-
すべての強烈なエネルギーと強い力の源ものみの塔 1961 | 10月15日
-
-
すべての強烈なエネルギーと強い力の源
「目を高くあげて,だれが,これらのものを創造したかを見よ。……その勢いの大いなるにより,またその力の強きがゆえに,一つも欠けることはない」。―イザヤ 40:26,新口。
1 人間の体力と他の生物の体力をくらべるとき,どういうことが分かりますか。
人間は肉体的にはきわめて弱い生物です。ゴリラ,熊,象,鯨とか他の多くの生物の体力とくらべるとき,人間は力の劣ったものです。『牛の力』という言葉は,昔から知られています。下等の昆虫,くも,ありでも,その体重に比較して非常に重い荷を持ちあげることができます。あるとき,1匹のありはうしろ足でぶら下がりながら,体重より1100倍も重い物体をあごにくわえることができました。体重67キロの人が,それと同様な離れわざをするためには,高い空中に足でぶらさがりながら82トン以上も重いものを口にしっかりくわえねばなりません! ほんとうに人間はそのわずかな肉体の力にほこりを感ずることはできません。
2 人間はその限られた力を補なうために,どんな自然の資源を利用しましたか。
2 人間はこのように力が足りないので,それを補うため古い昔から外部の力を制御して使用してきました。人間は,馬,牛,らくだ,りぎゅう,水牛,犬,象,らま,ろば,その他の駄獣に多く依存してきました。人間は荷物を増してふやすため,数多くの仕方で,てこ,滑車,輪の原則を適用しました。人間は目に見えない風の力,川や滝の力,そしてつかれを知らぬ潮の強烈な力をことごく利用してきました。人間は数多くの型の蒸気発電機,いろいろの種類の内燃エンジンもつくりました。電気も自由に利用しました。そして最近には,太陽から放射されるもの,および原子エネルギーの制御と放射も人類のために使用されるようになりました。
3 (イ)多くの人々はどんなまちがった考えをいだくようになりましたか。(ロ)その結果,大多数の人類は何を信じていますか。
3 しかし,多くの人々は科学的なすばらしい進歩や,技術的な業績のすばらしいことに目がくらまされています。肉体的には弱い者と公称していたこれらの人々のうちのある者は,宇宙における正しい地位を見失い,突如として自分と他の人々を卓越した知性とあたまを持つ偉人と見なします。このようなまちがった考え方は,特に高い教育をうけた階級とか著名な世界の指導者のうちに見られます。その多くの者は,高慢にも威ばり散らし,過度の自尊心にふけっています。彼らはごう慢にも,このジェット力,電子力,原子核破壊の時代における人間の業績を誇り高ぶっています。人間はロケットの計画で大成功したので,次のように想像したりまた大言壮語の預言をしたりします。すなわち人間は外界宇宙の征服者と支配者になる直前の時代におり,また人間は宇宙の「究極の立場」を占めると考えているのです。その結果,大多数の人類はこれらの世界指導者のあたまの力と思考力にまったく信頼して確信をいだき,彼らにたよって指導保護および安全を得るようにとたえず強制されています。
4 人間の業績を誇ることは正当なことですか。
4 しかし,実際のところ人間は自由勝手に自分の業績とか,人間の力による安全に誇れますか。人間はあたまの力を良く使い,手を巧みに使用することにより,簡単な牛車や水車をつくり出しただけでなく,巨大なタービンやつよい力を持つ複雑な核機械をもつくり出しました。しかし,それだからといって死ぬべき人間をあたかも神々のようにたたえたり,崇拝したりする理由にはなりません。まったくのところ,人間のもっとも複雑な機械も,力学の基礎的な法則と原則に立脚しているのです。人間はそのような法則と原則のひとつをも創造したわけでもなく,つくったわけでもありません。科学者とか学問のある人は,人間がわりあい最近にこの地球上に存在し始めたときよりずっと以前から存在していたエネルギーの原則と力を発見して適用したにすぎないのです。
5 それで,私たちは生物の体力およびあたまの力をどのように見なすべきですか。
5 ある人々は,突撃して行く戦車馬の高いひずめの音や荒々しくはく鼻息を聞いて,それこそ強烈な強さと力を表わしており,背筋に寒気を感じさせるものと考えています。しかし,古い昔の詩篇記者は,そのような偽りの力に信頼してはいけないと警告しました。「馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない」。(詩 33:17,新ロ)同様に考えると,馬よりもずっと弱い人間に信頼と確信を置くことは愚かであり,馬鹿らしいことです。運動家が隆々とした筋肉を示し,政治独裁者が大言を吐いて肺の力の大きいことを示しても,それは欺瞞のものです。人間が「あたまの良い」わざをして,仲間のなかで支配者的な立場を占めるほど自分を高めても,そのような地上の人間の力に信頼と希望を置くことは,無益なものであるとずっと以前に述べられていました。「人の助けはむなしいのです」。(詩 60:11; 146:3,新ロ)全くのところ,人間も馬も真実の力の源ではありません。
6 どんな質問をすることにより,強烈なエネルギーは人間から始まらないということが明白になりますか。
