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人々が信じない理由目ざめよ! 1980 | 2月8日
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人々が信じない理由
「神はいない」
創造者はいない
進化論
人間の苦しみ
「わたしたちは,人間の生活や思考や行動について,神が重要な役割を果たすことのない非宗教的な社会に住んでいる。今の人間は,実践,感情,知性のいずれの面においても,神を持ち出さなくてもうまくやってゆけることを知っている」。
これは,不信仰という問題を研究する一哲学者の言葉で,「非宗教的な時代における宗教」という本の中に出てきます。この哲学者の意見に同意されますか。
同意されるとすれば,その人は無神論者を自任し,神は存在しないとの確信を抱いておられる人に違いありません。あるいは,不可知論者を決め込み,神は存在するかもしれず,しないかもしれないが,その答えを知るすべもないのだから,どちらにしても大差はないと考えている人かもしれません。どちらかといえば,ブリタニカ百科事典のいう,「実質的無神論者」で,神を信じてはいても,信仰が生活にいささかも実質的な相違をもたらしていないような人の場合もあるかもしれません。
自分をどのような者と考えるにしても,少し時間を取って考えてみてはいかがですか。神が存在し,その神が人間に対して本当に目的を有しておられるとすれば,神の存在そのものを否定するのはゆゆしい事ではないでしょうか。それは,ある国に住んでいながら,その国の政府の存在を認めようとしないのと同じではありませんか。そうなれば,やがて政府との間で問題が起こります。また,政府の備える,公益事業,保護,報いなどの恩恵に何一つとして浴せません。
ですから,確かめてみる必要があります。そして,この問題に関して,ご自分の考え方を真剣に検討してみるようお勧めします。神を信じないのであれば,それはなぜですか。それはご自分で下した判断ですか。それは教育の結果ですか。それとも,周りの人々に影響されたのですか。人々が神を信じないという場合,特にその理由としてよく挙げられるものの中には何がありますか。
東洋で
ソ連に住んでいる人であれば,その人が神を信じない理由は,そのような教育を受けてきたということにあると思われます。宗教を抑圧することが同国政府の政策になっており,学校では無神論が正課の一部として教えられています。
さらに東方に住んでいる人であれば,神を信じないのは,その人の宗教的な背景によることもあります。宗教的な背景ですか。そうです。というのも,東洋人の多くは非常に信心深いのですが,その奉じる宗教が創造者なる全能の神に対する信仰を教えていないからです。
例えば,東洋で最も広く普及している宗教の中に,仏教があります。ある情報筋によると,この宗教は,「釈迦入滅後,2,500年間に生を享けた人間すべての約四分の一」の考えに影響を及ぼしたと思われます。これはかなりの数の人です! この感化力のある人物について,次のように書かれています。「彼は儀式を排した実践的な宗教を宣べ伝え,哲学的な推論を除き去った。そして,神の存在の問題にさえ決着をつけなかった」。(下線は本誌)ですから,ある国々で仏教徒が先祖の墓廟で崇拝の行為をしたとしても,万物を創造された全能の神という概念を把握していることはまずありません。
他の東洋の宗教の幾つかについても同じことがいえます。前述の情報筋は,無数の神々や女神を有するヒンズー教についてさえ,次のように述べています。「神を信じていない人でも,ヒンズー教徒を名乗ることができる」。
西洋で
西洋に住んでいるなら,「全能の神」という言葉が何を意味しているかを理解しておられるに違いありません。西洋のほとんどの宗教は神を崇拝していると唱えており,その方が万物を創造されたと教えています。しかし,近代主義の運動や科学の進歩の面で先端を行っているのも西洋です。こうした影響を受けて,人々は宗教を古くさいものとみなし,自分たちの諸問題の解決策を人間に仰ぎ求めるようになりがちです。ですから,教会へ通う人の多くは,教会で聞く事とほかで聞く事に食い違いがあるのに気付いています。それは実に驚くべき結果を生むことがあります。
最近オーストラリアで実施された世論調査は,同国のプロテスタント系の教派に属する人の三分の一,僧職者の五人に一人が神の存在に疑念を抱いていることを明らかにしました。これはオーストラリアだけに見られる現象ではありません。そして,教会に通っている人々の間にそのような状態が見られるとすれば,教会へ通っていない人の状態はほぼ察しがつくでしょう。
個人的な理由があるかもしれない
これまでに言及された人々の大半は,自分たちの置かれた社会の影響力のために神を信じていません。しかし,神を信じていないことには,もっと個人的な理由があるのかもしれません。自ら悲劇を経験していることもあるでしょうし,世の中一般に見られる苦しみの意義を考慮した場合もあるでしょう。その結果,神が存在するとすれば,こうした事柄について何らかの措置を講じていたはずだと考え,神は存在しているはずがないという結論に達したのかもしれません。
あるいは,知的な判断を下したのでしょうか。宇宙に関する人間の理解が大いに増加していることを考え,そして特に進化論の教えについて考えると,最高の創造者を信じる余地などもはやない,と思っていますか。
ご自分の考えが,このいずれかに当てはまると思われるなら,続く一連の記事を読むようお勧めしたいと思います。
