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    ものみの塔 1973 | 12月15日
    • 現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本

      前号の「ものみの塔」では,1950年代の日本におけるエホバの証人の宣教者の業の拡大について述べました。この号では,1957年に開かれた広島の宣教者ホームに関することからお知らせします。

      最初に原爆が投下された都市として有名な広島では,王国の真理は人びとにどのように受けいれられたでしょうか。1957年1月に宣教者たちが同市で業を開始した時には,彼らに先立ってその区域で奉仕していた特別開拓者たちの6か月にわたる業の実として,6人の伝道者から成る小さなグループがすでにありました。その6人の伝道者は全員,今日に至るまで熱意を持って活発に奉仕しています。そのうちのひとりは原爆による破壊の様子を生々しく説明することができます。

      しかし,原爆で焼け出された人びとは,外国人の宣教者が携えてきた音信に対して偏見を示しませんでしたか。他の宣教者とともに6年10か月にわたって広島で奉仕した宣教者のオードリー・ハイドは,その間に ―「出て行け!」という意味の日本人のしぐさである ― 顔の前で手を振るようなことをした人はわずか数人しか思い出せない,と語っています。宣教者の家は戦前に建てられた典型的な中級の日本家屋でした。建物自体は爆撃の被害の大きかった爆心地からかなり遠かったため焼けませんでしたが,それでも爆発の衝撃で爆風の風下側に傾いていました。

      当時,水洗便所などの近代的な便利な設備は広島にはほとんどありませんでした。汚物を集めて回る車が独特のにおいを放って通りを行き,男が,肩にかついだ天びん棒の両端につるしたおけに「もの」を入れて,家から車に運びました。彼らは「おわい屋」さんと言われています。ごく初期に宣教者が司会した研究のひとつは「おわい屋」さんとのものでした。その人は非常に荒ら荒らしい性格の持ち主であったうえ,大酒飲みで,喧嘩っぱやく,かけ事が好きなことで広島では名が通っていました。その人は,自分の妻が聖書を勉強するのを暴力を用いてまで反対していましたが,やがて真理に関心を持つようになりました。ほどなく,彼の生活に大きな変化が生じました。彼が以前の生活態度を改めたことに彼の知人たちは驚かされました。やがて,その人はクリスチャンの人格を身に付け,今では,エホバの証人の会衆を監督する業に携わっています。

      広島では,平和の新秩序を宣べ伝える時,それに耳を傾ける人を見いだすことは難しくありません。「平和」ということばは広島中いたるところに書かれています。市を東西に貫通する100㍍道路は平和通りと呼ばれ,原爆博物館は平和公園の中にあり,その近くには新しい平和橋があります。毎年8月6日の「原爆」記念日には,世界中から「平和」運動家が広島にやって来ますが,議論するだけで一致がないために何の成果ももたらしません。宣教者たちはしばしばこの点を指摘して,平和をもたらす人間の努力がいかに無益かを示しました。宣教者たちは広島から他の肥よくな畑に移っていきましたが,そこには3つの盛んな会衆が残されました。

      横浜の宣教者の家が売れた時,協会は寒さの厳しい北海道の札幌に新たに宣教者の家を購入しました。この宣教者の家は,1957年9月からその家が売却された1971年3月までの間,実り多い宣教活動の中心となりました。この宣教者の家では初め,3組の夫婦の宣教者が奉仕しました。そのうちのひとりダグラス・ビーボーは,冬の伝道は彼らにとって初めての経験であった,と語っています。狭い路地の多くは雪で埋まり,おまけに人びとはその上に屋根が弱って壊われないよう雪をシャベルでかき落しました。これらの小道を歩いている時,宣教者たちは,道が一階の屋根ほどの高さになっていることに気づいたものでした。家にはいる時には,凍った雪を削った氷の階段を降りて行きました。「かんじき」を見つけるまでは,彼らは何度もころんで青あざを作りました。しかし,人びとは友好的で,すぐに暖かい家の中に入れてくれました。宣教者たちは今,燃えさかる石炭ストーブの回りで司会した数多くの聖書研究のことを思い返すことができます。

      ビーボー兄弟は雪の降る日にひと部屋しかない小さな家を訪問した時のことを覚えています。小柄の年配の男の人が戸を開けました。その人は妻を亡くして独り暮らしをしており,鍼と灸の仕事をしていました。仕事は繁盛しているとは言えず,大半の時間を患者を待って過ごしていました。その男の人と聖書研究がはじまりました。彼は初めから,雪が降ろうと寒さがどれほど厳しかろうと,すべての集会に出席しました。その人は内気で恥ずかしがり屋でしたが,やがてりっぱな進歩を遂げました。ビーボー兄弟は,彼が神権宣教学校の研究生として初めて話をした時のことを覚えています。手にした筋書は風に動く木の葉のように震えていました。顔を流れ,鼻の先からしたたり落ちる汗に聴衆は息を飲みました。しかし,彼は「その話をやり遂げ」,後には,正規開拓者また聖書研究の監督となりました。彼は,ほとんどの時間を野外奉仕に費やし,家を留守にしがちであるにもかかわらず,鍼治療を受けに来るお客がふえたことに気づきました。

