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あなたは神と親密な関係を持てますかものみの塔 1979 | 8月1日
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あなたは神と親密な関係を持てますか
「エホバとの親密さは,彼を恐れる者たちのもの。また,その契約も。それをこれに知らせるため」― 詩 25:14,新。
1 神はすべての人とどんな関係にありますか。
神は創造者ですから,すべての人とある関係をお持ちです。使徒パウロはアテネで一群の哲学者に向かい,「ご自身がすべての人に命と息とすべての物を与えておられる」と語りました。(使徒 17:25)しかし,いつまでもよこしまな人は,エホバと親しくなることはできません。(箴 3:32)それでもエホバは,彼らが子供をもつこと,地の良い物を楽しむこと,またもしその気になれば悔い改める機会を得ることを許しておられます。―使徒 14:16,17。
2 神の好意を得るには何が必要ですか。人間はその必要を満たせますか。
2 しかし,神の好意を得,神を友また親しい仲間とするためには,神の単なる創造物ということよりもさらに親しい関係が必要です。永遠の命を望むなら,神および神の目的との協調を保つことがぜひとも必要です。すばらしいのは,機会が開かれた時に心から望めば,だれでもこの関係を得ることができるということです。使徒パウロはアテネ人に,神はまた「人びとが神を求める」ようにしてくださったと言い,「それは,彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません」と語りました。―使徒 17:27。
3 神に近づくことを願う人はすべて,神と自分たちとの間にどんな障害があることを認めねばなりませんか。
3 神を求めることにはどんな事柄が関係しているでしょうか。そして神は誠実な態度で神を求める人に対してどのように行動されるでしょうか。わたしたちが神に近づくのを妨げるものは,人間の罪深さです。わたしたちの罪は厚い雲のように意思の疎通をしゃ断することがあります。(哀歌 3:44と比較してください)神にお願いしたいという気持ちすら起こさせないかもしれません。自分は清くなくて神に近づく資格がないというふうに考えさせるかもしれません。それでも,もしわたしたちが,人はみな罪人で良心のとがめを感ずるようなことを毎日行なう者だということを自覚していないなら,わたしたちは神に近づく立場にありません。そして神も,すべての人間に一様に当てはまるこの事実を認めない人々の祈りを聞かれないでしょう。―ペテロ第一 3:12。
キリストの死と復活は土台
4 神はご自分との意思の疎通や親交をはばむ障害を取り除くべく,どのように最初に措置を取られましたか。
4 しかし,この意思疎通や親交の障害となるものを除去するための取り決めをつくることによってご自分と関係を結ぶように,最初に措置を講じたのは実際に神ご自身です。この取り決めとは何でしょうか。使徒パウロは次のように答えています。「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです」。(ローマ 5:8)キリストは地上におられたとき完全で罪のない方でしたが,ご自分が罪人であるかのように,すべての罪人の受ける罰をご自分で負われたのです。無罪でありながら人類の罪の罰をそっくりお受けになりました。「杭の上でわたしたちの罪をご自分の体に負(って)……くださったのです。そして,『彼の打ち傷によってあなたがたはいやされました』」と,使徒ペテロは述べています。(ペテロ第一 2:24)このことを神は何世紀も昔に意図されました。預言者イザヤは,「彼はわたしたちの違犯のために刺し通され,わたしたちの咎のために打ち砕かれたのである」と予告しました。(イザヤ 53:5,新)人類の身代わりとしてのイエス・キリストの行動は,犯された罪に対する公正の要求をすべて相殺し,自分の罪を認めて神の取り決めに信仰を働かせる人すべてから有罪宣告を除去するための土台をすえました。―ローマ 8:1。
5 イエスの死だけでなくイエスの復活もわたしたちにとって重要であるのはなぜですか。
