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あなたは神の名によって歩んでいますかものみの塔 1978 | 11月15日
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あなたは神の名によって歩んでいますか
「もろもろの民は皆,それぞれの神の名によって歩む。しかしわたしたちは,定めなく,まさに永久に,わたしたちの神エホバの名によって歩む」― ミカ 4:5,新。
1 理知ある人は皆だれの名によって歩みますか。説明してください。
理知ある人はみななんらかの神の名によって歩みます。国家であれ個人であれ,気づいていてもいなくても,なんらかの神に仕えています。『どうしてそんなことが言えるのか』と,問う人もあるでしょう。もちろん今日では,すべての人が古代人のように名を持つ特定の神に仕えているわけではありません。しかしある人々は,俳優,政治家,スポーツ選手などを偶像視しており,自分自身をさえ偶像視している人もいます。彼らの神は彼ら自身の腹であるかもしれません。(フィリピ 3:18,19)中には悪魔サタンを直接に崇拝している人々もいれば,無意識にサタンに仕えている人々もいます。というのは,『全世界は邪悪な者の配下にある』からです。(ヨハネ第一 5:19)西暦前八世紀に,ヘブライ人の預言者ミカが神の霊感を受けて記録した言葉は,なんと真実なのでしょう。「もろもろの民は皆,それぞれその神の名によって歩む」とミカは述べました。―ミカ 4:5,新。
2,3 (イ)真のクリスチャンはだれの名によって歩みますか。特にどんな時に?(ロ)彼らはどんな態度を取りますか。(コロサイ 3:23,24)
2 この言葉のすぐ前のところでは,「末の日」に起こる事柄が述べられています。末の日に,エホバ神の家の山は他のすべての山々より上に堅く立ちます(真の崇拝の地位が高められることを意味する)。人々はそれに流れ来ます。彼らは『その剣を鋤に,その槍を刈り込みばさみに打ち変え,もはや戦いのことを学ばない』でしょう。―ミカ 4:1-4,新。
3 エホバの家に流れ来る人々は,「神はただひとりのほかにはいない」ということに気づきます。(コリント第一 8:4)したがって,『おのおのの民はその神の名によって歩む』ものの,それら真のクリスチャンの態度は,後につづくミカの言葉の中によく表わされています。「しかしわたしたちは,定めなく,まさに永久に,わたしたちの神エホバの名によって歩む」。(ミカ 4:5,新)この言葉はあなたにとって何を意味しますか。あなたは神の名によって歩んでいますか。
名によって歩むということの意味
4 名とは何ですか。例を挙げて説明してください。
4 名とは名称のことで,人や物はそれによって見分けられます。「神」という語は普通名詞です。他方,固有名詞は一人の人を他のすべての個人と区別するものです。「エホバ」は固有名詞です。しかし「名」という語はまた,評判もしくは名声を意味します。したがって,『わたしたちの神の名』は固有名詞つまり固有の名であって,神はその名によって知られています。そしてその名には何らかの評判が伴っています。
5,6 (イ)古代においては,どんな事柄が神の名と結びつけられましたか。(ロ)『ある神の名によって歩む』とは,どういう意味ですか。
5 古代において,人々は習慣として自分の神に特色ある名をつけました。例えば,タンムズ,アルテミス,ゼウス,バアル,マルドゥクなどがそれです。さまざまな男神女神は結局,彼らが行なったとみなされた業で評判になりました。それらは名声を得ました。その評判と名声は,それぞれの神の名と結びつきました。一例を挙げるなら,マルドゥクはバビロンの建設者と考えられていました。
6 ある特定の神の「名によって歩む」ということは,その神が是認した,あるいは行なった事柄を行なうことを意味します。それはその神の評判に一致した行ないをすること,そしてまたその神の権威を認めることを意味します。『ある神の名によって歩む』とは,実際に,その神に献身していること,自分に対してその神の名が呼ばれること,地上でその神の代理をすることを意味します。その神の特質に一致した生き方をするという意味です。
エホバの名によって歩む
7,8 エホバの名によって歩むということは,何をする以上のことを意味しますか。
7 真の神はご自分に自ら名をつけられました。クリスチャンは,エホバこそ「全地を治める至高者である」ことをよく知っています。(詩 83:18,新)神がご自身の固有のみ名を自分たちに啓示してくださったことを彼らは感謝しています。しかし,エホバの名によって歩むことには,エホバの名を語ることができるということよりもずっと多くの事柄が関係しています。それは,聖書の写本の中の聖なるみ名を認める以上のことを意味します。
8 エホバの名によって歩むとは,単にエホバはわたしたちの神です,と言うだけのことではありません。またそれは,地元のエホバの証人の王国会館で行なわれるクリスチャンの集会に出席するだけのことでもなく,もっと多くのことが関係しています。そして,当然のことながら,エホバの名によって歩むことと関係しているのは伝道活動がすべて,というわけでもありません。