      1959年9月には北海道で,同島だけの巡回大会が初めて開かれました。大会は宣教者の家の近くのある姉妹の家で行なわれ,宣教者の家は食堂として用いられました。公開講演のために会館が借りられ,そこに75人が出席したことを全員が喜びました。北海道中部の孤立した都市帯広で開かれた1971年5月の巡回大会では,公開講演に761人が出席しました。最近,北海道には2つの巡回区が組織されました。宣教者たちが働いていた札幌会衆は現在では大きくなって4つの会衆になっています。

      南方の九州はどうでしょうか。この地域は仏教の勢力が強く,封建的な家族制度が依然として強く残っているにもかかわらず,福岡市で業を開始した4人の宣教者は,反対がいわゆる「キリスト教」の諸教会からだけもたらされることに気づきました。

      殺人の罪を犯して福岡刑務所で服役中だったある死刑囚は協会に聖書研究を申し込み,宣教者が彼を訪問する取り決めが設けられ,イズラブ兄弟がその人と聖書の勉強を始めました。その囚人の振る舞いが非常に大きく変化したため,まもなく刑務所の所長は自分の執務室の隣りの部屋で金網の仕切なしに研究することを許してくれました。やがて,この男の人は刑務所の中でバプテスマを受けました。彼は日本語の小冊子を盲人のために点訳できるように点字法を学びました。また,関心を持つ人びとや励ましの必要な伝道者たちに手紙を書いて王国の業に助力することもしました。中田兄弟は一生懸命勉強して,自分が犯した罪のゆえに「命には命を」償わなければならない日に備えて,自分自身を霊的に強めました。

      その時は1959年6月10日に来ました。死刑囚の求めに応じて,刑務所長はイズラブ兄弟を刑の執行が行なわれる建物に呼びました。中田兄弟はイズラブ兄弟ににこやかに挨拶し,そしてこう言いました。「わたしは今,エホバと贖いの犠牲および復活の希望に非常に強い確信をいだいています。わたしの今までの人生の中で今日ほど強さを感じたことはありません」。事実,訪問した兄弟は,その日ふたりのうち自分のほうがずっと弱い感じがしたほどでした。ふたりはいっしょに王国の歌を歌い,聖書を読み,最後の祈りをしました。そのすべてはその場に居合わせた12人の当局者に対してすぐれた証言となりました。自分の愛をエホバの組織と全地の兄弟たちに伝えて欲しいと語った後,死刑囚である同兄弟は絞首台に向かって導かれて行きました。その顔は,復活によりエホバの新秩序のもとで生活できるという希望に対する感謝の念で輝いていました。

      1957年に,宣教者たちは日本の南端の都市鹿児島に行きました。そのうちのひとりトム・ディックは,彼らが鹿児島に到着した時,少数の地元の伝道者の暖かい歓迎を受けただけでなく,桜島も爆発して歓迎の挨拶を噴き出し,彼らをもてなした,と語っています。日本では買い物はきまって主婦が行ない,しかも宣教者の兄弟たちはみな背が非常に高かったので,兄弟たちは買い物に行った時など非常に人目につきました。しかも,お店の人には彼らの限られた日本語を理解することが難しかったのでなおさらでした。

      この地方には,外国人はほとんどいませんでしたから,子どもたちの群れが宣教者のあとを追って家から家に付いて来ました。ある日,金髪で背の高い宣教者の姉妹が自分に付いてくる子どもたちを数えたところ,100人以上もいました。中には,姉妹の先に駆けて行って,隣家の人に,予約をしたくないなら2冊の雑誌だけを求めることができると告げる子どももいました。3年以上の地道な働きによって,鹿児島会衆を伝道者5人の会衆から伝道者20人の会衆に築き上げた後,宣教者たちは鹿児島を離れました。その日に,あたかも別れの挨拶をするかのように,桜島は再び噴火しました。

      特筆すべき京都における大会

      まるで絵に描いたように美しい,日本の典型的な古都,京都で,エホバの民の喜びにあふれた大会が幾度も開かれました。京都における最初の大会は1954年7月29日から8月1日にかけて,民生会館で開催されました。日本全体のこの地域大会の公開講演には536人が集まりました。

      1957年にはいってまもなく,ものみの塔協会の副会長フレッド・W・フランズが日本を訪問しました。それは,その後何度か行なわれた同兄弟の日本訪問の最初のものでした。

