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    最善の生き方を選ぶ
    • 1章

      正しい選択をする

      1 本当に満足が得られるのは,どんな生き方ですか。

      真に有意義な人生,それは人になんと深い満足を与えるものでしょう。安全で幸福な将来が約束されている場合はなおさらそうです。わたしたちは,自分でそのような生き方を選ぶことができるでしょうか。それが不可能ではないと信じるだけの確かな根拠があります。

      2 生き方に関連して,正しい選択を行なうことが急を要するのはなぜですか。

      2 とはいえ,遅れずにその選択をすることがぜひとも必要です。なぜなら,まず第一に,人間の寿命はせいぜい数十年に過ぎず,しかもその間に,予測できない事柄が多いからです。いつの日か最善の生き方を見いだせるだろうと願いながら,長年を費やして様々な生き方を試みることなど,人間にできるでしょうか。行なった選択が,当座は良いもののように思えるかもしれません。しかし,「もう一度人生のやり直しができたら」という言葉をよく耳にするのではありませんか。それだけではなく,人類が全体として正しい選択を行なう方法を早急に見いださなければならない理由もあります。

      その方法を見いだす助け

      3 人生は何によって真に有意義なものとなるかを知っているのはだれですか。それはなぜですか。

      3 したがって,問題は,わたしたちの人生は何によって真に有意義なものとなるかをだれが知っているか,ということです。後悔することのない生き方,幸福で安全な将来がはっきりと約束されている生き方をわたしたちに示すことができるのは,だれでしょうか。論理的に言って,それは,人類をつくられた方ではないでしょうか。確かに,わたしたちの創造者は,わたしたちの最善の生き方を知っておられ,しかも,霊感によるみ言葉の中でそれを明らかにしておられます。とはいえ,創造者は,その生き方を受け入れるよう無理強いされたりせず,むしろ賢明な選択をするようあらゆる人種の人々に心から訴えておられます。

      4 創造者は,人間が生き方に関して賢明な選択をするよう,どのように勧めておられますか。

      4 その訴えをするために,創造者は,献身的で私心のない男女を幾十世紀も前から用い始められました。創造者は,生きるのに必要なものすべてを寛大に備えて自ら模範を示しておられるので,その訴えには説得力があります。神は,わたしたちに,実際わたしたちすべてに真の関心を持ち,喜んでわたしたちを助けてくださいます。そのことは,使徒パウロが霊感を受けて昔のアテネの人々に語った次の言葉から明らかです。

      「世界とその中のすべてのものを作られた神,このかたは実に天地の主であり,手で作った神殿などには住まず,また,何かが必要でもあるかのように,人間の手によって世話を受けるわけでもありません。ご自身がすべての人に命と息とすべての物を与えておられるからです。そして,ひとりの人からすべての国の人を作(られ)ました。人びとが神を求めるためであり,それは,彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません。わたしたちは神によって命を持ち,動き,存在しているからであり,あなたがたの詩人のある者たちも,『そはわれらはまたその子孫なり』と言っているとおりです」― 使徒 17:24-28。

      5,6 人類には,どんな選択の機会がありますか。

      5 創造者の“子孫”であるわたしたちすべては,どんな選択に迫られているでしょうか。霊感によるその演説の続きの言葉は,その点に触れてこう述べています。

      「したがって,わたしたちは神の子孫なのですから,神たる者を金や銀や石,人間の技巧や考案によって彫刻されたもののごとくに思うべきではありません。たしかに,神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます。なぜなら,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」。(使徒 17:29-31)

      この言葉に従えば,基本的には次の二つの選択があるに過ぎません。すなわち,至高者に転じてその意志に服することを選ぶか,至高者および,至高者から与えられている幸福に生きるための指針を無視した生活を続けることを選ぶか,のどちらかです。では,神に転じることには何が含まれているでしょうか。

      6 非常に大切なのは,「人の住む地を義をもって裁くために」神がお用いになる方を認めることです。その方は,地上におられたときイエスという名前を持たれた,神のみ子です。(ヨハネ 5:22,27)なぜ神はみ子を用いられるのでしょうか。人類はまぎれもなく不完全さと罪と死に束縛され,その奴隷状態にありますが,神のみ子が久しく待たれたメシア,つまりキリストであることを証明されたからです。至高者はキリストによってその奴隷状態からの解放をもたらそうとしておられるのです。―イザヤ 53:7-12。

      7 イエス・キリストは,人が最善の生き方を選ぶこととどういうかかわりがありますか。

      7 聖書は次の事柄を記録しています。西暦33年の春,イエスは刑柱の上で亡くなられました。イエスの死によって,わたしたちの罪を贖うために必要な犠牲が備えられました。(ペテロ第一 2:24。ヨハネ第一 2:2)死からよみがえらされて40日後,イエスは昇天し,天でご自分の犠牲の価値をみ父に差し出されました。その時以降,人類は,どこに住んでいても,イエスを神から任命された救い主であると認めることによってのみ,罪と死からの自由が得られるということを学ばなければなりませんでした。「ほかのだれにも救いはありません。人びとの間に与えられ,わたしたちがそれによって救いを得るべき名は,天の下にほかにないからです」。(使徒 4:12)したがって,み子の追随者として,確かに正真正銘のクリスチャンとして神に是認される立場を得させるような生涯こそ,望ましい生涯であると言えます。

      そのような人生から得られる益

      8 クリスチャンであると公言している人が最善の生き方を見いだしているとは限らないのは,なぜですか。

      8 今日,クリスチャンととなえる人は何億人もいます。では,その人たちが最善の生き方を見いだしていることになるでしょうか。そうではありません。なぜなら,クリスチャンであると公言するだけでは,最善の生き方は保証されないからです。事実,イエスの語られたところによれば,多くの者はイエスを自分たちの主と呼びはしますが,イエスはその者たちに対して,「わたしはいまだあなたがたを知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ」と言われるのです。(マタイ 7:23)クリスチャンであると公言する人は,自分が神のみ子の手本と教えとに心から従っているかどうかを吟味する十分の理由があります。したがって,現在でさえ人生を最善のものとするような,真のクリスチャンの生き方とはどのようなものであるべきか,という疑問が生じます。イエス・キリストに信仰を持っていると公言する多くの人の中で,イエスの真の会衆を代表しているのはどのグループかを判断するうえで,上記の問いに対する答えは基本をなすものです。

      9 真のクリスチャン会衆を見分けるしるしとなるのは,どんな特質ですか。また,その特質はどのように表わされますか。

      9 神のみ子は,「あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」と言われました。(ヨハネ 13:35)ですから,真のクリスチャン会衆には,人種的・国家的・部族的・社会的・経済的障壁のない,国際的な兄弟関係が存在しているはずです。そうした兄弟関係があれば,世界のどこへ行っても,忠節な友,すなわち,信頼できて自分の持ち物を預けることのできる人々を見いだせるに違いありません。たとえわたしたちと個人的に知り合っていなくても,その人たちは,身内でも示さないような気遣いと愛情を示してくれます。(マルコ 10:29,30)クリスチャンと称する大勢の人々にとって,そうした国際的な兄弟関係が存在するということは,信じられないことのように思えるかもしれません。しかし,200万人を超えているエホバの証人は,真の兄弟愛を示された経験があることを証言できます。

      10 イエス・キリストの手本に倣うことは,他の人と仲良くやっていくうえでどのように役立ちますか。

      10 家族や隣人や職場の同僚とも仲良くやっていくことは,人の幸福に大いに寄与します。そのことに異議を唱える人がいるでしょうか。イエス・キリストは愛の道を実践し,それを教えられました。愛の道は他の人々との良い関係を築きます。なぜなら,「愛は自分の隣人に対して悪を行な(わない)」からです。(ローマ 13:8-10)その上,わたしたちが,親切,思いやりやまた愛をもって他の人々に接するなら,他の人々がわたしたちに対してそれらの望ましい特質を示しやすくなります。

      11 聖書に示されている,行動の指針に従うなら,どのように自分自身を傷つけないですみますか。

      11 聖書に示されている,行動の指針に従うなら,わたしたちは自分自身を傷つけずにすみます。確かに,最善の生き方とは,そのようなものであるはずです。聖書の道徳規準に従うなら,不倫な関係に付き物の心痛と恐れを経験せずにすみます。(箴 5:3-11,18。マタイ 5:27,28。ヘブライ 13:4)イエス・キリストの献身的な弟子として生活するなら,暴飲暴食や麻薬の濫用,かけ事その他の悪習から遠ざかるのに必要な強さを得ることができます。(箴 23:29,30。イザヤ 65:11。コリント第一 6:9-11。コリント第二 7:1)そうした悪習のためにかつて浪費していたお金を,他の人々の福祉に資する仕方で運用することもでき,その結果,心から与えることによって得られる勝った幸福感を味わえます。(使徒 20:35)激しく憤ったりねたんだりしないように,という聖書の助言に従うことは,実際に健康を増進させます。―詩 37:1-5。箴 14:30。

      12 わたしたちは,不完全ではあっても,どうして清い良心を保ち続けることができますか。

      12 むろん,わたしたちはだれでも,自分がこういう人間でありたいと思っていてもしくじる場合が時折りあります。言葉や振る舞いで他の人を傷つけて,自分は不完全な人間なのだということを痛感させられることがあります。しかし,わたしたちがへりくだって神に許しを請うなら,神は,わたしたちの心からの悲嘆や,イエスの犠牲の贖いの益に対して抱く信仰に基づいて許しを与えてくださいます。(ヨハネ第一 2:1,2)ですから,わたしたちは引き続き清い良心を保つことができます。問題や試練に首尾よく対処するうえで,神がわたしたちを聖霊によって援助してくださるという確信を持ち,どんな問題に関しても,助けを求めて神に近づくことを恐れません。―ヨハネ第一 3:19-22。

      13 創造者の言葉にほとんど注意を払わない人々の状況はどのようなものですか。

      13 創造者の言葉にほとんど関心を示さずに生活することを選ぶ人の場合はどうでしょうか。その人たちは問題や悩みがあっても自分一人で耐えます。現在何年か生活を楽しむことはできても,将来に真の希望がありません。死が近づくと,多くの人は,超人間的な力を持つ者から罰を受けるのではないかという恐れに捕らわれます。

      14 イエス・キリストの真の弟子たちは,期待に胸をふくらませてどんな出来事を待ち望みますか。

      14 それは,イエス・キリストの真の弟子の場合とは大変な違いです。それら真の弟子は,将来の清算の日を恐れません。むしろ,勝利の王として栄光に輝くイエス・キリストが到来するのを,期待に胸をふくらませて待ち望みます。キリストはあらゆる不正と圧迫から彼らを解放し,そののち地のすみずみに支配を行き渡らせるのです。(テサロニケ第二 1:6-10。啓示 19:11-16。詩 72:8と比較してください。)そうです,すばらしい将来が待ち受けているのです。その時,どんな事柄を享受できるでしょうか。

      将来に対する勝った希望

      15,16 神の忠実な僕たちには,どんなすばらしい将来がありますか。

      15 聖書はこう答えています。「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」。(ペテロ第二 3:13)「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。(啓示 21:4)死でさえ,このような将来が実現するのを妨げることはできません。生けるものの創造者は死者を復活させることもできるからです。その際,創造者はみ子をお用いになります。―ヨハネ 5:28,29。

      16 神の約束が成就することは,あなたにとって何を意味するでしょうか。あなたのことを真に気遣い,自分の益よりもあなたの益のほうを喜んで優先させる人々と共に,イエス・キリストの完ぺきな支配の下で生活することを考えてみてください。すべての人が,愛の律法という最高の律法に従うので,犯罪や不正や圧迫がありません。自分が失望することもありませんし,他の人を失望させることもありません。予測できない事柄やはなはだしい危険のことでひどく思い悩まずにすみます。多くの人の生活をつらいものにしている失意やむなしさや孤独を経験することはもはやありません。身体的なひどい痛みによるうめき声は聞かれず,悲しみの涙を目にためている人はいません。死でさえもあなたの活動を急に終わらせたり,愛する人々をあなたからむりやり引き離したりして,あなたを損なうことはないのです。―イザヤ 25:6-8; 65:17。

      17 創造者を度外視している人々の生活が真に有意義なものでないのはなぜですか。

      17 たとえ品行方正であっても,創造者を度外視した生活を送っている人々が得ているものと,上に述べた事柄とを比べてみてください。そのような人たちは,自分が望んでいる誉れや物質上の富を得ているかもしれず,恐らくは,貧しい人を助けることにある程度の満足を見いだしたり,文化活動や健全な娯楽を楽しんだりしていることでしょう。しかし,その人たちは,真に永続的なものはこの世に何一つないという避けられない事実を認めなければなりません。事故や病気や死に対して免疫になっている人はだれもいません。持ち物はそれらを免れさせてくれるわけではなく,死んだときに,持ち物を携えて行けるわけでもありません。(詩 49:6-20。伝道 5:13-15; 8:8)善意から他の人々を助けようと努力しても,思わしくない状況のためにざ折することがあります。それで次のように尋ねることができるでしょう。最後に行き着くところが墓でしかない人生にどれほどの意義が見いだせるだろうか。人の永遠の将来に実際逆行しているなら,その人生はどうして良いと言えるだろうか。―伝道 1:11,15,18; 2:10,11; 9:11,12と比較してください。

      選択の時

      18 (イ)人生に関して正しく選択するのを遅らせるべきでないのはなぜですか。(ロ)わたしたちが置かれている立場は,族長ノアのそれとどのように似ていますか。

      18 清算の日が来ようとしているので特に,どこに住んでいる人々も,罪の宣告を招く生き方ではなくて報いをもたらす生き方を選択することがぜひとも必要です。しかも,それは急を要する事柄です。わたしたちは明日のことが分かりませんし,王として全地を支配するためにイエス・キリストが来られる時はいよいよ近づいています。人類は,世界的な洪水の前に族長ノアが置かれていた立場と同様の立場に置かれているのです。ノアは,(1)同時代の人々の放縦な生き方をするか,(2)神の意志に服するかの二者択一を迫られていました。さいわい,ノアは正しい選択を行ない,箱船を造って,神の導きにより家族7人と共に箱船に入りました。その8人の家族は洪水を生き残りました。だからこそ,今日わたしたちは生きているのです。―ペテロ第一 3:20。

      19 ペテロ第一 3章21,22節は,救いに関してどんなことを明らかにしていますか。

      19 同様に,わたしたちの場合,永遠の命を得るための要求の一つは,イエス・キリストの弟子としてエホバ神に仕えることを誓約することです。箱船の外には救いがなかったのと同様,わたしたちの場合も,み子イエス・キリストによる神の備えがなければ救いはありません。箱船の中の8人が救出されたことに言及したのち,クリスチャンであった使徒ペテロは次のように書いています。

      「これに相当するもの,すなわちバプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなたがたを救っているのです。彼は神の右におられます。天へ行かれたからです。そしてもろもろの使いと権威と力は彼に服させられました」― ペテロ第一 3:21,22。

      20 永遠の命を得るのに,水のバプテスマを受けるだけでは十分でないことは何から分かりますか。

      20 水のバプテスマを受けるだけで救われる,というのではありません。水は不潔な物やほこりを洗い去りますが,救いをもたらすのは,儀式的に外面を洗って「肉の汚れを除くこと」ではありません。「イエス・キリストの復活を通して」救われる,とペテロが述べていることに注目してください。ですから,バプテスマを受けた人は,神のみ子が犠牲の死を遂げ,三日目によみがえらされ,やがて神の右の高い位につけられたがゆえに永遠の命を得ることが可能になったということを認める必要があります。―ローマ 10:9,10。

      21 人は,「正しい良心」をどのようにして得ますか。

      21 さらに,使徒ペテロは,「神に対して正しい良心を願い求めること」を強調しています。そうした正しい良心を持つために,バプテスマを受けることを願うすべての人にまず求められるのは,過去の悪行を悔い改め,永遠の命のための神の備えに対して信仰を働かせ,悪い道から身を転じて献身する,つまり,神のご意志を行なうために誓いを立てることです。バプテスマは,そうした内面的な決意を公に象徴するものです。神が現在求めておられる事柄をやり遂げたのちに,バプテスマを受けた弟子は正しい良心を得ることができます。そして,その正しい良心を保っている限り,その人は救われた状態にあります。神はその人に対して不利な裁きを下すことをなさいません。―使徒 2:38-40; 3:19; 10:34-48と比較してください。

      22 使徒ペテロが霊感を受けて書いた二通の手紙から,どんな益が得られますか。

      22 この勝った生き方を早く選べば,それだけ早く,その恩恵にあずかるようになります。神のご意志に従い,誓約つまり献身を水のバプテスマで象徴することをいったん選んだなら,わたしたちはその決意を貫きたいと思うに違いありません。では,この生き方に従うことを選び続けるうえで,どんな助けがあるでしょうか。神のみ子の真の弟子であることに伴う現在と将来の祝福を得損なう結果をもたらしかねない影響に対して,どのように抵抗できるでしょうか。昔,霊感を受けた使徒ペテロは,こうした問いに対して優れた答えを与えています。そして,この本の内容は,ペテロの二通の手紙に基づいたものです。その二通の手紙を調べることによって,神の僕として最善の生き方を選び,その生き方を十二分に楽しみ続ける励みが得られるでしょう。

  • 決意したことを貫くための,励みとなる助け
    最善の生き方を選ぶ
    • 2章

      決意したことを貫くための,励みとなる助け

      1,2 (イ)イエス・キリストは,神に仕える決意を貫くことの大切さをどんな例えを使って示されましたか。(ロ)イエスの助言を無視することは,なぜ賢明ではありませんか。

      「手をすきにかけてから後ろのものを見る人は神の王国にじゅうぶんふさわしい者ではありません」。(ルカ 9:62)上手に耕し,うねの列をまっすぐにするため,農夫は畑の向こう側の一点を見つめていなければなりません。人生の目標を見つめることは,それよりはるかに重要ではないでしょうか。そうすれば,生涯の貴重な年月を経て示される一つの型は自分の目ざす目標と調和したものとなるでしょう。

      2 上に引用した神のみ子の言葉は,創造者に仕えることをいったん誓約したなら,どんなことがあってもそれを貫く決心をすべきであることを教えています。この世は,もっと魅惑的な道と思えるもの,すなわち,快楽や名声や富の追求の道を提供することでしょう。しかし,振り返ってそのどれかをあこがれの目で見るなら,さらに悪いことに,それらを生活の中心にするなら,追い求めている賞を得損なうことになりかねません。そのうえ,人生をむだに過ごすことになるでしょう。

      3 わたしたちの信仰には,どんな根本的な目あてがありますか。

      3 「事の後の終わりはその始めに勝る」と,伝道之書 7章8節(新)は述べています。ですから,選んだ道を歩み始めるのは肝要なことですが,本当に重要なのは,最後がどうであるかということです。その理由で,神の言葉の中では,忠実さを最後まで示すことが大いに強調されています。(マタイ 24:13)わたしたちの信仰には,救い,つまり永遠の命を得るという基本的な目あて,目的,目標があります。―ペテロ第一 1:9。

      4 (イ)忠実さを保つには,救いをどのようにみなすことが大切ですか。(ロ)救いを得させるための神の取決めに対して預言者たちが抱いた関心について,ペテロ第一 1章10-12節はなんと述べていますか。

      4 神のみ子の忠節な弟子としてがん張り通すうえで,どんなことが助けになるでしょうか。一つには,わたしたちは,自分が得ようとしている救いの価値の尊さをはっきり理解し,心底から自覚しなければなりません。イエス・キリストと密接な交わりを持った使徒ペテロの述べた霊感による言葉は,その点で大いに役立ちます。わたしたちの終局の救いは,反対によるあらゆる圧迫がどれほど厳しくても喜んで耐えるに値するものですが,ペテロの訓戒はその点を理解するのに助けとなるでしょう。終極の救いは,進んで働き,犠牲を払うもの,実に,必要なら死をも辞さずに追い求めるべきものです。(ルカ 14:26-33)ペテロ第一 1章10節から12節で,同使徒は次のように書いています。

      「ほかならぬこの救いに関して,勤勉な探求と注意深い調査が,あなたがたに向けられた過分のご親切について預言した預言者たちによってなされました。彼らは,自分のうちにある霊が,キリストに臨む苦しみとそれに続く栄光についてあらかじめ証しをしている時,それがキリストに関して特にどの時期あるいはどんな時節を示しているかを絶えず調べました。彼らは,天から送られた聖霊をもってあなたがたに良いたよりを宣明した人びとを通して今あなたがたに発表されている事がらに奉仕しましたが,それが,自分自身のためではなく,あなたがたのためであることを啓示されました」。

      預言者たちが深い関心を抱いていた事柄

      5 預言者たちは,メシアが受ける苦しみに関してどんな予告をしましたか。

      5 イエスが地上に来られる幾百年も前に,ヘブライ人の預言者たちは,霊感を受け,約束されたメシアすなわちキリストの身に降りかかる苦難を予告しました。ダニエルの預言は,キリストが現われる時を明らかにし,キリストが三年半の宣教ののちに命を絶たれることを示しました。(ダニエル 9:24-27)イザヤの預言からは,メシアが退けられ,つまずきの石になることを知ります。(イザヤ 8:14,15; 28:16; 53:3)さらに,イザヤの預言によれば,メシアは人々の病気を負うこと,裁判に掛けられて有罪の宣告を受けても告発者に対して何も言わないこと,つばを掛けられ,罪人の一人に数えられ,刺し通されて犠牲の死を遂げ,人々の罪を負うこと,それによって多くの人が神の前に義の立場を得る道が開けたことなども分かります。(イザヤ 50:6; 53:4-12)ゼカリヤの預言は,メシアが銀30枚で裏切られることを示しました。(ゼカリヤ 11:12)そして,預言者ミカは,「イスラエルの裁き人」であるキリストがほほを打たれることを予告しました。―ミカ 5:1,新。

      6 詩篇には,メシアが受ける苦しみのことがどのように詳しく述べられていますか。

      6 詩篇の中には,イエス・キリストに当てはまる次のような事柄が述べられています。イエスは親しい仲間から裏切られる。(詩 41:9)支配者たちは,民の支持を得,こぞってイエスに逆らう。(詩 2:1,2)ユダヤ人の宗教上の建築者たちはイエスを退ける。(詩 118:22)偽りの証人たちがメシアに不利な証言をする。(詩 27:12)処刑の場所に着いたとき,感覚を鈍らせる飲み物が与えられる。(詩 69:21前半)イエスを杭に付ける者たちは,『イエスの手足』を襲う野獣のようである。(詩 22:16,新)その衣服を分配するために,くじが引かれる。(詩 22:18)「彼はエホバに自分をゆだねたのだ。彼に逃れさせてもらえ! 彼に救い出してもらえ。彼を喜びとしたのだから」と言って,敵はイエスをあざける。(詩 22:8,新)イエスはひどくのどの渇きを覚え,飲み物を求め,酸いぶどう酒を与えられる。(詩 22:15; 69:21後半)息が絶える直前に,「わたしの神,わたしの神,なぜあなたはわたしをお捨てになったのですか」と大声で叫ぶ。―詩 22:1,新。

      7 預言者たちは,キリストが受ける苦しみに「続く栄光」について何を明らかにしていますか。

      7 ペテロが指摘している通り,霊感を受けた預言者たちは,メシアの苦しみに「続く栄光」のことも述べています。この忠実なみ子は,神の偉大な力によって死からよみがえらされます。(詩 16:8-10)そして昇天すると,神の右の地位につけられて,敵が自分の足の台として置かれるまで待ちます。(詩 110:1)また,メルキゼデクの身分にならって永遠の祭司の立場を占めます。(詩 110:4)「日を経た方」であるみ父は,イエスに王の権能をお与えになります。(ダニエル 7:13,14,新)そして,最後に,神によって油そそがれた方がその支配権に反対するすべての国を打ち砕く時が来ます。(詩 2:9)それから,その方は全地に対して支配権を行使します。―詩 72:7,8。ゼカリヤ 9:9,10。

      8 預言者たちは,自分が書き記した事柄に対する非常な関心をどのように示しましたか。なぜそれほどの関心を示したのですか。

      8 そうです,これらの預言は,救い,すなわち罪と死からの救出のための神の取決めにおけるメシアの役割を見事に予見させてくれます。メシアが苦しみの下で忠実を保ち,死に,復活し,栄光に輝く霊者として昇天したこと,こうした事柄すべては,人が,あらかじめ告げられた「過分のご親切」を受けるために必要でした。その「過分のご親切」によって,罪の許しを受けることも,神の子としてエホバ神と完全に和解することもできるのです。預言者たち自身は,救いがメシアによってどのようにもたらされるかを十分に理解できませんでした。それにもかかわらず,ペテロが述べているように,彼らは,自分が記録した事柄に深い関心を持っていました。霊感を受けて自分が書いた事柄の意味を知ろうとしてその預言を再三再四研究し,預言の言葉を勤勉に調べました。預言者たちは,与えられた啓示にすばらしい真理が含まれていることを認め,神によって授けられた預言から最大の益を得るよう,知的能力を最大限に活用しました。人が,予告された過分のご親切にあずかれるのは,メシアが到来してからのことであったにもかかわらず,そのような努力を払いました。とはいえ,預言者たちが得ていた理解は,彼らを力付けるのに十分なものであって,彼らにもっと知りたいという意欲を起こさせました。預言者たちが特に関心を抱いていたのは,メシア出現の時の状況,つまり,メシアが予告されていた苦しみを受け,それから高められるのが「どんな時節」かということにほかなりません。

      9 メシアに関する預言から特に益を得たのはだれですか。

      9 ペテロが明らかにしている通り,ヘブライ人の預言者たちは,メシアに関する預言が記録されたのは主として自分たちの益のためでなく,メシア出現の時に実際に生きている人々の益のためであることを理解するようになりました。(ペテロ第一 1:12)預言者ダニエルは与えられた啓示に関して,「わたしは,これを聞いたが,理解することができなかった」と告白しています。(ダニエル 12:8,新)一方,西暦一世紀に宣べ伝えられた「良いたより」を受け入れた人々は,霊感によって伝えられたメシアの初臨に関する音信から十分の益を得た人々です。ヘブライ人の預言者たちは,実際には,その人々に仕えていたのです。―マタイ 13:16,17。

      10 ヘブライ人の預言者たちが救いに関して関心を示したことから,わたしたちはどのように動かされるべきでしょうか。それはどうしてですか。

      10 では,預言者たちが非常な関心を抱いていたことを知って,わたしたちはどのように感ずるはずですか。それにより,わたしたちは,自分が救いに関して同様の関心を持っているかどうか自己吟味させられるはずです。エホバ神とイエス・キリストの是認された僕であり続けることが,人生における主要な目標となっているでしょうか。わたしたちはそのことを真剣に考えているでしょうか。確かに,わたしたちには,神のみ子の忠節な弟子であることを証明しようとひたすら努める十分の理由があります。メシアは幾世紀も前に現われました。その犠牲の死によって,救いのための真の土台がすえられ,神の約束が一つ残らず成就することが確証されました。(コリント第二 1:20)時がたつにつれ,神の約束の成就の確実性が薄くなるということは決してありません。むしろ,時の経過とともに,神の望んでおられるのはできるだけ多くの人が救われることであることが確証されます。(テモテ第一 2:3,4。ペテロ第二 3:9)ですから,わたしたちは,至高者が忠実な人々に与えようとしておられる祝福にあずかることを,確信を持って待ち望むことができます。

      み使いたちが関心を抱いたのはなぜか

      11 ペテロ第一 1章12節によれば,み使いは,救いを得させるための神の取決めに対してどれほどの関心を示していますか。

      11 み使いたちの手本からも,神の恵みのうちにとどまれるよう全力を尽くすための励みが得られるはずです。忠実なみ使いたちは,救いのための神の取決めにあずかる必要が自分たちにはないにもかかわらず,人類に対する神の壮大なお目的の成就に深い関心を抱いています。使徒ペテロは,「み使いたちは,実に[ヘブライ人の預言者たちの注意を引いた]こうした事がらを熟視したいと思っているのです」と書きました。(ペテロ第一 1:12)そうです,イエス・キリストが地上に来られる前,み使いたちは,キリストの身に降りかかる苦しみ,「それに続く栄光」,そして「良いたより」が人類に及ぼす影響についてさらに多くを知りたいと願っていました。使徒ペテロは,み使いたちがそうした事柄を「熟視したいと思っている」と言うことができました。原語のギリシャ語によれば,「熟視する」という表現には,ある物事を精細に調べようとして前かがみになるという意味があります。ところで,み使いたちが,救いに関連したエホバ神の啓示を注意深く調べることにそれほど強い関心を抱いたのはなぜでしょうか。完全な霊者であるのに,地上の罪深い人間のための備えに対して,なぜ特別の関心を持つのでしょうか。

      12,13 み使いが人類の救いに大きな関心を抱いている理由を,どのように説明できるでしょうか。

      12 み使いは,全知ではないので,他の者に対する神の行動や神の啓示を熱心に考察することによって知識を深めるに違いありません。人類の罪を贖う取決めは,確かに,エホバの愛と公正とあわれみと知恵のすばらしい例となっています。ですから,罪深い人類を救うためのエホバの取決めに関する理解を深めることに没頭することにより,み使いたちは天の父に対して一層の感謝の念を抱くようになります。宇宙内の他のどんな物事の進展について学んだり調べたりしてもそこからは識別できない,み父の特質と物事の行ない方とを学びます。―エフェソス 3:8-10と比較してください。

      13 そればかりか,み使いたちは人間に対して“好感”を持っています。(箴 8:22-31と比較してください。)そして,人類が天の父エホバと和解するのを見たいと願っています。だからこそ,イエスは,「悔い改めるひとりの罪人については,神の使いたちのあいだに喜びがわき起こるのです」と言われたのです。―ルカ 15:10。

      14 (イ)わたしたちの救いに対して示すみ使いたちの態度から,わたしたちは何をするように促されるべきですか。(ロ)神の忠実な僕であり続けるためには,使徒ペテロのどんな助言を思いに留めるべきですか。

      14 そうです,わたしたちが悔い改めたとき,大勢のみ使いは喜びました。そして,み使いたちは,わたしたちが最後まで忠実さを保つことに大きな関心を抱いています。実際,彼らはわたしたちを“激励”しているのです。深い関心と愛情を寄せてくれているみ使いたちについて心に描く光景が,ぼんやりしたものとならないようにしたいものです。そして,言うまでもありませんが,わたしたちのことをみ使いたちに引き続き喜んでもらえるようにしたいものです。それには,ペテロの次の訓戒に注意を払わなければなりません。「したがって,活動に備えて自分の思いを引き締め,あくまでも冷静を保ちなさい。イエス・キリストの表わし示される時あなたがたにもたらされる過分のご親切に希望を置きなさい」― ペテロ第一 1:13。

      活動に備えて自分の思いを引き締める

      15 『活動に備えて自分の思いを引き締めなさい』というペテロの訓戒をどのように理解することができますか。

      15 『活動に備えて思いを引き締める』とは,どうすることでしょうか。使徒ペテロの言葉を字義通りに翻訳すれば,「あなたの思いの腰部を締めなさい」となります。ペテロの時代には,男性は長い衣を着ていました。働くときや,走るといった激しい活動をするときには,衣をまたの間にたくし上げ,帯でしっかりと留めました。「腰部を締めること」は,活動の用意ができていることを意味しました。したがって,わたしたちが『思いの腰部を締める』とは,わたしたちの知的能力を,クリスチャンの義務を遂行し,自分の身に降りかかるいかなる試練にも耐える用意のできた状態にしておくことを意味します。

      16 『あくまでも冷静を保っている』ことをどのように示せますか。

      16 自分の知能が神への忠実な奉仕を続ける用意のできている状態にあれば,わたしたちは,確かに,「あくまでも冷静を保(って)」いることになるでしょう。わたしたちの考え方はつり合いが取れたものとなり,物事を正しく評価できるようになります。自分の知的能力を制御して,エホバ神から離反した世の魅力に屈していないことは,わたしたちの生活ぶりに表われるでしょう。(ヨハネ第一 2:16)天の父とそのみ子の目に好ましく映る事柄を行なうことが,生活の中で第一となるのです。

      17 (イ)信仰を持つ人が受ける「過分のご親切」とは何ですか。(ロ)わたしたちは,どのようにして,『イエス・キリストの表わし示される時わたしたちにもたらされる過分のご親切に希望を置き』ますか。

      17 「活動に備えて自分の思いを引き締め,あくまでも冷静を保(つ)」ためには,「イエス・キリストの表わし示される時あなたがたにもたらされる過分のご親切に希望を置(か)」なければなりません。主イエス・キリストが栄光のうちに来られるとき,その弟子として忠実を保った,天的な希望を抱くすべての人は,神の過分のご親切にあずかる者となります。(コリント第一 1:4-9)それら霊によって生み出された弟子たちが,邪悪な者たちから受けた苦しみを取り除かれてさわやかな気持ちを味わうだけでなく,地上の楽園の希望を持つクリスチャンも,キリストの到来に続く「大患難」から守られて生き残り,地上での終わりのない命を得るという前途の見込みを持ちます。神の恵みにあずかることを切に待ち望みながら,クリスチャンの希望の成就に目を留め続けることには,確かに十分の理由があります。それらの希望が確実に成就することに対する確信は,わたしたちが天の父とみ子への忠節を守るうえで励みとなります。キリストが栄光のうちに来られるとき,その忠実な追随者にもたらされる祝福をしっかり見つめている者でありたいものです。―マタイ 25:31-46。

      神の従順な子供であることを証明する

      18 「従順な子ども」であることをどのように表わしますか。

      18 こうした希望と調和して,わたしたちの態度は,「従順な子ども」のそれでなければなりません。使徒ペテロは続けてこう述べています。「あなたがたは従順な子どもとして,以前自分が無知であったためにいだいた欲望にそって形造られるのをやめ(なさい)」。(ペテロ第一 1:14)天の父を敬い愛する子供として,わたしたちは,神のご要求に喜んで服したいと願うべきであり,そうするのが正しいことであるという認識を持つべきです。イエス・キリストの弟子になる以前に慣れていた仕方で生活上の事柄を処理したいとはもはや思いません。神のご命令を知らなかったとき,わたしたちは,罪深い欲情をほしいままにしたり,利己的にも自分の益を優先させて他の人に損害を与えたり,あるいは,財産や名声や権力を得ることを生活の最重要事としたりしていたかもしれません。大抵の場合,わたしたちは,周囲の人々の態度や言葉や行動に合わせて生活を形造っていました。しかし,今や,神を無視したそうした生き方がむなしく,無意味であることを知っています。

      19 モーセの律法によって例示されている通り,「聖なる者」であることには何が含まれますか。

      19 生活を十分に楽しむには,聖なる方,あるいは清い方もしくは純粋な方であられるエホバ神を見倣うことが必要です。天の父を見倣うことは,正式の崇拝の面だけに限られているでしょうか。使徒ペテロが,「あなたがたを召された聖なるかたにならい,自らもすべての行状において聖なる者となりなさい」と述べていることに注目してください。(ペテロ第一 1:15)次いで,ペテロは,レビ記 19章2節(新)の「あなたがたは聖なる者となるように。あなたがたの神エホバなるわたしは聖なる者だからである」という言葉を引用しています。(ペテロ第一 1:16)レビ記のその言葉は,正式の崇拝と日常の事柄の双方を行なううえでエホバ神がイスラエル人に要求されたことのあらましが述べられている箇所に出ています。聖なる行状に関係したそれらの要求には次のような事柄が含まれています。両親に対する適切な配慮,正直さ,耳しいや盲人,その他苦しんでいる人々に対する思いやり,仲間をうらむのではなく愛すること,中傷したり偽りの証言をしたりするのを避けること,正しい裁きを行なうこと。(レビ 19:3,9-18)ですから,実際に,神の目から見て聖であるようにとか純粋であるようにとかいう要求は,例外なく,生活のすべての面に当てはまります。

      『恐れの気持ちをいだいて生活する』

      20 裁きについて何を思いに留めるべきですか。そのことから,わたしたちの行状はどんな影響を受けるはずですか。

      20 神への献身に恥じない生活をしなければならないもう一つの強力な理由は,使徒ペテロの次の言葉の中に見いだせます。「さらに,おのおのの業にしたがって公平に裁かれる父を呼び求めているのであれば,外人居留者として過ごす間,恐れの気持ちをいだいて生活しなさい」。(ペテロ第一 1:17)天の父がみ子によってわたしたちを裁かれるということを決して忘れるべきではありません。その裁きは外見によって左右されるものではなく,わたしたちの真の人となりに基づいて行なわれる公平な裁きです。(イザヤ 11:2-4)したがって,至高者をみ父として認めるなら,至高者に是認され,わたしたちに有利な裁きを下していただけるような仕方で振る舞いたいものです。そして,当然のことながら,エホバ神に対する健全で敬虔な恐れを反映する生き方を追い求め続けるでしょう。

      21 自分は「外人居留者」としてこの世にいるのだと考えていることを,どのように示しますか。

      21 さらに,この世とこの世が提供するものは一時的なものであるということを認める必要があります。わたしたちは,自分を「外人居留者」であると考えるべきです。この世のいかなるものに対しても,それがいつまでも永続するものであるかのように愛着を抱くことがないよう警戒するのは肝要なことです。古代アッシリアやバビロニアやペルシャの王たちのかつての豪しゃな宮殿は廃虚と化して,もはやだれの快適な家ともなり得ません。どんな建造物も,現代工学や科学技術のどんな産物も,どんな絵画や彫刻も,人間の手によって作られた物で永遠に不変なものは何一つないのです。わたしたちは,神から離反した世に生活しなければならず,この世から“移住する”ことができないのは確かです。(コリント第一 5:9,10)しかし,現在の事物の制度の中で“すっかり”くつろいだ気分になりたいとは思いません。そのような気分になれるはずがありません。なぜなら,わたしたちは,はるかに勝ったもの,神がおつくりになる,「新しい天と新しい地」の到来を待ち望んでいるからです。(ペテロ第二 3:13)わたしたちは,この世において『外人居留者として過ごす間』に人生の旅路についているわけですから,わたしたちの態度や言葉や行動は,そのことを反映するものでなければなりません。―ヘブライ 11:13-16と比較してください。

      貴重な代価が支払われた

      22,23 エホバ神とイエス・キリストに永遠に恩義を感じるべきなのはなぜですか。

      22 使徒ペテロは,エホバ神の聖にして献身的な僕であり続けることの大切さをさらに強調して,次のように書いています。「あなたがたの知っているように,あなたがたが父祖より受け継いだむなしい行状から救い出されたのは,朽ちるもの,つまり銀や金によるのではないからです。それは,きずも汚点もない子羊の血のような貴重な血,すなわちキリストの血によるのです」。(ペテロ第一 1:18,19)罪と死の有罪宣告下から救われたわたしたちは,その贖いの取決めを設けてくださったエホバ神に恩義があります。わたしたちを死から贖うために,大量の金か銀が支払われたとしたらどうでしょうか。わたしたちのためにそれほど大きな物質的犠牲を払ってくださった方に非常な恩義を感じるのではないでしょうか。

      23 では,エホバ神とイエス・キリストにはさらに大きな恩義があるのではないでしょうか。支払われた贖い代は,なくなったり,盗まれたり,損なわれたりする物質の宝よりはるかに貴重なもので,今日地上にある全部の金銀よりも高価なものです。その支払われた高価な贖い代とは,神の罪のないみ子の貴重な血です。それは,永遠に生きる権利を持っていた方の生き血です。高尚な目的と思える事のために若くして命を捨てた人々がこれまでにいますが,み子は,若くしてそのように命を捨てることよりももっと意義のあることをされたのです。ペテロが述べている通り,その贖い代が支払われたことにより,わたしたちが「父祖より受け継いだむなしい行状から救い出され(る)」ための土台もすえられました。どうしてそう言えるのでしょうか。

      24 イエス・キリストの弟子になる前,わたしたちの行状はどのように「むなしい」ものと言えましたか。

      24 わたしたちは,イエス・キリストの貴重な血によって贖われた,つまり買われたという事実を認めたとき,かつての生き方を捨てました。エホバ神やそのお目的について知らなかったときに,永続性のないものを得ることに没頭して生活していたという意味で,わたしたちの生活は『むなしく』,はかなく,空虚な生活でした。わたしたちの振る舞い方は,自分自身を精神的,身体的および感情的に損なうようなことさえあったかもしれません。さらに,両親や祖父母が聖書に通じた人ではなかったという場合もあります。したがって,日常の事柄を処理するうえでのその人たちの基準と原則は,神のご意志と調和していなかったでしょう。その人たちは,神の名を汚す宗教的な慣行に携わっていたことさえあり得ます。ゆえに,行状に関して父祖より受け継いだ「伝統」といえども,わたしたちが目的のある人生を送るための導きとはなりませんでした。―マタイ 15:3-9。

      25 ペテロ第一 1章10-19節は,エホバ神とわたしたちの主イエス・キリストに対して忠実を保つうえで,どのように強い励ましとなりますか。

      25 イエス・キリストの献身的な弟子としてエホバ神に仕えるというわたしたちの誓約を守り通すうえで,使徒ペテロの言葉は確かに励ましとなります。ヘブライ人の預言者やみ使いたちが救いに関する啓示に対して抱いた鋭い関心のことを決して忘れてはなりません。神の裁きは確実に行なわれること,イエス・キリストが表わし示されるときにわたしたちの希望が成就すること,神聖なエホバが求めておられるゆえに,すべての行状において清くあることの大切さ,この世に生活している間は外人居留者として過ごしているにすぎないという事実,こうした事柄を見失わないようにしたいものです。とりわけ,わたしたちがイエス・キリストの貴重な血によって贖われているという事実を決して,いえ,断じて見失わないようにしたいものです。