9 エホバの名によって歩むことには,わたしたちが自分のことをどう言うかが関係しているだけですか。
9 こうした事柄も大切ですが,わたしたちが本当にエホバの「名」によって歩んでいるかどうかは,これらの事柄だけで証明されるのではありません。決定的な要素は,わたしたちが自分について言うことや主張することだけでなく,心をこめ,思いをこめ,魂をこめ,力をこめて実際に行なう事柄です。(ルカ 10:27。ヤコブ 1:22-27)クリスチャンの使徒パウロは,示唆に富む次の質問を投げかけました。「あなたがたは,自分を奴隷としてだれかにささげてそれに従ってゆくなら,その者に従うがゆえにその奴隷となり,死の見込みを伴う罪の奴隷とも,あるいは義の見込みを伴う従順の奴隷ともなることを知らないのですか」。(ローマ 6:16)神の名によって歩んでいる人々は神に献身しており,忠実に,従順にエホバに奉仕して,実際に「エホバに奴隷として仕え」ているのです。(ローマ 12:11)あなたはエホバの崇拝者たちの間にあって,確固たる立場を取りましたか。神の名によって歩んでいますか。
神のご性格とみ業
10 エホバに対するわたしたちの感謝はどのように深まりましたか。
10 全能の神にお名前があることを初めて知ったとき,わたしたちは感激したかもしれません。神のみ名エホバを聖書の中で初めて見たときには,大いに喜んだことでしょう。そして聖なるみ名が聖書中に何千回も出てくることが分かったときには,どんなにうれしかったことでしょう。しかし,エホバの名によって歩むことは別の問題でした。それは突然に始まったのではありません。エホバという名をお持ちになる方について多くのことを知るようになるにつれ,わたしたちの感謝は深まりました。
11 モーセは,エホバの特性についてどんなことを教えられましたか。
11 時がたつうちに,わたしたちはエホバの特質,エホバのご性格を理解するようになりました。例えば,出エジプト 34章6,7節(新)にある,エホバに関する次のような描写を黙想して,そういう内なる目を得ました。
「エホバは[モーセの]顔の前を通り過ぎつつ,こう宣明された。『エホバ,エホバ,憐れみと慈しみに富み,怒ること遅く,愛の親切と真実とに満ちる神,愛の親切を幾千代にも保ち,咎と違犯と罪とを赦す者。しかし,処罰を免れさせることは決して(しない)」。
12 モーセは詩歌の中でエホバをどのように描写していますか。
12 それから何年か後,モーセは神の霊感を受けて一つの詩歌を作りました。その中で彼は次のように述べました。
「わたしはエホバの名をふれ告げる。わたしたちの神に偉大さを帰せよ! 岩なる方,そのみ業は完全,そのすべての道は公正であるから。忠実の神であり,不正なところは少しもない。義にして方正であられる」― 申命 32:3,4,新。
13 わたしたちは神のことを考えるとき,神を愛し信頼するようにわたしたちを動かすどんな特質を連想するようになりましたか。
13 エホバの名によって歩んでいる人々はまた,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制などが神の聖霊の実であることも学びました。(ガラテア 5:22,23)したがってこれらはエホバに源を有する特質です。今ではわたしたちはそれらの特質を考えるときエホバの聖名を連想します。そしてそれらは,わたしたちがその名によって歩む神を愛しまた信頼するように,わたしたちを動かすのです。
14 (イ)エホバの名によって歩んでいる人々は,神がご自分の目的を達成し,み名の正しさを立証することがおできになるということを,どのように確信できますか。(ロ)ヨシュア 2章10,11節とサムエル前書 4章8節にあるように,エジプトの神々に対するエホバの優越性が諸国民の間でよく知られるようになったいきさつを述べなさい。
14 さらに真のクリスチャンは,エホバの目的を知るようになりました。それはイエス・キリストの手中にある天の王国によってご自分の宇宙主権を守り,ご自分のみ名の正しさを立証することです。(ルカ 11:2。啓示 11:16-18)神を敬う人々はさらに,エホバがご自分の目的を成し遂げ,その聖名を立証することがおできになることを悟っています。なぜでしょうか。なぜなら,エホバは偉大な業の記録をお持ちだからです。自分の名によって歩む者たちのために何の良いこともしてやれない諸国民の無価値な神々とは,エホバは異なっておられるのです。(詩 115:1-8)エホバは紅海でイスラエルの民を奇跡的に救出されましたが,その後歌われた歌の中でエホバがどのように描写されているかに注目してください。
「エホバよ,神々のうちでだれかあなたに等しい者がいるでしょうか。神聖さの大いなる者なることを示すあなたに等しい者がいるでしょうか。賛美の歌をもって恐れかしこむべき方,不思議を行なわれる方よ。あなたがその右手を差し伸べると,地は彼らをのみ込んだ。ファラオの馬,またその戦車と騎兵たちが海の中に入ったその時,エホバは海の水を彼らの上に戻らせ,一方イスラエルの子らは海の中を通って乾いた陸地の上を歩いたのであった」― 出エジプト 15:11,12,19,新。
15 エホバの名によって歩んでいる人々は,どうしてエホバが信頼できる預言の神であることを知っているのですか。