5 加えて,キリストが死んだ状態にとどまらずに復活し,現在生きておられるという事実も,キリストの助けが常にあることの保証です。したがって人は神との親しい関係を楽しむことができます。「イエスはわたしたちの罪過のために[苦しみと死に]引き渡され,わたしたちを義と宣するためによみがえらされたのです」と聖書はわたしたちを励ましています。(ローマ 4:25)キリストはご自分の犠牲の価値を献ずるために神のみ前に出ました。ヨハネが幻の中で見たイエス,クリスチャン会衆を表わす七つの黄金の燭台の中央にいて右の手に七つの星すなわち油そそがれた監督の集団をもつイエスは,今日の栄光を受けたイエスでした。(啓示 1:12-16)わたしたちの生ける大祭司としてのキリストについては,次のように書かれています。「彼は自分を通して神に近づく者たちを完全に救うこともできます。常に生きておられて彼らのために願い出てくださるからです」― ヘブライ 7:25。
6,7 キリストは「罪に関して」死に,「神に関して」生きているというのはどうしてですか。
6 そういうわけで,キリストを信ずる人は,神との連絡を断たれた,罪ゆえに霊的に死んだ者としてではなく,神の命令によく従い他の人々を強める,積極的,建設的な方法で神に奉仕する生きた者として生活することができます。このことについて使徒はローマにいた「聖なる者」に次のように述べています。「キリストが死人の中からよみがえらされた今では,もはや死なないということを,わたしたちは知っているからです。死はもはや彼に対して主とはなりません。彼は死を遂げましたが,それは,罪に関してただ一度かぎり遂げた死であったからです。また,いま生きておられますが,それは神に関して生きておられる命なのです。あなたがたも同様です。自分を,罪に関してはまさしく死んだもの,しかし,神に関してはキリスト・イエスによって生きているものとみなしなさい」― ローマ 1:7; 6:9-11。
7 不潔でいまわしいもの,神とキリストから嫌悪され,忌みきらわれるもの,すなわち罪を処置するという特別の目的をもってキリストは地に来られたということを,使徒はここで指摘しています。(ヘブライ 1:9)キリストは常に喜びをもって父のご意志を行なわれましたが,罪は敵ですから,罪を取り除くに際しては不快な事柄を数多く経験しなければなりませんでした。イエスは死ぬ直前に,「成し遂げられた!」と言われました。(ヨハネ 19:30)ですからイエスは罪に関して,つまり罪を取り除くために死なれたのです。しかし今は「神に関して生きておられます」。イエスは栄光を受け,神と共に永遠に天におられます。イエスの犠牲は繰り返される必要がないからです。それは成し遂げられたので,イエスは建設的な仕事,すなわち人々を再び神と親密にならせ,命を望む者すべてに対する神のご意志を遂行する仕事に着手することができました。―ヘブライ 7:25; 8:1; 9:28。
神は人々をキリストに引き寄せる
8,9 神はどのように人々をキリストに引き寄せられますか。
8 エホバ神はこの取り決めをつくることによって人間に対する大いなる愛と過分のご親切を表わされましたが,それだけにとどまらず,ご自分の目的に関して働いておられます。心の正しい人々をキリストに引き寄せるのは神なのです。「わたしを遣わしたかたである父が引き寄せてくださらないかぎり,だれもわたしのもとに来ることはできません」と,イエスはおっしゃいました。イエスは使徒たちのことを,父から与えられたものとして語られました。―ヨハネ 6:37,39,44。
9 神は人を引き寄せることをどのようにして行なわれるのでしょうか。それが気まぐれに,公平を欠いた方法で,あるいは人に無理強いする方法でなされるのでないことは言うまでもありません。かたくなで罪深い人間の意志は,自然に,つまりひとりでに神に従う方向に傾くことはありません。しかし神は人の意志を変化させることができます。神は人の心の奥底をご存じです。したがって,キリストおよび救いの道について聞かせることができるばかりでなく,その取り決めを理解させることもできます。見えない目を開くことができます。人々が自分からはキリストに信仰を置くことはなくても,彼らがそうするように神がこの事物の体制の存在期間中に人々を引き寄せるということは,キリストの優れていることや,キリストと結びつけられるすばらしい特権についての知識を彼らの心に入れるということです。
10 神が引き寄せる行為は,誠実な人にどんな影響を及ぼしますか。
