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  • 神に正される人は幸いです
    ものみの塔 1981 | 11月1日
    • 神に正される人は幸いです

      「ヤハよ,あなたが正してくださる人,あなたがご自分の律法から教えてくださる強健な人は幸いです」― 詩 94:12,新。

      1,2 わたしたちは神から正されることについてどう感ずるべきですか。

      あなたがこの間,言葉や行ないにおいて神の義の道や規準に達しなかったのはいつのことでしたか。恐らくそれほど遠い昔のことを振り返る必要はないでしょう。ことによるとそれはわずか数時間ないし数日前のことかもしれません。わたしたちすべては罪を犯し,神の栄光を正しく反映できないからです。―列王上 8:46。ヨハネ第一 1:8-10。

      2 幸いなことに,エホバは愛のうちにわたしたちを正したいと願っておられ,その力を備えておられます。「諸国民を正す方は,戒めることができないだろうか。人間に知識を授けるその方が。ヤハよ,あなたが正してくださる……強健な人は幸いです」。エホバに『正していただく』なら,わたしたちは幸福になります。エホバと調和することになるからです。―詩 94:10,12,新。

      3 どんな問題について考察するのは適切なことですか。

      3 クリスチャンは,「エホバは自分の愛する者を懲らしめる」という聖書の保証の言葉を信頼することができます。(ヘブライ 12:6)ですからわたしたちは,戒め,悔い改め,排斥などに関して,聖書に基づいた考察を述べることをうれしく思います。この一連の記事のうちの二つは「ものみの塔」誌のこの号に収められており,残りの三つの記事は次号に掲載されます。これら五つの記事によって,すべての人々は関係している聖書的な原則をはっきりと理解し,「さらに調整を加えられ,慰めを受け,同じ考えを持ち,平和に生活してゆ(く)」上での助けを得られるはずです。―コリント第二 13:11。

      4,5 エホバ神はどのようにわたしたちに矯正をお与えになりますか。

      4 それが矯正であると気付かないほど優しく親切な方法で,神がわたしたちを正されることも少なくありません。神のみ言葉である聖書に収められている事柄を読んで,望ましくない道から離れるようになったり,自分の考え方を矯正したりする場合があります。一方,神からの矯正がもっとはっきり与えられ,幾分痛みを伴う場合もあるでしょう。しかし神は,わたしたちにとって最善のものとなる,矯正の度合や矯正法をご存じです。(エレミヤ 30:11)神は父親がかわいい息子に対して行なうように,愛の気持ちから懲らしめを与えてくださるのですから,その矯正を進んで受け入れるのは本当に良いことです。それに,エホバ神が,限られた控え目な仕方で矯正を与えてくださるなら,それを受け入れる方が滅ぼされてしまうほどの罰を受けるよりもはるかに賢明です。―エレミヤ 10:24。ヘブライ 12:5。

      5 時々神は,人間を通して矯正をお与えになります。神はイスラエル国民に預言者や裁き人を遣わされましたが,賢明な矯正を個人的にお与えになることもできます。ヨブの偽りの「慰め手」の一人は,ヨブが「多くの者を正した」ことを認めなければなりませんでした。(ヨブ 4:3; 16:2,新)敬神の専念の面で傑出していた人物,ヨブから賢明な矯正を受けるのは,大きな祝福だったに違いありません。しかしわたしたちは次のように自問できます。『わたしはこの種の有益な矯正,つまり人間から与えられるとはいえ,神の完全な知恵に基づく矯正に進んで応じるだろうか』。

