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喜びをもたらす,クリスチャンの結婚式ものみの塔 1984 | 8月1日
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亜麻布で身を装う」と描写されています。ですから,花嫁と花婿(およびその付き添いの人々)が清潔で魅力的な衣服を身に着けるのはふさわしいことですが,経済的に苦境を招くような衣装は必要ではありません。中には,故意に自分たちの資力をはるかに下回る値段の服を選んだ男女もいます。なぜでしょうか。驚嘆の念は抱かせても,客の気持ちを乱したり,結婚式に関する簡素な品位や喜びや霊性の程度を押し下げかねない服装を避けるためです。―啓示 19:8。箴言 11:2。テモテ第一 2:9。
9 結婚式の習慣や伝統について,どのように考えるべきですか。
9 結婚式でもう一つ行き過ぎの原因となるのは,儀礼,つまり従うべきものとして礼儀作法の“専門家たち”が主張する数々の儀礼を強調し過ぎることです。とはいっても,神の僕たちは結婚式に関する土地の習慣をすべて故意に退けなければならない,という意味ではありません。a 聖書は,結婚するに当たって,『サムソンは宴会を催すことになった。若者たちはそのようにするのが常だったからである』と述べています。(裁き人 14:10)しかし,社会の因習に隷従するなら,式の真の意味が薄れ,感ずるはずの喜びをすべての人から奪い,結婚式を台なしにすることがあります。
法律上の婚姻 ― 聖書時代と現代
10 聖書時代の結婚式はどのようなものでしたか。
10 時代的,また地域的な習慣の相違があるとしても,わたしたちは結婚式について聖書が述べていることから益を得ることができます。聖書時代には,特別な法的儀式も宗教儀式も必要ではありませんでした。花婿は自分の婚約者の家に出かけて行き,婚約者に付き添って公に自分の家に戻ります。そうするのは,その二人にとっても,二人の親族にとっても,またこのめでたい行事に関心を持ち,胸を踊らせた見物人にとっても歓びでした。普通,花嫁と花婿は上等の衣服に身を包み,花婿の家で,招いた客と共に結婚の宴を持つことになっていました。―創世記 24:65-67。マタイ 1:24; 25:1-10。第一マカベア 9:37,39と比較してください。
11 古代において必要とされた,結婚に関する文書について,どのような状況が見られますか。
11 ヘブライ人の周囲の諸国民の法律では,結婚契約書が求められていました。聖書はそのような文書のことを一言も述べていませんが,結婚を「契約」という語で表現しています。(マラキ 2:14)聖書中の詳細な系図は,結婚が何らかの方法で記録されたことを示唆しており,興味深いことに,ヨセフとマリアは一種の法的な登録の求めに応じました。(ルカ 2:1-5; 3:23-38)エレファンティン(エジプト)のユダヤ人の植民地から出土した西暦前5世紀のパピルスの中には,結婚契約書が含まれており,その一つは次のようになっています。
『……私は御令嬢ミフタヒアをいただいて結婚するため,あなたの家に参りました。今日から永遠に至るまで,彼女は私の妻であり,私は彼女の夫です。御令嬢ミフタヒアのための花嫁料として,あなたに(合計)5シェケル差し上げました……』。
12 (イ)エホバの証人は民事的婚姻についてどのように感じていますか。(ロ)民事当局による式と宗教上の式の両方がある場合,どうするのが適切ですか。
12 エホバの証人は,結婚式が土地の法律にかなったものとなり,『カエサルのものをカエサルに返す』べきことを認識しています。(マルコ 12:17。ローマ 13:1,7)二人が血液検査をすませ,結婚許可証を入手し,結婚式を執り行なう権威ある代理人の前で誓いをすることが法律によって求められるかもしれません。国によっては,市長や裁判官のような民事当局者のみが結婚式を執り行なうかもしれません。それでも,キリスト教世界の教会員は,教会の結婚式をするまでは本当に結婚した気がしないとしばしば口にします。真のクリスチャンは民事的婚姻が法的効力を有することを認めていますが,ある人々は民事当局の側の式が終わった後に聖書的な話をして欲しい(あるいは,地元の人々の感情からしてそうするのが好ましい)と考えます。そのような話を行なう場合には,民事的婚姻の成立したすぐ後にするのが最善です。b