10 次いで個々の人は,キリストに従い,キリストに結びつくことを心から願います。それはちょうど,ある良い人の善良さを本当に知って,その人に近づきその人の友達になることを願うのに似ています。人の心を引き寄せるという神の行動の一例は,エッサイの子ダビデの時代の古代イスラエル国民に見られます。神はダビデに王国を約束しておられました。その王国をダビデに与える時が来たとき,神はダビデの支配下で進んで仕えるよう,民の心をダビデに引き寄せられました。(サムエル後 2:4; 3:36; 5:1-3)このように神が人々の心をキリストに引き寄せるのです。
個々の人々は意志を働かせなければならない
11 キリストのもとへ来ることにおいて,個人の意志はどんな役割を演じますか。知識のない人の意志はどのように変わりますか。
11 しかしこれは,個人の意志は全く関係がないということではありません。初めは,キリストのところへ来る積極的な意志はないかもしれませんが,学ぶときに,つまり『その人の心の目』が開かれるときに,その意志は変化し得るのです。(エフェソス 1:18)イエスは,この事物の体制の存在する間にエホバの天の女シオンの子供となる人々のことを述べたイザヤの預言を引用して,「預言者たちの中に,『そして彼らはみなエホバに教えられるであろう』と書いてあります。父から聞いて学んだ者はみなわたしのもとに来ます」と言われました。(ヨハネ 6:45。イザヤ 54:1,13)その人は悟りを得,理解を得て意志を変えます。変えたくないのに変えるように強要されることはありません。理解は信仰をもたらします。そしてイエスが後日追随者たちに話されたように,神とみ子はその人の信仰に動かされて,その人を受け入れます。「わたしのおきてを持ってそれを守る者,その者はわたしを愛する人です。さらに,わたしを愛する人はわたしの父に愛されます。そしてわたしはその人を愛して,自分を明白に示します。……だれでもわたしを愛するなら,その者はわたしのことばを守り,わたしの父はその者を愛し,わたしはその者のところに来て住まうのです」― ヨハネ 14:21-23。
12 代わってキリストはどのように人々を神に近づかせますか。
12 父は人間の目に見えないので,キリストを通してご自身を示されます。イエスが地上におられたとき神の優れたご性格をお示しになったからです。そのためにイエスは,「わたしを見た者は,父をも見たのです」ということができました。(ヨハネ 14:9)信仰を働かせる人は,キリストのところへ来て,父をますます親しく知るようになります。キリストが神の属性の深いところや卓越性を,彼らの心に明示されるからです。
13 神に受け入れられる近づき方ができるためには,人は自分をどのように見なければなりませんか。
13 では個人としては,神に近づき神と親しくなるためにどんな段階を踏まねばならないでしょうか。それには必要感,つまり自分の生活はすべてが満足のいく申し分のないものとは言えないという感じを持っていなければなりません。自信過剰になることなく,自分が罪人であることを認め,自分の状態のむなしさに気づいて,自分を不完全な者と見なければなりません。もしその貧しい状態を十分に認識していない人がいるなら,神がモーセを通してイスラエルにお与えになった律法を調べれば,自分が確かに全くの罪人であることがわかるでしょう。律法の目的は,正しい者はひとりもいないということを示すことと,心の正直な探究心のある人に贖う者の必要を悟らせることにありました。―ガラテア 3:19,24。
14 神と関係をもつことを望む人は,さらにどんな段階を踏むことを要求されていますか。
14 心の正しい人はこの必要を感じ,誠実なそして真剣な態度で聖書を調べ,キリストを通して神の道を学びます。そして神との関係が全くないことに気づくなら,罪が本当に悪いものであることや,自分が罪の影響を受けていることを納得します。そして自分が実際には神の敵であることを悟り,ついで変化することを望みます。(ローマ 5:10)したがって悔い改めることをし,許しを求めます。常に必要なのは,自分の高い見識と善良さによって引き寄せられているのではなく,神が引き寄せてくださっているという自覚です。その人は,キリストの贖いの犠牲に基づいてこの許しが得られることを知りました。神の目的を知りまたそれに対して感謝の念を抱くようになったので,神に全く献身したしもべとなる願いと決意を表明し,かつ水のバプテスマを求めることによってその信仰と決意を,他の人々の前で実証します。
神との関係における新しい身分