      愛のうちに互いに正す

      6 わたしたちは兄弟からの矯正を受けることがありますが,それはどんな根拠に基づいていますか。

      6 イエスは,わたしたちが愛ある矯正を受けたり与えたりすることを予期すべき根拠を示されました。イエスは,「あなたの兄弟が悪行を犯すなら,その人を正しなさい。もし彼が悔い改めるなら,許しなさい」と述べられました。(ルカ 17:3,新アメリカ聖書)これは重大な個人的な罪が犯された場合に当てはまる言葉ですが,その原則は数多くの状況に当てはまります。また使徒パウロも,「主の僕」は他の人を「忍耐強く,また親切に正す」べきであると書いています。―テモテ第二 2:24,25,新アメリカ聖書。

      7 ゆゆしい罪が犯された場合にはどんなことが起きなければなりませんか。

      7 会衆内の牧者たち,つまり任命された監督たちは,クリスチャン一人一人と群れ全体を守ることに関心を抱いています。(ヘブライ 13:17。ペテロ第一 5:2,3)ですから,ゆゆしい罪に陥る人がいれば,問題は監督たちの注意を引くものとなるはずです。罪を犯した人自身が「会衆の年長者たちを自分のところに呼(ぶ)」べきです。あるいは,他のクリスチャンが重大な罪について知ることになったなら,その人は悪行者に対する気遣いから,また会衆の清さのために長老たちの注意を喚起すべきです。(レビ 5:1)そうすればこれらの長老たちは,誤りに陥ってしまった人を助け,その人を立ち返らせ,『その人の魂を死から救う』ことができるかもしれません。―ヤコブ 5:14,16,19,20。

      8 わたしたちは,兄弟たちのささいな誤りをどう見るべきですか。

      8 それほど重大ではない失敗や誤りも幾つかあり,円熟したクリスチャンはそうした失敗や誤りについて聖書に基づいた矯正や助けを与える立場にいると言えるかもしれません。神はわたしたちに,辛抱強くあり,互いに忍び合うように勧めておられますから,当然,他の人のささいな過失に対して過度に批判的にならないように注意すべきです。(コロサイ 3:12,13)わたしたちは,「自分の益をはかって自分の事だけに目をとめず,人の益をはかって他の人の事にも目をとめ」,「へりくだった思い」を持たなければなりません。(フィリピ 2:3,4)「違犯を見過ごすのは[わたしたち]の美しさである」,と神は励ましておられます。―箴 19:11,新。

      9,10 ある兄弟が誤った道を歩んでいるように見える場合,どんなことが行なえるでしょうか。

      9 それでも,あるクリスチャンの仲間が誤った道を歩んでいたり,悪い傾向のゆえに危険な方向に進んだりしているのを見る場合があるかもしれません。例えば,ある兄弟と親しい交わりを持った時に,その兄弟の深酒をする傾向に気が付くかもしれません。その兄弟は飲んだくれではないようですが,明らかに『大酒にふけって』います。(テモテ第一 3:8)したがって,何らかの有益な矯正を与えることができると考えられます。しかしだれがそれを行ないますか。

      10 パウロはガラテアのクリスチャンたちに次のように書きました。「たとえ人がそれと知らずに何か誤った歩みをする場合でも,霊的に資格のあるあなたがたは,柔和な霊をもってそのような人に再調整を施すことに努め(なさい)」。(ガラテア 6:1)霊的に資格のあるクリスチャンは様々な方法で,親切に,また巧みに矯正を与えることでしょう。いかにも助言をしているという感じを全く与えずに,一般的な会話の中で何かを述べることができるでしょう。(箴 15:23)あるいは,個人的に訓戒の言葉を述べることができるかもしれません。とはいえ,重要なこととして,その努力は,批判的な精神を動機としたものではなく,愛に基づく関心から出たものでなければならないのです。―コリント第一 13:4,5。

      11 フィリピの兄弟姉妹たちは,同地の人が抱えていた問題についてどのように援助を与えることができましたか。

      11 クリスチャンの兄弟姉妹たちが助けを与えることのできる別の状況もあります。パウロはフィリピでの問題について次のように書きました。

      「ユウオデアに勧め,またスントケに勧めます。主にあって同じ思いでいてください。そうです,真にくびきを同じくするあなたにもお願いします。これらの婦人を今後とも援助してください。彼女たちは,……良いたよりのためにわたしと相並んで奮闘したので(す)」。(フィリピ 4:2,3)

