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「エホバとはどんな方」なので,すべての人が崇拝しなければならないのですかものみの塔 1975 | 4月15日
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「エホバとはどんな方」なので,すべての人が崇拝しなければならないのですか
『エホバは誰なればか我その声にしたがうべき』― 出エジプト 5:2。
1 崇拝に関するどんな質問は今日も論議を要する適切なものですか。なぜですか。
遠い昔からこの20世紀に至るまで,政治国家の元首は神として崇敬されてきました。人間の歴史に詳しい人々はそのことをよく知っています。古代エジプトの王ファラオは神とみなされ,統治するファラオはいずれも,太陽神の子と考えられました。ローマ帝国の最初の皇帝であったカエサル・アウグスツスは,死後に神格化され,彼の後継者たちもそうでした。生きている時でさえそれらの皇帝は「神様」と呼ばれました。それから約2,000年後,つまり1945年に第二次世界大戦が終わったあと,日本の今上天皇裕仁は,自分が神でないこと,日の女神天照大神の子でないことを公に宣言しました。しかし,この日出ずる国の一部のかたくなな保守主義者たちは依然,天皇崇拝を固執しています。諸国民が崇拝する古今の多数の男神女神のことを考えると,崇拝に価する神は誰か,という質問は今日もなお論議を要するものであり,適切な質問と言えます。
2 人間製の国家が発足して以来,ほとんどの人は何を崇拝する罪を犯してきましたか。
2 時がたつにつれて,国家の神は次々にその栄光の座から引きおろされました。まだ記憶に新しいところでは,共産党のニキタ・フルシチョフが,独裁者であった故ジョセフ・スターリンを,ソ連の神の座から引きおろした例があります。神々をその栄光の座から引きおろす過程は喜劇に近いものです。しかしながら,国家の元首を崇拝することは,人類の世界に深刻な結果をもたらしました。多くの人々は,自分たちは今非常に理性的になっており現代化されているから,政治上の神々を崇拝するようなことはしない,と考えるかもしれません。しかし,政治国家そのものに対する崇拝はどうでしょうか。あるいは世界的な政治支配体制を崇拝することについてはどうですか。幾千年か前に,人間製の国家が発足して以来,人類の大多数は,そのような国家崇拝の罪を犯してきた,と言っても過言ではありません。
3,4 (イ)どのようにして地上の政治国家は出発しましたか。その事実に対して反論の余地が残されていないのはなぜですか。(ロ)ヨハネは啓示 13章1節から8節で,そのような国家の出発をどのように描写していますか。
3 その名を歴史にとどめられ,今に至るまで無数の読者を持つ書物を残したある人は,19世紀昔に,生き生きとした象徴を用いて,人間の政治体制に対する世界的な崇拝がどのように始まったかを示しました。それは,その人,すなわちゼベダイの子ヨハネが,火のような色の龍になぞらえたものによって開始されました。ヨハネは,中国の国民が,一つの頭を持つよく知られたあの龍に与えているのと同じ意味をこの龍に付してはいません。ヨハネはある超人間的存在の適切な象徴として龍を用い,「悪魔またサタンである龍,すなわち初めからのへび」という表現によって,その超人間的存在の正体を明らかにしています。(啓示 20:2; 12:3,9)人間の政治体制はこの者によって始められたと信ずるのは,単なる想像にすぎないでしょうか。あまりにも単純ですか。人間製の政治体制が,昔からどのような支配を行ないまた行動してきたかを考えるなら,その政治体制は龍のような悪魔サタンが始めたという事実に反論する余地はなくなります。ではヨハネがそのことをどのように描写しているかを見てみましょう。
4 不安や不満をいだく,自己中心的な一般の人類を,波立つ海にたとえ,ヨハネはことばをつづけます。「そして龍[すなわち火のような色の龍]は海の砂の上に立ち止まった。また,わたしは一匹の野獣が海から上って行くのを見た。十本の角と七つの頭があり,その角の上には十の王冠があったが,その頭には冒とく的な名があった。さて,わたしの見た野獣はひょうに似ていたが,その足はくまの足のようであり,その口はししの口のようであった。そして,龍は自分の力と座と大きな権威をその野獣に与えた。そしてわたしは,その頭の一つがほふられて死んだようになっているのを見た。しかし,その致命的な打ち傷はいえた。それで全地は感服してその野獣に従った。そして彼らは,野獣に権威を与えたことで龍を崇拝し,また,『だれがこの野獣に等しいだろうか。いったいだれがこれと戦いうるだろうか』と言って野獣を崇拝した。……あらゆる部族と民と国語と国民に対する権威がそれに与えられた。そして,地に住む者はみなそれを崇拝するであろう」― 啓示 13:1-8。
5,6 ダニエルが見た海から上がった野獣の夢に照らしてみるとき,奇妙な形の野獣は何を表わしていますか。
5 人々は,『だれが野獣のようであろうか』と尋ねました。それでわたしたちは聞きます。野獣は何を表わしていますか。この象徴的な野獣およびそれがどうなるかについてのヨハネの説明からみれば,野獣が何を表わすかに疑問の余地はありません。
6 「ヨハネへの啓示」の書の中で野獣が演ずる役割は,野獣が何を象徴するかを表わしています。それは全人類を支配する世界的政治体制です。その野獣が,ひょうのように見えながら熊の足を持ち,またししの口を持っているということは,世界的政治体制が,時代や場所を異にするさまざまな統治形態を通して自己を表現してきた事実とよく一致します。おそらくヨハネは,昔の預言者ダニエルが,ある預言的な夢の中で見たことについて考えるように導かれたことでしょう。それは,波立つ海の中から,最初にししに似た獣が,ついで熊のような獣が,そしてその後にひょうに似た獣が上がって来る夢でした。ダニエルはさらに,それらの獣が,超強大国のごとくに台頭して地を支配する政治支配権を表わすものであることを,はっきりと告げられました。(ダニエル 7:1-18)したがって,ヨハネが見た奇妙な形の野獣は,さまざまな統治形態を通して現われた世界的政治体制の象徴でした。