15 バプテスマを受ける人が願い求める「正しい良心」とは何ですか。
15 このバプテスマによってその人は神に対して正しい良心を願い求めます。(ペテロ第一 3:21)「正しい良心」とは,過去の罪に対する罪悪感がもはや良心を苦しめなくなることを言います。またこれは,神およびキリストを友としておふたりと新しい関係を持つことをも意味します。(ヨハネ 15:14,15)それというのは,キリストの犠牲に対する信仰ゆえに過去の罪を許され,さらにそれ以上のものをさえ得るからです。
16 そのような人は,神との関係において現在どんな良い立場を得ていますか。どうすればその立場を維持できますか。
16 一つの例えを通して考えてみましょう。世の権威が施す恩赦は,犯罪者の過去の犯罪を帳消しにします。しかし犯罪者はそれによって出発点に戻るにすぎません。将来助けを得られるとか,あるいは将来悪事を行なうことがあってもその罪は問われないといった慰めや保証はありません。しかしキリストに信仰を働かせる人を神は友として受け入れられ,現在もまた将来においても,最終的に完全になるまで,絶えず親しい者としてその人を扱われるのです。(ペテロ第一 5:10)その同じ信仰と忠実さを保つ限り,その人は日々犯す罪の許しを祈り求めることができ,また親しい関係を維持することができます。しかし,「神の過分のご親切を受けながらその目的を逸することがないように」すべきであることは,言うまでもありません。(コリント第二 6:1)その親しい関係につけ入って神のみ前に良い立場を保とうと考えるのは間違いです。
キリストの手にゆだねられている
17 神が人をキリストに引き寄せられたなら,次にキリストはその人のために何を行なわれますか。
17 神が人をイエス・キリストに引き寄せられたなら,男女を問わずその人はどんな立場にありますか。イエスは次のことを認めておられました。すなわちすべての人は父のものであり,父が引き寄せる者は子に与えられるということです。彼らが世話を受け,クリスチャンとして成長するように,イエスの手に渡されるのです。(ヨハネ 17:9,10)神は預言者イザヤを通しキリストについて,「彼は自分の魂の難儀ゆえに見て,満足するであろう」と約束しておられました。(イザヤ 53:11,新)ですからイエス・キリストは神がイエスの業と犠牲を実りあるものにしてくださることを期待しておられました。イエスはまた,すべての肉なるものに対する権威がわたしに与えられた,とも言われました。(ヨハネ 17:2)この権威を行使することによってイエスは,神がイエスに引き寄せる者たちを守り,真理に反対するよこしまで敵意を抱く者たちから保護されます。イエスは自分に与えられた人々について言われました。「わたしは彼らに永遠の命を与え,彼らはいつまでも決して滅ぼされることがなく,だれも彼らをわたしの手から奪い取る者はありません。父がわたしに与えてくださったのは,ほかのすべてのものより偉大なものなのであり,だれもそれを父の手から奪い取ることはできません」。(ヨハネ 10:28,29)したがってクリスチャンは,迫害や病気,困難,反対その他どんなことでも,恐れるべきではありません。―ローマ 8:38,39。
18 りっぱな羊飼いに忠実に従う人は,その結果として最後にどうなりますか。
18 りっぱな羊飼いであるイエス・キリストの支配下にあって忠実にイエスに従う人々は,永遠の命を約束されています。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされたからです」と,イエスは言われました。―ヨハネ 3:16。
19,20 それで神と親しい関係をもつことにはどんな価値がありますか。
19 永遠の命! 人は死ぬかもしれませんが,その希望が絶やされることはありません。み子と,父がご自身の羊の「小さな群れ」の成員としてみ子のもとに連れてこられる者たちとの優れた関係が永続的で,断つことのできないものであることを示して,イエスは,「父がわたしにお与えになるものはみなわたしのもとに来ます。そして,わたしのもとに来る者を,わたしは決して追いやったりはしません」と言われました。―ルカ 12:31,32。ヨハネ 6:37。
20 したがって,りっぱな羊飼いのところに来る人々はその保護のもとで,生活のあらゆる面における援助と導きを期待でき,また前途に永遠の命の希望を持つことができます。では,神およびそのみ子との優れた関係を確立すること以上に良いことがあるでしょうか。しかしその優れた関係が現実のもの,親密で,温かく,安定した関係であることは,日々の生活とかかわりのある事柄の中でどのように表われるでしょうか。