15 エホバの名によって歩む人々はまた,エホバを信頼できる預言の神と認めています。エホバが行なわれた将来の出来事の予告は,エホバご自身のみ名によって記録されています。それはあたかも,それらの予告の信憑性を保証するものとしてエホバがそれらに署名されたかのようです。そういう預言をわたしたちは信頼できます。一例を挙げるなら,エホバは,エジプトにおける束縛からイスラエル人を救出して特定の土地を与えることを,預言的に約束されました。その事は成し遂げられました。(出エジプト 3:6-17; 14:19-31)それから多くの歳月が流れた後,イスラエルのソロモン王は次のように言うことができました。「すべてその約束のとおり,ご自分の民に憩い所をお与えくださったエホバがたたえられますように。ご自分の僕モーセを介して約束してくださった,そのすべての良い約束は,一言も果たされないものはなかった」― 列王上 8:56,新。ヨシュア 21:45もご覧ください。
16 エホバの名によって歩んでいる人々は,人類に対する神の愛について何を学びましたか。
16 さらに,エホバの名によって歩んでいる人々は,次のような神の目的について学びました。すなわち,公正の条件が満たされるよう,愛子イエス・キリストの犠牲の贖罪力によって,全人類の罪を清めるという目的です。彼らは公正が聖なるみ名と結びついていることを知って喜んでいますが,全人類に対する愛もまたみ名と結びついています。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされた」と,イエスは言われました。―ヨハネ 3:16。コリント第一 15:22。ヨハネ第一 4:10。
神のみ名に敬意を示す
17 エホバはご自分に自尊心があることを,どのように示してこられましたか。
17 そのような愛に富む神のみ名は,わたしたちが関心を払い,敬意を示すに値します。エホバご自身,ご自分の名前に深い関心を抱いておられますが,それは利己的な目的のためではありません。エホバは自尊心のある方ですから,その聖名を格下げするような,あるいは汚すようなことは一度も行なわれたことがありません。エホバの行なわれることは常に,真実と公正と義をそのみ名と結びつけるものでした。神のみ業はその聖なるみ名に,誉れ,栄光,光輝,威厳を付与しました。ですから晩年のダビデは十分の理由があってエホバをたたえ,「ああ,エホバよ,偉大さと力強さと麗しさと卓越性と尊厳とはあなたのものです」と言うことができたのです。(歴代上 29:11,新)今日エホバに献身している人々がこの聖なるみ名に対し,しかるべき敬意を示すのは,なんと重要なことでしょう。
18 エホバのおきて,道徳規準,そして救いのためのご準備に関しては,わたしたちがエホバの名によって歩んでいることをどのように示せますか。
18 エホバの名によって歩んでいる人々は,エホバを自分たちの立法者,裁き主,また王と認めています。(イザヤ 33:22)宇宙の主権者である以上,エホバは確かに,法を立ててそれを実施し,道徳規準を確立し,すべての理知ある被造物の永遠の益のための備えを設ける権利をお持ちです。そしてこのことを考えてみてください。わたしたちがエホバのおきてを尊重し,神の道徳規準を重んじ,わたしたちの福祉と永遠の救いのためにエホバが設けてくださったことに感謝を示す ― こうしたことはみな,わたしたちがエホバの名によって歩んでいる証拠となるのです。
19 (イ)エホバはどんな処置を取ることを約束しておられますか。そしてなぜですか。(ロ)それでわたしたちはどんな祈りが実現することを待ち望んでいますか。
19 本当にエホバの名によって歩んでいる人々は,神が義を愛する者すべての最善の益のために行動され,神の名を冒とくする者たちを処罰されるときを熱心に待ち望んでいます。(エゼキエル 20:9; 39:7)エホバを愛する人々は実際に,イエス・キリストが教えた次の模範的な祈りの実現を期待しています。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように」。(マタイ 6:9,10)さらに,エホバの名によって歩んでいる人々は,神の極めて神聖なみ名を,生きている人が一人残らずあがめる日を楽しみにして待っています。
まれな特権
20 キリスト教世界の宗教家たちとは対照的に,エホバの民はどのように『エホバの名によって歩み』ますか。
20 エホバの名によって歩んでいる人々には大きな責任がかかっています。エホバの名によって歩むには,エホバに無条件で献身することが必要になります。彼らはエホバのみ名がかかわるすべてのことにおいてエホバを代表する者ですから,神のみ名に調和した生き方が要求されます。それは,全世界の前で聖なるみ名を正しい方法で示すことを意味します。エホバの名によって歩むなら,キリスト教世界の宗教家たちがしてきたように,あるいは試みてきたように,その名を侮べつしたり,それに反対して戦ったり,聖書の翻訳から除いて隠そうとするようなことが許されないことは明白です。むしろ,わたしたちの神の名によって歩むとは,エホバという名を敬い,その名のために霊的な戦いをし,その聖なるみ名が聖書の中で占める正当な位置を認め,その聖名を大胆にふれ告げることを意味します。―詩 9:1,2。