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その理由には確かな根拠がありますか目ざめよ! 1980 | 2月8日
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その理由には確かな根拠がありますか
人間は神を持ち出さなくても,うまくやってゆけると思いますか。確かに,そのような仕方でうまくやってゆこうとしている人はいます。しかし,それは成功するでしょうか。
今日,世界で起きている事柄は,人間が神なしでやってゆこうとしてきた結果です。なるほど,世界の指導者の中には神を信じると公言する人もいます。しかし,フランスの哲学者ボルテールは,ある時,適切にも次のような見解を述べました。「この世の偉大な人物の大半は,無神論者であるかのような生き方をしている。……神とその存在,その公正さなどに関する知識は,戦争や条約,そして野心,関心,快楽の対象など,そうした人々が魂を打ち込んで追求している事柄には少しも影響を及ぼしていない」。
この「無神論者であるかのような生き方」の生み出した実は何でしたか。飢え,抑圧,犯罪,病気,不幸などです。人間という存在は,汚染や人口過密のために惨たんたる状態にあります。1979年3月6日付の一新聞の記事は,その日に,テロリストの活動や国内の反目,紛れもない戦争などに巻き込まれていた国々を列挙していましたが,そのような国に住む人々の数を合計すると全人類の四分の一になります。
聖書は,人間が外部からの助けなしに自らをうまく治めてゆけないことを力説しています。エレミヤ記 10章23節で,聖書はこう述べています。「人の道はその人の自由になるものではなく,……自分の歩みを導くことさえ人の力の及ぶことではない」。(エルサレム聖書)今日の出来事はこの言葉の真実さを裏付けています。しかし,聖書は,本当に神の導きを望む人々にはそうした導きがあることを告げています。
感情面で神を必要としているか
無神論者は,人間は「感情……の面でも,神を持ち出さなくてもうまくやってゆける」と思っています。本当にそうでしょうか。
証拠の示すところによれば,人間には本来宗教心が備わっています。歴史を通じてどんな文明も,何らかの崇拝の体系を特色としていました。
では,「信仰を持つ必要性」と呼ばれるものに人々が抵抗すると,どんなことが起きますか。そうした人々は,金銭,権力,科学,政治理念,または自分を崇拝することに目を向けます。無神論でさえ宗教になり得ます。精神科医のスタッフォード-クラークは,無神論を擁護する人々について次のように語っています。「この説を擁護する際にそれらの人たちの示す情熱は,……感情面で信仰が必要とされることをさらに示す,今一つの生々しい証拠である」。
知性についてはどうか
人間は,神を持ち出さなくても物事の存在を説明できるというのは真実ではありませんか。人々はそうしようと試みています。神を舞台から締め出そうとする動きが活発になってきています。
そのような意見に賛同されますか。もしそうであれば,ちょっと考えてみてください。それはどこまでが自分の考えですか。今日の世界に存在する「知的風土」の影響はどれほどありますか。
「非宗教的な時代における宗教」という本は,哲学者,レズリー・デュワートの次のような言葉を引き合いに出しています。「現代人は……現代の科学的な文化によって形造られているが,それは中世の人々が当時の神学的な文化によって形造られていたのと同じである」。中世には,ほとんどの人が神を信じていました。当時存在していた社会はそのような社会でした。そのうえ,神を信じないことはしばしば危険を伴いました。しかし,その信仰は,ほとんどの場合,理性ではなく,迷信に基づいていました。当時の「神学的な文化」には,科学の進歩を妨げるきらいが時としてありました。それで,ガリレオがその革命的な発見をしたとき,当時の宗教指導者たちはガリレオに自説を「撤回」させようとしました。(もっとも,実際には,ガリレオの発見した事柄は,聖書の述べるところと少しも矛盾していません。)
現代では,形勢はいわば逆転しています。神を信じさせないようにする圧力は,昔あった,神を信じさせようとする圧力と同じほど強くなっています。僧職者たちでさえ,進化論のような現代の学説を支持して,聖書の一部を放棄してしまいました。中には聖書の道徳規準を退け,同性愛や淫行のような行為を是認する者さえいます。
中世の状況と現代の状況,どちらかが正しいのでしょうか。中世の迷信的な見方が平衡を欠いていたからといって,現代の唯物論的な考えが正当化されるわけではありません。例えば,アメリカの著名なロケット技師,ウェルナー・フォン・ブラウン博士は,次のように語ったと記録されています。「私にとって,宇宙の存在の背後に卓越した理性の存在を認めない科学者を理解することは,科学の進歩を否定する神学者を理解するのと同じほど難しい」。
進化論は神に対する信仰に取って代われるか
ダーウィンが進化論を普及させるまで,ほとんどの人は神は存在するに違いないと信じていました。物事の存在を説明する方法がほかにはなかったからです。しかし,進化論を受け入れるに至って,多くの人は神に対する信仰はもはや必要ではないと考えたようです。
しかし,進化論を信じている人なら,ダーウィンの考えを形造ったものについてハーパーズ誌の最近号に掲載された所見に関心を抱かれるでしょう。ダーウィンの考えは本当に,生物と化石の記録に関する客観的な分析に基づいていましたか。ハーバード大学生物学科のステファン・J・グールド教授の次のような言葉が引用されていました。「系統的漸進論は,そもそも憶測に基づく仮説であった。それが岩石の中に『認め』られたことは一度もなかった。それは19世紀の自由主義の文化的,政治的な偏見を表わしていた」。つまり,ダーウィンの考えは周りの社会に左右されていた,のです。カール・マルクスは次のように述べたと言われています。「ダーウィンが,動植物の中に,労働や競争,[その他]の分野を有する英国社会の姿を見たのは注目に値することである」。