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神との関係は今わたしたちの助けになりますかものみの塔 1979 | 8月1日
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神との関係は今わたしたちの助けになりますか
「エホバはご自分を呼ぶ者すべてに近くあられます。……助けを求める彼らの叫びを聞き,そして彼らを救ってくださる」― 詩 145:18,19,新。
1,2 ダビデの言葉は,神と親密な関係にある人の優れた立場をどのように示していますか。
王であり預言者でもあったダビデは,神が「業を別として義と」みなしてくださる人の幸いについて述べ,「その不法な行ないを赦され,罪をおおわれた者は幸いである。エホバがその罪を考えに入れることのない人は幸いである」と言いました。(ローマ 4:6-8。詩 32:1,2,新)そのような人は罪を許されています。神の目に清い者です。エホバはその人を,不義なところのない者とみなし,親友として受け入れられます。不義は神から離れる原因となるからです。
2 神のみ前にこのような立場を持つことのすばらしさについて,ダビデはさらに次のように言います。「エホバをほめたたえよ,我が魂よ。そのすべての行ないを忘れてはならない。あなたのすべての誤りを赦しておられる方を。あなたのすべての疫病を癒しておられる方,坑からあなたの命を取り戻し,あなたに愛ある親切とあわれみをもって冠を戴かせておられる方,あなたの生がいを良いもので満たしておられる方。あなたの若さは鷲のそれのように自らを更新し続ける」― 詩 103:2-5,新。
神の友
3 (イ)キリストの犠牲によって罪を許されている人々は,愛情を示すどんな言葉で神に話しかけることを許されていますか。(ロ)個々の人はこの立場をどのように維持しますか。
3 そのような人は神を父と呼ぶことができます。(マタイ 6:9)不完全な人間の常として過ちや罪を犯した場合でも,それに気づいたとき,神に許しと清めを請い求めることができ,そうすることによってその正しい立場を保つことができます。使徒ヨハネはこのことについて次のように書いています。「『自分には罪がない』と言うなら,わたしたちは自分を惑わしているのであり,真理はわたしたちのうちにありません。わたしたちが自分の罪を告白するなら,神は忠実で義なるかたであり,わたしたちの罪をゆるし,わたしたちをすべての不義から清めてくださいます」― ヨハネ第一 1:8,9。
4 キリストはご自分の弟子たちに対して親しさをどのように示されましたか。
4 では神との親しい関係は,日々の生活においてどのように『あなたの生がいを良いもので満たす』でしょうか。そしてその関係はどのようなものでしょうか。イエスは忠実な使徒たちとの親密度を示して,彼らに次のように言われました。「わたしはもはやあなたがたを奴隷とは呼びません。奴隷は自分の主人の行なうことを知らないからです。しかしわたしはあなたがたを友と呼びました。自分の父から聞いた事がらをみなあなたがたに知らせたからです」。(ヨハネ 15:15)さらに「彼は,彼らを『兄弟たち』と呼ぶことを恥としません」。(ヘブライ 2:11)確かに聖書はクリスチャンたちのことを,神とキリストの奴隷と言っています。しかし聖書はしばしば人間の言葉,つまりわたしたちになじみの深い言葉を用いています。それは特定の事柄をわたしたちにはっきり教えるためです。それというのも,わたしたちが不完全であり,また時にはキリスト教の知識や理解において未熟であるからです。(ローマ 6:19; コリント第一 3:1,2と比較してください。ルカ 17:7-10もご覧ください)ですから「奴隷」という言葉が使われていても,イエス・キリストは実際に,かつて奴隷を愛した主人のうちのだれよりもはるかに深くわたしたちを愛しておられ,またわたしたちをご自分の友とみなしていることを,わたしたちが確信するよう望んでおられます。
5 イエスは,神を愛する者たちに対して神が抱いておられる親しみや愛情を,どのように示されましたか。
