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自然界に見られる意図的な造り ― それは何を証明するか目ざめよ! 1983 | 1月8日
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自然界に見られる意図的な造り ― それは何を証明するか
見事な造りの物を見れば,だれしも驚嘆の声を上げるものです。それはきれいに飾られた部屋かもしれず,花やコンピューターかもしれません。立派な造りは人々の心に訴えます。
造りと言えば,神の存在を証明するために,意図的な造りは設計者の存在を意味する,という論証方法がしばしば用いられます。そして今日の様々な科学的発見はこの論議を強化していると考える人は少なくありません。なぜならそうした発見は自然界がどれほど複雑で巧妙にできているかを認識するのに役立つからです。
生きた一つの細胞の世界でどんなことが発見されたかについて考えてみましょう。今から1世紀前には,細胞は単純な細胞膜に覆われた原形質の小さな塊であるとみなされていました。今日では,この外側の細胞膜でさえ驚嘆すべきものであることが知られています。その膜は,物質を細胞内部に取り入れたり細胞から排出したりすることを調整しています。そして,細胞の内部には相互に作用する驚くほど多数の物質が収められています。種々の蛋白質,酵素,青写真の原図とも言えるDNAなど,非常に複雑な物質がさらに沢山収められています。
型
原子や細胞などの非常に微小な世界をよくよく見るにしろ,幾十億もの星や星雲のある畏怖の念を抱かせる宇宙を詳しく調べるにしろ,そこにははっきりとした型があります。わたしたちは秩序,知的な働きを,そうです意図的な造りを観察するのです!
日常生活で意図的に造られた物を見ると,わたしたちはそれが知的な人間によって造られたものであることをためらわずに認めます。家を見ると,知的な建築者がいたことを認めます。腕時計を今はめておられるかもしれませんが,わたしたちはそれが時計製造業者の作であることを認めます。テーブルの上に青写真があるのを見れば,それが製図工によって引かれたものであることがうかがえます。画廊で絵を見れば,それはだれかの作品であることが分かります。テーブルやいすや歯ブラシや鉛筆などにさえ,いずれも人間の設計者と製作者がいます。では,『こうした物すべてはだれが造ったのか』という問いに対して,『だれが造ったのでもない。ただ偶然に,独りでに存在するようになったに過ぎないのだから』という答えを得たら,あなたはどう思われますか。
ところが,そのようなものはいずれも,原子や生きた細胞,植物,動物,人間,宇宙などと比べると,造りや機能の点で相対的に単純なものばかりです。相対的に単純な物に設計者や製作者がいなければならないのなら,それよりはるかに複雑な物に設計者や製作者がいなかったと結論するのは道理にかなったことでしょうか。
こうした物をどのレベルで観察するにせよ,神について次のように語ったパウロの言葉に同意するよう心を動かされる人は少なくありません。「神の見えない特質,すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言い訳ができません」― ローマ 1:20。
しかし,こう尋ねる人がいるかもしれません。この論証の方法がそれほど論理的であるなら,設計者であられる神の存在を確信する人がもっといないのはなぜだろうか。
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多くの人が確信を抱いていないのはなぜか目ざめよ! 1983 | 1月8日
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多くの人が確信を抱いていないのはなぜか
自然界に見られる造りを観察しても,設計者である創造者の存在を信じない人々は少なくありません。なぜ信じないのでしょうか。
信仰のこうした欠如が見られるのは,意図的な造りには設計者が必要とされるという論議をだれかが論破したからでしょうか。この論議に反する証拠が非常にはっきりしているために,自然界に見られる造りはもはや知識と理性を持つ人々を納得させることができないのでしょうか。