今日の科学者の多くは,進化論を支持して説かれる学説の正当性に重大な疑問を投げ掛けています。では,ダーウィンの教えを信じることが依然として支持されているのはなぜですか。前述の記事はさらにこう述べています。「進化の仕組みを放棄することになれば,必然的に,進化が本当に起きたかどうかについて疑問を生む結果になる,と論ずる人がいる。それこそ,ダーウィンの説が依然として根強く擁護されている理由であるに違いない。……なぜなら[ダーウィンの支持者は]唯物論者だからである」。
しかし,そうした人々が残された道を顧みようとしないからと言って,進化論が正しいに違いないというわけではないでしょう。a ガリレオの時代の宗教指導者が頑迷な態度で,ガリレオは間違っているに違いないときめつけたのと同じです。感情や偏見は,宗教指導者を盲目にすると全く同様に,科学者をもたやすく盲目にしかねません。
それでも実際には,神に対する信仰を捨てさせようとするか,少なくとも神を舞台から締め出そうとする「近代主義」の圧力すべてにもめげず,大勢の人は神の存在を固く信じています。そして,現代の科学的な知識の増加は,その確信を強めているにすぎません。
[脚注]
a この問題に関するさらに詳しい資料を望まれる方は,「進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか」という本をご覧ください。
[5ページの囲み記事]
「中世には,ほとんどの人が神を信じていました。当時存在していた社会はそのような社会でした。……現代では,形勢は……逆転しています」。
[6ページの囲み記事]
科学者は疑念を言い表わす
科学者は一人残らず進化論を受け入れているのでしょうか。多くの人はそのように信じ込まされてきました。しかし,科学的な根拠に基づいて進化論を退けたり,進化論に疑問を抱いたりする著名な科学者は,米国だけでも,文字通り幾千人もいます。また,進化論を奉ずる科学者自身も,その説に大きな欠陥のあることをしばしば認めます。そのような人たちの意見を紹介しましょう。
「最近の数十年間に,人間の起源と思われるものに関する解釈が著しく変化したので,人間がいつ,どこから来たのかについて語るにあたっては注意を払わなければならない。多くの科学者は,その綱領に従って返答しているにすぎない。しかし,宗教的な前提が全くなくても,進化論に疑問を投げ掛ける十分の根拠がある」― キングズ大学の生物学者,ウェイン・F・フライアー。
「それは独断であって,科学ではない。今日の科学的な知識の点から言えば,それは意味をなさない」― ミシガン州立大学の自然科学者,ジョン・N・ムーア。
「人間の進化に関する,最古の,そして最も面倒な問題の幾つかは依然として未解決のままであることを,読者各位に思い起こさせねばならない。……過去にそうであったように,様々な仮説を現在信奉している人々は,自分たちが正しいと確信してやまないまさにその点で間違っているかもしれない。……人間の進化に関する見解はいずれも,信頼性の度合いのかなり異なる,うわべの事実の上に築き上げられている」― カリフォルニア大学バークリー校,自然人類学教授,シャーウッド・L・ウォシュバーン。
無生物から進化したとされる微小な生命体には増殖能力があるでしょうか。
「著名な理論物理学者,ユージン・P・ウィグナーが,余り知られていない出版物の中で述べた事柄を指摘するのは極めて当を得ている。ウィグナーは,群論を用いて,的確で,論理的な証明をしている。それによると,いかなる種類であれ自らを再生する固体が自然に存在するようになる確率はゼロである」― ニューオーリンズ大学化学科の準教授,エドワード・A・ボードロー。
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どうして信じるべきですか目ざめよ! 1980 | 2月8日
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どうして信じるべきですか
どんな論証に基づいて,人は神の存在を信ずるに至るのでしょうか。聖書はその指針を与え,こう述べます。「神の見えない特質……は,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見える(のです)」― ローマ 1:20。
「造られた物」,つまり創造物について熟考した末,多くの人は万物の背後に何か,または何者かが存在するはずだということを悟るに至りました。現代の科学的な思考に多大の影響を及ぼす学説を考え出したアインシュタインは,次のように述べています。「真剣な態度で科学の研究に没頭している人であればだれしも,宇宙の諸法則のうちには一つの霊が明らかに示されていることを確信するようになるであろう。その霊は人間の精神をはるかにしのぎ,ごくわずかな力しかない我々は,その前にあって謙虚にならざるを得ない」。
人体に目を向ける
聖書はこう述べています。「天は神の栄光を告げ知らせ,大空はみ手の業について告げている」。(詩 19:1,新)しかも,それらのものは実に雄弁に語っているではありませんか。
しかし,神の力と特質の表わされている実例を見るために,何も星のきらめく広大な天体にまで目を向ける必要はありません。自分の体のことを考えてみればよいのです。