国家を神として崇拝する
7,8 (イ)象徴的な野獣を崇拝することは,同時にだれを崇拝することでもありますか。(ロ)国家崇拝は,何も崇拝しないと言う人々も考えてみなければならない事柄ですが,それはなぜですか。
7 ヨハネが霊感による幻の中で見たことをここで一つ残らず詳細に取り上げる必要はありません。わたしたちがここで注意を向けたい重要な事柄は,海から上がったこの「野獣」が世界じゅうの人々によって崇拝されたということです。その野獣は,征服することのできない神として扱われました。こうして,国家を神として崇拝することはヨハネの幻の中で描かれていましたが,それは同時に国家よりも高いあるものを崇拝することでもありました。それはだれでしたか。龍のような悪魔サタンです。というのは,サタンは権威と,力と,座もしくは統治の座を国家に与えるものとして描かれているからです。
8 ですから,ヨハネが弟子として仕えた師が悪魔サタンのことを,「世の支配者」と呼んだのも不思議ではありません。(ヨハネ 14:30; 16:11)またヨハネの仲間であった弟子パウロは,悪魔サタンを,「この事物の体制の神」と呼びました。(コリント第二 4:4)これは,何も崇拝しないことを誇る多くの人々が,今日考えてみなければならない事柄です。彼らは,神を信じない共産主義者たちのように,国家を崇拝しますか。彼らはそれを否定するかもしれません。しかし,深刻な国家的問題が生ずるなら,国家間の戦争がぼっ発するなら,あるいは国の主権が脅かされるなら,その時彼らはどうしますか。そうです,そのような時に彼らが神として崇拝するのは何でしょうか。その時の彼らの行動は,真実を明らかにし,彼らが口で言うことをかき消してしまうほど雄弁に物語るでしょう。
9 わたしたちは各自,崇拝に関するどんな事柄を自問してみる必要がありますか。決定に際して政治家たちはどんな無礼な質問をすることが考えられますか。
9 今日,国家主義は世界のいたる所で勢いを増しています。信仰があることを公言する人であろうとなかろうと,自分はだれを,あるいは何を崇拝するか,という個人的な質問を避けて通ることはできません。世界的な政治体制の背後にある見えない力,すなわち龍のような悪魔サタンは,地上のすべての住民を卑劣にも強制して,自分の手下,すなわち国家を通して,自分を崇拝させることを望んでいます。しかし,彼は崇拝に価しません。というのは,いずれ近いうちに彼自身が,神の座から引きおろされるからです。しかし宇宙の真の神をその栄光の座から引き下ろすことは不可能です。わたしたちは誠実な気持ちでそのかたを崇拝することを望んでいるでしょうか。わたしたちは,このことに関する決定を,あまり延ばすことはできません。とくにこの世の政治的分子は,このことについて自分が本当に何をしたいかを最終的に決定しなければならないでしょう。その時にもし彼らが,挑戦的な態度で,『その者(わたしたちにはその名を知らされていた)がいったい何者なので,われわれ政治家を含めすべての者が崇拝しなければならないのか』と質問するなら,彼らは気の毒な人々と言わねばなりません。
10,11 古代エジプトのファラオが同様の質問をしたのはいつのことでしたか。なぜですか。
10 わたしたちには,正しい決定を下す助けになる歴史があります。政治支配者とその愛国心の強い支持者たちは,それと同じ質問をした,古代のある国の元首に関する歴史上の事件を今考えてみるとよいでしょう。その人物というのは,西暦前16世紀末葉の国王ファラオのことです。それはファラオが,モーセならびにアロンの二人の兄弟,および奴隷であったイスラエル人の他の長老たちと対峙したときのことでした。だれが真の神か,という問題が試験にかけられていました。アロンを代弁者としてモーセはファラオに言いました。『イスラエルの神エホバかく言いたまう わが民を去らしめ 彼らをしてあら野において我を祭ることをえせしめよ』。もしこう言われたファラオが,他のファラオと同じく自分を神であると考えていたとすれば,当時自分がエジプトの奴隷にして不当に利用していた人々の神に従順になって自分自身の神としての立場を捨てる気持ちを起こすことはありません。そこでファラオの挑戦的な質問と答えが返ってきました。
11 「エホバは誰なればか我その声にしたがいてイスラエルを去らしむべき 我エホバを識らずまたイスラエルを去らしめじ」― 出エジプト 5:1,2; 3:18,19。
12,13 (イ)それは誰と誰との対決でしたか。誰が勝利を得ましたか。(ロ)イスラエル人の救出者は,十戒の冒頭で,崇拝に関するどんな命令を与える権利をお持ちでしたか。
12 どちらかといえばそれは,奴隷であるイスラエル人の神と,エジプトのファラオが対決した状態でした。神としてのファラオの彫像は,当時の人の住む地の超強大国であったエジプトの,他の多くの神々の彫像の間に安置されていたことでしょう。信頼できる歴史は,この劇的な対決において誰が勝利を得たかを示しています。古代エジプトの神々はすべてその正体をあばかれ,勝利を得たイスラエル人の神は,イスラエル人をエジプトの奴隷の家から導き出し,紅海を渡ってアラビアのシナイ山まで行き,その場所で,彼らを一つの国民として統治するための十戒と幾百にのぼる他の律法を与えました。その十戒の冒頭で,イスラエル人のこの神聖な救出者は,次のことを彼らに命ずる十分の権利をお持ちでした。
13 『我は汝の神エホバ汝をエジプトの地その奴隷たる家より導き出せし者なり 汝我が面の前に我のほか何物をも神とすべからず 汝おのれのために何の偶像をも彫むべからず また上は天にあるもの下は地にあるもの ならびに地の下の水の中にある者の何の形状をも作るべからず これを拝むべからず これにつかうべからず 我エホバ汝の神は〔専心の献身を求める〕神なれば 我をにくむ者にむかいては父の罪を子にむくいて三四代におよぼし 我を愛しわが誡命を守る者には恩恵をほどこして千代にいたるなり』― 出エジプト 20:1-6〔新〕。