それともこの論議は依然として確かなもので,これまでにも増して強固なものになっているでしょうか。むしろ使徒パウロが述べたように,明らかに見られる事柄を受け入れようとしない人々は『言い訳ができない』と言えるのでしょうか。
歴史から見た意図的な造り
この問題について簡単に歴史を振り返ってみると助けになるでしょう。まず最初に,どの時代にも無神論者は大勢存在していました。しかし,1世紀ほど前まで,そうした人々が宗教および科学思想に重大な影響を及ぼすことはできませんでした。
アイザック・ニュートン(科学著述家アイザック・アシモフが「この世に生を受けた中で最大の科学的頭脳の持ち主」と呼んだ人物)のような過去の偉大な科学者たちは神を信じていました。そうした人々は,不信仰でなければ自分たちの科学的能力が疑われるとは考えませんでした。
それどころか,ニュートンをはじめ他の大勢の科学者,そして他の分野の偉大な思想家たちは,熟達した設計者であられる神の存在の証拠として自然界に見られる造りを指摘しました。幾世紀にもわたって,それが支配的な考え方でした。
自然界に見られる暴力行為
その後,宇宙は愛ある設計者のみ業であるとの概念にある種の変化が生じました。
19世紀の中葉までに,ダーウィンやマルサス,スペンサーなどの著述家たちが自然界に見られる暴力行為に注意を向けていました。そうした人々は次のように言いました。大きな動物が小さな動物をえじきにするのは事実ではないだろうか。ジャングルでは日夜生存のための激しい闘争が繰り広げられているのが事実ではなかろうか。
確かに,動物が互いに捕食しているのは事実でした。それで,この論証の方法は次のように続きます。生存のためのこのどう猛な闘争は地上の生命に関する動かしがたい真理ではないだろうか。人類の領域でさえ,歴史を形造る真の力となったのは,動物的な戦争や利己的な闘争,また“ジャングルのおきて[弱肉強食]”ではないだろうか。愛ある偉大な設計者に人が期待するような調和と平和は,自然界に表明されていませんでした。
ダーウィンの友人のジョージ・ロマネスは自然を描写して次のように述べています。「歯やつめが動物をほふるために研ぎ澄まされ,かぎ形の器官や吸盤が苦しみを与えるために形造られているのが分かる。至る所に恐怖と飢えと病気の支配が見られる。血が流され,四肢が恐怖に震え,息を切らせ,残虐な拷問の死に面して弱々しくその罪のない目を閉じる」。
目的のない闘争と適者生存 ― この関係は神の意図によるものではない ― というダーウィンの説が一気に広く受け入れられるようになりました。そしてそこから新しい歴史的な概念,社会ダーウィン主義が生まれました。
H・G・ウェルズが自著「世界史大系」の中でこの状況をどう評価しているかに注目するとよいでしょう。「1859年[ダーウィンの『種の起源』が出版された年]以降,信仰は真の意味で失われた。……19世紀末期の有力な人々は,自分たちが有力になったのは強くて悪知恵にたけた者が弱くて信じやすい者の上手に出る生存競争によると信じていた。……そして野犬の群れの中で年若くて弱い者を脅して服させることが全体の益のために必要なのと同じように,そうした人々の目には人間の群れの中でも大きな犬が脅して服させるのは正しいことと映った」。
この考え方をすぐに受け入れた人は少なくありませんでした。その理由の一つは,多くの教会が科学的な探求を抑圧したことに対してそうした人々がすでに抱いていた無理からぬ反抗心にありました。さらに悪いことに,そうした人々は著名な諸宗教が戦争と流血を助長し,正当化しているのを見ていました。それで,ウェルズはいみじくもこう述べています。「宗教に含まれている真の意味での金のように価値のあるものは,多くの場合,それが長い間収められていた使い古しの財布もろとも捨て去られてしまった」。
『神に責任がある』
その時,意図的な造りは設計者の存在を証明しているという論議について,次のような理屈が付けられました。『そうしたつめやかぎ状の器官や歯,恐怖の支配や飢えや病気が神の意図によって造られたのなら,あなたの言うこの神は苦しみと暴力に対して責任があることを認めなければならない。それなのに,あなたは神は愛であるという。一体どちらなのか』。
そのような人々はそれからこう結論付けます。『ほらご覧なさい。納得のゆく説明は,闘争と適者生存,導かれることのない盲目的な進化にしかないのです』。