13 クリスチャンの長老が式を執り行なう場合,結婚式の前には恐らくどんなことが行なわれるでしょうか。
13 国によっては,エホバの証人の奉仕者たちに対し,結婚を法的なものにする権限の与えられる所もあります。普通の場合,そのような結婚式は,経験と洞察力と円熟性と神の言葉に関する知識を備えた,会衆の長老によって行なわれます。式を執り行なうことを求められた長老は,恐らく新郎新婦となる人々と事前に会合を持つことでしょう。結婚する男女が,自分たちの結婚には何ら道徳的,法的な障害はないということを長老に得心させたいと願うのは自然なことです。その長老は聖書からの健全な諭しと父親の与えるような助言を与えるかもしれません。さらに,その式やその後の社交的な交わりの取り決めについても恐らく彼らと話し合うことでしょう。長老は,自分が主要な役割を果たすように求められているその行事について,汚れない良心を持つことを願うからです。―箴言 1:1-4; 2:1; 3:1; 5:15-21。ヘブライ 13:17,18。
14 どんな種類の結婚式の話はふさわしいと言えますか。
14 その前の民事当局による式の有無にかかわらず,エホバの証人の奉仕者が行なう結婚の話は,結婚にはその始めから霊的な面が伴うべきことを強調する助けになります。そうした話は,聖書が結婚に関して述べることすべてを網羅するような長々しいものではなく,ユーモアやその二人を称賛することに重きを置き過ぎるものであってもなりません。それらの話が平衡の取れた,楽しい聖書的な内容のものであれば,結婚しようとしている二人も,出席している他の人々全体も益を得ることができます。c ―テモテ第二 3:16。
15 エホバの証人の用いる誓いの言葉は,今日用いられている他の誓いの言葉とどこが違いますか。
15 ほとんどの結婚式に付き物なのが誓いの言葉です。この世のある“現代的な”結婚式で用いられる誓いの言葉は奇妙な詩でできていたり,特異な人生観を言い表わしたりします。「自己流の誓いの言葉に伴う危険」に関するタイム誌の随筆は,一人の僧職者について述べていました。この僧職者は「ジーナ,あなたはチョコレートを愛する以上にピーターを愛することに同意しますか」と尋ね,次いでピーターに,「あなたは朝刊を愛する以上にジーナを愛することに同意しますか」と尋ねたのです。しかしその記事は,「結婚式は公の事柄であり」,進行中の重要な社会的措置に威厳を付すべきであると強調しました。エホバの証人の結婚式での誓いの言葉は,それが土地の法律によって要求されている場合,その要求に従うものとなります。許されるなら,結婚の創始者であられる神に誉れを帰す次のような誓いの言葉が用いられます。
「私__は,あなた__を私の妻とし,結婚に関する神の取り決めにしたがって,二人が地上で共に生きる限り,聖書の中でクリスチャンの夫に対して述べられている神の律法に従って,あなたを愛し,慈しみます」。
「私__は,あなた__を私の夫とし,結婚に関する神の取り決めにしたがって,二人が地上で共に生きる限り,聖書の中でクリスチャンの妻に対して述べられている神の律法に従って,あなたを愛し,慈しみ,あなたに深い敬意を払います」。
これらの誓いの言葉は,二人の思いつきに合わせて変えたり,別の言葉に置き換えたりしてはなりません。d
王国会館での結婚式
16,17 (イ)長老団は,王国会館で行なわれる結婚式にどのように関係していますか。(ヤコブ 3:17)(ロ)そのように関与することが適切なのはなぜですか。
16 クリスチャンは「主にある者とのみ」結婚するよう告げられています。(コリント第一 7:39)会衆内で良い立場にある二人のクリスチャンが王国会館で結婚式(あるいは結婚の話)をして欲しいと思うとき,二人は長老団の許可を得なければなりません。e 長老たちは結婚式の取り決めに関して自分たちの個人的な好みを押しつけることはしませんが,会衆を当惑させると思われることが何も王国会館で行なわれることがないよう,二人の計画について尋ねることでしょう。―コリント第一 14:26-33と比較してください。