14 エホバ神は,像について,「この事物の体制の神」とはどのように異なっておられますか。なぜですか。
14 十戒の最初の二つの戒めは,比類のない神の名前を明らかにしています。どのいわゆる「神」の記録も,「この事物の体制の神」悪魔サタン自身の記録さえも,この神の記録に匹敵しうるものではありません。悪魔サタンは,自分の仲間の「神々」の偶像や,自分自身の偶像さえ作ることを許しています。しかしエホバという名をお持ちになる神は,ご自分を表わす偶像を作ることは一切厳重に禁じておられ,またご自分の崇拝に他のどんな偶像を用いることをも禁じておられます。神はどんな被造物にも,人間が作るどんな像にもなぞらえることはできないのです。モーセのあとに出た別の預言者を通して神は言われました。『われはエホバなり これわが名なり 我はわが栄光をほかの者にあたえず わがほまれを偶像にあたえざるなり』― イザヤ 42:8。
15 エホバはなぜ「ねたむ神」と言えますか。このことについて,政治権力を持つ人々はどんな質問をすることが考えられますか。
15 この神の宣言は,神としてのエホバに対する専心の献身を要求し,また相対的な崇拝の対象となる,人の手になる像の使用を全面的に禁ずるものです。神は目に見えないかたである故に,崇拝者たちが神に注意を向けやすいように神は像を作らせる必要がある,と人は考えるかもしれません。しかしそのような像は偽りにすぎず,神の実相を表わしうるものではありません。実際には崇拝者の注意をそらし,また崇拝者たちに神を安っぽく評価させるものです。唯一の生ける真の神を,命のない作られた像などによって表わすことはできません。神は決して,自らなった神々を仲間にはされません。ですから神の真の崇拝者たちは,神と真の神性を共有するものとして『その面の前にほかの何物をも神としてはならない』のです。神はご自分の崇拝者に対し専心の献身を要求しておられます。それゆえに『ねたむ神』と言うことができます。理性を持つ被造物はすべて,永遠に幸福に生きることを望むなら,好むと好まざるとにかかわらず,神に対する専心の献身を求められます。そういうわけで,今日政治権力の座にある人々は,ファラオのことばを借りて,「エホバとはいったい何者なのですべての人が彼を崇拝しなければならないのか」と,質問するかもしれません。
神として崇拝される物質主義
16,17 (イ)今日人々は国家のほかにどんなものを崇拝していますか。(ロ)多くの人々はどのようにして物質主義を自分の神にしますか。
16 人類の大多数は,象徴的な「野獣」が実際に何を行なっているかに気づかずに,その野獣,すなわちさまざまな形態をとって「あらゆる部族と民と国語と国民」を支配している政治国家を崇拝しています。(啓示 13:7)しかし,利己的で不完全な人間が,自分たちの生活の中で神の地位にまで高める可能性のあるものはほかにもあります。人間の科学者はどんなことでもでき,すべての問題を解決すると考える人は少なくありませんが,そういう人たちの生活の中では,現代の物理科学が「聖牛」にされて崇拝されています。また,多くの種類の娯楽や楽しみごとがある今日では,演劇の「スター」,有名な映画俳優,賞賛をかちとったラジオやテレビの出演者などが偶像視されます。以前の道徳と礼儀作法の標準が破壊されるにつれ,性の不道徳の崇拝者が絶えず増加しています。
17 また,人類の世界が今ほど多くのいわゆる「生活を楽にするもの」,労力のはぶける装置,遠くの場所へ短時間で行ける旅行手段,種類の豊富な食品などを有したことはかつてないことなので,人はこうしたものをたくさん手に入れようとする誘惑に陥るかもしれません。あるいは,世界的インフレや増大する経済問題に圧迫されて,ほとんど物質を得ることだけにかまけるようになるかもしれません。いずれの場合も,人は霊的な事柄のための時間や関心がなくなってしまうほど物質主義的になるかもしれません。自分ではそう考えたくはないかもしれませんが,その人にとっては物質主義が神となってしまいます。
18 物質主義を崇拝するのは賢明ですか。ヤケの子アグルはなぜ物質の富に満足することを望みませんでしたか。
18 物質主義を崇拝するのは賢明なことではありません。物質主義崇拝は必ず人の霊性を損います。災いを招く偽りの神々の崇拝を避けることを望んだ古代の人,ヤケの子アグルは,物質主義の危険を認めていました。地と風と雨の創造者に向かってアグルは言いました。『われ二つのことをなんじに求めたり 我が死なざる先にこれをたまえ すなわちうそといつわりとを我より離れしめ我をして貧しからしめずまた富ましめず ただなくてならぬ糧をあたえ給え そは我あきて神を知らずといい エホバは誰なりやといわんことを恐れまた貧しくして窃盗をなし我が神の名を汚さんことを恐るればなり』― 箴 30:1,7-9。
19 物質主義は,神に対する政治家のそれに似たどんな態度を貪欲な人の心の中に生み出しますか。物質主義者はなぜ神から命を得ることはありませんか。
19 非常な富とひどい貧困とが相接して存在する世界に住むわたしたちは,ヤケの子アグルに倣い,安全な道を歩まねばなりません。真の神の崇拝に背を向けさせる恐れのある両極端を避けなければなりません。物質を豊富に得て欲心を満足させるなら,政治権力に対して強い欲望を持つ結果,昔のファラオの挑戦的なことばを取り上げて,『エホバとはいったい何者か』と言う国家の支配者たちと同じ立場に立つことになるかもしれません。このような態度が政治権力のみならず,物質の富に対する欲から生じたものであるとすれば,地の宝を過度に追い求める人は,エホバではなくて物質主義を自分の神とする以外の何をしているというのでしょうか。エホバはねたむ神,すなわちご自分の崇拝者に専心の献身を求める神であられますから,人は両者に同時に仕えながら,幸福な永遠の命の賞を真の神のみ手より受けることはできないのです。
20 アグルよりも賢明な人は,神と富とに同時に奴隷として仕えようとすることにつき,何と言いましたか。