6 ちょっと考えてください! 馬や運動家にその活力と力を与えたものはだれでしたか。河が流れたり,水が落ちるための重力をはじめてつくったのはだれですか。無限の期間にわたって潮を動かし始めたのはだれでしたか。太陽という巨大な炉をつくったのはだれでしたか。太陽の内部の温度は,華氏4000万度以上と見つもられています。あらゆる物体のうちで,人間の目に見えぬ分子,最少原子内に宿されている莫大なエネルギーは,だれによってつくり出されましたか。人間のような朽ち果てて死んでしまう者でないことはたしかです。たとえ国際的なノーベル賞受賞者のようにたくさんの大学の感状と称号を受けて最上級にあがめられ,たたえられる人間でも,そのようなものをつくり得ません。
真のみなもとを識別する
7 あらゆる力の真の源は,どのように識別することができますか。
7 考えさせるこれらの質問に対する正しい答えは,ただひとつだけです。全能の創造者であるエホバは,いっさいの強烈なエネルギーと強い力の唯一のまことの根本的な源です。これがそうであることは,どうして分かりますか。また,このことの真実なることをどのように証明することができますか。聖書は,次のように述べて,その仕方を告げています,「〔エホバの〕見えない性質,すなわち,神の永遠の力と神性とは,天地創造このかた,被造物において知られていて,明らかに認められるからである」。(ロマ 1:20,新口)それで私たちのまわりにある目に見える物体,「被造物」を研究することにより,偉大なるエホバ神の見えぬ永遠の力をわずかばかり理解し認識することができます。
8 『つくられているもの』の「建築材料」は何ですか。
8 物体とは,空間を占めて重量を持つものと定義されます。私たちの生活している物質の家,私たちの食べる食物,私たちの着る衣服,私たちがその上を歩く地球などは,みな『被造物』の例です。私たちのまわりにある幾十万というちがった物体を分析すると,それらはみな百くらいの基礎的な元素で構成される分子構造であることが分かります。この元素を持つ分子は,原子で構成されています。原子と呼ばれるゆえんは,昔のギリシャ人が原子は人間の目に見えぬ最少の物と考えたからです。
9 原子は何で構成されていますか。
9 しかし,原子に重量を与え,空間を占めさせるものは何ですか。原子のなかには,荷電された陽子と電子と呼ばれるものがあります。また,中性子として知られる他の粒子もあります。1原子内の中核にある陽子はみな陽電気を帯びている故「核セメント」と呼ばれる説明不能の不思議な力が陽子をむすびつけて保たないなら,陽子はたがいに引き合わずむしろ反発するでしょう。科学者はこれらの原子粒子をむすびつける力の源を説明することができません。それでも,彼らはこの力を測定することができるのです。そして特定な状態下では,その力を放出することができます。第二次世界大戦中に広島や長崎に落とされた原子爆弾が爆発したときにその現象が生じました。びっくりするかも知れませんが,実際にはそのときごくわずかな原子だけが分裂したのです。
10 人知では,物質宇宙をむすびつけている巨大なエネルギーと力を理解することは不可能ですが,その理由は何ですか。
10 ちょっとのあいだ次の数字を考えてごらんなさい。あらゆる物体の原子を結びつける強烈な力とエネルギーについて良く知ることができるでしょう。1ポンドの物体内の原子をむすびつけるすべてのエネルギーが放出されるなら,それは,莫大なポンド数に匹敵する力を持ちます,そのような数字を書くためには,1の数字の後に零を36つけねばなりません。わずか1ポンドの物体をむすびつけるのにこれほどの力が必要であるなら,重量が1000の7乗トンもあるこの地球の原子全部を結びつけるために必要な莫大なエネルギーと力を考えてごらんなさい。また,太陽をむすびつけている力とエネルギーを想像してごらんなさい。太陽は地球を130万個合わせた容積に等しいものです。しかし,銀河系あるいは「天の河」の中のある星は,太陽よりもずっと大きいものです。たとえばアンタレスという星の直径は,太陽の直径より390倍も大きいのです。その原子全部には,なんと大きな力がつつまれているのでしょう。望遠鏡でのぞいて見ると,「天の河」のような銀河は幾十億もあります。それぞれの銀河は,幾十億という数の星で構成されているのです。このような物体全部をむすびつける力の規模を認識することができますか。とても不可能でしょう! この強烈な力の微少な部分を理解しようとするだけで,弱い人間はあ然としてしまうでしょう。
11 エホバは預言者イザヤを通して,彼だけがあらゆる強烈なエネルギーと強い力の源であることを,どのように強調していますか。
11 それでは,そのような物質宇宙の力を創造して制御された方については,何と言えますか。たしかに,彼の力は,創造されたこれらのものよりもはるかに大きいのです。「なんぢら眼をあげて高をみよ,たれか此らのものを創造せしやをおもへ(地上の原子を破壊する科学者ですか。絶対にそうではありません)主は数をしらべてその万象をひきいだし,おのおのの名をよび給ふ〔天文学者たちは星の数をかぞえることもできず,まして星の全部に名前をつけることもできません〕主〔エホバ〕のいきほひ大なり,その力のつよきが故に一も欠くることなし」(イザヤ 40:26)まったくエホバの強烈な勢と強い力によってエホバは天体宇宙の全部をひとつの大きな調和のとれた一致の中に創造し,かたちづくりました。またエホバは御自分の至上の御心と栄光に輝く目的をはたすためそれを制御して使用されるのです。全能なることを示すなんとすばらしい仕方なのでしょう!