17 例えば,王国会館ではない別の場所で行なわれた結婚式について,当惑を生じさせるような事柄が報告されています。ある結婚式が始まる前に騒々しい音楽が演奏され,新郎新婦と付き添いの一行がその貸しホールの中に踊りながら入って来ました。客はその踊りに加わり,司会者が,祈りをして結婚式の話が始められるようにとそれを中断するまで,その踊りは続きました。明らかに,クリスチャンの結婚式にふさわしい雰囲気ではありませんでした。しかし,このことは王国会館で行なわれる結婚式について長老たちが注意を払うべき理由を示しています。王国会館では,エホバの証人の歌の本の中にあるような,徳を高める音楽だけが用いられます。花も,同様の装飾も,新郎新婦の王国会館への入場の仕方や写真の撮り方と同じく,慎み深く理にかなったものであるべきです。―フィリピ 4:5。
18 結婚式で,新郎新婦に伴うことができるのはどんな人ですか。(コリント第一 5:13。ヤコブ 2:1-4)
18 聖書時代には,「花婿の友人」や花嫁の女友だちがいるのが常でした。(ヨハネ 3:29。詩編 45:14)王国会館で行なわれる結婚式についても,大体同様のことが言えます。しかし,それに加わる人の数を何人ぐらいにすべきかに関しては,その人たちの服装や行動に関すると同じように分別が求められます。付き添いの中に,排斥された人々や,聖書の原則とは大いに反する恥ずべき生活を送っている人々を含めるのはふさわしくないでしょう。(コリント第二 6:14-16)多くのクリスチャンの新郎新婦(並びに話し手たち)は,著名な人や,高価な贈り物をしてくれそうな人を選ぶのではなく,エホバの奉仕において自分たちと親しい人々を付き添いとすることを好みます。
19 他のどんな面に注意を払うなら,王国会館での結婚式を喜びに満ちたものとすることができますか。
19 王国会館が用いられる場合には,結婚式の時間について簡単な発表をすることができます。そのようにすれば,会衆は王国会館が使われることと,都合がつけば出席できることを知るようになります。王国会館はまず第一にクリスチャンの集会のためのものなので,結婚式はこれらの集会とかち合わない時間に行なわれます。どんな時間にそれが予定されようと,すべての人が時間を厳守することは愛と思いやりの表われです。結婚式に関係したイエスの一つのたとえ話の中では,「花婿が遅れ」,その結果ある人々にとって大きな問題が生じました。―マタイ 25:1-12。
20 結婚式に関するどんな別の特色は注意を払うに値しますか。
20 預言者イザヤは,「花婿が花嫁に抱く歓喜」について書きました。(イザヤ 62:5)花嫁も結婚式の日には歓びますが,幸あれかしと願う大勢の人々も,クリスチャンの結婚式について「一方ならぬ喜びを抱きます」。(ヨハネ 3:29)しばしばその喜びは,結婚式の後に続く社交的な集まり,つまり披露宴,結婚の宴によって表わされ,また高められます。エホバはご自分のみ言葉の中に,そのような集まりにおいて問題を生じさせるのではなく,幸福に寄与するためのどのような助言を備えておられますか。調べてみましょう。
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結婚の宴での楽しみに平衡を保ちなさいものみの塔 1984 | 8月1日
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結婚の宴での楽しみに平衡を保ちなさい
1,2 (イ)今日の結婚披露宴に注意を払うべきなのはなぜですか。(ロ)披露宴はどの程度必要なものですか。
あなたはきっと,「終わりの日」に人々が「神を愛するより快楽を愛する者」になるという預言の真実性を示す豊富な証拠を見ておられることでしょう。(テモテ第二 3:1-4)このことを示す証拠は,結婚の宴,つまり披露宴に対する多くの人の見方やそうした集まりにおける彼らの振る舞い方に容易に認められます。a この宴をクリスチャンはどう見るべきですか。クリスチャンは結婚の宴を催したり,その宴に出席したりすることを避けなければなりませんか。それとも,要は,『神を愛する者』であるためには,ある罠を避ける必要がある,ということでしょうか。