5 イエスは,神もまた同じように,キリストに来る者たちの近くにおられることを指摘して,「だれでもわたしを愛するなら,その者はわたしのことばを守り,わたしの父はその者を愛し,わたしたちはその者のところに来て住まうのです」と言われました。(ヨハネ 14:23)人が望み得るこれ以上に親しい関係があるでしょうか。(啓示 3:20と比較してください)イエスはご自分が去って父のもとへ行くことを弟子たちに告げてから,神が思いのほか近くいますことを示して,次のように言われました。「その日には,あなたがたはわたしになんの質問もしないでしょう。きわめて真実にあなたがたに言いますが,あなたがたが父に何か求めるなら,父はそれをわたしの名において与えてくださるのです。今この時まで,あなたがたは何一つわたしの名において求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちるためです。わたしはこれらのことをあなたがたに比喩で話しました。わたしがあなたがたに比喩で話さず,父についてはっきり告げる時が来ようとしています。その日,あなたがたはわたしの名において求めるでしょう。そしてわたしは,あなたがたに関して父にお願いするとは言いません。父ご自身があなたがたに愛情を持っておられるからです。それは,あなたがわたしに愛情を持ち,わたしが父の代理として来たことを信じているからです」― ヨハネ 16:23-27。
悪行から守られる
6,7 (イ)神は罪を犯すようにだれかを実際に誘惑されることがありますか。(ロ)神はどのように『見張りや番人を置かれます』か。
6 神と親密な関係にある人は確かに悪に走らないよう守られます。「わたしたちを誘惑に陥らせないで,邪悪な者から救い出してください」と神に祈るべきであるとイエスは言われました。(マタイ 6:13)この祈りは,「エホバよ,どうかわたしの口のために見張りを置いてください。どうかわたしの唇の戸に番人を置いてください。わたしの心をどんな悪い事にも傾けさせないでください」という詩篇作者の祈りに似ています。―詩 141:3,新。
7 神はキリストが誘惑に遭遇するのを許されました。誘惑に遭うということはすべての人が共通に経験する事柄です。しかし神は,悪をもってだれかを試すようなことはされません。(ヤコブ 1:13)かといって,人が悪い道を選ぶことを実力で阻止することもされません。誘惑や試練が臨むとき,神はむしろ陥っている危険に目をはっきりと開かせて,親しい者たちを守られるのです。神はその人のために『見張りや番人を置かれます』。神と交わる人は,強力な警戒警報に注意を向けさせられます。
8 『わたしたちを誘惑に陥らせないでください』という祈りに,神はどのようにお答えになりますか。
8 例えば,盗みをしようとする気持ちや人を中傷しようとする気持ちに誘われた人は,次のような警告となる特定の事実をすぐに思い出すでしょう。つまり悪行は神との優れた関係を危うくするかまたは損なう。そういう行為は愛のおきてに反する。クリスチャンは神とキリストの代表であると公言する者であるから,そのような行ないはおふた方の良き名に非難をもたらす。そういう悪い欲望に負けるなら,自分や自分の愛する者たちに,非難と悲しみをもたらす。また自分の属するクリスチャン会衆の名を汚す。罪のためのキリストの犠牲に信仰を働かせるときに願い求めた良心がひどく傷つけられる。クリスチャンは絶えず聖書を読むために,また神の霊や,時には仲間のクリスチャンに刺激されるために,警告となるこうした考えが心に浮かぶのです。これらの考えは,神との良い関係という安全装置を持たない人の場合のように,ただもうがむしゃらに,軽率に肉の欲に走るのを阻止する働きをします。―箴 7:22,23およびサムエル前 25:32-35にあるダビデの経験と比較してください。
思想と言論の自由
9 “キリスト教世界”と呼ばれる国々のことを考えてみるとき,神の言葉の力はどのように示されていますか。
9 神と関係を持つことから生まれる主要な恩恵は,思想と言論の大いなる自由です。この問題における神の言葉の持つ力のほどを知るには,“キリスト教世界”と呼ばれる諸国家を見るとよいでしょう。それらの国は,神と本当に親しい関係にあったことはありませんが,過去二世紀にわたり,概して,神の言葉の自由な普及を許してきました。聖書は家庭で読まれる本となりました。現在聖書を否定する人は少なくありませんが,聖書の優れた道徳的原則に従うよう努力してきた人々の中には,支配的地位にある人々さえいました。このことは思想と言論の自由を誘発し,暗黒時代の宗教的因習や迷信の束縛から人々を解放しました。それらの国では,聖書の普及率に比例して,人々の生活水準が高まっていきました。