12 人間の力と考える能力の小さなことは,何によってはっきり分かりますか。
12 すると,いろいろのものと比較してみるとき,力があると誇り高ぶっている人間は,いったい何であると分かりますか。まったく無力のものです。人間は幼児のようです。幼児は精巧な時計をこわすことができますが,時計の部品を集めて時計を組立てることができません。原子を粉砕する科学者たちは,ちょうどその幼児のようです。科学者たちは,二,三の原子を爆発させることができます。しかし,ひとつの簡単な原子をつくるのに必要な力を集めて,組立てることは,科学者にはできません。彼らにはそのことをするあたまの力と能力および身体的な力がすこしもありません。
全能者はただひとり
13 理性を持つ人は,自分自身を正しく認識することにより,全宇宙内でだれがいちばん力のつよい者とたたえますか。
13 それで,十分の認識を持つ真面目な人々は,人間の偉大さと力を誇るというようなことをせず,むしろ自分自身と他の人間を正しく評価して,きわめて謙遜な態度をとります。彼らはこの大きな宇宙における人間の微少さと力を正しく評価しているのです。彼らは他ならぬエホバ神に,その栄光を進んで捧げています。エホバ神こそ天と地の創造者であられ,全宇宙内の唯一の全能者であられます。
14 ずっと古い昔の敬虔な人々は,だれに,そしてどのように全能を帰しましたか。
14 そのような理性を持つ人々が,ずっと昔にも生存していました。これらの人々は原子の陽子をむすびつける力などをすこしも知っていませんでしたが,それでもエホバの偉大さと力を認めて,エホバをあがめるだけの知性を持っていました。たとえば,ダビデ王は死ぬ直前にイスラエルの会衆に記念すべき告別の話をして,その中で,次のように述べました,「ヱホバよ権勢と能力と栄光と光輝と威光とは汝に属す凡て天にある者地にあるものはみな汝に属す……汝は万有を主宰りたまふ,汝の手には権勢と能力あり汝の手はよくすべてをして大ならしめ又強くならしむるなり」(歴代志上 29:2,12)イスラエルの祭司とレビ人たちは,バビロンのとらわれから戻り,エルサレムの城壁がネヘミヤの時代に再建された後に,エホバだけが絶対全能者であられることを厳粛に発表して,次のように述べました,「汝は唯なんぢのみヱホバにまします汝は天と諸天の天およびその万象地とその上の一切の物ならびに海とその中の一切の物を造り之をことごとく保存せたまふなり天軍なんぢを拝す,汝ヱホバ神にまします……汝はまことに義し……されば我らの神大いにして力強くかつ,畏るべくして……」。―ネヘミヤ 9:6,7,32。
15 預言者エレミヤは,力,知識および知恵においてエホバが卓越していることを,どのように示していますか。
15 同様に預言者エレミヤは,敬虔な祈りの中で次のように述べました,「あゝ,主エホバよ汝はその大なる能力と伸たる腕をもて天と地をつくりたまへり汝には為す能はざるところなし」まったく,私たちのように下等の人間が,そのことを十分に認識して理解するとはまったく畏怖にみちるもの,恐ろしいもの,すばらしすぎるものです。しかし,偉大なる全能の創造者エホバにとってはそうではありません。―エレミヤ 32:17。
16 今日どんな二つの級は,エホバの全能なることをたたえていますか。
16 今日,サタンの宣伝はいっぱいであって,すべての被造物を創造者から離れさせようとしています。それでも,敬虔な恐れと信仰を持っていた昔の人のような人々が大ぜい生活しています。彼らはあらゆる強烈なエネルギーと強い力のただひとりの真の源 ― その御名は,エホバです ― に一切の賛美と誉をささげるだけの良識を十分に持っています。このような良識を持つ人々のうちには,現代の霊的なイスラエル人が幾千人かいます。彼らは西暦1919年にサタンのバビロン的な制度のとらわれから戻ってきたものたちで,油注がれたキリストの体の成員の残れる者です。そして,黙示録 11章16,17節に述べられている「二十四人の長老の一部」として,次の言葉を語りつづけます,「今います方,昔いました方,エホバ神,全能者よ,あなたが大いなる権力をとって王として治めはじめられたことを感謝します」。それは,西暦1914年以後のことです。エホバの全能者なることを賛美するハレルヤ合唱には,90万人以上の他の人々が参加しています。それは,90万人以上の他の人々の声です。彼らはほんとうに「大いなる群衆」であって,全世界のあらゆる場所において次の言葉をますます効果的に語っています,「あなた方はヤハをたたえよ。私たちの神,全能者エホバは王として支配し始められた」。―黙示 19:6,新世。
17 このような重大なニュースは,どんな大切な質問を生み出しますか。
17 全能者であられると共に,あらゆる強烈なエネルギーと強い力の源であられるエホバが宇宙の主権支配者として大きな力を取られていまそれを行使しているという重大なニュースを聞くと,考え深い人々の心に次のような大切な質問が生じます。すなわちこのもっとも聖なる源から力を受けることは可能だろうか,という質問です。すでに考慮したごとく,人間が認めても認めなくても,エホバの創造されたものの力とエネルギーを長いあいだ,数多くの仕方で使用してきました。しかし,弱い人間がこの無限の源から力を受けて,限られた肉の体と心の力を補う直接的な方法がありますか。
18 この質問の答えとして全能者御自身は何と答えていますか。
18 あります。エホバをたたえましょう。耳を傾けて聞いてごらんなさい! 全能者は,預言者イザヤの口を通して次のように語られています,「汝しらざるか聞かざるか,ヱホバはとこしへの神地のはての創造者にして倦み給ふことなく,また疲れ給ふことなく,その聡きこと測りがたし」。さらに,もしあなたがまだ聞いていないなら,永遠につかれを感じないこの御方は,こうも言われています。すなわち,彼は弱い者,つかれた者をささえ,さかんな力を十分に与えるということです。「疲れたるものには力をあたへ勢力なきものには強きをまし加へたまふ,年少きものもつかれてうみ壮んなるものも衰へおとろふ,然はあれどヱホバをまち望むものは新なる力をえん,また鷲のごとく翼をはりてのぼらん,走れどもつかれず歩めども倦まざるべし」。―イザヤ 40:28-31。
御霊により強い力を持つ
19 エホバは,彼に希望をかけている者たちに支持の力を与えるために,どんな手段を用いますが。
