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  • 「業が成し遂げられるまで奉仕を続ける」
    ものみの塔 1980 | 9月15日
    • 私は,自転車を降りてその美しい景色をしばし眺めることがよくありました。

      宣教奉仕への招待

      カタニングへ行ってわずか6か月後に,すばらしい奉仕の特権が新たに差し伸べられました。オーストラリアとニュージーランドの18名の人々と共に,ものみの塔ギレアデ聖書学校の第11期のクラスに招かれたのです。その人たちの中に,その時以来私のパートナーとなっているモーリー・ヘロンがいました。モーリーも1932年からブリスベーンで開拓奉仕をしていました。私たちはそれまで同じ年数全時間奉仕に携わっていたので,共通する点をたくさん持っていました。けれども,私には速断する傾向がある一方,モーリーは慎重に物事を行ないます。ですから,私たち二人は良いコンビとなり,約31年間パートナーとしてとても楽しく暮らしてきました。

      ニューヨークのサウスランシングにあったギレアデで忙しくも楽しい5か月を過ごしたあと,私たちは任命地の割当てをいただきました。私を含む5人の姉妹はニューカレドニアへ行くことになりました。ところが,N・H・ノア兄弟が後日話してくださったところによると,その島には当時まだ首狩りをする蛮人がいるということがノア兄弟の耳に入ったそうです。それで,私たちの任命地はフィジーに変更されました。フィジーに入る査証が下りるのを待っている間,私たちはカリフォルニア州のサンフランシスコで16か月間過ごし,ダリー・シティー会衆と共に奉仕して,多くの良い友を得ました。

      1949年10月,ギレアデ第11期の同窓だった人たち,ロイド・バリーと妻のメルバ,パーシー・イズラブと妻のイルマそしてエドリアン・トムソンが任命地である日本へ向けて船出するのを見送りました。船がするすると桟橋を離れて行くとき,私たちは「ハルマゲドン後までさようなら」と大声で言いました。(啓示 16:14,16)しかし,当局はフィジーに入るための査証を発行してくれませんでした。そのため,私たちは1950年1月に仲間の後を追って日本へ行き,神戸の垂水にあった宣教者の家で一緒になりました。

      日本における宣教の業

      こうして全時間奉仕に携わってきた49年間のうちで最も喜びの多い期間が始まりました。日本語が分からず,日本人の習慣も知らなかったので,最初は間違いをたくさんしました。例えば,私は,戸別に(説教していると言う代わりに)咳をしていると人々に言ったことがあります。しかし,私は,「最善を尽くしなさい。間違いをしても,何かを行ないなさい」というノア兄弟の助言をいつも思い出しました。こうして私たちは自分の最善を尽くしながら前進し,エホバのご援助により,次第に進歩しました。

      ジェーン台風の猛威と闘ったことは新しい経験でした。風が吹き始めたとき,私たちは野外奉仕をしていました。伝道者たちは家に帰るようにとしきりに勧めてくれました。モーリーと私は,台風の恐ろしさを知らなかったので,できる限り証言を続けました。しかし,やめなければならない時が来ました。非常な強風のために電線が激しく揺れたり切れたりしたので,私たちは宣教者の家へ走って帰り,飛んで来たかわらや木の枝でけがをするところを危うく逃れることができました。

      一人の宣教者は行方不明になりました。しかし,夜中になって無事に帰って来ました。その宣教者は鉄道の車両の中に丸一日くぎづけにされてしまったのです。あらしが弱まったとき,宣教者の家は窓ガラスが二,三枚割れ,水の被害を少し受けただけだということが分かりました。ほかの所では死者が出ましたし,港では500隻の船が沈没しました。

      日本ではあまり珍しくない地震もその当時の私たちにとっては初めての経験でした。ある地震で,宣教者の家の庭にあった大きな石の燈ろうが倒れました。幸いその時燈ろうのそばにはだれもいませんでした。

      楽しい経験もたくさんしました。神戸にいた4年間に,私たちは垂水会衆と明石会衆が設立されるのを援助する特権にあずかりました。そのころ私たちが聖書研究を司会した人々の中には,今開拓者や会衆の任命された長老として奉仕している人たちがいます。

