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  • 自己犠牲 ― 神に喜ばれる道
    ものみの塔 1969 | 10月15日
    • 人余の成員のひとりになりきれるかどうかが試みられます。そして各人は自分の割当ての仕事を持ちますが,それも時には容易な,あるいは楽しい仕事ではありません。しかしここには,起きている時の自分の時間のすべてを,愛他的精神をもって他の人々の最善の益のためにささげる機会があるのです。また生活に必要な物は供えられていますから,各人は御国の事柄に専念できます。そして,自分の行く手を知って長年歩んできた円熟したクリスチャンと交わることもできます。こうした奉仕に多年を費やし,今もなお喜んでいるひとりの人はこう言いました。「もしハルマゲドン後に新しい秩序がなかったとしても,わたしはここで神に仕える機会を見のがすことは考えなかったでしょう。なぜなら,今ここにいること自体が十分の報いだからです」。これは犠牲を払っていることばと思えますか。

      21 神に喜ばれる犠牲の手本をどこに見いだすことはできませんか。なぜですか。

      21 このことばは,神学校で多年の教育を受けたのち,しばらく教会に勤めたキリスト教国の牧師たちが到達した結論に似ていますか。いいえ,似ていません。それら牧師の多くは神とその聖書を信じているという見せかけを今やすべてかなぐり捨てようとしています。そして自分たちの進路を変え,抗議デモや暴動の扇動者と化してさえいるのです。彼らの達した結論は,単に聖書を説くだけでは不十分だということです。彼らは,しいたげられている者のために何事かを成し遂げるには,神が行動を起こされるまで待てない,実力が行使されている場合には,たとえそれが神やカイザルの政府の非とする暴力に訴えてまでも,実力行使に加わらねばならないと考えています。確かにこうした牧師たちの中には,エホバに喜ばれる犠牲をささげる人の手本を見いだすことはできません。

      警戒すべき事柄

      22 (イ)自分のささげる犠牲をいつも御旨にかなうものとするには,何を警戒しなければなりませんか。(ロ)一例をあげなさい。

      22 しかしこの問題に関して警戒すべきことがあります。それは憤りです。要求が多すぎるという気持ちの大きくなる場合があるのです。これはだれにも起こり得ることです。それは「すべての人にはるかにまさって柔和であった」モーセにも起きました。イスラエル民族がカナンの地に向かう荒野の旅にのぼってまもなく,人々は肉がないと言って不平をこぼしはじめました。モーセはエホバに語りました。「我は一人にてはこのすべての民をわが任として負ふことあたはず これは我には重きにすぐればなり 我もし汝の前に恩をえば請ふ かく我をせんよりは むしろただちに我を殺したまへ 我をしてわが困苦を見せしめたまふなかれ」。(民数 11:14,15)エホバはわたしたちにあまり多くを要求してはおられません。なすべき仕事は確かにたくさんあります。しかしモーセが正しい見方をするように助けられ,心を強められたように,正しい見方を持てば力づけられます。

      23 (イ)犠牲を御旨にかなうものとするには,ほかに何を警戒すべきですか。(ロ)一つの例を述べなさい。

      23 また,ねたみにも警戒しなければなりません。これもやはりだれにでも生じ得ます。これはモーセの兄アロンおよび姉のミリアムに生じました。そのふたりは明らかに,モーセはあまりにも大きな権力と権威を持っていると感じたのです。そしてモーセにこう語りました。「エホバただモーセによりてのみ語りたまはんや また我らによりても語り給ふにあらずや」。(民数 12:2)そしてミリアムはエホバの怒りを買ってらい病にとりつかれ,モーセのとりなしを受けてようやく直りました。他の人々のほうが責任や特権の点で自分よりもずっと恵まれていると感じますか。会衆内でもう少し目立った者になりたいという欲望が,それと気づかないうちに心に生ずるのを許すことがありますか。これは注意すべきことではありませんか。仲間の兄弟たちのある人々が,その行なった良いわざのゆえに報われるのを見て喜び,また清い崇拝のためにより大きな仕事をするよう彼らを励ますほうがはるかにすぐれています。

      24 誤った犠牲についてはどうですか。

      24 また,誤った犠牲にも警戒しましょう。残業をしたり,あるいは妻にも仕事をさせたりして,むすこを大学にいれたいと考えていますか。それは一種の“犠牲”ですが,そうする価値がほんとうにありますか。そうした若者の多くはたいてい,神に対する信仰はおろか子供に大学教育を受けさせるため苦労した親に対する愛や敬意すらほとんど,あるいは全く失って大学を卒業します。こうした経験のため悲惨な失意に陥った人もいます。それは誤った犠牲です。これとは対照的に,キリスト教に基づく訓練を子供に施し,子供の従うべきクリスチャンの手本を示すことにもっぱら心を配る親は,そうした努力が,神に喜ばれる犠牲であることを知るでしょう。

      25 エホバにささげる犠牲に関し,わたしたちはどうして喜ぶことができますか。

      25 エホバの最も喜ばれる犠牲をささげ得る時代にいるわたしたちは恵まれています。そうした犠牲が,形式的かつ分派的な仕方によってではなく,啓発を受けた知性に富むクリスチャンのささげる賛美という形で供えられるのはうれしいことです。神が何を喜ばれるかは確かに明らかにされました。神に喜ばれる犠牲について知り,かつそのような犠牲をささげるのはなんという特権でしょう!

  • あなたは他の人の行ないにつまずきましたか
    ものみの塔 1969 | 10月15日
    • あなたは他の人の行ないにつまずきましたか

      その人は何年ものあいだ熱心なクリスチャン奉仕者でした。彼は自分の子供をエホバの懲らしめと権威ある助言に従って育てることにも努力していました。ところがある日,彼は仲間のクリスチャンとの交わりをやめ,ものみの塔協会にその理由を伝えました。彼は何につまずいたのですか。会衆内のある者に侮辱されたと感じたのです。―エペソ 6:4,新。

      また,ある大きな会衆の補佐のしもべのひとりは,エホバのわざに対する関心すべてを突然に失い,エホバの民とのかかわりを全く断ちました。彼は自分の会衆の監督であった父親の行動につまずきました。彼の父親は姦淫の罪で排斥されたのです。

      つまずいてエホバのわざに対する関心を全く失った人々の中には,ある年配の夫婦もいます。その夫婦は何につまずきましたか。商取引きをしている仲間のクリスチャンの行為を“ずるい”と考えたためです。

      また,若いクリスチャン婦人で,一度はエホバに献身した生活を始めながら,のちに浸礼をためらった人がいます。彼女がつまずきかけたのはなぜですか。彼女の会衆内のあるしもべの無思慮な行為のためでした。

      これと同様の経験はほかにもあげられるでしょう。しかし,そこに共通に含まれているのはなんですか。他の人の愚かなあるいは誤った行為を理由にして永遠の命の希望からそれるというまちがいです。

      確かに,わたしたちすべてには感情があります。だれかがわたしたちを悪くあしらい,あるいは期待にそむくようなことをするとき,わたしたちが不快に感ずるのは人情として自然です。それは,つま先を何かにぶつけ,あるいは金づちで指先をたたいた時に痛く感ずるのと変わりません。しかし,自分の

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