2 新郎新婦の結婚式の直後に社交的な集まりを催すことがどれほど地元で一般化しているとしても,クリスチャンは決してそうする聖書的責務を負っているわけではありません。むしろ,ある新郎新婦は近親者やごく身近な数人の友人と集まり,そうした人たちと個人的な食事を楽しむようなやり方を好みます。とはいえ,結婚の宴を催したり,それに出席したりすること自体が,「快楽を愛する者」であることを意味するのではありません。イエスも弟子たちも,カナでそのような祝いに出席したからです。
3 聖書時代,結婚の宴はどれほど一般化していましたか。
3 結婚式は新郎新婦やその親族,友人にとって歓びの時です。喜ばしい結婚の宴は,昔から一般に行なわれてきました。(創世記 29:21,22。裁き人 14:3,10,17)ユダヤ人は結婚の宴のことをよく知っていたため,イエスは結婚の宴を三つの例えの中で用いることができました。(マタイ 22:2-14; 25:1-13。ルカ 14:7-11)聖書巻末の書でさえ,「子羊の結婚の晩さんに招かれた者たちは幸いである」と述べています。―啓示 19:9。
4 多くの結婚の宴はどのようなものとなってきましたか。
4 イエスと弟子たちを含め,昔の神の僕たちは結婚の宴での楽しみに平衡を保っていました。現代の幾千幾万というクリスチャンもそのようにしてきました。南アフリカの結婚の宴に出席したある未信者の親族はこう語りました。「エホバの証人がこんなにすばらしい結婚式を行なうとは知りませんでした。今の結婚式と言うと,酒を飲み,騒々しい音楽が鳴るものですが,わたしたちはそういうものにはあきあきしています」。非常に多くのクリスチャンの披露宴は,同様のほめ言葉を受けるに値するものでしょう。
5 どんな種類の問題が生じていますか。
5 しかし,「快楽を愛する者」にならせようとする世の圧力も強くなっています。そのわけで,あるクリスチャンの長老はこのように伝えています。
「多くの人が,羽根を伸ばすために[結婚の宴]を利用しています。自分たちにはこうした機会はめったにないのだから,存分に利用してうっぷんを晴らし,ほかの時には抑えている欲求を大いに満足させたいと彼らは考えます。騒々しい雰囲気になっても不思議はないのです」― ヨーロッパ。
「結婚の祝いは,話,軽い食事,それから早朝にまで及ぶダンスで成っているようです。披露宴では普段よりも多く酒を飲むことができると考える人もおり,多くの場合彼らは飲み過ぎてしまいます」― 中南米。
「ある結婚の宴では,“夜明けまで続くダンス”があるようです。こうした行事のあるものはまさに世のものです。人々はばか騒ぎをし,多量の酒を飲み,この世的なダンスをします。高価な衣服や,何カートンものビールを見せびらかそうとする人が大勢います」― アフリカ。
節度が必要
6 カナで語られた言葉から,ユダヤ人の宴について何を知ることができますか。
6 大多数の人々は,カナの結婚の宴でイエスが水をぶどう酒に変えられたことを知っています。しかし次の点を思い起こしましょう。「さて,宴会の幹事はぶどう酒に変えられた水を味わった……宴会の幹事は花婿を呼んで,こう言った。『ほかの人はみな,上等のぶどう酒を最初に出し,みんなの酔いがまわったころに,それより劣ったのを出すものです』」。(ヨハネ 2:9,10)この幹事は,この特別な宴会に際して客に「酔いがまわった」と言っているのではありません。b 実際,イエスが酩酊を大目に見,さらにぶどう酒を造ってそれに拍車をかけるなどということは考えられません。しかし,この幹事は,ユダヤ人の結婚の宴で飲み過ぎが一般化していることを知っていました。
7 アルコールを出すことについて,クリスチャンはどんな点を考慮に入れるべきですか。
7 ある披露宴では,その地域で飲み過ぎがごく一般化していたため,主人役を務める人々がアルコールを少しも出しませんでした。それには,以前に飲酒の問題を抱えていた客を誘惑に陥らせないようにする目的もありました。あるアフリカの兄弟たちは,アルコールを出さないことが,「クリスチャンの清い結婚式」に寄与した,とさえ述べました。そして,クリスチャンが酒を飲むことに対して強い反感の見られる地域社会では,確かにアルコール飲料を出さないほうが得策です。(ローマ 14:20,21)それでも,平衡の取れた見方が必要とされます。イエスが出席された宴会は,ぶどう酒が出されたゆえに“清くない”宴会だったのか,と自問してください。聖書は酩酊を非とはしていても,アルコール飲料の適度の使用を非とはしていません。―箴言 23:20,21。ペテロ第一 4:3。