こうして,意図的な造りイコール設計者の存在という論議は葬り去られたように思われました。その論議を用いれば,残忍さの責任を神に帰することになるという訳です。そして例のごとく,惨めなことに,キリスト教と異教の宗教指導者たちはいずれもこの問題に対して本当の意味での答えを何一つ与えませんでした。
それ以来この型はほとんど変わりませんでした。設計者に関する問題が持ち上がると,大抵の場合に自然界の暴力に関するジレンマが引き合いに出されました。例えば,哲学者のバートランド・ラッセルは自著「わたしがクリスチャンではない理由」の中で次のように述べました。
「自然の造りに基づくこの論議を詳しく調べる時,全知全能の方が幾百万年も掛けて造り出し得たものがせいぜい,あらゆる欠陥を備えたあらゆる物の存在するこの世界でしかないということを人々が信じられるのは実に驚くべきことである。わたしにはとうていそんなことは信じられない。自分が全知全能で,自分の世界を完全なものにするために幾百万年もの時間を与えられたとしたら,クー・クラックス・クランやファシスト以上のものを造り出せないだろうか」。
この考え方をもっと深い所まで分析してみることにしましょう。この考え方は,自然界に見られる造りには設計者が必要であるという概念を否定するためにしばしば用いられるからです。
[5ページの図版]
人間や動物の間に見られる“ジャングルのおきて”は,愛ある設計者という考えとどのように調和するのだろうか
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それでもやはり意図的に造られている!目ざめよ! 1983 | 1月8日
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それでもやはり意図的に造られている!
動物や人間の領域に闘争が見られるために,設計者,つまり創造者の存在が本当に除外されてしまうのでしょうか。問題を詳しく調べてみると,決してそうではないことが分かります。意図的な造りには設計者が必要という論議は本当の意味で論ばくされてはいないのです。
確かに,設計者の存在を論破するために自然界に見られる闘争を用いても,この問題に取り組んでいることにはなりません。設計者の存在を論破するには,意図的に造られた物の用い方について,倫理的判断を下す以上のことが求められます。
意図的な造りは設計者の存在を意味する
例えば,ジェット機を見ると,それが旅客だけでなく原子爆弾を運ぶ手段にもなり得ることを考えて,不快な気持ちになることがあるかもしれません。しかし,どんな役割を果たすかは別にして,近代的なジェット機は非常に複雑な造りになっています。ジェット機にはコンピューターや航行用の装置,強力なエンジンなど高度に精巧な装置が備わっています。
単にジェット機が殺人や破壊に用いられることがあるからという理由で,それが理知ある人間の設計の所産ではないという人がいるでしょうか。正気の人で,そうしたジェット機がくず鉄の山から独りでにでき上がったものだと言う人がいるでしょうか。
それが現在どんな役割を果たしているかにかかわらず,意図的に造られたものは意図的に造られたものなのです。造りが複雑であればあるほど,またそのすべての部分が同時に作動しなければならないようであればあるほど,理知ある設計者の存在を認めざるを得なくなります。人間の経験したいかなることを取ってみても,この結論を否定するものではありません。
現在互いに捕食し合っている動物にこの原則を当てはめることをためらう理由はありません。そうした動物の歯やかぎつめは明らかに意図的に造られたものです。やはり恐ろしいことに用いられる場合もある人間の手や脳についても同じことが言えます。
こうした器官がどのようにして存在するようになったかを考えてみるとよいでしょう。受精した性細胞が増殖を始め,自らの複製である細胞の塊を生産します。次いでそれらの細胞は分化し始め,特殊な細胞や組織だけしか生産しなくなります。それは動物の毛皮のように柔らかいものであることも,歯やかぎつめのように硬くてかみそりのように鋭いものであることもあります。
