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    1978 エホバの証人の年鑑
    • ました。そして,神が王国の音信を宣明する今後の努力をも祝福してくださることを確信しています。

      時の経過と共に,エホバの賛美者の増加は勢いを増してきました。パナマで王国の伝道者が初めて1,000人になるのに約55年かかりました。それは1955年のことです。それから16年後の1971年に2,000人に達しました。ところが,わずか5年ほど後の1976年3月に,伝道者の数は3,000人になったのです。

      現在3,000人を上回るパナマの王国伝道者たちは,エホバの祝福が引き続きあることを確信して将来に期待をかけています。神がご自分の民に託しておられる業を行ないつつ,神に忠節であり続けられますように。「行ないの忠実な人は多くの祝福を得る」とある通り,そうした活動は豊かな報いを得る結果となるからです。―箴 28:20,新。

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    1978 エホバの証人の年鑑
    • 日本

      日本は変化に富んだ国です。四つのおもな島と数多くの小さな島々から成る山の多いこの国土は,北は雪国の北海道から,西は亜熱帯の九州まで三日月形の弧を描いています。農耕に適する平野部は,国土全体のわずか15%を占めるにすぎません。たいていの場合,人びとは海岸沿いの都市や町に密集しています。階段状を呈する水田からは米が取れ,また季節ごとにさまざまのくだものがなり,海からは魚や海草その他のおいしい食べ物が豊富に取れます。人口は今や1億1,300万人を超えていますが,それでも日本はかなりの程度まで食物を自給しています。

      日本人は一般的には背が低めですが,勤勉で,よく働き,自分たちの伝統に誇りをいだいています。そして,方言の面での違いがごくわずかしかない,ただ一つの言語が日本中で話されています。文字の書き方はかなり複雑で,普通は1,850字もの漢字が用いられています。しかし,日本人は人口の99%までが読み書きができますし,読書が好きです。日本人は創意に富み,また他の人の発明品を改良する能力に恵まれていますが,このことは,日本が20世紀の主要産業国のひとつに発展するのに貢献しました。

      日本では今日,和服よりも洋服姿の人のほうがずっと多く目につきます。食事については,かなりの割合でパンがご飯に取って代わりつつあります。かつて,木や紙などの建材で作った家の建っていた場所に,「マンション」と呼ばれる十数階から20階建の鉄筋コンクリートのアパートがそびえています。しかし,こうした産業の進歩に伴って,汚染が重大な問題となりました。

      日本の宗教

      ブリタニカ百科事典は,「日本古来の年代記に記されている日本の古代の歴史は徹頭徹尾神話の世界に包まれているため,全く信用できない」と述べています。その神話によると,初代の神武天皇は西暦前660年に即位したと考えられています。神武天皇から今上天皇(裕仁)に至る歴代の124人の天皇は太陽の女神,天照大神の子孫であると言われています。天照大神は鏡に映る自分の美しい姿をのぞくように仕向けられ,大きなほら穴から誘い出されたとき,世界に光をもたらしたとされています。神道(つまり「神の道」)は何世紀もの間に,おもに先祖や自然の力を崇拝する一つの制度として発展してきました。今日まで,毎年各町村で神道の祭りが祝われます。その時には半裸になった男たちや少年たちがみこしを肩にかついでにぎやかにねり歩くのです。そのみこしの中には,鏡や宝石や刀が神道の象徴物として祭られています。第二次世界大戦が終わるまで,天皇崇拝を非常に重視した神道は日本の国教とされていました。

      しかし,日本人の多くはひとつ以上の宗教を奉じています。そうすれば,いくつかの宗教から最善の益が得られると感じているのです。西暦6世紀以降中国や朝鮮から仏教が日本人の生活に加えられるようになりました。そして,神道と仏教は共存するようになりました。地方の神道の神社と仏教の寺が並んで建っているのを見かけるのは珍しいことではありません。多くの日本の家庭では,奥の間に家族の仏壇が堂々と置かれている一方,玄関には神棚が飾ってあり,そのどちらにも先祖の霊を喜ばせるために,果物や花などが供えられます。