手に目を向けてみてください。今お読みになっている雑誌を手にしておられるでしょうか。そうであれば,ご自分の目からちょうど良い位置に雑誌が来るよう,腕は曲げられているに違いありません。手の指は各々,雑誌が落ちることなく,かと言って紙を破いてしまうほどでもない,ほど良い圧力をかけています。このすべてを考えてから雑誌を読み始めましたか。もちろんそのようなことはないでしょう。体がすべての事柄を取り計らってくれたので,自分で決めなければならないことは最小限ですみます。
体はどちらかと言えばくつろいでいるとしても,目は今何をしていますか。次々に現われる語や語群に,自動的にピントを合わせています。目に映った映像は,目の奥で電気衝撃<インパルス>に変えられます。それが脳へ伝えられます。読んでいる事柄に集中しておられるなら,脳は将来利用するために情報を蓄えており,また以前に取り入れた情報と新しい資料とを比較しています。
一方,自分では考えなくても,心臓はせっせと血液を送り出し,複雑な経路を通して体内を循環させています。その血液は必須物質を必要とされている所へ運び,それから老廃物を体から除き去れる器官までそれを運びます。
加えて,横隔膜の働きで肺は酸素で満たされ,次いで二酸化炭素を出すために収縮します。
少し前に物を食べたなら,意識的に指示を与えていないのに,食物は現在消化されています。食物は胃の中で酸と混ざり,基本成分にまで分解されているか,腸の中で“ぜん動運動”として知られる複雑な筋肉運動により圧搾され,血液の中に養分として吸収されているかのいずれかでしょう。
進行中の活動はほかにもあります。骨髄は,新しい血球を造っています。皮膚は,古くなった表面細胞に取って代わる,新しい細胞を造っています。手足のつめや頭髪は伸びています。各種の腺は,体を化学的にバランスの取れた状態に保つために複雑な物質を生産しています。体がくつろいでいるように見える今この時に,こうした事柄すべてが起きているのです。
人体の構造に見られる工学的な技術は,この宇宙時代における人間のいかなる業績よりも,信じ難いほど進んでいます。これほどの傑作を,単なる偶然の所産とみなすのは論理的なことですか。
進化論によれば,人類は自然の法則の所産であるとされていますが,その“法則の制定者”がだれであるかを進化論は説明していません。事実上,進化論によれば,人間は自らを造ったことになります。しかし,聖書記述者の論議に従うほうが論理的,つまり,わたしたちの知っているような,物事が実際に起きる方法に合っているのではありませんか。聖書記述者はこう述べています。「わたしは畏怖の念を起こさせるように奇しく造られてい(ま)す」。また,「知れ,エホバが神であられることを。わたしたちを造られたのは彼であって,わたしたち自身ではない」と述べられています。―詩 139:14; 100:3,新。
現実を直視しましょう
西洋での考え方が唯物論に傾いているため,神が存在することを認め,「人間の起源はどこにあるか」という質問に対する霊的な答えを認めることに不安を覚える人は少なくありません。ある自由思想家はこう語っています。「我々は現在の知識の範囲内で,またその見地に立って自らを表現してのみ,分別もあり,理性もあると言える」。しかし,本当にそうでしょうか。
科学者が存在を認めてはいても,説明のつかない事柄は数多くあります。人間の精神,良心,崇拝しようとする本能などはいずれも,厳として存在しています。しかし,科学では,そのようなものを「現在の知識」の見地に立って説明することはできません。生命そのものについてはどうでしょうか。生物と無生物を区別するものとなっている,この強力な「生命力」とは一体何ですか。科学者たちは答えられません。しかし,それはわたしたちの日常経験の一部なのです。実際,それが余りにもありふれているので,生命そのものが本当はいかに奇跡的なものであるかを忘れてしまう傾向があるほどです。
原因と結果に関するよく知られた法則によれば,すべて結果のあるところには原因があります。人体を造り上げる,すばらしい,精巧な機構には「原因」があったに違いありません。今日,わたしたちは,その第一「原因」がいかに賢明であったかを悟る点で,過去のどの世代よりも恵まれた立場にあります。さらにその上,人間の精神や人間の良心,生命そのものなどにも,「原因」があった,つまり製作者がいたに違いありません。実際のところ,聖書の説明の仕方を除けば,こうした事柄に満足のゆくような説明を加えることは決してできません。一聖書記述者は,自分の崇拝する神に呼びかけ,「命の泉は,あなたと共にあり」と述べています。(詩 36:9,新)わたしたちの「現在の知識」からすれば,他のいかなる結論に至る根拠もありません。
それではどうして悪い事が起きるのか
上記の論議を検討していたときに,一人のフィリピン人の無神論者は次のような問題を提起しました。「自然の中には,ある程度の秩序や驚異,美が見られる。しかし,それは事態の半面に過ぎない。他の半面には恐るべき混乱がある」。それから,「混乱」とは何を意味するか ― 自然の災害,疫病など ― を説明した後,この人はさらにこう言葉を続けました。「信心深い人は,自分の宗教心を強めることになる自然の秩序には慈しみのこもったまなざしを向けるが,そのような信条を弱める混乱からは目をそむける」。
そうしておられますか。それとも,無神論者のほうが不信仰という自分たちの信条を弱めることになる,『自然の秩序や驚異,美』から目をそらしているのでしょうか。