8,9 (イ)アルコール飲料が出される場合,どのように節度を保つことができますか。(ロ)一人の長老は,この問題について何と述べましたか。
8 結婚する二人が披露宴にアルコール飲料を出したいと思う場合には,節度についてふさわしい注意を払うのは賢明であり,思いやりのあることでもあります。(テモテ第一 3:2。マタイ 23:25)例えば,カナの宴会では客はどのような接待を受けましたか。「給仕の者たち」による接待と考えられます。(ヨハネ 2:5,9)このように,結婚する二人は飲み物を出す人々(そして,恐らく飲み物の量を制限する人々)を決めておくことができます。言うまでもないことですが,クリスチャンのどんな披露宴であっても,アルコールの入っていない飲み物しか飲むべきでない人のため,あるいはそのほうを好むかもしれない人のために,アルコールの入っていない飲料も置くべきです。
9 中央アメリカの一長老はこう述べました。「披露宴の規模が大きすぎて,出席者全員を制御できないということが問題になっています。時には世の人々が,招待を受けていないのにパーティーに押しかけ,酒の入ったびんを持ち込み,物議をかもします」。では,だれが制御したり指示を与えたりするのでしょうか。どれくらいの人が出席しますか。このような宴では何が生じますか。
だれからの指示か
10 聖書的などんな指針に従うなら,披露宴における事態をよりよく制御することに貢献できますか。
10 カナの宴会には「宴会の幹事」がいました。(ヨハネ 2:9)同様に,今日の披露宴でも,有能で責任を担える兄弟に,詳細な事柄を監督する権限を与えることができます。新郎新婦の意向に精通しているその人は,演奏家,ウエーター,および他の人々に指示を与えることができます。あるいは結婚する二人に相談してから,仕事を遂行できます。その仕事には係の人々を監督することが含まれるかもしれません。彼らは一緒に客を助けることができ,“招待されずにパーティーに押しかける人”にも対処することができます。事態を制御するという点を考えながら,イエスの例えの中で,結婚の宴にはなはだしい不敬の念を示した一人の客に生じた事柄に注目するとよいでしょう。―マタイ 22:11-13。
11 物事の指示を与える面で,結婚する二人を助ける人を選ぶ際,何を考慮すべきですか。
11 世の多くの披露宴では会館の管理者やバンド・リーダーが披露宴の司会者のように振る舞います。その人は,通常の決まりきった手順を知っており,何かのスピーチをしたり,きわどい冗談を言ったりする可能性があります。しかし,キリスト教の原則に調和した披露宴を持ちたい人は,だれか世の人 ― 霊的な兄弟でもなく,家族の成員でもない人 ― が客に向かって話をしたり,注意を集めたりすることを許すでしょうか。それは,「すべての人,ことに信仰において[あなたと]結ばれている人たちに対して,良いことを行なおう」という諭しにかなうでしょうか。―ガラテア 6:10。
12 聖書は,披露宴で行なわれることに主に責任を持つ人に関し,どんな指示を与えていますか。
12 花嫁や花婿の両親が,結婚披露宴の費用を払って二人を援助することも時々あります。こうして親は,だれを招待するか,どんな食べ物や飲み物を出すか,どんなプログラムにするかについて強い発言権を持つべきだと考えるかもしれません。聖書は,カナの宴会でだれが費用を払ったかを述べていませんが,重要な問題が生じた時に,『宴会の幹事は花婿を呼んだ』と述べています。(ヨハネ 2:9)聖書的に言えば,結婚披露宴における花婿は,新しく誕生した家族の頭です。(エフェソス 5:22,23)したがって,花婿はこの特別な日についての花嫁の意向や二人の家族の意向を愛のうちに考慮すべきではあっても,同時に,何を行ない,何を行なわないかについて責任を負う必要があります。
だれがそこに出席するか
13 聖書時代,結婚の宴はどの程度の規模のものでしたか。
13 聖書時代の結婚の宴がどれほどの規模のものだったかは分かりません。サムソンの場合には両親,花嫁の30人の知人,そして恐らく他の友人や親族が含まれました。(裁き人 14:5,10,11,18)ユダヤ人の結婚式に招かれた客は,町から来た仲間の崇拝者や,訪問者でした。イエスと弟子たちは,ガリラヤのほかの場所からカナの宴会にやって来たのです。造られたぶどう酒の量からすると,それはかなり大きなグループであったものと思われます。―ヨハネ 2:1,2,6。