      油そそがれたこれら二人のクリスチャンの婦人の間には何かの問題,あるいはかなりの不和が存在していたようです。この使徒は,フィリピの人々に,この不和の問題についてどちらかの味方をするようには決して勧めませんでした。それは会衆を二分し,分派やねたみや闘争を生じさせるものとなったでしょう。(コリント第一 1:10-13; 3:2-9)それは避けなければならない重大な危険です。それでも兄弟姉妹たちは,この婦人たちの不平の種や見解をせん索することをせず,フィリピの『真にくびきを同じくする人々』のようにクリスチャンの一致に向けて見方を正すための励ましを与え,愛のうちに許し合い,共に働くよう勧めることができました。(マタイ 5:23-25。エフェソス 4:1-6,31,32。テトス 2:3-5)仲間の崇拝者から,良い動機に基づくこうした矯正が与えられるなら,それを親切の表われと見なければなりません。―詩 141:5。

      き然とした態度で行動する

      12,13 より重大な種類のどんな誤りが会衆内に存在することがありますか。

      12 時折,神の指示とは調和しない道を追い求め,長老たちからの助けがあってもそれを改めようとしないクリスチャンがいるかもしれません。それは,他の人と性格が合わないというだけの人の場合とは違います。また,その人がまだクリスチャンとしての円熟に達していないので様々な点で引き続き成長する必要があるというだけの問題でもありません。パウロは,忍耐と愛を示しつつ,進歩するのを見たいという願いを抱いて援助しなければならない未熟なクリスチャンがいることを認めていました。(ローマ 14:1; 15:1。コリント第一 13:11。フィリピ 3:15,16)しかし,そうした場合は別にして,重大な罪とならないまでも,明らかに神の諭しとは相入れない行き方を追い求める人がいるかもしれません。

      13 時たまこのようなクリスチャンたちが見られるとしても衝撃を受けるには当たりません。聖書にはこう述べられています。「さて,大きな家には,金や銀の器だけでなく,木や土の器もあり,あるものは誉れある目的のため,あるものは誉れのない目的のために用いられます」。(テモテ第二 2:20,21)会衆は,行状や影響力が不健全で,不名誉な器に似た人が幾人かいる家になぞらえられています。テモテや他の忠実なクリスチャンたちはこのような不名誉な器から「離れている」ように警告されました。―ローマ 16:17と比較してください。

      14,15 テサロニケ会衆でどんな問題が生じましたか。そうした問題にクリスチャンはどんな反応を示せますか。

      14 パウロの言葉に関するこうした理解と適用方法を裏付けるものとして,古代のテサロニケにこうした種類の問題があったことにわたしたちは気付きます。見たところ健康で有能な幾人かの人々が働こうとしないというので,会衆全体が助言を受けました。これら少数の人々は怠惰に関する神の諭しをしり目に,他の人に頼って生活しようとしていました。ですからパウロはこう書きました。「さて,兄弟たち,わたしたちは,主イエス・キリストの名においてあなたがたに命じます。あなたがたがわたしたちから受けた伝統にしたがわないで無秩序な歩み方をするすべての兄弟から離れなさい」― テサロニケ第二 3:6。箴 20:4; 24:30。伝道 5:12,18; 10:18。

      15 確かに,会衆に対する長老たちの聖書的な諭しを含め,『単なる言葉によって行ないを矯正するわけではない』人がいるかもしれません。そしてその人は神の原則に反する道をかたくなに歩み続けるかもしれません。そうした場合クリスチャンは,パウロの助言通りその人から「離れる」こともやむを得ないと感ずるでしょう。―箴 10:17; 29:19,新。