      26 この世から得られるものを,エホバに仕えることによって与えられるものと比べるなら,どんなことが分かりますか。

      26 至高者に仕えることによって受ける祝福に比べれば,この世の人目を引くものは全くあくたのようなものです。(コリント第一 7:29-31。フィリピ 3:7,8)どれほど多くのお金をもってしても,清い良心や現在の有意義な生活,そして将来いつまでも楽しめる幸福な生活を買うことはできません。しかし,神に忠実に仕えるなら,それらの祝福を享受できます。神への忠実な奉仕を人生の主要な関心事にすることには,確かに強力な理由があります。

  • 確かな保証のある希望
    最善の生き方を選ぶ
    • 3章

      確かな保証のある希望

      1-3 (イ)神の是認を得るのに,神の存在を信じているだけでは不十分です。それはなぜですか。(ロ)ヘブライ 11章6節によれば,何を信じることが必要ですか。それはなぜ大切なことですか。

      神の存在を信じると言う人は少なくありません。しかし,神に是認していただけるような生き方をするには,そう信じているだけでは不十分です。どんな苦しみが降りかかろうとも,全能の神がご自分の僕にお与えになるすばらしい祝福と比べるなら,その苦しみは無いも同然である,ということを確信していなければなりません。

      2 したがって,創造者はわたしたちの命の授与者だからという理由で義務感から創造者に仕えるだけでは,やはり不十分です。暴行,ののしり,病気,失意,経済的な困難など,わたしたちが直面し得るあらゆる試練を考えると,単なる義務感だけでは忠実を保つうえで十分助けになるとは言えません。天の父に対する熱烈で破れることのない愛だけが,それを可能にするのです。

      3 神に対してそのような種類の愛を持つには,神こそ愛情深くて善良で寛大な方であることを信じなければなりません。聖書は,そうした信仰がクリスチャンにとって絶対不可欠であることを示して,「神に近づく者は,神がおられること,また,ご自分をせつに求める者に報いてくださることを信じなければならない」と述べています。(ヘブライ 11:6)ご自分の僕を祝福するという神のお約束を過小評価することは,神に関する知識をわい曲することにほかなりません。それは,エホバを,ご自分の民の立派な業を深く感謝なさる神として認める妨げとなりかねません。(ヘブライ 6:10)他方,至高者が報いを与えてくださる方であるという確信を持っているなら,感謝して答え応じようという気持ちが生まれ,至高者を喜ばせたいという願いがわいてきます。

      『救いのために保護される』

      4 わたしたちが救いを得るようエホバ神はどのように助けてくださいますか。したがって,わたしたちは何を行なっているべきですか。

      4 神への奉仕,例えば立派な行状を保つことや他の人を霊的に,また物質的に援助することによって救いを獲得するのでないことは,言うまでもありません。人間が永遠の命を得るための備えは,天の父ご自身によってことごとく備えられており,天の父は,人間がそのご意志を行なって永遠の命という祝福を得るのを助けてくださいます。ですから,神から与えられた希望によって,わたしたちは,神の導きに完全に従うように促されます。エホバが報いを与えてくださる方であることを全く確信しているなら,わたしたちを真の,十分成長したクリスチャンにしようとなさるエホバに協力し続けることができます。(エフェソス 4:13-15)わたしたちの造り主にそのように積極的に協力するには,罪深い傾向を抑えるために精力的に努力しなければならないことは確かです。しかし,造り主は,わたしたちの霊的な成長を間違いなく可能にしてくださる方です。使徒ペテロは,わたしたちクリスチャンの希望の成就に神が関与なさることを,いみじくも次のように強調しています。

      「わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられんことを。神はその大いなるあわれみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新しい誕生をわたしたちに与えてくださったのです。すなわち,朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産への誕生です。それはあなたがたのために天に取って置かれているものであり,そのあなたがたは,終わりの時期に表わし示されるよう備えられている救いを信じているので,神の力によって保護されています」― ペテロ第一 1:3-5。

      5 一世紀のクリスチャンには,なぜ神をあがめる十分の理由がありましたか。

      5 これらの言葉を与えられたクリスチャンたちには,エホバ神をあがめ,また神をたたえ賛美する十分の理由がありました。彼らは,いわば再び生まれることによって,至高者の子供として産み出されていました。(ヨハネ 1:12,13; 3:5-8)その「新しい誕生」は,それらのクリスチャンに聖霊が働いたことによって生じました。彼らが神の子供とされたのは,彼らに特別な功績があったからではなく,神があわれみ,もしくは同情を示して,彼らの罪をお許しになったからです。全能者の子供となったとき,それらイエス・キリストの弟子たちは,相続財産を受け継ぐ者ともされました。

      6 クリスチャンの希望が「生ける」希望であると言える理由を幾つか述べなさい。

      6 相続人である彼らには,相続財産を受ける希望がありました。ペテロが述べている通り,その希望は「生ける希望」です。それは,様々な意味で「生ける」希望です。『生きていて,力を及ぼす』,神の音信つまり言葉と同様,その希望も生きていて強い力を持っています。(ヘブライ 4:12)それが生ける希望であると言えるのは,まず何よりも,それが生けるとこしえの神によって与えられた希望であり,「もはや死なない」み子を中心とした希望だからです。み子は滅びることのない命の力を持っておられ,ご自分に信頼を置く人々を完全に救うことがおできになります。(エレミヤ 10:10。ハバクク 1:12。ヘブライ 7:16,25。ペテロ第一 1:23)イエス・キリストこそ,神によって遣わされた「生きたパン」であり,「だれでもこのパンを食べるなら,その者は永久に生きます」。(ヨハネ 6:50,51,57)み子は「生きた水」をお与えになり,その「生きた水」は,与えられた人の中で,「永遠の命を与えるために沸き上がる水の泉」となります。(ヨハネ 4:10,14)したがって,「新しい誕生」の結果として与えられる「生ける希望」は,それを持つ人々が報いおよびとこしえの命を得るまでその人々を導くことができます。

      7 「生ける希望」はそれを持っている人にどんな影響を与えますか。

      7 その希望には活力があります。その希望は,それを心に抱く人々の生活に活気を与え,刺激を与える力であり,その全生活に影響を及ぼします。そして,「生ける希望」を抱いていることは,人々の命の用い方におのずと表われます。真の信仰の場合と同様に,「生ける希望」も,実を結ばず,その存在を示す働きのない死んだものではあり得ません。(ヤコブ 2:14-26)それは,わたしたちを活気づける生気にあふれた希望であって,その希望が与える慰めと,それが成就するという揺るぐことのない確実性は,わたしたちを励まし,支え,強めてくれます。

      8 「生ける希望」であるということから,その希望が成就することについて何が言えますか。

      8 したがって,その希望は,不完全で死んでゆく人間に信頼を置いている人々の抱いている希望とは大いに異なっており,強固な土台がないために人々を失望させる死んだ希望ではありません。それは必ず実現します。エホバの不変のお約束は,それを果たすその無比の力と相まって,クリスチャンの希望の確かな土台となっています。―イザヤ 55:10,11; ヘブライ 6:13-20と比較してください。

      9 この「生ける希望」を可能ならしめたものは何ですか。

      9 使徒ペテロは,この「生ける希望」を「イエス・キリストの死人の中からの復活」と結び付けています。神のみ子が杭に付けられたとき,また,その死を弟子たちが見たとき,彼らの希望は事実上み子と共に消えました。しかし,み子の復活の証拠が弟子たちに示されたとき,弟子たちの希望はよみがえり,新たな生気を帯び,“燃え上がって”,証言をするように弟子たちを動かしました。(ルカ 24:13-34。使徒 4:20)神のみ子は,霊の命によみがえったので,贖い代であるご自分の犠牲の価値をみ父に差し出すことができました。イエス・キリストが復活させられなかったとしたら,だれ一人,罪と死から贖われることはありません。(コリント第一 15:14-19)イエスの復活なくしては,「生ける希望」はあり得なかったでしょう。

      10 ペテロはどうして相続財産のことを『朽ちず,汚れなく,あせることがない』と言えましたか。

      10 使徒ペテロとその信仰の仲間が待ち望んだ壮大な相続財産は,「朽ちず,汚れなく,あせることのない」ものです。それは朽ちないので,いかなる方法によっても破壊されたり損なわれたりしません。また,その相続財産は,陰謀をたくらんだり,欺きその他の不法な手段に訴えたりして得られるものではないので,それが汚れたり不純になったりすることはありません。そのすばらしい相続財産が無節操な人々の手に渡ることは決してありません。さらに,美と輝きをすぐに失う美しい花と異なり,その相続財産の壮大さと魅力は永遠にわたって決して色あせません。

      11 「相続財産」はなぜ安全ですか。

      11 ペテロの言葉によれば,約束された相続財産は「天に取って置かれてい(ます)」。それは間違いなくキリストの共同相続者のためのものです。目に見えない天は,とこしえの神であられるエホバの恒久的な住まいですから,そこにおいて相続財産は,どこの銀行の金庫に入れられるよりも完全に保護され保存されます。(詩 103:19; 115:3,16。マタイ 5:11,12)さらに,使徒ペテロの指摘するところによれば,全能者は,キリストの共同相続者たちが相続財産を得るのを援助されます。至高者は,聖霊により彼らに対して「力」を行使され,彼らがみ前に是認される立場を保つよう援助し,彼らの命の権利を保護されます。その結果,「終わりの時期に」,キリストの共同相続者たちは,信仰のない者に下される有罪判決を免れ,永遠の命を得るために救われます。

      12 エホバ神は救いのためにどのようにわたしたちを「保護(して)」くださいますか。

      12 第一世紀のクリスチャンと同様,今日信仰を持つすべての人も,神が救いのために保護してくださることを確信できます。神は,まず,わたしたちが信仰を持つことを聖霊によって可能にしてくださいました。そして,同じ聖霊によって,神はわたしたちの信仰を強め続けてくださいます。その信仰は,わたしたちがあらゆる試練を首尾よく切り抜けるのを可能にします。(ヨハネ第一 5:4)ですから,エホバ神が,永遠の命を手に入れるようわたしたちを援助するために引き続き行なってくださることに対して感謝する十分の理由があるのではないでしょうか。全くその通りです。わたしたちの側に何らかの功績があるからではなく,神の大きなあわれみによってそうしてくださることを考えればなおさら,感謝の念は深まるはずです。

      死はわたしたちの希望の成就を妨げ得ない

      13 クリスチャンの希望がしっかりとした根拠に基づいていることは,何によって保証されていますか。

      13 死でさえも,わたしたちがクリスチャンの希望の成就を見るのを妨げることができません。天の父がみ子に関連して行なわれた事柄は,わたしたちの希望がしっかりとした根拠に基づいていることの確かで間違いのない保証となっています。使徒ペテロは次のように述べています。

      「たしかに,彼[神のみ子]は世の基が置かれる前から予知されていました。しかし時代の終わりに,あなたがたのために現わされたのです。彼を通して神を,すなわち彼を死人の中からよみがえらせて栄光をお与えになったかたを信じているあなたがたのためにです。こうしてあなたがたの信仰と希望は神に向けられることになりました」― ペテロ第一 1:20,21。

      14 イエス・キリストは「世の基が置かれる前から予知され」,また「時代の終わりに現わされた」とどうして言えますか。

      14 アダムとエバが子供をもうけて人類の世の基を置く前に,エホバ神は,罪と死の奴隷状態から人類を贖い出す役目を独り子であるみ子に与えることをお定めになりました。(創世 3:15; 4:1,2; ルカ 11:49-51と比較してください。)メシアの到来により,祭司職,犠牲,神殿における奉仕を含むユダヤ人の事物の体制は終わりの時代にはいりました。メシアの到来は,人類史に新時代を画したのです。それで,使徒ペテロは,キリストが「時代の終わりに……現わされた」と述べています。

      15 イエス・キリストは『彼を通して神を信じているあなたがたのために』現わされた,とペテロが言えたのはなぜですか。

      15 しかし,『彼を通して神を信じているあなたがたのために』神のみ子が現わされた,と同使徒が述べているのはなぜでしょうか。イエスが地上に来られる前,イエスによって成し遂げられる贖いの業の益にあずかることのできた人は一人もいませんでした。信仰を持つ人々がその益にあずかれるようになったのは,一世紀になってからです。当時の信者は,キリストに信仰を働かせることによって,み子を地上に遣わされた方であるみ父にも信仰を働かせていました。(ヨハネ 17:21)さらに,ペテロが述べた通り,エホバ神がみ子に対して行なわれたこと,すなわち,み子を復活させ,ご自分の右に高めてみ子に「栄光」をお与えになったことは,わたしたちが全能者に信仰と希望を置く十分の理由となっています。それはどうしてでしょうか。

      16 イエス・キリストの復活は何の保証ですか。

      16 至高者は,み子をよみがえらせたと同様,ご自分の僕の他の者をも復活させることがおできになります。イエス・キリストが不滅の天的な命によみがえらされたので,一世紀のキリストの弟子たちは,自分たちもキリストの天の栄光にあずかることを確信できました。神のみ子の復活は,現在死の眠りについている人々が生き返らされることの変わらない保証になっています。―コリント第一 15:12-22。

      17 イエス・キリストの復活はどれほど十分に確証されていますか。

      17 したがって,イエスが復活したという事実は十分確証される必要がありました。事実,十分の証拠が与えられました。復活させられた神のみ子を見た弟子は500人余りに上ったのです。(コリント第一 15:6)それらの目撃者たちは,そのすばらしい奇跡について証言するなら,神の敵に自由を奪われることや殺されることさえあるのを知っていました。それでも,イエス・キリストの忠実な弟子たちは,あらん限りの大胆さをもって起きた事柄を証ししました。(使徒 4:1-3; 7:52-60と比較してください。)み子の復活に関する確かな証拠がなければ,そのように勇気ある信仰を持つことはできなかったはずです。

      キリストが栄光のうちに到来されることは確実

      18 使徒ペテロは,「わたしたちの主イエス・キリストの力と臨在」について何を指摘していますか。

      18 エホバ神は,み子の復活におけると同様に,キリストが「力と大いなる栄光を伴(って)」確実に来られることに関しても明白な証拠が提出されるように取り計らわれました。(マタイ 24:30。啓示 1:7)使徒ペテロはこう述べています。

      「そうです,わたしたちが,わたしたちの主イエス・キリストの力と臨在についてあなたがたに知らせたのは,巧みに考え出された作り話によったのではなく,彼の荘厳さの目撃者となったことによるのです。というのは,『これはわたしの子,わたしの愛する者,わたし自らこの者を是認した』ということばが荘厳な栄光によって彼にもたらされた時,彼は父なる神から誉れと栄光をお受けになったからです。そうです,わたしたちは彼とともに聖なる山にいた時,このことばが天からもたらされるのを聞きました」。(ペテロ第二 1:16-18)

      ペテロはここでどんな出来事に言及していたのでしょうか。

      19 ペテロとヤコブとヨハネは,いつ,またどのように,キリストの荘厳さの目撃者となりましたか。

      19 それは主イエス・キリストの変ぼうのことでした。西暦32年の過ぎ越しからしばらくして,神のみ子は弟子たちに次のように語られました。「あなたがたに真実に言いますが,ここに立っている者の中には,人の子が自分の王国をもって到来するのをまず見るまで,決して死を味わわない者たちがいます」。(マタイ 16:28)幾日もたたないうちに,イエスのその言葉は成就しました。神のみ子は,使徒ペテロ,ヤコブ,ヨハネを伴って,ヘルモン山と思われるある高い山に登りました。その山の突き出た箇所で,このようなことが起きました。「[イエスは]彼らの前で変ぼうされ,その顔は太陽のように輝き,その外衣は光のようにまばゆくなった」。こうして,三人の使徒たちは,王国の力をもったイエスの到来が確かに栄光に輝いたものであるということの確証を得ました。次いで「きらきらした雲」が現われ,そこから,「これはわたしの子,わたしの愛する者,わたしはこの者を是認した。この者に聴き従いなさい」という声がしました。―マタイ 17:1-5。

      20 イエスが王国の力をもってもどって来られることに対する信仰には,なぜ確かな根拠がありますか。

      20 したがってイエスが王国の力をもって到来することに対する信仰は,人間が考え出した作り話に基づいたものではありませんでした。神のみ子が「力と大いなる栄光を伴(って)」もどられることを信じるよう他の人々に説き勧める際に,たくらみや欺きが用いられたことはありません。ペテロとヤコブとヨハネは栄光を受けたイエスを目の当たりに見,きらきらした雲つまり「荘厳な栄光」の中から出た神ご自身の声を聞きました。その声は,イエスを愛するみ子として承認しました。その時イエスが承認を受け,まばゆいばかりの様子に変えられたことは,イエスが誉れと栄光をお受けになったことにほかなりませんでした。エホバからこの壮大で神聖な啓示が与えられたがゆえに,ペテロは,適切にも,変ぼうの起きた山を「聖なる山」と述べました。

      21 変ぼうの幻は,わたしたちにとってどんな意味がありますか。

      21 この変ぼうは,信仰を持つ人々にどんな意味があるでしょうか。ペテロは次のように答えています。「したがって,わたしたちにとって預言のことばはいっそう確かなものになりました。そしてあなたがたが,夜があけて明けの明星が上るまで,暗い所に輝くともしびのように,心の中でそれに注意を向けているのはよいことです」。(ペテロ第二 1:19)そうです,変ぼうの幻は,主イエス・キリストが王国の力をもって到来されるという預言の言葉を確証しており,キリストの王としての栄光をあらかじめかすかに示すものでした。言うまでもなく,力つまり権威を抜きにしては,王の栄光,荘厳さあるいは尊厳というものはあり得ません。したがって,変ぼうは,イエスが力をもって確実に来られることの裏付けともなっています。

      22,23 (イ)自分が預言の言葉に注意を向けているのは「よいこと」であるということを,わたしたちはどのように示せますか。(ロ)その言葉は,どんな点でともしびのようですか。

      22 今日わたしたちが,預言の言葉に注意を払っているのは「よいことです」。なぜなら,わたしたちの生活上の関心事にとって,これほど重要で,これほどすばらしく,永続的な益をもたらすものはないからです。世界のニュースを熱心に読み,政治・経済・科学の分野の専門家の予言を調べても結局どうにもならなかった,ということはままあることです。しかし,預言の言葉から輝き出る光を導きとするなら,行き止まりの道に迷いこんだり,標識や指示がまちまちの迷路で途方に暮れたりすることはありません。ですから,この預言の言葉は,わたしたちが重点的に研究し黙想する価値のあるものです。その「ことば」が討議されるとき,あらゆる機会を利用して信仰の仲間と集まり合うのは賢明です。しかし,わたしたちが「注意を向けている」ということは,単に注意深く読んだり慎んで耳を傾けるということに限られているのではありません。それは預言の言葉に基づいて行動することを意味し,預言の言葉をわたしたちの時間と体力と資産の用い方に,つまりわたしたちの行状に反映させることを意味します。(ヤコブ 1:22-27と比較してください。)まったくのところ,わたしたちは,その預言の言葉が日常生活で真に実際的な価値を持っていることを正しく認め,公式の崇拝を行なっている間だけ考慮すればよいものとは考えません。

      23 ペテロの勧めに従い,わたしたちは,預言の言葉を,心の中を照らす,暗い所に輝くともしびとすべきです。生活のあらゆる面で預言の言葉を導きとしてそれに「注意を向けている」なら,わたしたちは,「明けの明星」と呼ばれている主イエス・キリストがそのすべての輝かしい栄光のうちに表わし示される壮大な日まで安全に導かれます。(啓示 22:16と比較してください。)イエス・キリストが表わし示されることは,信仰のない人々にとっては滅びを,イエスの献身的な弟子たちにとってはすばらしい祝福が授けられることを意味します。(テサロニケ第二 1:6-10)預言の言葉の成就と密接に結び付いている希望は,主が表わし示されるときにそのみ前で是認された者とみなされるために力を尽くすよう励ますものとなるはずです。―ルカ 21:34-36。

      24 聖書に収められている預言の言葉全体になぜ確信を抱けますか。

      24 実際,聖書に収められている預言の言葉全体は,真剣に考慮され生活の指針とされてしかるべきです。預言の言葉の性質そのもの,それが書き記された方法から,わたしたちは将来に対する確信に満たされるはずです。エホバの預言者たちは,世の中のある傾向を検討し,そのなりゆきに対する個人的な解釈に基づいて予言したのではありませんでした。聖書の預言は,預言者たち自身がその当時の情勢を注意深く分析して到達した結論ではありませんでした。それどころか,預言者たちは神の霊によって思いを刺激され,神の音信を言い表わすように動かされたのです。ペテロはこう言葉を続けています。「あなたがたはまずこのことを知っているからです。つまり,聖書の預言はどれも個人的な解釈からは出ていないということです。預言はどんな時にも人間の意志によってもたらされたものではなく,人が聖霊に導かれつつ,神によって語ったものだからです」。(ペテロ第二 1:20,21)真の預言は,間違いを犯しやすい人間からではなく,全知であられるわたしたちの創造者から出ているので,神のみ言葉に述べられているすべての預言は成就するということが分かります。

      25 クリスチャンの希望の確かさについて何と言えますか。

      25 クリスチャンの希望は,間違いなく,確かな証拠に基づいています。信頼できる目撃者の証言は,死の眠りについている人々がよみがえらされること,およびイエス・キリストがその栄光と力を明らかに示されることを確証しています。主が,創造者に仕えることを拒むすべての者を処罰し,ご自分の忠実な追随者をあらゆる苦しみから救い,病気も痛みも死もない義の新秩序を招来されるその日こそは壮大な日となるでしょう。―啓示 21:4,5。

  • 永遠の命に不可欠な食物
    最善の生き方を選ぶ
    • 4章

      永遠の命に不可欠な食物

      1 神の言葉の中に述べられている事柄は,なぜはちみつのようですか。

      飢えて弱っている人は,はちみつを一口なめただけでも元気を取りもどし,目が生き生きしてきます。神の言葉に述べられている事柄は,適切にも,「蜜また,はちの巣から流れる蜜よりも甘い」と言われています。というのは,神から与えられた指針は,それを感謝して受け入れる人の生活に計り知れない益をもたらすからです。(サムエル前 14:27。詩 19:9-11,新; 119:103)霊感によるみ言葉に述べられている知恵を得る人には,「将来が存するようになり,[その]望みは断たれ(ません)」。―箴 24:13,14,新。

      2 神の霊がわたしたちの内面に益となることを成し遂げようとしているのであれば,わたしたちは何をしなければなりませんか。

      2 神は,『永遠の命が得られるようにご自分の僕を保護』してくださること,しかも聖霊によりそうしてくださることを約束しておられます。(ペテロ第一 1:5)これは確かに励ましとなります。しかし,何も努力せずに保護されると考えるなら,思い違いをしていることになります。神の霊は,わたしたちがそれにどれほど協同するかに応じて,わたしたちを益する働きをします。そして,神の霊と協同することには,霊感による聖書の知識を取り入れることも含まれます。神のみ子はその理由をお示しになりました。

      3 イエス・キリストは,ご自分の弟子たちのために霊が何を行なうと言われましたか。

      3 神の霊が弟子たちをどのように助けるかを,イエスは次のように説明されました。「父がわたしの名において遣わしてくださる助け手,つまり聖霊のことですが,その者はあなたがたにすべてのことを教え,わたしが告げたすべての事がらを思い起こさせるでしょう」。(ヨハネ 14:26)イエスが天にもどられたのち,聖霊は,思い出させるものとして,イエスが言われたことを弟子たちに思い起こさせます。また,聖霊は,教え手として,思い起こした事柄の適用を弟子たちが理解できるようにするのです。

      4 神の霊はわたしたちをどのように助けることができますか。そのことは,聖書の知識を増し加えることの大切さをどのように強調していますか。

      4 イエス・キリストから直接教えを受けていないわたしたちの場合,事情は使徒たちのそれと異なっています。しかし,神のみ子の大切な教えは,わたしたちのためにもれなく聖書の中に保存されています。ですから,必要な時にはいつでも,聖霊は,霊感による聖書の要点をわたしたちに思い起こさせ,わたしたちが正しい適用を識別するのを助けることができます。神の霊は思い出させるもの,また教え手の働きをしますから,わたしたちは聖書を注意深く考察することによって聖霊と協同しなければなりません。聖書の知識の蓄えがごくわずかであれば,思い出させるものおよび教え手としてわたしたちのために作用する聖霊の働きから,十分の益を得ることは恐らく不可能でしょう。

      5 (イ)神の霊の働きから十分益を得るために,悪い性向を捨て去ることはなぜ大切ですか。(ロ)使徒ペテロは,霊的な食物を取り入れることについてどんな助言を与えましたか。

      5 また,神の霊は聖なるものでもあるので,エホバの観点から聖なる清い人々だけを助けます。ですから,聖書を単に読んだり,だれかに読んでもらったりするだけでは不十分です。清さや純粋さに関する神の基準と相いれない性向すべてを捨て去りたいという心からの願いもなければなりません。その点が,使徒ペテロの次の言葉の中でどのように強調されているかに注意してください。

      「すべての悪,すべての欺瞞と偽善とそねみ,またあらゆる陰口を捨て去りなさい。そして,生まれたばかりの幼児のように,みことばに属する,何も混ぜ物のない乳を慕う気持ちを培い,それによって成長して救いに至るようにしなさい。ただしこれは,主が親切なかたであることを味わい知っているならばです」― ペテロ第一 2:1-3。

      6 「乳」を慕う気持ちを培うよう勧められているのはだれですか。

      6 神のご意志を行なおうと勤勉に努めるとき,わたしたちの思いと心は,聖書の知識を取り入れる備えができていることになります。しかし,霊的な食欲をおう盛にするには,ほかにも考慮しなければならないことがあります。同使徒は,「生まれたばかりの幼児のように,何も混ぜ物のない乳を慕う気持ちを培い……なさい」と勧めています。(ペテロ第一 2:2)生まれたばかりの赤ん坊はミルクだけで十分であり,それ以外の食物をほしがりません。そのような赤ん坊と同じように,信仰を持って間もない人々も『みことばの乳』を必要としています。そして,それを切に求める気持ちを培わねばなりません。そうすれば,クリスチャンとして円熟したときに,霊的な固い食物に対する同様の渇望を持ちたいと願うに違いありません。―ヘブライ 5:12-14。

      7 数年のうちに神の言葉を完全に理解できるなどと期待できないのはなぜですか。

      7 真理の道をどれほどの期間歩んできたかには関係なく,わたしたちの造り主とわたしたちに対するその方のご意志について学ぶべきことは,やはりまだまだ多くあります。(コリント第一 13:12と比較してください。)聖書には全知の神エホバのお考えが収められているので,み使いたちでさえ,そこに述べられている啓示から益を受けます。(ペテロ第一 1:12)ましてや人間が,数年のうちに神の聖なる言葉を完全に理解できることなど考えられるでしょうか。ですから,み言葉のごく一部を知ることで満足するのは,はなはだ不適当と言えます。それは実際には,聖書の中にこれほどたくさんの霊的な備えを盛り込まなくてもよかったのに,と天の父に言っているようなものです。

      霊的な食物に対する味覚を培う

      8 わたしたちは何に促されて,聖書の理解をさらに深めたいという気持ちになるはずですか。

      8 エホバ神とイエス・キリストに対する愛に動かされるなら,聖書をできる限り理解したいと願うはずです。天の父とみ子をよりよく知って,お二方に一層近づくための助けは,聖書を通して与えられます。使徒ペテロも述べている通り,わたしたちはすでに「主が親切なかたであることを味わい知ってい(ます)」。(ペテロ第一 2:3)愛の表明として,イエス・キリストはわたしたちのために死なれ,わたしたちが天の父のみ前で清い立場を取れるようにしてくださいました。(ヨハネ 15:13。ヨハネ第一 2:2)その結果,わたしたちはエホバ神にはばかりなく近づいて,心配事や悩みをことごとくエホバにゆだねることができます。(ヘブライ 10:19-22。ヨハネ第一 3:19-22)わたしたちがイエス・キリストの弟子として受けてきた祝福と導きと助けは,造り主が親切なかたであり,わたしたちに深い愛情を抱いておられることを如実に示しています。(マタイ 11:28-30)すでに味わった,つまり経験した事柄がそれほど良いものであれば,わたしたちは,エホバ神とみ子の手本になお一層倣いたいと願うはずではないでしょうか。(詩 34:8)注意深く祈りを込めて聖書を考察するなら,正にそうするよう助けられます。

      9 (イ)どんなものは,霊的なものに対する強い食欲を失わせかねませんか。なぜそう言えますか。(ロ)霊的なものに対する食欲を強めるのに,どんなことができますか。

      9 自分は「みことば」を慕う気持ちがあまり強くないと感じる場合はどうしたらよいでしょうか。では,エホバ神とみ子があなたのために行なってくださった事柄を感謝の念を持ってゆっくり思い巡らしてください。また,神から離反している世の哲学や推論や宣伝に過度の注意を払って霊的な食欲を失ってはいないか調べてください。注意深い考察や黙想を必要としない読み物,また写真とか絵の多い雑誌ばかりを読むことも,霊的なものに対する食欲を失う原因となりかねません。聖書は人を楽しませるためでなく,教えるために書き記されたということを銘記する必要があります。言葉そのものはやさしくても,述べられている考えには,多くの場合,祈りを込めて熟考することに時間を掛けなければ,どう察できないような深い意味があります。

      10 イエス・キリストの例えに関するどんな事実は,聖書を何気なく読むだけでは正確な知識が得られないことを証明していますか。

      10 一例として,イエス・キリストが使われた例えは簡単なものでしたが,聖書のどの翻訳を読むにしても,何気なく読むだけでは,そこに示されている重要な真理を悟ることはできません。ユダヤ人は,自分たちの言語で神のみ子が語るのを聞きながら,その教えから感銘を受けなかったのではないでしょうか。イエスが使われたのは一般の人に理解できる言葉でしたが,話された事柄の意味は教育を受けた人々にさえ隠されていました。なぜなら,イエスの話を聴いていた人々の大多数は謙遜さと霊的な食物を慕う気持ちに欠けていたからです。したがって,その人たちは真意をつかもうとしてさらに尋ねることをしませんでした。―マタイ 13:13-15。

      11 聖書の浅薄な知識で満足すべきでないのはなぜですか。

      11 わたしたちは基礎的な教理,そして聖書の話や“物語”を知っているといった程度の,聖書の浅薄な知識で満足していたいとは思いません。いやしくも,自分は神とキリストを愛していると言うのであれば,聖書を学ぶことに進んで時間を掛け,そこに述べられている事柄の趣旨,意味,精神をくみ取ってそれを適用する必要があります。努力なくしては,どんな立派な技術も身に付きません。したがって,あらゆる知恵の源であられるエホバに関する知識を増すために大きな努力を払うのは当然ではないでしょうか。―箴 2:1-6; テモテ第一 4:13-16と比較してください。

      12 正確な知識を得ようとする態度は,祝福を受けることとどんな関係がありますか。

      12 神の言葉の理解を一層深めようとする態度は,わたしたちに与えられる祝福と直接関係があります。エホバ神を知るうえで差し伸べられた機会を十分に活用しなくても,命を失うとは限らないかもしれません。しかし,そのために,幾つかの点で神のご意志の不履行という罪を犯して祝福を得損なう可能性があります。イエスは,一つの例え話の中で,自分は知らなかったと言っても,ある程度の損失をこうむらずにはすまないことを示されました。主人の意向を理解していなかったためにむち打ちに値するようなことをした奴隷は,十分に知りながら故意に不従順な態度を取る奴隷ほど厳しい罰を受けないとしても,やはり罰せられます。(ルカ 12:47,48)ですから,神の言葉の定期的な研究を生活の一部とすることを怠り,その結果,クリスチャンの行状と活動の面で必要な進歩を遂げていないなら,それは重大なことです。

      13 神の言葉は,わたしたちが何を得る助けとなりますか。それは,霊的な食物を取り入れることにどう影響するはずですか。

      13 神の言葉全体は,わたしたちが「成長して救いに至る」,つまり,主イエス・キリストの是認された弟子として最終的に救いを得るのを助ける目的で書かれています。したがって,わたしたちが自分の永遠の福祉に真の関心を抱いているなら,霊感による聖書を通してエホバ神とみ子をよりよく知るようになりたいという誠実で強い願いにそのことが表われるはずです。

      14 他の人々の霊的な福祉に対する純粋な関心は,霊的なものに対するわたしたちの食欲にどのように影響することがありますか。

      14 むろん,関係しているのはわたしたちの命だけではありません。(テモテ第一 4:16と比較してください。)イエス・キリストの追随者であるわたしたちには,他の人々がキリストの弟子になるのを助けるという使命があります。(マタイ 28:19,20)わたしたちが聖書の理解にあまりにも欠けているなら,どうしてその使命を遂行できるでしょうか。他の人々を助け得る知識そのものを増し加えることに努力を惜しむなら,他の人々の霊的な福祉に心から関心を抱いていると,どうして言えるでしょうか。だれかほかの人を教えるようになると,霊的な食欲を増すのに必要な刺激を受けることがあります。聖書の真理を他の人々に分かつ時間を増やすと,霊的な食物に対するその人自身の欲求が強められることは珍しくありません。例えば,関心を持つ人から質問されると,教える人は,納得のいくように答えたいと思って神の言葉をさらに詳しく調べようという気持ちになるものです。

      15 文字の読めない人や読書するのが困難な人の場合,どうすれば聖書の内容から益を得ることができますか。

      15 では,文字を読むことに非常な困難を覚える人や,自分で聖書を読むことができない人の場合はどうでしょうか。そのような人々は,だれかに聖書を読んでもらい説明してもらうことによって,聖書の内容から益を得ることができます。そして,自分が聞いた事柄を熟考し,それを生活に当てはめることができます。(啓示 1:3。ネヘミヤ 8:8)十分の教育を受けていないために文字が読めないのであれば,読み方を学んだり読解力を向上させたりするための身近にある制度を活用するのは良いことでしょう。ある特定の言語で入手できるのが,聖書のほんの一部分にすぎないような所では,聖書全巻を自分の理解できる言語で入手できる人,しかも他の人々を教えている人に大きな責任が懸かります。そのような人々は,使徒パウロのように,「神のみ旨をことごとく」知らせるよう懸命に努力しなければなりません。―使徒 20:27。

      わたしたちの生活に及ぼすみ言葉の影響

      16,17 (イ)使徒ペテロによれば,神の言葉は一世紀のクリスチャンにどんな影響を与えましたか。(ロ)「ことば」が信者の内面で実際に力を発揮するには個人の努力が必要であったことは,何から分かりますか。

      16 あくまでも謙遜な態度で祈りのうちに神の言葉を考察するなら,現在の生活に健全な影響が及ぶでしょう。そのことは,使徒ペテロが信仰の仲間に書き送った次の言葉から明らかです。

      「あなたがたは,真理に対する従順によって自分の魂を浄め,その結果偽善のない兄弟愛を得たのですから,互いに心から熱烈に愛し合いなさい。あなたがたは,[死すべき肉的存在である人間に対して責任のある]朽ちる種ではなく,朽ちることのない,再生する種により,生ける,いつまでも存在される神のことばを通して新しい誕生を与えられたのです。『肉なるものはみな草のごとく,その栄光はみな草の花のようである。草は枯れ,花は落ちる。しかしエホバの語られることばは永久に存続する』とあるからです。そして,これが,すなわち,あなたがたに良いたよりとして宣明されたことが,その『語られることば』なのです」― ペテロ第一 1:22-25。

      17 ペテロの言葉が西暦一世紀のクリスチャンにどのように当てはまったか考えてみましょう。イエス・キリストの当時の弟子たちは,「良いたより」の真理を吸収すると,自分自身を浄めるために,つまり,誤った慣行を捨て去るために努力するよう心を動かされました。そして,神の霊の助けを得て,真理が自分たちに求めている事柄に従順に従いました。その結果,信仰において結ばれている人々に真の愛を示し始めました。(ヨハネ 13:34,35)しかし,彼らの人生におけるこの驚くべき変化は,個人の努力なしに生じたわけではありません。真理と神の霊の影響を素直に受けることによってのみ,偽善のない兄弟愛を示すことができました。その理由で,ペテロは彼らに,「互いに心から熱烈に愛し合いなさい」と勧めることができたのです。(ペテロ第一 1:22)「熱烈に」と訳されているギリシャ語には「拡大して」という字義上の意味があります。したがって,心から熱烈に示される愛は,疑いやねたみやしっとのために狭められたり限られたりするものではありません。それは,清い心から示されるべきものです。この種の愛は,心からの温かさの欠ける形式的な愛ではなく,熱烈な感情と愛情の際立った愛です。愛の神であられるエホバが,新しい誕生を与えてそのようなクリスチャンの弟子たちをご自分の子とされたのですから,彼らが信仰の仲間に熱烈な愛を表わして神の子であることを証明するために勤勉に励むのは,当然のことでした。―ヨハネ第一 3:10,11。

      18 (イ)神の言葉に従う結果生じる変化は,表面的なものでも一時的なものでもないのはなぜですか。(ロ)「ことば」と神の霊によって成し遂げられる事柄は,罪深い人間の経験とどのように異なりますか。

      18 今日の,イエス・キリストの弟子すべての場合,「生ける,いつまでも存在される神のことば」の知識を取り入れ,それに従う結果生じる変化は,表面的もしくは一時的なものではありません。その「ことば」は朽ちることがないのです。したがって,「良いたより」の真理の影響を受け続ける人はいずれも,絶えず良い方向へ変えられます。罪深い人間は草のようにしおれて死にますが,いつまでも存在する「ことば」と神の霊によって生じた変化は残ります。

      19 わたしたちは,自分の霊的な必要をどう考えるべきですか。

      19 ですから,わたしたちの霊的な必要を決しておろそかにすることなく,思いと心を真理で満たすことに励みたいものです。霊的な食欲がおう盛なら,霊的な健康と強さを得ることができます。そして,「良いたより」と神の聖霊の影響を謙遜に受けるとき,わたしたちは,聖書の正確な知識を得るよう他の人々を援助して,イエス・キリストの忠実な弟子であることを証明したいものです。ゆえに,いつまでも存在する「ことば」を取り入れるなら,わたしたちは成長して救いに至るよう助けられ,永遠の将来を確かなものとすることができます。

  • 完全な手本 ― キリスト
    最善の生き方を選ぶ
    • 5章

      完全な手本 ― キリスト

      1 イエス・キリストを見倣いたいという気持ちになるには何が必要ですか。

      ある人に心から従いたいという気持ちになるには,その人の手本が見倣うに値することを確信していなければなりません。その人に対する評価が高ければ高いほど,またその人に対する愛情が深ければ深いほど,その人のようになりたいという願いはそれだけ強くなります。ですから,わたしたちがイエス・キリストの模範にどれほど倣うかは,イエスにどれほど深い愛と感謝を抱いているかに大きく依存しています。では,わたしたちが神のみ子に対する愛情を深めるのに,どんな助けがあるでしょうか。

      2,3 (イ)イエス・キリストを知るようになるのに,イエスを実際の目で見なければならないわけではないことを,何が示していますか。(ロ)神のみ子を実際に見た多くのユダヤ人が,み子を認めるようにならなかったのはなぜですか。

      2 イエスの死後,一世紀中にクリスチャンになった多くの人々と同様,わたしたちも神のみ子に直接会ったことがありません。(ペテロ第一 1:8)しかし,目で実際にイエスを見ないからと言って,イエスを一層深く愛せないわけではありません。人間であられたイエス・キリストを実際に見ながらイエスを知るようにならなかった人は大勢いました。その人たちは,メシアとはこうあるべきだという自分の考えでイエスを判断して,つまずきました。例えば,イエスの郷里の人々は次のように言いました。「この人は,これほどの知恵とこうした強力な業をどこで得たのだろうか。これはあの大工の息子ではないか。彼の母はマリアと呼ばれ,兄弟たちはヤコブ,ヨセフ,シモン,ユダと呼ばれているではないか。そして彼の姉妹たちは,みんなわたしたちとともにいるではないか。では,この人はどこでこうしたことすべてを得たのだろうか」― マタイ 13:54-57。

      3 そのような不信仰なことを言った人々の目や耳は,思いと心に正確な情報を伝えなかったに違いありません。それらの人は,しがない大工の家の出だというような外面的な事柄でイエスを判断したために,イエスを約束されていたメシアつまり神の子であると認めることができませんでした。イエスの奇跡の意味に関して彼らの思いは曇らされていて,イエスの立派な資質を見てもそれらを正しく評価しませんでした。

