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わたしは命を目指す競争に参加することを選んだ目ざめよ! 1975 | 11月22日
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失ったのか,不思議に思われるかもしれません。
より重要な競走
それは,自転車競技よりも満足をもたらし,報いの多い,別の種類の競走があることを認識するようになったからです。1960年に僧職者になるための勉強をやめた時,神の立てる義の新体制に関する聖書の約束について初めて話してくれたのはアスマラに住む親族でした。(ペテロ第二 3:13)当時,その情報は特別に深い感銘を与えるものとはなりませんでした。わたしは,学校で宗教に失望していたうえ,その時には自転車競走に熱中していたからです。
しかし,十年ほどたってから,エチオピアのエホバの証人の一人と聖書を研究するようにとの勧めを受け入れ,さらにそのクリスチャンの集会にも幾度か出席するようになりました。後日,自転車競走に参加するためイタリアへ旅行した時もエホバの証人の会衆と交わりました。こうして今回はいよいよ関心を深めながら,集会の出席と聖書研究を続けてゆきました。
わたしは,全能の神が本当に新しい体制を立てることを意図しておられ,この古い世が終わる際それを生き残って,新しい体制の下での祝福を享受するようになる人々を神が現在整えておられるという事実に感動しました。(ヨハネ第一 2:17)わたしは,現在その新しい体制のために生き,それを自分の生活の目標とし,また他の人々に伝えることの重要性を悟るようになりました。わたしは自転車競走に大変熱を入れていたので,コリント第一 9章24節から27節までのクリスチャン使徒パウロの次の言葉は,特に深い印象を与えるものとなりました。
「競走の走者はみな走りはしますが,ただひとりだけが賞を受けることを,あなたがたは知らないのですか。あなたがたも,それを獲得するようなしかたで走りなさい。また,競走に参加する人はみな,すべてのことに自制を働かせます。もちろん彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが,わたしたちの場合は不朽の冠のためです。ですから,わたしの走り方は目標の不確かなものではありません……それは,他の人たちに宣べ伝えておきながら,自分自身が非とされるようなことにならないためです」。
ある意味でパウロのこの言葉は,わたし自身のことを描写しているように思えました。ところがわたしは,間違った競走に参加していたのです。これまで,世の名声や富といった,ほとんど価値のない賞を目指して競走をしてきました。今や,永遠の命の賞を目指して,クリスチャンの競走に参加できることに気付いたのです。
このようなわけで,全アフリカ競技会が終わった後,わたしは,義の新体制をもたらす神の目的を他の人々に宣べ伝える公の業に携わるようになりました。わたしは自分が宣べ伝える業に携わるようになった最初の日をはっきり覚えています。それは全アフリカ競技会で二つの勝利を得た日から15日ほどたった,1973年2月1日のことです。
消えゆく朽ちる賞を目指す競走ではなく,エホバ神がご自分を愛し続ける人々すべてに与えてくださる永遠の命の賞を目指す競走に参加するために自分の体力を使うことから,現在どんなにか喜びを得ていることでしょう。(ヤコブ 1:12)― 寄稿。
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宗教上の対比目ざめよ! 1975 | 11月22日
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宗教上の対比
● イタリア最大のカトリック系の雑誌ファミグリア・メセは,最近エホバの証人の活動について次のように報じた。「イタリアには,聖書の教えに文字通り従って,たばこを吸わず,兵役に服することを拒否し,輸血を受けず,税金をきちんと支払う人々が約4万5,000人いる……今日この宗派は,まじめで,りっぱな,しかも興味深い内容の雑誌(世界の各地から寄せられたニュースや記事を数多く掲載している)を発行し,カトリックの専門的な聖書学者の提出する論題にも答えられる最新のポケット版の書籍を印刷し,ヘブライ語から直接翻訳された聖書を頒布している……こうした方法によってエホバの証人は……伝統的なカトリック主義のために多分に宗教的無知が隠されている土地で……大きな成功をさえ収めてきた」― 1975年2月号,24-31ページ。
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