21,22 今日,だれだけが聖なるみ名を示していますか。人類の前における彼らのまれな特権は何ですか。
21 エホバ神は西暦一世紀に,ご自分の名のための民をお持ちでした。イエス・キリストのそれら油そそがれた弟子たちは,エホバのみ名と主権を支持しました。西暦49年ごろにエルサレムで開かれた使徒および長老たちの会議の席上で,弟子ヤコブが,「皆さん,兄弟たち,聞いてください。シメオン[使徒ペテロ]は,神が初めて諸国民に注意を向け,その中からご自分のみ名のための民を取り出された次第を十分に話してくれました」と述べたのは適切でした。(使徒 15:13,14)同様に神は今日でもそのみ名の民をお持ちです。彼らはキリスト教世界の諸教派に属する者ではなく,イエスの油そそがれた追随者たちの残りの者を構成します。この残りの者と交わっているのが,地上でとこしえの命を得る希望を抱く「大群衆」です。(ヨハネ 10:14-16。啓示 7:4-9)現在地上にあるすべての宗教のうち,聖なるみ名を示すのはそれらエホバの証人だけです。
22 全人類の前における一つのまれな特権と立場があります。西暦前八世紀に,エホバ神は預言者イザヤを通して,諸国民の神々すべてに,それらの神々の神なることを証言する証人をそれぞれ出すようにと挑戦されました。それら偽りの神々はみな,証人を出すことができませんでした。しかし,真の神がそのみ名の民に対して言われたことに注意してください。「『あなたがたはわたしの証人である』,とエホバは仰せられる。『実に,わたしの選んだわたしの僕である』」。(イザヤ 43:8-10,新)今日,エホバの証人は喜びを抱いて聖なるみ名を負っています。宇宙主権者に代わって,この真の神とその目的について証言して宇宙主権者のことを理解させ,人類に宇宙主権者を知らせることを,彼らは大きな特権と考えています。このすばらしい特権と比べるなら,ほかの事はみな比較的に重要でないものになってしまいます。
大胆に証言する
23 神と共に歩むに際して,エノクは何を行ないましたか。そしてどんな祝福を経験しましたか。
23 エホバの証人としてエホバの名によって歩むには,多くの場合非常な勇気がいります。しかしそうするなら,結果として豊かな祝福を得ます。例えば,「エノクは真の神と共に歩みつづけ」,強力な音信を大胆にふれ告げました。(創世 5:24,新)「見よ,エホバはその聖なる巨万の軍を率いて来られた。すべての者に裁きを執行するため,また,すべての不敬虔なしかたで行なったそのすべての不敬虔な行為に関し,そして不敬虔な罪人がご自分に逆らって語ったすべての忌むべきことに関して有罪を証明するためである」とエノクは述べました。(ユダ 14,15)エホバはその大胆な証人を「取られ」,彼の命を急に終わらせて,反対者たちが彼を殺すことのないようにされました。彼は「移された」ので,死の苦しみを経験しなかったようです。―ヘブライ 11:5。ヨハネ 3:13と比較してください。
24 ノアの忠実さはどのように,そしてなぜ報われましたか。
24 ノアも「真の神と共に歩み」ました。この忠実な人は,世界的な大洪水で悪人を滅ぼす,という神の目的について証言しました。ノアの忠実さは確かに報われました。なぜなら,そのために彼自身と他の七人が保護されて地球的大洪水を通過する結果になったからです。―創世 6:9; 7:6,7; 8:16。ペテロ第二 2:5。
25 エホバの証人は今日どんな音信をふれ告げていますか。
25 その人々は,エホバの昔の証人の中に数えられる人々です。(ヘブライ 11:4-7; 12:1)彼らは,聖なるみ名をほめ,それを遠く広く伝えることに恐れを感じませんでした。今日のエホバのクリスチャン証人も同じ態度を取ります。神の裁きの音信を恐れることなくふれ告げます。しかし彼らは,近づきつつある義の新秩序の「良いたより」も宣べ伝えます。そして,義の宿る「新しい天と新しい地」をもたらす,という神の約束の完全な成就を切望しています。(ペテロ第二 3:8-13)その時には,どんなにか大きな喜びが満ち渡ることでしょう。他の神の名によって歩む人はもはや一人もいないでしょう。むしろ,理知ある創造物はすべて,永遠にエホバ神の名によって歩むでしょう。
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「エホバにふさわしいしかたで歩む」ものみの塔 1978 | 11月15日
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「エホバにふさわしいしかたで歩む」
「わたしたちは……あなたがたがあらゆる知恵と霊的な把握力とにより,み旨に関する正確な知識に満たされるようにと祈り求めてやめません。それは……エホバにふさわしいしかたで歩むためです」― コロサイ 1:9,10。
1 (イ)わたしたちはエホバとのどんなすばらしい関係を楽しめますか。(ロ)ではエホバの戒めに対するわたしたちの態度は,どんなものであるべきですか。(詩 119:47,48)