      4 どうすれば,神のみ子を一層知るようになれますか。その情報源からどんな事柄を学べますか。

      4 一方,聖書がイエスについて述べている事柄を注意深く,祈りを込めて考察するなら,イエス・キリストをさらによく知り,さらに深く愛するようになれます。(ヨハネ第一 1:1-4と比較してください。)聖書は神のみ子の非常に心温まる姿を描いています。イエス・キリストは,完全な方でしたが,苦しむ人々を扱う際に,あら捜しをするようなところや威圧的なところが少しもありませんでした。(マタイ 9:10-13)イエスはだれよりも優れた知恵を持っておられましたが,「柔和で,心のへりくだった」方だったので,そのそばにいる人が劣等感を抱いたり,居心地悪く感じたりすることはありませんでした。(マタイ 11:29)子供たちでさえ気楽にイエスに近付くことができました。(マタイ 19:13-15)イエス・キリストは,弟子たちの限界を考慮して,大切な教訓を辛抱強く繰り返しお教えになりました。(ヨハネ 16:12)病人や霊的に困窮している人を見ると,哀れみを感じられ,そうした人に快く援助の手を差し伸べられました。(マタイ 9:36。マルコ 6:34)イエスと使徒たちが,貧しい人を援助するためにお金を引き出せる共同の基金を持っていたことからも,そのような人に対するイエスの関心のほどがうかがえます。(ヨハネ 12:4-6; 13:29)神のみ子は他の人のために熱心に骨身惜しまず働かれ,偽善と誤りを勇敢に暴露されました。(マタイ 23:2-35)そして最後に,人類に対する大きな愛の証拠として,ご自分の命を捨てられました。(ヨハネ 15:13)神のみ子は,勇気と謙遜さと愛のなんとすばらしい手本をわたしたちに残されたのでしょう。

      み子に対するエホバの評価

      5 イエス・キリストに関するどんな大切な知識は,文字通りの視覚や聴覚や触覚では得られませんか。

      5 さらに,エホバ神がみ子をどのようにみなしておられるかを教えているのは聖書だけです。イエス・キリストに関するそうした事柄は,文字通りの視覚と聴覚と触覚だけでは分かりません。例えば,神のみ子の誉れある地位とみ子のもとに来ることの益について,使徒ペテロが信仰の仲間に書き送った言葉を考えてみましょう。ペテロはこう書きました。

      「たしかに彼は人には退けられましたが,神にとっては選ばれた貴重な石であり,あなたがたは,生ける石に来るごとくに彼のもとに来て,自らもまた生ける石として,聖なる祭司職のための霊の家に築き上げられてゆくのです。それは,神に受け入れられる霊的な犠牲をイエス・キリストを通してささげるためのものです。というのは,聖書にこうあるからです。『見よ,わたしはシオンに石を置く。選ばれた石,土台の隅石,貴重な石である。それに信仰を働かせる者は決して失望することはない』」。(ペテロ第一 2:4-6)

      これは,一世紀のクリスチャンにとって何を意味していたでしょうか。

      6 (イ)一世紀において,信仰を持つ人々はどのように,「生ける石に来るごとくに」神のみ子のもとに来ましたか。(ロ)イエスが「生ける石」と呼ばれるのがふさわしいのはなぜですか。

      6 イエス・キリストが自分たちの主であり,救いを得るための経路であることを認めることによって,彼らは「生ける石に来るごとくに」イエスのもとに来ました。「生ける石」とは非常に適切な表現です。キリストは,命を支える物が得られない,普通の冷たい無生の石とは違います。イスラエル人は,荒野で岩塊から奇跡的に出た水で潤されましたが,神のみ子はその時の岩塊のようです。霊感を受けた使徒パウロによれば,「その岩塊はキリストを表わしていました」。それは,神のみ子の象徴もしくは描写的な型でした。(コリント第一 10:4)イエスご自身次のように語られました。

      「だれでも渇いた人がいるなら,わたしのところに来て飲みなさい」。(ヨハネ 7:37)「だれでもわたしが与える水を飲む人は,決して渇くことがなく,わたしが与える水は,その人の中で,永遠の命を与えるために沸き上がる水の泉となるのです」。(ヨハネ 4:14)

      このように,神のみ子は,人がご自分の教えを新鮮な水のように取り入れるなら,救い,つまり終わりのない命へと導かれることを示されました。そればかりか,イエス・キリストは命を与える力をも授けられているのです。人々を死からよみがえらせ,ご自分のなだめの犠牲に基づいて,み父と同様,人々に命を分け与えることがおできになるのです。―ヨハネ 5:28,29。

      7 イエス・キリストは「生ける石」としてどのように退けられましたか。

      7 ペテロが指摘している通り,イエスは「たしかに……人に退けられました」。特に,尊大な宗教指導者たちは,見倣うに値すると考えられるものを神のみ子の中に何一つ見いだしませんでした。人類に対するみ子の模範的な同情心や愛を正しく評価していませんでした。イエスが,罪人として知られていた人々を霊的に援助したとき,宗教指導者たちは,「この人は罪人たちを歓迎していっしょに食事をする」と異議を唱えました。(ルカ 15:2)それら宗教指導者は,み子が同情心にかられ,安息日を利用して,盲人の目を開け,病人をいやし,不具の人を治す様子を目撃しました。しかし,大いに喜んで神をたたえるどころか,怒りに満たされてみ子を殺そうとたくらみました。(マタイ 12:9-14。マルコ 3:1-6。ルカ 6:7-11; 14:1-6)そして,み子に目を開けてもらった人に,「これは神からの人ではない。安息日を守っていないからだ」と言いました。(ヨハネ 9:16)最後に,ユダヤ人の最高法廷だったサンヘドリンは,冒とくという偽りの罪でイエスに死刑を宣告しました。(マタイ 26:63-66)ユダヤ人の支配者たちは,処刑が必ず行なわれるように,イエスの罪状を冒とくから扇動に変えました。ローマの総督ピラトは,彼らにそそのかされ,重罪を犯した政治犯のようにイエスを刑柱に付けるよう命じました。―ルカ 23:1-24。

      8 エホバはみ子をどのように評価しておられますか。

      8 人々がイエス・キリストを土台として受け入れなかったことによって,み子に対する神ご自身の評価が変わったわけではありません。至高者はみ子を,人類を贖う手段として,またクリスチャン会衆がその上に建てられる「生ける石」としてあらかじめ定めておられたので,イエスは,ペテロが述べる通り,「選ばれた」方であり,その後も引き続いてそうでした。み子が神のお目的を完ぺきに果たすことに対して,み父は一点の疑いも持たれませんでした。エホバは,み子が献身と愛情の点で完全なことを知っておられました。地上におられたとき,イエス・キリストは,非常な苦しみを受けながらみ父のご意志を完全に行なうことによって,み父に対する深い愛を証明されました。厳しい試練の下で忠実を保ったゆえに,み子は至高者の目に極めて貴重なものとなりました。ですから,エホバ神がこの上なく貴重な息子と考えておられる方を土台としているクリスチャン会衆は,祝福されていると言えます。(エフェソス 2:20-22)それで,クリスチャン会衆の献身的な成員たちは,イエス・キリストの忠実な道を見倣おうと懸命に努力します。

      9 一世紀の信者たちは,自分たちの信仰が失望に終わることはないとなぜ確信できましたか。

      9 使徒ペテロから手紙を書き送られた人々は,み子に対して神と同じ見方をしました。ペテロもそのことを,「彼が貴重であるのはあなたがたにとってであり,それはあなたがたが信じる者となっているからなのです」と述べています。(ペテロ第一 2:7,前半)それらのクリスチャンは,イエス・キリストが,み父によって天のシオンにすえられた極めて貴い隅石であり,詩篇 118篇22節,イザヤ書 8章14節および28章16節の言葉を成就しておられることを認めました。み子の評価に関してエホバと一致していたゆえに,また,土台の隅石としてみ子に信仰を置いていたゆえに,一世紀の信者は,失望することはない,つまり希望がくじかれることはないという確信を持てました。天にしっかりとすえられている高価で貴重な土台を損なって,その土台と密接に結び付いている希望を持つ人々に損失を被らせることは,だれにもできません。会衆の,揺り動かされることのない土台であられるキリストに結び付いている限り,信仰を持つ人々は,その信仰の目標,すなわち終わりのない命を得るという確信を持ちました。しかし,信仰のない人々は大きな損失を被ることになっていました。使徒ペテロは次のように言葉を続けました。

      「しかし,信じていない者たちにとっては,『建築者たちの退けたその石が角の頭となった』,また『つまずきの石,とがのもととなる岩塊』です。こうした者たちはみことばに不従順なためにつまずいているのです。彼らはまさにそうした結末に定められてもいました」― ペテロ第一 2:7後半,8。

      10 イエス・キリストは,どのように「つまずきの石,とがのもととなる岩塊」となりましたか。

      10 ユダヤ人の高名な宗教指導者たちは,自分たちが理想とする人物として神のみ子を受け入れず,み子を土台として永遠の命の希望を築かなかったので,王国の相続者となるというすばらしい特権を得損ないました。イエス・キリストはすでに彼らにこう警告しておられました。「[悔い改めた]収税人や[悔い改めた]娼婦たちがあなたがたより先に神の王国にはいりつつあるのです」。(マタイ 21:31)それら宗教指導者が取った行動は,イエスが「角の頭」,「霊の家」の最高の石となるのを妨げることができませんでした。そればかりか,自分たちの建築作業には不向きな石としてイエスを扱いながらも,イエスを自分たちの邪魔になる石として考慮せざるを得ませんでした。彼らは,イエスが死んで復活したのちでさえ,神のみ子を無視することはできませんでした。なぜなら,イエスの忠実な弟子たちがイエスについて大胆に証しし続けたからです。(使徒 5:28)こうして,イエス・キリストは,あくまでも信じようとしない人々すべてに悲惨な結果をこうむらせるつまずきの岩になられました。正真正銘の信者であることを示す人々が救いに定められているように,不信仰な者であることを表わす人々は,損失を被るように定められています。神のみ子は,ご自身に関して次のようにさえ言われました。「その石の上に落ちる者はだれもみなこなごなになるでしょう。だれでもこれがその上に落ちる者は,みじんに砕かれるでしょう」― ルカ 20:18。

      「生ける石に来る」ことの結果

      11 一世紀の信者たちは,どのように「生ける石」となりましたか。

      11 一世紀の信者たちは,イエス・キリストを神に選ばれた貴重な「生ける石」として認めることにより,「生ける石」のようになりました。どのようにですか。『罪過と罪によって死んでいる』ことをやめ,その代わりに,神の子として「命の新たな状態」を享受することによってでした。(コロサイ 2:13。ローマ 6:4)「生ける石」であられるキリストを通して,命の益がその人たちに分かち与えられました。しかし,その人たちは,建築に用いられる無生の石のようにごろごろころがっていて,何の有用な目的も果たさなくてよかったのではありません。それどころか,一つの調和のとれた建物となるはずでした。一つのまとまりのある建物となるために,彼らは,自分たちが模範とすべき方から示されたのと同様の自己犠牲的な愛を互いに示し合わなければなりませんでした。(ヨハネ 13:34)また,地上におられたときのイエスのように,働き人でもなければなりませんでした。神のみ子は,他の人々の必要に答え応じ,他の人々が永遠の命への道を歩み始めるのを助けて,み父のご意志を行なうことに全く没頭されました。―ヨハネ 4:34。

      12 「生ける石」はどんな建物へと築き上げられて行きますか。それで「生ける石」にはどんな責任がありますか。

      12 霊の家,聖所つまり神殿となるように神によって建てられているクリスチャンには,なすべき重要な業があることを,使徒ペテロの言葉は強調しています。(コリント第一 3:5-17; 6:19と比較してください。)ペテロがこう述べていることに注目してください。「あなたがたは……自らもまた生ける石として,聖なる祭司職のための霊の家に築き上げられてゆくのです」。そうです,「生ける石」から成るこの神殿は聖なる祭司職でもあるのです。したがって,霊によって生み出されたクリスチャン各人は,偉大な大祭司であられるイエス・キリストの下で忠実に奉仕する祭司なのです。そのようなクリスチャンは,自分のために祭司の役を務める一人の人もしくは人々の一団を必要としません。祭司としてのその務めは,「神に受け入れられる霊的な犠牲をイエス・キリストを通してささげる」ことです。(ペテロ第一 2:4,5)では,それらの犠牲とは何でしょうか。

      13-15 「霊的な犠牲」とは何ですか。そのことは聖書的にどのように裏付けられますか。

      13 ペテロによれば,それは「霊的な」ものですから,物質的な祭壇で献じられる動物や穀物のささげ物ではありません。神のみ子が,罪を贖う受け入れられる犠牲としてご自身をささげられたとき,その種の物質的な犠牲をささげる期間は終わりました。―ヘブライ 10:11,12。

      14 次の聖句に見られる通り,ヘブライ語聖書中にさえ,受け入れられる「霊的な犠牲」がどんな性質のものかが示されています。「あなたの犠牲として感謝の言葉を神に捧げ(よ)」。(詩 50:14,新)「彼らが感謝の犠牲を捧げ,喜びの叫びをもってそのみ業を告げ知らせるように」。(詩 107:22,新)「わたしの祈りがあなたの御前における香として用意されますように。わたしのたなごころを挙げることが夕べの穀物の捧げ物として」。(詩 141:2,新)「わたしたちは代わりに自分の唇の若い雄牛を捧げます」。(ホセア 14:2,新)ですから,「霊的な犠牲」には,祈りや賛美や感謝といった事柄が含まれると言えるでしょう。

      15 クリスャン・ギリシャ語聖書からは,さらに詳しいことが分かります。わたしたちはこう告げられています。「彼[キリスト]を通して常に賛美の犠牲を神にささげましょう。すなわち,そのみ名を公に宣明するくちびるの実です。さらに,善を行なうこと,そして,他の人と分かち合うことを忘れてはなりません。神はそのような犠牲を大いに喜ばれるのです」。(ヘブライ 13:15,16)また,フィリピ 2章17節で,使徒パウロは,「あなたがたが信仰のゆえにささげる犠牲と公的奉仕」と述べており,パウロ自身がその上で「飲みもののささげ物のごとく注ぎ出され」ていました。これらの聖句は,他の人々の霊的かつ物質的な福祉を積極的に気遣うこと,他の人々のために時間や体力や資産を喜んで用いることの大切さを強調しています。模範とすべき方であるイエス・キリストが行なわれたように,神の音信を同胞に伝え,物質的に困っている人々を助けに行くことによってそうした気遣いは示されます。考えてもみてください,至高者は,ご自分の僕が同胞の福祉を増進させるために行なう事柄を,賛美の喜ばしい犠牲とみなされるのです。

      16,17 そうした「霊的な犠牲」をささげ,神の「卓越性」を宣明することには,どんな十分のいわれがありますか。

      16 エホバ神が一世紀のクリスチャンのためにみ子を通して行なわれたことからすれば,彼らが,『霊的な犠牲をささげ』るよう心を動かされたことには十分のいわれがあります。かつて,彼らは深い「やみ」におり,希望を持っていませんでした。世の一部であったとき,その「支配者」であるサタン,つまり「やみの権威」の支配下にありました。(ヨハネ 14:30。コロサイ 1:13)非ユダヤ人は,真の神とそのお目的に関して事実上全く無知の状態にあり,神のみ前に何の立場も持っていませんでした。使徒ペテロは,次のように述べて,そのことに注意を促しました。『あなたがたはかつては民ではありませんでしたが,今は神の民です。あなたがたはあわれみを示されない者でしたが,今ではあわれみを示された者となっています』。(ペテロ第一 2:10)そうです,イエス・キリストを受け入れることにより,ユダヤ人も非ユダヤ人も,「選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民」となりました。(ペテロ第一 2:9)それらの人は神によりその民として「選ばれ」,聖なる,もしくは神聖な目的のために取り分けられた国民を構成して,イエス・キリストと共同の王なる祭司に召され,み子のきわめて貴重な血をもって至高者ご自身の所有物として取得されました。(出エジプト 19:5,6; 啓示 5:9,10と比較してください。)このことは,霊的イスラエル人にとってなんと際立ったあわれみの表示となったことでしょう。この「聖なる国民」各人は,神の啓発および神の恵みという光を享受しました。それは,彼らが「やみ」のうちにあって至高者から離反し,その方のご意志と目的に対して無知であった時とは明確な対照を成していました。

      17 それらイエス・キリストの弟子たちは,エホバ神の承認と過分の恵みを賜ったゆえに,至高者がみ子を通して自分たちのために行なってくださったことをことごとく宣明するよう心を動かされました。彼らは,天のみ父の「卓越性」,その驚くべきみ業について他の人々に語らずにはいられなかったのです。

      18 わたしたち一人一人は,この章で学んだ事柄をどのように適用すべきでしょうか。それはなぜですか。

      18 「聖なる国民」と交わりつつある「大群衆」を成す人々を含む,今日の,イエス・キリストの真の弟子すべても同様に,廉潔な生活を送り,神の是認を得るよう他の人々を積極的に助けたいという気持ちになるはずです。(啓示 7:9-15)霊的に困っている人々の援助に努めることに身を費やしたいというのが,わたしたちの心からの願いであるはずです。こうして神のみ子に見倣うとき,わたしたちの生活は非常に充実した豊かなものになってきます。仲間の幸福,慰め,励ましに寄与することから実に大きな喜びが得られるのです。(使徒 20:35)そして今度は,自分が無私の気持ちで時間と体力と資産を与えた人々から愛情と感謝を示されます。感謝を示さない人がいたとしても,天の父に喜んでいただけたという内なる深い満足感があります。また,み父の意志を行なっているのですから,その援助と導きが得られることを確信できます。(ヨハネ第一 3:22)エホバ神の目に極めて尊い方の手本に倣うことから豊かな祝福を刈り取り続けて行きたいものです。

  • 権威に対する服従は報われる
    最善の生き方を選ぶ
    • 6章

      権威に対する服従は報われる

      1 現存する制度に服するのは賢明であり有益であるとなぜ言えますか。

      現存する制度に対する服従つまり従順を示すことは知恵の道です。完全な独立は,外見にはどう映ろうと,望ましくもなく現実的でもありません。なにもかも行なえ,すべてのことを知っている人間は地上に一人もいません。命を保つために空気,太陽,食物,水が不可欠であるように,生活から益を得かつ生活を楽しむには他の人々および他の人々の世話を受けることも必要です。

      2 エホバが最高主権者であるという事実は,わたしたちの生活にどんな影響を与えるはずですか。

      2 行政制度,雇用関係,家族のきずな,クリスチャン会衆との交わり,人間が社会生活を営んでいること,これらすべてはわたしたちにある種の義務を負わせます。わたしたちには,他の人々から受けるものに対して返す務めがあるのです。人間に対するそうした義務を果たすうえで最も大切なのは,エホバ神の立場を認めることです。創造者であられるエホバ神は,当然ながら,わたしたちがすべてのものを負っている最高主権者です。使徒ヨハネは,幻の中で,24人の長老がこう言明しているのを聞きました。「エホバ,わたしたちの神よ,あなたは栄光と誉れと力を受けるにふさわしいかたです。あなたはすべてのものを創造し,あなたのご意志によってすべてのものは存在し,創造されたからです」。(啓示 4:11)わたしたちにとっても同様に,エホバを至高者と認めるのは,口先だけの事柄ではありません。自分に対する神のご意志に服従していること,また,イエス・キリストをわたしたちの任命された主と認めていることは,あらゆる関係において表わすことができます。

      「主のために」

      3,4 わたしたちが服すべき「人間の創造したもの」とは何ですか。なぜそのように言えますか。

      3 使徒ペテロは,人間の権威に服する主な理由について高尚な考えを打ち出し,次のように書きました。「人間の創造したものすべてに,主のために服しなさい。すなわち,上位者としての王に対してであろうと,あるいは,悪行者を処罰し,善行者をほめるために王から遣わされた知事に対してであろうとです」― ペテロ第一 2:13,14。

      4 服すべき「人間の創造したもの」とは,人間製の統治権のことです。王や下級の支配者もしくは知事といった地位を作り出したのは神ではなく人間ですから,それらは「人間の創造したもの」と言えます。そうした権威は,現在の状況下で有用な目的を果たすので,至高者はそれらが存在するようになるのを許し,容認しておられるのです。政治上の権威は神の許可の下に存在しているわけですから,それに反逆する人は「神の取り決め」に反逆していることになります。神はまだその取り決めを終わらせて,それに代わる,み子による天の王国を招来させておられません。(ローマ 13:1,2)使徒ペテロの時代,ユダヤを含むローマ帝国諸州には知事が置かれていました。それら知事たちは,皇帝に対して,管轄区域内の法と秩序を維持する直接の責任を持っていました。知事は任務を遂行するにあたり,強盗,人さらい,どろぼう,治安攪乱者などの「悪行者を処罰し(ました)」。また,「善行者をほめる」こともしました。すなわち,廉潔な人を立派な人物として公に認め,その身体や財産や権利を保護することによってその人を尊重したのです。

      5 だれのために服すべきですか。その方を「主」と呼ぶのはなぜ当然のことですか。

      5 とはいえ,クリスチャンは,罰を避け,『ほめて』もらうのが主な目的で服することを勧められているのではありません。服するのは「主のため」なのです。その主とはイエス・キリストのことです。使徒ペテロが少し前のところでイエス・キリストを主と認めているからです。(ペテロ第一 1:3)聖書によれば,神のみ子は,「死んだ者にも生きている者にも主」です。(ローマ 14:9)したがって,み子は,人間の支配者のうちだれも得たことのない地位を占めておられます。イエス・キリストは『死んだ者の主』ですから,死者を復活させてその人々をみ前に呼び寄せることができます。イエスの主としての権限は,人間の生者と死者に対してのみならず,さらに広範囲に及びます。ご自身が復活されたのち,神のみ子は,「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています」と言われました。(マタイ 28:18)人間の支配者の権威よりも計り知れないほど大きな権威を持たれる方のために人間の支配者に服従するのは,賢明なことに違いありません。

      6,7 「主のために」どのように人間の支配者に服しますか。

      6 「主のために」政府の高位高官に服するとはどういうことでしょうか。イエス・キリストをわたしたちの主と認めるがゆえに,支配者にふさわしく服するよう動機付けられるのでなければならない,ということです。神のみ子はこの点で完全な手本を残されました。み子は,政府当局の要求に逆らわず,そうするように他の人々を教えることもなさいませんでした。むしろこう説き勧めておられます。「権威のもとにある者があなたを一マイルの奉仕に徴用するなら,その者といっしょに二マイル行きなさい」。(マタイ 5:41)『カエサルのものはカエサルに返しなさい』― マタイ 22:21。

      7 時折り,政府は種々の目的で国民に登録を行なわせます。あるいは,道路やダムや学校の建設などと関連して,公共建築物とか,農業計画を支持するよう人々に呼び掛けることもあります。(ルカ 2:1-3)こうした事柄については,いつも,クリスチャンの良心が考慮されなければならないことは言うまでもありません。しかし,聖書によって訓練された良心に反する問題が関係していない場合,クリスチャンが従順で協力的であることを示すために,自分に出来ることを行なうなら,「良いたより」を広めるうえで貢献することができます。どんなことにしろ特定の事業計画に対して騒ぎ立てたり,政府当局のどのレベルであろうとそれに公然と反抗することは厳に慎むべきでしょう。聖書が命じているのは,「政府や権威者たちに服し,自分の支配者としてそれに従順であるべきこと……また,あらゆる良い業に備えを(する)」ことです。好戦的で無礼な態度は,神のみ子の教えおよび手本と調和しません。―テトス 3:1,2。

      「神の奴隷として」

      8 支配者に正しく服することからどんな益が得られますか。

      8 権威に対して正しく服することが真の崇拝の目的を推し進めるうえでどのように役立つかを示して,使徒ペテロはこう書いています。「というのは,道理をわきまえない人たちの無知な話を,あなたがたが善を行なうことによって封じるのは,神のご意志であるからです」。(ペテロ第一 2:15)神に対して正しい良心を保ち,なおかつ,善良で礼儀正しく順法的であると支配者からみなされる事柄を行なうクリスチャンは,ほめられることがあるかもしれません。その結果,至高者の僕を,がんこで不従順で反社会的であり,扇動的もしくは破壊的であると不当に非難する無知な人々は沈黙させられることになります。このように,クリスチャンのほめるべき行状は,良い評判を落とさないための正に最善の防御となります。

      9,10 わたしたちが政府当局に服する態度は,主人に対する卑屈な奴隷の服従のようでないのはなぜですか。

      9 ところで,支配者に対するクリスチャンの従順とは,みじめな隷従,完全な屈従を意味するのでしょうか。霊感を通して与えられている答えによれば,そうではありません。使徒ペテロは続けてこう述べています。「自由の民らしくありなさい。ですが,あなたがたの自由を,悪の覆いとしてではなく,神の奴隷として保ちなさい」― ペテロ第一 2:16。

      10 クリスチャンであるわたしたちは,罪と死の奴隷の状態から自由にされました。(ヨハネ 8:31-36)神のみ子は,わたしたちを横死に対する恐れから解放することさえしてくださいました。サタン悪魔は,人々が独裁者の命令で自己の良心に反する行為をするようにうまく仕向けるなど,横死に対する恐れを利用して人々を奴隷の状態にとどめておくことに成功してきました。(ヘブライ 2:14,15)しかし,わたしたちは自由な民なのですから,一人の人間あるいは人々の集団の命令や脅しに良心を屈従させるわけにはいきません。支配者に対するわたしたちの服従は自発的なものであり,最高主権者であられるエホバ神の命令が優先されるゆえに制限付きのものと言えます。わたしたちは,人間の屈辱的な奴隷となり,神の律法におかまいなく無条件に従うことはできません。使徒ペテロが指摘した通り,クリスチャンは「神の奴隷」です。したがって,至高者への崇拝に直接反しない限り,政府当局の意向に喜んで従います。それに反する場合には,ユダヤ人の最高法廷に立たされたときにペテロと他の使徒たちが表明した立場を取る必要があります。すなわち,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」。―使徒 5:29。

      制限付きの自由

      11 政府当局に対するどんな態度はクリスチャンの自由の乱用となるでしょうか。

      11 しかし,神の律法に反していない事柄に関して政府に逆らい,政府が自分たちに対して何の権威も持たないかのように生活するのは正しくありません。そのような敬意の欠けた態度はクリスチャンの自由の乱用にほかなりません。クリスチャンが享受している自由は,神の奴隷であるという制限付きのものです。自由だからといって,ふさわしい制限を振り捨て,悪行にふけったり,生命と環境の保護のために設けられてはいても自分にとって不都合な法律を軽視したりすることが許されるわけではないのです。むしろ,クリスチャンは,交通規則,公害防止条令,狩猟や魚つりに関する法律などの背後にある良い意図を認識していることを,行動によって示すべきです。

      12 他の人に対してどんな義務を負っているかは何によって決まりますか。

      12 そうです,わたしたちは他の人々に対する義務を負っています。こうした義務の性質は,エホバ神および仲間の人間との特定な関係によって違ってきます。使徒ペテロはそれらの義務に注意を向けて次のようにさとしています。「あらゆる人を敬い,仲間の兄弟全体を愛し,神を恐れ,王を敬いなさい」― ペテロ第一 2:17。

      13 (イ)なぜすべての人は敬われるべきですか。(ロ)わたしたちは霊的な兄弟に対してどんな義務がありますか。(ハ)人間にどのような敬意を示すべきかは何によって決まりますか。(ニ)わたしたちが神に対してだけ果たさなければならない義務とは何ですか。

      13 すべての人間は神の創造の所産であり,イエス・キリストの貴重な血で買われています。ですから,クリスチャンは,当然ながら,他の人を敬意を持って公平に扱い,他の人を敬います。(使徒 10:34,35。テモテ第一 2:5,6)しかし,「仲間の兄弟全体」には,一般の人々が当然の権利として期待する型どおりの敬意よりももっと深い敬意が示されてしかるべきです。クリスチャンの兄弟に対しては,人間一般に対する愛に加えて,深い愛つまり愛情を示す義務があるのです。さらに,地上の主権者およびその下にいる役人には,その地位が要求する敬意を示すべきですが,敬虔で崇拝の念にあふれた恐れは,至高の神に対してのみ抱くべきです。したがって,人間に対して示す誉れは,エホバ神とその命令に対する健全な恐れによっていつでも制限されたものでなければなりません。例えば,神だけに帰せられるべき誉れを支配者に帰しているのでないなら,普通用いられている支配者の称号を使うことは何ら差し支えありません。しかし,死すべき人間はクリスチャンの救済者ではありませんし,あらゆる祝福の経路でもありません。(詩 146:3,4。イザヤ 33:22。使徒 4:12。フィリピ 2:9-11)ですから,真のクリスチャンは,神への恐れを疑問視されるような,そして支配者をその身分よりも不当に高めるような仕方で人間に呼びかけることをしません。

      すべての役人が敬うに値するか

      14,15 (イ)クリスチャンが支配者もしくは役人をその道徳上の評判に関係なく敬うのはなぜですか。(ロ)役人に対する使徒パウロの振る舞い方から何が学べますか。

      14 支配者を敬いなさいという聖書の命令を知って,ある役人のことを考え,「道徳的に堕落した支配者をどうして敬えるだろうか」と言う人がいることでしょう。忘れてならないのは,その役人の道徳上の評判に基づいて敬うのではないということです。ある種の敬意を示すべきなのは,その役人が表わし行使している権威です。正式に立てられた権威が尊重されないなら,無政府状態になり,その結果,クリスチャンもその一部となっている社会に害が及ぶことになります。

      15 役人に対する使徒パウロの振る舞い方を見ると,その人となりには関係なく支配者に敬意を示すべきであることが分かります。古代の歴史家タキツスの記述によれば,ローマ人の知事フェリクスは,「どんな悪事もうまくやりおおせるという考えを持っていた」人物で,「ありとあらゆる種類の残虐行為と肉欲にふけり,奴隷の精神をもって王の権力を振るい」ました。にもかかわらず,パウロは,フェリクスの前で弁明するに際し,その役職に敬意を表して次のようにていねいな言葉で話し始めました。「この国民が多年にわたりあなたを審判者としていただいてきたことをよく知っておりますから,わたしは,弁明のため自分に関する事がらをよろこんでお話しいたします」。(使徒 24:10)王ヘロデ・アグリッパ2世は近親相姦を行なっていましたが,パウロは,「あなたの前でこの日に自分の弁明ができますことを幸いに存じます。とりわけ,あなたはユダヤ人の間のあらゆる習慣や論争に精通したかただからです」と言って,しかるべき敬意を表わしました。(使徒 26:2,3)また,知事フェストは偶像崇拝者でしたが,パウロはフェストに「閣下」という尊称を使いました。―使徒 26:25。

      税金を納める

      16 ローマ 13章7節でクリスチャンにはどんな助言が与えられていますか。

      16 クリスチャンは,権威を持つ人にしかるべき敬意を示すことのほかに,税金を良心的に納めることも神から命じられています。聖書にはこう書かれています。「すべての者に,その当然受けるべきものを返しなさい。税を要求する者には税を,貢を要求する者には貢を,[生殺与奪の権を含む権威を持つがゆえに]恐れを要求する者にはしかるべき恐れを,誉れを要求する者にはしかるべき誉れを」。(ローマ 13:7)税金を納め,収入を正直に報告するのはどうして正しいのでしょうか。

      17 (イ)クリスチャンが税金の支払いを負債の支払いと同様にみなすべきなのはなぜですか。(ロ)あらゆる税金を支払う点でクリスチャンが模範的でなければならないのはなぜですか。

      17 政府当局は,国民の安全と安定と福祉を保証するための大切な仕事を行なっています。例えば,道路の維持,法の施行機関の備え,裁判所,学校,保健所,郵便制度その他を挙げることができます。政府は,行なった仕事に対して報酬を受ける資格があります。それでクリスチャンが税金もしくは貢を納めることを負債の支払いとみなすのは当を得ています。徴収した税金を当局がどのように使うかは,クリスチャンの責任ではありません。受け取った税金もしくは貢を役人が乱用するからといって,負債の支払いを拒む権利がクリスチャンに与えられるわけではありません。現行の制度下では,クリスチャンも政府が行なう仕事を必要とします。したがって課される税金を良心的に払います。ある人に負債を払うという場合,その人がお金を乱用するからと言って負債が帳消しになるわけではありません。同様に,政府が何を行なおうと,クリスチャンにはやはり税と貢を支払う義務があります。また,法律に従って,税金の申告をしたり,課税の対象となっている物品の購入を報告したりする点で模範的でなければなりません。こうした事柄に良心的であるなら,自分自身とクリスチャン会衆に非難をもたらさずにすみますし,真の崇拝が好ましく映るので,神とキリストに誉れを帰することができます。

      雇用関係

      18 主人と奴隷の関係に関する聖書の原則は,今日のどんな状況に当てはめることができますか。

      18 クリスチャンにとって,ふさわしく服することが求められる関係は政府当局との関係だけではありません。例えば,クリスチャンは職場において監督者つまり上役に対して責任を持っています。ローマ帝国で奴隷制が広く見られた西暦一世紀当時,多くのクリスチャンは奴隷や僕として働いていました。適切にも,神の言葉は主人に対する奴隷の責務を論じています。今日,主人と奴隷の関係における行動の原則を雇用関係に当てはめることができます。

      19 ペテロはクリスチャンである家僕にどんな助言を与えましたか。

      19 家僕つまり召使にあてて,使徒ペテロは次のような助言を書き送りました。

      「家僕はいだくべきじゅうぶんの恐れをもって自分を所有する主人に服しなさい。善良で道理をわきまえた主人に対してだけでなく,気むずかしい主人に対してもです。なぜなら,神に対する良心のゆえに悲痛な事がらを耐え,不当な苦しみを忍ぶなら,それは喜ばしいことだからです。罪を犯して打たれている時に,あなたがたがそれを耐え忍ぶからといって,そのことにいったいどんなほめるべき点があるでしょうか。しかし,善を行なって苦しみに遭っている時,あなたがたがそれを耐え忍ぶなら,それは神にとって喜ばしいことなのです」― ペテロ第一 2:18-20。

      20 (イ)家僕は「いだくべきじゅうぶんの恐れをもって」服することをどのように行ないましたか。(ロ)どんな事態は,クリスチャンである奴隷に苦しみとなったと考えられますか。

      20 この助言に注意を払うとすれば何をしなければなりませんでしたか。クリスチャンは,奴隷として責任を果たす一方,主人にふさわしい恐れや敬意を示して,主人の不興を買わないようにしなければなりませんでした。たとえ主人が,思いやりがなく,か酷で,理不尽な要求をする人であっても,そうした恐れを示すべきでした。立派になされた仕事にさえ文句を言う主人もいたことでしょうし,神の律法に反する事柄をするようクリスチャンの奴隷に命じた主人もいたことでしょう。自分の敬虔な良心の声に忠実に従ったクリスチャンの奴隷が,主人のために盗んだりうそをついたりするのを断わって不当な苦しみを受けたことも考えられます。またある時には,身体的な虐待を受けたり,ののしられたりしたこともあったでしょう。

      21 奴隷が虐待に辛抱強く耐えるなら,どんな良い結果が得られましたか。

      21 クリスチャンの奴隷は,ペテロの助言に従い,か酷な主人に反抗しようとはせず,自分の仕事を良心的に行ない続け,虐待に辛抱強く耐えました。そのようにすることは神の目にかなったことでした。なぜなら,そのためにキリスト教の評判が傷付くことはなかったからです。他の人々は,真の崇拝が奴隷に良い影響を及ぼしたことを知りました。虐待されている奴隷がどうしてそのようなほめるべき自制心を働かせることができるのか知ろうとしてキリスト教を調べるようになった人もいました。それとは対照的に,奴隷が主人に悪いことを行なって,そのために厳しく懲らしめられたなら,黙って罰を受けたからといって,人々はそのことをほめるべきだとは思いません。

      22 クリスチャンである従業員は職場でどんな行状を示したいと願いますか。

      22 今日,職場で特につらい目に遭っているクリスチャンは別の就職先を見つけることができるかもしれません。しかし,必ずしもそうできるとは限りません。例えば,契約して働いている場合とか,ほかに仕事が見つからないのでやむをえず不都合な状況下で働き続けなければならない場合がそうです。それは,理不尽な主人の下から逃れられなかった,西暦一世紀の家僕が置かれていた状況とよく似ていると言えるでしょう。したがって,クリスチャンは,だれかほかの人に雇われている限り,良い質の仕事をすることに全力を尽くし,聖書にかなった方法で避けることのできないひどい仕打ちを受ける場合でも,辛抱強く不平を言わずにそれに耐えます。また,主人に対してしかるべき敬意と思いやりを示し続けます。

      イエスの手本は励ましとなる

      23,24 (イ)正しいことを行なったために虐待されるとき,だれの模範は励ましとなりますか。(ロ)その方はどのような目に遭いましたか。そして,どのように振る舞いましたか。

      23 むろん,不正を忍ばねばならないということはだれにとっても決してたやすいことではありません。しかし,幸いにも,わたしたちには見倣うべき完全な手本,すなわち主イエス・キリストがいます。イエスの手本は励ましの真の源となります。使徒ペテロは,虐待されていたクリスチャンである奴隷を慰めるに当たり,イエスの手本に注意を促してこう述べています。

      「事実あなたがたはこうした道に召されたのです。キリストでさえあなたがたのために苦しみを受け,あなたがたがその歩みにしっかりついて来るよう手本を残されたからです。彼は罪を犯さず,またその口に欺きは見いだされませんでした。彼は,ののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁くかたに終始ご自分をゆだねました」― ペテロ第一 2:21-23。

      24 こうしてペテロは,神のみ子の弟子となるよう召された理由の一つは不当な苦しみを受けるときにみ子のような精神を実証する点にあることを,奴隷であるクリスチャンに思い出させました。イエス・キリストは,地上における人間としての生涯の最後の日に,特に,非常な忍耐を示されました。平手打ちを食らい,こぶしでなぐられ,つばをかけられ,むち(体を傷つけるための鉛か骨か,かぎ針が付いていたものと思われる)で打たれ,最後には極悪犯罪人のように杭に付けられたのです。しかし,イエスはそうした侮辱をことごとく甘受し,自分に不当な仕打ちを加えた人々をののしったり,脅かしたりするようなことは決してなさいませんでした。イエス・キリストは自分の生涯が純粋なものであったことを知っていましたが,自分の正しさを自らの手で証明しようとはせず,神でありみ父である方が自分のために正しい裁きをしてくださることを確信して,言い分をみ父にゆだねられました。わたしたちも,権利を侵害された場合,全能者がそれを決して見逃されないことを確信できます。わたしたちが苦しみを辛抱強く忍び続けるなら,全能者は正義のはかりで計ってくださいます。神の罪のないみ子が虐待を進んで忍ばれたのであれば,ましてや,罪人であることを自覚するわたしたちみ子の追随者がそうすることは当然すぎると言っても過言ではありません。

      25 わたしたちはキリストが苦しまれたことからどんな益を受けていますか。

      25 イエス・キリストは,実際のところわたしたちのために苦しみを経験されました。このことからもわたしたちはイエスに見倣うよう動かされます。使徒ペテロはその点を強調して,さらにこう述べています。

      「[彼は]杭の上でわたしたちの罪をご自分の体に負い,わたしたちが罪を断ち,義に対して生きるようにしてくださったのです。そして,『彼の打ち傷によってあなたがたはいやされました』。あなたがたはさ迷っており,羊のようであったからです。しかし今は,あなたがたの魂の牧者また監督のもとに帰って来ました」― ペテロ第一 2:24,25。

      26,27 キリストがわたしたちのために苦しまれたことは,わたしたちにどんな影響を与えるはずですか。

      26 わたしたちは罪人ですから,命の賜物を受けるに値しません。聖書は,「罪の報いは死です」と述べています。(ローマ 6:23)ところが,イエス・キリストは,わたしたちのために責めるところがなく苦情を言わない子羊のように犠牲的な死を遂げて,わたしたちの罪の罰を一身に引き受けてくださいました。杭に付けられるという不面目な極刑を受けることによって,神のみ子は,信仰を持つ人々が罪から解放されて義にかなった生活を始めることを可能にしてくださいました。イエス・キリストがわたしたちのために苦しまれたことを考えると,イエスがしてくださったことに対する深い感謝を表わしたいという気持ちになるのは当然です。それをするには,イエスがなさったように義のために進んで虐待を受けることも含め,生活のあらゆる面でイエスを見倣うことが必要です。不当な仕打ちを受けたときにはいつでも,わたしたちの主が経験された苦しみについて考えるのはよいことです。

      27 そのように熟考するなら,キリストの手本に従うことの大切さを銘記できるので,イエスがわたしたちのために受けた非常な苦しみの目的を見落とすことがありません。罪深い状態にあったとき,わたしたちはあわれで,あたかも愛ある羊飼いに導かれていない迷える羊のようでした。なぜなら,偉大な羊飼いであられるエホバ神から疎外されていたからです。しかし,イエスの犠牲とその犠牲に対するわたしたちの信仰とに基づいて和解が成し遂げられています。(コロサイ 1:21-23)したがって,わたしたちは,わたしたちの魂の監督であるエホバ神および「主要な牧者」イエス・キリストの優しい世話と保護と導きを受けるようになりました。(ペテロ第一 5:2-4)ですから,イエス・キリストがわたしたちのために行なってくださった事柄に対して感謝の念を抱いているなら,義のためにどれほど苦しみを受けようとも耐え切れないということはないはずです。キリストがわたしたちのために受けられた大きな苦しみと比べるなら,わたしたちがキリストのために受けるかもしれない虐待など取るに足りません。