それらはいずれも,この上なく見事な意図的な造りの現われにほかなりません。そのような働きの誉れを設計者に帰そうという気持ちにならない人々でさえ,そうした作用を描写するのに最高度の表現を用います。例えば,タイム誌は細胞の分化について次のように述べています。「胚の段階の初期の重大な瞬間に,同一の細胞が奇跡的に(ほかにこれを言い表わすぴったりした言葉がない)特殊な役割を持つようになる。例えばある細胞は心臓の組織を形造るようになり,ほかの細胞は肝臓や皮膚の組織を形造る」。そのような奇跡は,奇跡を行なう者,つまり設計者の存在を雄弁に物語っているのではないでしょうか。
わたしたちは,カメラやラジオ,ロボットの人工的な手,ポンプ,コンピューターなどを見ると,すぐに設計者がいることを認めます。こうしたものは明らかに理知ある人間の所産です。では,目,耳,手,心臓,脳など,それに似ていながら,はるかに複雑なものが,はるかに偉大な理知を持つ方によって意図的に造られたのではないなどと,どんな論法で言えるのでしょうか。
問題
クー・クラックス・クランやファシストについてバートランド・ラッセルが提起した問題は,設計者が存在するかどうかに関する論議とは関係がなく,むしろ,意図的に造られたものの使い方と関係があります。人間の場合には自由意思が関係してきます。この自由意思はそれ自体,意図的な造りのすばらしい所産です。しかし,人間はなぜこれほど多くの場合に,悪を行なうために自由意思を用いてきたのでしょうか。また,動物は殺したり傷付けたりするよう意図的に造られていたのでしょうか。また,設計者はどうしてこうしたことすべてを許されたのでしょうか。
実際のところ,問題となっているのは設計者が存在するかどうかということではなく,むしろ倫理上の問題なのです。人間に生来植え付けられている正邪の感覚が非常に強いため,暴力と殺りくおよび神が悪を許しておられることなどに関した問題をきちんと処理していない説明では満足しないことがあるのです。
次の記事は,自然界において神の善良さとは相反するような仕方で現在作用している事柄に関する問題を取り上げています。しかし,一方では,意図的な造りイコール設計者という論議は依然として論ばくされてはいません。「宇宙:意図が働いていたのか偶然か」という本は次のように述べています。
「自然界に見られる意図的な造りを認めることは,科学史の上で10年や20年の研究に基づく短命な科学的結論ではない。ほんの幾つかの新しい事実が明らかになっただけで,いつでもひっくり返されてしまうような結論ではない。むしろ,幾千年もの試みを経てきた結論である。これは非常に確かな結論であるため,ある日それが大いなる誤りであったことが明らかになろうものなら,人間はほかのどんな結論であれ,思考によって確かな結論に達することができるかどうかに疑問を抱く根拠をすべての面で持つことになるであろう」。
自らの論理的思考力に導かれて,「言うまでもなく,家はすべてだれかによって造られるのであり,すべてのものを造られたのは神です」と語った使徒パウロと同じ結論に達したとしても,その論理的思考力を信頼することを恐れてはなりません。―ヘブライ 3:4。
では,自然界に見られる殺りくと暴力行為はどうなるのでしょうか。それも愛ある神の意図的な造りの一部と言えるのでしょうか。
[8ページの拡大文]
幾千年にもわたって人々は自然界に見られる意図的な造りを認めてきた
[6ページの図版]
ジェット機は人間を運ぶものとも核爆弾を運ぶものともなるとは言え,どちらの種類の航空機も理知ある意図的な造りの所産である
[7ページの図版]
わたしたちはこうしたものが理知ある人間の設計者の所産であることを認める
それよりもはるかにすばらしいこれらのものは,より優れた理知ある実在者によって設計されたに違いない
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自然界すべてが調和するとき目ざめよ! 1983 | 1月8日
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自然界すべてが調和するとき
自然界に見られる意図的造りには理知ある設計者が必要とされる,ということを示す証拠があり余るほどあるのに,多くの人は神の存在を信じません。愛ある創造者は,暴力や殺りくや悪が地上にこれほど広まることを意図しておられたはずがないと考えます。