例えば,疫病について不平を鳴らす人は,事の次第のごく一部しか述べていません。人体の驚くべき自然治癒力に触れていないのです。その自然治癒力自体,すばらしい力を備えた造り主の存在を証明します。ある時,ナポレオンの軍医総監は,配下の兵士を大勢治療したとして皇帝から感謝の言葉をかけられました。ある本によれば,それに対して軍医はこう答えました。「私は世話をいたしましたが,治してくださったのは神様です」。
そのうえ,道義的に言って,人間には,病気やその他の問題があるからという理由で神の存在に疑問を差しはさむ権利があるでしょうか。これらの問題の原因の大半は,人間の失政,人間の戦争,犯罪,不正直などにあるというのが真実ではありませんか。心臓病やガンなど,原因の大半が人間の自ら造り上げた環境や生活習慣にある疫病はどれくらいあるでしょうか。人類の相当数が貧しくて,みすぼらしい生活をしているという事実がなければ,ほかのどれほど多くの病気を予防できたことでしょう。
しかし,人間の諸問題すべてが直接人間の責任であるわけではない,というのも真実です。神はどうしてそのような事が起きるのを許しておられるのでしょうか。それは神が存在していないことの証拠となりますか。
この点をもっとはっきりさせるのに,例えが役に立つでしょう。アイルランドの西海岸近くのある島に,“見捨てられた村”として知られる所があります。それは,もはやだれも住むことがなくなった,小さな村です。ご想像どおり,家々は荒れ果て,屋根ははがれ,ドアはなくなっています。壁が崩れ去っている家も珍しくありません。
その村の荒れ果てた状態を見て,そこにある家々は人間によって設計され,建てられたものとは思えないと言うでしょうか。それとも,「言うまでもなく,家はすべてだれかによって造られる」という聖書の陳述におのずと同意したくなりますか。そうです,荒れ果ててしまった家の場合でもです。(ヘブライ 3:4)それらの家々が手入れのされていない状態にあっても,それが何者かの手で建てられたことは分かります。また,現在の状態は,必ずしも建築者の責任ではないことも分かります。家屋の崩壊を阻む方法はあるのですが,家の持ち主がその家を捨てたのです。それで,今では荒れ果てているのです。
人類の置かれた状態も似たようなものです。聖書によると,人間の造り主は人間を完全な者に造りました。人間には,地を従え,自分の子孫で地を満たす責任が与えられました。(創世 1:28)それを首尾よく成し遂げられるかどうかは,人間の造り主の指示に従うかどうかにかかっていました。それらの指示に従えば,「混乱」もなく,地を従えたあとに自然の災害や疫病で生命を失うこともなかったでしょう。しかし,創造者の導きを退けたために,人間という「家」は,今や手入れの行き届かない状態にあり,だれもそれを否定することはできません。
神は人間に,自分の道を選択する自由意志をお与えになりました。神は人間に服従をしいるようなことをされません。それでも,幾十世紀にもわたって人間が失政を続けてきた間に,神は,自らの自由意志を用いて神に仕えようとする人々を捜し求めてこられました。ご自分の創造物を支配する,神の権利を認めようとしない者たちは間もなく滅ぼされることを,聖書は説明しています。そうした人々は命の源である方を退けるので,罰として命を失うのです。しかし,自分たちの生活を喜んで神のご要求に調和させる人々は,神の天の政府の下で,地が全世界的な楽園に変えられるのを目撃する喜びにあずかります。それらの人々は,人間の不完全さや失政のために失われていた祝福すべてを享受します。―啓示 21:3-5。
ですから,今,神について知るようになることは,どんな人にとっても極めて大切です。ある人々がどのようにしてそうなったのかを知るのは有益なことです。
[9ページの図版]
人体を設計したのはだれですか
脳: 人間の造った最良のコンピューターでさえ,それと比べればおもちゃにしか見えないほど複雑な,生きたコンピューター。現在の人間が一生涯かかって用いる記憶および学習能力の十億倍の能力を秘めているとされる。
目: 全自動,焦点自動調整,ピンボケ防止,カラー映画撮影機で,即座に立体写真を撮り,現象所での現象を必要としない。
心臓: 人間の考案したどんな機械よりもはるかに効率のよいポンプ。毎日,5,700㍑以上の血液を送り出し,その仕事量は人体をまっすぐ150㍍上空へ引き上げる仕事量に匹敵する。
肝臓: 500以上の機能を有する,極めて複雑な万能化学工場。血液,ビタミン,ミネラル,栄養素などを,必要に応じて貯蔵,放出するのもその機能の一つ。化学変化を促すために,1,000種を超える酵素を製造する。
骨: 重さわずか9㌔でありながら,鉄の大梁と同じほどの強さを発揮する骨組み。筋肉を固定させ,大切な器官を守るための装備とバランスは際立ったもの。
神経系統: 電気化学的な衝撃<インパルス>を通して受け入れたり,作用したりする感覚が,1秒間に1億にも及ぶ,膨大な情報伝達網。皮膚のどの場所にも,またどこの筋肉,血管,骨,器官にも達している。
[10ページの図版]
荒れ跡にある家でさえ,「だれかによって造られ」た。
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ある人々が信じるよう助けられた方法目ざめよ! 1980 | 2月8日
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ある人々が信じるよう助けられた方法
神の存在を信じていない人は,どのようにして神を知るようになれるのでしょうか。現在,神を信じるようになっている人の多くは,まず最初に,ある特定の問題に直面しなければなりませんでした。それは何ですか。