      信者の下で働く場合

      28,29 (イ)信者である所有者を持つ,クリスチャンの奴隷に対して使徒パウロはどんな助言を与えましたか。(ロ)そうした助言はなぜ必要でしたか。

      28 しかしながら,一世紀当時クリスチャンとなった奴隷すべてが理不尽な主人を持ち,その虐待に耐えねばならなかったわけではありません。当時の社会状況から,クリスチャンの中にも奴隷を所有している人々がいました。奴隷もその主人も共に神のみ子の弟子である場合,二人は霊的な関係を正しく見ることが必要でした。信者である所有者を持つ奴隷に対して,使徒パウロは次のように助言しました。「信者である所有者を持つ人は,それが兄弟であるからといって見下げることがあってはなりません。むしろ,自分の良い奉仕の益を受けるのが信者であり,自分の愛する者であるからこそ,いよいよ快く奴隷として仕えなさい」― テモテ第一 6:2。

      29 このような助言はなぜ必要だったのでしょうか。信者である奴隷はキリストの共同相続者でしたから,信者である主人と霊的には平等の立場にありました。したがって,その奴隷は,二人が霊的に平等であるゆえにこの世的な主従関係とその関係で主人が持つ権威とは無効になるという考え方をしないように注意しなければなりませんでした。奴隷がそのような態度を取り,主人が信者であることにつけ込んで仕事の手を抜くということは,容易にあり得ることでした。奴隷は,そのように,会衆の他の成員との兄弟関係につけ込むような考え方を抱きかねなかったのです。使徒パウロの助言はその誤った考え方に対処するものでした。主人と兄弟関係にあったのですから,奴隷には,立派に務めを果たすべき一層強力な理由がありました。クリスチャンの兄弟のために何かを行なうことは彼らにとって特権でした。そして,そのことは大きな喜びをもたらしたはずです。

      30 今日,信者の監督下で働いているクリスチャンが最善を尽くさなければならないのはなぜですか。

      30 同様に今日,信者である監督者の指示を受けて働いたり,信者に雇われたりしているクリスチャンは,精一杯働きたいと願うべきです。自分の労働から益を受けているのは兄弟であり,粗雑な仕事をしたり力を出し惜しみしたりするなら,兄弟を失望させいら立たせることになります。(箴 10:26)そのクリスチャンは,愛を示すべき兄弟に対して実に愛の欠けた行ないをしていることになります。―ヨハネ第一 4:11。

      31 クリスチャンである主人はどんな助言を思いに留めていなければなりませんでしたか。

      31 他方,クリスチャンとなっていた主人もしくは雇用者は,自分たちにもキリストという主人がいることを無視してはなりませんでした。そのクリスチャンが神のみ子に申し開きをしなければならないことを認識していたなら,そのことは当然奴隷もしくは雇い人の扱い方に反映したはずです。その点について,使徒パウロはこう書いています。「主人である人たちよ,自分にも天に主人がいることを知り,奴隷に対して,義にかなったことまた公正なことを行なってゆきなさい」― コロサイ 4:1。

      32 わたしたちのために骨折り,奉仕している信者に対して,わたしたちにはどんな責任がありますか。

      32 さらに,医師,弁護士,電気技師,大工,鉛管工,修理人その他の職業に携わるクリスチャンの兄弟に働いてもらい,仕事をしてもらったなら,正当な報酬を支払いたいと思うのが当然でしょう。娯楽やぜいたく品や休暇のために収入の多くを使いながら,クリスチャンの兄弟への支払いを延ばして霊的な関係につけ込むのはふさわしくありません。仕事のことでは,信仰の仲間に,その人が受ける権利のある報酬を支払いたいと願うべきではないでしょうか。そのようにして,兄弟が生計を立てるのを援助できるのは確かに立派なことです。もし兄弟に特別な割引をしてもらえるなら,信仰の仲間にはわたしたちに割引をしたり,他の人々より優遇したりする義務がないことを考え,そうしてもらえることを感謝するのは当然です。ですから,これらの問題すべてにおいて,天の頭である,神のみ子に喜ばれる仕方ですべての物事を行ないたいと願っていることを示せます。

      妻として服する

      33 (イ)クリスチャンである妻に対してどんな勧めがなされていますか。(ロ)ペテロ第一 3章1節の「同じように」を意味する言葉にはどんな意義がありますか。

      33 結婚関係も,頭に服することが求められるもう一つの関係です。それで,ペテロは最初に「同じように」という意味のギリシャ語を使って,苦境の下における従順に関する前述の勧告と妻としての従順に関する論議とを関連付けています。それは次の通りです。

      「同じように,妻たちよ,自分の夫に服しなさい。それは,みことばに従順でない者がいるとしても,ことばによらず,妻の行状によって,つまり,深い敬意のこもったあなたがたの貞潔な行状を実際に見て引き寄せられるためです」― ペテロ第一 3:1,2。

      34 使徒ペテロは,妻がどんな状況の下で服することを勧めていますか。なぜそれは難しい場合がありますか。

      34 ここで,クリスチャンの妻がその下で服するように勧められている状況は,望ましくない状況です。神の言葉の原則を認めない夫は,クリスチャンである妻を厳しく扱い,妻につらい思いをさせるかもしれません。だからといって,クリスチャンである妻は夫を家の頭として認めない行動をとってもよいというわけではありません。夫の要求が神の律法に反しない限り,クリスチャンである妻は夫を喜ばせるためにできるだけのことをしたいと願うでしょう。

      35 妻はどのようにして「ことばによらず」に夫を引き寄せる場合がありますか。

      35 使徒ペテロが指摘している通り,妻の立派な手本によって夫は信者となるよう助けられるかもしれません。しかし,そのように妻が「ことばによらず」夫を引き寄せるとは,聖書の見解を夫に一切話さないということではなく,口よりもほめるべき行状に多くを語らせるという意味です。そうすれば,夫は,妻の行状が貞潔で,言葉も振る舞いも清いことを,そして妻が自分に対して深い敬意を持っていることを知ります。

      36,37 テトス 2章3-5節によれば,クリスチャンである婦人は,模範的な妻となるために何に注意すべきですか。

      36 使徒パウロが婦人に関して書いていることを読むと,クリスチャンである妻に何が期待されるかをさらに詳しく知ることができます。パウロはテトスへあてた手紙の中でこう述べています。

      「年取った婦人も恭しくふるまい,人を中傷したり大酒の奴隷となったりせず,良いことを教える者であるべきです。それは,彼女たちが若い婦人たちに,夫を愛し,子どもを愛し,健全な思いを持ち,貞潔であり,家事にいそしみ,善良で,夫に柔順であるべきことを自覚させ,こうして神のことばがあしざまに言われることのないようにするためです」― テトス 2:3-5。

      37 この勧めの言葉に従い,婦人は,エホバ神および主であるイエス・キリストが自分の全生活を見ておられるということに対する認識を示す振る舞いをするよう良心的に努めるべきです。そして,中傷や有害なうわさ話のためにではなく,他の人を築き上げ励ますために舌を用いるよう努力します。クリスチャン婦人は,栄養のある食事を調え,家を清潔で快適な所にするという務めを果たすように心掛け,妻および母親として愛を示す点で模範的でなければなりません。夫と子供を愛するとは,家族の関心事を自分のそれよりも喜んで優先させることをも意味します。妻の務めがはなはだしくおろそかにされていることが夫に気付かれるようであってはなりません。むしろ,信仰を持たない女性と比べて妻は確かに立派だと夫に感じさせるようでなければなりません。

      装飾品に対する平衡の取れた見方

      38 ペテロ第一 3章3節には,装飾品に関してどんな助言がありますか。それをどのように理解すべきですか。

      38 妻が装飾品に対して正しい見方を保つことも大切です。使徒ペテロは,クリスチャンである妻が上辺の飾りで魅力的に見せることに重きをおき過ぎてはならないことを次のように強調しました。「あなたがたの飾りは,髪を編んだり,金の装飾を身につけたり,外衣を着たりする外面のものであってはなりません」。(ペテロ第一 3:3)西暦一世紀当時,婦人たちは,長い髪をたて琴やラッパやうず巻きや冠など凝った形の人目を引く髪型に編むことに多くの時間を費やし力を注ぎました。さらに,非常に華美な衣服をまとい,金の鎖や指輪や腕輪をふんだんに使って身を装いました。クリスチャン婦人が,そのような物質的な装飾品に過度の関心を向けるのはふさわしくありません。それは,人生の主要な目標がエホバ神と主イエス・キリストを喜ばせることにではなくて自分自身にあることの表われだからです。そのうえ,外見やファッションを中心に生きている女性は往々にして誇りやねたみや地位の追求の犠牲者になっており,そのために心や思いの平静さを失って,ざ折感を味わったりいらいらしたりします。

      39 妻はなぜ身なりを構わないでいるべきではありませんか。

      39 とはいえ,クリスチャンである妻が自分の外見にほとんど注意を払わないというわけではありません。使徒パウロは,人目を引く服装に対して同様の助言を与えた際に,「わたしは……女(が),よく整えられた服装をし,慎みと健全な思いとをもって……身を飾るように望みます」とも語っています。(テモテ第一 2:8-10)ですから,クリスチャンである妻が,服装や身繕いや容姿にむとんちゃくで夫の目に見苦しく映らないように注意するのは良いことです。そのうえ,聖書によれば,『女は男の栄光です』。(コリント第一 11:7)明らかに,怠惰でだらしのないかっこうをした女性は夫の誉れとも栄光ともなりません。そのような妻を持っていると夫も他の人の目に立派に映りません。また,夫が自分の外見に適度の誇りを持っている人であれば,だらしのない妻は夫を相当いら立たせることでしょう。したがって,慎みのある,言い換えれば上品な,そして自分に似合うものを選ぶ良い判断力をうかがわせる衣服や装飾品を身に着けるのは,クリスチャン婦人にとってたいへん望ましいことです。

      「もの静かで柔和な霊」

      40 (イ)クリスチャンの婦人を真に美しくするものは何ですか。(ロ)「もの静かで柔和な霊」を何と混同すべきではありませんか。

      40 もっとも,クリスチャンである妻の本当の美しさは,心の中でどんな人かということにあります。使徒ペテロは,「もの静かで柔和な霊という朽ちない装いをした,心の中の秘められた人を」飾りとするようにという賢明な勧めの言葉を述べました。(ペテロ第一 3:4)この「もの静かで柔和な霊」を表面的な見せ掛けの優しさと混同してはなりません。例えば,ある女性は物言いが優しく,口では家の頭の要望に従うとおとなしそうに言うでしょう。でも,心の中では反抗し,ひそかに陰険なことをたくらんで夫を支配しようとしているかもしれません。

      41 女性は,「もの静かで柔和な霊」が自分のいつまでも変わらない飾りの一部となっているかどうかをどのように判断できますか。

      41 「もの静かで柔和な霊」を本当に持っている女性の場合,その謙遜な霊は内なる真の人柄がにじみ出たものです。では,その「霊」が自分のいつまでも変わらない飾りの一部となっているかどうかをどのように判断することができるでしょうか。次のように自問するとよいでしょう。『時に主人が思いやりを欠き,道理をわきまえなかったり,責任逃れをしたりするとき,どうだろうか。私はよくかっとなり,腹を立てて夫の失敗を厳しくとがめるだろうか。それとも,大抵の場合心を平静に保ち,面と向かってとがめ立てしないように努力しているだろうか』。「もの静かで柔和な霊」を持つ婦人は,上辺だけは穏やかそうに見えても心の中は活火山のようで,いつ噴火するか分からないような人ではありません。それどころか,つらい状況の下で,外面的にも内面的にも穏やかさと平静さを保つように努めます。その婦人の内面的な強さや親切な身の処し方は見ている人々に深い感銘を与えます。

      42 ペテロ第一 3章5,6節によれば,だれが「もの静かで柔和な霊」を持っていましたか。

      42 そうした「もの静かで柔和な霊」は,キリスト教以前の時代の神を恐れる婦人たちを特色付けていました。その点に注意を促して,使徒ペテロは次のように書きました。

      「神に望みを置いた聖なる女たちも,先にはそのようにして身を飾り,自分の夫に服していたからです。サラがアブラハムを『主』と呼んでこれに従っていたとおりです。そしてあなたがたは彼女の子どもとなったのです。もっともそれは,あなたがたがいつも善を行ない,どんな恐ろしい事をも恐れずにいるならのことです」― ペテロ第一 3:5,6。

      43 サラが神に望みを置いた「聖なる女」であったことは何から分かりますか。

      43 キリスト教以前の時代の「聖なる女」の一人だったサラは,望みと確信をエホバに置きました。後ろを振り返ってソドムをあこがれの気持ちで見たために滅びたロトの妻とは異なり,サラは快適なウルを喜んであとにし,その後死ぬまで夫アブラハムと共に天幕に住みました。アブラハムといっしょに,神の支配権の下における永遠の住みかを待ち望んでいたのです。(ヘブライ 11:8-12)サラは確かに物質の持ち物や慰安を過度に重視せず,霊的な見地に立った生き方をしました。サラは,よみがえらされるときに神が豊かな報いを与えてくださることを認識していました。同様に,今日の賢明なクリスチャン婦人たちも,エホバ神に喜んでいただくことを人生の主要な目標にしています。―箴 31:30。

      44 サラが夫に深い敬意を抱いていたことは何から明らかですか。

      44 美しいサラは夫に深い敬意を抱いていました。突然の客があったとき,アブラハムは少しもためらうことなく忠実な伴りょに,「急いで,上等の粉三セア[0.6ブッシェル。22リットル]を取り,練り粉を練って,丸パンを作りなさい」と言いました。(創世 18:6,新)正にその日に,サラはアブラハムを「主」と呼びました。他の人々が聞こえるところではなく心の中でそう呼んだことから,サラが心の中で夫に服していたことがよく分かります。―創世 18:12,新。

      45 サラが弱々しい性格の持ち主でなかったことは何から分かりますか。

      45 しかし,サラは弱々しい女性ではありませんでした。エジプト人の奴隷女ハガルの子イシマエルが自分の息子イサクを「からかっている」のに気付いたとき,サラはおくせず強い口調でアブラハムにこう言いました。「この奴隷女とその子を追い出してください! この奴隷女の子は,わたしの子,イサクと一緒には相続人にならないのですから」。サラがアブラハムに強く訴えていたのであって,不適当な要求や命令をしていたのでないことは,エホバがサラの願いを承認なさったことから明らかです。全能者は正しい精神でなされた願いに目を留め,それを聞き届けることをアブラハムにお命じになりました。―創世 21:9-12,新。

      46,47 (イ)もっともな意見を述べ,物事を率先して行なう婦人は柔順であることをどのように示せますか。(ロ)神を恐れる婦人はどのようであるべきですか。

      46 同じく,柔順なクリスチャン婦人もひ弱で気の抜けたような女性である必要はありません。自分の意見をはっきりと述べ,家族の幸福にかかわる大切な事柄を率先して取り扱ってよいのです。ただし,夫の要望と感情を念頭に置いて,買い物や家の飾り付けや他の家事を行なう際にそれを十分考慮するように努めます。特定の活動とか大きな買い物について夫の考えがはっきり分からないときには,事前に夫に尋ね,問題を起こさないようにします。神に喜ばれるような仕方で妻の務めを果たそうとするなら,とがめられて当然の理由を作らないので,夫をも喜ばせることになります。そのような妻は,普通,家族の中で誉れある尊い立場を得ます。それはちょうど,箴言 31章11節と28節(新)で述べられている有能な妻の境遇と同じであると言えます。そこにはこう書かれています。「彼女にその所有主の心は頼った。……その子たちは立ち上がり,彼女を幸いな者と言った。彼女を所有する者も立ち上がり,彼女を賛美する」。妻が賢く振る舞い,家族の福祉を危うくするようなことはないと確信している夫は,思慮の欠けた行動を制限するための多くの規則を設ける必要を感じることはないでしょう。夫婦の間にすばらしい相互理解があるのです。妻は家事を行なう面で自分の能力と独創力を十分に発揮できます。

      47 聖書的な意味で神を恐れる婦人になるためには,クリスチャンである妻は勤勉でなければならず,率先して他の人々を助けることができなければなりません。したがって,文字通り夫の“影の下で”暮らすような女性ではありません。(箴 31:13-22,24,27と比較してください。)西暦一世紀に特別な名簿に載せる資格のあるクリスチャン婦人に関する記述はそのことを明らかにしています。こう書かれています。「六十歳以上のやもめを名簿に載せなさい。それは,ひとりの夫の妻で,子どもを養育し,見知らぬ人をもてなし,聖なる者の足を洗い,患難にある人を助け,あらゆる良い業に勤勉に従ったなど,りっぱな業に対する証しを立てられている人です」。(テモテ第一 5:9,10)りっぱな業の記録は,その婦人が「ひとりの夫の妻」であったころまでさかのぼるものであることに注意してください。ですから,実際には独創性と勤勉さの欠如にほかならない状態を「もの静かで柔和な霊」であると考え違いしたくないものです。

      キリストのような精神を示すことの益

      48 クリスチャンである妻はどうすれば一層神のみ子に見倣えますか。

      48 キリストは『その弟子すべてがついて行くべき手本』ですから,クリスチャンである妻は不都合な状況に面したときキリストに一層見倣うよう心掛けたいと願うことでしょう。(ペテロ第一 2:21)それには,自分の言動を正直に評価しなければなりません。そのうえで,イエス・キリストの手本を祈りの気持ちで考慮し,より良い妻となるために聖霊の援助をエホバ神に求め続けるなら,「キリストの思い」を一層強く持つようになります。(コリント第一 2:16)そして,その進歩は他の人々の目にも明らかになります。それと言うのも,人は,自分の愛している人の優れた資質や賞賛すべき行ないについて考えれば考えるほど,その人のようになりたいと思うからです。

      49-51 (イ)妻が聖書の原則を当てはめることはどんな場合にも賢明であるのはなぜですか。(ロ)聖書に忠実に従うなら,どんな優れた益が得られますか。(ハ)クリスチャン婦人は,どのような「恐ろしい事」を恐れるべきではありませんか。それはなぜですか。

      49 夫が思いやりを欠き,道理をわきまえなかったり,責任逃れをしたりする場合でも,妻は,聖書の原則を適用することがその状況下で最善の結果を生むことを十分に確信できます。夫が誤った判断を下すたびに大騒ぎして,服するようにという聖書の助言を無視する妻はまず良い結果を得ることができません。人間には,自分が間違っていても自己弁護しようとする傾向があります。夫がまずい判断をしたときに,それをいちいち“大問題”にする妻は,自分が得ようとしている反応とは逆の反応を示されるかもしれません。夫は,妻の助言を必要としていないことを妻に分からせようとして妻の言葉にますます耳を貸そうとしなくなるでしょう。他方,もし妻が,罪深い人間は判断の誤りを完全には避けられないという理解のある態度を取るなら,夫は次回には妻の考えを考慮したいという気持ちを強くするものです。また,夫がその問題で,自分の誇りを気にしすぎないようにすることは容易になります。

      50 クリスチャンである妻が優しく親切に夫を励ますなら,夫は自分の身の処し方を真剣に考え,その生活に変化が見られるようになるかもしれません。進歩が遅い場合でも,妻はその場で報いを得ます。どんな報いでしょうか。面と向かって夫をとがめ立てして味わう感情的な強い緊張やにがにがしさや不快な気持ちを経験せずにすみます。―箴 14:29,30。

      51 妻が言動において聖書に忠実に付き従っていても,夫が必ずしもクリスチャンになるとは限りません。それでも,妻は,自分の歩みが「神に大いに喜ばれるもの」であることを知って満足を覚えます。妻および母親としての責任をほめるべき仕方で果たすことは,天に預けられた宝とも言える立派な業の記録の一部になります。その宝は神の祝福という形で豊かな配当を生みます。(マタイ 6:20)クリスチャンである妻は神との良い関係を保つことの大切さを認識しているので,「いつも善を行ない」,イエス・キリストの弟子であるゆえに受けるののしりや脅しや反対などどんな「恐ろしい事」も恐れないはずです。恐れに屈し,エホバおよびみ子と自分との関係を失うどころか,自分が経験している事柄をキリストのゆえに受ける苦しみとみなすことでしょう。そのようにして,柔順なサラの娘,敬虔で信仰の厚い婦人であることを証明するのです。

      「知識にしたがって」

      52 ペテロがクリスチャンである夫に助言を与えるにあたり,「同様に」もしくは「同じように」という意味のギリシャ語を用いたことにはどんな意義がありますか。

      52 妻は夫との関係ゆえに特定の責務を持っていますが,同じく夫も妻との関係ゆえに特定の責務を持っています。ペテロはその点を夫たちに思い起こさせ,前述の妻たちへの助言と夫たちへの勧告とを結び付けるために,「同様に」もしくは「同じように」という意味のギリシャ語を用いて次のように語っています。

      「夫たちよ,同じように,知識にしたがって妻とともに住み,弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい。あなたがたは,過分の恵みとしての命を妻とともに受け継ぐ者でもあるからです。そうするのは,あなたがたの祈りが妨げられないためです」― ペテロ第一 3:7。

      53 夫は何に支配された仕方で妻と共に住むべきですか。

      53 自らが既婚者だった同使徒は,霊感の下に,夫は「知識」に支配された仕方で妻と共に住む,つまり暮らすべきであることにまず注意を促していますが,そのことは注目に値します。(マルコ 1:30。コリント第一 9:5)夫が妻を良く知りたい,つまり,妻の感情や体力や限界や好ききらいを良く知りたいと思うのは当然です。しかし,それよりもさらに大切なこととして,夫はクリスチャンの夫として自分にどんな責任があるかを知るようになる必要があります。妻を本当に知り,また神から割り当てられた自分の役割を知るなら,夫は『知識にしたがって妻とともに住み続ける』ことができます。

      54 頭の権を行使するには何が求められますか。

      54 聖書は,夫が妻の頭であることを教えています。しかし,夫は絶対的な頭ではありません。なぜなら,夫は家族の事柄を処理する際にイエス・キリストの頭の権に服することを求められているからです。「すべての男の頭はキリスト……です」と聖書は述べています。(コリント第一 11:3)使徒パウロはこう書きました。「夫よ,妻を愛しつづけなさい。キリストが会衆を愛し,そのためにご自分を渡されたのと同じようにです」。(エフェソス 5:25)ですから,神のみ子がクリスチャン会衆を扱われた仕方は,夫が家族に対する義務を果たす際の手本となります。イエス・キリストの,会衆に対する権威の行使には,明らかに,専横なところや,残酷なところは一つもありませんでした。イエスは会衆のために命を捨てることさえされました。したがって,夫の頭の権は妻の地位を低め,卑しめて,妻を支配する権利を夫に与えるものではありません。むしろ,それは,犠牲的な愛を示し,自分の願望と好みよりも妻の福祉と関心事を進んで優先させる責任を夫に課します。

      55 イエス・キリストが手本ですから,クリスチャンである夫は何をすべきですか。

      55 イエス・キリストは夫の完全な手本ですから,イエスが弟子たちをどのように扱われたかを夫である人々が十分に知るのはよいことです。そして,さらに大切なこととして,夫は,家族に対する責任を果たすうえで神のみ子の型に従うよう懸命に努力すべきです。イエス・キリストは地上におられたとき弟子たちを世話するにあたって多くのことをなさいましたが,そのほんの二,三の例を考えてみましょう。

      56,57 (イ)神のみ子は弟子たちの霊的な福祉に対する純粋の関心をどのように示されましたか。(ロ)夫は,イエスの手本に照らしてどのように自問できるでしょうか。

      56 神のみ子はご自分の追随者の霊的な福祉に純粋の関心を抱いておられました。弟子たちが重要な事柄をなかなか理解しなかったときでも,イエスは短気を起こすことなく,時間を掛けて弟子たちに説明し,彼らがご自分の教えを確かに理解するようになさいました。(マタイ 16:6-12。ヨハネ 16:16-30)弟子たちが互いの関係に対する正しい見方をいつまでも持てなかったとき,イエスは謙遜に仕え合うことの必要を繰り返し指摘されました。(マルコ 9:33-37。10:42-44。ルカ 22:24-27)弟子たちと共に過ごした最後の夜,イエスは弟子たちの足を洗って自ら手本を示し,謙遜さに関する教えを強調されました。(ヨハネ 13:5-15)イエスは,また,弟子たちの限界を考慮し,その当時弟子たちが理解できる情報しかお与えになりませんでした。―ヨハネ 16:4,12。

      57 ですから,クリスチャンである夫は次のように自問すると良いでしょう。“わたしは妻子の霊的な福祉をどれほど気遣っているだろうか。妻と子供たちが聖書の原則を本当に理解していることを確かめているだろうか。間違った態度や行動に気付いたとき,それがなぜ間違いであり,なぜ改めるべきかをはっきりと教えているだろうか。妻と子供たちの限界を考慮に入れ,無理な要求をしないように注意しているだろうか”。

      58 家族の身体面での必要を考慮するうえで,夫はイエスの手本をどのように見倣えるでしょうか。

      58 神のみ子は,身体面で弟子たちが必要とした事柄にも目ざとく気付かれました。使徒たちが伝道旅行から帰って来てイエスに活動を報告したとき,イエスは,「さあ,あなたがたは自分たちだけで寂しい場所に行き,少し休みなさい」と言われました。(マルコ 6:31)同じように,賢明な夫は,妻と子供たちが決まり切った日課の中でくつろいだり,気分転換をしたりする時間を持てるようにします。

      59,60 (イ)イエス・キリストは弟子たちに対する信頼と確信をどのように示されましたか。(ロ)それは夫が頭の権を行使する面でどのように助けとなりますか。

      59 頭の権の行使に当たって,イエス・キリストは会衆の成員を多くの複雑な規則で縛ることはなさいません。生活の諸問題を処理する際に適切な決定を下すためのよりどころとして,非常に大切な戒めと指針を弟子たちにお与えになりました。イエスの自己犠牲的な愛は,弟子たちに対する信頼や確信と相まって,実際に弟子たちをして同様の愛で答え応じさせ,イエスを喜ばせるために最善を尽くさせました。―コリント第二 5:14,15。テモテ第一 1:12; ヨハネ第一 5:2,3と比較してください。

      60 同様に,夫が妻に信頼を寄せることは,幸福な結婚生活を保つのに非常に役立ちます。主婦の務めを果たすうえで独創性を発揮することがほとんど認められないと,妻は間もなく仕事に対する喜びを失います。知識や技能や能力を発揮できないので息苦しさを感じ,欲求不満に陥ります。一方,夫が大切な事柄を妻の良い判断にまかせるなら,妻は夫に気に入られるように物事を扱って喜びを得ます。

      「弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい」

      61-63 (イ)夫が妻をどのように扱うべきかに関して聖書は何と述べていますか。(ロ)妻に誉れある地位を本当に与える夫は,どんな事柄を避けますか。(ハ)家族の重大な問題については,夫は進んで何を行なうべきですか。(ニ)最終的な決定を下す際,単に口で語られる事柄を考慮するだけでは不十分です。それはなぜですか。

      61 一個の人間としての妻に関する知識および自分が妻に対して持つ聖書的な責務に関する知識に従って妻と共に住む夫は,「弱い器である女性として」妻に「誉れを配し」ていることにもなります。女性は,その体の造りから一般的に男性よりも体力がないので,「弱い器」です。それでも,女性は家族の中で誉れある,尊ぶべき地位を占めるべきです。使徒パウロの次の言葉は,どのように妻に誉れを配することができるかを示しています。「このように,夫は自分の体のように妻を愛すべきです。妻を愛する者は自分自身を愛しているのです。自分の身を憎んだ者はかつていないからです。むしろ人は,それを養い,またたいせつにします。キリストが会衆に対してするようにです」― エフェソス 5:28,29。

      62 夫が自分の成し遂げたことを見くびったり,自分が役立たないかのように見せたり,自分の体を虐待したり,休息や息抜きの必要を無視したりすることは,普通考えられません。夫は“ろくでなし”という評判を得ることを望まず,他の人々から重んじられることを願います。真のクリスチャンである夫なら,妻の弱点がたとえどんなものであれそれを軽んじたりしません。また,妻を見くびったり,でなければ妻に自分を卑下させたりもしません。真のクリスチャンである夫は,自分が望んでいるのと同様の尊厳と思いやりを妻に与え,自分は望まれ感謝され必要とされているのだと妻に感じさせます。

      63 妻が家庭で誉れある立場を占めるために,夫は家族の問題を妻と進んで話し合い,しかもそれを妻の考えや意見を聞きながら穏やかで道理にかなった仕方で行なう必要があります。大切な問題の話し合いで自分の述べることが夫に軽くあしらわれることなく,しかるべき考慮を払ってもらえるという確信の下に,妻が自分の考えを自由に話せるようでなければなりません。(士師 13:21-23; サムエル前 25:23-34; 箴 1:5,6,8,9と比較してください。)さらに,夫は妻が口で言わない事柄にも目ざとく気付く必要があります。心の奥にある気持ちは,声の調子や顔の表情に表われたり,熱意やのびのびした様子のないことに表われたりします。(箴 15:13と比較してください。)妻を知っている夫は,そうした事柄を無視せず,不必要ないらだちを起こしそうなことをやみくもに推し進めたりはしません。

      64 どんな場合に,夫は妻の言うなりになりませんか。それはなぜ有益なことですか。

      64 妻の望み通りにするなら,どう考えても家族全体の益が損なわれると思えるとき,家の頭である夫が妻の言いなりにならないことは言うまでもありません。(民数 30:6-8と比較してください。)妻が感情的になってどれほど大騒ぎしても,自分が正しいと誠実に信じている事柄を守るのは家の頭の聖書的な義務であることを,夫は認めているのです。夫が自分のより良い判断に反する妻の願いを聞き入れるなら,家の頭という地位を男性にお与えになった神を侮辱することになります。しかも,家族がそのために苦しむようなことにでもなれば,夫は妻に対して苦々しい気持ちを抱くでしょう。他方,正しいと信じて疑わないことを夫が飽くまでも守るなら家族に益が及びます。夫の決定が祈りのうちになされ,聖書の原則に一致したものであれば,おそらく妻は,夫の判断が賢明であったことを知って,夫が決定を曲げなかったことを喜ぶようになるでしょう。その結果,妻は夫を一層敬うようになり,それは妻自身と家族全体の幸福を増し加えます。

      霊的な理由

      65 クリスチャンである夫が信仰を持つ妻と「知識に従って」住むことには,どんな霊的な理由がありますか。

      65 クリスチャンである夫が信仰を持つ妻に誉れを与えつつ,「知識にしたがって」妻と共に住むことには,そうせざるを得ない理由があります。家庭が一層円満になるからという理由だけではありません。クリスチャン使徒ペテロは,さらに大切な理由を信仰の仲間に教えました。夫は『過分の恵みとしての命を妻とともに受け継ぐ者である』とペテロは指摘しました。イエス・キリストはその犠牲的な死によって,男性にも女性にも,罪と死の有罪宣告が取り除かれて永遠に生きる見込みを得る機会を開かれました。ですから,妻は神とキリストのみ前で夫が持っているのと全く同様の是認された立場を得ることができます。したがって,神の目に自分よりも価値のない劣った人間であるかのように妻を扱わないよう注意すべき重大な理由が夫にはあるのです。

      66 結婚生活上の問題が聖書的に処理されないと,その結果霊的に重大な害が生じるのはなぜですか。

      66 会衆の扱い方に見られるイエス・キリストの手本に従って結婚生活の問題を処理しないなら,夫婦双方の霊的な状態に有害な影響が及びます。そうです,『祈りが妨げられる』のです。すぐにけんかをしたり,腹を立てたり,恨みを抱いたり,厳しくて道理に合わない振る舞いをしたりする家庭では,祈りによって神に訴えることは困難です。罪に定められていると心の中で感じている人は,はばかりのない言い方ができないものです。(ヨハネ第一 3:21)それから,また,エホバ神は祈りを聞き届ける条件を定めておられます。他の人の罪過をゆるさない,あわれみのない人が助けを願い求めても,エホバはそれを聞き届けられません。(マタイ 18:21-35)生活を神の戒めに従わせようと努力する人々の祈りだけが聞かれるのです。(ヨハネ第一 3:22)夫にしても妻にしても,会衆の扱い方に見られるイエス・キリストの手本を結婚生活において見倣わないなら,問題を処理するうえで神の援助を期待することはできません。他方,聖書の訓戒に忠実に従うなら,神の是認と祝福を必ず受けられます。確かにそれは,神のみ子の頭の権に服することから得られるすばらしい報いです。

      クリスチャン会衆内において服する

      67 マタイ 23章8-11節によれば,クリスチャン会衆内にはどんな態度が見られるべきですか。

      67 クリスチャン会衆内においても,キリストの頭の権を認めることは大いに必要です。その認識は,個々の成員の互いに対する態度や振る舞いに影響を与えます。イエスご自身の言葉によれば,イエスの会衆は兄弟のような間柄にあるべきです。イエスは弟子たちに次のように言われました。「あなたがたは,ラビと呼ばれてはなりません。あなたがたの教師はただひとりであり,あなたがたはみな兄弟だからです。また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなたがたの父はただひとり,天におられるかただからです。また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなたがたの指導者はひとり,キリストだからです。あなたがたの間でいちばん偉い者は,あなたがたの奉仕者[僕,「王国行間逐語訳」]でなければなりません」― マタイ 23:8-11。

      68,69 (イ)会衆は兄弟のような間柄にあるので,どのような勝手気ままなことを行なうべきではありませんか。(ロ)テモテは,会衆の成員を扱う際にどんなことを念頭に置かなければなりませんでしたか。

      68 ですから,だれも会衆内で一番偉い者のように振る舞うべきではありません。むしろ,会衆で長老および教える者として奉仕している人々は,兄弟たちのために奴隷のように謙遜に仕えて,主人であるキリストに見倣うべきです。しかし,会衆は兄弟のような間柄にある老若男女で構成されているのですから,個々の成員は,生来のしゅう恥心にもとる勝手気ままなことをすることは許されません。使徒パウロはテモテにこう助言しました。「年長の男子を厳しく批判してはなりません。むしろ,父親に対するように懇願し,若い男子には兄弟に対するように,年長の婦人には母親に対するように,若い婦人には姉妹に対するように貞潔をつくして当たりなさい」― テモテ第一 5:1,2。

      69 パウロがこの助言を書き送ったとき,テモテは恐らく30代であったと思われます。テモテは任命された長老として奉仕していましたが,まだ年が比較的若いことを心に留めておくように訓戒されていました。年上の人を正す必要のあるとき,テモテは,その人に対して厳しくならずに,父親の前で息子がとる敬意のこもった態度でその人に懇願するべきでした。(創世記 43章2節から10節に記されているように,ヤコブの息子たちが父親に懇願した際の敬意のこもった仕方と比較してください。)年配の婦人も,母親に示されるような思いやりと親切を示されるべきでした。テモテは若い男子に対しても勝手に振る舞うことは許されず,愛する実の兄弟のように若い男子を扱うべきでした。男性は異性に強く引かれるので,若い女性を実の「姉妹に対するように貞潔をつくして」扱うようにという忠告がテモテに与えられたのは適切でした。つまり,若いクリスチャン婦人と交わる際に,テモテは考えや言葉や行動において貞潔,純粋,清潔であるべきでした。

      70 (イ)会衆内でふさわしい行状を保つために従順な精神はなぜ必要ですか。(ロ)従順な精神を保つうえで何が役立ちますか。

      70 会衆の他の成員との関係で,自分の分を越えないようにし,生来のしゅう恥心や礼儀作法にそむかないためには謙遜な気持ちを持つことが必要です。それで適切にも,使徒ペテロは「若い人たちよ,年長者たちに服しなさい」と訓戒しました。(ペテロ第一 5:5)若い人々は年長者,特に会衆に立てられている長老たちに協力するよう努力すべきです。若い人が,年長者に向かって,実の父親に対する場合には考えられないような話し方をしたり態度を示したりするのは確かにふさわしくありません。ところで,若い人は従順な精神を保つためにどうすることができるでしょうか。年長の兄弟たちの称賛すべき資質や忠実な奉仕の記録について考えるのが有益であることに気付くかもしれません。そのようにすると,年長の兄弟たちに対する愛と感謝を深めることができます。―ヘブライ 13:7,17と比較してください。

      71 『へりくだった思いを身につける』とはどういう意味ですか。

      71 むろん,ペテロは,若い人が年長者に服さなければならないことだけを勧めたのではありません。続けて,「あなたがたはみな,互いに対してへりくだった思いを身につけなさい」と述べました。『へりくだった思いを身につける』に相当する原語は,へりくだった思いを自分自身に結わえ付けるという考えを伝えています。その「へりくだった思い」は,奴隷が着けていた前掛けとか衣のようなものであるべきでした。ですから,ペテロが勧めていたのは,喜んで他の人々に仕え,他の人々の益になろうとする精神です。わたしたちが,会衆内のすべての人に敬意をもって接し,それらの人々の当然受けるべき敬意を与えるなら,それは何と良いことでしょう。その結果,エホバの祝福と恵みが得られます。なぜなら,ペテロが,「神はごう慢な者に敵対し,謙遜な者に過分のご親切を施される」と言い添えているからです。―ペテロ第一 5:5。

      72 正しく服することにはどんな報いがありますか。

      72 確かに,聖書に調和した従順を示すことには豊かな報いがあります。そうするなら,悪い事態をさらに悪化させることなどなく,神と人の前に正しい良心を持つことができます。政府当局,雇用者,監督者,未信者の夫に服することは,真のキリスト教の価値に関する優れた証言となり,他の人々が永遠の命を目指しつつ神のみ子の弟子となるのを助けるかもしれません。また,わたしたちとしては,エホバ神の目に喜ばしい道に従うならエホバから豊かな報いを受けることを確信できます。そうです,権威にふさわしく服することは,現在最善の生き方をするうえで非常に肝要なことです。

  • 模範的な行状の外国人また寄留者
    最善の生き方を選ぶ
    • 7章

      模範的な行状の外国人また寄留者

      1,2 外国人はしばしばどのように見られますか。それはなぜですか。

      地域社会の人々とあまりにも異なっていて目立つ人は,不信と疑惑の目で見られるものです。その人の行状は土地の人のそれよりも細かに監視される場合があります。残念なことですが,近隣にいる一人の外人の不行跡から人種や国民や部族全体に対して偏見を持つ人々がいます。政府でさえも外国人にのみ適用される法律や規則を作ります。行状が望ましくない外人は追放されることもあります。

      2 こうしたことは,クリスチャンにとってなぜ大いに重要でしょうか。それはクリスチャン男女の生き方に当然どのように影響するでしょうか。

      3 (イ)真のクリスチャンはなぜこの世にあっては“外人”ですか。(ロ)未信者の人々は彼らをどのようにみなしますか。なぜですか。

      3 真のクリスチャンは,神がおつくりになる「新しい天と新しい地」の一部としての永遠の住みかを待ち望んでいるので,この世にあっては「外国人また寄留者」です。(ペテロ第一 2:11。ペテロ第二 3:13)イエス・キリストの真の弟子は考えや行動を聖書に合わせようと努めるので,未信者やキリスト教を実践しているふりをしているだけの人々は,真の弟子たちをあたかも望ましくない“外人”のように見下げることがあります。しかし,キリストの真の弟子はクリスチャンに対するこの世の見方のために恥ずかしく感じるべきではありません。神の観点からすれば,その外国人という身分は尊いものです。ですから,クリスチャンは非難されても仕方がないような振る舞いをしないように最善を尽くしたいと願うことでしょう。

      4,5 (イ)西暦一世紀当時,使徒ペテロがクリスチャンたちを「各地に散っている寄留者たち」と呼ぶことができたのはなぜですか。(ロ)エホバ神はクリスチャンをどのようにみなされましたか。

      4 信仰の仲間にあてた手紙の中で,使徒ペテロは「外国人また寄留者」という彼らの誉れある立場に注意を促しました。その最初の手紙の冒頭にはこう書かれています。

      「イエス・キリストの使徒ペテロから,ポントス,ガラテア,カパドキア,アジア,ビチニアの各地に散っている寄留者たち,父なる神の予知にしたがい,霊による聖化をもって,また従順な者となってイエス・キリストの血を振りかけられる目的で選ばれた人たちへ」― ペテロ第一 1:1,2。

      5 西暦一世紀当時,信者たちは様々な土地に散らばり,クリスチャンでない人々に取り囲まれて生活していました。そして周囲の人々から不当にさげすまれる場合が少なくありませんでした。ですから,ペテロの手紙の中で示されているような,自分たちに対するエホバの見方を読んだり聞いたりすることは,それらの信者にとって励ましとなったに違いありません。彼らは実際神の「選ばれた人たち」,選民でした。至高者はその人たちをご自分の所有物,ご自分の民とされました。ユダヤ人と非ユダヤ人から成るクリスチャン会衆が存在するようになるはるか以前に,全能者は,地上の各地に散らばるご自分の僕から成るそうしたグループがやがて存在するようになることを予知されました。彼らは,神の霊の働きを受けることによって聖別される,つまり,神聖な用のために取り分けられました。エホバは,彼らが神のご意志を行なう従順な子供となるようにという目的で聖別されたのです。宇宙の主権者によってそのように用いられていることを知ると,それらの信者は深く感動して,神が与えてくださった崇高な目的にそいたいという気持ちになったはずです。

