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処女からの誕生が本当にありましたかものみの塔 1976 | 8月1日
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生まれたのです。しかしその事はなぜ必要でしたか。
わたしたちは聖書から次の事を知ります。すなわち最初の人間アダムの不従順のゆえに,完全な人間の生命はアダムの子孫すべてにとって失われたということです。こう記されています,「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」。(ローマ 5:12)事実アダムは全人類を罪と死への隷属状態に売り渡したのです。(ローマ 7:14と比べてください。)
それゆえにアダムの子孫を解放するために贖いの価が必要でした。モーセの律法中に明らかにされた完全な正義という神の標準に従えば,その価は失われたものに正確に符合しなければなりませんでした。モーセの律法は「命には命……をもって償わなければならない」と定めていました。(出エジプト 21:23,24,口)イエスは不完全な人間の父親の働きをまたずにマリアの胎に宿ったゆえに,アダムが失ったのと全く等しいもの ― あらゆる弱さと不完全さの全く無い人間の命を持っていました。この理由でイエスは「すべての人のための対応する贖い」としてご自身を与えることができたのです。―テモテ第一 2:6。
このように聖書的な証拠はただ一つの結論を指し示しています。すなわち処女からの誕生は実際にありました。この奇跡によってのみ,神の子として完全な人間,不完全さの跡がみじんもない人の生まれることが可能でした。人間が罪と死から解放される道を開いたこの奇跡に対して神になんと感謝すべきなのでしょう!
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困っている人々に惜しみなく与えるものみの塔 1976 | 8月1日
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困っている人々に惜しみなく与える
わたしたちの神エホバは,寛大さという面で秀でておられます。しかも,これは単に神がすべての物の所有者として寛大になるための資力を持っておられるという理由だけによるのではありません。むしろ神が愛とあらゆる寛大な精神のまさに具現であられるからです。イスラエルの詩人もこう述べました。「あなた[エホバ]はみ手を開いて,すべての生けるものの願いを飽かせられます」。(詩 145:16,口)エホバは,受けるに値しないような人々の上にも雨を降らせ,太陽の光を注いでおられます。(マタイ 5:45)この小さな惑星上の微少な被造物であるわたしたちすべてに対して,神は何と情深く,思いやりがあるのでしょう。
神は崇拝をささげるためにご自身に近付く者に,他の人を扱う点で神に見倣うよう努力することを教えておられます。現在のいわゆる賢人からは“原始時代”とみなされている遠い昔に,この寛大な神はご自分の崇拝者に次のように教えました。「あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と,貧しい者とに,手を開かなければならない」。(申命 15:11,口)このような教えを心に植え付けるなら,大掛かりな慈善運動の必要もなければ,基金集めを専門に行なう人々に多額の給料を払う必要もないでしょう。人々は,「すべての者に寛大に,またとがめることなく与えてくださる」方の教えと模範に応じるでしょう。―ヤコブ 1:5。
現代のエホバの崇拝者も,寛大さに関するこの教えを学びました。彼らは,自分たちの主であり主人であるイエス・キリストの語られた,「受けるより与えるほうが幸福である」という言葉に深い感銘を覚えています。(使徒 20:35)また彼らは,その言葉が真実であることを体験しています。近隣の困っている人々に注意を払い,そうした人々に物品を目立たないように分け与えているからです。さらに,他の国々にいる仲間の崇拝者が災害に遭ったことを聞くと,特別な救援活動を即座に申し出ます。彼らは困っている人々に対して寛大にその手を開いているのです。
より貴重な贈り物を分け与える
しかしエホバの民は,もっと大きな必要について学びました。それは,地球上の大勢の人々が必要としているもので,キリスト・イエスはこの地上におけるご自分の特別な宣教期間中にそれに注意を促しました。ある時大勢の貧困な者たちから成る群衆に語られた際,イエスはこう助言しました。「滅びる食物のためではなく,永遠の命へとながく続く食物のために働きなさい。それは人の子があなたがたに与えるものです」。(ヨハネ 6:27)また,イエスはこのように述べました。「『人はパンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない』と書いてあります」― マタイ 4:4。
それで,パンや水など生命を支える物質よりもはるかに価値のあるものがあるのです。イエスの使徒たちは,このことをよく知っていました。例えば,ある足なえのこじきに呼び掛けられた時,ペテロはその男にこう語りました。「銀や金はわたしにないが,わたしにあるもの,それをあなたに与えます。ナザレ人イエス・キリストの名において,歩きなさい!」 使徒たちがその男に授けたのは何でしたか。いやしは確かに驚くべきものでしたが,それだけではありませんでした。彼らは明らかに,その名においていやしが行なわれたナザレ人イエスと,イエスを世に遣わされたエホバ神への深い感謝の念をその男の中に呼び起させたのです。その男が神殿に入って行くとき,「歩いたり,躍ったり,神を賛美したりし」たことを記録はさらに述べています。―使徒 3:6-8。
今日,エホバの証人は,人々の肉体上の疾患をいやすそうした奇跡的な力を持っていませんが,自分たちが持っているものを喜んで,また熱心に他の人々と分かち合いたいと考えています。では,それは何ですか。エホバ神への感謝の思いと,聖書に記されている,人類とこの地に対する神の目的に関する知識です。この知識を他の人々に知らせるために,エホバの証人は街頭や田舎に出掛けて行き,彼らが差し伸べねばならない情報に耳を傾ける人々を捜します。それは命を与える情報と言えます。なぜなら,イエスは天の父への祈りの中で,こう述べておられるからです。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」― ヨハネ 17:3。
クリスチャン証人たちは,神から受けた良いものを惜しみなく他の人々と分かち合うことができるようこうした奉仕に多くの時間を費やし,自費でそのことを行なっています。たとえ,彼らが訪問する人々の多くが,そうした奉仕を行なう動機を理解しなくても,あるいはその動機の純粋さを疑うようなことがあっても,エホバの証人は,聖書の音信に感謝するようになるふさわしい人々を捜し出す業を行ない続けます。
さらに,注目に値する事柄があります。それは,困っている人々を物質的にまた霊的に助けるため何を与えるべきかをイエス・キリストの真の追随者にだれも告げる必要がないということです。そうです,申命記 16章17節(口,[新])に示されている聖書の原則が当てはまるからです。「あなたの神,[エホバ]が賜わる祝福にしたがい,おのおの力に応じて,ささげ物をしなければならない」。また,各人が神からいただいている祝福の度合いを知っているのはだれですか。それは,神とキリスト・イエスと個々の崇拝者だけです。それで,寛大な神が自分に注いでおられるすべての祝福について思い巡らすなら,クリスチャンは,人に言われて他の人々に分かち与えることはありません。感謝の気持ちに動かされてそうするのです。
与えるために組織される
世界中の大勢の人々が命を与える神の王国の音信を緊急に聞く必要のあることを考慮し,その必要
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