19 しかし,どうしてそのようなことが可能ですか。エホバはどんな方法で強烈なエネルギーと強い力を人間に与えますか。すべての人がそのような神の力を受けることはできません。それは明白です。神の存在を否定する科学者やこの世の指導者たちは,自分の力や他の人の力に信頼しているので,この天的なエネルギーの源から力を受けることは決して望めないでしょう。なぜなら,「ヱホバをまち望むもの」だけが「新なる力をえん」と聖書に記されているからです。エペソに住む人々でエホバに信頼と確信,そして希望を置いている人々にあてて,使徒パウロは次のように書きました,「わたしはひざをかがめて……父に祈る。どうか父が,その栄光の富にしたがい,御霊により,力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」。それで,人を強くさせるこの力は,エホバの御霊によって与えられます。それは聖なる源から来るので,「聖霊」と正しく呼ばれます。―エペソ 3:14-16,新口。
20 (イ)私たちの聖書の中で「霊」と訳されているヘブル語とギリシャ語の基礎的な意味は何ですか。(ロ)風は聖霊を適切に表わし示すものですが,それはどんな二つの特質をもっていますか。
20 神の聖霊について聖書の述べることを良く理解するため,ヘブル語ルアフとギリシャ語プニューマの言葉の意味を知ることは役立ちます。それらの言葉は「御霊」と訳されているのです。両方の言葉とも,「息」,「疾風」あるいは「風」という基礎的な意味があります。それは動きのない,停滞している空気ではなく,力づよい動作をしている空気です。聖書の筆記者たちは,これらの言葉をいくつかのちがった意味で使用していますがa,すべての場合において疾風の基礎的な性質,すなわち人間の目に見えないことと力が表わされています。私たちは風を見ることができません。しかし,風の働きはたしかに見えます。舟の帆をふくらませる風を見ることができません。しかし,舟が水上を走り,強い力が働いていることは見えます。それで,目に見えぬ力による目に見える結果,感知できる結果を認めることができます。
21,22 (イ)エホバの聖霊は,何であると定義されますか(ロ)宇宙の見えざる力とエホバの見えざる活動力をどのように区別しますか。
21 エホバの聖霊は,彼の目に見えぬ活動力です。それは彼の中にある力でなく,彼から外に出されたときのエネルギーで,彼の御心と目的を達成するものです。それは目に見えず,しかも強力なので,御霊と正しく言われます。
22 すると,このことから次のように結論すべきですか。すなわち,力とかエネルギーが人間の目に見えずにはっきり示されることは,エホバの聖霊のあらわれと言えるでしょうか。たとえば,地球の引力とか,原子爆弾が投下されるとき核力が猛烈に出されるときに言えますか。そうではありません。エホバはこの世界を創造されたとき,彼の目に見えぬ活動力をたしかに使用されました。また,無限の知恵と知識をも使用して,この宇宙の大いなる原子の力をしっかりむすびつけられました。(創世 1:2)しかし,そのような自然に示される力を神の聖霊と呼ぶことは正しいことではありません。エホバの目に見えぬ活動力は,盲目な力,奔放な力,制御できぬ力ではありません。それは,残酷にも生命の破壊をはかる悪人どもが面白半分にもてあそぶことのできる力ではありません。エホバは,いつの時でも聖霊を制御して指示しています。それは地球の引力のように固定された力ではありません。なぜなら神の御霊は,神の聖なる御こころと御旨に従い,与えられたり,ひっこめられたり,増したり減少したりするからです。それで,神の御霊は,彼の目に見えぬ活動力と定義することができます。それはほんとうに射出された力です。エホバは御自分の御心を達成するためにこの力を個人的に使用し,彼に崇拝と奉仕をささげる人々にこの力を豊かに与えます。
23 強烈な力のすばらしい源にたよれる特権を持つ人々は,どんな応答をしますか。
23 ここにすばらし力の源があります。エホバを真実に崇拝する者たち,そして限定された身体の力とあたまの力を意識している者たちは,力の不足を心配せずにこの方に自由に近づくことができます。このような幸運な人々については,次のように書かれています,「その力なんぢ〔エホバ〕に……ある者は幸福なり……かれらは力より力にすすみ……」(詩 84:5,7)力を与えられたこれらの幸福な民は,エホバの創造の活動のすばらしい驚異を見て,次のように叫びます,「ヱホバよなんぢそのみわざをもて我をたのしませ給へり我なんぢの御手のわざをよろこびほこらん ヱホバよ汝のみわざは大なるかな汝のもろもろの思念はいとふかし無知者はしることなく愚なるものは之をさとらず」。―詩 92:4-6。
24 全能のエホバを嘲笑してあざける者たちの将来は何ですか。
24 しれ者と愚かな者は,理解できないだけでなく,あらゆる力の真実の源を馬鹿にし嘲笑しつづけるでしょう。彼らにはそうさせなさい。神を認めぬ科学者たちや,この古い世の組織制度の技術者たちをして,燃料や力の新しい資源を求めつづけさせなさい。高慢で威張り高ぶる探険家や冒険家をして,外界宇宙を探険させつづけなさい。東のブロックのものであろうと,西のブロックのものであろうと,あるいは中立のブロックのものであろうと,これら愚かな者全部が,その石のごとき心をかたくして,すべての強烈なエネルギーと強いエネルギーの唯一の真の源に敵対するなら,そうさせなさい。エホバは彼らにむかって次のように言われています。「汝ら何ぞ我らは勇士なり強き軍人なりといふや」(エレミヤ 48:14)エホバはどんな戦争について語っていますか。それは急速に近づいているハルマゲドンの戦争です。すなわち,「全能の神の大なる日の戦闘」で,それはいま非常に近づいているのです。そのときエホバは次の祈りをささげる義人たちの祈りに答えるでしょう。「主われらの楯よ,大能をもてかれらを散らし,また卑したまへ 彼らがくちびるの言はその口のつみなり,かれらは詛と虚偽とをいひいづるによりてそのたかぶりのためにとらへられしめたまへ,いきどほりをもてかれらをほろぼしたまへ,再びながらうることなきまでに彼等をほろぼしたまへ,ヤコブのなかに神いましてすべをさめたまふことを彼らに知らしめて地の極にまでおよぼしたまへ」― 黙示 16:14,16。詩 59:11-13。
-
-
エホバの御霊により活動的になりなさいものみの塔 1961 | 10月15日
-
-
エホバの御霊により活動的になりなさい
「神はちからをわれに帯ばしめ」。「エホバはわが力」。―詩 19:32; 28:7
1 全人類の中でも物事を深く考える人々は,何を学ぶことに興味を持つべきですか。そして,なぜ?