では,神が暴力や殺りくを意図しておられなかったとしたらどうでしょうか。人間の間に見られるはなはだしい悪の責任が神になかったとしたらどうでしょうか。それどころか,神がこうした事柄を嫌悪しておられ,ご予定の時にそうした事柄を完全に終わらせることを約束しておられるならどうでしょうか。
責任はだれにあるのか
ある会社は野菜を切るための包丁を製造するかもしれません。ある人がその包丁を使って別の人を殺したとしたら,その責任はだれにありますか。罪ありとされるのは包丁の製造業者ですか。いいえ,罪があるのは包丁を誤用したその人です。
人間の手は非常に多くの建設的な仕事をするためにすばらしい仕方で用いられています。家を建て,木を植え,針を手に取り,赤子を優しく抱くのは人間の手です。では,ある人が別の人の首を締めるのに自分の手を用いるなら,その手の造りがよくなかったとして非難できるでしょうか。いいえ,悪いのは設計者ではなく,所有者です。
ある人が美しい家を建て,それを任された借家人がその家を破壊するなら,悪いのはだれでしょうか。その犯罪の責任は建築した人にありますか。いいえ,その悪行の責任は破壊者にあります。そして,借家人が非行を犯したというだけの理由で,建築者が存在したことを否定したりはしないはずです。
潔白な側を非難するのは道理に反し,公正なことでもありません。神が良い目的のために設計された肢体や器官が現在異なった仕方で用いられているからといって,そうした肢体や器官に罪ありとするのは道理にかなったことではありません。
聖書の中には,地上の人間と動物に対する神の目的および人間や動物が今日混とんとした状態に置かれている理由を説明する,はっきりした記録が収められています。さらにその記録は,自然界全体が間もなく完全な平和と調和に至ることについて述べています。
そのような造りにはなっていない
創造された人間や動物は常に現在のような仕方で行動してきたのでしょうか。それらの被造物は常に他を傷付け,障害を負わせ,殺害してきましたか。そうするように造られていたのでしょうか。
こうした質問に対する答えは,いいえ,決してそうではありません! というものです。
実のところ,神はこの現在の体制の支配者でもあられるのでしょうか。他の国民に対する諸国民の行動を神は導いておられるのでしょうか。こうした質問に対する答えもやはり,いいえ,決してそうではありません! というものです。
では,ずっと昔はどうだったのでしょうか。どうして物事は現在のような状態になっているのですか。実際には,一体だれがこの世を支配しているのでしょうか。また,神は一体どのようにして自然界全体に完全な平和と調和をもたらされるのでしょうか。
昔の状態
神が人間と動物をこの地上に生きるように造られた時,そうした人間や動物がほかのものを殺すことを意図されませんでした。動物も人間も互いに平和な関係を持つよう造られました。ですから,事態は今日の状況とは全く異なっていました。記録はこう述べています。「神は自分の造ったすべてのものをご覧になったが,見よ,それは非常に良かった」― 創世記 1:31。
被造物である人間は,「海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物」を愛をもって服従させることになっていました。(28節)エデンの園にいた動物たちはいずれも殺りく行為を行ないませんでした。そうした動物は人間にとって脅威となる存在ではありませんでしたし,人間もほかの動物にとって脅威とはなっていませんでした。
神の言葉聖書は最初の人間たちに関してはっきりとこう述べています。「わたしは,全地の表にあって種を結ぶすべての草木と,種を結ぶ木の実のあるあらゆる木をあなた方に与えた。あなた方のためにそれが食物となるように」。(創世記 1:29)ですから,人間は動物を食用に供してはいませんでした。
動物は何を食べていたのでしょうか。霊感を受けた記録はこう述べています。「地のあらゆる野獣と,天のあらゆる飛ぶ生き物と,地の上を動き,その内に魂としての命を持つすべてのものに,あらゆる緑の草木を食物として与えた」。あるいは,「今日の英語聖書」の翻訳によれば次のとおりです。「すべての野生動物とすべての鳥のために,わたしは草と葉の茂った植物とを食物として与えた」― 創世記 1:30。
