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台湾,沖繩,日本における会長の奉仕ものみの塔 1956 | 11月15日
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た。たそがれ時になつて,あたりが薄暗くなると,傘がたたまれ,微笑に顔をほころばしている人々で埋められた広場がぐるりと見渡せました。この日は長い日でしたが,それでもすべての人は熱心に耳を傾けて話に聞入り,子供たちも両親といつしよに静かに坐つていました。閉会の歌が歌われ,祈りが捧げられました。そして,ノア兄弟と随行者たちは汽車に乗り遅れないために去らねばなりません。聴衆は立ち上つて一つの群になり,訪問者たちが歩き始めたときに,みな別れを惜しんで一斉に手を振りつづけました。
帰りの汽車の旅でも幸福な交りを楽しむことができました。大会に出席した多くの人々は同じ汽車で旅行したからです。それぞれの停車場に降りるどの群も,ノア兄弟の窓のところに来て,快よい握手を交し,それから暗い夜の中を歩き去つて行きました。その一つの群は,1時間半のあいだ辺鄙なところを歩き,それから流れの早い河を徒渉して,やつと自分の村に帰れる,とのことです。その村では,1家族を除いて,すべての家族はヱホバの証者です。東洋人の習慣によると,妻はしばしば奴隷のような扱いをうけます。しかし,台湾のヱホバの証者は,そのような習慣とは違うことをしていました。というのは,多くの夫たちが,背中に赤ちやんを背負つていたからです。こうして,つかれの多かつた1日の後に,夫たちは『弱い器』である妻たちに思いやりを示しました。新しい世の社会内には,どの場所にもあるのですが,台湾のヱホバの証者の中にも,協力と愛のすばらしい精神,そして溢れるばかりの幸福が存在しています。訪問者たちは,疲れていましたが,幸福でした。そして汽車の旅が終つて花蓮の旅館で東洋式に床の上で寝ました。みなぐつすり良く眠りました。
4月20日の正午をすこし過ぎてから,飛行機に乗つて首都,台北に戻りました。台北の宣教者宅にいる二人の宣教者と快い数時間を過しました。宣教者たちは,最初から中国語を良く学んでいます。台北にいる多くの人々は,英語を話すこができ,英語で聖書研究することを欲していますが,宣教者たちは最初から,聖書研究に中国語の文書を用います,と強く言いました。3ヶ月の後には,2人の宣教者は20以上の研究を中国語で司会しており,その研究はたいへん良い進歩を示しています。その日の夕方,訪問を続ける兄弟たちは,またまた飛行機に乗つて,日本の東京に向い出発しました。
沖繩
午後8時,飛行機は沖繩に30分間着陸しました。アメリカ人,フイリッピン人,そして日本人でなり立つ沖繩の会衆は,集まつていて,旅行中の兄弟たちに快い歓迎を示しました。これら違つた国籍の人々がひとつの民に結合して,ヱホバを讃美している様子は,全くすばらしいものです。この訪問の1ヶ月前の野外奉仕報告によると,26名の伝道者(60パーセントの増加)という最高数が得られ,しかもこの26名の伝道者は僅か1ヶ月のあいだに日本語の『ものみの塔』と『目ざめよ!』を2662部も配布したのです。日本人の特別開拓者のひとり(最近この地に住命された)は,『沖繩は開拓者のパラダイスです』と言つていました。兄弟たちは,沖繩から出発しましたが,一致してヱホバに讃美を捧げているこの地の会衆についての事柄は,幸福な思い出になりました。
日本
日本には,4月21日の午前1時10分に到着しました。真夜中というのに,20人以上の宣教者が出迎えに来ているのを見てびつくりしました。この日に始まつた東京大会は,最新式の西洋風の美しい建物,中野区公会堂で開かれました。この大会を準備するに当つて20万枚のビラが配布され,2500枚のプラカードを用意し,またこの大会のことや最近の世界的な大会のことを写真入りで特輯した2万部の特別号の『目ざめよ!』を配布しました。新聞も良い記事を書き,大会やノア兄弟の訪問のことを知らせていました。日本では最初のことでしたが,宿舎を探す広範囲な仕事が家から家に行われ,多くの訪問者は人々の家庭で宿泊しました。この結果は良い証言が行われることになり,多数の人は興味を感じて大会に出席するようになりました。