      『その人に特に注意していなさい』

      16 パウロはテサロニケの人々にどんな諭しを与えましたか。

      16 怠惰で無秩序な人に関する諭しを続けて,パウロはテサロニケの人々に対しこう書きました。「この手紙によるわたしたちのことばに従順でない人がいれば,その人に特に注意しており,また交わるのをやめなさい。その人が恥じるようになるためです。でも,その人を敵と考えてはならず,兄弟として訓戒しつづけなさい」。(テサロニケ第二 3:14,15)ですからクリスチャンは神の原則をどこまでも軽んずる人に『特に注意する』ことができます。

      17 (イ)その諭しを適用する際に慎重さが必要なのはなぜですか。(ロ)この点に関しイエスは何と言われましたか。

      17 しかし,神からのこの諭しを適用する際には慎重の上にも慎重を期さなければなりません。不完全さゆえに,わたしたちには個人的な好き嫌いを基に,服装や身繕いなどに関して人を裁いてしまう傾向があるのです。例えばある姉妹の服装が慎みに欠けていたり,みだらであったり,兄弟たち全体に衝撃を与えたりするものでないのであれば,その姉妹の趣味や好みが自分とは異なっているに過ぎないということをわたしたちは認めなければなりません。(創世 37:3,4。ヨハネ 19:23。テモテ第一 2:9,10)わたしたちは,個人的な意見や趣味や良心の相違などに関するささいな問題で兄弟姉妹たちを裁く者とされたわけではありません。(ローマ 14:4,10-12)あるいは,たとえだれかが間違っていても,それがごくささいな点であるなら,次のイエスの助言を思い出さなければなりません。

      「自分が裁かれないために,人を裁くのをやめなさい。あなたがたが裁いているその裁きであなたがたは裁かれることになるからです。……では,なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら,自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか」― マタイ 7:1-3。

      18 ある人が明らかに神からの諭しに逆らっている場合,どんな処置を取るべきですか。

      18 とはいえ,神の原則から著しく逸脱している人,つまりはなはだしく怠惰であったり批判的であったりする人,絶えず「自分に関係のないことに手出ししている」「無益なことを語る者」についてはどうでしょうか。(テサロニケ第二 3:11)あるいは,他の人を物質的な面で利用しようと計画するとか,ふさわしくないことがはっきりしている娯楽にふけるとか,その時点では審理問題とならないまでも疑わしい行ないに関係しているとかいう問題であるかもしれません。a 長老たちはその人を助ける努力を払いましたが本人は改めず,会衆内の他の人に影響を与えたり,他の人を脅かす存在となったりする可能性があります。長老たちはその問題を話し合い,長老の一人を指名し,会衆に対してその問題に関する聖書に基づいた率直で毅然とした話をするよう割り当てることがあるかもしれません。長老たちは「無秩序な」者の名前を挙げずに,この方法でそうした無規律な者の「口を封じる」ことができるでしょう。―テトス 1:10-13。

      19 もし問題が改められないなら,会衆内の他の人々はどんな反応を示しますか。

      19 こうした状況が会衆内に存在するとしたら,クリスチャン各自はその人に『特に注意』せざるを得ないでしょう。b パウロは,これにどんな事柄が含まれるかについて説明し,「交わるのをやめなさい。人が恥じるようになるためです」と述べています。(テサロニケ第二 3:14)これは,その『特に注意されている』人との社交的なかかわり合いをなくすという意味でしょう。自分の個人的な決定を発表したり公にしたりすること,また他の人に圧力をかけることは避けるべきです。しかし個人としては,会衆の長老たちから与えられた健全な諭しに従って,『特に注意されている』人との交わりを避けるでしょう。しかし,その人を完全に退けてはなりません。その人は依然としてあなたの兄弟,仲間のクリスチャンであり,キリストはその人のためにも死なれたからです。「憎しみ」の種が成長するに任せるのではなく,その人を「戒め」なければなりません。どのようにでしょうか。自分自身が立派な模範を示すことに加えて,親切に,なおかつ毅然とした態度で,「交わるのをやめなさい」という指示に従うことは,矯正手段の一つです。しかし援助するためにできることはほかにもあります。―レビ 19:17。テトス 2:7,8。