エホバ神は,だれもが持つことのできる最良の友です。族長「アブラハムはエホバに信仰を置いた」ので,「彼に対してそれは義とみなされ」,「彼は『エホバの友』と呼ばれるようになりました」。(ヤコブ 2:23)なんとすばらしい関係でしょう! しかしエホバは,そのような信仰を持つ人々が皆,ご自分の友として,ご自分の名によって歩むことを望んでおられます。もちろん,神を喜ばせ,神と親しい関係を持ちたいと思うなら,召集者の言葉を守らねばなりません。召集者は幾世紀もの昔に,次のように言いました。「真の神を恐れ,そのおきてを守れ。それが人の務めの全体だからである」― 伝道 12:13,新。
2 「エホバにふさわしいしかたで歩む」には何が必要ですか。
2 神の友となり,神の戒めを守り,神の名によって歩むためには,正確な知識がぜひとも必要です。ですからクリスチャンの使徒パウロは適切にも,コロサイの仲間の信者たちに次のように告げました。「わたしたちは……あなたがたがあらゆる知恵と霊的な把握力とにより,み旨に関する正確な知識に満たされるようにと祈り求めてやめません。それは,あなたがたがあらゆる良い業において実を結び,また神に関する正確な知識を増し加えつつ,神にじゅうぶん喜ばれる者となることを目ざしてエホバにふさわしいしかたで歩むためで(す)」― コロサイ 1:9,10。
責任をめざとく自覚する
3 エホバの名によってそれにふさわしく歩みたいなら,どのような生き方をしなければなりませんか。
3 人間同士の友情は,もしこちらがなんらかの面でその人のことを誤り伝えるなら,維持することはできません。したがって,もしわたしたちがエホバを自分の友として持ちたいなら,その名が表わす事柄すべてに調和した生き方をすることが,エホバの名によってそれにふさわしく歩むということに関係していることを自覚しなければなりません。それには,聖書の言うことを自分に適用することに加えて,聖書を熱心にかつ定期的に研究することが要求されます。人々はわたしたちを見るとき,わたしたちの神を連想します。ですから,エホバの証人としてのわたしたちが,エホバの言葉と調和した行ないをして神を正しく表わすことは,非常に大切なことなのです。
4 聖なるみ名を示すことに関して,エホバの証人にはどんな責任がありますか。
4 エホバの証人はまた,エホバの名によってそれにふさわしく歩むということに,自分の生活のあらゆる面が関係していることを知っています。彼らには,その聖なるみ名をふさわしい方法で人類の前に示す責任があるのです。エホバの証人は確かに,だれかの感情を害することを恐れてエホバという名を用いることを差し控える今日のキリスト教世界の人々のようではありません。エホバはご自分の名前が世界中に知らされることを望んでおられます。(出エジプト 9:16)そして,エホバこそ至高の神であることを人々に知らせるのは,実に大きな特権なのです。
5 クリスチャンは政治問題に対してどんな態度を取りますか。なぜですか。
5 しかし,クリスチャンの責任には,単に神のみ名を語る以上のことが関係しています。わたしたちの最も大切な友であるエホバは,全宇宙の偉大な王であられます。そのみ名は,イエス・キリストを神の配下のメシアなる支配者とするその王国と結びついています。ですから,エホバの名によってそれにふさわしく歩む人々がその王国を擁護すべきであることは,言うまでもありません。したがって彼らはこの世の政治問題には全く関与しません。むしろイエス・キリストと同じ立場を取ります。「わたしの王国はこの世のものではありません」と,イエスは言われました。―ヨハネ 18:36。
6 エホバの名によってそれにふさわしく歩む者たちは,罪をどのように見ていますか。
6 世自体不義に染まっています。ゆえに,エホバの友としてエホバの名によりそれにふさわしく歩むことを願う人々は,この世と,その中にあるすべての悪とを避けねばなりません。罪に関してエホバ神と同じ見方をしなければなりません。エホバは「そのすべての道において義にかなっておられ,そのすべてのみ業において忠節です」。(詩 145:17,新)クリスチャンは,もし自分たちが盗みを働くとか,姦淫をするなどして神のおきてを犯すなら,そのためにエホバのみ名に非難が及ぶことを知っています。それは決してわたしたちの望むところではありません。むしろわたしたちは,使徒ペテロが書いているように,自分の行ないが神に栄光をもたらすことを願っています。「諸国民の中にあっていつもりっぱに行動しなさい。それは,彼らが,あなたがたを悪行者として悪く言っているその事がらについて,あなたがたのりっぱな業を実際に見,その業のゆえに検分の日に神をたたえるようになるためです」― ペテロ第一 2:12。ローマ 2:21-24。
「神を見倣う者」
7 どうすれば神に倣うことができますか。
7 友達というものは,良きにつけ悪しきにつけ影響を与えるものです。なぜなら,人には自分の仲間のやり方をまねる傾向があるからです。エホバの友として,エホバの名によりそれにふさわしく歩んでいる人々は,エホバとの親交は自分に必ず良い影響を及ぼす,という確信を持つことができます。エホバに倣うよう努めるのは非常に有益なことです。使徒パウロは,「神を見倣う者となりなさい」と勧めました。(エフェソス 5:1)人は,不完全ではあっても,エホバのみ言葉の中の導きを受け入れることにより,また神の聖霊すなわち活動力の影響に服することにより,神に倣うことができます。
8 クリスチャンは何を培うべきですか。どのように?