      6 (イ)どのようにしてクリスチャンたちは神のみ前に清い立場を得ましたか。(ロ)彼らが『イエス・キリストの血を振りかけられた』ことにはどんな事柄も含まれていたと思われますか。

      6 信者が選ばれ聖別された人々となったのは,言うまでもなく,彼ら自身に功績があったからではありません。その一人一人は罪人であり,清められることを必要としていました。ですから,使徒ペテロはその人たちについて「イエス・キリストの血を振りかけられる」と述べました。このことからわたしたちは,とりわけ人間の死体に触れて儀式上汚れたイスラエル人を清める手順を思い出します。その人が再び清くなるためには,清めの水を振りかけられることが必要でした。(民数 19:1-22)同様に,キリストの犠牲の贖いの益はクリスチャンに適用されました。それによってクリスチャンは神のみ前に清い良心を得,祈りを通して自由な言葉で神に近付くことができました。(ヘブライ 9:13,14; 10:19-22)さらに,また,イスラエル人がエホバと契約関係に入ったとき,モーセはいけにえの血を民に振りかけました。(出エジプト 24:3-8)ですから,「イエス・キリストの血を振りかけられる」という言葉は次のことにも注意を促していると考えられます。すなわち,それらの信者は,イエス・キリストを仲介者とし,イエスが流された血によって有効となった新しい契約に入れられていたのであり,すでにその契約の益にあずかっていたということです。

      7 「外国人」という立場にあるわたしたちには,どんなことが求められますか。

      7 西暦一世紀の信者と同様,イエス・キリストの今日の献身的な弟子たちも,エホバ神のみ前に誉れある立場を得ています。これらの弟子は,この世にあって,模範的な「外国人」また「寄留者」として振る舞わなければなりません。さもないと,エホバ神および神の民の会衆に非難をもたらします。ですから,そのすべては,使徒ペテロの次の勧めの言葉を心に留める必要があります。「愛する者たちよ,外国人また寄留者であるあなたがたに勧めますが,絶えず肉の欲望を避けなさい。そうした欲望こそ,魂に対して闘いをいどむものなのです」― ペテロ第一 2:11。

      8 何に不当な愛着を抱くようなことがあってはなりませんか。それはなぜですか。

      8 現在のつかの間の事物の体制において「外国人また寄留者」なのですから,わたしたちは,現存する人間の機構内の何ものかに不当な愛着を抱いてしまうわけにはいきません。地的な結び付き,悲しみ,喜び,あるいは所有物はどれも永続するものではありません。だれも時の流れに逆らうことはできませんし,予期しない出来事に遭わずにはすみません。時の経過や予期しない出来事によって,人の境遇が突然にすっかり変わることがあります。(伝道 9:11)ですから,使徒パウロの次の助言に注意を払うのは真に知恵のあることです。「妻を持っている者は持っていないかのようになりなさい。また,泣く者は泣かない者のように,喜ぶ者は喜ばない者のように,買う者は所有していない者のように,世を利用している者はそれを十分に使っていない者のようになりなさい。この世のありさまは変わりつつあるからです」。(コリント第一 7:29-31)現在の絶えず変化する状況や諸関係から生まれる悲しみや喜びに浸り切ってしまうことは,至高者とみ子に一層近付く妨げとなり,わたしたちに重大な損失を招きかねません。

      9,10 (イ)所有物に対するこの世的な人々の見方はどんなことから分かりますか。(ロ)所有物に対するわたしたちの見方は,未信者のそれと異なっているべきなのはなぜですか。

      9 人類の大多数の状態は,わたしたちが『世を十分に利用』しようとしてはならない理由を如実に示しています。一般の人々は「新しい天と新しい地」に関する神の約束を知らないか,そうした来たるべき新秩序に真の信仰を持っていないかのいずれかです。ですから,現在の生活以外に注意を向けるものがなく,将来に確固とした希望もありません。したがって,人々は日常の必要物のことしか考えず,この世からできるだけ多くを得ることに没頭しているのです。(マタイ 6:31,32)そして,立派な衣服,輝く宝石,高価な装飾品,美しい家具あるいは豪奢な家を得るという見込みに目を輝かせます。物質的な所有物で他の人々に感銘を与えることを願い,またそうしようと努力するでしょう。―ヨハネ第一 2:15-17。

      10 それとは対照的に,クリスチャンは自分の前途に永遠の将来があることを知っています。生活上の事柄に夢中になり過ぎて,将来を左右し得る創造者のための時間が事実上なくなることは,クリスチャンにとって愚かしいことと言えます。とは言っても,神の真の僕がお金で買える多くの良いものを適度に楽しんではならないということではありません。そうではなくて,自分たちを現在の体制の「寄留者」と真にみなしているなら,たとえ健全な娯楽や役立つ所有物でも,それらを決して生活の中心としてはならないという意味です。わたしたちは自分の資産を浪費したり不注意に扱ったりすることなく,そうした資産に対して正しい見方を取ります。それはちょうど,信頼できる人が,設備の整ったアパート,道具類,備品その他,必要で借りている物に対して取るのと同じ見方です。その人は借りているそれらの物を大切にしますが,いつまでも自分のものであるかのようにすっかり愛着を持つようなことはしません。現在の体制下では永遠が保証されているものは何もないこと,そして,わたしたちは神がおつくりになる約束された新秩序に向かっている「外国人」また「寄留者」に過ぎないことを認識していることを生活に表わさなければなりません。

      『肉の欲望を避けなさい』

      11 わたしたちが避けなければならない肉的な欲望の中にはどんなものがあるでしょうか。

      11 しかし,クリスチャンとしての生き方を成功させるためには,この世に生活する限りいつ何時境遇が変わるかもしれないということを認識しているだけでは不十分です。『肉の欲望を避けなさい』という聖書の訓戒に真剣な注意を払うことも必要です。肉の欲望とは人の肢体に宿る悪い渇望もしくは欲望のことです。ガラテア人へあてられた使徒パウロの手紙は,それら悪い渇望がどんな罪を犯させるかを明らかにしています。神の霊に導かれている人は「肉の欲望」を遂げないことを述べたのち,同使徒は肉の業として,「淫行,汚れ,不品行,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事がら」を列挙しています。―ガラテア 5:16,19-21。

      12,13 (イ)肉の欲望はどのようにして『魂に対して闘いをいどみ』ますか。(ロ)神のみ前に清い立場を保つにはどうすべきですか。

      12 人は受け継いだ罪のために,肉の業に関係させ,『肉の欲望を遂げ』させようとする強い圧力を受けます。不健全な渇望は,魂全体,その人全体を征服し罪深い情欲にふけらせる侵略軍のようです。クリスチャン使徒パウロは,人の心の中でそうした闘いが起こり得ることをよく知っていました。自分自身のことについて,こう書きました。「わたしは自分のうち,つまり自分の肉のうちに,良いものが何も宿っていないことを知っているのです。願う能力はわたしにあるのですが,りっぱな事がらを生み出す能力はないからです。自分の願う良い事がらは行なわず,自分の願わない悪い事がら,それが自分の常に行なうところとなっているのです」。(ローマ 7:18,19)そのようなかっとうがあったので,パウロは,「他の人たちに宣べ伝えておきながら,自分自身が非とされるようなことにならないため」に「自分の体を打ちたたき,奴隷として連れて行く」必要がありました。―コリント第一 9:27。

      13 同様に,神のみ前に清い立場を保ち,神の祝福を受けたいという願いがあれば,悪い渇望を抑制するよう努力したいという気持ちになります。娯楽や読み物や交わりの中には人間の罪深い傾向を助長するものがあり,また,人を罪深い傾向へかり立てる状況もありますが,苦しい闘いをそれらによってさらに苦しくする必要がどこにあるでしょうか。もっと大切なこととして,自分自身を守る積極的な処置を講じなければなりません。自分自身の力では成功できず,献身的な兄弟たちの励ましや神の霊の助けが必要であることを思いに留めておくのは良いことです。使徒パウロはテモテに,「清い心で主を呼び求める人びととともに,義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」と勧めました。(テモテ第二 2:22)このことを行なっているなら,聖霊の援助もありますから,悪い欲望に征服されないようにすることができます。こうして,真実なこと,義にかなっていること,貞潔なこと,愛すべきこと,徳とされることや賞賛すべきことに思いを留め続けて悪い欲望に抵抗するなら,神の不興を買わないようにすることができます。(フィリピ 4:8,9)そうすることに成功するよう他の人々を援助しておきながら,自分自身が失敗してしまうということにならないようにしたいものです。

      立派な行状は真の崇拝を受け入れるよう他の人々を助けるかもしれない

      14 わたしたちが『肉の欲望を避ける』のを見て,他の人々はどのように益を受けると考えられますか。

      14 『肉の欲望を避ける』ことには,さらにもう一つの非常に望ましい益があります。使徒ペテロはこう書きました。「諸国民の中にあっていつもりっぱに行動しなさい。それは,彼らが,あなたがたを悪行者として悪く言っているその事がらについて,あなたがたのりっぱな業を実際に見,その業のゆえに検分の日に神をたたえるようになるためです」― ペテロ第一 2:12。

      15 西暦一世紀当時,真のクリスチャンはどのように誤り伝えられましたか。

      15 一世紀当時,クリスチャンは「悪行者」などと言われ,しばしば誤り伝えられました。次のような非難の言葉はその典型的なものです。「これらの男はわたしたちの都市をひどくかき乱しております。……われわれローマ人であれば,採用することも実施することも許されない習慣を広めています」。(使徒 16:20,21)「人の住む地を覆したこれらの者たち」。「これらの者たちはみんなカエサルの布令に逆らって行動し,イエスという別の王がいると言っています」。(使徒 17:6,7)使徒パウロは,「疫病のような人物で,人の住む地のほうぼうにいるユダヤ人すべての間に騒乱を引き起こし(た)」者と非難されました。(使徒 24:5)ローマにいたユダヤ人の主立った人々はパウロに「実際この派について,いたるところで反対が唱えられていることは,わたしたちの知るところだからです」と言いました。―使徒 28:22。

      16 (イ)誤り伝えられることに対する真のクリスチャンの最善の防御手段となるのはなんですか。(ロ)それによって反対者はどのように助けられる場合がありますか。

      16 そのように誤り伝えられることに対する最善の防御手段は立派な行状です。クリスチャンが法を守り,忠実に税金を支払い,「りっぱな業」であればどんなことでも進んで行なう精神を示すなら,また,仕事の面では勤勉かつ正直で,同胞の福祉に真の気遣いを示すなら,クリスチャンに対してなされる非難は偽りであることが明らかになります。(テトス 2:2-3:2)そうすれば,クリスチャンに関していつも中傷的なことを言う人々でさえ,自分たちが悪かったと気付いて真の崇拝を受け入れる気持ちになるかもしれません。そして,かつてはクリスチャンを誤り伝えていたそれらの人々が,神が裁きを行なわれる検分の時に,至高者をたたえ賛美する人の一人に数えられることもあり得るのです。

      17 良い行状がそれを見守る人々に健全な影響を及ぼすことを考えると,わたしたちは何を真剣に考慮すべきですか。

      17 クリスチャンが廉潔な生活をすることには驚くほど良い影響力があるのですから,他の人々をどのように扱うか,隣人にどれほどの関心を示すかということを真剣に考えざるを得ません。確かに,わたしたちは隣の家の人の必要に目をつぶっていたいとは思いません。そして,単に“得策”として,隣人に親切にし,世話をし,礼儀正しくあるのでないことは言うまでもありません。それはクリスチャンであるために基本的なことです。山上の垂訓の中でイエス・キリストはこう諭されました。「自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」。(マタイ 7:12)聖書は次のように勧めています。「時に恵まれているかぎり,すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおうではありませんか」。(ガラテア 6:10)「できるなら,あなたがたに関するかぎり,すべての人に対して平和を求めなさい」。(ローマ 12:18)「互いに対し,また他のすべての人に対して,常に善を追い求めなさい」― テサロニケ第一 5:15。

      18,19 ペテロ第一 3章8節に従い,クリスチャンとしてのわたしたちの態度と行状についてどんなことが言えなければなりませんか。

      18 明らかに,クリスチャンであることには,信仰の仲間といっしょに集会に出席し,他の人々に聖書の真理を伝えるという大切な要求を果たすことだけでなく,ほかにも多くのことが含まれます。(マタイ 28:19,20。ヘブライ 10:24,25)態度と行動,個人としての人となりの面で神のみ子に見倣うことも命じられているのです。使徒ペテロは,「最後に,あなたがたはみな同じ思いを持ち,思いやりを示し合い,兄弟の愛情を実践し,優しい同情心に富み,謙遜な思いをいだきなさい」と書きました。(ペテロ第一 3:8)「同じ思い」を持つためには,「同じ思い,また同じ考え方でしっかりと結ばれて」いなければなりません。(コリント第一 1:10)わたしたちのために命を投げうって愛を示されたイエス・キリストのそれと特に一致した考え方をするべきです。(ヨハネ 13:34,35; 15:12,13)世界的に愛と一致が見られることから明らかな通り,イエス・キリストの真の弟子たちは「同じ思い」を持っていますが,わたしたち一人一人は次の質問に答えなければなりません。すなわち,“わたしはその一致と愛情の精神に真に貢献しているだろうか。どのように,また,どれほど貢献しているだろうか”。

      19 霊的な兄弟たちを真に愛している人は,親切で人を快く許します。問題が話し合われ,その解決に意見の一致が見られたあとは,いつまでも恨みを抱いたり,問題に荷担したと思われるクリスチャン会衆の成員を故意に避けたりしません。ペテロの助言に従い,この世では珍しくない冷淡さ,厳しさ,誇りを表わすことのないように気を付ける必要があります。すなわち,わたしたちには“共通利害感”,つまり苦しんでいる人々に対する思いやりがあること,わたしたちが霊的な兄弟たちに対して温かい愛や愛情を抱いていること,「優しい同情心に富(んでいる)」,つまり哀れみを示したいという気持ちを持っていること,自分の意見を振りかざすのでなくて「謙遜な思いをいだ(いて)」おり他の人々に喜んで仕えようとしていること,これらのことを他の人々が目にするようでなければなりません。―マタイ 18:21-35; テサロニケ第一 2:7-12; 5:14と比較してください。

      20 ペテロ第一 3章9節の助言に留意するなら,わたしたちには何が求められますか。

      20 さらに,思いやりや同情心や親切を示すのを信仰の仲間だけに限るべきではありません。(ルカ 6:27-36)使徒ペテロは言葉を続けて,「危害に危害,ののしりにののしりを返すことなく,かえって祝福を与えなさい」とクリスチャンに説き勧めました。(ペテロ第一 3:9)これは,わたしたちに危害を加えののしりを浴びせる人をほめたり,あふれるほどの愛情を注ぐという意味ではありません。しかし,その人たちが歩み方を改めて神の祝福を受ける者となることを願いながら,その人たちに対して親切で思いやりのある態度を取り続けるなら,最善の事柄を成し遂げ,心の平安と幸福を十分に味わいます。

      仕返しをしない理由

      21 仕返しをしないようにするうえで,エホバの模範はどのように助けとなりますか。

      21 エホバ神が,あわれみ深くも,イエスの犠牲に基づいてわたしたちの罪を許してくださったという事実は,敵をさえ親切な,同情にあふれた仕方で扱う気持ちをわたしたちに起こさせるはずです。イエス・キリストは,「あなたがたが人の罪過をゆるさないなら,あなたがたの父もあなたがたの罪過をゆるされないでしょう」と語られました。(マタイ 6:15)したがって,わたしたちが神から永続する祝福を受け継ぐかどうかは,進んで他の人を祝福するかどうかにかかっています。エホバ神はわたしたちが思いやりのない扱いを受けるのを許されます。その理由の一つは,同胞に対して寛大で同情心があることを証明する機会をわたしたちに与えることです。使徒ペテロは次のように言葉を続けて,そのような考えを言い表わしました。「あなたがたは[あなたがたに危害を加えようとする人々を祝福するという]そうした道に召されたからです。それはあなたがたが祝福を受け継ぐためなのです」。(ペテロ第一 3:9)これは,他の人々がわたしたちに危害を加えるのを天の父が望んでおられるという意味ではありません。罪深い世に生きている罪深い人間の問題にわたしたちが遭遇しないようにするため神が介入するということはありませんでした。これは,わたしたちが神のようになりたい,つまり親切で同情心があり,人を快く許す人間になりたいと本当に願っているかどうかを試すものとなります。

      22 詩篇 34篇12-16節は,復しゅうの精神を避ける点でどんな励ましを与えていますか。

      22 ペテロは,仕返しをしないことをさらに励まし,詩篇 34篇12節から16節を引用してこう書いています。

      「というのは,『命を愛して良い日を見たいと思う者は,舌を制して悪を口にせず,くちびるを制して欺きを語らぬようにし,悪から遠ざかって善を行ない,平和を求めてこれを追い求めよ。エホバの目は義人の上にあり,その耳は彼らの願いに向けられるからである。しかしエホバの顔は悪を行なう者たちに敵対している』とあるからです」― ペテロ第一 3:10-12。

      23,24 (イ)『命を愛する』とは,また「良い日を見たいと思う」とはどういう意味ですか。(ロ)命を愛していることを示すなら,どんな益がありますか。

      23 ペテロのこれらの言葉は,すべての人を親切に扱うことこそ唯一のふさわしい生き方,最善の生き方であることを強調しています。命が神からの贈り物であることを認識して『命を愛する』人,そして生きる意義と目的のある日々つまり「良い日」を見たいと願う人々は,そのことを同胞の幸福を促進することによって示します。他の人を見くびったり,ののしったり,欺いたりするために,あるいは他の人からだまし取ったりするために舌を用いることがないよう語る言葉に絶えず注意します。そして,あらゆる悪を避け,神の目から見て良いことを行なうことを願います。平和を追い求める人として,攻撃的,好戦的でなく,他の人との,また他の人々の間の良い関係を促進するために努力します。―ローマ 14:19。

      24 幸福と平和を楽しむよう他の人を助けることによって命を愛していることを示す人は,自らを望ましい仲間とします。他の人々は,その人を必要とし求めていることを,また感謝していることを言葉や行ないで表わします。結果として,その人の生活がむなしく無意味になることは決してありません。―箴 11:17,25。

      25 神が優しく顧みてくださり,助けを与えてくださることをどうして確信できますか。

      25 親切が必ずしも感謝されるとは限りませんが,そうした人はエホバ神が優しく顧みてくださることを確信しています。至高者の目は義人の上にあり,その耳は常に義人の語る事柄に傾けられているので,至高者は義人がちょうど必要としているものをご存じであり,それらを満たすためただちに行動してくださるかもしれません。神は,確かに義人に「良い日を見」させてくださいます。なぜなら,義人が示す敬神の専念は「今の命ときたるべき命との約束を保つ」からです。(テモテ第一 4:8)一方,悪い事柄をならわしにしている人々,他の人の平和と幸福のために努力しない人々は,神が是認を示してくださることを期待できません。神は何一つ見過ごされませんから,神の“顔”は不利な裁きをもってその人々に向けられます。

      利得の道

      26 ペテロの言葉によれば,わたしたちが世の堕落した慣行にもどるのをだれが見ることを願っていると考えられますか。

      26 立派な行状を示して得られる益を絶えず見つめることは,この世の堕落した慣行に巻き込もうとする圧力に抵抗するうえで役立ちます。使徒ペテロはその目的で次のような力強い励ましを与えています。

      「過ぎ去った時の間,あなたがたは,不品行,欲情,過度の飲酒,浮かれ騒ぎ,飲みくらべ,無法な偶像礼拝に傾いていましたが,諸国民の欲するところを行なうのはそれでじゅうぶんだからです。彼らは,あなたがたがこうした道を自分たちとともに放とうの同じ下劣なよどみにまで走りつづけないので,当惑してあなたがたのことをいよいよあしざまに言います。しかしそうした人びとは,生きている者と死んだ者とを裁く備えのあるかたに対して言い開きをすることになるでしょう。事実,このために良いたよりは死んだ者たちにも宣べ伝えられたのです。すなわち,彼らが,肉に関しては人間の観点から裁かれた者となっても,霊に関しては神の観点から生きた者となるためでした」― ペテロ第一 4:3-6。

      27 世の堕落状態にもどりたいなどと決して思うべきでないのはなぜですか。

      27 神の意志と目的を知らずに罪深い情欲と欲望を満たすことに年月を費やしていた人も,クリスチャンとなった今ではそれにうんざりして,行き過ぎた行為と道徳的な奔放さを特色とする生活にもどりたいとは決して思わないはずです。わたしたちは,放縦な生活がどれほど空虚でむなしいかということを,そしてそれに伴う恥辱を決して忘れたいとは思いません。(ローマ 6:21)下品で卑わいな娯楽,みだらな踊り,情欲をかき立てるような音楽,この世で非常に重視されているそうしたものはわたしたちに嫌悪を感じさせ,魅力的でないはずです。それらを避けるので,かつての仲間からあしざまに言われるのはつらい場合もありますが,その人たちといっしょに無礼講のパーティーをしたり,放逸な生き方をしても何も得るところがないことは確かです。かえって,この世的な事柄を取り入れることにより,実に多くのものが失われます。悪い事柄をならわしにする人は例外なく,生きている者と死んだ者とを裁くよう神から定められているイエス・キリストに対して自分たちの行動の申し開きをしなければなりません。(テモテ第二 4:1)その裁きは確実に行なわれますから,「良いたより」は「死んだ者」つまり,霊的に死んでいる人々にも宣明されました。それらの人々は悔い改めて転向し,キリストの犠牲による贖いの益を自分たちに適用することによって神の観点から生き返ることが必要でした。

      28 (イ)クリスチャンが『肉に関しては人間の観点から裁かれる』ことがどうしてあり得るでしょうか。(ロ)そのように裁かれても動揺すべきでないのはなぜですか。

      28 悔い改める人々は,エホバ神の目に本当に貴重です。そして,エホバはその人々が永遠にわたって幸福に生きることを願っておられます。しかし,この世の人々は,真のクリスチャンが創造者のみ前で得ているすばらしい立場を理解しません。この世的な人々は,他の人々を見るのと同様にキリストの弟子たちを見,「肉に関して」つまり外見で弟子たちを判断します。しかし,人々がわたしたちを好意的に見ないからと言って,動揺すべきではありません。本当に大切なのは,わたしたちがエホバ神から『霊に関して生きている』,つまり霊的な生活を送っているとみなされているかどうかということです。わたしたちの生活が至高者の戒めに従ったものであり続けるなら,そのようにみなしていただけるでしょう。

      29 立派な行状を保つべきどんな十分の理由がありますか。

      29 現在の体制下で「外国人また寄留者」として立派な行状を保つべき理由は確かに十分あります。それは至高者によって命じられていることです。至高者はわたしたちを親切にあわれみ深く扱って手本を示してくださったのですから,わたしたちも他の人々を扱う際に思いやりや同情心を示し,進んで人を許す精神を持たなければなりません。わたしたちの賞賛に値する行状はわたしたちの神が良い方であるという印象を人々に与え,神の僕になるよう他の人を助けることでしょう。立派な行状を保つことによってのみ,わたしたちはエホバの祝福を引き続き受け,最終的には永遠の住みかでとこしえの命を与えられます。現在これほど有益で,しかもこれほどすばらしい将来が約束されている生き方はほかにありません。

  • 苦しみに耐えるための助け
    最善の生き方を選ぶ
    • 8章

      苦しみに耐えるための助け

      1,2 イエス・キリストの弟子たちはなぜ苦しみを逃れることができませんか。

      人生には,問題を抱えて助けを必要とし,わらをもつかみたい気持ちになることがあります。不幸が次々に重なると,絶望的になりやすいものです。重荷が耐えられないほどに思えることもあるでしょう。そのような時に得られる助けは実にありがたいものです。

      2 エホバ神のみ子の弟子であれば援助を必要としなくなるというわけではありません。わたしたちは苦しみに免疫ではないのです。人類は絶えず,病気,事故,洪水,あらし,犯罪,不正,圧迫などで悩まされています。わたしたちは,神の僕である自分たちだけがそれらに起因する苦しみから免疫になるために最高主権者が力を行使し,遺伝的な要因と環境を操作してくださると期待すべきではありません。神が人間の罪の有害な影響すべてを取り除かれる時はまだ来ていません。神が今“全く不幸のない生活”をご自分の民に送らせるなら,大勢の人が ― 愛と信仰からでなく全く利己的な理由で ― 我も我もと神に仕えるに違いありません。―ヨハネ 6:10-15,26,27と比較してください。

      3,4 真のクリスチャンは他の人々が経験しないどんな苦しみに遭うことがありますか。そのことからどんな疑問が生じますか。

      3 わたしたちは不快な状況による苦痛をどうしても経験しなければならないばかりか,神の僕であるがゆえに,親族や隣人や知人,または政府当局などからの迫害にも遭うことがあります。イエス・キリストは次のようなことさえ言われました。「人びとはあなたがたを患難に渡し,あなたがたを殺すでしょう。またあなたがたは,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう」。(マタイ 24:9)事実は,そのことが正にこの20世紀に起きたことを示しています。

      4 全能の神はご自分の僕が様々な試練に遭うのをなぜ許されるのでしょうか。神の僕となったからといって人間に共通の苦しみを免れるという保証が与えられるわけではなく,また,そうした生き方をすれば「憎しみの的」になることさえあるので,それがどうして真に最善の生き方と言えるだろうかといぶかる人もいることでしょう。苦難を補う,そうです,それを補って余りある益があるでしょうか。試練を避けるよりもそれを耐えるほうがより幸福であると実際に言えるでしょうか。厳しい圧力を首尾よく耐え抜くためには何が助けになるでしょうか。これらの疑問に対する答えを得るなら,わたしたちは大いに助けられ強められます。

      真の責任はどこにあるか

      5 苦しみの源について何を認める必要がありますか。

      5 天の父が苦しみの源でないことを決して忘れないようにするのは非常に大切です。この世に罪を持ち込んだのは天の父ではありません。神の霊的な子の一人が造り主に反抗することを選び,そのようにして自分をサタン,至高者への反抗者としました。その影響を受けたために,最初の人間夫婦であるアダムとエバは神の律法を故意に犯して,自らに死の裁きを招きました。(創世 3:1-19。ヨハネ 8:44)アダムが自分の完全さを損なったので,アダムのすべての子孫は罪を持って生まれ,病気や欠陥,老齢や死を免れることができません。(ローマ 5:12)罪人として生まれたわたしたちはだれしも,自分がこうありたいと願う人格,またそうあるべきだと思う人格に達することができません。言葉や行ないによってうっかり他の人々を傷付け,相手の苦しみを増し加えることがあります。ですから,自分自身や仲間の人間の不完全さによって生じた問題を神のせいにすべきでないことを銘記する必要があります。神の律法が守られていたなら,病気や欠陥や老齢そして苦しみの他の多くの原因は決して存在するようにはならなかったでしょう。

      6 エホバは人が人を残酷に扱うことをどうお感じになりますか。

      6 それから,また,天の父は人が人を残酷に扱うことをよしとされません。聖書はこう述べています。「地のすべての捕らわれ人を足の下に踏みにじり,いと高き方を無視して人の権利を奪い,法廷で裁きを曲げること,このようなことを,主は決して是認されたことがない」。(哀歌 3:34-36,新英訳聖書)神の律法に違犯して同胞を虐待する人々は神に申し開きをしなければなりません。「復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する,とエホバは言(われます)」。(ローマ 12:19)ですから,人間が故意にまた反抗的に神の律法を無視して生じた苦しみのために天の父に対して憤ることがないよう注意しなければなりません。

      7 エホバ神は,わたしたちを苦しめる結果となる状況が発展するのを許されたのですから,エホバがそうなさる理由についてどう結論しなければなりませんか。

      7 むろん,エホバ神は,サタンや悪霊や邪悪な人間,また人間の罪深い傾向のために試練となるあらゆる状況が起こるのを阻止する力を持っておられます。しかし,ご自分の僕をさえ悩ますひどい状況を神がお許しになるからには,それなりの十分な理由があるに違いありません。

      「あわれみの器」の益のために

      8 ローマ 9章14-24節には,エホバ神が他の人を苦しめる者たちをただちに処置されないどんな理由が述べられていますか。

      8 聖書の説明によれば,他の人々に大きな苦しみをもたらしている責任者を神がただちに処置されないのは,義を愛する人々の究極の益のためです。ローマの人々にあてた手紙の中で,クリスチャン使徒パウロは次のように書きました。

      「神に不正があるのですか。断じてそのようなことにはならないように! 神はモーセに,『わたしはだれでも自分のあわれむ者をあわれみ,自分が情けをかける者に情けをかける』と言っておられるからです。それですから,願う者にでも走る者にでもなく,ただあわれみを持たれる神にかかっているのです。聖書はファラオにこう言っているからです。『あなたに関連してわたしが自分の力を示すため,またわたしの名が全地で宣明されるため,まさにこの理由で,わたしはあなたをながらえさせたのである』。それですから,神は,ご自分の望む者をあわれみ,またご自分の望む者をかたくなにならせるのです。

      「そこであなたはわたしに言うでしょう,『なぜ神はなおもとがめるのか。いったいだれがその明示されたご意志に抗しえただろうか』と。人よ,神に言い逆らうとは,いったいあなたは何者なのですか。形作られたものが,それを形作った者に向かって,『なぜわたしをこのように作ったのか』と言うでしょうか。どうでしょう。陶器師は,粘土に対して,同じ固まりから一つの器を誉れある用途のために,別のものを誉れのない用途のために作る権限がないでしょうか。そこで,もし神が,ご自分の憤りを表明し,かつご自分の力を知らせようとの意志を持ちながらも,滅びのために整えられた憤りの器を,多大の辛抱強さをもって忍び,それによってあわれみの器に対するご自分の栄光の富を知らせようとされたのであれば,どうなのでしょうか。そのあわれみの器とは神が栄光のためにあらかじめ備えられたもの,すなわちわたしたちであり,ユダヤ人だけでなく,諸国民の中からも召されているのです」― ローマ 9:14-24。

      9 ファラオは「憤りの器」であることをどのように示しましたか。

      9 エホバ神が人々の生活の中で生じさせる,もしくは生じるのを許される事柄を通して,その人がどんな種類の「器」かが明らかになります。奴隷にしていたイスラエル人を解放するようにという通告をモーセとアロンを通してエホバから受けたファラオは,至高者に対して心をかたくなにし続けました。エジプト人に次から次へと災いが降りかかるにつれ,そのファラオはさらに片意地になり,イスラエル人を自由な民としてエジプトから去らせようとしませんでした。こうしてファラオは,自分が至高の主権者エホバ神の権威に対する反抗ゆえに滅びに値する,「憤りの器」であることを示しました。それと同時に,イスラエル人に加えられた残酷で不当な仕打ちは,イスラエル人が慈悲,哀れみ,同情心を必要とし,それを示されるにふさわしかったことを十分に証明しました。

      10 ファラオが反抗的な道をとり続けるのをしばらく許すことによって,エホバはどのように大いに名を上げられましたか。

      10 ファラオがかたくなに反抗し続けるのをエホバが許されたことには神のみ名が関係していたことに使徒パウロが注意を促している点も見逃せません。仮にその高慢な支配者がただちに滅ぼされたなら,あれほど広範かつ多角的にエホバ神の力が知らされ,エジプトの多くの神々と魔術を行なう祭司たちに恥をかかせる機会はなかったことでしょう。ファラオとその軍勢が紅海で滅ぼされたことを最高潮とする十の災いは,神の力をあまりにも強烈に示す出来事だったので,その後長年にわたってそのことは周辺の国民の間で語り草になっていました。こうして,エホバというみ名は全地で宣明されるようになり,そのみ名に栄光と誉れが帰せられ,心の正直な人々は感銘を受けて神の至高の地位を認めるようになりました。―ヨシュア 2:10,11。サムエル前 4:8。

      11 イスラエル人たちは,ファラオに関連した経験からどのように益を受けましたか。

      11 イスラエル人は,「あわれみの器」として,至高者が行なわれたことから益を受けたに違いありません。エホバが圧迫を許したのちに,すばらしい仕方で力を示してそれを終わらせたことによって,イスラエル人はエホバをさらに良く知るようになり,別の仕方では知るよしもなかったエホバの偉大さの一端を見ることができました。エジプトにおける経験は,つらいものだったとは言え,神に対して健全な恐れを持つことばかりか神の救いの力を信じることの大切さを知るうえで,イスラエル人に有益だったに違いありません。幸福と安全と平和と健康につながる生き方を追い求め続けるのに,それは肝要なことでした。―申命 6:1-24; 28:1-68。

      12 ヨブの例に示されているように,神の許しの下に苦しみが降りかかったなら,わたしたちは何をすることができますか。

      12 その時人々の心の傾向が明らかになったように,試みや試練が神の許しによってわたしたちに降りかかると,わたしたちが正しい動機で神に仕えているかどうかが明らかになります。神の敵対者,サタンが主張しているのは,神の意志を行なう人々は本来利己的であるということです。忠実なヨブに関して,その敵対者はこう言明しました。「人は自分の魂のためなら,持っているすべてのものを与えます。趣向を変えて,どうか,あなたの手を出して,彼の骨と肉にまで触れて,果たして彼が,それもあなたの顔に向かってあなたを呪わないかどうか見てください」。(ヨブ 2:4,5,新)苦しみに忠実に耐えるなら,わたしたちはサタンの主張が偽りであることを証明すること,およびご自分の忠節な僕を信頼なさる天の父の良いみ名を立証することにあずかります。サタンが手先を使って真のクリスチャンを残酷な目に遭わせ,死なせたりかたわにしたりするのをエホバが許されるとしたらどうでしょうか。だれかが性的な暴行をさえ加えられたり,他の下劣な方法で虐待されたりするならどうでしょうか。それはショッキングなことです。しかし,天の父の力でしかるべき時に完全に正され得ないものは何もありません。ですから,ある場合,そのように極限まで試みがなされるのをエホバが許されることもあるのです。このように神の僕たちは,死をも辞さない忠実さを示すことによって献身の純粋さを否定の余地のないほどに実証する機会が与えられるのです。

      13 ペテロ第一 1章5-7節の言葉から,クリスチャンが受ける苦しみについて何が分かりますか。

      13 中には驚く人があるかもしれませんが,自然による試みにせよ,迫害による試みにせよ,試練はわたしたちを個人的に向上させることができるのです。使徒ペテロはその点に注意を促しました。クリスチャンが最終的には必ず救われるよう「神の力によって保護されてい(る)」ことを指摘したのち,同使徒は次のように述べています。

      「このことをあなたがたは大いに喜んでいます。もっとも,現在しばらくの間,やむをえないことであるにしても,あなたがたはさまざまな試練によって憂え悲しんできました。でもそれは,火によって試されていながらも滅びてしまう金よりはるかに価値ある,あなたがたの信仰の試された質が,イエス・キリストの表わし示される時に,賛美と栄光と誉れのいわれとなるためなのです」― ペテロ第一 1:5-7。

      14 クリスチャンは試練によって「憂え悲しんで」いるときになぜ喜べますか。

      14 ペテロが認めている通り,受ける苦しみは決して喜ばしいものではありません。試練によって『憂え悲しんだり』,心を痛めたりすることは実際にあります。しかし,それと同時に喜ぶこともできます。それはなぜでしょうか。一つには,苦悩を首尾よく耐え抜くなら霊的な益が得られるということを知って,喜びが得られるからです。その霊的な益とは何でしょうか。

      苦しみは信仰をどのように練り清めるか

      15 試練は信仰にどんな影響を与えることがありますか。

      15 使徒ペテロは試練がクリスチャンの信仰に及ぼす影響を,金が火によって精錬されることになぞらえました。精錬の工程によってかすは取り除かれ,混じり気のない金が残ります。金の価が非常に高くなるのですから,精錬することは確かに価値があります。それでも,ペテロが述べている通り,火によって試されていても金は滅びやすいものです。摩滅したり,その他の方法で滅びたりすることがあります。しかし,試みられ,試された信仰にはそのようなことがありません。本物の信仰は滅びることがないのです。

      16 本物の信仰を持つことが非常に有益なのはなぜですか。

      16 神の是認を得るには,そのような信仰を持っていることが絶対に必要です。「信仰がなければ,神をじゅうぶんに喜ばせることはできません」と,聖書は述べています。(ヘブライ 11:6)試練を受けて本物であることが証明された信仰は,確かに,精練された金よりもはるかに高い価値を持っています。わたしたちの永遠の将来はそうした信仰にかかっているのです。

      17 試練が信仰に及ぼす影響についてどんな疑問が起きるでしょうか。

      17 ところで,信仰は試練によってどのように純化され,「イエス・キリストの表わし示される時に,賛美と栄光と誉れのいわれとなる」でしょうか。それは様々な仕方で生じ得ます。

      18 試練の下で信仰はどのように明らかになるでしょうか。それはわたしたちをどのように強めますか。

      18 もし信仰が強いなら,苦難の時の間,その信仰はわたしたちを慰め支えてくれます。そのうえ,一つの試練を首尾よく通過したなら,わたしたちはそれ以上の試練に立ち向かえるよう強められます。信仰がわたしたちにどのように役立つかが,経験を通して明らかになります。

      19 ある特定の試練は信仰の弱さをどのように明らかにするでしょうか。それはわたしたちにどのように役立ちますか。

      19 一方,ある特定の試練によって,人格上の欠陥,つまり誇りや強情さや短気なこと,この世的であったり安楽や快楽を愛していたりすることなどが明らかになる場合があります。そうした性向は実は信仰の弱さから来ています。というのは,それらの性向は,人が神の導きと,自分に対する神のご意志に完全に服していないことを表わしているからです。その人は,幸福に通じる最善の道をみ父が本当にご存じであり,神の導きに従うなら必ず祝福を受ける結果になることを確信していません。(ヘブライ 3:12,13)試練によって弱さが露呈したなら,クリスチャンは,至高者の是認された僕であり続けるために信仰を強める必要に気付くことができます。

      20 試練によって信仰の弱さが明らかになったなら,どうすべきですか。

      20 ですから,特定の状況に置かれたとき信仰に何らかの欠陥が見いだされたなら,自己吟味して,どんなきょう正手段を講じたらよいか決められます。次のように自問すると良いでしょう。“わたしの信仰はなぜ弱いのだろうか。神の言葉の研究やそれについて黙想することを怠っているだろうか。仲間の信者の信仰の表明から励ましを受けるため,機会あるごとに彼らと集まり合っているだろうか。心配や思い煩いをすべてエホバ神にゆだねることをしないで,必要以上に自分に頼る傾向があるだろうか。祈り,それも心からの祈りが本当に毎日の生活の一部になっているだろうか”。改善の必要な点を見定めたなら,信仰を強化する目的で生活習慣を変えるよう勤勉に努力しなければなりません。

      21 信仰が「イエス・キリストの表わし示される時に,賛美と栄光と誉れのいわれとなる」とはどういう意味ですか。

      21 神に導きを仰ぎ,試練から逃れる道を神が示してくださることを信頼して辛抱するなら,それらのつらい経験を通して神のより良い僕になることができます。そうすれば,わたしたちの信仰は正しく,「イエス・キリストの表わし示される時に,賛美と栄光と誉れのいわれとな(り)」ます。神のみ子はわたしたちの信仰を「賛美」し,賞賛し,ほめるでしょう。み子は,わたしたちの信仰に十分報いて,わたしたちに「栄光」を与えてくださるのです。そして,エホバ神とみ使いたちの前で,ご自分の弟子としてわたしたちに「誉れ」を与えてくださいます。(マタイ 10:32; ルカ 12:8; 18:8と比較してください。)それは,わたしたちの前途に,幸福かつ永遠に生きるという将来があることを意味します。しかし,ひどい苦しみに遭っているときに,信仰が弱まらないようにするにはどうすればよいでしょうか。

      強い圧力の下でどのように行動するか

      22 試練の長さについてどんな事実を認めるなら,忍耐するのに役立ちますか。

      22 容易ならない試練を首尾よく耐えるのに役立つのは,一つとして,それが一時的なものであることを認識することです。金の精錬に始めと終わりがあるように,受けている苦難も無期限に続くわけではありません。死も叫びも苦痛もない永遠の命という神のお約束を深く心に銘記していれば,現在の事物の体制下での最もひどい苦しみもほんの「つかのまで軽いもの」と考えることができます。(コリント第二 4:17)確かに「以前の事柄は思い出されることなく,それらは心の中に上ることもない」時が訪れるのです。その時を待ち望んでください。(イザヤ 65:17,新)その時にはそれら耐え難い経験が痛ましい記憶として残っていないのはなんとすばらしいことでしょう。

      23 立派な行状を示すなら,普通苦しみを加えられることがないのはなぜですか。

      23 さらにまた,人々からひどく苦しめられることが日常茶飯事である場合はまれです。わたしたちの立派な行状ゆえに,実際のところ,だれであろうとわたしたちに害を加える根拠はほとんどないはずです。法と秩序を維持する務めを持つ政府当局は,法を遵守するエホバの僕たちを恐らくほめることでしょう。現代において反対者たちでさえ,神の忠実な預言者ダニエルの敵が次のように言ったのと同様のことを言わざるを得ませんでした。「我々はこのダニエルについて何の口実も見いだせないだろう。ただ彼の神の律法に関して彼を責めるものを見つける以外にはない」。そうです,ダニエルは「信任に答え,怠慢や不正な事柄は何らその内に見いだされ(ませんでした)」。(ダニエル 6:4,5,新)使徒ペテロが,「実際,あなたがたが善に熱心になるなら,だれがあなたがたに害を加えるでしょうか」と質問したのは,立派な行状そのものはクリスチャンが憎しみの的となる理由とは普通ならないためだったからでしょう。―ペテロ第一 3:13。