大会を宣伝する大会の徽章も大いに人々の好奇心をひき起しました。乗物の中や街路でも,人々はこの徽章を見ると,名前が何で,何処から来たか,ということを読もうとします。それで,証言する機会が多く生じました。京都から東京に汽車で旅行した二人の伝道者は,汽車の中をずつと証言して,多くの雑誌を配布しました。
土曜日の午前7時半,全日本と沖繩から来た伝道者たちは,会場から道一つへだてたところにある宴会場に設けられた簡易食堂で朝食をとりました。この宴会場は,大会中ヱホバの証者の貸切となつていて,約70人の兄弟たちは毎晩そこで宿泊しました。朝になると,蒲団をたたんで,押入の中に入れます。そうすると,食事を取る場所ができる,というわけです。大会出席者たちはウルシ塗の食卓を前にして畳の上に坐ります。この食堂のぐるりは,極めて美しい古風な日本式の庭園でした。大会の会館建物も,普通一般のものとは,だいぶ趣きが異り,大会3日間のあいだ春の日差は,会館前部の40フィートもあるガラスを通して会場の中にさし入つていました。
大会第1日の朝の野外では,200名以上の伝道者が雑誌の業を行い,大会を宣伝しました。プラカードを身につけて,ビラを渡した最年少の伝道者は,僅か4歳でした。一方,会館では80人以上の開拓者や,将来開拓者になろうと欲している人々がノア兄弟の良い助言の言葉を聞きました。その後,ひとりの人は『なぜもつと早く開拓者にならなかつたのだろう。なんだか偽善者のような気がする』と言つていました。土曜日午後の出席者数は425名で,『クリスチヤンは幸福でなければならぬ』というノア兄弟の講演をよろこんで聞きました。聴衆はみな手帳に記入しており,聖書を開いて引用された聖句を調べていました。午後の部の終りにあたつて,日本語の『ヱホバに讃美の歌』が発表され,聴衆はびつくりすると共に幸福に充されました。
方々の都市で働いて,多数の興味者を見出している日本人の特別開拓者たちは,素晴らしい経験を報告しました。3人の特別開拓者の1家族は,仏教の中でも極めて頑固な日蓮宗派の強い区域で働いています。3ヶ月の伝道の後には,30の研究が報告され,6人の新しい伝道者が野外で奉仕しているのです。別の特別開拓者は,神道の一派である天理教の経営している下宿屋を訪問しました。老年の一婦人は,多くの興味を示し,研究が取極められました。しかし,家の人からの反対を避けるために,研究は小声で司会されました。その婦人は,家に来る人々に今では証言しています。
特別開拓者たちは,新しく興味を持つた人々といつしよに大会に来ました。他の人々といつしよに旅行できなかつた,別の興味者は夜行の汽車で来ました。翌朝,大会の会場で友人といつしよになり,到着すると友人と共々に直ぐに奉仕に出かけました。―これはその人の最初の伝道でした。或る都市に働いている特別開拓者たちは,8ヶ月の伝道の後に14の研究を司会し,二人の伝道者を得ました。この特別開拓者の一人が街頭伝道している時,『ものみの塔牧師へ』と宛書された封筒を手渡されました。その封筒の中には,聖書についての質問が入つていたのです。翌週になると,同じ人は街頭伝道している開拓者のところに来て,その答をもらいました。公開講演に来ませんか,と招待したところ,その人は公開講演に来ました。研究も始まりましたが,その人は自分の住所を告げようとしません。その人は教会に関係を持つたことがある為,寄附を頼まれるのではないか,と心配していたのです。しかし,ヱホバの民の正しいことをすつかり確信して後,その人はよろこんで自分の住所を知らせました。その人は,この東京大会に出席していました。
日曜日のアダムス兄弟の話は,日本人の面している難問題のひとつ ― 自分の家族からの反対 ― について明快な解答を示しました。日本にいる多くの若い伝道者にとつて,ミカ書 7章6節はピツタリ当てはまるものです。大会に出席することについて非常な反対をうけたひとりの伝道者は,この話から大きな慰めを得た,と語りました。朝の2時まで両親は,行つてはいけないと言続けましたが,この伝道者は断念せず,遂に大会に出席しました。そして今ではこの世の絆を更に切つて開拓者になろう,という気持で充たされています。開拓者奉仕を考慮中であつた別の人は,『この話は全く要点をついたものだ』と語つていました。