      結婚式や生まれた子供のためのお祝いは神式で行なわれるのが伝統とされていますが,葬式やその後の記念法要は仏教の僧侶によって行なわれています。神道はおもに儀式的な汚れを清めることに関係していますが,仏教は死者の供養に関係しています。そして,仏教にも神道にもそれぞれ文字どおり何百という宗派があります。

      神道が国教として勢力を振るっていた当時,日本人の考えは天皇崇拝に大いに傾倒していました。そして,多くの日本人の間には強烈な軍国主義的また国家主義的熱情が広まり,その熱情は第二次世界大戦の真っ最中に最高潮に達しました。天皇崇拝の祭壇の上に人命は犠牲として惜しみなくささげられ,天皇の誉れのために死ぬ道を取らずに,降伏することを選んだ人びとは,多くの場合非国民とみなされました。日本が敗北した時,日本軍はみな,降伏よりもむしろ玉砕を好みました。軍国主義の全盛期およびそれ以前の日本の情勢は,「平和の君」に関する良いたよりを首尾よく宣べ伝えることのできる明るい見込みを差し伸べるものではありませんでした。

      事実,日本の歴史はおしなべて内乱や暗殺,切腹や変革や剣術などで特徴づけられています。これほど暴虐に満ちた歴史を持つ国は,ほかにはほとんどありません。しかも武士や武士道を呼び物にした演劇や映画の中では,そうした事がらの多くが今なおたたえられています。対立する仏教各派の間で激しい争いが行なわれた時分には,日本の古都,京都の街路は僧兵やその仲間の血で文字どおり赤々と染まりました。

      キリスト教世界の宣教師の来訪

      仏教や神道の各派が寄り合い,そして特に国教としての神道が人びとの生活の中で非常に主要な要素を成しているところに,果たしてキリスト教が確固とした地歩を占めることができるでしょうか。

      キリスト教世界の諸宗派は16世紀半ばに日本に宣教師を派遣し始めました。長崎地方では約15万人がカトリックに改宗したと言われています。しかしブリタニカ百科事典は,ローマ・カトリックが日本人にとって,「ヨーロッパ文明の象徴」以上のものになったことについて述べた後,さらに次のように説明しています。「抑圧された農民の中には救いの福音を喜んで受け入れる者もいたが,商人や貿易をもくろんでいた諸大名はカトリック教会を,拡大するヨーロッパ大陸と自分たちとを結ぶ重要なきずなとみなした」。カトリック教会は銃砲・火薬類の密輸入者や商人の手先と化し,ほどなくして将軍,豊臣秀吉は禁令を発し,残忍な迫害をもって同教会を抑圧しました。西日本のカトリック教徒は必死になって武装蜂起しましたが,結局1637年までには事実上根絶されてしまいました。生き残った者たちは信仰を捨てるか,あるいは「隠れキリシタン」となって地下にもぐるか,そのどちらかの道を取らざるをえなくなりました。地下にもぐったカトリック教徒は,カトリックの像を仏教的な象徴的手法で偽装しました。

      1868年に明治時代とともに始まった,日本の「偉大な再覚醒」つまり明治維新まで,宗教を含めて,外国からの影響力はほとんど日本に浸透できないようにされていました。しかし,外の世界に向かって門戸が再び開かれた時,キリスト教世界の各宗派は多数の宣教師を派遣しました。その結果はどうでしたか。日本人の大規模な改宗は見られませんでした。当時の日本人は,神道や仏教は自分たちの先祖にとって十分満足のゆくものだったのだから,それは自分たちにとっても十分満足できるものだと感じていました。仏教は良い道徳律を教えているのではありませんか。戦争や植民地での圧制などの長い記録を持つキリスト教世界は,自分たちの宗教のほうがまさっていることを,何をもって示すというのでしょうか。それで,日本人は,何世紀も前に儒教や仏教のある事がらを取り入れたのとだいたい

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