14,15 ある人は,“私宅開放パーティー”のためにどのような取り決めを設けましたか。しかしどんな問題の生ずる可能性がありますか。
14 今日,披露宴の形式や規模に関する習慣や好みはさまざまです。地域によっては,私宅開放パーティーを行なうのが習慣になっている所もあります。新郎新婦の友人である仲間のクリスチャン全員が歓迎されます。軽食が提供されるかもしれませんが,主要な目的はすべての人の食欲を満たすことではなく,出席者に祝いの言葉を述べる機会を与え,温かな交わりを持つことです。ほかの土地では,友人全体に開放される集まりに,多くの人が料理,飲み物,デザートなど幾らかの食物を持ち寄ります。このように自発的に料理を持ち寄る人々は皆その集まりに貢献したという喜びを持ち,どの人も新郎新婦や他のだれかに重荷を負わせることなく,種々の食物を楽しむことができます。―使徒 20:35。
15 イエスの例えを読んで分かることですが,ユダヤ人の結婚式ではしばしば大規模な食事が出されたようです。(マタイ 22:2。ルカ 14:8)むろん,今日の披露宴ですべての客に普通の食事を出すとすれば綿密な計画が必要になります。北アメリカに住む一人の母親は次のような残念な経験を語っています。
『結婚式があることを知らされて,ただで飲み食いし,ダンスができるというので広い地域から若い人々が姿を現わしました。招待された人々は王国会館にいましたが,他の人々は披露宴の会場に行き,利用できるテーブルを全部ふさいでしまいました。私はその会場に着いて,もう少しで泣き出しそうになりました。入る余地がなかったからです。結婚式に押しかけ,招待した側が親しい友や親族のために準備した食べ物を平らげてしまうような愛の欠けた行為を目にして,私の心はひどく痛みました』。
16 結婚式の客に関し,聖書から何を学ぶことができますか。
16 マリアとイエスと弟子たちは招待を受けずにカナの宴会に押しかけたのではありませんでした。彼らは「招かれていた」のです。(ヨハネ 2:1,2)イエスは,「だれかから婚宴に招かれたなら……」と言われました。(ルカ 14:8,9,16,17)王の息子の結婚に関する例えの中で,イエスは「招いておいた者たち」のことも述べられました。(マタイ 22:3,9,10)さらに,招かれた人が不敬な態度を示した時に,その人を外へ出すようにという指示が従者に与えられました。別のたとえ話では,婚宴に参加したいと思っていた5人の処女は実際には戸口から入ることを阻まれてしまいました。(マタイ 22:11-13; 25:10-12)ですから,披露宴を招待客だけに限り,その人々がふさわしい服装をするというのは何も奇妙なことではありません。そして,主人役を務める側としては,主要な関心が食べ物や快楽に向いている人々に対して寛大な精神を示す必要はないというのも筋の通った話です。―フィリピ 3:18,19。伝道の書 5:11。
17 結婚の宴の規模について,どんな面倒な問題が生じていますか。
17 結婚する二人やその親族が大勢の客のために正式の食事を準備したいと思う場合は非常に経費がかさみます。(マルコ 6:35-37と比較してください。)太平洋の島から次のような報告が寄せられています。
「披露宴を派手にしすぎる傾向があります。ある人などは借金をして大きな宴を開き,結婚生活の初めから借金を抱え込みます。概して,面子を失いたくないという気持ちが働いているようです。ですから彼らは自分の資力以上の披露宴を準備するのです」。
若い夫婦が,二人の関係を緊張させ得る負債を抱えて結婚生活を始めるというのは非常に残念なことです。また,二人は,大規模な披露宴の巨額の費用を支払うために両親が問題に直面したのを知ってどう感ずるでしょうか。もちろん,世の人々は,人々に感銘を与えたい,地域社会内で面子を保ちたいという誇り高い気持ちのために,莫大な額の結婚式の負債をあえて抱え込むかもしれません。(箴言 15:25。ガラテア 6:3)しかし,ルカ 12章29節から31節を読んで考えてみるとき,クリスチャンはそのようになるべきでしょうか。
