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神を知ることはとこしえの平和をもたらすものみの塔 1970 | 2月1日
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されました。(マタイ 16:13-16; 25:31)ゼベダイの子で漁師だったヨハネがメシヤの追随者になったのは西暦29年の秋でしたが,その結果,彼はのちにこのメシヤすなわち油そそがれた者の十二使徒のひとりになりました。使徒ヨハネはイエス・キリストの生涯を著わした記述の中にメシヤのことばを数多くしるしています。ヨハネ伝 14章9節によれば,エルサレムでのこと,イエスはヨハネの聞こえるところでこう言われました。「我を見し者は父を見しなり」。「人の子」として肉のからだで生活した時でさえ,イエスは天の御父エホバ神を完全に反映しておられました。ゆえにメシヤはその教えやわざ,また完全な人間としてのご自分の生き方により,人間がいっそう深く神を知ることができるようにされました。しかしメシヤであられるイエスは人類のために犠牲の死を遂げたのち,およそ63年を経て,使徒ヨハネに黙示を送られました。その黙示の中でエホバ神は,かつて神に仕えた人々が幻の中でもまだ見たことのない姿で現われました。いわば,ヨハネは自ら天にはいって神からこの幻を得たかのようでした。
13,14 (イ)天の幻の中で神はどんな姿でヨハネに現われましたか。(ロ)神の王座のまわりで王の位についているのはだれですか。また神の王座のまわりにはどんな生き物がいますか。
13 ヨハネは招かれるままに,その幻の中で天に見える「開けたる門」にはいってゆきます。彼は自分の見たことを人に告げないようにと命じられるどころか,無私の心でその幻をわたしたちに示して,次のようにしるしました。「こののちわれ見しに,みよ,天に開けたる門あり。はじめに我に語るを聞きしラッパのごとき声いふ『ここに登れ,我こののちおこるべき事を汝に示さん』直ちに,われみたまに感ぜしが,みよ,天に御座設けあり。その御座に坐したまふ者あり,その坐し給ふものの状は碧玉・赤めのうのごとく,かつ御座の周囲には緑玉のごとき虹ありき。また御座のまはりに二十四の座位ありて,二十四人の長老,白き衣をまとひ,首に金のかんむりをいたゞきて,その座位に坐せり。御座よりあまたのいなづまと声といかづちと出づ。また御座の前に燃えたる七つの灯火あり,これ神の七つの霊なり。御座のまへに水晶に似たる玻璃の海あり。
14 「御座の中央と御座の周囲とに四つの活物ありて,前もうしろも数々の目にて満ちたり。第一の活物はしゝのごとく,第二の活物は牛のごとく,第三の活物は面のかたち人のごとく,第四の活物は飛ぶわしのごとし。この四つの活物おのおの六つの翼あり,翼の内も外も数々の目にて満ちたり,日も夜もたえまなく言ふ『聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,昔いまし,今いまし,のちきたりたまふ主なる全能の神〔エホバ〕』」― 黙示 4:1-8〔新〕。
15 (イ)後日,ヨハネが「神は光にして」と語ったのはなぜ適切なことですか。(ロ)それら生き物がたたえるこの神の神聖さを表わすのにそのような輝きはきわめてふさわしいものです。なぜですか。
15 ヨハネの目にエホバ神は,古代の宝石の一つである碧玉のように,さん然と輝いて映りました。そしてその碧玉には「赤めのう」の輝きも加わっていたのです。神については文字どおりそのように言うことができました。ですからヨハネはその二,三年後こうしるしています。「神は光にして少しの暗きところなし」。(ヨハネ第一 1:5)このような神の,目もくらむほどの輝かしい栄光には,太陽黒点のようなものは一つもありません。永遠に生きておられるこの神の御前では,決してまどろむことのないケルビムのような生き物が絶えまなく,「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,昔いまし,今いまし,のちきたりたまふ主なる全能の神[エホバ]」と語っています。このような神にとってふさわしいのは,そうした一点の曇りもない輝きだけです。神聖とはそのように汚れのない清い輝かしい状態を意味しており,エホバこそ三重の神聖さを体現された神です。汚れた生き物が神の聖なる御前を犯すことが決してあってはなりません。栄光に輝く神ご自身から発する光彩は,「御座の周囲」の緑玉つまりエメラルドのような虹で美しくふちどられています。
16 天で王の位についている者たちでさえこの聖なる神の御前では身を伏して拝さずにはおれないことを,その幻はどのように示していますか。