      24 人がわたしたちに永続的な危害を加えることができないのはなぜですか。

      24 しかし,そう質問することによって,ペテロは,“だれが方正なクリスチャンに実際の害を加えられるでしょうか”と尋ねていたとも考えられます。だれもわたしたちに永続的な危害を加えることはできません。イエス・キリストは弟子たちにこう言われました。「体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体もともにゲヘナで滅ぼすことのできるかたを恐れなさい」。(マタイ 10:28)なるほど,人はわたしたちを殺すことはできても,生きた魂となる権利を奪うことはできません。至高の神はみ子を通して忠実な僕たちを生き返えらせる力と意志を持っておられます。生ける者として命を持つ権利をわたしたちから永遠に奪い去り,復活の見込みのない永遠の死へわたしたちを追いやることのできる方はエホバだけです。

      25,26 (イ)義のために苦しむとき,なぜ幸いであると言えますか。(ロ)迫害者が恐れるものを恐れるべきでないのはなぜですか。

      25 こうした真理があるので,使徒ペテロはクリスチャンの兄弟たちに次のように言うことができました。「たとえ義のために苦しむことがあっても,あなたがたは幸いです。しかし,彼らの恐れるものを恐れてはなりません。またそれに動揺してもなりません」― ペテロ第一 3:14。

      26 「義のために苦しむ」のであれば神と人とに対して良心にやましいところがないので,わたしたちは幸いです。わたしたちは正しい理由で苦しんでいます。至高者に喜んでいただける事柄を行なう結果,精神的な満足と心の平安とを得ます。しかしながら,使徒も触れている通り,それを立派に行なえるかどうかは恐れに屈しないことにかかっています。ここで使徒が言及しているのは,迫害者が神の民の上に災いをもたらすことによって抱かせる恐れのことかもしれませんし,あるいは,迫害者自身が持つ恐れのことかもしれません。例えば,真のクリスチャンの反対者たちは,エホバ神がキリストを通して死者をよみがえらせるという信仰を持っていないので,若死にするかもしれないことを恐れます。(ヘブライ 2:14,15)しかし,わたしたち神の僕は,そのような死に対する恐れから解放されており,天の父はわたしたちを決して見捨てられないことを知っているので,信仰のない人々が恐れるものを恐れる必要がありません。ですから,腹立ちまぎれに迫害者に反抗したりして「動揺」すべきではありません。

      27,28 政府当局者の前に引き出されて,厳しく,かつ軽べつ的に質問されるとき,ペテロ第一 3章15節の助言はどのように役立ちますか。

      27 政府当局者の前に引き出されて,厳しく,また軽べつ的に質問されたとしたらどうでしょうか。わたしたちは同様にやり返したいとは決して思いません。神が後ろだてになってくださっているという確信があるので,大胆になることはあっても,好戦的になったりごう慢になったりしてよいというわけではありません。(使徒 4:5-20と比較してください。)使徒はこう助言しています。「あなたがたの心の中でキリストを主として神聖なものとし,あなたがたのうちにある希望の理由を問う人のだれにも,その前で弁明できるよう常に備えをしていなさい。しかし柔和な気持ちと深い敬意をもってそうするようにしなさい」。(ペテロ第一 3:15)もしこの助言に注意を払わず,侮べつや不敬を表わしてしまうなら,もはや義のために苦しんではいないことになってしまいます。政府当局は,不敬で不服従なわたしたちを処罰して当然であると考えるでしょう。この世的な人々は,自分たちの権利が侵害されたと感じると,いら立ちや怒りや苦々しい敵意をぶちまけます。しかし,クリスチャンは異なっていなければなりません。

      28 使徒が助言しているように,そのような状況の下では,わたしたちの主または主人のことを思いに留め,その手本を思い出さなければなりません。イエス・キリストを心の中の神聖な場所に置いて,イエスに最大の敬意を払うように注意する必要があります。わたしたちはその弟子であり,尋問する当局者に対して,あたかも主の面前に立っているかのように話したいと思います。クリスチャンの立場に対する弁明は,穏やかに落ち着いて,敬意を込めてなされるべきです。

      反対者に対する良い影響

      29 人が忠実に苦しみを忍耐するなら,反対者にどんな影響を与える場合がありますか。

      29 苦しみに忠実に耐えるなら,反対者の口をふさぐのにも役立つかもしれません。使徒ペテロは清い良心を保つ動機としてその点を挙げ,こう述べています。「正しい良心を保ちなさい。それは,あなたがたが悪く言われている事について,キリストにあるあなたがたの良い行状を軽べつして語っている者たちが恥じ入るためです」。(ペテロ第一 3:16)反対者たちは,神の僕が忍耐強く,不平を言わずに振る舞うのを見て,神の僕を中傷したことを恥じるかもしれません。わたしたちが反対者を親切に扱う場合には特にそういうことがあります。―ローマ 12:19-21。

      30 (イ)悪を行なって苦しむことに益がないのはなぜですか。(ロ)義のために苦しむことに関連して,ペテロが「もし神がご意志よってそう望まれるのであれば」と言ったのはなぜですか。

      30 義のために苦難を忠実に忍ぶことはそのような益があるので,ペテロの次の言葉は一層説得力のあるものとなります。「というのは,善を行なって苦しみに遭うほうが,もし神がご意志によってそう望まれるのであれば,悪を行なって苦しみに遭うより善いことだからです」。(ペテロ第一 3:17)どろぼう,ゆすり,脱税者として,あるいは,見せかけの敬虔さやはきちがえた熱意から権威に反抗する人物として苦しむことに,どれほどの価値があるでしょうか。そのようなことで罰せられるなら,その人自身と信仰の仲間に非難が及ぶだけです。しかし,クリスチャンが不当な仕打ちをじっと忍耐するなら,他の人々は真の崇拝者を支える持久力に感心し,神の真理とその支持者が誤り伝えられることはやみます。苦難がクリスチャンに降りかかるのは神の許しによるゆえに,ペテロは事を誤り伝えることなく,「神がご意志によってそう望まれるのであれば」と正しく述べました。

      イエスの例に見る通り,報いのある道

      31 イエス・キリストが忠実に苦しみを忍耐されたことはどのように益をもたらしましたか。

      31 クリスチャンが苦しみに忠実に耐えるなら,すばらしい祝福を受けられることは,イエス・キリストの場合を見ても明らかです。イエスは罪人ではありませんでしたから,ひどい仕打ちを受けなければならないようなことは何一つされませんでした。しかし,ついには杭の上で屈辱的な死を遂げるまでイエスが苦難に耐えたことは,わたしたちに驚くほどの益をもたらし,また,イエスが豊かに報われる結果となりました。使徒ペテロはこう書きました。

      「キリストでさえ罪に関して一度かぎり死にました。義なるかたが不義の者たちのためにです。それはあなたがたを神に導くためでした。彼は肉において死に渡され,霊において生かされたのです。この状態でまた,彼は獄にある霊たちのもとに行って宣べ伝えました。それは,かつてノアの日に神がしんぼうして待っておられた時に不従順であった者たちであり,その間に箱船が造られ,その中にあって少数の人びと,つまり八つの魂が無事に水を切り抜けました」― ペテロ第一 3:18-20。

      32 キリストが死に至るまで苦しみに耐えられたことから,わたしたちはどんな益を得ていますか。

      32 イエス・キリストが完全な人間の犠牲としてご自分の命をなげうつことができたのは,苦しみの下で非の打ちどころのない忠誠を保たれたからです。こうしてその死により,人類が『神に導かれ』,至高者と和解して永遠の命の見込みを得る道が開かれました。キリストがわたしたちのために死なれたことから多大の益を受けていることを考えれば,進んでその手本に従い,義のために苦しもうという気持ちになるのではないでしょうか。

      33 わたしたちがイエス・キリストの弟子であるゆえに殺すと脅されたとき,イエスの復活から何を確信するはずですか。

      33 さらに,イエスの場合と同様に,わたしたちも忠実な忍耐が報われることを確信できます。イエス・キリストが「霊において生かされた」,つまり霊的な命に復活させられたという事実は,その弟子がよみがえらされることの変わらない保証となっています。―コリント第一 15:12-22。

      34 忠実さを保たれた記録があるゆえに,イエス・キリストは邪悪な霊者たちに関連して何をすることができましたか。

      34 神のみ子は忠実な忍耐によって勝利者となられたので,霊者として,「獄にある霊たち」に裁きの音信を宣べ伝えることができました。その霊たちの不従順がノアの時代と結び付けられているので,それらは,天の本来の居どころを離れて女たちと夫婦生活をした,神の子であるみ使いたちに違いありません。(創世 6:1-4)彼らは,罰として,忠実なみ使いのいる本来の場所から永遠に締め出され監禁状態にあるので,「獄にある霊たち」と述べられています。ユダの次の言葉は,それら堕落したみ使いたちに与えられた音信が有罪の裁きの音信以外の何ものでもあり得ないことを確証しています。「自分本来の立場を保たず,そのあるべき居どころを捨てた使いたちを,[神は]大いなる日の裁きのために,とこしえのなわめをもって濃密なやみのもとに留め置いておられます」。(ユダ 6)イエスによみがえらされる資格を得させ,堕落したみ使いたちに有罪の裁きを宣べ伝える,つまり布告する立場に彼を就かせたのは,イエスの死に至るまでの忠実な忍耐でした。

      35 イエスが「獄にある霊たち」に滅びを宣べ伝えられたことから,忠実に忍耐するよう励まされるのはなぜですか。

      35 邪悪な霊者に滅びが宣べ伝えられるということは,わたしたちにとって,避けられない苦難を忠実に忍耐する励みとなるはずです。というのは,その邪悪な霊の勢力は,神から離反した人類をけしかけてイエス・キリストの弟子に立ち向かわせている主謀者だからです。聖書はこう述べています。「その者たちの間にあって,この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです」。(コリント第二 4:4)「わたしたち[クリスチャン]のする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府と権威,またこのやみの世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するもの……です」。(エフェソス 6:12。啓示 16:13,14もご覧ください。)ですから,復活したイエス・キリストが邪悪な霊たちに裁きの音信を宣べ伝えることができたということは,やがて,その憎むべき影響がことごとく打ち消されることの保証となっています。(マルコ 1:23,24と比較してください。)それは何とすばらしい解放を意味することでしょう。

      36 (イ)イエス・キリストは忠実さに対してどんな報いを受けられましたか。(ロ)イエスの地位からして,そのお名前のために苦しむことをどう感じるべきですか。

      36 イエス・キリストは,神の是認された僕として死からよみがえらされ,不従順なみ使いたちに裁きの音信を伝えることができるようにされただけでなく,非常に高い地位につけられました。使徒ペテロはこう伝えています。「彼は神の右におられます。天へ行かれたからです。そしてもろもろの使いと権威と力は彼に服させられました」。(ペテロ第一 3:22)このことは,死から復活したのちにイエスご自身が語られた「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています」という言葉と一致しています。(マタイ 28:18)それよりはるかに低い権威しか持たない人間の支配者に仕えて,喜んで苦しみ命までも犠牲にした人は少なくありません。それらの人々は,そのようにして王とか女王に仕えることを大きな誉れと考えました。では,天の王イエス・キリストに忠節であるがゆえに苦しむことができることにもっと大きな名誉を感じるべきではないでしょうか。

      イエス・キリストに見倣う

      37 苦難を経験しているとき,だれの手本に見倣うよう努力すべきですか。

      37 ですから,苦難の下で常に神のみ子を手本として仰いでください。使徒ペテロはこう書いています。「したがって,キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから,あなたがたも同じ精神の意向をもって身を固めなさい。肉体において苦しみを受けている者は罪をやめているからです。それは,肉体における自分の残りの時を,もはや人間の欲望のためではなく,神のご意志に関して生きるためです」― ペテロ第一 4:1,2。

      38 イエス・キリストの精神の意向とはどのようなものでしたか。

      38 イエスの精神の意向とはどのようなものだったでしょうか。イエスは,自分に加えられた虐待や浴びせられたののしりを謙遜に受け,ついには杭の上で痛ましい死を遂げられました。同様の仕返しを決してしないことによって,神のみ子は次の預言的な言葉を成就されました。「羊のように,彼はほふられるために連れて来られた。そして,毛を刈る者の前で声を出さない子羊のように,彼は口を開かない」― 使徒 8:32。イザヤ 53:7。

      39 わたしたちが罪深い事柄を行なうのをやめていることは何によって証明されますか。

      39 至高者の僕であるわたしたちは,反抗の精神や仕返しの精神に屈することなく,同じように苦しみに耐えたいと思います。迫害者を脅したり,迫害者に危害を加える機会をねらったりするのは,わたしたちがまだ罪深い肉の情欲に左右されていることの証拠です。わたしたちが利己的な道を歩まずこの世のやり方に従わないという理由以外の理由で,人から苦しみを加えられることがないようにすべきです。(ヨハネ 15:19,25)そのようにして,わたしたちは態度や言葉や行動で,「もはや人間の欲望のためにではなく,神のご意志に関して」生きていることを証明できます。

      幸いである理由

      40 一世紀の信者の多くは,キリストのために苦しみに遭うことを異常に感じたと思われますが,それはなぜでしたか。

      40 西暦一世紀当時,偶像崇拝を行なっていた一般の人々は,宗教上の理由で苦しみに遭うことはありませんでしたが,クリスチャンになった人は必ず憎しみの的になりました。迫害されるということは異常な,当惑する経験だったに違いありません。それは,「良いたより」を受け入れて得られる祝福とはおよそかけ離れたものでした。それらクリスチャンたちは苦難に対する正しい見方を大いに必要としていました。使徒ペテロの次の言葉は確かに彼らの心をさわやかにするものでした。

      「愛する者たちよ,あなたがたの間の燃えさかる火は,試練としてあなたがたに起きているのであり,何か異常なことが身に降りかかっているかのように当惑してはなりません。かえって,キリストの苦しみにあずかる者となっていることを喜びとしてゆきなさい。それは,彼の栄光の表わし示されるときにも,あなたがたが喜び,また喜びにあふれるためです。キリストの名のために非難されるなら,あなたがたは幸いです。栄光の霊,すなわち神の霊があなたがたの上にとどまっているからです」― ペテロ第一 4:12-14。

      41,42 (イ)ペテロ第一 4章12-14節に従い,義のために苦しむことをどのようにみなせるでしょうか。(ロ)そうした苦しみは何を確かにしますか。

      41 身に降りかかる苦難を,仰天し驚いて見るかわりに,主が表わし示される時に受ける祝福にあずかる準備とみなすことができます。ペテロは苦しみのことを「燃えさかる火」と言いました。金属は火で精錬されるからです。同様に,神もご自分の僕が患難を経験することによって精錬される,つまり純化されるのを許されます。言うまでもなく,エホバ神がわたしたちを罪深い者にされたのではありません。しかし,わたしたちが罪人であるゆえに,わたしたちを純化する一つの手段として何らかの苦しみに遭うのを許される場合があるのです。苦難を経験することは,わたしたちが人間同胞に対して一層親切で謙遜で同情心と理解のある人になるうえで役立ちます。さらに,自分自身が厳しい試練に耐えたとき,他の人々を慰め励ますわたしたちの言葉はずっと重みを持ちます。慰められる人々は,自分の経験している事柄がわたしたちに理解してもらえることを知っています。

      42 神のみ子は苦しまれましたから,苦難を経験することは,わたしたちが神のみ子と一つになっていて,その真の弟子であることの証拠です。イエスは使徒たちにこう言われました。「奴隷はその主人より偉くはないと,わたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。彼らがわたしを迫害したのであれば,あなたがたをも迫害するでしょう」。(ヨハネ 15:20)主の場合と同様の理由で迫害され,義のために苦難に遭うのは,『キリストの苦しみにあずかっている』ことになります。その忠実さによってイエスが天の父から報いを与えられたように,わたしたちも引き続き忠実に苦難に耐えるなら,神のみ子が表わし示されるときに是認された者とみなされることを確信できます。その時,現在の悲しみの原因がことごとくなくなった新秩序での終わりのない命を与えられて,わたしたちは喜びにあふれるに違いありません。

      43 苦しみの下で忠実に忍耐するなら,わたしたちの上にどんな霊があることの証明になりますか。それはなぜですか。

      43 ペテロも述べている通り,キリストの名のために,つまりキリストの弟子であるがゆえに受ける非難に耐えるなら,幸いがもたらされるはずです。それは,そのように非難され中傷される人々が,神の霊すなわち神から出る誉れある「栄光の霊」を正しく持っていることの証拠だからです。その霊は聖なるものですから,神の観点から清い,純粋な人々の上にだけとどまります。

      44 どんな種類の苦しみは避けるべきですか。

      44 ですから,わたしたちが受ける苦しみがわたしたちの悪い行ないに起因するものでないことを確かめるのは非常に大切です。使徒ペテロはこう勧めています。「しかしながら,あなたがたのだれも,殺人者,盗人,悪行者,あるいは他人の事に干渉する者として苦しみに遭ってはなりません」― ペテロ第一 4:15。

      45 クリスチャンととなえる人が犯罪を犯して苦しむなら,どんな結果になりますか。

      45 クリスチャンと称しながら,仲間の人間に対して悪事を働く人は罰をのがれることを期待できません。(使徒 25:11と比較してください。)そのようにして罰せられるなら,当人およびその人が交わる会衆そしてキリストのお名前に非難が及びます。その人は喜びを得るのでなく,恥を被ります。

      46 (イ)「干渉する者」とはどんな人のことですか。(ロ)クリスチャンはどんな場合に干渉する者となることがありますか。

      46 他人の事に干渉する人は憎まれるものです。おせっかいな人とはどういう人のことかは,ペテロが用いている,「干渉する者」という意味のギリシャ語からうかがい知ることができます。その文字通りの意味は,「他人の事柄を監督する人」です。聖書の知識を得たというわけか,あるクリスチャンは個人的な事柄についてこの世の人々に指図する資格があると感じて,服装や子供の訓練,結婚と性の問題の扱い方,娯楽,食事療法およびそれに類することについての基準に関し自分の意見を押しつけようとします。頼まれもしないのに他の人の個人的な問題に口を出して,これをしなさい,あれをしてはいけないと指図するなら,その人は他人の事柄を「監督する人」になろうとしているのです。そのようなことは大抵人の怒りを買います。干渉する人は,他人のことは構わないでほしいとはっきり言われるかもしれません。個人の生活を干渉されて腹を立てた人から暴力を振るわれることさえないとは言えません。自分と関係のない事柄をせんさくするおせっかいな人は,自分自身が苦しみを受け,かつキリスト教とその音信を外部の人々に誤り伝えます。もちろん会衆の中にも,干渉する者の占める場所はありません。―テモテ第一 5:13と比較してください。

      47 クリスチャンが苦しみに耐えるなら,どのように神に栄光を帰すことができますか。

      47 法律違反者とか干渉する者として公に暴露されて恥をかくこととは異なり,クリスチャンとして苦しむことは誉れとなります。ペテロはこう書いています。「クリスチャンとして苦しみに遭うのであれば,その人は恥じることはありません。むしろその名によって神に栄光を帰してゆきなさい」。(ペテロ第一 4:16)クリスチャンの生き方をしているがゆえに身に苦難を招く場合,不平を言わずにじっとそれに耐えるなら至高者に栄光をもたらすものとなります。わたしたちがクリスチャンとして持っているもの,つまり神およびキリストとの貴重な関係,清い良心,霊的幸福,将来の確かな希望が,価値の高い宝のようなものであることがそれによって証明されます。わたしたちはそのために喜んで苦しみ,必要とあらば死ぬことさえいとわない気持ちがあることを示しますが,それは,わたしたちが熱心に仕えている神に栄光を帰すことになります。反対に,圧力に屈して信仰を捨てるなら,神のみ名を汚すことになります。それを見た人々は,イエス・キリストの弟子であることの計り知れない価値を大いに疑うようになるでしょう。―エフェソス 3:13; コリント第二 6:3-10と比較してください。

      一種の鍛練もしくは訓練

      48 義のために苦しんでいるときに助けがあることを,ペテロ第一 4章17-19節はどのように示していますか。

      48 エホバ神はその全能の力によって,クリスチャンが不当な苦しみを受けないようにすることもできますが,十分の理由があってそれを許しておられるということが分かりました。一方,至高者はご自分の僕たちに助けを与えずにおくようなことを決してなさいません。使徒ペテロはその点について詳しくこう書いています。

      「今は,裁きが神の家から始まる定めの時だからです。さて,それがまずわたしたちから始まるのであれば,神の良いたよりに従順でない者たちの終わりはどうなるでしょうか。『そして義人がかろうじて救われてゆくのであれば,不敬虔な者や罪人はどこに出てくるだろうか』。そうであれば,神のご意志にしたがって苦しみに遭っている者たちは,善を行ないつつ,自分の魂を忠実な創造者にゆだねてゆきなさい」― ペテロ第一 4:17-19。

      49 (イ)「神の家」はいつから裁きを受けていますか。(ロ)最終的にどんな評決が下されるかは何によって決まりますか。

      49 クリスチャン会衆は「神の家」として西暦33年に発足しました。その時以来,会衆の成員は神の裁きを受けています。神のご意志に対する彼らの反応,エホバ神の許しによって彼らに降りかかる事柄への彼らの態度や言動は,最終的に下される評決と大いに関係があります。エホバ神は,時として,非常に厳しい事柄がクリスチャン会衆の成員に降りかかるのをよしとされる場合があります。しかし,迫害は一種の鍛練となり,神はそれがご自分の民の益となるように取り計らうことがおできになります。―ヘブライ 12:4-11。ヘブライ 4:15,16もご覧ください。そこには,イエス・キリストが受けた苦しみを通して同情心や思いやりのある大祭司となられたことが示されています。

      50,51 人々がわたしたちを害するために用いる事柄をエホバは祝福に変えることがおできになることを,ヨセフとパウロの経験はどのように例証していますか。

      50 サタンにあやつられている人間は,わたしたちを虐待して信仰を打ち砕こうとすることがありますが,エホバはそのよこしまな目的をざ折させることがおできになります。そうです,エホバは,ご自身悪を憎まれる一方,わたしたちを害するよう意図された事柄から良い結果を生じさせることがおできになります。ヤコブの年若い息子ヨセフの例を考えてみましょう。異母兄弟たちはヨセフを憎んで奴隷として売りとばしました。何年ものあいだ,ヨセフは多くの苦しい目に遭い,ゆえなくして投獄されたこともありました。しかし,のちに,エホバ神はヤコブの家族を生きながらえさせるためにその状況を利用なさいました。そのことについて,ヨセフは異母兄弟たちに次のように告げました。

      「今,わたしをここに売ったことで,思い悩んだり,自分のことを怒ったりしないでください。命を長らえさせるため,神がわたしを皆さんに先立って遣わされたのですから。今は,地の最中における飢きんの二年目であり,耕し時も収穫もない年があと五年あります。ですから,あなたがたのため地に残りの者を置き,大いなる逃避によってあなたがたを生き長らえさせるため,神があなたがたに先立ってわたしを遣わされたのです。それで今,わたしをここに遣わしたのはあなたがたではなく,真の神なのであり,わたしを立ててファラオの父,その全家の主とし,エジプトの全土を支配する者とするためだったのです」― 創世 45:5-8,新。

      51 同様に,使徒パウロがローマで監禁されていたときに,その不利な状況が真の崇拝の目的の促進に役立ちました。フィリピ人へあてた手紙の中で,パウロはこう書いています。

      「さて,兄弟たち,わたしの身に起きた事柄が実際には良いたよりの伝道を促進する結果になったことを確信していただきたいと思います。こうして,わたしが獄中にいるのはキリストのためであることが,近衛隊全体およびほかの所に知れ渡っています。ですから,クリスチャンの兄弟たちの多くは,結果を少しも恐れずに神の音信を宣明するというわたしの模範から非常に励まされています」― フィリピ 1:12-14,アメリカ訳,1944年版。

      52 「不敬虔な者や罪人」はなぜ出てくることを期待できませんか。

      52 エホバ神は,忠節な僕たちを精錬するために,また彼らに献身を実証させるために厳しい仕打ちを受けさせるのですから,「神の家」であるクリスチャン会衆内の「不敬虔な者や罪人」が同じ会衆内の「義人」といっしょに神の前に「出てくる」ことができるなどと考えられるでしょうか。詩篇作者はこう述べます。「よこしまな者たちは裁きにおいて,また,罪人たちは義なる者たちの集会において立ち上がることがありません」。(詩 1:5,新)そうです,よこしまな人々は是認された者として立つことはなく,有罪の判決を受けます。義なる人々の集会の中にいるとしても,神の前に恵みを受けた状態で「出てくる」ことは決してありません。信仰を持つ人々すべてがこの世で直面しなければならない事柄からすれば,最終的に救われて永遠の命を得るには,真の努力と愛と義の道に対する信仰が必要です。ですから,「かろうじて」救われると言うことができます。したがって,クリスチャン会衆(「神の家」)の全成員はこの裁きの「定めの時」に「不敬虔な者」や「罪人」とならないようにしなければなりません。―ペテロ第一 4:17,18。箴 11:31。

      53 (イ)苦しみに遭うとき,エホバが「忠実な創造者」であるということからどんな慰めが得られますか。(ロ)迫害者に対してどのような態度を取るべきですか。

      53 自分の力ではとうてい耐えられないような試練がわたしたちに降りかかってくるかもしれません。しかし,置かれた状況がたとえどれほどみじめなものとなろうとも,エホバ神はわたしたちを支え,わたしたちが被る危害すべてを完全に取り除くことがおできになります。わたしたちがエホバに自分を全くゆだねるなら,エホバは,苦しみに耐えられるよう聖霊によってわたしたちを強めてくださいます。ペテロが述べている通り,わたしたちが頼ることのできる神は,「忠実な創造者」ですから,ご自分の僕を助けに行くという約束を必ず守られます。(ペテロ第一 4:19)このことを知っていれば,迫害者に対して神のみ名を汚すような態度を取らないようにすることができます。同じようにやり返して迫害者と戦うかわりに,善を行ない続けたいという気持ちになります。―ルカ 6:27,28。

      54 わたしたちは神のみ手のもとにあってどのように謙遜な者となりますか。それはわたしたちにどのように益となりますか。

      54 キリストのような気質を持ち続けながら,身に降りかかって来る事柄を謙遜に甘受するなら,エホバがわたしたちを高めてくださることを確信できます。試練はいつまでも続くものではなく,終わりがあります。ひどい仕打ちを受けながらも神のご意志と調和した振る舞いをする限り,わたしたちはエホバのみ手の保護の下にあります。そして,神のみ手はわたしたちを引き上げる,つまり是認され試された僕として高めることができます。使徒ペテロが次のように勧めているのは,正にそのことです。「それゆえ,神の力強いみ手のもとにあって謙遜な者となりなさい。そうすれば,神は定めの時にあなたがたを高めてくださるのです。同時に,自分の思い煩いをすべて神にゆだねなさい。神はあなたがたを顧みてくださるからです」― ペテロ第一 5:6,7。

      55 試練から逃避することはできませんが,何を持たないようにすることはできますか。それはどのようにしてできますか。

      55 エホバがわたしたちを真に顧みてくださるとは,なんと心強いことでしょう。神の愛はわたしたちの心を温めます。また,神の霊はわたしたちを強め支えます。そして,特定の試練が過ぎ去り,エホバが優しく顧みてくださったことを振り返ると,わたしたちはエホバに一層引き寄せられます。それはちょうど,重い病気にかかったときに,気遣う両親の愛と世話を受けた子供が心から感謝する場合と似ています。子供の確信と愛は大いに強められます。なるほど,非常に厳しい事情のときにそれから逃避することはできませんが,心配や悩みをエホバ神にゆだねることができます。怒り立った暴徒の情け容赦のない殴打,攻撃する者たちの性的暴行その他の残虐行為をどのくらい辛抱できるかと心配する必要はありません。愛ある天の父からの助けによって,わたしたちは忍耐することができ,神に忠実であり続けることによって迫害者に対し道徳的に勝利を収めることができます。そのような確信を持っているなら,くよくよと思い悩まずにすむので,試練に遭って確固としているためにきわめて大切な思いと心の平安を失うことがありません。

      56 思い煩いをエホバにゆだねるとは,試練に対する自分の態度にむとんちゃくでいてよいという意味ではありません。それはなぜですか。

      56 しかしながら,思い煩いをエホバにゆだねたなら,満足しむとんちゃくであってもよいというわけではありません。わたしたちには敵がいるのです。ペテロはこう書きました。「冷静を保ち,油断なく見張っていなさい。あなたがたの敵対者である悪魔がほえるししのように歩き回って,だれかをむさぼり食おうとしています」― ペテロ第一 5:8。

      57 サタンは何をすることに関心を持っていますか。

      57 使徒の助言に従えば,苦難に直面して不注意になるわけにはいきません。敵はわたしたちを倒す機会をうかがっています。サタンは,わたしたちに兄弟たちの忠実さを疑わせたり,他の方法でわたしたちを霊的に弱らせたりすることができるなら,そのようにします。クリスチャン会衆と交わらなくなったり,他の人々に信仰を表明するのをやめたりするなら,不注意なえじきに絶えず目を光らせている「ほえるしし」であるサタンにのみ込まれることになります。

      58 兄弟たちについてどんなことを知っているなら,忠実を保つうえで助けになりますか。

      58 自分ひとりが苦しみに耐えているのでないことを常に覚えておくのは,用心を怠らないための助けになります。全地で,クリスチャン兄弟たちは様々な苦難を耐え忍んでおり,しかも,神の霊のおかげで,試練を首尾よく忠実に忍耐しています。このことを理解しているなら,サタンのわなに陥らないようにするうえで役立ちます。なぜなら,わたしたちも神の力によって忍耐できるという確信が得られるからです。ですから,「堅い信仰をもって彼に立ち向かいなさい。苦しみを忍ぶ点での同じことが,世にいるあなたがたの仲間の兄弟全体の中で成し遂げられているのをあなたがたは知っているからです」― ペテロ第一 5:9。

      59,60 どうすれば試練から最大の益が得られますか。

      59 エホバ神はわたしたちが成功して救いを得ることを願っておられますから,確信を持って神に助けを仰ぐことができます。それと同時に,神の許しの下にわたしたちに降りかかる事柄を,たとえそれがどのようなものであっても,信仰の強い十分に成長した完全なクリスチャンにする貴重な鍛練として受け入れることができます。使徒ペテロはそのことを次のように的確に表現しています。

      「あなたがたがしばらくのあいだ苦しみに遭ったのち,キリストとの結びつきにおいてあなたがたをご自分の永遠の栄光に召された,あらゆる過分のご親切の神は,自らあなたがたの訓練を終え,あなたがたを確固とした者,強い者としてくださるでしょう。その神に偉力が永久にあらんことを。アーメン」― ペテロ第一 5:10,11。

      60 イエス・キリストが地上におられたときしばらくの間苦しみに遭い,そののち非常に高められたのと同じように,神のみ子の弟子たちも栄光ある報いを待ち望みます。神がわたしたちの身に降りかかることを許された苦しみによって,わたしたちが聖書の基準を守る点でさらに強い者となり,神のみ子のより謙遜で同情心にあふれ思いやりのある弟子になるなら,その訓練様式,鍛える様式は目的を果たしたことになります。そのようなわけですから,天の父の許しによりどんな試練が来てもそれを謙遜に甘受するなら,それによってついには永遠の繁栄と幸福を得られることを確信しつつ,天の父に全幅の信頼を置く必要があります。(ローマ 8:28)わたしたちは使徒ペテロの精神を抱いて声高らかに次のように言うことができます。“わたしたちが試練によって訓練されることを許し,永遠の命の見込みを持つ是認された僕として確固とした者,強い者となるのを助けてくださった神が感謝されますように”。

  • 成功するようあなたを助けることのできる人々
    最善の生き方を選ぶ
    • 9章

      成功するようあなたを助けることのできる人々

      1,2 (イ)悲嘆に暮れているとき,他の人から何をしてもらうことが必要ですか。(ロ)クリスチャン会衆においては,特にだれがそれをすることができますか。

      悲嘆に暮れているときに与えられる励ましの言葉,困っているときに差し伸べられる援助の手,これらは本当にありがたいものです。永遠の命の目標に向かって前進するとき,行く手には必ず障害となるものがありますから,そうした助けは確かになくてはならないものです。大いに必要とされる激励や慰めを与えることのできる忠実で古い兄弟たちが会衆にいるのは確かに祝福であると言えます。

      2 聖書はそのような「牧者」のことを,愛のうちに会衆を築き上げるためにイエス・キリストが備えてくださった「人びとの賜物」と呼んでいます。(エフェソス 4:7-16)ですから,自分の信仰が弱まったり,問題や試練のために途方に暮れたり,当惑したり,落胆したりしていると感じるなら,神のみ子の是認された弟子としてとどまろうという決意を貫くための助けを献身的な長老に求めるべきです。

      3 ペテロ第一 5章1-3節では,長老たちに対してどんな訓戒が与えられていますか。

      3 使徒ペテロが長老たちに書き送った事柄を調べると,長老たちがどのように,またなぜあなたを強める助けとなれるのかがよく分かります。こう書かれています。

      「あなたがたのうちの年長者に,わたしはこう勧めます。わたしもともに年長者であり,またキリストの苦しみの証人,表わし示される栄光にあずかる者だからです。あなたがたにゆだねられた神の羊の群れを牧しなさい。強いられてではなく,自らすすんで行ない,不正な利得を愛する気持ちからではなく,真剣な態度で牧しなさい。また神の相続財産である人々に対していばる者のようにではなく,かえって群れの模範となりなさい」― ペテロ第一 5:1-3。

      4 ペテロの言葉遣いは,ペテロが手紙を書き送っていた長老たちよりも自分を高めていないことをどのように示していますか。

      4 使徒ペテロの助言に従おうとするクリスチャンの男子がいることを,わたしたちは大いに喜べます。その人たちは,会衆の成員を霊的に助けるに際して,同使徒が示したのと同じ精神で援助を差し伸べます。その動機となっているのは,神と兄弟たちに対する愛です。ペテロは,自分が勧告や励ましを与えていた長老よりも自分を高めなかったことに注目してください。ペテロは自分について「ともに年長者であ(る)」つまり“仲間の長老である”と述べました。そのようにして,自分が,会衆の長老としての彼らの立場に思いやりのある理解を持っている一兄弟であることを示したのです。信仰の仲間に対してそうした思いやりのある態度を示す長老は,兄弟たちにとって本当に祝福となります。

      5 ペテロはどのように「キリストの苦しみの証人」でしたか。

      5 ペテロの言葉は,また,彼が自分にゆだねられた重い責任を認識していたことを示しています。ペテロは自分自身を「キリストの苦しみの証人,表わし示される栄光にあずかる者」と述べました。神のみ子がののしられ,虐待され,ついには杭にくぎ付けにされたのをペテロは実際に知っていました。直接の目撃者であり,しかも復活したイエス・キリストおよびそのキリストの昇天を見たのです。そして,二番目の手紙の中でペテロはこう述べています。

      「わたしたちが,わたしたちの主イエス・キリストの力と臨在についてあなたがたに知らせたのは,巧みに考え出された作り話によったのではなく,彼の荘厳さの目撃者となったことによるのです。というのは,『これはわたしの子,わたしの愛する者,わたし自らこの者を是認した』ということばが荘厳な栄光によって彼にもたらされた時,彼は父なる神から誉れと栄光をお受けになったからです。そうです,わたしたちは彼とともに聖なる山にいた時,このことばが天からもたらされるのを聞きました」― ペテロ第二 1:16-18。マタイ 16:28-17:9と比較してください。

      6 ペテロが手紙をあてた長老たちはその言葉に注意を払うべき十分の理由がありましたが,それはなぜですか。

      6 確かに,ペテロから励ましを与えられていた長老たちには,自分のことを「キリストの苦しみの証人,表わし示される栄光にあずかる者」と述べることのできた仲間の長老の言葉に注意を払うべき十分の理由がありました。使徒ペテロは謙遜な態度で長老たちに懇願しただけでなく,見倣うべき手本を自ら示しました。というのは,聖書の記録が示している通り,ペテロは活発に,時には非常な危険に身をさらしながら,目撃した事柄を他の人々に知らせたからです。―使徒 2:22-38; 4:8-12,19,20; 5:29-32。

      7,8 (イ)長老は群れの所有者がだれであることを認めるべきですか。(ロ)そのことは,会衆の取り扱いにどう影響するはずですか。

      7 今日の長老たちがペテロのようになるには,会衆の成員が自分のものではなくエホバ神のものであることを認める必要があります。使徒パウロもその重要な事実に注意を促し,エフェソスの会衆の長老たちにこう述べました。「あなたがた自身と群れのすべてに注意を払いなさい。神がご自身のみ子の血をもって買い取られた神の会衆を牧させるため,聖霊があなたがたをその群れの中に監督として任命したのです」― 使徒 20:28。

      8 エホバ神はきわめて大きな犠牲を払ってクリスチャン会衆の成員をご自分の所有物とされました。支払われた価として,罪のないみ子の血よりも高い価はなかったはずです。長老たちが,ゆだねられた会衆をエホバ神と同じように高く評価するなら,至高者の誉れある所有物としてとどまるよう成員各自を援助する面で一層勤勉になれます。群れを虐げるなら,長老たちはそのことについて神に申し開きをしなければならないでしょう。ですから,長老は,会衆内の一人一人の真価を正しく認識するよう努めなければなりません。そうすることは,群れに対していばったり,群れを厳しく横暴に扱ったりしないようにするための強い抑制力ともなります。(使徒 20:29と対比してください。)会衆の成員一人一人は,自分にしかるべき尊厳を与え敬意を示してくれる兄弟たちによって大いに築き上げられます。長老たちが,群れ全体の霊的および身体的な福祉に十分注意して,真の「牧者」であることを証明するなら,すべての人が安心感を持ちます。

      「強いられてではなく,自らすすんで」

      9,10 (イ)どんな場合に,長老は「強いられて」牧羊の業をしていると言えるでしょうか。(ロ)長老が「自らすすんで」牧羊の業をしていることは何から分かりますか。

      9 助けが必要なとき,援助を与える能力があるだけでなく,援助したいという願いを持っている人には一層近づきやすいものです。ペテロは適切にも,長老が「強いられてではなく,自らすすんで」牧羊の業をするように勧めました。(ペテロ第一 5:2)会衆の立派な「牧者」になるためには,自分の務めを単なる義務感で行なわないように注意する必要があります。会衆の世話をすることを喜びのない骨の折れる仕事であると感じるなら,長老は「強いられて」任務を果たしていることになります。会衆の成員はそれに気付き,問題を持って行って長老の重荷を増やしたくないという気持ちから,話そうとしなくなります。ところが,仕事を行ないたいと心から願っているゆえに長老が責任を喜んで果たしているなら,会衆の成員はその長老に引き付けられます。自らすすんで仕えようというそうした気持ちは,神および神の民の会衆に対する深い愛に根差しています。それは,その長老が群れに対する自分の奉仕の務めを正しい態度で果たしていることの証拠です。

      10 むろん,長老は,どうみても自分が扱いきれないほど多くの荷をしょい込むことがないように良い判断を下す必要があります。老齢になり病気がちになるにつれ,以前ほど多くのことができないため,他の有能な人々に助けてもらわなければならないことがあります。それでも,その長老は,自分の限界内ですすんで物事を行なう「牧者」として真の喜びを見いだすことでしょう。

      『不正な利得のためではなく,真剣な態度で』

      11 「不正な利得を愛する気持ちから」会衆を牧する危険があるのはなぜですか。

      11 長老が兄弟たちの真の助けになるには,自らすすんで仕える精神を示すほかに,純粋で無私の動機を持つ必要があります。使徒ペテロは「不正な利得を愛する気持ちから」牧者として仕えることを警告しています。牧者という立場を利用して物質的な所有物や称賛や権力を得るなら,その立場を誤用していることになります。なるほど聖書は教えることに骨折っている人々に「二倍の誉れ」を与えるように助言しています。(テモテ第一 5:17,18)しかし,そのような「二倍の誉れ」はいつも,会衆の成員から自発的に与えられるべきであって,長老がそれを要求したり,会衆の成員から当然期待できるもの,あるいは強要できるものとみなしたりすべきでは決してありません。自由な立場にあるため王国の活動に他の人々より多く携われるとか,何らかの際立った能力があるとかといった理由で,長老が目立つ存在になることがあります。人はその目立った立場から利益を得たいという誘惑にかられやすく,他の人々からもらえそうなある物品を欲しいと言ったり,欲しいことをほのめかしたりしかねません。そのため,他の人々をなおざりにして,比較的裕福な人々とだけ交わるようなことにもなりかねません。称賛は得たがりますが,根拠のある批判や助言に対しては無関心であったり,あるいは憤慨することさえあります。