東洋の一宗教に属していたひとりの人は次のようなことを認めています。「[創造者はいないという考えを捨て切れなかった]大きな理由の一つは,その宗教が気ままな生活を送り,満足感を抱くよう勧めていることにありました」。
同様に西洋でも,著述家,ジョン・コグレーはこう述べています。「近代主義(少なくともマルクス主義的でないもの)は,個人の自由 ― 思想,政治,性行為に関する事柄,そして中でも生命という大きな問題に関する仮説などの点での自由 ― に途方もないほど重きを置いている」。
この自由,そして最初の引用文の中に挙げられた気楽な生き方は,破壊的なものになりかねません。それを捨てて,より高い権威を認めるには謙遜さと広い心が求められますが,そうした特質はすべての人に備わっているわけではないのです。
何を得るための自由か
言うまでもなく,自由は望ましいものになり得ますが,有害なものになることもあります。子供に自由を与えすぎるなら,交通の激しい道で遊んだり,熱いストーブに手を触れたりしかねません。外部の助けなしに,自分ですべての決定を下すという面での完全な自由は,その決定が間違っている場合に,ありとあらゆる種類の問題を引き起こします。
神の存在に関する真理を受け入れるとき,わたしたちが何かを得そこなうことはありません。確かに,個人の自由はある程度制限されますが,その制限は自分自身や他の人を傷つけないために役立つような仕方で加えられるにすぎません。神を本当に信じる人々は,そのような制限の必要を進んで認めてきました。神に関する真理を認めることは,自由を与えるものともなりました。自分たちの哲学によって他の人を食いものにしようとする人々に欺かれることからの自由や,人生の目的を知らないために味わう絶望感からの自由です。かつて,イエスが言われたように,「真理はあなたがたを自由にするでしょう」。―ヨハネ 8:32。コロサイ 2:8。
神の存在を認識するための助け
西洋では,多くの人が信じてはいないと言うものの,大抵の人は「最高の存在者」という言葉の意味するところを知っています。しかし,東洋では,問題はもっと複雑です。以前はクリスチャンでなかったひとりの人は,信仰を共にしたことのある人々について,「そのほとんどは,最高の存在者という着想に欠けています」と語りました。
とはいえ,これらいずれの種類の人に対しても,神を知るように助ける第一段階は,大抵,創造物に目を向けさせ,最初の造り主,設計者がいたに違いないという論議を指摘することです。日本で長年奉仕した一クリスチャンは,次のように説明しています。「わたしたちは例えを活用します。腕時計やカメラなどを造るには理知ある人間が必要とされます。しかし,それらの造られた物には命がありません。花や鳥や人体を見てご覧なさい。これらのものを設計したのはだれですか」。このような論議を用いて,彼は東洋人の思いの中に神の存在という概念を築き上げようと努めます。
神を知るよう人々を助ける
創造の原因となった力の存在を認めることから,愛のある,天的な父として神を知るようになるまで進歩するのは,かなり大きな行程です。アインシュタインは,創造の源である霊が宇宙の背後にあることを自ら識別していましたが,そのアインシュタインでさえ,それが人類の近づくことのできる実際の人格的な存在であるという点を受け入れてはいなかったようです。アインシュタインはある時,次のような意見を述べました。「今日の宗教界と科学界の間にある対立の主要な原因は,人格神という概念にある」。
現在,神を信じている人々は,どのようにして人格性を有する神を親しく知るようになったのでしょうか。この点で,人々は神ご自身に頼らねばなりませんでした。大きな国では,国民の大半は自国の元首の存在について知っているでしょう。人々の生活は,毎日のようにその元首の影響を受けます。しかし,その元首の友人になるのは,当の元首が近づくことを許す人々だけです。同様に,わたしたちは創造物から神の存在を疑いの余地なく学べますし,食物,空気,太陽光線,雨など,神の賜物を享受するという点で,わたしたちの生活が神の影響を受けない日はありません。しかし,神がご自分に近づくことを許してくださらない限り,わたしたちは決して神を知るようになれません。
喜ばしいことに,神はそれを許してくださいました。どのようにして? 一つの方法は,聖書を通してです。神はその書物の中に,ご自分が長年にわたり人間に対して取ってこられた行動の記録を残させました。神はご自分の特質を示し,その上わたしたちが神に語りかける際に用いるお名前をも教えてくださいました。そのお名前は「エホバ」です。(詩 83:18)ですから,本当に神を知るようになった人々は,まず最初に,その驚くべき本に対する認識を培わねばなりませんでした。
大抵の人は,聖書にはどこかしら他と異なったところがある,ということを認めます。聖書は他のいかなる本よりも,はるかに多くの言語に訳されており,他の追随を許さない空前のベストセラーです。聖書は,それを抹殺しようとする執拗な努力にもめげず,幾世紀もの間存続してきました。また,他のいかなる本よりも古い歴史を有しています。しかし,多くの人々が受け入れようとしない点は,霊感のもとに記されたという聖書そのものの主張です。それでも聖書ははっきりと,「聖書全体は神の霊感を受けたものであ(る)」と述べています。(テモテ第二 3:16)この主張が正しいことを示せますか。示せます。そして,以前は信じていなかったのに,今ではエホバを知るようになった人々は,個人的に証拠を検討するのに必要とされる時間を喜んで割きました。その結果,どんなことが分かったのでしょうか。