聴衆は,ノア兄弟の公開講演『創造主の下にすべての人類を一つとなす』を,熱心に謹聴しました。幾週間にもわたつて勤勉に行われた宣伝は美事に結実して,会館には974名の聴衆がつめかけて熱心に話を聴きました。これは,大会中ずつと出席していた400名の兄弟たちをずつと遥かに上廻る数です。974名の中,660名は休憩後に行われたアダムス兄弟の話を聞くため会館に残りました。講演の後には,人々は次のような事を言つていました,
『この制度は世界を一致させる真実の希望を示す。』
『ヱホバの証者は,他の宗教とちがい,金に興味を持つていない。』
『新しく関心を持つ人々にとつては素晴らしく良い講演だ。誰でも良く理解できた。』
公開講演後の多くの人々の食事のために,弁当箱が用意されました。それは,日本における大会で初めて使用されたものです。この弁当箱は,どの場所にでも持つて行くことができ,そしてどの場所でも食べることができました,それですから,これは上首尾の結果を収めたのです。
月曜日の夜,ノア兄弟が演壇に立つて最後の話を始めたとき,聴衆の熱意は最高潮に達していました。熱意のこもつた拍手が自然に起りました。ロシヤにいるヱホバの証者についての心打つ話は,巧みに通訳され,そして全身を耳のようにして聞き入つている聴衆に伝えられました。拍手が数回なされました。鉄のカーテンにいる兄弟たちでも,活潑に奉仕しており,全世界のヱホバの制度とともに戦つているのです! そのことを知るのは,なんというよろこびなのでしよう。すべての人はよろこびに溢れた心で大会の会場を出ました。そして,自由の許されているこの日本の地で,もつと多く奉仕しようと決意したのです。
日本では1956年の3月には,前年度よりも21パーセントも増加した567名の伝道者の最高数が得られたのです。そして,その中の40人以上は,日本人の開拓者なのです。3月の報告の中でも特に興味深いものは,2万368冊という雑誌配布の新最高数です。伝道者たちは,日本語の『ものみの塔』と『目ざめよ!』誌を使用することをたいへんよろこんでいますが,これらの雑誌は,日本の人々の中に多くの興味をひき起しています。
興味ある再訪問
昨年の夏,欧州の大会から飛行機でニューヨークに帰る途中で,ノア兄弟は機上の次の坐席にいた乗客に証言しました。その乗客は,2万5000人の学生を擁する日本でも屈指の大学,早稲田大学の総長,大濱氏でした。ノア兄弟は,大濱氏に日本語で書かれている御国の文書を幾冊か送りました。後に,ノア兄弟が日本に来ると知つた大濱氏は大学の言語学専攻の学生講堂で講演をして頂きたい,とノア兄弟を招待しました。この会は,4月25日,水曜日の午後に行われ,ノア兄弟は通訳を通して386人の教授や学生たちに講演しました。聴衆は良く謹聴していて,講演の終りには,みな熱心に拍手しました。ノア兄弟はそれから教授たちの出席したお茶の会に招かれ,その席上でもヱホバの証者の業を教授たちに知らせることができたのです。教授たちの質問から判断して,みな講演を良く聴いていた,ということが分りました。ノア兄弟にとつて,これは非常に愉快で,楽しい経験でした。大学の近くにいる宣教者たちは,これによつて新しく興味を感じた方々と更に接触を続けて行きたい,と希望しています。
それで,楽しい訪問と多くの励ましを与えた大会も終了しました。日本に滞在した6日間は,アツという間に過ぎ去りました。しかし,幸福な時間であつた,ということがまざまざと記憶に残つています。3人の兄弟は,今度は韓国に向つて出発しました。
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『ものみの塔』の研究ものみの塔 1956 | 11月15日
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『ものみの塔』の研究
12月9日「ヱホバよさばき給え!」 1-21節 426頁
12月16日「ヱホバよさばき給え!」 22-24節と忠実を保つ 432頁
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