20 ヤケの子アグルよりもはるかに賢明だったある人はこう言いました。「だれもふたりの主人に奴隷として仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛し,あるいは一方に堅くついて他方を見下げるようになるからです。あなたがたは神と富[マンモン神]とに奴隷として仕えることはできません」― マタイ 6:24,新世訳。欽定訳。
21 人格神を信じないと公言する人々も,どんな種類の崇拝を行なうまちがいをしていますか。
21 今日,一般の人々は,国家主義の力と物質主義の力とによってはさみ撃ちにされています。多くの人は,国家主義崇拝と物質主義崇拝の両方に屈しています。個人的には国の政治に特別の関心を持たなくとも,物質主義崇拝に屈しつつある人もいます。いったい,何も崇拝していないと言える人が今日いるでしょうか。理知ある人格神を信じていないことを誇りにしているために,自分は神を,あるいは神々を崇拝してはいない,とある人は考えるかもしれません。しかし,正直な気持ちで自分自身を調べてみるなら,自分が,国家主義,物質主義,スポーツ,性,自分の腹,またそのほかの利己的な事柄を自分の神とし,それに奴隷として仕えていることが分かるでしょう。さらに,世のこうした利己的な事柄を崇拝することをもって利己主義の権化である悪魔サタン,「この事物の体制の神」をもそれとは知らずに崇拝しているのです。自分を欺いてみたところでなににもなりません。わたしたちはみな自分自身を正直に見つめ,事実を認めるようにしましょう。
22 そのような神々に対する崇拝が人々の上にもたらしたものについて考えるとき,人々は崇拝に関してどのように考えてみるべきですか。
22 これらすべての偽りの神々に対する崇拝は,人類世界を,今日見られるような悲惨な状態に導きました。そのような神々の崇拝は,人類の平和,幸福,そして一般の福祉を助長するものではありませんでした。自分たちにこれほどの混乱と難問題をもたらした神々にこれ以上仕えることの是非を苦悩している人々が問うべき時は来ていると,心ある人ならばだれでも思うでしょう。崇拝者たちに真の永続する益を与える神であるまことの神がおられるにちがいないことを,彼らは筋道を立てて考えてみるべきです。それはだれのことでしょうか。
23,24 そのような偽りの神々すべてに反対する神はだれですか。そのかたはどうして聖書の神と言えますか。
23 それら偽りの,害をもたらす神々すべてに反対しておられる神がただ一人おられます。その神のみ名はよく知られています。特に,第一次世界大戦の終わった1918年以来,その神のみ名は地にあまねく宣べ伝えられてきました。そのみ名は,かつて出版されたどの本よりも広く人類の間に普及している本の中で,最も顕著な名前となっており,その本の中で,その名前は約七千回現われます。その本は,度々出てくるその名前をお持ちになるかたの霊感を受けた唯一の本です。それ故に世界じゅうで一番よく攻撃される本であり,その結果,すべての本の中で最も信じられていない本です。その本は聖書,神聖な書と呼ばれています。聖書が初めから終わりまで神として述べているかたの名前はエホバです。したがってそのかたは聖書の神です。この事実に反ばくすることはむだです。聖書は詩篇 83篇18節の中で次のように述べているからです。
24 『さらばかれらはエホバてふ名をもちたまう汝のみ全地をしろしめす至上者なることを知るべし』。
25 エホバを崇拝することに関して特に挑戦的な質問を受けてきたのはだれですか。エホバに関するどんな質問に対する答えを聖書から得ますか。
25 特に西暦1919年以来,全世界で,少なくとも207の土地で,そのみ名を今日に至るまで広めかつ高めてきた崇拝者は,世界じゅうでエホバのクリスチャン証人として知られている人々です。当然の帰結として,次の挑戦的な質問を受けてきたのは,ほかならぬ彼らでした。「『エホバとはいったい何者』なので,すべての人が崇拝しなければならないのか」。これは妥当な質問です。権威ある答えを得るに価する質問です。然るべき説得力を持つ権威ある答えは,エホバの本である聖書から得る以外にはありません。聖書の中でエホバはご自身のことを,なんと言っておられるでしょうか。ご自分のみわざや人類との交渉について,どんなことを記録させておられますか。人間が時代を通じて崇拝してきた他の神々すべてとくらべてどのようにすぐれておられますか。世界の現状に対して,どんなことを行なわれるでしょうか。ご自分だけが,神としてわたしたちの崇拝を受けるにふさわしいことを,どのように証明されるでしょうか。それでは聖書から答えを得ることにしましょう。
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エホバを崇拝する側を選ぶ理由ものみの塔 1975 | 4月15日
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エホバを崇拝する側を選ぶ理由
1,2 (イ)人々は,「百聞は一見にしかず」ということわざを神に当てはめてどのように考えますか。(ロ)そのような人々は,ソ連のどの宇宙飛行士のことを思い起こさせますか。
「百聞は一見にしかず」。このことわざは,今日の唯物主義的な人々が神に対して取る態度をよく言い表わしています。人間の肉眼でも,今日使用されている最も強力な望遠鏡をもってしても,神を見ることができないために,彼らは神の存在を信じません。神がおられることを信ずる気持ちになれないのです。
2 そのような人々は,ソ連の共産主義者たちが打ち上げた,地球の回りを回るロケット宇宙船に乗っていた二人めの宇宙飛行士のことを思い起こさせます。1962年5月6日のAP通信によると,このソ連人の陸軍少佐はその日に,「神を信じないことを宣言」しました。「地球を17周する間に,『神も天使も』見なかった。……『ロケットはわが国の人民によって作られたものである。わたしは神を信じない。わたしは人を,その力を,その可能性を,そしてその理性を信ずる』」と言いました。―1962年5月7日付,ニューヨーク・タイムズ紙。