      寒い冬のさなかの1月22日から24日にかけて,日本各地の兄弟たちは京都の岡崎公会堂に集まりました。出席者は日を追って増加し,日曜日晩の副会長の公開講演には605人もの聴衆が出席しました。1月30日の晩,フランズ兄弟は東京の渋谷区公会堂で日本の兄弟たちにさらに話を行ない,その時は446人が出席しました。日本の伝道者たちはこの特別の訪問を感謝したでしょうか。1月から8月にかけて野外の伝道者の数は増加し,645人から843人になりました。その結果,1957奉仕年度の伝道者は54%も増加することになりました。

      日本における王国の拡大の別の里程標となったものは,1963年8月21日から25日にかけて京都で開催された「永遠の福音」大会でした。140万以上の人口を擁し,1,500の寺院と3,500の神社のある京都は日本文化の中心地の一つとしてよく知られており,この理由で第二次大戦中は爆撃を免れました。京都は幅の広い街路や大きな並木道のある近代都市ですが,同時に古風な日本家屋や美しいながめの庭園を備え,日本古来のふん囲気を漂わせています。京都は,世界中の訪問者のやって来る理想的な大会都市でした。訪問者たちはいろいろな場所を見物している間に,キリスト教世界の信条や儀式の多くが仏教のそれと非常によく似ていることを知り,興味をそそられました。そうした信条や儀式としては,たとえば,火の燃える地獄の教理,意味のわからないことばを繰り返し唱えて祈ること,じゅず,聖水,ろうそくの使用,後光をいただいた“聖人”の崇拝などがあります。確かに,すべての宗派的宗教は古代バビロンという,ただ一つの源に起源を発しています。

      (この続きは次号に載せられます)

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1973 | 12月15日
    • 読者からの質問

      ● ガラテヤ書 5章19節の「不品行」ということばは何を意味していますか。―アメリカの一読者より。

      (ギリシャ語,アセルゲイアに由来する)この語は程度の軽い,あるいはそれほどはなはだしい仕方で犯されたのではない不道徳を指すと推測する人がいるかもしれません。しかし,聖書や,このことばの出ている古代ギリシャ語の一般の文献から得た証拠に照らしてみると,こうした推論は正しいと言えません。このことばは性的な不道徳行為だけに限って適用されるのではありません。それは何かささいな,あるいは程度の軽い性質の悪行を指しているのではなく,むしろ恥知らずな態度を表わす行為,または規範や法律や権威に対して不敬を示したり,それらを無視したり,さらにはべっ視さえしたりする行為のことを明らかに述べています。ですから,行状の『不品行性』は主として弱さによるのではなく,不敬,ごうまん,または恥知らずな態度に基づいています。

      この点を支持するものとして,ギリシャ語の辞典はアセルゲイア(およびこのことばの他の語形)をこう定義しています。「非道な行為」「放縦,抑制されない暴力」「ごうまん」「野卑な悪口」「獣性」(リデルおよびスコット);「あらゆる面(例,ことば,行状)に関する不節制,たんでき,ごうまん」(ロビンソン);「放逸な肉欲,……非道,恥知らず」(セヤー);「抑制されない不法でごうまんなふるまい」(トレンチ)また,バークレイ編の新約聖書語彙集にはこう書かれています。「プラトンは[アセルゲイア]を『無遠慮な行ない』の意味で用いた。……このことばは,『侮辱的言動やあつかましい態度を伴う暴力』と定義できる。……それは,抑制されることの全くない精神,また移り気で放縦なごうまんさを連想させる行為をあえて行なう精神を示す」。

      西暦1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセハスは,異教徒の女王イゼベルがエルサレムにバアルの宮を建てたことを記述するにさいしてこの語(アセルゲイア)を用いました。こうした行為は驚くべき侮辱行為,つまり恥知らずにも世論や良識を侮る行為でした。

      一般のギリシャ語文献に見られるアセルゲイアの使用法は,クリスチャン・ギリシャ語聖書におけるこの語の用法とも対応しています。たとえば,使徒パウロは諸国民について語ったさい,彼らは「その心の無感覚さ」のために,「いっさいの道徳感覚を通り越し,貪欲にもあらゆる汚れを行なおうとして,身を不品行[アセルゲイア]にゆだね」るようになった,と述べました。(エペソ 4:17-19,新)使徒ペテロはアセルゲイアを,「欲情,過度の飲酒,浮かれ騒ぎ,飲みくらべ,無法な偶像礼拝」など,人びとを「放とうの下劣なよどみ」に導く諸国民の慣行と関連づけています。(ペテロ前 4:3,4,新)また,ソドムの住民の行為に苦しんでいたロトについて言及したさい,使徒は,「不品行」を行なうソドムの人びとの「不法」の態度を強調し,当時の特定の人びとを『向こう見ずかつ片意地』で「主たる者の地位を見下」し,栄光ある者たちを「あしざまに言う」ことを恐れず,『なんの益にもならない大言を吐く』者たちと対照させています。(ペテロ後 2:7-10,18,新)こうした表現

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