18,19 (イ)ある人々が大規模な披露宴を持つことに決めたのはなぜだと思われますか。(ロ)自分が友人の披露宴に招かれなかった場合,どのような反応を示すべきですか。(ルカ 14:12)
18 非常に大規模なある宴の背後には,他と張り合いたい,あるいは他をしのぎたいという動機がありました。西アフリカの長老たちはこのように述べています。
「軽食に非常なお金を掛ける人がいます。たいへん経費のかさむ結婚の宴を催す人は,言わばペースメーカーのようなもので,先例を作ります。そのため,他の人と異なっていられるほど勇気のない人々に問題が生じました。自分の資力を見せびらかすことは他の人をつまずかせる場合があり,“人に遅れを取るまい”とすることは不要です」。―ヨハネ第一 2:15-17をご覧ください。
19 他の人を怒らせることを恐れて,無言の圧力を感じ,マンモス披露宴を行なった人もいます。ある知人を招待しないと,それらの人々の感情を傷つけるのではないかと彼らは考えます。それで,賢明な線を越えた数の人々が招待されます。しかし,正直に言って,わたしたちを冷遇したくないと恐れるあまり,わたしたちの友人が負債を抱え込んで全時間宣教を手離してしまうことを,わたしたちのうちのだれが望むでしょうか。招待されないとしても,結婚する二人は経済面を含めすべての要素を比較考量して円熟した考えを示したとみなすほうがはるかに優れています。彼らがわたしたちを招待しなかったのは,わたしたちが円熟していて,容易に腹を立てることはないという信頼の表われでさえあるかもしれません。(伝道の書 7:9。コリント第一 13:4-7)それでもわたしたちは,より重要な部分である,聖書に基づく結婚の話に出席することにより,結婚する二人の幸福にあずかれるのです。もしわたしたちがその話に対して,披露宴に対するほどの敬意を抱いていないとしたら,「神を愛するより快楽を愛する者」になってしまっているのではないでしょうか。―テモテ第二 3:4。
20 披露宴の規模を制限すれば,どんな種類の行為を避けることができますか。
20 披露宴の規模や経費について思慮分別を示せば,望ましくない慣行を避けることにもなります。例えば,金銭欲にかられた少数の人は,結婚式用の特別な服を購入し,結婚式の付き添いの人々にその服をより高い値段で買ってほしいと頼みました。ある披露宴に出席した客は,ケーキを幾つか「買っ」たり,「お金を払って」新婦とダンスをし,代金を新婦の服にピンでつけたりしなければなりませんでした。このようにお金を強調すると,客が演奏家にお金を“あびせ”(投げ与え)たり,新郎新婦の近くの特別席を得るために大きな贈り物をしたりすることにより,自分たちのお金を見せびらかすような結果を招くかもしれません。―ルカ 14:8-11。
楽しみを得るようすべての人を助けなさい
21 音楽は結婚の宴でどのような役割を果たしますか。
21 マカベア戦争の際にユダヤ人の婚礼の行列を迎えたのは,「タンバリンを持った人々と演奏家」から成るグループでした。(第一マカベア 9:39,オックスフォード注釈付き聖書。詩編 45:8と比較してください。)今日でも,結婚披露宴には大体音楽が付きものです。音楽はその場のクリスチャンの楽しみを増すこともあれば,奪い去ってしまうこともあります。なぜ後者のようなことがあるのでしょうか。多くの場合,音楽は非常に騒々しく,抑制されません。ある演奏家はディスコ風の音楽を好んだり,自分たちの能力を顕示したりすることに没頭するかもしれません。しかし,どちらもクリスチャンの披露宴にふさわしいものではありません。若い客も年老いた客も,テーブル越しの会話が不可能なほどに音楽が騒々しいときに,クリスチャンとしての交友を楽しめるでしょうか。
22 音楽に関係した問題をどうしたら軽減できますか。
22 明らかに,結婚の宴での音楽,特に生の音楽の場合には注意深い計画と監督が必要です。望ましいのは,この世の演奏家を雇わないことです。プロの演奏家を呼ぶときには,花婿か選ばれた兄弟が,どんな音楽なら演奏でき,どんな音楽は演奏できないかをそれらの演奏家たちにきちんと説明しておくべきです。(出エジプト記 32:6,17,18)花婿や披露宴の「幹事」の許可なく,客のリクエストにこたえて演奏するようなことは許されないという規定を設けておくべきです。生演奏に伴う特色とその騒々しさに関してよく問題が生ずるため,多くの新郎新婦は自らが厳選したレコードやテープを使うようにしています。それらのレコードやテープは,未熟な若者の間で人気を集めているものに容易には左右されない一人の大人にかけてもらっています。―コリント第一 13:11。ヘブライ 5:14。