8 確かにエホバのクリスチャン証人は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制という,神の聖霊の実を培い,それらを示すことを願っています。(ガラテア 5:22,23)これらの実をエホバのしもべたちが示すとき,他の人々はエホバ神のことを思い出す際にそれらの特質を考えるよう動かされるでしょう。もちろん,そのためには,真のクリスチャンはあらゆる場所で,すべての人の前で,神の霊の実を示さねばなりません。ですからエホバのしもべは,自分は家庭で,学校で,また自動車を運転するときや,レクリエーション活動のときなどに,実際にそうしているだろうか,と自問してみるのは有益です。これらのことはすべて,エホバの名によってそれにふさわしく歩むことに含まれています。またこれらの霊の実は,信仰にあるわたしたちの兄弟姉妹たちに対してぜひとも示されねばなりません。それが示されるときわたしたちは皆,エホバの民の中にいることを喜ぶことができます。―詩 144:15。
9 その点で祈りはどんな役割を演じますか。
9 生活の中で聖霊の実を培い示すべくエホバの聖霊と助けを求める,エホバへの熱心な祈りは報われます。(ルカ 11:13。ローマ 5:5)それで次に,これらの霊の実がもたらすある益を簡単に検討してみましょう。これらの実が,これらの特質を示す人だけでなく,エホバを崇拝する仲間の者たちや他の人々にも,有益な影響を及ぼすことがはっきり分かるでしょう。
10 (イ)クリスチャンの間で愛はどれほど重要なものかを説明してください。(ロ)コリント第一 13章4-8節によると,愛とはどんなものですか。
10 愛は,パウロが述べたこれらの実の中の最初のものです。『神は愛です』と使徒ヨハネは書きました。(ヨハネ第一 4:8)したがって,愛を示す敬虔な人は,その点でエホバに倣っているのです。さらにイエス・キリストは,「あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」と言われました。(ヨハネ 13:35)クリスチャンたちの間にある愛は,昔の時代にそうであったように,現在でも人々の注意を引きます。テルツリアヌスは,初期のクリスチャンたちについて世の人々が言ったことを引用し,次のように書いています。「『見よ,彼らがいかに愛し合うかを……互いのためなら死をも辞さぬことをいかに固く覚悟しているかを』と彼らは言う」。さらに愛は,クリスチャン会衆内部の「結合の完全なきずな」でもあります。(コロサイ 3:14)それも不思議ではありません。愛は辛抱強く親切です。愛は自慢せず,思い上がらず,みだらなふるまいをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいらだたず,傷つけられてもそれを根に持たず,不義を喜びません。むしろ真実なこととともに喜び,すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべてのことを希望し,すべての事を忍耐します。実際,「愛は決して絶えません」― コリント第一 13:4-8。
11 喜びとは何ですか。なぜわたしたちは喜びにあふれていなければなりませんか。
11 神の霊の別の実である喜び<ジョーイ>は,「うれしさ<デライト>よりも根が深く,喜悦<グラードネス>よりも明るく,はっきり表面に表われるもの」と言われています。王国宣明者たちの晴れやかな,喜びに満ちた表情は,多くの聞き手の顔を明るくしてきました。エホバの名によってそれにふさわしく歩んでいるなら,喜びに満ちあふれる十分の理由がないでしょうか。確かにあります。それは「幸福な神の栄光ある良いたより」をふれ告げているからです。(テモテ第一 1:11)そのうえにわたしたちには,エホバの名によってそれにふさわしく歩みつづける場合に喜ばしい前途があり,将来祝福を受けるという確かな希望があります。問題に遭遇するときにはそのことを考えましょう。クリスチャンの仲間の間にも喜びを広めるように努力しましょう。神に献身した人々は,『歓喜と心の喜びをもってエホバに仕える』ことを期待されているからです。―申命 28:46,47,新。
12 クリスチャンの間の平和はどんな益をもたらしますか。
12 霊の別の実である平和は,エホバの顕著な特質です。エホバは「平和の神」です。(ヘブライ 13:20)真のクリスチャンは「すべての人に対して平和を追い求め」ます。(ヘブライ 12:14)例えば,1958年に開かれた「神の御心」国際大会で,エホバの証人は次のような決議を行ないました。「エホバの証人は,ひゆ的に言って,剣を鋤に打ち変え,槍を刈り込みばさみに打ち変えたため,多くの国籍の人々で成ってはいても,クリスチャン兄弟であり,神の一つの家族の成員でもあるゆえに,互いに対して剣を上げず,戦い合うことをもはや学びません。むしろ,平和と一致と兄弟愛のうちに神の道を歩みます」。エホバの民はその決議を実行してきました。彼らの間にある平和は,平和を愛する人々を真のキリスト教に引き付けます。(イザヤ 2:2-4)その上に『エホバが平和をもってご自分の民を祝福される』のです。(詩 29:11)エホバの民は何事も思い煩わず,自分の請願を祈りによってエホバに知っていただくようにします。その結果,『いっさいの考えに勝る神の平和が,彼らの心と知力を,キリスト・イエスによって守ってくださるのです』― フィリピ 4:6,7。