それらの人々は,聖書を読み,その中の幾百もの預言が成就したことを知りました。そして,人間に起きる事柄のそうした詳細すべてを,幾世紀も,場合によっては幾千年も前に知ることなど,とても人間業ではないことを悟りました。聖書も,預言する能力は確かに,神性を表わす証拠の一つであることを示しています。(イザヤ 46:8-10)神の古代の僕の一人は,自分の生きていた時代までに成就した聖書預言についてこう述べています。「あなた方の神エホバがあなた方に語られたすべての良い言葉のうち,一つとして果たされない言葉はありませんでした。それは皆あなた方にとってその通りになりました。その一つとして果たされない言葉はありませんでした」。(ヨシュア 23:14,新)この点を確信した人々は,預言の成就が単に過ぎ去った事柄ではないことをも知りました。これまで以上に多くの預言が,わたしたちの時代に成就しつつあります。事実を検討するにつれて,それらの人々は,聖書が神の霊感による言葉であるに違いないということを認めざるを得ないと感じました。―マタイ 24章,マルコ 13章,ルカ 21章,テモテ第二 3:1-5をご覧ください。
またそれらの人々は,聖書の助言と導きも同じほど感銘を与えるものであることを知りました。これらの助言や導きが,人々の間に伝わっている単なる民間の知恵よりもはるかに高い知性を示していることをしだいに悟るようになったのです。それらの人々は,自分たちの前に,幾千年間も人類を観察し,何が人間にとって最善かをご存じの方の知識と理解があるのを見ます。夫婦,若者,貧しい人,金持ちなどに対する聖書の助言は,絶えざる驚きの源となります。それは,その助言の表わす洞察とその助言の実際性のためです。(例えば,コロサイ 3:5-8,18-25; テモテ第一 6:9-11,17-19; マタイ 6:24-34; 箴 7:1-27をご覧ください。)個人的にこの助言を当てはめるようになると,その人たちは詩篇 119篇2節(新)の次の言葉が真実であることを身をもって体験します。「幸いなことよ,[神]の諭しを守り行なう者たちは。それらの者は心を尽くして彼を捜し求める」。
神を知るようになるための他の方法
数年前,日本で,一人の紳士は,エホバの証人の大会に出席する一群のクリスチャンと同じ電車に数日続けて乗り合わせました。その紳士は,それらのクリスチャンの振る舞いに余りにも深い感銘を覚えたので,それについて調べてみることにしたほどです。ずっと以前に,使徒パウロはすべてのクリスチャンに対し,「神を見倣う者となりなさい」と告げました。(エフェソス 5:1)子供が大抵の場合親によく似た者となるのと同じく,真のクリスチャンも自分たちの生活と振る舞いにおいて天の父を反映するように努めます。ここに挙げた日本の紳士に深い感銘を与え,この人がエホバを知るようになるのに役立ったのは,そうした努力の成果でした。今では,この紳士もエホバの証人になっています。
同様に,東洋の別の国に住む一婦人は,神を知るようになるのに助けとなった事柄を挙げるよう求められたとき,とりわけ次のような点に言及しました。「人種の相違を超越して,あらゆる種類の人間を一つに結び付ける,支配的な律法と原則を知ったことです。それはエホバの証人の間に見られる模範によって裏づけられています」。また,「エホバの証人の人柄を観察したことです」とも述べています。ですから,創造者は,ご自分の崇拝者の振る舞いや活動によって,求める者にご自分を明らかにされます。
上記の婦人はまた,自分が創造者を知るのに導きとなった,わたしたちの思考を促す別の事柄に注意を向け,「自分でもびっくりするのですが,私の人格も多くの面で変化しました」と語っています。それはどのようにして可能になったのでしょうか。使徒パウロは,そのようなことが起きるのを期待してしかるべきであると述べています。パウロはクリスチャンにこう告げました。『あなたがたの思いを活動させる力において新たにされ,神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格を着けなさい』。(エフェソス 4:23,24)正直な人々は,自らの内にある悪い傾向を抑えようと努めます。それは容易なことではありません。しかし,創造者を崇拝する人々には,それを可能にする,「思いを活動させる力」があります。これは,神ご自身の聖霊によって強められます。この「力」に強められて,麻薬中毒,性倒錯,犯罪に走る傾向などを正した人もいます。それらの人々は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制などを培いました。(ガラテア 5:22,23)これは,神の存在,そして人間を助けようとする神の願いについて,強い確信を抱く根拠になってきました。
人々が神を知るに至った別の手段は祈りです。使徒ヨハネはこう述べています。「なんであれわたしたちがそのご意志にしたがって求めることであれば,神は聞いてくださる(の)です」。(ヨハネ第一 5:14)言うまでもなく,神はどんな人の祈りにでも答えてくださるわけではありません。箴言 15章29節(新)は,「エホバは邪悪な者たちから遠く離れておられる。しかし義なる者たちの祈りはこれを聞かれる」と述べています。しかし,神に忠実に仕える者たちは神に祈り,その祈りは答えられます。自分が絶えず語りかけ,様々な仕方で答えを与えてくださる方を信じないほうが困難です。
確かに,エホバは存在しておられる
確かに,エホバ神は存在しておられます。この点に疑問の余地はありません。そして,神は創造物がご自分を知ることを望まれます。神は,ご自分の創造のみ業によって,聖書によって,またご自分の組織や個人に神の霊が働きかけるその仕方によって,ご自身を明らかにしておられます。