幾世紀ものあいだ,人間は戦争にうみつかれたこの世界に永遠の平和と幸福をもたらそうと努力しましたが,結局死んで行くのみでした。ひとつの例外をのぞけば,この強く待ちのぞんだ目標を達成できた制度はひとつもありません。その例外とは,エホバの証者として知られている群れです。一致した考えと活動も強く望まれましたが,それはエホバの証者以外の人々には達成できませんでした。エホバの証者は幸福な生活をして,平和と一致の中にいっしょに働いてきました。そして,人種的,国家的,社会的な背景あるいは以前の宗教にかかわりなく,エホバの証者は互いに対する真実の愛を示します。それで,このひとつの群れがどのようにどんな力によってこれらの最ものぞましい状態にはいることができたかを学ぶことは,全人類の中で物事を考える人々にとって,非常に興味ぶかいものでしょう。
2 この世の指導者たちは,エホバの証者を観察するときに何を見のがしますか。
2 宗教指導者たちや他の者たちは,これらの事柄やエホバの証者の急速な進歩を見ても,しばしばどんな力によってこのことがなされているかを認めることができません。たとえば,ノートルダム大学の一牧師ジョン・エイ・オブライェンは次のように語りました,「254の他の教会では平均74パーセントの増加であったが証者たちは過去25年間に驚くべき増加 ― 2300パーセントをも示したのである。……もしわれわれカトリック信徒がそれだけの増加率を示したなら,アメリカで教会に行かない幾億という人々をキリスト教に改宗させただけでなく,全世界も改宗させることができたであろう」。―「拡大」1959年1月。「われらの日曜訪問者」1956年12月16日。
3 神の民は,その大成功を何に帰しますか。
3 エホバの証者(その中のだれにでもたずねてごらんなさい)は,まったく謙遜な心で次のことをすぐ告白するでしょう。すなわち,彼ら自身の思考能力や力だけではこのような良い名声を得ることができなかったということです。全能者なるエホバに依り頼んで必要な力を求め,あらゆる強烈なエネルギーと強い力のこの真の源から力を受けることによって,前述の権威者が「現代歴史に類がない」と言えたことを行ない得ます。しかし,これら謙遜な証者たちは,どのようにしてその神の援助,力および活力を受けますか。
4,5 (イ)人が良い心を持つことは,なぜ大切ですか。(ロ)聖書の研究は,エホバから力を受けることとどのように関係していますか。
4 エホバの力を受けるために,まず最初,特定な条件にかなわねばなりません。それは自動的に来るのではないのです。最初に良い心を持つことが必要です。心の動機が利己的であって,神の御霊を利用して自分の儲けを図ったりあるいは御霊による人気を得ようとするなら,神の御霊を持つことは決してありません。(使行 8:17-22)もし人が悪行を誇るなら,あるいは悪行をよろこぶなら,その人はこの最も聖なる源から御霊をいただけると期待することができません。人は謙遜で従順でなければならないのです。
5 心の状態がそのように良くなると,神の御言葉なる聖書に示されるエホバの御心と目的の正確な知識を植えるための正しい土を持つことになります。(ルカ 8:5-8,15)モーセとイエスは,生きるのにパンだけでは不十分であると言明しました。神からの活力と力を受けるめたには,神の言葉によって心と思いを養なわなければなりません。ヨシュアを「雄々しく,かつ強く」ならせるために,エホバは彼にこう告げました「この律法の本をあなたの口から離してはならず,昼も夜もそれを小声で読まなければならない」。「神の言は生きていて,力があり」と使徒パウロは言葉をつけ加えています。(申命 8:3。マタイ 4:4。ヨシュア 1:7,8。ヘブル 4:12)生命を保たせるこの神の言葉は,信者の信仰,希望,そして愛を強くならせます。「このうちで最も大いなるものは,愛である」。そのような備えをうけた者は強力なわざをすることができ,人生の悲劇を耐えます。「愛はいつまでも絶えることがない」。それは「すべてを忍び」「すべてを耐える」。―コリント前 13:7,8,13,新口。
6,7 どんな例は,エホバの霊を受けるためにエホバの制度との交わりが大切であると証明しますか。
6 神の御言葉を研究して分かる通り,エホバは,宗教制度と称するもの全部を用いて強烈なエネルギーを与えません。また彼はエホバの妻のごとき制度,すなわち神に献身しているすべてのものの「母」から独立しては各人と交渉を持たれません。(ガラテヤ 4:26)エホバは御自分の伝達の経路をつねに地上に持たれており,その経路を通して御自分の御霊を働かせます。ミリアムとアロンがこの経路を無視したために,あやうく生命を失いかけたことをおぼえていますか。イエスはエホバの代表者によって洗礼を施された後になって始めて聖霊と力を受け,強力なわざをすることができました。(民数記 12:1-16。マタイ 3:16。使行 10:38)イエスはこの聖霊によって,彼に交わる者たちを援助したので,彼らは真理を理解することができました。また,彼らは「病人をいやし,死人をよみがえらせ,らい病人をきよめ,悪霊を追い出す」力を受けることができたのです。それで,エホバの制度と交わる重要性が強調されます。―マタイ 10:8。ルカ 24:45。コリント前 2:10。
7 過去の場合と同じく今日でもエホバは御自分の見える制度を地上に持っておられます。そして,神の御こころについての理解は,その制度を通して啓示されます。この制度はまた多くの国民で成り立つクリスチャン全部の努力を結集するためにも必要です。かくして再び努力しなおすということもなく,活動が不一致になることもありません。このように付加された理由により,エホバの御霊を受けたいとのぞむなら,この制度と交わることは絶対に必要です。
8 神から聖霊を受けるには何が必要であるとガラテヤ書 3章2節は示していますか。
8 しかし,これで全部ですか。神から聖霊をいただくために,知識を取り入れて,エホバの見える制度と交わるだけで十分ですか。そうではありません。それ以上のものが必要です。「わたしは,ただこの一つの事を,あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは,律法を行ったからか,それとも聞いて信じたからか」。(ガラテヤ 3:2,新口)それで,聞いて信ずることがなければなりません。つまり聞くことに従ってよろこんで行なうという意味です。古い律法契約の死んだわざによるのでなく,クリスチャン信仰に刺激される熱心な活動によるのです。かくして,私たちはエホバの御霊を受けるにふさわしいとエホバに示します。それで,イエスの場合と同じく,私たちはエホバに生命をささげ,エホバの御霊をうけるために洗礼をうけねばなりません。