      12,13 使徒パウロは,「真剣な態度で」兄弟たちに仕えたことをどのように示しましたか。

      12 今日のクリスチャン会衆でこのような人は比較的に少数ですが,長老たちはその危険を見くびるべきではありません。霊的な関係を通して物質的な益を求める傾向は,ほんのきざしが見えただけでも食い止めなければなりません。その点でクリスチャン使徒パウロは優れた模範を示しました。エフェソスの会衆の長老たちに,次のように述べることができました。

      「三年の間,わたしが夜も昼も,涙をもってひとりひとりを訓戒しつづけたことを覚えていなさい。……わたしはだれの銀も金も衣服も貪ったことはありません。この手が,わたしの,そしてわたしとともにいる者たちの必要のために働いたことを,あなたがた自身が知っています。わたしは,このように労して弱い者たちを援助しなければならないこと,また,主イエスご自身の言われた,『受けるより与えるほうが幸福である』とのことばを覚えておかなければならないことをすべての点であなたがたに示したのです」― 使徒 20:31-35。

      13 パウロが行なったように「真剣な態度で」労する人々から,会衆は計り知れない益を受けます。パウロは兄弟たちに喜んで仕え,兄弟たちの持ち物で自分に役立ちそうな物をものほしげに見ることを決してしませんでした。パウロの喜びは,兄弟たちを築き上げるために進んで自分を与えたことから生じました。

      14 「真剣な態度で」会衆を牧することに含まれる事柄について,テサロニケ第一 2章5-8節から何が分かりますか。

      14 パウロとその仲間が偽善のない仕方で仕えたことは,テサロニケの人々に語ったパウロの言葉から明らかです。

      「どんな場合にもへつらいのことばで現われたことはなく(あなたがたの知るとおりです),また強欲さを隠す見せかけでもって現われたこともありません。神が証人となってくださるのです! また,人間からの栄光を求めたりもしてきませんでした。そうです,あなたがたからも,また他の人びとからもです。キリストの使徒として,費用の面で重荷を負わせてもよかったのですが,そうはしなかったのです。それどころか,乳をふくませる母親が自分の子どもを慈しむときのように,あなたがたの中にあって物柔らかな者となりました。こうして,あなたがたに優しい愛情をいだいたわたしたちは,神の良いたよりだけでなく,自分の魂をさえ分け与えることを大いに喜びとしたのです。あなたがたが,わたしたちの愛する者となったからです」。(テサロニケ第一 2:5-8)

      そうです,パウロは,会衆の成員から個人的な利得を得ようとするどころか,子供を深く愛して,自分の益よりも子供の益を優先させる乳をふくませる母親のように振る舞いました。―ヨハネ 10:11-13と比較してください。

      15 長老はどのような仕方で群れを牧そうとすべきですか。

      15 群れに対する気遣いという正しい動機を持つことに加え,長老は,会衆を正しい仕方で世話することの大切さを忘れないようにしなければなりません。使徒ペテロは,「神の相続財産である人びとに対していばる者のようにではなく,かえって群れの模範となりなさい」と長老たちに助言しました。(ペテロ第一 5:3)この勧めの言葉に従い,長老は兄弟たちよりも自分を高めることをしません。そのようなことは,イエスが追随者にお与えになった次の教えに反します。

      「あなたがたは,ラビと呼ばれてはなりません。あなたがたの教師はただひとりであり,あなたがたはみな兄弟だからです。また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなたがたの父はただひとり,天におられるかただからです。また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなたがたの指導者はひとり,キリストだからです。あなたがたの間でいちばん偉い者は,あなたがたの奉仕者でなければなりません」。(マタイ 23:8-11)

      ですから,長老とは,主人のように命令したり会衆の成員の生活を管理しようとしたりするどころか,奴隷のように謙遜に兄弟たちに仕える人です。長老は手本を示して,キリストに似た者となるよう群れを励まします。―テサロニケ第一 2:9-12と比較してください。

      16 忠実な長老たちには信頼して近付けます。それはなぜですか。

      16 長老がクリスチャンの生活と活動において自ら立派な手本を示すなら,信仰の仲間が最終的にエホバ神に是認されるよう大いに助けることができます。さらに,長老たちの上に立つ「主要な牧者」であられるイエス・キリストは,「王の王また主の主」として栄光のうちに現わされるとき,忠実な従属の牧者たちすべてに報いをお与えになります。(啓示 19:16。テモテ第一 6:15)使徒ペテロが,「主要な牧者が現わされた時,あなたがたはあせることのない栄光の冠を受けるでしょう」と書いている通りです。(ペテロ第一 5:4)確かに,正しい理由から,ふさわしい動機をもって,適切な仕方で兄弟たちに仕える人々は会衆の真の助けです。そのような人々のおかげで,兄弟たちはクリスチャンの生き方に大きな喜びを感じることができます。(コリント第二 1:24)必要な時にはいつでも,ためらわずに忠実な長老の援助を得てください。

  • クリスチャンの希望を守りなさい
    最善の生き方を選ぶ
    • 10章

      クリスチャンの希望を守りなさい

      1 「新しい天と新しい地」はどうして非常に望ましいものとなりますか。

      痛みも悲しみも死もない生活が前途にあるということを思い巡らすのは確かにすばらしいことです。しかも,不完全さと罪が取り除かれてそうした状態がなくなるということは実際にもっとすばらしいことです。結局は自分と他の人を害することが分かっている悪い性向や傾向と闘う必要がもはやなくなるということは本当にありがたいことです。その時には,わたしたちが話す言葉,考える事柄,取る行動がことごとくすべての人の益となり,天の父の属性を本当に反映し,利己的な動機がみじんもないのですから,どんなにかうれしいことでしょう。そうです,確かに,神がおつくりになる「新しい天と新しい地」には義が満ちています。これは正しく守る価値のある希望です。―ペテロ第二 3:13。

      2 (イ)クリスチャンの希望が実現するのを経験するには,何をしなければなりませんか。(ロ)クリスチャンととなえる人の中に自己本位な人がいても驚くべきでないのはなぜですか。

      2 クリスチャンの希望が実現するのを見るためには,その希望を絶えず目の前に置き,それに調和して生活しなければなりません。それには,わたしたちの希望をかすませたり失わせたりする影響すべてに抵抗することが必要です。そうした有害な影響は時として,神の民の会衆と交わる霊的でない自己本位な人からもたらされます。そのことに驚くべきではありません。というのは,使徒ペテロは「民[イスラエル]の間に偽預言者も現われました。それは,あなたがた[クリスチャン]の間に偽教師が現われるのと同じです」と書いているからです。(ペテロ第二 2:1 前半)生来のイスラエルの場合と同様,クリスチャンも会衆の内部から腐敗しやすいのです。

      『破壊的な分派をひそかに持ち込む』

      3,4 偽教師が誤った事柄を広めるやり方を,使徒ペテロはどのように記述していますか。

      3 誤った事柄をとなえる人々がどのように影響を及ぼすかについて,使徒ペテロは続いてこう述べています。「実にこれらの者は,破壊的な分派をひそかに持ち込み(ます)」。(ペテロ第二 2:1 後半)使徒がここで書いていたのは,単にある事柄が理解できない人とか,大多数の人の見解と必ずしもすべての点で一致していない見解をまじめな気持ちで持っている人のことではありません。(ローマ 14:1-6と比較してください。)分裂させ腐敗させるため意図的に働く者たちのことを述べていたのです。

      4 そうした者たちが隠し立てをせず,率直で正直であるということはまずありません。大抵は,ひそかに,見せかけの方法で非聖書的な見解を「持ち込み」ます。使徒ペテロが用いている原語のギリシャ語で,「ひそかに持ち込(む)」という語句は文字通りには「何々のわきに,または,何々といっしょに導き入れる」という意味です。それが彼らの手口であり,健全な聖書の教理といっしょに,自分たちの分裂させ腐敗させる見解を徐々にしかも巧妙に導入します。まず最初にいくらかの明白な真理をもって,あるいは連綿とした複雑な論議によって聞き手の思いを慣らすことにより,誤りにしか到達しないような原理を聞き手に受け入れさせることに成功する場合がよくあります。その者たちは,聖書を用いることはありますが,聖書を本当に教えることはありません。自分たちに都合の良いことを利用し,個人の利益のために推し進めようとしている事柄に合わせるために聖書の教えをわい曲します。こうして,実際には確かな聖書的根拠のない事柄がいかにも本当のように見えるのです。

      5 サタンがエバを欺いたやり方は,偽りを教える教師の手口をどのように例示していますか。

      5 このように進展したよい例は,サタンがへびを使ってエバを欺いたやり方に見られます。最初に,「あなたがたは園のどの木からも食べてはならないと神が言われたのは本当ですか」という一見悪気のなさそうな質問がされました。(創世 3:1,新)その質問は真理を曲解していました。至高者が,最初の二人の人間が受ける権利のあるものを差し控えて彼らに与えず,不当な制限を課しているということをほのめかしていました。へびの言葉からエバは,「善悪の知識の木」からどうして食べてはいけないのだろうと考えるようになったに違いありません。そのようにして,サタンは,答えを欲するようにエバの思いを調整しました。それから,へびの的を突いた答えが返ってきました。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれから食べるその日に,あなたがたの目が必ず開け,あなたがたが必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」― 創世 3:4,5,新。

      6 (イ)どんな要因でエバは偽りを受け入れやすくなりましたか。(ロ)サタンが偽りを語った結果,どのように異端組織が作られましたか。

      6 エバの思いは巧妙に整えられ受け入れ態勢ができていたので,エバはその答えに驚きませんでした。あらゆる動物の中で「蛇が最も用心深かった」ということから,そのような生き物が誤った情報の源となることなどまずあり得ないように思われました。(創世 3:1,新)しかも,その木は魅力的で,その実は食物として良いように見えました。エバは完全に欺かれました。そして,禁じられた実を食べたのち,自分といっしょに神に反逆するようアダムを説得しました。(創世 3:6)このようにして,へびが語った偽りは最初の人間を天の父からうまく離反させました。実際のところ,二人の人間から成る異端組織が作られたのです。

      7 (イ)会衆内に分裂を引き起こす人々はなぜキリストを否認していますか。(ロ)その者たちが「自らに速やかな滅びをもたらす」と言えるのはなぜですか。

      7 同様の手口で,人が会衆内に分裂を引き起こす精神,“党派”的な競争心を助長することがあります。そのような党派は誤りを基礎としていて,故意に不一致を起こそうとするので,その立場と教えは,ご自分の血でクリスチャン会衆を買い取られた神のみ子を誤り伝えるものです。ですから,使徒ペテロはそうした偽教師について「自分たちを買い取ってくださった主人のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらす」と述べています。そうです,頭としてキリストにしっかり付くことをいったんやめると,人はキリストを否認し,道徳的かつ霊的に悲惨な道に飛び込んでしまいます。それには滅びというただ一つの結果があるのみです。有罪判決は遅れることなく下され,公正は速やかになされます。当事者たちは,自らすすんで誤りを受け入れることにより,『自らに速やかな滅びをもたらし』ます。―ペテロ第二 2:1。

      8 自称クリスチャンの「不品行」は会衆外の人々にどんな影響を与えますか。

      8 残念なことに,そうした者たちは,自由奔放に振る舞いながらクリスチャンであるととなえるので,神の忠実な僕たちの立派な記録に汚点を残します。クリスチャンと自称するある人々の下劣な行状を見て,多くの人はクリスチャンであると言う人すべてを悪く言ったりののしったりし始めます。ペテロは次のように書いてその点を指摘しています。「さらに,多くの者が彼らの不品行に従い,そうした者たちのために真理の道があしざまに言われるでしょう」― ペテロ第二 2:2。

      「まことらしいことばで利用」されないように気を付けなさい

      9 (イ)堕落した人々はどんな動機で自分たちの仲間を集めようとしますか。(ロ)そのような人々,および彼らに欺かれた人々はどうなりますか。

      9 そのような背徳的な者たちはどんな動機で自分たちの仲間を集めるのでしょうか。使徒ペテロはそれに答えて,「彼らは強欲にもまことらしいことばであなたがたを利用するでしょう」と述べています。(ペテロ第二 2:3 前半)それらの者たちは自分自身のために物質的な利益を得ようとしたり,教師としてあがめられてそれに伴う力と権力と誉れを欲したりします。「まことらしいことば」,つまりもっともらしい議論を含む偽りの説を用いて,他の人々につけ込み,他の人々を利用しようと努めます。その動機も教えも悪いので,関係している者たちには破滅的な結果が臨みます。使徒ペテロはこう続けています。

      「彼らに対して,昔からの裁きは手間どっているのでもなければ,その滅びはまどろんでいるのでもありません。神が,罪を犯したみ使いたちを罰することを差し控えず,彼らをタルタロスに投げ込んで,裁きのために留め置かれた者として濃密なやみの穴に引き渡されたのであれば,また,古代の世を罰することを差し控えず,不敬虔な人びとの世に大洪水をもたらした時に義の宣明者ノアをほかの七人とともに安全に守られたのであれば,また,ソドムとゴモラの都市を灰に帰させて罪に定め,きたるべき事の型を不敬虔な者たちに示されたのであれば,また,無法な人びとの放縦な不品行に大いに苦しんでいた義人ロトを救い出されたのであれば ― この義人は日々彼らの間に住んで見聞きする事がらにより,その不法な行ないのゆえに,自分の義なる魂に堪えがたい苦痛を味わっていたのですが ― エホバは,敬神の専念をいだく人びとをどのように試練から救い出すか,一方,不義の人びと,わけても,肉を汚そうとの欲望をいだいてそれに従い,主たる者の地位を見下す者を,切り断つ目的で裁きの日のためにどのように留め置くかを知っておられるのです」― ペテロ第二 2:3-10。

      10 (イ)『蛇の胤』に対して神の裁きの宣告が初めてなされたのはいつですか。(ロ)その執行はなぜ「手間どって」いませんか。

      10 「昔から」神は『蛇の胤』となるすべての者を死刑に定めておられますが,その刑は必ず執行されます。(創世 3:15。ヨハネ 8:44。ユダ 14,15)およそ6,000年前に初めて宣言され,その後繰り返し述べられたとはいえ,その裁きは,決して執行されないかのように「手間どっている」のではありません。滅びは必ず来ます。なぜなら滅びはまどろんでいないからです。滅びをもたらすことは,神のお目的の中に依然含まれています。

      11 (イ)不従順なみ使いたちはどうなったでしょうか。彼らにはさらに何が待ち受けていますか。(ロ)み使いが罰せられたこと,不敬虔な人々が洪水で滅ぼされたこと,またソドムとゴモラの住民が絶滅させられたことは何を証明していますか。

      11 ペテロが指摘した通り,神のみ前にいたにもかかわらず,のちに不忠実になったみ使いたちでさえ『タルタロスに投げ込まれる』こと,すなわち最も低い状態に卑しめられることを免れませんでした。不従順なみ使いたちは,神のあらゆる啓発を絶たれ,天の元の立場にもどれず,活動を制限されているので,イエス・キリストの手で処刑されるのを待ちつつ,「濃密なやみの穴」になぞらえられる状態にあります。(啓示 20:1-3,7-10と比較してください。)同様にエホバ神は堕落した人々の世全体を世界的な洪水で滅ぼすことも,ロトの日にソドムとゴモラの性的に堕落した住民を処罰することも差し控えられませんでした。ノアとその家族やロトのような義人だけに,神の裁きを免れ,不法な人々の中に住む結果受ける試練から救われる望みがあります。しかし,不道徳なことをして他の人々の肉を汚そうとする人は,たとえクリスチャンと称しても救われません。

      権威に敬意を示さない人々を警戒しなさい

      12,13 ペテロ第二 2章10節後半と11節に示されている通り,堕落した人々は権威に対してどんな態度を取りますか。

      12 堕落した者たちの悪い動機は権威に対する態度から識別できるものです。その者たちはいかなる権威をも侮って,「主たる者の地位を見下(し)」ます。使徒ペテロは説明をこう続けています。「向こう見ずで片意地な彼らは,栄光ある者たちにおののかず,かえってあしざまに言います。しかしみ使いたちは,強さと力において勝っていながら,彼らをあしざまにとがめたりはしません。そうしないのはエホバに対する敬意からです」― ペテロ第二 2:10後半,11。

      13 ですから,「栄光ある者たち」を意に介さない大胆でせん越な者たちに気を付けたいものです。クリスチャン会衆において,責任をゆだねられている忠実な人々は自分たちが高い身分にあるとは,また,仲間の信者より上であるというようには考えず,僕であると謙遜に考えます。(マタイ 23:8。テサロニケ第一 2:5-12)しかし,彼らは群れの監督もしくは「牧者」として聖霊によって任命されていますから,その奉仕の割り当ては『栄光あるもの』です。(使徒 20:28。ローマ 11:13と比較してください。)その人々は,また,栄光ある主イエス・キリストと偉大な牧者エホバ神を代表しています。(ペテロ第一 2:25; 5:4)ですから,聖書は会衆の成員が指導の任に当たっている人たちに服するように勧めているのです。(ヘブライ 13:17)ペテロ自身そうであったように,指導の任に当たっている人たちも間違うことがありますが,だからといってそれがその人たちを悪く言ってもよいという口実にはなりません。(ガラテア 2:11-14; ヨハネ第三 9,10と比較してください。)勤勉な「牧者」は会衆から尊敬されてしかるべきです。ところが人々に悪い影響を与える者たちは大胆にもクリスチャンの長老をあしざまに言います。エホバ神とみ子は,人が兄弟に向かって言う悪口やののしりの言葉を自分たちに向けられたものとみなされます。

      14 忠実なみ使いたちは,偽りの教師の態度と全く異なるどんな態度を示しますか。

      14 偽りを教える自己本位な教師と忠実なみ使いたちとの間にはなんと相違があるのでしょう。み使いたちは義に対して熱心です。しかし,たとえ反対者を扱う場合でも厳しい侮べつ的な言葉を用いません。例えば,「み使いの頭ミカエルは,悪魔と意見を異にし,モーセの体について論じ合った時,彼に対しあえてあしざまな言い方で裁きをもたらそうとはせず,ただ,『エホバがあなたを叱責されるように』と言いました」。(ユダ 9)このことから,他の忠実なみ使いたちはだれに対しても非難を浴びせることを決してせず,穏やかにしかも力強く事実を述べると結論づけることができます。み使いたちは,あしざまに言うことが造り主の神聖さ,あるいは純粋さに決して調和しないことを認めることによって,造り主にふさわしい敬意を示します。

      15 ペテロの助言に従い,どんな種類の人を警戒しなければなりませんか。

      15 他の人々をひどくけなしてから自分自身の格を上げる人々に警戒しなければなりません。そのような人物はそうした行為に対して不利な裁きを免れないということをいつも銘記しておくべきです。そうすれば,他の人に関心を抱いているように見えても,実際には自分の利益を追い求めているにすぎない者たちの言葉に耳を貸さないように気を付けることができます。使徒ペテロは,自己本位な者たちの結末について次のように評しています。

      「これらの人びとは,もともと捕えられて滅ぼされるために生まれた理性のない動物のように,自分が無知でありながらあしざまに言う事がらのゆえに,まさに自らの滅びの道において滅びをこうむり,悪行に対する報いとして自らを損うことになります」― ペテロ第二 2:12,13前半。

      16 堕落した人々はどのように「理性のない動物」のようですか。

      16 堕落した欲情に支配される人間は「理性のない動物」のように振る舞います。動物に関してエホバは,「生きている動く生き物は皆,あなたがたのための食物としてよい」と言われました。(創世 9:3,新)あしざまに言う者たちは,そうした「理性のない動物」のようですから,正しい良心によって制御されず,したがって,神の方法や取り扱い方や活動に対して何の認識も示しません。また,霊的に貴重な事柄を正しく評価できないので,それらを無価値なものと言うこともあります。その誤った考えは身の破滅のもととなります。彼らは間違った見方を固守して自らに害を招き,不義の道の悪い結果を必ず経験するのです。確かに,わたしたちは希望をしっかりと保って,それらの者といっしょに滅ぼされないようにしたいと思います。

      利己的な快楽と個人の利得を追い求める人々に気を付けなさい

      17 ペテロ第二 2章13節後半から15節前半によれば,堕落した人々はさらにどんな特徴によって見分けられますか。

      17 霊的でない人々は,とりわけ,安楽と快楽に対して激しい欲望を持つという悪い特徴を示します。使徒ペテロは次のように書きました。

      「彼らは昼間のぜいたくな生活を楽しみとします。彼らは汚点またきずであり,気ままな喜びをいだいて自分たちの欺きの教えにふけりますが,一方では,あなたがたと宴席を共にします。姦淫に満ちた目を持ち,罪をやめることができず,不安定な魂を唆す者です。強欲さの面で鍛えられた心を持つ者です。のろわれた子らです。まっすぐな道を捨てた彼らは惑わされています」― ペテロ第二 2:13後半-15前半。

      18 霊的でない人々は,イザヤ 5章11,12節に描かれている不忠実なイスラエル人とどのように似ていますか。

      18 霊的でない人々は,他の人々を築き上げるために多くのことを行なえる昼間から,過度の飲食にふけってどんちゃん騒ぎをすることがあります。そのような人々は快楽のためだけに生きていた一部のイスラエル人とよく似ています。それらイスラエル人の宴会ではぶどう酒がふんだんに振る舞われました。夜が更けるにつれ,飲み騒ぐ人々は一層声高になり大騒ぎをして,情欲をかきたてる音楽を騒々しい宴会の伴奏音楽として用います。そのような人々について,預言者イザヤは次のように書いています。

      「単に酔い酒を求めて朝早く起き出す者,晩の闇の中で遅くまでだらだらととどまり,ぶどう酒が燃え立たせる者たちは災いだ! そして彼らの宴には,たて琴と弦楽器,タンバリンと横笛,それにぶどう酒が必ずある。しかしエホバの働きを彼らは見ず,そのみ手の業を彼らは見なかった」。(イザヤ 5:11,12,新)

      快楽を追い求める人々はこのように,創造者の偉大な業には証拠がないかのように振る舞いました。彼らはエホバ神に対する義務をすべて無視し,全く自制しなかったのです。ゆえに,エホバの裁きを免れることは期待できませんでした。

      19 会衆と交わるある人々が快楽を愛する者であることは何から分かりますか。

      19 今日神の僕であるととなえる人々の間で同様の事柄が生じても驚くには当たりません。結婚式のひろう宴や結婚記念日が,情欲をかきたてる音楽の大きな音に合わせて激しい感覚的なダンスをする場と化すことがあります。そのような祝いの席ではアルコール飲料がふんだんに振る舞われ,気ままで底抜けの浮かれ騒ぎが早朝まで,つまり夜明けまで続きます。ある国々では,生まれた子供の命名祝い,新築祝い,葬式,崇拝のための建物の献堂式が,あまりにも騒々しいから静かにしてほしいと近所の人から苦情が出るほど近所迷惑な,ひどく思慮の欠けた集まりに変えられます。国民が一般に慎み深いことで知られている国々でさえ,親しい者同士が大酒を飲んで「良いたより」の真理があしざまに言われるようになることがあります。確かに,真のクリスチャンはそうした行き過ぎた行為に用心しなければなりません。―ペテロ第一 4:3。

      20 (イ)不節制な行ないにふける人々は会衆にどんな影響を与えますか。(ロ)高尚な機会でさえ,どのようにどんちゃん騒ぎと化しますか。

      20 使徒ペテロの言葉通り,そのように振る舞う人々はクリスチャン会衆の汚点また傷のようであって,神の真の僕たちの清らかさを台なしにします。それらの人は,清潔な外衣についたしみ,あるいは美しい顔にできた目障りなしみのようです。ある人々の目的は快楽に対する欲望を満足させるために“全力を出す”ことなので,普通どこも悪くない集いをさえ騒々しいものに変えます。そして,“正常な息抜き”に過ぎないと称して自分たちといっしょに激しいダンスをしたり大酒を飲んだりするよう他の人々に誘いかけようとしたり,教えようとしたりします。ペテロの述べている「姦淫に満ちた目」がはっきり分かるかもしれません。社交の場で,男性の目はその場にいる魅力的な女性を不道徳な関心を抱いて見始めることがあります。不純な欲望があまりにも強くなると,結婚している男性の目までが罪を犯しかねません。(マタイ 5:28; マルコ 9:47と比較してください。)クリスチャンの原則をしっかりとわきまえていない女性は「不安定な魂」としてすぐに,堕落した男性のえじきになってしまいます。―テモテ第二 3:6,7と比較してください。

      21 他の人々を不節制な生活に巻き込むような人は,なぜクリスチャン会衆にとって危険きわまりないでしょうか。

      21 それらの男性は,弱い人を唆すのが巧みですから,危険きわまりないと言えます。使徒ペテロはその者たちのことを「強欲さの面で鍛えられた心を持つ者」と描写しています。その人生の目標もしくは目的全体は不当な欲望を満足させることのようです。それで彼らはその目標を達成する達人になります。弟子のユダもそのような者たちについて語っています。彼らは『忍び込んで』神の過分のご親切を「不品行の口実」に変え,それによってわたしたちの唯一の所有者であるイエス・キリストに不実な者となっているのです。ユダは彼らが多くの場合『自らの利益のために人物を賞賛する』こと,また分派を起こす者は「動物的な人間であり,霊性を備えてい(ない)」ことを教えています。(ユダ 4,16,19)そうした者がお世辞を言ったり見せかけの熱心さを示したりして会衆内で影響力を持つことに,あるいは目立った存在になることに成功するなら,非常に危険です。使徒ペテロが言明している通り,当然のことながら,それらの者は神ののろいを受け,滅びを受けるに値します。そのような分裂的で堕落した道を取る男たちについて言えることは,同様の道を取る女たちにも当てはまります。―啓示 2:20-23と比較してください。

      22,23 他の人々を堕落させる人はどのようにバラムに似ていますか。

      22 使徒ペテロは,また,堕落した男たちをバラムに例えてこう述べました。

      「彼らはベオルの子バラムの道に従いました。彼は悪事の報いを愛しましたが,自分が正道に背いたことに対して戒めを受けました。ものを言わない駄獣が,人間の声でものを言い,その預言者の狂気の歩みを妨げたのです」。(ペテロ第二 2:15後半,16)

      この占い師は,イスラエル人をのろうのは最高主権者の意志に反するということを十分承知していました。バラムは,エホバが自分に語らせる事柄以上のことは話さないという態度を上辺で取りながら,内心ではイスラエルをのろいたいという欲望を育てていました。バラムはモアブの王バラクが申し出た報酬を欲しがっていたのです。しかし,全能の神はバラム自身の雌ろばを用いてバラムをしっ責されました。至高者は奇跡によって,理解できる言葉を理性のない駄獣に話させました。(民数 22:1-35)石をさえ叫ばせることのおできになる方にとってそれは難しいことではありませんでした。(ルカ 19:40)バラムが利得に対して極端な貪欲さを示したことから,エホバ神は適切にも非常に珍しい方法を使ってしっ責をお与えになりました。バラムはイスラエルに関する神のご意志に抵抗しようとして,気が狂ったかのように振る舞いました。家畜からしっ責されて,イスラエルを首尾よくのろうことは無理だと分かったので,バラムはそうすることをしばらくの間思いとどまりました。―民数 23:1-24:9。

      23 しかしながら,バラムはなおも報酬を得ようと心に決めていました。そして,とうとう,イスラエル人が自分たちの上に神ののろいを招くようなことをするようにしむける計画を提案し,モアブ人とミデアン人の女たちを使ってイスラエル人の男たちに偶像崇拝と不品行を行なわせることをバラクに教えました。(民数 31:16。啓示 2:14)その策略はかなり成功し,そのために2万4,000人のイスラエル人が死にました。―民数 25:1-9。

      24 バラムの例から,自己本位な人についてどんなことが分かりますか。

      24 バラムの例は,個人の利得のために正しいことを捨てる者たちの歩みを強力に示しています。たとえ奇跡をもってしても,その者たちが貪欲さを満足させるのをとどめることはできないのです。ですから,態度や言葉や振る舞いでわたしたちの良心をひどくかき乱すような人と親しく交わらないようにすべきです。自己本位な人は,自分の目標を達成するために他の人を害することに良心のとがめを少しも感じません。

      25 ペテロ第二 2章17節の言葉は何を強調していますか。

      25 ペテロは,そうした邪悪な者をさらに描写して次のように述べています。「この者たちは水のない泉,激しいあらしに吹き払われる霧であって,彼らにはやみの暗黒が留め置かれています」。(ペテロ第二 2:17)汚れた人と親しい仲間になっても,何の益も得られません。汚れた人たちは,疲れた旅人が新鮮な水を得られそうだと思って近付いてみたものの,水の源が干上がっていてがっかりさせるような井戸とか泉によく似ています。また,作物の栽培に必要な雨が降りそうだという期待を持たせながら,強い風にたちまち吹き払われてしまう薄い,霧のような雲に似ています。偽りを教える者たちは光,つまり啓発の源ではありません。彼ら自身,自分たちを待ち受ける有罪判決を表わす真っ暗やみ,すなわち「やみの暗黒」に向かっています。

      「大言」に用心しなさい

      26 使徒ペテロは,堕落した人々が目的を達成する方法をどのように描写していますか。

      26 会衆内の危険分子は上辺は良く見えるので警戒しなければなりません。キリスト教の真理と生き方を十分身に着けていない人々は特に用心しなければなりません。自己本位な人々は強烈な印象を与える方法を使うでしょう。そのおおげさな説得にだまされる人は災いです。使徒ペテロはこう述べています。

      「なんの益にもならない大言を吐き,また,誤りの中で暮らしている人びとからかろうじて逃れようとしている者たちを,肉の欲望とふしだらな習慣によって唆すからです。それらの者に自由を約束しながら,彼ら自身は腐敗の奴隷となっているのです。だれでもほかのものに打ち負かされる人は,そのものの奴隷にされるからです」― ペテロ第二 2:18,19。

      27 堕落させる影響を及ぼす人々の話し方と態度にはどんな特徴がありますか。

      27 誤りを採用するように,または清い良心の声に逆らう道に従うように他の人々を説得する人たちは往々にして自信たっぷりに話します。そして,自分自身と自分の言葉をひどく買いかぶり,自分が語る事柄は非常に重要であると考えます。(コリント第二 10:10,12; 11:3-6,12,13と比較してください。)謙遜な精神で確固とした聖書的な理由を提出する代わりに,自分の論議の薄弱さをからいばりで隠しながら,力強く横柄にあざけったり,ずけずけ意見を述べたりすることがあります。(コリント第二 4:2と比較してください。)聖書の光に照らして調べると,その人たちの印象的な言葉は無意味で,だれにも益とならないことが分かります。

      28 会衆内の堕落した分子に影響される可能性が大きいのはどんな人々ですか。

      28 残念なことに,神の言葉の基礎知識を十分に教えられていない人々はその危険に気付かない場合があります。その『知覚力は正しいことも悪いことも見分けられるように訓練されていません』。(ヘブライ 5:14)それら不安定な人々は,この世で行なわれている神の名を汚す慣行から離れたのがごく最近であるために,そうした慣行にまだいくらか魅力を感じることも考えられます。

      29 娯楽と気晴らしに対して聖書はどんな見方をしていますか。正確にはどんな場合に警戒する必要がありますか。

      29 言うまでもなく,娯楽や気晴らしの問題を考える際には平衡の取れた見方が必要です。聖書は禁欲生活をすることを神の僕に求めていません。また,聖書によれば,自己否定はそれ自体に美点があるのではなく,良い目的を考慮に入れてそれが行なわれるときにのみ美徳となります。(伝道 2:24; 3:1,4,13; 8:15; コリント第一 13:3; コロサイ 2:20-23と比較してください。)とはいえ,それを言い訳にして,堕落した肉のなすがままになり,またクリスチャンの自由を悪をおおい隠す手段として,極端なことをしてもよいというわけではありません。(ガラテア 5:13,14。ペテロ第一 2:16)そのようにすることは,神を愛すること,およびわたしたちに与えられている「王たる律法」すなわち隣人を自分自身のように愛するということと全く相反します。(ヤコブ 2:8,12)それとは違った事柄を説く,そして自分たちの行き過ぎに賛同しない人々をあざける人たちは,依然として自分の利己的な傾向の奴隷であることを示しています。

      30 会衆内の堕落させる影響のために,ついにはどんなことが起こりかねませんか。

      30 ですから,分別を保って両極端を避ける必要があります。うかつに快楽を追求する道へと導かれる危険があることは否定できません。ある期間がたつと低俗化し,だんだん極端なダンスをしたり大酒にふけったりするようなパーティーに,あるいは性の不道徳とサディズムを美化する娯楽を見ることに徐々に巻き込まれることがあります。それらの不健全な影響を与えるものを危険でないと主張するのは浅はかなことです。それには,クリスチャンの良心を弱め,道徳心を損なう影響があることはまず間違いありません。そのようなことはないとうそぶく人は,多くの場合,でい酔と性的不行跡の犠牲者になります。―箴 13:20。

      31,32 会衆のある成員たちは「裁きの日」まで何を行ない続けますか。それはどんな結果を招きますか。

      31 実際,使徒ペテロは,『[不義の人びとが]切り断たれる裁きの日』まで神の僕たちの間に引き続きどんなことが起こるかを正確に描写しました。(ペテロ第二 2:9)官能的快楽に対する欲望を満足させることができるようにクリスチャンの自由の限界を論外なほど広げる人々は跡を絶たないでしょう。それらの人たちは聖書の次の命令に従うことを望みません。「ですから,淫行,汚れ,性欲,有害な欲望,また強欲つまり偶像礼拝に関して,地上にあるあなたがたの肢体を死んだものとしなさい」。(コロサイ 3:5)それどころか,そうした誤った欲望をかき立てる娯楽を選びます。そして他の人々を巻き込むときに,“もし自分の良心が許すなら,それは何も悪くない”と論じるかもしれません。しかし,その人たちは,汚れた良心は安全な導きにならないということを見落しています。悪い欲望に屈しており,ゆえに悪い欲望の奴隷となっているのです。彼らが他の人々に対して与える“自由”に関する約束は人を惑わすものです。

      32 悪行を犯す生活にまたもや飛び込む人々はまったく悲惨な結果を見ることになります。使徒ペテロは次のように書きました。

      「たしかに,主また救い主なるイエス・キリストについての正確な知識によって世の汚れから逃れたのち,再びその同じ事がらに巻き込まれて打ち負かされるなら,そうした者たちにとって,最終的な状態は最初より悪くなっているのです。彼らにとっては,義の道を正確に知らないでいたほうが,それを正確に知ったのち,自分に伝えられた聖なるおきてから離れてゆくよりはよかったのです。真実のことわざの述べる次のことが彼らの身に生じました。『犬は自分の吐いたものに戻り,豚は洗われてもまたどろの中で転げ回る』」― ペテロ第二 2:20-22。

      33 (イ)人は,真理を知るようになってどのように変化する場合がありますか。(ロ)この世の道にもどることは,なぜ非常に重大な事柄ですか。

      33 使徒ペテロはなぜこのように言うことができたのでしょうか。人は,主イエス・キリストの正確な知識を得ると,変化しなければならないことに気付き始めます。そして,大酒,不道徳な生活,かけ事その他の悪習をやめるかもしれません。イエス・キリストの弟子に期待されている事柄に従うために自分自身を清めることによって,「世の汚れ」から,つまり神が非とされていると分かった慣行から逃げる,つまり逃れるのです。ところが,神の名を汚すような慣行に再び陥ることによって,その者は正しいと分かっている事柄を故意に捨てるのです。イエス・キリストの知識と,聖書によって訓練された良心は当初,悪行に対する抑制力となっていました。人が,その健全な抑制力から逃れると,キリストの弟子として歩み始める以前よりもおそらくもっと悪くなることでしょう。その人は,義の道を知らない人々が行なうよりもさらに悪いことを行ないかねません。なぜなら,その人の良心は汚され,焼印を押されさえして,無感覚な組織のようになっているからです。(テモテ第一 4:2と比較してください。)仮にその人が正しい道を全く知らなかったなら,その悪い行状はそれほどまでひどくキリストの名を汚さず,知りつつ犯す場合ほど重大な罪を犯さず,神からそれほど厳しい裁きを受ける必要もなかったことでしょう。―ルカ 12:45-48; テモテ第一 1:13,15,16と比較してください。

      34,35 (イ)不潔な犬と豚に関する箴言からどんなことが言えますか。(ロ)わたしたちはその箴言からどんなことを心に銘記すべきですか。

      34 ペテロが引用している箴言を考えると,罪の生活を始める人々は,クリスチャンの生き方において進歩する機会を活用していないことは明らかです。(ペテロ第二 1:2-11)表面上は悪い慣行を捨てていても,それらを憎むまでに至っていない人々がいるのです。そのような人たちは,この世の「吐いたもの」,汚物を実際には捨て切れなかったのかもしれません。この世の汚物にまだ幾らか魅力を感じているので,勧められるとそれにもどる可能性があります。その人たちは,道徳的退廃というこの世のどろの中で転げ回りたいと心の中で願っているかもしれません。また,ほかにも,キリストの弟子であることの価値に対する認識を深めないで,結局,この世が提供するもののほうにもっと魅力を感じる人もいることでしょう。一度は吐き気を催すほどいやだった状態に,そのようにしてつり込まれる人々の堕落は悲劇と言うほかありません。

      35 霊感を受けて書かれたその箴言の言葉は,クリスチャンととなえるすべての人にとって警告の教えとなっています。道徳的にまた霊的に清い心を培わず,この世の汚れたものを真に憎悪する気持ちに欠けているなら,霊的に破滅する重大な危険に直面しています。クリスチャンは,堕落した世の誘惑に抵抗する面で警戒をゆるめることは決してできません。悪い欲望に支配されないように,それを殺さなければなりません。また,この世が提供するものをあこがれの目で見て悪い欲望を刺激すべきでもありません。―コリント第一 10:12。コロサイ 3:5。

      目ざめていなさい!