天の父なる神のもとへ来て,真理を知ることによってもたらされる自由を味わってみてはいかがですか。神の助言に従い,将来に対する,心温まる神の約束を受け入れるのです。そうです,ずっと昔に詩篇作者の勧めた次の言葉どおりにです。「エホバが慈しみ深いことを味わい,これを見よ。幸いなことよ。彼のもとに避難する強健な人は」― 詩 34:8,新。
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鳥は,最初に設計者がいて初めて存在するようになったに違いない
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聖書を通して,神はご自分をわたしたちに紹介し,ご自分のお名前,特質,目的などを知らせておられる
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崇拝者たちの生活に神の特質が反映されているのを見て,人々はエホバへの崇拝に引き付けられる
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自分が語りかけ,自分に答えを与えてくださる方を信じないほうが困難です。
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信仰を抱くのに妨げとなる事柄を克服する目ざめよ! 1980 | 2月8日
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信仰を抱くのに妨げとなる事柄を克服する
多くの人は,信仰を抱くのに妨げとなる事柄を克服した後,神に対する純粋の信仰を培い,聖書を神の言葉として受け入れられるようになりました。日本に住むある無神論者の場合がそうでした。その人は後日,次のように語りました。
『私の両親はがんこな無神論者で,兄弟のうち女二人は創価学会の熱心な信者です。祖母は弘法大師に帰依し,運勢判断をしたり,時には信仰療法を行なったりしていました。それによって,沢山のお金や米,野菜,その他の必要なものが得られました。私はこのような生い立ちから大きな影響を受けました。祖母の崇拝していたものは物質の富を得るための手段であることが分かっていました。信仰を持つと自認する人々の偽善を子供のころからうんざりするほど目にしていましたから,私個人は神に対する関心を抱いていませんでした。
『同時に,私の私生活は今にして思えば恥ずべきものでした。毎晩,マージャンやボウリングにふけっていました。酔っ払って家に帰るのは,空が白みかけたころでした。昼ごろ起きては,家の周りで幾らか仕事をし,それから再び同じ事の繰り返しです。このような生活が原因で,私は病気になり,胃の大手術を受けるはめになりました。妻との間にはいさかいが絶えませんでした。
『まじめな友人が聖書を研究しているという話を聞いたのは,ちょうどそのようなころでした。その友人が初めて聖書から神のことを話した時,私は強く反発しました。友人が宗教に欺かれているように思えたので,心配のあまり躍起になって,聖書の研究をやめさせようとしました。何度試みても,友人の決意はゆるがず,聖書の研究をやめようとしませんでした。そこで,私が聖書を研究することにしました。といっても,聖書を理解したかったからではありません。友人を納得させて,研究をやめさせるために,聖書の粗捜しをするのが目的でした。
『しかし,聖書を研究していくと,そこに真理のあることが分かってきました。エホバは他のあらゆる神々と異なっておられること,愛と憐れみの神であられること,全能者で,わたしたちの創造者であり,命の授与者であられることを確信するようになりました。聖書のヘブライ 4章12節には,「神のことばは生きていて,力を及ぼす」と記されていますが,聖書を研究していくにつれて,以前の節度を欠いた自分の生活態度が変化していくのを経験して,この言葉の真実さを身をもって味わいました。夫婦げんかをしなくなったので,妻はその変化に気づき,私といっしょにエホバの証人の集会に出席するようになりました。今では妻がしばしば口にするように,妻は私を本当に信頼しており,私たちは幸福な家庭生活を送っています』。
かつて無神論者であったもう一人の日本人は後に次のように語りました。『私は大学に行って,共産主義の運動に加わり,快楽を追い求める生活を送っていました。そして今では,結婚して,主婦となっています。ある日のこと,エホバの証人から,神の王国がこの地に対して行なおうとしている事柄やその時の生活がどのようなものとなるかを聖書から教えられて驚きを覚えました。ものみの塔の本を何冊か読んでみましたが,その中には「聖書はほんとうに神のことばですか」という本も含まれていました。これらの本の内容から,エホバの証人には,聖書の客観的な真理に基づく確信や偽善のない歩み,自分の信じている事柄のためには命を危険にさらすことさえいとわない態度などの見られることが分かりました。私はエホバの証人の集会に出席したくなりました。そして,「神がおられるなら,どうぞ教えてください」と祈るようになりました。やがて,自分の探し求めていたものを見いだしたことに気づきました。たとえささやかであろうとも,私は,自分に「良いたより」を聞かせてくださったエホバの憐れみに対する感謝を表わしたいと思っています』。
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