9 エホバの御霊で私たちを活動させるようエホバに願うことは正しいですか。
9 前述の段階を取ると同時に,人はエホバの御霊を熱心に求めねばなりません。だまっていてはなりません。あなたの願いを知らせなさい。この面において忠実な信者はいちばん幸運です。なぜなら,彼は祈りによってあらゆる力の真の源なる創造者と直接交わることができるからです。イエスは次のように言われました,「すべて求める者は得,捜す者は見いだし,門をたたく者はあけてもらえるからである。……このように,あなたがたは悪い者であっても,自分の子供には,良い贈り物をすることを知っているとすれば,天の父はなおさら,求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。それで,天の御父の御こころを行なうための十分の力を天の父に求めるのにちゅうちょしてはなりません。天の父は,「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを,はるかに越えてかなえて下さることができる」かたです。このわけで,パウロは初期教会のために神の力を祈りによって求めたのです。「わたしはひざをかがめて……父に祈る」と彼は書きました,「どうか父が,その栄光の富にしたがい,御霊により,力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」。―ルカ 11:10-13。エペソ 3:20,14,16,新口。
10 エホバは「他の羊」と「残れる者」の両方に,御霊を豊かに注がれますか。
10 この雑誌を読む人の大多数は,イエスの述べる(ヨハネ 10:16)「他の羊」級である故,エホバがキリストのからだの油注がれた「残れる者に」力を与えられるのと同じように,「他の羊」級にも力を与えるかどうかを知るのに特別な興味をいだくでしょう。「残れる者」と「他の羊」の両方の級も同じ問題に直面しませんか。両方の級も同様の責任を持ちませんか。両方とも同じつらい環境下で同じわざをしていませんか。それで,両方の級は聖霊による神の力を必要とします。公正な神がひとつの級に御霊を与えず,他の級に御霊をたくさん与えるなどということは,とうてい考えられません。また,むかしの忠実な人々を思い出してごらんなさい。彼らは油注がれた「教会」級の者でありませんでしたが,それでも聖霊にみたされたので霊感された聖書を書くことができました。彼らは異教の寺院をこわしたり,獅子や熊を殺したり,らい病人をいやしたり,死人すらよみがえすことができました。同様に今日でも「他の羊」級の者はエホバの活動力の援助により,数多くの強力なわざをすることができます。
11 それでは,どんな要素は,エホバの御霊をうける資格のあることを決定しますか。
11 それで,聖霊をいただけるだけの資格を備えているか,どうかを決定する要因は,その人の行く場所に左右されず,むしろ彼の霊的な円熱さと心の態度であります。ある人は,心から進んで御霊をいただいてその導きに従うでしょう。一方,別の人は御霊の指示に従って歩こうとしないため,御霊を消してしまいます。もし神の指示に逆らうなら,その人はサウロ王と同じようになります。彼については次のように書かれています,「ヱホバの霊サウロをはなれ……」。エホバの御霊を失うとは,なんと残念至極のことでしょう! サウロは,イスカリオテのユダのように自殺しました。油注がれた「残れる者」でも「他の羊」級の者でも,もし注意をおろそかにするなら,それと同じことが生じます。―サムエル前 16:14。
エホバの御霊の表われ
12 電気についてのどんな三つの面は,聖霊の力を良く示していますか。
12 私たちはエネルギーそのものを見ることができません。しかし,エネルギーが使用されるとき,その結果を容易に見ることができます。人間の目に見えないエホバの強烈なエネルギーが,人間に働きかけるとき,私たちはその結果をすぐに認めることができます。この面においてエホバからの聖霊は電気になぞらえます。電気は照明のために使用されるか,通信の手段に用いられ,多くの仕事をする強力な力です。人を見るだけで,その人が聖霊にみたされているかどうかは分かりません。ちょうど,銅の電線を見るだけでは,それに「電気が通っている」かどうか分からないのと同じです。電池を見るだけでは,それが充電されていかどうかは分かりません。
13 エホバの御霊が啓発を与える強力な道具であることを証明するどんな証拠がありますか。
13 電気は照明のために使用されます。同じくエホバの御霊は,このくらい時代にあって神の御言葉に解明と理解を与えます。(詩 119:105。ヨエル 2:28)理解と指示が聖霊によってのみ来ることは,この世界のいろいろの宗教制度に示されている混乱状態,および理解と指示が一般的に欠如していることからも明白に分かります。彼らは,神の御国が人類の唯一の希望であるという事実を認めません。彼らはその御国の王が御くらについて,いま天で支配していることを認めることができません。彼らは現在の悪魔の組織制度の滅亡が急速に近づいていることを認めません。彼らは約束されている実際の楽園が,ごく間近に設立されることを認めません。彼らは心をなぐさめるそのような真理をまったく認めません。なぜなら,そのような真理はエホバの御霊によってのみ啓示されるからです。―コリント前 2:9,10。
14 クリスチャンの参加している宇宙的なはげしい戦争において,聖霊はどんな役割を果たしますか。
14 複雑な電気通信組織がないなら,司令官は世界的な規模を持つ大軍に命令を下すことはできないでしょう。全地のクリスチャンたちがいま行なっている戦争でも同様なことが言えます。エホバの御霊がないなら,指示は与えられず,また敵と取りくみ合うはげしい戦いのときに十分な力はないでしょう。―コリント後 10:4-6。エペソ 6:11,12。
15 ノア,サムソンそして他の者たちは,エホバの御霊によって強められたとき,どんな力のわざをすることができましたか。
