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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1973
塔73 10/1 599–600ページ

現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本

前号に続いて,わたしたちは,石井治三および石井まつえによって提出された報告に基づき,1930年代における日本のエホバの証人の活動に関する歴史的な記録をお伝えします。

やがて,石井兄弟姉妹はコルポーターの仕事をするよう再び割り当てられました。1939年6月21日に,ふたりは灯台社の人びとがいっせいに検挙されたとき,ともに検挙されました。検挙された時には呉にいましたが,まず広島に連れて行かれ,次に東北の仙台へ送られました。そして仙台では,繰り返し厳しい尋問を受けました。警察の取調官は,「灯台社はクリスチャンの名前を冠しているが,実際にはユダヤ人の秘密組織,クー・クラックス・クラン(KKK)だ」と言いました。コンクリートの監房の中は,夏はいたたまれないほど暑く,冬は骨まで凍るほどの寒さでした。そのうえ,おびただしい数のノミやシラミがいて非常に不潔でした。トイレにも定められた時間以外には行くことが許されませんでした。ふたりはやせ衰えて,しばしば目まいに襲われました。戦場で発狂した兵士のいる,近くの監房からは狂ったような叫び声が聞こえました。まる一年間,ふたりには何も読むことを許されませんでした。

取調べを受けるために監房から連れ出される時に,新鮮な空気を吸えるのは喜びでした。そんなある時,石井兄弟は聖書を使おうと試みましたが,係官は,「聖書から答えるな。自分自身のことばで答えろ。おまえは悪魔に取りつかれているんだ。いつも聖書を使いたがるじゃないか」と言いました。兄弟が聖書の述べていることを自分のことばで説明しようとしたところ,係官の顔は怒りに満たされ,「では,取調べはこれで終わりにする。おまえは今夜,食事は抜きだ。監房でよく考えろ」と言いわたされました。そして,ふたりは暗い監房に戻されました。翌日,兄弟と姉妹はさらに取調べを受けるために連れ出されました。すると副取調官が証言を聞きに入ってきて,「なぜきさまらはこの悪魔崇拝をやめないのか」とどなると同時に,石井兄弟の頭や顔を綱で打ちました。他の兄弟たちが竹刀でたたかれたり,殴り倒されたりしている物音も聞こえました。

ある日取調官は怒って,石井兄弟の聖書を床に投げつけ,足で踏みつけました。そして兄弟の顔を見ながら,「怒っていないのか」と言いました。「いい気持ちではありませんが,怒ってはいません」と石井兄弟は答えました。取調官にはそれが理解できないようなので,石井兄弟は次のように説明ました。「聖書は本です。わたしたちはその本によって救われるのではありません。神のことば,聖書にしるされている事がらに従い,信仰を働かせ,それを行なうことによって,わたしたちの救いは確かにされるのです」。すると,取調官は聖書を捨い上げ,制服のポケットから取り出したハンカチで汚れをぬぐってきれいにふき,机の上に戻しました。

取調べが進められている時に,石井兄弟は警察当局から明石順三の供述書を見せられ,それが真理から明らかに逸脱していることに驚きました。「おまえは明石を信じるか」と彼らは尋ねました。石井兄弟は次のように言いました。「いいえ,明石は不完全な人間です。聖書の原則に忠実に従っているかぎり,明石は神の器として用いられるでしょう。しかし明石の供述は今や,それとは全く異なっているゆえに,明石はもはやわたしの兄弟ではありません」。明石はこの供述書の中で,自分がキリストであると述べていたのです。

厳しい尋問が行なわれたさい,係官は石井兄弟に,1945年9月15日までに日本は負けると言わせようとしました。石井兄弟はこう言いました。「わたしは預言者ではないので,日時については何も預言できません。しかし,勝利は枢軸国同盟によってはもたらされないでしょう」。この取調官は後に追放され,一方石井兄弟は釈放されて呉に帰りました。戦後同兄弟は,エホバの組織と再び連絡を取り,1949年12月に神戸・垂水で開かれた戦後最初の大会に,釈放後養子として迎えた6歳の息子とともに出席しました。

近年,石井姉妹は非常に活発な正規開拓者として働き,石井兄弟は一時開拓者として奉仕しました。ほんとうのコルポーター(聖書文書販売者)のように,兄弟は1か月に147冊の書籍を配布しました。石井兄弟の寄せた手紙には次のように書かれています。「わたしたちは時に応じて霊的な食物を引き続き得られることを喜びました。若い特別開拓者たちがここ呉市に来た時に,会衆が作られました。会衆は進歩し,発展しています。今では,2人の特別開拓者,17人の正規開拓者,そして36人の伝道者の合計55人の証人たちがいます。巡回監督が訪問して行なった日曜日の公開講演には133人が出席しました」。それは1971年のことでした。そして,1972年6月に,血の問題に関するすぐれた証言を病院で行なった後,石井兄弟は死亡しました。兄弟の息子は成長し,特別開拓者となり,神戸・垂水会衆で,また最近は広島・西会衆で監督として奉仕しています。

石井姉妹がコルポーターの仕事を始めてまもなく会った一家族も真理に関してすぐれた記録を持っています。その家族は仙台の北約40㌔のところにある石森という小さな町に住んでいた三浦家族です。1931年の春に三浦勝夫が結婚した時には,彼は24歳,新婦はぎのは17歳でした。三浦勝夫は石井姉妹から「神の竪琴」「救い」その他の書籍を求め,それに真理が含まれていることをすぐに認めました。彼は東京にある灯台社の本部を訪問し,次いで明石順三が石森の三浦家族を訪問しました。1931年の10月に,明石は三浦夫妻に家庭用の浴槽の中で水をそそいで,「バプテスマを施し」ました。(このようなわけで,他の多くの人と同様に,ふたりは再浸礼を受けなければなりませんでした。)11月に,三浦勝夫兄弟,はぎの姉妹はコルポーターになりました。―「エホバの証人の1973年の年鑑」から

(この続きは次号に載せられます)

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