16 天で王の位につけられている者たちでさえこの最も神聖な神の御前では身を伏して拝さずにはいられません。ゆえに使徒ヨハネは語ります。「この活物ら 御座に坐し世々限りなく活きたまふ者に栄光と尊崇とを帰し,感謝する時,二十四人の長老,御座に坐したまふ者のまへに伏し,世々限りなく活きたまふ者を拝し,おのれのかんむりを御座のまへに投げ出して言ふ,『我らの〔神〕なる〔エホバ〕よ,栄光と尊崇と能力とを受け給ふはうべなり。汝は万物を造りたまひ,万物は御意によりて存し,かつ造られたり』」― 黙示 4:9-11,〔新〕。
神をいよいよ深く知る
17,18 (イ)ヨブの場合と同様,エホバの証人を批判する宗教家は証人たちに関して何を疑っていますか。わたしたちはそうした挑戦に関して何を行なえますか。(ロ)わたしたちは日毎の実生活においてまことの神をどのようにして深く知ることができますか。
17 エホバの証人を批判する宗教家は,わたしたちがはたして神を親しく知ることができるかどうかを疑っています。彼らは,エリパズという名の,あらさがしをこととするテマン人が,苦脳のただ中にあったヨブに挑戦したとおりのことを行なっています。(ヨブ 22:1,21)わたしたちは現代のこうした挑戦をそのまま受けて立つことができます。エホバという名を持ち,永遠に生きておられる全能の神を親しく知るのに今は絶好の時です。わたしたちはすでにある程度この神を知っているかもしれません。ヨブもそうでした。しかしヨブは神に導かれて,いっそう親しく神を知ったとき,こう語らずにはおれませんでした。「われ汝のことを耳にて聞いたりしが 今は目をもて汝を見たてまつる ここをもて我みづから恨み 塵灰のなかにて悔ゆ」。(ヨブ 42:5,6)同様にわたしたちも今日,神をいよいよ深く知ることができるのです。
18 今日,人間は文字にしるされた神のことばをかつてないほど深く理解できるようになりました。したがってわたしたちは,大いに増し加えられたその知識をいま取り入れることによって,神への感謝と認識を深めることができます。また,わたしたちは,さらに多くの正確な知識を神に祈り求めることができ,それとともに,目に見えない神をあたかも見ているがごとくに,いよいよ神を信頼することができます。こうしてわたしたちは,崇拝すべきこの唯一のまことの神を,日ごとの実生活において深く知ることができるのです。
19 神を親しく知ることは,わたしたちにとって何を意味していますか。わたしたちにはどんなことが確かにおよびますか。
19 このような神を親しく知ることは,わたしたちにとって確かに平和を意味します。しかもそれは世の人々の唱える見せかけの平和ではなく,戦争にさいなまれるこの事物の体制に差し迫った滅びにさえ砕かれることのない真の平和です。神に敵対している世にあって,わたしたちは神との平和な交わりを望み,神の善意を受ける民のひとりでありたいと願っています。(ルカ 2:14,新)わたしたちが今,神の「善意の人」となるならば,この世界がいよいよ悪に苦しむ今も,また,神の約束された新しい事物の秩序の下でも,わたしたちには確かに神から「良いことが……およぶでしょう」。そしてその新秩序の下では神が善良なかたであることを永遠に味わい知るでしょう。
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幸福なエホバの証人になったドラム奏者ものみの塔 1970 | 2月1日
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幸福なエホバの証人になったドラム奏者
● アフリカのひとりのエホバの証人はいつもあるドラム奏者の家の前を行き来していました。しばらくして,このドラム奏者はかけ事に敗れ一文なしになり,靴まで売り払ってしまいました。ところが例のエホバの証人はいつも笑顔で,きちんと靴をはき,彼の家の前を往き来していました。これを見たドラム奏者は真剣に考えはじめました。「信心深いカトリック教徒のわたしは問題ばかりかかえているのに,どうしてあのエホバの証人はいつも幸福なのだろう」。数日後,路上でその証人に会い,あなたとわたしの生活はなぜこうも違うのでしょうと尋ねました。証人は,聖書の原則がいかに身の守りとなるかを快く説明しました。今,この人は別人のようです。エホバの証人のひとりになったからです。自分の生活をすっかり改め,正式に結婚届けを出し,今ではきちんと靴をはいています。
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