3,4 (イ)モーセはそのソ連の宇宙飛行士とはどのようにちがっていましたか。(ロ)モーセは神の何を見ることを願いましたか。そして何と言われましたか。
3 しかしみながみなそのような考え方をするわけではありません。たとえば,それら共産主義者の宇宙飛行士たちよりも有名で,人類のためにより多くの良いことを行なった人のことを考えてみましょう。その人はヘブライ人アムラムの子モーセです。このモーセについては,「彼は見えないかたを見ているように終始確固としていた」と証言されています。(ヘブライ 11:27)彼は目に見えないこの神に失望してはいませんでした。この神を信ずることを恥ずかしく思うようにもなりませんでした。自国民をエジプトにおける奴隷状態から導き出し,奇跡的に紅海を渡ってアラビアのシナイ山にたどり着いたあと,そしてその山の畏怖の念をもよおさせる光景のただ中で,十戒をしるした二枚の石板を与えられたあと,モーセにはこの見えない全能の神の存在を疑う理由はありませんでした。モーセが望んでいたことは,神をもっとよく知ること,この見えない神の栄光を見ることでした。
4 モーセは神のみ使いを通して,『願わくはなんじの栄光を我に示したまえ』と頼みました。これに対して神はお答えになりました。『我わが諸の善をなんじの前に通らしめ エホバの名をなんじの前に述べん』。しかしなぜそれだけしか示されないのでしょうか。エホバ神はモーセに説明されました。『なんじはわが面を見ることあたわず我を見て生くる人あらざればなり』― 出エジプト 33:18-20。
5 モーセの前でご自分の名前を宣言されたとき,エホバはご自身のことをどのように言われましたか。
5 このモーセの神について人がどう言うかは問題ではありません。わたしたちが重要視すべき問題は,神がご自身をどんな神として宣言されるかということです。神がご自身について言われたことは,そのときのできごとに関するモーセの記録の中に次のように記されています。『エホバ雲のうちにありて降り彼とともにそこに立ちてエホバの名を宣べたまう エホバすなわち彼の前を過ぎて宣べたまわく エホバ,エホバ 憐れみあり恩恵あり怒ることの遅く恩恵と真実の大いなる神 恩恵を千代までも施し悪と過と罪とを赦す者 また罰すべき者をば必ず赦すことをせず父の罪を子に報い 子の子に報いて三四代におよぼす者』― 出エジプト 34:4-7。
6,7 (イ)述べられた神の特質のどれを,今のような状態にあるわたしたちは示していただく必要がありますか。(ロ)悪を行なったことに対する処置を神がさし控えられないことは,悪の支配についてわたしたちに何を保証しますか。
6 このような神こそわたしたちが望む神,わたしたちが崇拝したいと思う神ではありませんか。エホバは『憐れみあり恩恵あり怒ることの遅く恩恵と真実の大いなる』神であられます。確かに,人間として不完全な状態にあるわたしたちは,神がそのような特質をわたしたちに対して示してくださることを必要としています。とはいえ神は,人間がどんなことをしようといつも,当然の罰も受けずに逃れるようなことは許されません。エホバは『過と罪とを赦す』神ですが,そのような悪い事には賛成されません。そのような事柄を意識しながら常習的に行ない,それに喜びを持つ者を,神は必ず処罰されます。
7 したがって,この一つのことは確かです。つまり神は,『怒ること(が)遅く』,過去6,000年の間,人類のあいだで不正や悪行がはびこるのを許してこられましたが,地上で悪が永遠に支配をつづけることは許されない,ということです。悪をたくらむ者悪魔サタンを神とするこの邪悪な事物の体制を,いつまでも『処罰せずにおく』ようなことを神は決してされません。今日のわたしたちにとって幸いなことに,神が悪の存在を許しておられた長い期間は終わりの時に来ています。
8 ノアの日のどんなできごとを考えるなら,世界的事物の体制に終わりをもたらす神の能力を疑う必要はなくなりますか。
8 わたしたちの世代のうちに,この世界的な事物の全体制に終わりをもたらす神の完全な能力は,一瞬も疑う必要はありません。預言者モーセにご自分の名前を宣べられた時より18世紀以上前,神はご自分が人々の世界全体を滅ぼす十分の力を持っていることを示す,歴史的実例を残されました。それはモーセの先祖ノアの時代のことでした。計算すると,その世界の破滅の年は,西暦前2370年になります。神にとっては,今日の人類の世界も,地球を取り巻く事物の体制の預言されている破滅に含められないほど大きくもなければ,広がりすぎてもいません。ノアの時代に,大洪水の水は地球全体を覆いました。
9 したがって神は今日でも昔と同じくどんなことを行なうことができますか。
9 その時の地球全体は,創造者が,「光あれ」,と言われた最初の創造の「日」の初めと同じような状態にありました。全地の面が水におおわれていました。(創世 1:1-3)洪水の水が地球全体に広がっていた間,ノアとその家族の作った巨大な箱船だけが,安全な状態で大水の上に浮かんでいました。箱船の中にいたノアの家族を除いて,地上の人間は一人残らず死んでしまいました。モーセに率いられて去り行くヘブライ人を追跡してきたファラオとその戦車隊が紅海に沈んだように,彼らも海のもくずと消えました。全能の神であられるエホバは今日でも,その大洪水の時に行なわれたことを行なうことがおできになります。つまり『暴虐に満ちた』世界的事物の体制を滅ぼすことができます。―創世 6:11–7:23。
新しい事物の体制の神
10 現在の事物の体制が滅びても,地球上は人の住まない空虚な場所とはなりません。なぜですか。したがってなぜわたしたちはエホバを崇拝しなければなりませんか。
10 神が悪の存在を許された期間は終わり,世界に臨む空前絶後の困難の中で神がこの古い事物の体制を滅ぼされても,わたしたちの地球は人の住まない空虚な場所とはなりません。神は以前のものに代わる理想的なものをお持ちです。それは新しい事物の体制です。その中では悪は許されません。この正しい新しい体制の創造者はその神でもあります。それは,わたしたちが創造者エホバを神として崇拝することを選ばねばならない,健全な理由です。