13 辛抱強さにはどんなことが含まれますか。それにはどんな益がありますか。
13 霊の別の実,辛抱強さは,単に「長い間苦しむ」という意味ではありません。辛抱強さは怒るに遅いことを含んでおり,刺激や悪を耐え忍ぶことで,もつれた関係が良くなっていくという希望を捨てないことと関連があります。エホバは「怒ることに遅い」,つまり辛抱強い方です。(出エジプト 34:6)神の忍耐は,悔い改めて滅びを免れる時間を人々に与えます。(ペテロ第二 3:8-18)神は辛抱しておられる間に「み名のための民」を集め,彼らを通してご自分の偉大さを全地に知らしめておられます。(使徒 15:14。ローマ 9:22-24)エホバのみ名の民は「すべての人に対して辛抱強く」あるように努めます。(テサロニケ第一 5:14)このことは仲間の信者との関係をますます良いものにするだけではありません。辛抱強いクリスチャンは,他の人々がエホバのご意志を行なって永遠の命を得るよう,エホバについて学ぶのを忍耐強く助けることができます。(テモテ第一 4:16。ヘブライ 6:11-15)また,このようにしてエホバにふさわしいしかたで歩むことにより,神の民は今エホバを喜ばせているという満足を得,永遠の祝福の見込みを得ます。
14 親切とは何ですか。それはどんな影響を及ぼしますか。
14 親切も神の霊の実の一つです。それには他の人の福祉に積極的な関心を示すことが含まれます。エホバは「感謝しない邪悪な者にも親切であられ」,悔い改めるように彼らを励まされます。(ルカ 6:35。ローマ 2:4)したがってクリスチャンは,「神を見倣う者」として親切を身につけなければなりません。(エフェソス 5:1。コロサイ 3:12)「互いに親切にし,優しい同情心を示し」,神がキリストによって惜しみなくゆるしてくださったように,「互いに惜しみなくゆるし合いなさい」という聖書の助言に彼らは従います。(エフェソス 4:32)親切は親切を生みます。親切は人の心を引きつける力があります。ですから親切は,親切にする人,される人,神の民の間で親切が働いているのを見たために彼らに引き付けられる人を益するのです。
15 善良であるということは何を意味しますか。どうすれば善良さを養えますか。
15 霊の別の実である善良は,道徳的に優れていること,すなわち徳のあることを意味します。「エホバは善良で正しい方」です。(詩 25:8,新)善良さを養うための助けとして,クリスチャンは次のように神に祈り求めるとよいでしょう。「善良さ,良識そして知識をわたしに教えてください。あなたの戒めにわたしは信仰を働かせたからです」。(詩 119:66,新)また,善良さはエホバの命令に従うことによって養われます。仲間の信者や他のすべての人に対して善良であることによってエホバに倣っているということを自覚することには満足があります。そのような善良さは,人々を真のキリスト教に引き寄せるでしょう。―ガラテア 6:10。
16 (イ)信仰はどのように定義されていますか。(ロ)霊のこの実を示すなら,他の人々にどんな影響がありますか。
16 七番目に挙げられている霊の実である信仰は,「エホバにふさわしいしかたで歩む」ことを願う人々にとって,非常に重要なものです。この特質なくしては,エホバとの友情を維持し,神を喜ばせることは不可能です。(ヘブライ 11:6)「信仰とは,望んでいる事がらに対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です」。(ヘブライ 11:1)信仰は根拠のない希望などではなく,確かな基礎のある期待です。さらに信仰は,見えない実体を確信するのに必要な証拠です。例えば,太陽,月,星などの創造物は,考え深い人にとっては創造者なる神の存在を証明するものとなります。(ローマ 1:20-23。ヘブライ 11:3)エホバに対する信仰を示す人は,仲間のクリスチャンたちに優れた手本を示しています。エホバに対するその不動の信仰を見て,仲間のクリスチャンは信仰を強められるかもしれません。またそういう活動的な信仰は,信者でない人々をも,エホバ神を信頼する方向に動かすようになるかもしれません。
17 柔和とは何ですか。エホバに見倣う者がそれを示すとき,どんな結果が生じますか。