15 電気で動かされる巨大な機械は,人間ひとりではつくれないものをつくり出します。同様にエホバの力は人々に力を与えて,人の力だけではとうていなし得ないことを行なわせます。ノアとその息子たちは造船業者でありませんでしたが,神の御霊のみちびきの下に,暴風に耐えることのできる巨大な避難所をつくるのに大成功しました。後日,荒野で聖なる幕屋を建てたときについて,次のように書かれています,「視よヱホバユダの支派のホルの子たるウリの子ベザレルを名指て召たまひ,神の霊をこれに充して智慧と了知と智識ともろもろの類の工事に長しめ,奇巧をつくして金銀および銅の作をなすことを得せしめ,玉を切りはめ木にほりきざみてもろもろのたぐひの工をなすことを得せしめ……」。この同じエホバの御霊によって,普通の人であったサムソンは超自然の力わざをすることができたのです。―出エジプト 35:30-33。士師記 13:25; 14:6,19; 15:14。
16 聖書の預言の記録についてエホバの御霊はどんな役果たしましたか。
16 聖書の筆記者たちは,すこしの間違いなしに預言をしるすことができました。それはどうしてですか。使徒ペテロは次のように答えています,「なぜなら,預言は決して人間の意志から出たものではなく,人々が聖霊に感じ,神によって語ったものだからである」。エホバからこの指導の力をうけなかったなら,ダニエルがこの20世紀における出来事を2500年もむかしに前もって預言することはまったく不可能だったでしょう。しかし,エホバのこの預言者は神の先見の力をうけることによって,いま東のブロックと西のブロック間で行なわれている,「冷い戦争」を,日々の新聞の見出しと同じくらいまったく明白に書きしるしました。―ペテロ後 1:21,新口。
17 イエスと使徒たちの時代には,エホバの強烈なエネルギーは奇跡的にどう示されましたか。
17 キリスト教は神が始められたものです。イエスと使徒たちがそのことを証明するためには超自然の力を示さねばなりません。彼らは超自然の力を示しました。歴史の記録は,イエスについて次のように述べています,「大ぜいの群衆が,足なえ,不具者,盲人,おし,そのほか多くの人々を連れてきて,イエスの足もとに置いたので,彼らをおいやしになった。群衆は,おしが物を言い,不具者が直り,足なえが歩き,盲人が見えるようになったのを見て驚き,そしてイスラエルの神をほめたたえた」。(マタイ 15:30,31,新口)エホバの強烈なエネルギーはなんとすばらしく示されたのでしょう! この神の力は,使徒たちにも与えられました。「イエスは十二弟子を呼び寄せて,汚れた霊を追い出し,あらゆる病気,あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。イエスはこの十二人をつかわすに当り,彼らに命じて言われた……『病人をいやし,死人をよみがえらせ,らい病人をきよめ,悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから,ただで与えるがよい』」。後日の五旬節<ペンテコスト>では,次のように記録されています,「一同は聖霊に満たされ,御霊が語らせるままに,いろいろの他国の言葉で語り出した」。―マタイ 10:1,5,8。使行 2:4,新口。
18 エホバの導きの御霊により,現代の彼の民が為し行なったもののいくらかは何ですか。
18 キリスト教は神からのものであるということがしっかり確立されました。それで,使徒たちが死ぬと,人々をいやす御霊の奇跡的な贈り物はなくなりました。しかし,エホバの民を助けるためのエホバの聖霊は,今日にいたるまでずっと注がれています。エホバの証者の新しい世の社会に長年交わっている人々は,この神の御霊の働きを良く知っています。神の御霊は,たしかに彼らのわざのうしろにあって彼らをはげまし,彼らを動かしてきました。全世界179の国々や区域でエホバの証者が一致して伝道のわざをしていることについて,何人も誉をうけることができません。すばらしい聖書の真理が与えられることに何人も誉をうけることができません。神権制度についての決定,ものみの塔のギレアデ聖書学校の運営,御国宣教学校の取りきめ,世界の多くの場所で印刷工場を設置したり拡張したりすること ― これらのことや,もっと多くのことは,人間の考える能力や先見だけに頼っては,とうてい達成できないものです。数多くの法律上の大勝利によって,地上の真の崇拝は守られ,合法的に確立されました。それは実際にはエホバの勝利です。エホバの御霊はこのわざの全部を指示しました。エホバの民は,一般人のかたく信じている輸血に対しても独自の立場を取ります。たしかに,神の指導的な御霊がないなら,嘲笑や侮べつを耐え,そして誠実な心をいだく親族や尊敬をうけている専門家たちによる輸血勧誘の「助言」を拒絶することは不可能でしょう。神聖な血に対するそのようなかたい立場は,人間の考えや指導によるもではありません。すべてのさんびとほまれは,エホバの指導的な御霊にあたえられます。
19 神の御霊にそむく罪を犯すとはどういう意味ですかなぜこれはそんなにも危険ですか。
19 エホバの聖霊の他の表われは,犯罪者を排斥して処刑するときに示されます。たとえば,コラ,ダタン,アビラム,アカン,イスカリオテのユダ,アナニアそして,サッピラの場合です。後者の二人については,彼らは神の聖霊を『あざむいた』と聖書は述べています。したがって,神の御霊に対して罪を犯さぬよう細心の注意を払わねばなりません。イエスの時代のパリサイ人たちは神の奇跡を否定して,神の御霊に逆らう罪を犯しました。彼らは御霊の働きの明白な表われを拒絶したのです。人は,御霊の指示と助言に反対したり,反抗すべきでなく,むしろよろこんでそれに従うべきです。御霊の働きに逆らったり,御霊の指示に反対の生活をすることによって御霊をさまたげたり,制限したりしてはなりません。―民数記 16:1-35。ヨシュア 7:1-26。マタイ 27:3-10。使行 5:3。
20 どこにエホバの御霊の実を見出しますか。なぜそこで見出しますか。