10 (イ)創造の驚異を研究する科学者や他の人々は,どこまで深く神を理解していますか。(ロ)神との親しい関係を本当に望んでいる人は何をすべきですか。
10 このように,神の言葉を通して事のついでに神を知ったような場合でも,啓発を受けて生活が向上しますが,本当に聖書を読み,聖書を生活の導きにする人は,それよりもはるかに大きな益を受けます。族長ヨブは,神に関する知識がうわべだけのものであってはならないことを指摘しています。科学者が研究に研究を重ねてやっと理解でき説明できるようになった創造の驚異をいくつか述べたあとヨブは,「見よ,これらは[神の]道の外縁,そして何というささやき事が彼について聞かされたのだろう」と述べています。また,真の知恵を得るには単に「彼の道の外縁」,すなわち科学的事実だけを学ぶにとどまらず,それ以上のものを学ぶ必要のあることを,後ほど指摘しています。神のご性格の優れていること,正しい行動基準を守る方として神を恐れること,またそれらの行動基準に従うことを知るようにならねばなりません。この知恵は,神の言葉を研究することによってしか得られません。「見よ,エホバへの恐れ ― これこそ知恵であり,また悪から離れることは悟りである」と,ヨブは言います。(ヨブ 26:14; 28:28,新)聖書をよく調べることによって神と親しくなることを求める人に対して,詩篇作者は次のように書きました。「幸いな者,それはあなたが選び,近づかせ,あなたの中庭に住まう人。その人はあなたの家の良さに必ず満ち足りるでしょう」― 詩 65:4,新。
神と親密になれる人はだれか
11,12 神はどんな人を受け入れて,親しく友好的な関係を結ばれますか。
11 したがって,神が個人をご自分の友と認める関係は,無限に大きくかつ永続的な祝福をもたらします。詩篇 15篇には,神がそのような親しい友としてお選びになる者のことが次のように述べられています。
「エホバよ,だれがあなたの天幕で客となるのですか。
だれがあなたの聖なる山に住まうのですか。
とがなく歩み,義を行ない,
その心に真実を語っている者です。
彼は自分の舌で中傷したことがありません。
自分の伴侶に対して何も悪を行なったことがなく,
親しい知人に対して非難を取り上げたことがありません。
彼の目には,卑しむべき者は確かに退けられます。
しかしエホバを恐れる者たちを彼は敬います。
自分にとって悪いことを誓い,それでも彼は変えません。
彼は自分の金を利子付きで分け与えたことがなく,
罪のない者を不利にするわいろを取ったこともありません。
こうした事柄を行なっている者は決してよろめくことがありません」― 詩 15:1-5,新。
12 こういう人だけが神を恐れ,本当に神を知るようになります。そのような神の友も,だれもが遭遇する同じ一般的な問題に直面します。しかし何の助けも与えられずに放置されることはありません。
病気の時の助け
13 神は重い病気にかかっているクリスチャンのために,どんなことを行なわれますか。クリスチャンは病気のときの忍耐をどのように見ますか。
13 クリスチャンも重い病気にかかるかもしれません。往々にして肉体の病気は人の霊的健康に望ましくない影響を及ぼします。病気のときには平衡を保つのが難しくなります。神は病人に深い同情を寄せられるだけでなく,援助もお与えになります。「エホバご自身が病のふしどで彼を支えてくださる。あなたは彼の病気の間そのすべての寝床を必ず変えてくださる」と,詩篇作者は述べています。(詩 41:3,新)神は,ご自分のしもべがどんな病気の場合でも,完全に健康を取り戻すと約束しておられるわけではありません。しかし,病人のそばに立って,病気に耐えられるようにしてくださることは,クリスチャンに約束しておられます。詩篇のこの言葉は,体のどこも窮屈にならないように絶えず患者に気を配る看護人,あるいは,気分がさわやかになって元気が出るように,体を洗ってやったり,シーツを取り替えたり,ベッドのしわを伸ばしたりして気持ちがよくなるようにしてやり,愛情をこめて病気の子供の世話をする親を思い起こさせます。もしその人にとって一番よいことであるならば,神はその人を病床から立ち上がらせ,病の床を健康の床に変えることができます。しかし,たとえ回復しなくても,神はすべての事柄をその人の益となるように仕向けてくださいます。(ローマ 8:28)その人は霊的に強くされます。そして病気を,自分がもっと強くもっと思いやりのある,そしてもっと同情心の深いクリスチャンになるための一種の懲らしめ,または訓練とみなして忍耐します。キリストが苦しまれたことを常に心に銘記しています。イエスの経験は,イエスご自身の,そしてわたしたちの益となりました。神はイエスを見捨てられませんでした。イエスのがまん強い忍耐に対する報いは大きなものでした。―ヘブライ 4:15; 5:8,9。