17 霊の別の実である柔和は,背後に強さを持つやさしさ,情け深さ,と定義できるでしょう。「わたしは柔和で,心のへりくだった者だ」とイエスは言われました。(マタイ 11:29)イエスを通してご自分に近づく道を備えられたエホバは柔和な方で,厳しい残虐な方ではありません。ですから,神の名によってそれにふさわしく歩もうとする人々は,祈りによってエホバに近づくことを恐れる理由はありません。(ヘブライ 4:16。ヨハネ第一 4:17,18)エホバとそのみ子に倣う者として,クリスチャンはすべての人に柔和な態度で接します。そうすることには確かに大きな益があります。中でも,クリスチャンの妻の「もの静かで柔和な霊」は,信者でない配偶者に真の信仰を持たせる要因となる可能性があります。(ペテロ第一 3:1-4)それからまた柔和は,問題が起きる場合でさえ,人々の間に気持ちの良い関係を作り出します。「柔らかい答は憤りをとどめ」るからです。―箴 15:1,口。
18 自制には何が含まれますか。そしてそれにはどんな効果がありますか。
18 最後に挙げられている霊の実である自制には,自分の体,言葉,行動を抑制することが含まれます。エホバは,エルサレムを荒廃させたバビロニア人を罰する適当な時期が来るまで,「自制心を働かせ続け」られました。(イザヤ 42:14,15,新)クリスチャンは「神を見倣う者」ですから,すべてのことにおいて自制心を働かせるよう努めます。そしてこの特質を培うための助けを,確信を抱いてエホバに祈り求めることができます。(コリント第一 9:25)自制心は,それを働かせる人にとって,またその人と交わる人々すべてにとって,ありがたいものです。霊の他の実と同様にこの特質も,これに目をとめる人々をキリスト教に引き付けるでしょう。
神が求めるもの
19 エホバはわたしたちにどの程度お求めになりますか。
19 エホバの名を負う人々は,霊の実を培うにあたって神の助けを求めるなら,神を喜ばせることができます。もしわたしたちが本当にエホバに導きをあおぎ,エホバのみ前における自分の責任を深く感じているなら,エホバは,エホバの道を歩むべくわたしたちを強めてくださるでしょう。パウロは言いました。「自分に力を与えてくださるかたのおかげで,わたしはいっさいの事に対して強くなっているのです」。(フィリピ 4:13)愛ある親切から,エホバはわたしたちを大いに援助してくださり,お求めになることは比較的にわずかです。「地の人よ,何が良い事かを主はあなたに告げた。そして,エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神エホバと共に歩むことではないか」と,ミカは書いています。―ミカ 6:8,新。
20 なぜわたしたちはエホバの保護と助けを確信できますか。
20 公正を行ない,愛ある親切を示し,慎み深くエホバと共に歩むとき,敵意を持つこの事物の体制の中に保護のないまま放置されるようなことはありません。わたしたちがエホバにふさわしいしかたで歩みつづけるなら,エホバ神はわたしたちをご自分の民として保護し助けて,約束の新秩序に救い出してくださる,という確信を抱くことができます。預言者サムエルがかつて断言したとおりです。「エホバはその偉大なみ名のためにご自分の民を捨て去られはしないのです。エホバはあえてあなたがたをご自分の民とされたからです」― サムエル前 12:22,新。
21 今エホバの名によってそれにふさわしく歩んでいる人の前には,どんな見込みがありますか。
21 もしわたしたちが神のみ前における責任を真剣に考え,エホバの名によってそれにふさわしく歩むなら,エホバはわたしたちの友としてわたしたちと共にいてくださいます。もしわたしたちがエホバの霊感による言葉の知識を取り入れそれを自分に適用することをつづけていくなら,エホバがわたしたちをお捨てになることはありません。わたしたちはエホバの証人として,「わたしたちの神エホバの名によって歩む」ことを宣言しました。(ミカ 4:5,新)その決意に従って生きたいものです。そうするときにわたしたちは,永遠にわたってエホバにふさわしいしかたで歩むというすばらしい見込みを得るのです。
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南アフリカにおいて実を結ぶ王国の「種」ものみの塔 1978 | 11月15日
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南アフリカにおいて実を結ぶ王国の「種」
1978年2月26日の日曜日に,黒人,白人,有色人種,インド人など1,867名の入り混じった人々の群れが,ヨハネスバーグの東方約16㌔の所にある大きな美しい建物に集いました。ボツワナ,レソト,スワジランド,南西アフリカおよび南アフリカのあらゆる場所から,クリスチャン会衆の代表者たちがやって来ました。それは,南アフリカのものみの塔聖書冊子協会の本部である,拡張されたベテルの献堂の集いでした。
最初の二人の講演者は,この新しく拡張された建物を献堂するに至るまでの歴史的な背景を幾つか語りました。今世紀初頭,アフリカ大陸全体は王国の音信という点ではまだ「暗黒」状態で,開墾を待つ広大な処女地でした。王国の「種」は,1902年に幾つかの場所で根を下ろし始めていましたが,1910年になってはじめて一つの小さな事務所
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