このように神は人間の造りをお定めになったとき,エデンと呼ばれる平和な楽園に人間を置かれました。神は人間が動物と平和に暮らし,動物や人間の間に食物をめぐる暴力行為や殺りくが起きないようにお造りになりました。そして人間は,自分たちや動物,それに庭園のような楽園の世話をしてその状態を保ち,やがて全地に広まって自分たち,また自分たちの子孫で地を覆うことになっていました。―創世記 1:27,28。
かぎ
人間はどのようにしてこの平和な楽園の状態を保ち,与えられた見込み通りに地球で永遠に生きられるのでしょうか。神の律法に従うことによります。それがかぎです。それはどうしてそれほど大切なのでしょうか。神は,人間が自分たちの造り主から独立してもなおうまく生きていけるような造りに人間を創造されなかったからです。聖書ははっきりとこう述べています。『地の人の道はその人に属していません。自分の歩みを導くことさえ,歩んでいるその人に属しているのではありません』― エレミヤ 10:23。
人類の諸問題の発端は,わたしたちの最初の親が自らの自由な道徳能力を誤用したことにありました。二人は反逆した霊の被造物にたぶらかされて,神の助けなしに自分たちで正邪を判断できると信じ込まされました。そして神から独立することを選んだのです。しかし,それは設計者の責任ではありません。「そのみ業は完全,そのすべての道は公正である。忠実の神,不正なところは少しもない。義であり,廉直であられる」と,聖書は述べています。反逆の結果に対する責任は反逆者たちにあります。「彼らは自ら滅びとなることを行なった。彼らはその子供ではない。その欠陥は彼ら自らのもの」― 申命記 32:4,5。創世記 2:15-3:24。
人間が独立を望んだので,神はそれを人間にお与えになりました。しかし,もはや完全な状態に人間をとどめておくことはされません。そのため,不完全さと死がもたらされました。(ローマ 5:12)そして神は,独立の道が人類に,また動物や地球にどれほどの損害を与えるかをすべての者が知るよう,こうした状態を一定の期間お許しになったのです。神はこれまで幾千年にもわたって,反逆の悲しい結果がこれを最後に明らかになるようにするため,こうした事態を許してこられました。
このように,人間は神とその律法から独立したために,不完全と暴力と死の道へ向かうようになったのです。また,人間が不法へと向かうにしたがって,地上の被造物の間にもやはり混とんとした状態が生じるようになりました。人間は愛のある仕方で動物を支配することができなくなりました。人間が自分たちの間の平和を保つことができないのですから,動物が同じような状態に陥ったとしても何ら驚くことはありません。
人間が最初菜食だったように,エデンでは草食だった動物も,別の動物を食べて生きるようになり,できる時には人間を食べる動物まで現われました。(創世記 1:30)そして,人間が生き延びて行くための譲歩として,大洪水後人間には動物の肉を食用に供する権限が与えられました。―創世記 9:2-4。
殺すための造りではない
では,動物や人間の体の特徴で,傷つけたり殺したりするために用いられているものはどうなのでしょうか。神は創造に際して実に多種多様な特徴をお与えになったので,その多くは新たな状況に適応して生存していくのに役立つように用いることが可能でした。
例えば,ほとんどの動物は,今日に至るまでそうであるように,草食のままにとどまりました。その一例は恐ろしいきばを持ったゴリラです。そのきばは今でも大きな植物を引き裂いて食べるのに用いられています。しかし,肉食へと自らを適応させていった動物もいました。それでも,捕食動物は動物全体の中ではごくわずかの割合しか占めていません。
人間もやはり適応しました。不完全でわがままなゆえに,人間は傷つけたり殺したりするためにしばしば自分たちの頭脳と手を用います。人間はほかの人間を食用に供して,人食いまでしました。また,肉はエデンでの人間の食物に含まれていなかったとはいえ,人間の歯は肉食に適応することが可能です。
しかし,“自然の平衡”はどうなるのでしょうか。殺し合いがなければ,どのようにしてこの平衡が保たれるのでしょうか。一つの点として,地上で永遠に生きることになっていたのは人間でした。動物にはそのような約束が与えられていませんでした。動物はその寿命が終われば死ぬことになっていました。