      20 あなたがある無秩序な人に,『特に注意する』としたら,あなたにはどんな責任がありますか。

      20 会衆の集会でも,野外奉仕の時でもあなたの近くにはまだ『特に注意されている』クリスチャンがいます。ですから,その人に『特に注意する』という点に関係した別の責務を果たす機会があることになります。それは「その人を敵と考えてはならず,兄弟として訓戒しつづけなさい」という責務です。(テサロニケ第二 3:14,15)神の諭しのこの面に関して自分の責任を果たさず,『特に注意されている』人を敵として扱うなら,その歩みはその人と同じほど不実なものとなるでしょう。

      21 聖書に基づくこの取決めの目的は何ですか。(民数 35:12。申命 19:11,12)

      21 その『特に注意されている』人が恥じるようになるという希望を持つことができます。あなたがその人との親ぼくのための交わりを避けているのは聖書の導きによるということをその人は悟るかもしれません。この懲らしめは,本人が『垂れ下がった手と弱ったひざをまっすぐにし,……なえたところが脱臼したりすることのないように,むしろそこがいやされるようにする』助けとなることでしょう。今日,神の会衆と交わっている非常に多くの忠節な兄弟たちのことを考えると,クリスチャンが無秩序な兄弟に『特に注意する』ことを余儀なくされる事態はまれにしかないでしょう。しかし万一そうした事態が生ずるなら,引き続き与えられる訓戒が矯正と相まって,「平和な実,すなわち義を生み出す」ことになるのです。―ヘブライ 12:11-13。

      長老たちでなる委員会との会合

      22,23 ゆゆしい罪にかかわる問題はどのように扱われますか。

      22 すでに言及したように(7節),『重大な罪を犯した』人は,「会衆の年長者たち」の注意を必要とします。(ヤコブ 5:14,15)これらの男子は,たぶらかされて大きな罪に陥ってしまった人に神からの矯正を与える良い立場にいます。彼らは,本人が必要としている霊的な助けを与えることができます。―箴 6:23。

      23 普通,3人の長老から成る委員会が重大な悪行の問題を扱うように指名されます。彼らは単なる裁判官や“霊的警察官”として行動するのではありません。彼らは羊の群れの牧者であり,個々の悪行者を扱う際にそのような者であることを証明します。文字通りの羊飼いは,復しゅうの精神や,厳しくて,粗捜しをするような精神態度は示しません。長老たちにも同様のことが言えます。彼らは非難するためではなく,援助するためにそこにいるのです。(ユダ 23)彼らの目ざすところは,もし可能であれば,罪人をその道から引き戻すことです。―ヤコブ 5:19,20。

      24 長老たちは罪を犯した人に対し何を行なおうとしますか。

      24 それでも,大きな罪を扱うに際して,長老たちは『信ずべきことばを堅く守り』,「健全な教えによって説き勧めることも,また,言い逆う者を戒めることもでき」なければなりません。(テトス 1:9)したがって彼らは,過ちを犯した人に対し,その歩み方が間違っていることや,なぜその歩み方を正す必要があるかということを聖書から率直に示すことを差し控えてはならないのです。彼らはその人が悔い改めて,神との平和な関係を取り戻すことを望みます。―ペテロ第一 3:10-12。

      25 さらに,どんな事柄を学ぶ必要がありますか。

      25 しかし,長老たちはどのように悪行者を戒めるべきでしょうか。敬神の悔い改めとは何ですか。それはどのように表われますか。長老たちは重大な罪に関する事件で悔い改めが示された場合,それをどう扱うべきですか。悪行者を会衆全体の前で戒めなければなりませんか。こうした事柄が次の記事の中で考慮されます。