迫害を受けている時の助け
14 迫害が臨むときわたしたちは驚くべきですか。助けが得られるどんな保証がありますか。
14 クリスチャンは聖書の行動基準に従うために,反対や迫害を受けることさえあります。このことはダビデの身にも起こりました。ダビデは動物のようにサウル王に追われ,親しい友に裏切られ,病気の時には息子たちが彼に対して陰謀を企てました。(サムエル前 24:2。詩 41:9。サムエル後 15:31。列王上 1:1,5)しかし彼は自分の経験から次のように書いています。『災難の日に,彼[エホバ]はご自分の隠れがにわたしを隠し,ご自分の天幕の秘められた場所にわたしを潜ませてくださる」,「わたし自身の父と母がわたしを捨て去るようなことがあったなら,エホバご自身がわたしを取り上げてくださる」― 詩 27:5,10,新。
経済面での心配からの自由
15 クリスチャンはなぜ,生活に必要な物資が得られないかもしれないという心配をすべきではありませんか。
15 クリスチャンは経済状態さえも過度に心配すべきではありません。使徒パウロは次のように記しています。「あなたがたの生活態度は金銭に対する愛のないものとしなさい。そして,今あるもので満足しなさい。『わたしは決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない』と言っておられるからです。こうして,わたしは大いに勇気を持って,『エホバはわたしの助け主,わたしは恐れない。人はわたしに何をできようか』と言います」。(ヘブライ 13:5,6)ダビデも,「エホバを求める者たち,彼らは良いものに事欠くことはない」と断言し,さらに,「わたしはかつて若者であった。また,老いた者ともなった。だが,義なる者が全く捨て去られるのも,その子孫がパンを捜し求めるのも見たことがない」と言いました。―詩 34:10; 37:25,新。
他の人々を助けることから生まれる平安と喜び
16 神と関係があるゆえにクリスチャンが現在受けている最も貴重な益をいくつか挙げなさい。
16 神と親密な関係を持つことから現在生ずる最大の利点は,心の平安と,この世界や自分自身に臨む事柄への恐れからの自由が得られることです。クリスチャンは,神と親しい者たちに対する神の愛あるご配慮と保護を経験してきていますから,より良い状態が到来するという確かな希望を抱いています。神の約束に従って,義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(ペテロ第二 3:13)また,たとえ死んでも,義にかなったその事物の体制に復活するという希望を抱いています。(使徒 24:15)クリスチャンは日々,パウロの言った次の言葉が真実であることを自ら体験します。「いっさいの考え[クリスチャンが考え得るあらゆる良い事柄]に勝る神の平和が,あなたがたの心と知力を,キリスト・イエスによって守ってくださるのです」― フィリピ 4:7。
17 神と親密であるゆえにクリスチャンにはさらにどんな喜びがありますか。
17 クリスチャンはこの優れた関係を享受していますから,他の人々もこうした事柄を学ぶように助けることができます。人々が神の真理を知って,エホバやそのみ子と良い関係を持つべく引き寄せられるように援助することほど,大きな喜びはありません。このためにエホバの証人は全世界で人々の家庭を訪問し,「良いたより」を人々に伝え,聖書の勉強を手伝う目的で,重ねて訪問します。こうしてクリスチャン会衆と交わるようになるとき,新しい人々も,父と,父が地に遣わしたイエス・キリストを親しく知る喜びを経験します。そうした人々すべてにとって,『これは永遠の命を意味する』のです。―ヨハネ 17:3。
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