23-25 クリスチャンの集まりを確実に楽しいものとするため,新郎新婦は他のどんな実際的な措置を取ることができますか。
23 クリスチャンの新郎新婦は,客が披露宴を思い出して楽しい気持ちになれるように望んでいます。ですから,音楽やダンスがある時,それはキリスト教の原則と調和していなければなりません。幾人かの人にスピーチをお願いする時には,選ばれる人も,その人たちの言う事柄も,品位のあるクリスチャンの集まりにふさわしいものでなければなりません。
24 十人の処女に関するたとえ話では,結婚式の当事者が遅れたため,宴は「真夜中に」始まりました。(マタイ 25:5,6)別の例では,王が宴の準備をさせ,僕たちが路上の人々を招いているとイエスが述べておられることから,この宴が日中にあったことが分かります。(マタイ 22:4,9)現代において,ある披露宴は夜遅くにまで及び,円熟したクリスチャンたちが一晩の適度の睡眠を取るためにその場を去り,ますます抑えが効かなくなりました。こうしたことを避けるため,平衡の取れた多くの新郎新婦は,披露宴を始める時間と終わる時間を予定しました。そのようにすればすべての人が,楽しい披露宴の翌日に行なわれるクリスチャンとしてのふさわしい活動のための計画を含め,自分たちの計画を立てることができます。
25 結婚披露宴は,クリスチャンとしてのふさわしい,平衡の取れた楽しみのためのすばらしい機会となり得ます。しかし,披露宴はその後に続くもの,つまり真のクリスチャンとしての結婚生活に関連して,どのような役割を果たしているのでしょうか。
[脚注]
a 国によっては,結婚式の後,すべての客が,アルコールの入っていない飲み物かコーヒー,それにペーストリー(焼き菓子)の出される披露宴に出席できる所があります。その後,新郎新婦,その家族,および幾人かの友人が家かレストランで結婚の食事を共にします。他の国では,披露宴は結婚式直後の集まりで行なわれます。その時に軽食が出されることもあれば,宴会となることもあります。
b 「酔う,酔いがまわる」を意味するギリシャ語,メトゥスコーから出た語。一部の注釈者たちは,この語が,わずか味覚を鈍化させる程度に,あるいは陽気になる程度に飲酒することを意味する,と主張します。しかし,他の聖句はその見解を支持していません。―マタイ 24:49。ルカ 12:45。使徒 2:15。エフェソス 5:18。テサロニケ第一 5:7。
この記事の次の点を思い起こせますか
□ クリスチャンが披露宴について関心を抱くべきなのはなぜですか
□ 結婚式の宴でのアルコール飲料については,どうするのが賢明ですか
□ 披露宴で行なわれることに責任を負っているのはだれですか
[27ページの図版]
宴会の幹事はぶどう酒について花婿に相談した
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読者からの質問ものみの塔 1984 | 8月1日
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読者からの質問
■ 会衆の長老の子供に重大な悪行の罪がある場合,父親はそのために長老としての資格を自動的に失いますか。
未成年の息子か娘に何らかの重大な問題があっても,兄弟は長老として奉仕する『資格を自動的に失う』わけではありません。その人に資格があるかどうかを定めるには,関係している要素すべてを考慮する必要があります。
テトス 1章6節によると,長老は「とがめのない人」で,「放とうの責めを受けたり無規律であったりすることのない,信者である子供を持つ人」でなければなりません。(テモテ第一 3:4と比較してください。)エホバの証人はその基準を固守します。
したがって,「ものみの塔」誌の1983年12月1日号には,長老たちが自分の家族,つまり妻と子供たちすべての感情的および霊的必要を満たす
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