また,多くの動物にはその数が多くなりすぎると自分たちの生殖を減らす生来のメカニズムが備わっています。しかも,神が直接関与しておられない今でさえそうなのです。確かに,全地が平和なエデンのような状態に戻される神のご予定の時が来れば,動物と人間の偉大な設計者にとって,暴力行為なしにその数を抑制するのはわけのないことです。
神が凶暴な動物を服させる力を持っておられることを示す例は,ノアの箱舟の中で約1年にわたり獣や人間の間に平和が存在したことに見られます。
今日存在している物事はエデンの楽園での様子とは異なることを念頭に置いておかなければなりません。その環境は大いに異なっていました。食べ物の多くも異なっていたことでしょう。がんじょうな歯を持つ動物はきっと食べにくい物を常食としていたのでしょう。その歯はそうした食べ物に合った造りになっていました。
なるほど,エデンでの正確な状況について現在答えることのできない質問もありますが,それは設計者が存在しなかったという論議にはなりません。
だれがこの世を支配しているか
では,バートランド・ラッセルの挙げたような論争点,すなわち全知全能の存在者であればこの世界をこれほどひどい事態に陥れることはなかったはずだという点についてはどうでしょうか。ほかの人々同様ラッセルは,神が存在するなら,この世界の有様の責任は神にあると想定しました。
しかし,創造者であられるエホバ神はこの世の支配者ではありません。この現在の事物の体制を支配しているのは神から独立した人間であり,目に見えない霊的な反逆者であるサタン悪魔がその体制を背後で操っています。聖書はサタンのことを,「この事物の体制の神」と呼んでいます。(コリント第二 4:4)イエスはサタンを,「この世の支配者」と呼ばれました。(ヨハネ 12:31; 14:30; 16:11)サタンはイエスを神に反逆させようとして,諸国民を監督する権威を提供しました。―ルカ 4:5-8。
ですから,人間の引き起こすあらゆる困難と暴力行為の責任は,反逆的な人間と邪悪な霊の勢力にあります。神に責任はありません。
回復
聖書は,「すべての事柄の回復」について述べています。(使徒 3:21)これは,神からの独立という惨めな実験が間もなく終わりに至ることを紛れもなく示しています。天の場所の邪悪な霊の勢力と地上の反逆的な人間が共に一掃され,「新しい天と新しい地」のために道が開かれます。「そこには義が宿ります」― ペテロ第二 3:13。箴言 2:21,22; 啓示 19:11-21もご覧ください。
次いで,エデンのような状態,つまり楽園が回復されはじめます。(ルカ 23:43)それは人間と動物の間の平和と調和が回復されることを意味しています。もはや互いの肉を食用に供することはありません。聖書はイザヤ書 11章6-9節で次のように述べています。「おおかみはしばらくの間,雄の子羊と共に実際に住み,ひょうも子やぎと共に伏し,子牛,たてがみのある若いライオン,肥え太った動物もみな一緒にいて,ほんの小さな少年がそれらを導く者となる。また,雌牛と熊も食べ,その若子らは共に伏す。そしてライオンでさえ,雄牛のようにわらを食べる。そして乳飲み子は必ずコブラの穴の上で戯れ,乳離れした子は毒へびの光り穴の上にその手を実際に置くであろう。それらはわたしの聖なる山のどこにおいても,害することも損なうこともしない」。
人間の領域では,全面的な平和がやはり実現します。「神は地の果てに至るまで戦いをやめさせておられる。神は弓を折り,槍を断ち切り,もろもろの[戦争のための]車を火で焼かれる」― 詩編 46:9。
ですから,間もなく来ようとしている偉大な設計者の新秩序について,霊感による聖書預言が次のように述べていることにはもっともな理由があるのです。「柔和な者たちは地を所有し,豊かな平和にまさに無上の喜びを見いだすであろう」― 詩編 37:11。マタイ 5:5。
反逆の結果はこのようにしてぬぐい去られはしますが,わたしたちの最初の親であるアダムとエバが神に反逆したという考えに首をかしげる人もいます。そうした人々はアダムとエバを神話的な人物とみなすよう教えられてきました。では,アダムとエバが本当に存在したとの確信を抱くことができるでしょうか。
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