11 サタンは新しい事物の体制の神になりません。なぜですか。彼の崇拝者たちはどうなりますか。
11 その時には,現在の邪悪な事物の体制の神である悪魔サタンと,物質主義で信仰のない人々が今まで崇拝してきた他の偽りの神々はすべていなくなっているでしょう。かの「悪魔またサタンである龍,すなわち初めからのへび」は,全能の神の比ではないことがわかるでしょう。彼は神としての力をはぎ取られ,その配下の悪霊の使いたちすべてと共に,底知れぬ深みに投げ込まれます。(啓示 20:1-3)彼を自分の神として崇拝することを選ぶ人々は,いま世界にさし迫っている未曾有の大困難の中で,悪の支配するこの事物の体制と共に滅びてしまうでしょう。
12 サタンが人類に与えたものとは対照的に,エホバはどんな世界政府を人類に与えられますか。その政府はだれの手中にありますか。
12 「この事物の体制の神」悪魔サタンは,聖書の巻末の書の中で,七つの頭と十本の角を持つ「野獣」として表わされている世界的政治支配を人々に与えました。それはサタンの影響のもとに,神から離れた人類の「海」の中から上がってきました。(啓示 13:1-8)それと対照的に,エホバは,正義の新しい事物の体制の神として,圧制的で自己中心的な,そして不完全な男や女の政府よりもはるかにすぐれた世界政府を,人類に与えられます。それは次のように祈ることを弟子たちに教えた師の手中にある,天の政府です。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように」。(マタイ 6:9,10。ルカ 11:2)この祈りを教えた師とはイエス・キリストのことです。イエスは神の子でした。1,900年前,エホバは彼を地に遣わしてダビデ王の血肉の子孫とし,そうすることによって,ダビデの王統から離れないことになっていた永遠の王国の永遠の相続者とされました。このようにしてイエスは約束のメシアになりました。―ヨハネ 1:40-49。
13 油そそがれたイエスは,まちがった崇拝とこの世の政治に引き込もうとするどんな誘惑をしかけられましたか。
13 このメシアの王国の油そそがれた相続者でしたから,どうしてイエス・キリストがこの世の汚い政治とかかわりを持たれるでしょうか。イエスは「この事物の体制の神」から王国,あるいは世界帝国をもらうことを期待してはおられませんでした。イエスが神の聖霊で油そそがれてメシア政府の指命された王となられたあと,「この事物の体制の神」は,イエスを誘惑して偽りの崇拝ならびに滅びに定められているこの世界の政治に引き込もうとして,イエスに近づきました。この誘惑者は厚かましくも崇拝の問題を持ち出し,「またたくまに人の住む地のすべての王国を見せ」て言いました。「この権威すべてとこれらの栄光をあなたにあげましょう。それはわたしに渡されているからであり,だれでもわたしの望む者に,わたしはそれを与えるのです。それで,あなたが,わたしの前で崇拝の行為をするなら,それはみなあなたのものになるのです」。さてイエスは,だれを崇拝することを選ばれるでしょうか。
14,15 イエスはどの政府の指命された王として油そそがれていましたか。この世の王国すべてを与えると言われてもイエスはサタンを崇拝しませんでした。なぜですか。
14 イエスは,七つの頭と十本の角を持つ「野獣」がしたようなこと,つまり火のような色の龍,悪魔サタンから,政治権力と物質の王座と大きな権威を受けるようなことをされませんでした。(啓示 13:1,2)イエスはエホバを神として崇拝しておられたので,メシアの王国の支配者としてすでに油そそがれていました。そのことは,イエス・キリストに対して預言的に,「あなたは義を愛し,不法を憎んだ。それゆえに,神,あなたの神は,あなたの仲間にまさってあなたに歓喜の油をそそがれた」と言われていた通りでした。(ヘブライ 1:9。詩 45:7)イエスは「人の住む地のすべての王国」を与えると言われても,「この事物の体制の神」にひざをかがめるようなことは決してなさいませんでした。シナイ山でモーセを介して結ばれた律法契約の下に男子として生まれた者ですから,イエスは直ちに,申命記にあるモーセのことばを引用し,サタン悪魔に言われました。
15 「『あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,彼だけに神聖な奉仕をささげねばならない』と書いてあります」― ルカ 4:5-8。申命 6:13; 10:20。
16 地上の政府のために運動する代わりにイエスはどんな音信を宣べ始められましたか。なぜですか。
16 イエス・キリストは少しも動揺することなく,義の新しい事物の体制の神を支持されました。イエスにとってこのことは,この神,すなわち主権者なる主エホバのみ手より与えられたメシアの王国にあくまでも忠実であることを意味しました。ですからイエスは,人の住む地のどの王国のための運動もせず,先駆者バプテストのヨハネが全イスラエルに宣べ伝えていた,「あなたがたは悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」という音信を宣べ始められました。(マタイ 4:17)天のメシアとなるためにはイエスは,その天の王国,つまり神の王国に対する献身を全うして命を捨てなければなりませんでした。
17 イエスは神の王国のためにどのように証言されましたか。
17 ユダヤ州を治めていたローマの知事ポンテオ・ピラトから,カエサルの帝国を脅かす王であるのかどうかを尋ねられた時,イエスは答えました。「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちにわたさないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」。(ヨハネ 18:36)このようにしてイエスは,神の王国のために,ピラトに証言されました。
今こそ選択すべき時
18 人類の歴史の中でイエスはどんな役割を演じられましたか。また神を信じ崇拝していることをどのようにして証明されましたか。
