的な戦争であると主張することはできません。それら僧職者から祝福されたからといって,同胞を殺しても流血の罪に問われることなくエホバ神のみ前に立てるというような権限はだれにも与えられていません。そうした司祭や牧師の祝福を受けたからといって,エホバの大祭司
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