      [脚注]

      a 聖書的に再婚する自由のない人がデートをするという一つの例については,「ものみの塔」誌1980年11月1日号の「読者からの質問」の中で説明されています。

      b ある人に『特に注意する』とは,その人に特別に注目するという意味です。詩篇 37篇37節,フィリピ 3章17節,ヘブライ 13章7節に記されている,好意的に注目することと比べてください。

      [20ページの囲み記事]

      神からの矯正とわたしたちとのかかわり

      神は,聖書や,聖書研究の手引き書を通してわたしたちを正されることがある。

      あるいはクリスチャン,特に長老が愛をもってある過失にわたしたちの注意を向ける。

      もしある人が無秩序な歩み方をやめないなら,長老たちはその歩み方や特徴について会衆の注意を喚起し,会衆に警告を与えなければならないかもしれない。

      そのとき,わたしたちはそうした無秩序な人に対し,個人的に「特に注意」(テサロニケ第二 3:14,15)しなければならない。

      そうする場合に,わたしたちはそうした人々との社交的な交わりを避ける。しかしそうした無秩序な人々を助けたり訓戒したりする責務を果たさなければならない。彼らは依然としてわたしたちのクリスチャン兄弟だからである。

      [17ページの図版]

      クリスチャンの仲間が危険な方向に進んでいるのを見るとき,あなたは親切に助言を与えますか

      [18ページの図版]

      見方を正すための励ましを必要とする人々を「今後とも援助してください」,とパウロは助言しました

  • 神に立ち返らせる悔い改め
    ものみの塔 1981 | 11月1日
    • 神に立ち返らせる悔い改め

      「神の温情があなたを悔い改めに導こうとしている」― ローマ 2:4。

      1,2 罪と神の見解に関し,わたしたちはどんなことを認識しなければなりませんか。

      わたしたちは皆,詩篇作者ダビデの次の言葉に励まされます。

      「エホバは憐れみと慈しみに富み,

      怒ることに遅く,愛ある親切の豊かな方である。

      神はわたしたちの罪に応じてわたしたちを扱われたことはない。

      わたしたちのとがに応じて,当然受けるべきものをわたしたちにもたらされたこともない。

      父がその子らを憐れむように,

      エホバはご自分を恐れる者たちを憐れんでくださった。

      神はわたしたちの造りをよくご存じであり,

      わたしたちが塵であることを覚えておられるからだ」― 詩 103:8,10,13,14,新。

      2 神はわたしたちすべてが罪人であることをご存じですが,それでもわたしたちを助けたいと願っておられ,喜んで許しを与えてくださいます。(詩 32:1,2)しかし,罪に対する神の見方全体を受け入れないとしたら,神に関するわたしたちの概念は正確なものとはなりません。詩篇 103篇はエホバが「[わたしたちの]すべてのとがを許(す)」と保証していますが,わたしたちの責務についても示し,こう述べています。「エホバの愛ある親切は,定めのない時から定めのない時に至るまで,これを恐れる者たちに及ぶ。……その命令を覚えて実行しようとする者たちに及ぶ」― 詩 103:3,17,18,新。

      3 悔い改めが肝要なのはなぜですか。

      3 重大な罪を犯しながら,悔い改めず,父親のような神の憐れみを求めることなく罪を行ない続けるならどうなるでしょうか。出エジプト記 34章6,7節(新)にはエホバに関する記述があります。その憐れみ,怒ることに遅く,とがを進んで許されるということが強調され,そのあとに,「しかし,処罰を免れさせることは決してせず」と付け加えられています。(民数 25:1-5; エゼキエル 33:12,13と比較してください。)ですから,神の憐れみにつけ込んだり,憐れみを受けて当然だと考えたりしてはなりません。では,万一真の崇拝者が罪に陥った場合にはどうすべきですか。

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