18 このイエス・キリストは歴史上の人物です。イエスを信じないユダヤ人や異邦人が,伝説的人物あるいは神話的な人物として一蹴できるような存在ではありません。イエスが19世紀前この地上に存在していたことについては,歴史に残る他のどの人物のそれよりも多くの証拠があります。イエスの到来は,宗教に関してのみならず,人類のための世界政府,すなわち神の王国に関しても,人類史に転換期を画しました。イエスは神が定めておられた時に,つまり聖書中に前もって示されていた時に,地に来られました。イエス・キリストにとり,神が存在するかどうかについては何の疑問もありませんでした。イエスは神のところから来られました。イエスは神を見,神と話され,神と共に働いてこられました。人間になる前の天における生活のこうした事実に注意を引かれた時,イエスはうそを言っておられたのではありません。地上におられた時には,人間の視力しか持たない一個の人間でしたから,エホバ神を見ることはできませんでしたが,それでもイエスは引き続きエホバ神を信じ,エホバ神を崇拝されました。多数の正直な証人たちによって証しされている,地上におけるイエスの働きは,イエスが神を信じておられたこと,そして神がイエスと共におられたことを証明しました。―使徒 10:38。
19 神の存在を信ずることに関し,わたしたちがだれの手本に従うかについて,どんな質問が生じますか。
19 イエスは,目に見えない悪霊たちよりも,ご自分の父であるエホバ神をよくご存じでした。しかも悪霊たちは,神がおられることを信じています。神を信じない人々はそれを聞くと,冷笑するかもしれません。しかしイエス・キリストの地上の異父兄弟ヤコブは,キリストの弟子と自称していた人々に対し,「あなたは,ただひとりの神がおられることを信じていると言うのですね。なるほどそれはりっぱです。ですが,悪霊たちも信じておののいているのです」と言いました。(ヤコブ 2:19)このことばによると,超人間の悪霊のほうが,神を全く信じない非常に多くの男女よりもましです。この点,わたしたちは,だれの手本に従うのが安全でしょうか。神を信じない男女の手本ですか。あるいは,信ずるけれども,おののくだけでそれ以上のことは何もしない悪霊の手本ですか。それとも,霊感のもとに書かれたクリスチャン・ギリシャ語聖書の27の書が地上におけるその私生活を証ししているイエス・キリストの手本ですか。
20 だれが最もよく事を行ないましたか。神を信じない,そして信仰にふさわしい業をよしとしない人々ですか。それとも神を信じその信仰を証明したイエスですか。どのように。
20 イエス・キリストは信じておられました。しかしそれだけでなく,自分の信仰の証明となる事柄を行なわれました。イエスは信仰のない男女よりも,あるいは悪霊よりもうまくやれなかったでしょうか。だれの信仰とわざの生涯が,将来は言うに及ばず,今までの人間の歴史においてさえ,人類により大きな益をもたらす結果になったでしょうか。これらの質問に対して事実に即した答えを出すとすれば,最も首尾よく事を行ない,最も大きな善を行なった人としてイエス・キリストを挙げなければなりません。イエスが今日の地位におられるのは,地上において,神の王国を忠節に支持して殉教の死を遂げるに至るまで,信仰と業の生涯を送られたためです。イエスは今日,イエスの天の父エホバ神ご自身を除けば,全天全地において最高の地位を占めておられます。(フィリピ 2:5-11。ペテロ第一 3:21,22)もし神が存在しないなら,そしてもしエホバが死者を天の命に復活させることのできない神であったなら,イエスは今日そのような高い地位に上げられることはなかったでしょう。―エフェソス 1:19-22。
21 では,永遠の命を心から望む人々は,だれの模範に従うべきですか。
21 信仰とわざの生涯が,イエスのために最善の結果をもたらしたことは,反論の余地のないところです。それは宇宙内の他のあらゆる被造物が享受することを望み得る何物をもしのぐものです。イエスの生涯は,満ちあふれる幸福の中で与えられる永遠の命を心から望む,分別ある人々すべてが従うべき模範です。イエスの模範に従うことは実際的なことであって,単なる理想的な事柄ではありません。イエスは,悪霊たちの支配者であるサタンの誘惑に直面しても,エホバを自分の神として崇拝されました。
22 ではエホバとはどんなかたですか。わたしたちがエホバを崇拝すべきどんな二つの非常に大切な理由がありますか。
22 『「エホバとはどんな方」なので,すべての人は崇拝しなければなりませんか』という質問に対し,わたしたちは事実に即した答えをすることができます。すなわちエホバは主イエス・キリストの神であられ,このこと自体,すべての人がエホバを神として崇拝しなければならない非常に重要な理由だということです。神の義の新しい事物の体制における永遠の命を望む人はみな,神のすべての創造物の中で主要なかたである,イエス・キリストの模範に従わねばなりません。また,エホバがメシアの王国をイエス・キリストの手中に置かれたという事実も,すべての人がエホバ神を崇拝することを緊急な問題としています。
23 神の存在を否定する人々も神に対する責任を逃れることができないのはなぜですか。神を信じない人々はどのように行動しますか。
23 今日の人々は,エホバの存在を信じず,エホバが神であることを否定すれば,エホバに対する責任は逃れられる,と考えています。しかし彼らが,彼らの目に見えないかたに対する責任を逃れるということは,彼らの側の全くの想像にすぎません。イエス・キリストの先祖のひとりであったダビデ王は,詩篇 14篇1節と2節の中でこう述べています。『愚なるものは心のうちに神なしといえり かれらは腐れたり かれらは憎むべき事をなせり 善を行なう者なし エホバ天より人の子をのぞみみて悟るもの神をたずぬる者ありやと見たまい(ぬ)』。ダビデ王は,彼の時代においてすら,エホバの存在を否定する者たちが破壊的に行動するのを見ていました。天におられるエホバ神は,彼らを観察しておられます。エホバは,彼らがエホバのつくられた法則の範囲内に閉じ込められており,それらの法則のよりすぐれた働きから逃れることができないのをよくご存じですから,彼らを笑われます。そのような法則を無視したり否定したりするので,彼らの上には害しか臨みません。