20 「御霊の実は,愛,喜び,平和,寛容,慈愛,善意,忠実,柔和,自制であって……」とガラテヤ書 5章22,23節(新口)は述べています。今日そのようなよろこばしい実をどこに見出しますか。この世界の多数の社会の中に見出しますか。そのようなことはもちろんありません! そこにはくさっ実 ― 憎しみ,戦争,偏見,いつわり,盗み,不道徳その他が見られます。それに反して,エホバの証者の新しい世の社会はエホバの御霊の美しい実を産出しています。これは秘密なことではありません。この世の人々は,聖霊がこのように明白に示されているのを見ます。しかし,不思議に思えるかも知れませんが,彼らはこの一致した幸福な制度の一員になる気持をいだきません。エホバの目に見える制度の平和,調和そして一致に驚嘆する人々の中のある者は,驚嘆して目撃するものエホバの強烈なエネルギーによってのみ産出できるものに対して,実際に戦かっています。彼らは偽善的なパリサイ人と同じ類の者であって,神の御霊に対して罪を犯します。これはゆるすことのできない罪です。―マタイ 12:32。ヘブル 6:4-6; 10:26。
エホバの力によって共産主義を征服する
21,22 エホバの証者は,共産主義者の迫害に耐えるのに必要な力をどこから得ますか。どんな結果が得らますか。
21 神の御霊が御自分の民を活動させる別の証拠は,彼らが全体主義政府のたえまない迫害にも耐えることができたことです。迫害をうけるこれらのエホバの証者は,詩篇記者の言葉を借りてこう歌います,「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに,たとい地は変り,山は海の真中に移るとも,われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき,あわだつとも,そのさわぎによって山は震え動くとも,われらは恐れない」。―詩 46:1-3,新口。
22 神を認めぬ全体主義的な要素に対するこの戦いにおいて,エホバの民はその力の天的な源にたえず頼り,次のように言います,「神はわたしに力を帯びさせ……あなたは戦いのためにわたしに力を帯びさせ……」(詩 18:32,39。サムエル後 22:2,3,40)鉄のカーテンの背後にいるエホバの証者は,そのような備えを身につけているので,たとえ世界の他の場所にいる兄弟たちとの連絡が切りたたれても,その忍耐において,活力において,強烈な力において,無情な迫害者たちよりはるかにすぐれていると証明します。神より与えられた彼らのわざは,ますます進歩繁栄し,暴君的な独裁者たちを大いにあわてさせ,おどろかせています。
23 物事を深く考える人々は,エホバの忠実な証者たちを注意深く考慮して後,どんな結論にかならず達しますか。
23 すべての人の中でも,物事を良く考えるあなた方はエホバの証者を注意ぶかく観察して下さい。エホバの証者が,分裂をもたらすすべての国家的,人種的,社会的,および宗教的な障害をうちくずしたことに気をつけて下さい。彼らがひとつになって,一致して活動し,崇拝をささげていることに気をつけて下さい。彼らは全世界からひどい反対をうけて試練をうけているにもかかわらず忠実を保っていることに注意して下さい。彼らの制度が繁栄し,その数が増加しているのに気をつけて下さい。エホバの正義の御国にささげる彼らの燃えるような熱心と愛を見て下さい。このすべてを注意深く考えるとき,強力な見えざる力,すなわちエホバの聖霊がこの民をして活動させているということをたしかに知るでしょう。それは大きな世界的な規模において「御霊の一致」を表わすものです!―エペソ 4:3。
24 (イ)クリスチャンの力は,軍事力や人間の力から来るものでないなら,どこから来ますか。(ロ)どんな大切な理由の故に,神の奉仕者たちはエホバの与える力に依存しなければなりませんか。
24 さて,このすべてはエホバがずっと以前に言われた通りです,「万軍のヱホバのたまふ是は権勢に由ず能力に由ず我霊に由なり」このわけで使徒パウロは彼の力がエホバの力によると言明して次のように語りました,「わたしを強くして下さるかたによって,何事でもすることができる」。それで,エホバの僕は,自分自身の力や他の人の力に頼ってはならず,むしろ「奉仕する者は,神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは,すべてのことにおいてイエス・キリストによって,神があがめられるためである」。―ゼカリヤ 4:6。ピリピ 4:13。ペテロ前 4:11,新口。
25 エホバの御霊によって活動的にされるすべての者はいまどんなすばらしい幸福を十分に楽しみますか。
25 エホバの献身した僕たちは,あらゆることを行ないエホバを賛美してあがめます。それでエホバは彼らに多くの祝福を与えます。これらの祝福の中にはよろこびと幸福があります。聖書の言葉によると,「あなたがたは,多くの患難の中で,聖霊による喜びをもって御言を受けいれ……」ました。(テサロニケ前 1:6,新口)さらに次のように約束されています。「その力なんぢに……ある者はさいはいなり……かれらは力より力にすゝみ……」。このよろこびと幸福は,この世の「こっけいな人」によるうわべだけの楽しみではありません。むしろ,それは真実の深い,内面的な満足の感情です。たとえかびくさい刑務所内の防音室で無情に打ち叩かれて,苦痛のためほほに涙が流れ落ちようとも,満足感をおぼえさせます。それはエホバの心を幸福にさせる者たち,エホバの大いなる御名と聖なる御言葉の立証に参加する者たちにのぞむ幸福です。―詩 84:5,7。箴言 27:11。
-
-
「安息日の必要がない」ものみの塔 1961 | 10月15日
-
-
「安息日の必要がない」
西暦第2世紀に,ふたりのクリスチャンの著者は,安息日にかんして次のような興味深い意見を述べています,「モーセ以前には,安息日とか祭日はなかったし,律法によって供え物を捧げるということもなかった。それで,今も同じように,それらは必要でない。そのわけは,神の御子であるイエス・キリストが,神の確固とした御旨によって,アブラハムのすえとして,処女から罪を持たずに生まれたからである」。―ジャスティン・マーター(ダィアル・カム・トリフ・23より)
「アダムが安息日を守ったということ。あるいはアベルがその聖なる犠牲を神に捧げた時,安息日を守ることによって神を喜ばせたということ。または,うつされたエノクが安息日を守っていたということ。アブラハムは安息日を守っている時に,息子のイサクを捧げたというようなこと。あるいは,祭司だったメルキゼデクが安息日の律法を与えられたということ…このようなことがあったとしたら,私に示してもらいたい。われわれは,安息日とか,新月あるいは祭日とは,何ら関係がない。」― ターツリヤン(ド・マイドラリア,C4,C14より)
-