      36 わたしたちの主人である方を喜ばせるには,道徳的,霊的清さを保つだけでなく,何をする必要がありますか。

      36 道徳的かつ霊的な清さを保つことに加え,他の人々を物質的にも霊的にも助けて,わたしたちの主人に活発に仕える必要もあります。わたしたちの生き方全体が,霊的に目ざめていて活発であることを示しているべきです。そのことの大切さを強調して,使徒ペテロはこう述べました。

      「愛する者たちよ,わたしはこれで二度めの手紙をあなたがたに書いています。この中でわたしは,最初の手紙と同じように,思い出させる意味であなたがたの明せきな思考力を呼び起こしているのです。それはあなたがたが,聖なる預言者たちによってあらかじめ語られたことばと,あなたがたの使徒たちを通して与えられた主また救い主のおきてを思い出すためです。というのは,あなたがたはまずこのことを知っているからです。つまり,終わりの日にはあざける者たちがあざけりをいだいてやって来るからです。その者たちは自分の欲望のままに進み,『この約束された彼の臨在はどうなっているのか。わたしたちの父祖が死の眠りについた日からも,すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているではないか』と言うでしょう」― ペテロ第二 3:1-4。

      37 (イ)なぜ『明せきな思考力を呼び起こす』べきですか。(ロ)預言者たちはどんな重大な出来事を指し示しましたか。

      37 神の是認を得るのに肝要な事柄を正しく評価できるように,『明せきな思考力を呼び起こす』ことは今日確かに有益です。(ペテロ第二 1:12-15と比較してください。)エノクにまでさかのぼる「聖なる預言者たち」は清算の日を警告しました。ユダの手紙の14節と15節にはこう書かれています。「そうです,アダムから七代めの人エノクも彼らについて預言して言いました。『見よ,エホバはその聖なる巨万の軍を率いて来られた。すべての者に裁きを執行するため,また,すべての不敬虔な者を,不敬虔なしかたで行なったそのすべての不敬虔な行為に関し,そして不敬虔な罪人がご自分に逆らって語ったすべての忌むべきことに関して有罪を証明するためである』」。幾世紀かのちに,イザヤ,ダニエル,ヨエル,ハバクク,ゼパニヤ,ハガイ,ゼカリヤ,マラキといったヘブライ人の預言者たちも同様の預言をするように促されました。―イザヤ 66:15,16。ダニエル 7:9-22。ヨエル 3:9-17。ハバクク 3:16-18。ゼパニヤ 1:14-18。ハガイ 2:21,22。ゼカリヤ 14:6-9。マラキ 4:1-6。

      38 用意のできた状態を保つよう努力すべきなのはなぜですか。

      38 これらすべての預言者や他の預言者たちによって予告された神の裁きは必ず成就します。ですから,わたしたちは,用意のできた状態を保つよう常に努力し,至高者のみ前での清い立場を危うくしないようにしなければなりません。

      39 イエス・キリストの命令によって伝えられているのはどんな音信ですか。

      39 その預言者たちによるわたしたちへの音信は,主イエス・キリストの命令によって伝えられているものと同じであり,パウロを含む使徒たちによって繰り返し語られています。神のみ子の弟子であるわたしたちは,み子への奉仕に活発であり,道徳的および霊的清さを保ち,わたしたちの主人が不敬虔な人々に裁きを執行するために来られるとき,いつでも迎えられるようにしているべきです。神のみ子は次のように言われました。

      「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」― ルカ 21:34-36。

      40 霊的に眠り込まないようにするには,何をしなければなりませんか。

      40 そうです,霊的に眠り込まないように用心しなければなりません。それには,飲食や娯楽に気ままにふけらないようにすべきです。そうしたことに度を過ごすと,精神的および霊的知覚力が鈍り,心は罪悪感で押しひしがれ,心の良い動機が締め出されてしまいます。同様に,生計を立てることに対する過度の心配は,エホバが本当に必要なものをことごとく備えてくださるという確信を心から奪い,人を不安な気持ちにさせます。(マタイ 6:25-34)裁きの時に主イエス・キリストに是認される者でありたいということが心の主要な動機でなくなると,人は霊的に非常に危険な状態になります。主人であるイエス・キリストに,否認される状態にあるところを見付けられるかもしれません。

      41 キリストが栄光のうちに必ず来られることに対する信仰は,常に,人がイエスに忠節であり続ける助けとなってきましたが,それはなぜですか。

      41 ペテロのように,他の忠実な使徒たちも,裁きを執行し忠節な弟子たちに報いを与えるためにキリストが必ず来られることを常に念頭に置いておくことを仲間の信者に教えました。その主眼点は,み子が「力と大いなる栄光を伴(って)」来られるときに是認される者として見いだされるようクリスチャンを援助することでした。(マタイ 24:30)イエスもそうなさったように,使徒たちも,終わりまで忠実さを証明することの大切さを強調し続けました。その終わりとは,人が死ぬ時を意味することもあれば,「エホバの日の臨在」の時を意味する場合もあります。(ペテロ第二 3:12)聖書の中で,キリストの共同相続者の復活すらキリストの再来と関連付けられていますから,真の弟子たち全員の希望は,神のみ子が栄光に輝く天の王として到来することと切り離せない関係にあります。(マタイ 10:28; 24:13,36-44。テサロニケ第一 1:9,10; 4:14-17)ですから,クリスチャン会衆の全歴史を通じて,主が「力と大いなる栄光を伴(って)」到来することに対する揺るぎない信仰は,人が主に忠節であることを証明する助けとなってきました。

      あざける者たちに欺かれてはならない

      42 (イ)なぜ今日でもあざける者の声を聞きますか。(ロ)彼らはどのように論じますか。

      42 イエス・キリストが栄光のうちに表わし示されるときに生きていたいという強い願いが一つの理由となって,ある特定の期間もしくは年を不敬虔な事物の体制の終わりであると考えはじめた信者がいつの時代にも存在してきました。今の「終わりの日」にもそのような人々がいます。幾つかの期待が実現しなかったので,多くの人はつまずいて,この世のならわしにもどりました。ペテロの言葉通り,今日でも,わたしたちはあざける者の声を聞いています。(ペテロ第二 3:3,4)彼らは要するに次のように言うのです。“神のみ子が不敬虔な者を処刑し,弟子たちに報いを与えようとしておられると信じることにはどんな根拠があるのか。創造の時以来何も変わっていないではないか。人間の営みは依然元のままで,間もなく悲惨な終わりが来るというきざしは少しもない。男はめとり,女は嫁ぎ,子供たちは生まれ,人は相変わらず年老いて死んでいく”。このようにして,あざける者たちは,主イエス・キリストが裁きの執行に来ることなど決してない,あるいは,それははるか遠い先のことなのでさしあたり重要でないということをほのめかします。

      43 いつの時代でも,キリストの弟子は責任を果たすことに勤勉でなければならなかったことは,どんなことから分かりますか。

      43 それらのあざける者たちは,死かそれとも「エホバの日」かどちらかが必ず自分たちを襲うという事実を完全に見失っています。どちらに直面する場合でも,それ以後に立派な業という形で天に宝を積む機会はありません。(ルカ 12:15-21,31,33-40)ですから,イエス・キリストの弟子が責任にむとんちゃくでいてよい時期は歴史上一度もありませんでした。確かに,責任にむとんちゃくでいることの危険は今日はるかに大きくなっています。

      44 わたしたちはどんな基本的な責任を果たすべきですか。

      44 では,今日,わたしたちはどんな責任を果たしているべきでしょうか。まず第一に,わたしたちは,「すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい」と命令されています。(マタイ 28:19,20)そうです,事物の体制の終結の時に,「王国の良いたより」を全世界に宣べ伝えることに参加するという特権があるのです。(マタイ 24:14)今,特にきわめて大切なのは,兄弟たちが必要としている援助を差し伸べ,思いやりを示し,励ましを与えて,すべての兄弟たちに愛を示す義務を果たすことです。(マタイ 25:35-40; ヘブライ 13:1-3; ヨハネ第一 3:16-18と比較してください。)加えて,下劣な肉の業で汚れないように絶えず努力する必要があります。―マタイ 7:21-23。ガラテア 5:19-21。

      エホバは,あざける者たちの誤りを証明された

      45,46 エホバは,あざける者たちが誤っていることを示すどんな証拠を備えておられますか。

      45 わたしたちは引き続きイエス・キリストの弟子にふさわしい生活をしつつ,次のことを常に念頭に置いていたいと思います。すなわち,エホバ神ははるか昔に,あざける者たちが誤っていることを否定の余地なく証明する証拠を備えられたということです。使徒ペテロはそのことに注意を促してこう書きました。

      「彼らの望みのままに,このことが見過ごされているからです。つまり,神のことばにより,昔から天があり,地は水の中から,そして水の中に引き締まったかたちで立っていました。そして,それによってその時の世は,大洪水に覆われた時に滅びをこうむったのです」― ペテロ第二 3:5,6。

      46 神がかつて一度不敬虔な人々の世を滅ぼされたという事実は,人間の営みに大きな変化が起こることはなく,すべてのものは「創造の初め以来と全く同じ状態を」保つという,あざける者が下す判断が間違っていることを教えています。神がみ子を用いて不敬虔な人々を処罰されるという,神ご自身の約束の言葉をわたしたちは持っています。その言葉は非常な力を持っているので,成就しないということは絶対にあり得ません。

      47 創造の記録は,神の「ことば」の力をどのように明らかにしていますか。

      47 エホバの創造の業に関する聖書の記述は,神の「ことば」が力を持っていることを明らかにしています。創世記 1章からは,至高者が言葉を出される,つまり命令を発せられると,その目的は成し遂げられたも同然であることが分かります。(詩 148:1-6と比較してください。)二日目に関して,このように述べられています。「次いで神は,『水の間に天空が生じ,水と水との間に分離が起きるように』と言われた。そうして神は天空を造り,また天空の下にあるべき水と天空の上方にあるべき水との間を分けはじめられた。そしてそのようになった」。(創世 1:6,7,新)それから,三日目に,「神は,『天の下の水は一つの場所に集まって乾いた陸地が現われるように』と言われ(ました)。するとそのとおりにな(りました)」― 創世 1:9,新。

      48 地はどのようにして,「水の中から」そして『水の中に引き締まったかたちで立つ』ようになりましたか。

      48 創世記に記録されている事柄は,使徒ペテロが述べていることと完全に調和しています。乾いた陸地が地球上の水の上に現われたので,「地は水の中から引き締まったかたちで立っていました」。しかしまた,地は「水の中に」立っていました。天空(生命を維持するために必要な種々の気体を含んでいた)の上に地球を取り巻く水があったからです。(箴 8:24-29と比較してください。)このような配列は「神のことば」によって生じました。

      49 (イ)『それによってその時の世は滅びをこうむった』とは,どのような出来事があったのですか。(ロ)強力な「神のことば」は将来のどんな出来事を確実なものとしていますか。

      49 地上からはるか高い空中にあった水と地球上の水は,世界的な洪水の可能性を生み,実際それらは至高者が不敬虔な世を滅ぼす際に用いられることになりました。ですから,神がキリストの臨在の時に必ず人間の営みに介入されるということをあざける人々すべてにとって,その大洪水は見せしめとなっています。世界的な洪水を可能にした強力な言葉は,現在の邪悪な事物の体制の滅びを示している言葉でもあります。使徒ペテロはこう続けています。「しかし,その同じみことばによって,今ある天と地は火のために蓄え置かれており,不敬虔な人びとの裁きと滅びとの日まで留め置かれているのです」― ペテロ第二 3:7。

      50 (イ)現在の古い事物の体制の滅びに関して,クリスチャン会衆に交わるある人々はどんな見解を受け入れましたか。(ロ)そのような態度はどのように表われていますか。

      50 とりわけ,使徒ペテロがこの言葉を書いてから幾世紀もたっているため,また,期待していた事柄が成就していないために,クリスチャン会衆に交わる人々の中にはそうした滅びが果たして来るのだろうかと疑問に思った人々がいます。その人たちは,公然とあざける者たちに加わらないかもしれませんが,もはや「裁きの日」を考慮に入れるべき出来事とみなしません。クリスチャンの責任を果たすことにむとんちゃくになり,霊的に眠りこけます。そして,快楽や持ち物の点で現在の事物の体制からできるだけ多くのものを得ようと努めます。

      エホバの辛抱に感謝する

      51 キリストが刑を執行する者として来られることが手間取っているとなぜ考えるべきではありませんか。

      51 人間の観点からすると,神の復しゅうを執行する者としてキリストが来られるのにずいぶん手間取っているように思えるかもしれません。ところが,エホバ神の見地からすればそうではありません。したがって,霊的に眠らないようにするためには,至高者の観点から物事を見る必要があります。そうする点で,使徒ペテロの言葉は助けになるでしょう。こう書かれています。

      「しかし,愛する者たちよ,この一事を見過ごしてはなりません。エホバにあっては,一日は千年のようであり,千年は一日のようであるということです。エホバはご自分の約束に関し,ある人びとが遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです。しかし,エホバの日は盗人のように来ます」― ペテロ第二 3:8-10。

      52,53 エホバにとって,どういう意味で,千年は一日のようであり,一日は千年のようですか。

      52 エホバは人間とかかわりのある時間に対して無関心ではありません。(創世 1:14,15)神は,時間を記録するものとして人間をおつくりになりました。聖書によれば神は特定の期間を設けられましたが,それらの期間は人間の時間の数え方に従い幾年というふうに計算されています。(創世 15:13-16。出エジプト 12:40,41。ガラテア 3:17。民数 14:33,34; 32:13。申命 2:7。ヨシュア 5:6。使徒 13:20)エホバは,始めも終わりもなく,永遠から永遠に存在される神ですから,神ご自身の存在を時間で計ることはできません。(詩 90:2,4)ですから,人間にとっての一千年,つまり36万5,000日余りの期間も,比較的に言えば,永遠のエホバにとってはわずか24時間の一日のようです。

      53 霊感を受けたペテロは,「エホバにあっては,一日は千年のようであ(る)」とも述べていますが,それは,地的な事柄,人間の営みに関しエホバにとって時間がものうくのろのろと進むという意味ではありません。それどころか,人間なら千年もかかる事柄を,神は24時間の一日で成し遂げることがおできになります。しかし,至高者は,物事の速度を速めることがおできになるのですが,時間を気にする必要が全くありません。そのうえ,至高者がある行動を取るまでに千年待とうと思われる場合,それは比較的に言って,わずか「一日」待っておられるに過ぎないのです。

      54 (イ)エホバ神が遅いと考えるべきでないのはなぜですか。(ロ)わたしたちは,神の辛抱からどのように益を受けていますか。

      54 したがって,使徒ペテロが第二の手紙を書いたとき以来幾世紀もたっていることを神の遅さの証拠と考えるのではなく,その期間神が驚くべき辛抱を示されたのだと考えるべきです。それは,あらゆる土地の人々が悔い改めて生きるよう天の父が願っておられることをはっきりと証明しています。ペテロが指摘したとおり,神の辛抱はクリスチャンにとって益となりました。クリスチャンもかつては信仰を持っていませんでした。したがって,至高者から是認される立場を得るために悔い改める必要があったのです。ところで,仮に神の裁きが不敬虔な世に執行されていたとしたら,そのときにまだ悔い改めていなかった人々は滅びたことでしょう。それで,エホバの辛抱によってクリスチャンの救いは可能となりました。そして,現在でもさらにほかの人々が悔い改めて生きる機会が神の辛抱によって引き続き開かれているのです。とはいえ,神の辛抱がいつまでも示されるわけではありません。主イエス・キリストは,不敬虔な者たちを処刑する業を始められるとき,盗人のように突然,「燃える火のうちに」表わし示されます。―テサロニケ第二 1:7-9。

      55 わたしたちは,キリストが裁きを執行するために必ず来られることを考えて何を行なっているべきですか。そのことは,わたしたちにとって何を意味するでしょうか。

      55 主イエス・キリストはいつ何時表わし示されるか分からないので,神とキリストのみ前における自分の立場を真剣に考える必要があります。立派な業の記録を作り,その結果お二人から是認されたものとみなしていただくのに時間は限られています。主の裁きの日は油断している人々を不意に襲うことを,聖書ははっきり示しています。クリスチャンの責任にむとんちゃくでいるなら,その日は盗人のように,不用意なわたしたちを突然襲いかねません。ですから,わたしたちは,個人的な願望や快楽のためにエホバと主イエス・キリストへの忠実な奉仕をおろそかにしないようにし,毎日を自分にとって最後の日であるかのように過ごすことに努めるべきです。そうすれば,将来,時間や体力や資力の用い方で後悔することは決してないでしょう。したがって,主イエス・キリストが表わし示されるとき,わたしたちが罰を受けるに値する不忠節な奴隷としてあばかれるということもありません。むしろ,その時は,わたしたちが神のおつくりになる「新しい天」もしくは「新しい地」の一部として比類のない祝福を得る期間の始まりとなります。確かにこれは守るに値する壮大な希望です。―ペテロ第二 3:13。

  • 約束の成就を期待して生活する
    最善の生き方を選ぶ
    • 11章

      約束の成就を期待して生活する

      1,2 (イ)変わることのない「神のことば」によれば,これからまだ何が起きますか。それに関連してどんな疑問が生じますか。(ロ)使徒ペテロは,現在の秩序に起きる事柄をどのように述べていますか。

      世界の秩序全体は変化しようとしています。人間生活のあらゆる面がそれによって影響を受けることは間違いありません。その変化は必ず起きます。なぜなら,信頼できる「神のことば」は,現在の天と地が終わること,およびそれに代わって栄光に輝く新しい天と新しい地が到来することを布告しているからです。そのような進展はわたしたちにとってどんな意味があるでしょうか。エホバ神が約束された事柄は必ず成就すると期待しながら生活していることをどのように表わせるでしょうか。

      2 ノアの日の世界的な洪水に言及したのち,使徒ペテロは次のように書いています。「今ある天と地は火のために蓄え置かれており,不敬虔な人びとの裁きと滅びとの日まで留め置かれているのです」。(ペテロ第二 3:7)続けて,同使徒は,「天は鋭い音とともに過ぎ去り,諸要素は極度に熱して溶解し,地とその中の業とはあらわにされるでしょう」と述べています。―ペテロ第二 3:10。

      3 創世記の記録を考えると,論理的に言って,地球を含む物質宇宙に関しどのような結論に達するはずですか。

      3 霊感によるこれらの言葉に基づいて,太陽や月や星ばかりか,わたしたちの住む文字通りの地球も滅ぼされると結論すべきでしょうか。その答えを得るには,ご自身の業に対する神のお考えを考慮しなければなりません。創造の期間の終わりに関して,創世記の記録は「神はその造られたすべてのものをご覧になったが,見よ,それは非常に良かった」と述べています。(創世 1:31,新)最初の人間の前途には,従順である限り地上でいつまでも幸福に生活するという見込みがありました。(創世 2:16,17; 3:3)地球は人間の仮の住みかで,結局いつかは裁きの日に滅ぼされるということを暗示する箇所は創世記の記録のどこにもありません。であるとすれば,論理的に言って,地球を含め物質宇宙が永遠に存続することが神のお目的であるということになります。

      4 (イ)洪水の前と後の状態に関連して,ペテロはどのような区別をしましたか。(ロ)洪水は何をもたらしましたか。

      4 さらに,使徒ペテロは,(1)『昔からの天と,水の中から,そして水の中に引き締まったかたちで立っていた地』と(2)「今ある天と地」とを区別しました。(ペテロ第二 3:5,7)とはいえ,ノアの日の洪水以前の地球は,今存在している地球と同一の惑星です。確かに,洪水は地球の様相を変えました。また,地球の上方にあった水がもはやなくなったので,目に見える宇宙の様子は,観察する人間の見地からすれば変わりました。しかしながら,それらの変化は大洪水で付随的に起きたことに過ぎません。洪水の目的は,文字通りの惑星を滅ぼすことではなく,箱船の外の不敬虔な人間の社会を滅ぼすことでした。神を信じない人間の社会が築いたあらゆる業と制度は,大洪水によって滅びました。

      5 世界的な大洪水との類似という点からすると,清算の日にはどんなことが起きるはずですか。

      5 したがって,世界的な大洪水との類似という点からすると,現在の邪悪な人間の社会に関連するものは,火によって焼き尽くされるかのように,ことごとく滅びるに違いありません。全くのところ,ノアの日の洪水ののちに存在するようになった人間に関する物事の全構造は滅びのため,また裁きの日,清算の日のために留め置かれてきたのです。

      6 古い秩序を終わらせる「火」とは文字通りのものですか。

      6 ここで「火」が完全な滅びの象徴として用いられていることは,聖書の啓示の書の中で確証されています。そこでは主イエス・キリストが戦う王として描かれており,その戦闘によって,地の表に多くの死がいが散らばり,腐肉を食う鳥がその死がいを食い尽くすと述べられています。(啓示 19:15-18)仮に地球が生物のいない文字通りの灰じんに帰することになっているなら,描かれているそのような事柄は全く成就しないでしょう。

      7 ペテロ第二 3章10節の言葉から,来たるべき滅びについてどんなことが分かりますか。

      7 このようなわけで,現在の地と天の滅びに関するペテロの描写は,不敬虔な人間社会の全滅と関係があります。人間社会を支配する「天」のような人間製の政府は消えてなくなってしまいます。(イザヤ 34:2-5; ミカ 1:3,4と比較してください。)それらが滅び去るときの音は,圧力を受けて吹き出る蒸気の音のように「鋭い音」と描写されていますが,それは最高に大きくなることでしょう。「諸要素」,すなわち,神を侮辱するような仕方で考え,計画し,話し,行動するよう不敬虔な人類を動かす精神は溶解し,無に帰します。(使徒 9:1; エフェソス 2:1-3と比較してください。)それは,至高者から離反した人類の精神を反映する哲学,理論,制度,企てすべてが終わることを意味します。「地とその中の業とはあらわにされる」,つまり滅びに値するものであることが暴露されるのです。「地」である邪悪な人間社会の成員は一人として逃れることができません。(創世 11:1; イザヤ 66:15,16; アモス 9:1-3; ゼパニヤ 1:12-18と比較してください。)不法行為を行なう者のあらゆる業,それに関連して築かれたものばかりでなく,制度や組織も神に非とされていることが明らかにされ,価値のないくずのように片付けられます。

      8 現在の体制のあらゆる部分が滅ぼされるのですから,ペテロのどんな助言を心に留めるべきですか。

      8 ですから,わたしたち神の僕は,現在の不敬虔な体制がことごとく永遠に滅びるのを本当に信じていることを生活態度に表わしたいと思います。使徒ペテロが次のように述べて,わたしたちに行なうことを勧めているのは正にそのことです。

      「これらのものはこうしてことごとく溶解するのですから,あなたがたは,聖なる行状と敬神の専念のうちに,エホバの日の臨在を待ち,それをしっかりと思いに留める者となるべきではありませんか。その日のゆえに天は燃えて溶解し,諸要素は極度に熱して溶けるのです」― ペテロ第二 3:11,12。

      9 永遠の祝福を目ざして,来たるべき滅びに生き残るのはどんな人々だけですか。

      9 現在の体制のあらゆる部分が,主イエス・キリストを通して表明される神の怒りの「火」で溶解するとき,廉潔な行状と敬神の専念の記録を持っている人々だけが逃れます。真の崇拝は,悪行を避けるというだけの消極的なものではありません。道徳的および霊的清さを保つことは絶対に必要ですが,わたしたちには,他の人の物質的および霊的必要に進んで,また熱心に答え応じることによって同胞への愛を証明する義務もあります。しかも,そうすることは大きな喜びをもたらします。なぜなら,「受けるより与えるほうが幸福である」からです。―使徒 20:35。

      終わりが近づいていることを認めた行動

      10 「すべての事物の終わり」が近づいていたために,ペテロはどのような勧めの言葉を述べましたか。

      10 使徒ペテロの次の言葉は,「すべての事物の終わりが近づ(いている)」ゆえに行なっていなければならない事柄を詳述しています。「ですから,健全な思いをもち,祈りのために目ざめていなさい。何よりも,互いに対して熱烈な愛をいだきなさい。愛は多くの罪を覆うからです。ぐちを言うことなく互いを暖かくもてなしなさい」― ペテロ第一 4:7-9。

      11 「健全な思い」を保つには何が必要ですか。

      11 この勧めの言葉と調和して,道徳的な清さ,もしくは廉潔な行状を保ち,かつ,他の人々の霊的な福祉を活発に促進するためには,『健全な思いをもつ』必要があります。それには,感情に支配されて平衡の欠けた考え方をしないように気を付けなければなりません。生活の中で真に重要な事柄を識別すること,優先させるべき事柄に対して平衡の取れた認識を示すことは非常に重要です。―フィリピ 1:9,10。

      12 (イ)「祈りのために目ざめて」いることはなぜ大切ですか。(ロ)ペテロは自分の経験からどのようにそのことの大切さを認識するようになりましたか。

      12 いつまでも神の忠実な僕でありたいと願っているなら,自分自身の力でそれができると考えてはなりません。「祈りのために目ざめ」,エホバ神に援助を仰ぐ必要があります。使徒ペテロは,祈りに関して『目ざめている』こと,注意深くあること,機敏であることの大切さを自分の経験から学びました。ゲッセマネの園で武装した暴徒に捕らわれる直前,神のみ子イエス・キリストは,誘惑に陥らないために祈るようペテロとヤコブとヨハネを励ましました。ところが,その重大な時に使徒たちは3人とも眠ってしまいました。(マタイ 26:36-46。マルコ 14:32-42。ルカ 22:39-46)祈りに関して『目ざめている』ことに失敗して弱くなったペテロは,のちにイエス・キリストを3回否みました。(ヨハネ 18:17,18,25-27)ですが,それより前に,ペテロは自信を持ってこう言明していたのです。「主よ,わたしはあなたとともに獄にはいることも死ぬことも覚悟しているのです」。(ルカ 22:33)「ほかのみんながあなたに関してつまずいても,わたしは決してつまずきません!」―マタイ 26:33。

      13 「祈りのために目ざめて」いることに失敗したときのペテロの経験から,何が学べますか。

      13 ペテロに起きたことには大切な教訓が含まれています。自信過剰になることの危険を銘記させてくれます。わたしたちには限界や弱点がありますから,神の助けがあって初めて誘惑に抵抗できます。ですから,機敏な精神と,エホバ神およびイエス・キリストへの愛情の点でゆるぐことのない心とをもって祈り続けたいものです。

      14 クリスチャンの責任を果たす際の動機はどのようなものであるべきですか。信仰の仲間を扱う際にそれはどのように表われますか。

      14 クリスチャンの弟子として機敏であり平衡を保つことに加えて,その責任を果たすのに愛が動機となっているかどうかを考えるのはよいことです。(コリント第一 13:1-3)使徒ペテロは,仲間の信者に対して「熱烈な愛」をいだくことを勧めました。そうした熱烈な愛は,許す精神を持つことによって示されます。そのようにして熱烈な愛を表わしているなら,兄弟たちの欠点を大げさに話したり,兄弟たちの失敗に不当な注意を向けたりしません。また,他の人の過ちを悪い方に解釈して,あらさがしをしません。そのようにして許す精神が示されるので,愛は,多くの罪を他の人々の目の前にあばかないでそれらを覆います。

      15 もてなしの精神はなぜ必要であると言えるでしょうか。どのような態度でもてなしをするべきですか。

      15 もてなしの精神を示すことも愛の表われです。他の人々,ことに困っている人々と食物や必需品を分かち合うのは本当にすばらしいことです。(ルカ 14:12-14)仲間の信者が天災や迫害であらゆる物を失ったなら,しばらくの期間自分の家を開放することもできます。それはわたしたちにとってたいへん不都合な場合もあります。そして,資産や体力を余分に使わなければならないことに不平を言いたくなるかもしれません。そのような時,そうすることは,神から愛されている人々に愛を示す優れた方法であることを認めて,もてなしの精神をたびたび示さなければならないことに不平を言わないように気を付けるのはよいことです。

      16,17 (イ)自分が持っている賜物をどのようにみなすべきですか。(ロ)パウロはどんなすばらしい態度を勧め,また,自らもそれを示しましたか。

      16 わたしたちすべてには,他の人の益のために用いることのできる賜物,才能が確かにあります。いつまでも神の是認された僕でありたいならば,自分の賜物を熱心に,そして喜んで用いなければなりません。自分を他の人と比較しないようにするのは賢明なことです。自分を他の人と比較しなければ,他の人が自分よりも多くのことをする能力があるのを見てがっかりするようなことはないでしょう。また,自分が他の人よりもある面で多くのことを成し遂げられる場合でも,優越感を持たないでしょう。(ガラテア 6:3,4)使徒ペテロの次の言葉に注目してください。「おのおのが受けた賜物に応じ,さまざまなしかたで表わされる神の過分のご親切を扱うりっぱな家令として,互いに対する奉仕にそれを用いなさい」。(ペテロ第一 4:10)したがって,たとえどんな賜物を持っていようとも,わたしたちにはそれを十分に活用する責任があります。わたしたちがどんな者であれ,また何を持っていようとも,それは神の過分のご親切によるのです。ですから,わたしたちの体力,能力,才能すべてを,エホバの過分のご親切によって自分に与えられ,至高者に賛美と誉れを帰すために用いるべき賜物とみなすことができます。

      17 使徒パウロは次のような質問をして正しい態度を強調しました。「だれが人を他と異ならせるのですか。実際,自分にあるもので,もらったのではないものがあるのですか。では,たしかにもらったのであれば,どうしてもらったのではないかのように誇るのですか」。(コリント第一 4:7)パウロ自身は,他の使徒たちすべてより「多く労し(た)」と言うことができたにもかかわらず,自分の手柄にせず,「といっても,わたしではなく,わたしとともにある神の過分のご親切がです」と言い添えました。―コリント第一 15:10。

      18 自分の賜物をどのような仕方で用いるべきですか。

      18 わたしたちは,忠実な家令として,なんであれ自分が持っている賜物を十分活用して他の人を霊的にも物質的にも助けることに心掛けたいと思います。それを行なう方法も非常に大切です。その点について,ペテロは次のように書きました。

      「語る者は,神の神聖な宣言を告げるかのように語りなさい。仕える者は,神が備えてくださる力に頼る者として仕えなさい。こうして,すべてのことにおいて,イエス・キリストを通して神に栄光が帰せられるためです。栄光と偉力はかぎりなく永久に神のものです。アーメン」― ペテロ第一 4:11。

      19 他の人々を霊的かつ物質的に援助する際,神をどのようにたたえることができますか。

      19 ですから,他の人を霊的に援助している場合,わたしたちが語る愛情のこもった慰めの言葉の源はエホバ神であることを示すような仕方で是非とも話したいと思います。そのようにするとき,宣べ伝えて教えることが築き上げるものとなり,援助しようと努めている人々に劣等感を抱かせたり恥ずかしい思いをさせたりすることはありません。同様に自分の時間と体力を惜しみなく提供して物質的な援助をする場合でも,神の力に頼りたいと思います。そうすれば,わたしたち自身の能力をあまり強調しないようにして,神がわたしたちの能力を用いて良い事柄を行なわせておられる点を際立たせることになります。このようにして,天の父は栄光をお受けになります。(コリント第一 3:5-7)わたしたちがみ子の弟子であるゆえに,そうした栄光と誉れがみ父に帰せられるのですから,「イエス・キリストを通して」エホバ神に「栄光が帰せられる」と言えます。良い事柄を成し遂げる能力と力をわたしたちに与えてくださったのはほかならぬ至高者です。

      20 なぜ,エホバの大いなる日の到来を待ち望むべきですか。したがって,わたしたちは何をしているべきですか。

      20 他の人々を援助するために時間や資力や体力を用いることによって,わたしたちは霊的に用意のできた状態にあること,神の大いなる日を迎える用意ができていることを示しているのです。実際,神の復しゅうの執行者として主イエス・キリストがいつ何時来られるか分からないことを認識しているなら,霊的に目ざめていたいという気持ちになるはずです。それゆえに,エホバの大いなる日が必ず来ることを常に念頭に置いていたいと思います。その日の到来は,イエス・キリストの忠節な弟子すべてにすばらしい機会を開きますから,わたしたちは当然,期待に胸をふくらませてそれを待ち望むことができます。エホバの日は,現在の事物の体制の不義と圧迫から永遠に解放されて,「新しい天と新しい地」の祝福を楽しむことを意味します。その日を切望し,「しっかりと思いに留め」続けるのはきわめて大切です。(ペテロ第二 3:12,13)神の目的を他の人々に熱心に知らせることは,正しい態度を持っている証拠となります。また,それは,エホバの日が来るということ,そして,他の人々もその事実を知り,その重要な知識に従って行動する必要があるということに対するわたしたちの確信を示すものです。

      21 (イ)「新しい天と新しい地」に関する神の約束に関連して,何を確信できますか。(ロ)それはわたしたちにどんな影響を与えるはずですか。

      21 預言者イザヤを通して初めて語られた,「新しい天と新しい地」に関する神の約束は,完全な意味で成就するでしょう。(イザヤ 65:17; 66:22,新)イエス・キリストと仲間の王なる祭司たちが,神の律法に従う地上の社会に対して行なう支配は,必ず現実のものとなります。(啓示 5:9,10; 20:6)それは確実なことなので,わたしたちはその結果もたらされる祝福にあずかる人々の一人となるため行動するよう促され,最善を尽くすよう動かされるはずです。使徒ペテロはこう警告しています。「愛する者たちよ,あなたがたはこれらのものを待ち望んでいるのですから,最終的に汚点もきずもない,安らかな者として見いだされるよう力をつくして励みなさい」。(ペテロ第二 3:14)神の僕であるわたしたちの関心事は,この世的な態度や慣習や行ないによって汚点を付けられたり損なわれたりすることなく,主イエス・キリストによって是認されることです。また,罪というしみも付けたくないと思います。罪はわたしたちと神との間の平和を損なうので,罪が贖われ得る状態にとどまることによってのみ,わたしたちは神の大いなる日が来るとき「安らかな者として」見いだされることができます。

      神の辛抱を感謝しなさい

      22 神の約束の成就に関してもどかしく感じてはならないのはなぜですか。

      22 「新しい天と新しい地」を待ち望むのは正しいことですが,約束の成就をもどかしく感じるようにはなりたくありません。エホバの大いなる日がはるか以前に来なかったことから,わたしたち自身の救いが可能になりました。使徒ペテロは次のように述べました。

      「わたしたちの主のしんぼうを救いと考えなさい。それはわたしたちの愛する兄弟パウロも,自分に与えられた知恵にしたがってあなたがたに書いたとおりであり,彼はそのすべての手紙の中でしているように,これらのことについて述べているのです。しかし,彼の手紙の中には理解しにくいところもあって,教えを受けていない不安定な者たちは,聖書の残りの部分についてもしているように,これを曲解して自らの滅びを招いています」― ペテロ第二 3:15,16。

      23 (イ)神の辛抱に付け込むべきでないのはなぜですか。(ロ)一世紀のある人々は,神の辛抱の理由をどのように認め損ないましたか。

      23 エホバの辛抱を感謝する者としてわたしたちは,神の大いなる日はまだ遠い先のことだろうという理由で,特定の利己的な道を正当化してその辛抱に付け込まないよう注意したいと思います。エホバの辛抱に付け込む信者が西暦一世紀にいたことは明らかです。使徒ペテロはそれらの人のことを,神の言葉の明確な理解に欠け,キリスト教の教理と実践に関して安定していないため,「教えを受けていない不安定な者たち」と言いました。その人たちは,霊感を受けた使徒パウロの手紙や聖書の他の部分に書かれている事柄を用いて自分たちの間違った行ないの言い訳をしようとさえしました。そして,良心を働かせることについて,またモーセの律法を守る業でなく信仰によって義と宣せられることについてパウロが書いた事柄を指摘し,それゆえに神の意志に反するあらゆる行為が許されると述べたかもしれません。(ローマ 3:5-8; 6:1; 7:4; 8:1,2; ガラテア 3:10と比較してください。)次のような点を悪用したことが考えられます。

      「キリストは,このような自由のためにわたしたちを自由にしてくださったのです。ですから,しっかり立ち,再び奴隷のくびきにつながれないようにしなさい」。(ガラテア 5:1)「わたしにとって,すべての事は許されています」。(コリント第一 6:12)「清い人たちにとってはすべてのものが清いのです」。(テトス 1:15)

      しかし,その人々は,パウロが次のようにも述べたことを無視しました。

      「ただこの自由を肉のための誘いとして用いることなく,むしろ愛を通して互いに奴隷として仕えなさい。律法全体は一つのことば,すなわち,『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』の中に全うされているからです」。(ガラテア 5:13,14)「おのおの自分の益ではなく,他の人の益を求めてゆきなさい」― コリント第一 10:24。

      24 会衆内においてさえ交わりに気を付けなければならないのはなぜですか。

      24 一世紀の会衆におけると同様,今日でも,クリスチャンの自由の限界を広げ過ぎて罪の奴隷になってしまう人々がいます。ですから,不健全な影響を受けて迷い出ないために,交わりに気を付けるのはよいことです。使徒ペテロはそのことに注意を促して,こう書きました。「したがって,愛する者たちよ,あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから,無法な人びとの誤りによってともに連れ去られ,自分自身の確固たる態度から離れ落ちることのないように警戒していなさい」― ペテロ第二 3:17。

      クリスチャンとして進歩する

      25,26 ペテロ第二 1章5-7節に従って信仰を得たのちに何をしているべきですか。

      25 エホバ神がわたしたちのために用意してくださっている祝福を得損なわないためには,クリスチャンとしての生活と活動の面で進歩したいという気持ちを持つべきです。(ペテロ第二 3:18)そうすることは,使徒ペテロの次の励ましと調和します。

      「そうであればこそ,真剣な努力をつくして答え応じ,あなたがたの信仰に徳を,徳に知識を,知識に自制を,自制に忍耐を,忍耐に敬神の専念を,敬神の専念に兄弟の愛情を,兄弟の愛情に愛を加えなさい」― ペテロ第二 1:5-7。

      26 エホバ神は,み子を用いて,わたしたちが信仰を持てるようにしてくださいました。ですから,わたしたちのためになされた事柄に答え応じて,あるいはその当然の結果として,真の信仰を持っていることを表わす他の優れた特質を培いたいと願うべきです。神の言葉と神の霊の力がわたしたちの生活に十分働くようにして,そのことをするのです。(ペテロ第二 1:1-4)天の父がわたしたちを完全なクリスチャンにするうえで行なっておられる業と協同するよう『真剣な努力をつくし』,あらん限りの力をもって精力的に努力することを,使徒ペテロは勧めました。―コリント第一 3:6,7; ヤコブ 1:2-4と比較してください。

      27 信仰に徳を加えるとはどういう意味ですか。

      27 信仰に徳を加えるとは,わたしたちの模範者キリストに見倣って道徳的に優れた人となるよう努力するということです。そのような徳,つまり道徳的な卓越性は,積極的な特質です。それを持っている人は,悪を行なったり仲間の人間に害を加えたりしないようにするだけでなく,他の人々の霊的,物質的,感情的必要に積極的に答え応じて,善を行なうようにも努めます。

      28 知識を増し加えることはなぜ大切ですか。

      28 道徳的な卓越性は知識なくしては存在しません。正邪を見分けるには知識が必要です。(ヘブライ 5:14)また,一定の状況下で善をどのように積極的に行なうかを決める場合にも知識がなくてはなりません。(フィリピ 1:9,10)知識を軽く見たり,知識に反したりさえする軽信とは異なり,しっかりとした根拠に裏付けられた信仰は知識に基づいており,常に知識から益を受けます。ですから,エホバ神とみ子に関する知識を増し加えながら,勤勉に聖書を適用するなら,信仰は強くなります。

      29 (イ)自制を培ううえで,なぜ知識は欠かせませんか。(ロ)自制と忍耐にはどんな関係がありますか。

      29 エホバ神とみ子に関する知識があれば,罪深い欲情に屈して節度のない放縦な行状を示さないように助けられます。また,その他の仕方で神の像を反映し損なうという罪を犯さないようにも助けられます。知識があれば,自制を示すことすなわち,己を制し,言動を抑制する能力を持つことは容易になります。自制を働かせ続けることによって,忍耐という大切な特質を持つようになります。忍耐が生み出す内面的な強さも,罪深い欲情に屈しないようにするうえで,また迫害に遭って妥協したり,日ごとの思い煩いや快楽や物質的な所有物のことに気を奪われたりしないようにするうえで,助けになります。このような忍耐は,至高者に力と導きを仰ぐことによって生じます。―フィリピ 4:12,13; ヤコブ 1:5と比較してください。

      30 (イ)敬神の専念とは何ですか。それはどのように表われますか。(ロ)敬虔であることと兄弟の愛情とが切り離せない関係にあることは何から分かりますか。

      30 敬神の専念,つまり敬虔であることが忍耐に加えられるべきです。そうした態度は真のクリスチャンの全生涯の特徴です。そして,それは,創造者に対する健全な敬意や誉れ,さらに,献身的に仕えるべき親や他の人々に対する深い敬意および関心という形で表わされます。(テモテ第一 5:4)しかしながら,兄弟の愛情がなければ,敬虔であるとは言えません。使徒ヨハネはこう述べました。

      「『わたしは神を愛する』と言いながら自分の兄弟を憎んでいるなら,その者は偽り者です。自分がすでに見ている兄弟を愛さない者は,見たことのない神を愛することはできないからです」。(ヨハネ第一 4:20)

      自分は敬虔で献身的であると自負している人でも,兄弟たちに愛情や親切を示さず,親しみ深くないなら,まだ重大な欠陥を持っていることになります。神に対して温かい感情を抱きながら,兄弟たちに対しては冷淡になるということはあり得ません。

      31 だれに対して愛を示すべきですか。それはなぜですか。

      31 愛は,わたしたちの生活の中で特に顕著でなければならない際立った特質です。この種の愛はクリスチャン兄弟たちだけに示されるべきではありません。わたしたちは霊的な兄弟に愛情を抱くべきですが,すべての人に愛を示さなければなりません。愛は,その人が道徳的にどんな評判を得ているかということには関係なく,示されるべきものです。敵に対してさえ示されるべきであり,特に,敵対する人々を霊的に助けたいという願いとなって表われなければなりません。―マタイ 5:43-48。

      32 ペテロ第二 1章5-7節の助言を適用するなら,どんな結果になりますか。

      32 徳,知識,自制,忍耐,敬神の専念,兄弟の愛情,愛が信仰に加えられると,どんな結果になりますか。使徒ペテロは次のように答えています。「これらのものがあなたがたのうちに在って満ちあふれるなら,それはあなたがたが,わたしたちの主イエス・キリストについての正確な知識に関して無活動になったり,実を結ばなくなったりするのを阻んでくれるのです」。(ペテロ第二 1:8)ですから,静止したり,無活動になったり,霊的に死んだりすることはありません。敬虔な特質が心に宿り,それが本当にわたしたちの一部になっているなら,神に是認されるような仕方で考え,話し,行動するように動かされるでしょう。(ルカ 6:43-45と比較してください。)このことがわたしたちについて真実であるなら,主イエス・キリストが地上の物事を完全に支配するために来られることは,現在では想像もできないほどのすばらしい祝福の始まりとなるのです。

      33-35 イエス・キリストの弟子として生活することから,どのように益を得ますか。

      33 ですから,行状において,あるいは,神の音信を他の人々に知らせるという重要な業を含むクリスチャンの義務を果たすうえで,決して不注意にならないようにしたいものです。もしわたしたちがイエス・キリストの弟子としての生き方を選んだのであれば,清い良心を持つことに加え,信仰の仲間との健全な交わりを楽しむことができます。また,試練の時に神が援助を差し伸べて強めてくださることを経験できます。さらに,聖書の原則を良心的に適用するにつれて,自分と他の人々との関係は改善されていきます。

      34 神の言葉に従おうと努めるなら,家庭,職場,あらゆる関係の政府当局者との交渉など,生活のあらゆる面で良い影響が及ぶはずです。また,そのように努力するなら,聖書の慰めとなる音信をできるだけ多くの人に心を込めて伝えることの大切さに一層気付くようになります。そして,わたしたちは同胞の必要,特にその霊的な必要に答え応じることに大きな幸福を感じ,本当に何事かを成し遂げたという自覚を得ます。

      35 何よりも大切なことですが,イエス・キリストの真の弟子として生活することは,将来永遠にわたって幸福に暮らせることが約束されている唯一の道です。わたしたちはすでに得ているものを決して失いたくはありません。どうか,わたしたちの主が完全に勝利を収めた王としていつ来てもよいように用意のできた状態で一日一日を送れますように。そのようにしてのみ,エホバ神に忠実に仕えるという誓約を守り抜くことを選んで得られる限りない喜びにあずかれるのです。

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