      次の任命地は,神社仏閣の多い京都市でした。人々の多くは色彩豊かな祭礼と深くかかわっていましたが,喜んで聖書を学ぶ人々も大勢いました。敬虔な仏教徒だった美馬勝三もそうした人の一人でした。この人は創造者がいるに違いないと心の中で信じていました。そして,「真の神について知りたい」と言いました。多くの質問をしてくる,そして聖書の答えをいつもちゅうちょなく受け入れるこの人との研究を,私は本当に楽しみました。この人は間もなく熱心なエホバの証人の開拓者となり,宣教者が京都を去ったあと会衆の世話をするよう任命されました。当時京都には王国の伝道者が36人しかいませんでしたが,今では11の会衆と六つの王国会館があります。

      モーリーと私は九州の熊本へ移るように任命されました。そこは非常に封建的な都市で,最初は,「良いたより」の宣明の業を推し進めるのが困難でした。ハナ・ミハラ姉妹とマーガレット・ウォータラー(今はパスター)姉妹が二人に加わり,私たち4人は新しい会衆の“浮き沈み”と闘いました。それは本当に挑戦でした。けれども,6年間懸命に働いた後その会衆を離れるときには,31人の熱心な奉仕者がいました。そのうちのある人たちは今まで何年間も開拓奉仕をしています。現在熊本には三つの会衆があります。

      次に移ったのは東京です。そして過去15年の間玉川会衆と世田谷会衆に交わって奉仕してきました。私たちが聖書研究を司会する人たちの大部分は仏教の家庭で育った人たちです。もっとも,中には,キリスト教世界の教会と接触したことのある人もいます。世田谷に任命されたばかりのとき,私は中村敏子という人に会いました。その婦人は啓示とマタイ 24章の預言の説明を20年間尋ね求めていました。13の異なる教会に通い,様々な牧師に質問しましたが,そのような預言を説明できる人はだれもいないと告げられました。一人の牧師は,「そういうことは死んでから分かるのです」と言いました。聖書研究をして,その婦人は息子に「やっと真理をみつけたわ」ととてもうれしそうに言いました。息子は母親に連れられて13の教会へ通った末,すっかり懐疑的になっていましたが,聖書研究に応じ,急速に進歩しました。そしてこれまで8年間正規開拓をしており,現在世田谷会衆の長老として奉仕しています。

      エホバは祝福を注いでくださる

      ここ日本で弟子を作る業にあずかることは大きな喜びとなってきました。最初は大変でしたが,忍耐してよかったと思います。私たちは12人の伝道者が5万2,000人以上になるまで業が発展するのを見てきました。また,多くの心温まる経験をしました。ほかの人たちと同様,私たちも健康上の問題を抱えたり,時には落胆したりすることもありました。けれども,業が成し遂げられないうちにやめることなど一度も考えたことがありません。現在,私たちは日本の兄弟姉妹たちと一緒にいる時,とてもくつろいだ気持ちになります。事実,外国の大会に出席すると,自分たちがお客様のように感じるのです。

      またたく間に過ぎ去った歳月を振り返ると,エホバが天の水門を開いて祝福を注いでくださったとはばからずに言うことができます。(マラキ 3:10)全時間奉仕は宝です。そのことは確かに,天のみ父に賛美となる心からの活動すべてについて言えることです。業が成し遂げられるまで奉仕を続けようと努力するなら,エホバが豊かな祝福を加えてくださることは間違いありません。

  • 先見者とはどんな人たちだったか
    ものみの塔 1980 | 9月15日
    • 先見者とはどんな人たちだったか

      サムエル前書 9章9節(新)には,「今日の預言者は昔は先見者と呼ばれていた」と書かれています。このことから,サムエルの日以後預言者が一層顕著な存在になって,「先見者」という表現の代わりに「預言者」という言葉が用いられるようになったものと思われます。先見者は神の霊感を受けて物事を“見る”つまり神の意志を見分けることができました。先見者の目はいわばベールをはずされた状態にあったので,一般の人々から隠されていた事柄を見る,もしくは理解することができました。したがって,先見者は問題をどのように取り扱ったらよいかという相談を受けました。

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