24 今日の最重要の問題は,宗教だけに関係しているものではありません。なぜですか。モーセに対するファラオの態度は,今日の政治家たちの態度をどのように反映していますか。
24 今日全宇宙の前に置かれている最重要の問題は宗教だけではありません。政府も問題です。『エホバは誰なればか我その声にしたがうべき』という質問を預言者モーセの面前にたたきつけたのは,当時の指導的政治家であったことを思い出すとよいでしょう。(出エジプト 5:2)そのような質問をしたエジプトのファラオは,清い宗教の神に対してのみならず,統治者,すなわち宇宙の最高支配者に対しても公然と反抗したのです。またエホバはその時,イスラエル民族の上にご自分の王権を立てようとしておられました。今日の政治家や彼らの愛国的な支持者たちについても同じことが言えます。エホバの存在と,神としてのエホバの能力を問題にするとき,彼らは宗教の分野を相手取っているだけではありません。彼らは政府をも相手取っているのです。今日では彼らは,神のメシアの政府,すなわち神の王国によって代表される,神の主権を相手取っているのです。これは現実の政府であり,彼ら自身の政府よりも高く強力な政府です。
25 (イ)だれにより,またいつから,そのメシアの政府は諸国民に宣べ伝えられていますか。(ロ)諸国民に対するそのような通告についで,その王国は何をするように命令されますか。政治家たちはどんな影響を受けますか。
25 とくに第一次世界大戦の終わった1918年以来,エホバのクリスチャン証人は,その政府,すなわちキリストの手中にある天の神の王国を宣べ伝えてきました。ですからそのメシアの王国は,過去56年の間,たいていの場合にただ宣べ伝えられてきたにすぎません。(マタイ 24:14。マルコ 13:10)しかし,まもなくその王国がすべての政治国家に証しとして宣べ伝えられることは終わるでしょう。諸国民に対するそのような事前の通告につづいて,エホバのメシアの王国は行動を起こすべく命令を受けるでしょう。その行動は,エホバが真の預言の神であること,真実で誤りのない聖書の預言を霊感によって書かせたかたであることを,証明するでしょう。メシアの王国はそれらの預言を成就することによって,その証拠を提供するでしょう。その時それら不遜な政治家たちは,エホバがどんなかたであるか,またエホバの崇拝を軽べつする者がどうなるかを学び知るでしょう。王国の活動は彼らをエホバの崇拝に改宗させるのではなく,彼らを滅ぼしてしまうでしょう。―ダニエル 2:44。
26 (イ)王国は,この事物の体制の見える運営者を滅ぼすほかに,この体制の神をどう処置しますか。(ロ)今日地上にいる王国の臣民は何に導き入れられますか。どのように?
26 そのメシアの王国は,この邪悪な事物の体制の見える運営者たちを滅ぼす以上のことをします。現在の事物の体制の背後にある,目には見えないけれども実在する力,すなわち「この事物の体制の神」悪魔サタンを,その配下の悪霊もろとも底知れぬ穴に閉じ込めてしまいます。(啓示 20:1-3)メシアの王国は,キリストの共同相続者である14万4,000人の最後の残りの者と,その王国の今日の地上の臣民である「大群衆」とを,人類の前途に横たわる未曾有の「大患難」の時に安全に守るでしょう。(ペテロ第二 3:11-15。啓示 7:9-17)それら地上の「大患難」生存者を,その王国は約束されていた新しい事物の体制に導き入れるでしょう。その体制においてはエホバが神また宇宙主権者となられます。
27 啓示 21章3節から5節によると,その神を持つその新しい体制は,地の住民にどんな相違をもたらしますか。
27 このことは,エホバを神とする体制の地の住民すべてに相違をもたらすでしょうか。この質問に対する答えとしては,啓示 21章3節から5節に記されているもの以上によい答えはありません。「わたし[使徒ヨハネ]はみ座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ! 神の天幕が人とともにあり,神は彼らとともに住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らとともにおられるであろう。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである』。そして,み座にすわっておられるかたがこう言われた。『見よ! わたしはすべてのものを新しくする』。また,こう言われる。『書きなさい。これらのことばは信頼できる真実なものだからである』」。
28 「『エホバとはどんな方』なのですべての人が崇拝しなければならないか」という質問に対し,わたしたちはどう答えますか。
28 では,「『エホバとはどんな方』なのですべての人は崇拝しなければならないのですか」。古代エジプトのファラオよ,今日の物質主義的な人々よ,耳を傾けてよく聞きなさい! エホバこそ「永遠よりとこしえまで」神であられ,あらゆる崇敬を受けるにふさわしいかたであられます。(詩 90:2)エホバは全宇宙の最高支配者であられます。エホバはわたしたちの創造者,メシアの王国の造り主であられます。この王国を通して地の全家族,すなわち生者も死者も祝福を受けるのです。―創世 12:3; 22:18。
29 もしそれを本当に信ずるなら,詩篇作者のどんな勧めに答え応じますか。
29 わたしたちはこのことを信ずるでしょうか。信じます,と答えるわたしたちは,それにふさわしい業によって自分の信仰を示すでしょうか。もしそうであれば,わたしたちは,霊感を受けた詩篇作者の次の勧めに,真心をこめて答え応ずるでしょう。『いざわれら拝みひれふし 我らをつくれる主エホバのみまえにひざまづくべし 彼はわれらの神なり われらはその草苑の民 その手のひつじなり』― 詩 95:6,7。
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