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わたしたちの神エホバは義かつ公正なかたものみの塔 1976 | 9月1日
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わたしたちの神エホバは義かつ公正なかた
「忠実の神であり……義かつ方正であられる」― 申命 32:4,新。
1,2 (イ)聖書は裁き人としてのエホバをどのように描写していますか。(ロ)わたしたちはこれにどう反応しますか。なぜですか。
その昔,ヘブライ人のある詩篇作者は,エホバ神について,「彼は義と公正を愛される方」とうたいました。また別の詩篇には,「わたしは良く知っています,ああエホバよ。あなたの司法上の決定が義にかなっていることを」と記されています。これらの言葉は,幾世紀も昔に語られたとはいえ,人の心に訴えるものを持っていませんか。宇宙における究極の権威であられる創造者を,「義と公正を愛される方」と考えるのは,満足のいく,そしてまた心強いことではないでしょうか。―詩 33:5; 119:75,新。
2 わたしたちがこのように反応する一つの理由は,わたしたちのだれもがなんらかの形の不義や不公正を経験させられてきたからに違いありません。国家的,人種的,社会的背景のゆえに不公正な扱いを受けてきたかもしれません。あるいは学校で,職場で,近所で,不公平な扱いを受けてきたかもしれません。またわたしたちは,権力のある人が不当な扱いをしたということを,なんとしばしば耳にすることでしょう。
3,4 このことは多くの人間の裁き人のやり方とどのように対照的ですか。そのことからどんな質問が生じますか。
3 そのような扱いを受けることを人々がどう思うかにイエスは気づいておられました。それはある例えを話された時に言われた言葉から分かります。イエスは,明らかにローマ人によって任命されていたある裁き人について話されました。それはどんな裁き人だったでしょうか。彼は「不義な者」で,公平に扱ってもらえるという確信をもって頼れるような人間ではありませんでした。事実,その裁き人は,ユダヤ人のやもめがうるさくせがむので,ただそれだけの理由で最後に彼女のために公正な裁きを行なった,と述べられています。―ルカ 18:1-6。
4 あなたはそのような裁き人をどう考えますか。彼は公正な決定を下す者と考えられているのに,それをしようとしません。それに引き換え,「義と公正を愛される方」と正しく描写されている裁き人は,なんとさわやかな対照でしょう! しかし,考えてみましょう。詩篇作者はエホバについてそう言いましたが,あなたはエホバがそのような方であることを確信していますか。神は義でも公正でもない,と主張する人々がいることをあなたはご存じでしょう。そういう主張を突き付けられたことがありますか。その主張は神に対するあなたの見方に影響しますか。詩篇作者に共鳴する納得のいく理由を挙げることができますか。
5 神の義と公正のどの面をある人々は気にしていますか。
5 また中には,神の言葉と目的に関心を持ちながらも,エホバの義と公正に対する自分の確信に疑いの影を投げかける問題で心を悩ませている人たちもいます。そのような人々は,例えば,「大患難」がこの邪悪な事物の体制を終わらせるまでの短い期間に,一体どのようにしてすべての人が王国の音信を聞いてそれを受け入れる,または拒否する機会を得られるのだろう,といぶかっているかもしれません。(マタイ 24:21)心配の種とされる別の分野は,新秩序になったとき,果たしてある親せきや,現代のひどく悪い人々その他が死人の中からよみがえるのか,ということです。あるいは,新秩序で神は,とりわけ結婚や家族の事柄に関しどんな特権をお与えになるか,ということについても懸念があるかもしれません。そうした問題に関連してあなたは心を悩ませていますか,それとも,エホバは義かつ公正なことを行なわれる,と確信していますか。
6 「義」かつ「公正」であるとはどういうことですか。
6 義かつ公正であるとはどういうことですか。くだくだしい,形式張った定義を抜きにするなら,これは次のように言うことができます。「義」にかなった人とは,正しいこと,道徳にかなったことを行なっている人です。その人は善良で責めがありません。これと関連のある「公正な」人とは,正しく公平なことを,えこひいきなく行なう人のことです。したがってエホバを描写する,「忠実の神であり,不公正なところはない。義かつ方正である」という言葉の裏には多くの意味があります。―申命 32:4,新。
証言を検討する
7 どんな証言を検討するのは適切ですか。
7 ある有名な法律家は,「公正というものなど法廷の内にも外にもないのだ」と言ったことがあります。法律関係の職業における経験と,他の人々の言うこととを考え合わせて,その法律家はそういう見方を持つようになりました。この世ではそれは一般に事実かもしれません。しかし,エホバに関しては「経験」は何を示したでしょうか。では幾つかの証拠を,つまりエホバと個人的に交渉を持ったことのある人々の証言を検討してみましょう。
8,9 (イ)アブラハムは神のある司法上の問題にどのように関係していましたか。(ロ)彼はその状況にどう反応しましたか。
8 聖書が書き始められる以前でさえ,信仰の人々は,神の義と公正について自分の考えを述べています。アブラハムはその良い例です。彼は神の命によりメソポタミアの都市ウルを去り,カナンの地の漂泊の住人となりました。(創世 12:1-5。ヘブライ 11:8)彼のおいのロトは,ソドムの町の近くに居を定めました。後日,アブラハムは,エホバを代表する一人のみ使いの訪問を受けました。そのみ使いは,住民の罪に対する激しい抗議の叫びが上がっているので,ソドムとゴモラに対し司法上の検閲を行なうつもりである,と言いました。(創世 18:20,21,新)一定の司法的処置を取ることがすでに決定している,とは言わなかったことに注目してください。むしろみ使いは,苦情と「叫びのそのとおりに彼らが行動しているのかどうかを見る」つもりでした。それを聞いてアブラハムはどう反応しましたか。
9 ロトを含むソドムの住民が救われる可能性に関心があったので,アブラハムはどんなことが起こるのか,祈るような気持ちで尋ねました。創世記 18章23節から25節(新)にはアブラハムのその言葉が記録されています。「本当にあなたは,義なる者を邪悪な者と共に除き去られるのですか。その都市のただ中に義なる者が五十人いたとすれば。それでもあなたはその人々を除き去り,その内にいる五十人の義なる者のためにその所を赦すことはされないのですか。あなたがそのように行動して義なる者を邪悪な者と共に死に処し,義なる者に対して邪悪な者に対すると同じ事が起きなければならないなどというのは考えられないことです! そのようなことはあなたについては考えられません。全地を裁く方は正しいことを行なわれるのではありませんか」。次いでアブラハムは,同都市に住んでいる,そしてその都市が救われるのを可能にする義なる者の最小限の数を知ろうとして,もし45人の,または40人の,または30人の,または20人の,または10人の義なる者がいるならどうなりますか,と尋ねました。―創世 18:26-33。
10,11 アブラハムはエホバが間違ったことを行なわれると信じていましたか。
10 道徳的で,善良で,正しい事を行なう努力をしていたという意味で「義」なる住民がそれだけの数もいなかったということを,アブラハムは,わたしたちが今知っているようには知らなかったのです。しかし,「全地を裁く方は正しいことを行なわれるのではありませんか」と言ったとき,アブラハムは神の義を真剣に疑問視し,神が公正を欠いた行動に出られることを恐れているという意味で言ったのでしょうか。
11 決してそうではありません。むしろ逆でした。その証拠に,アブラハムは,エホバのご性格について自分が知っていることを考えるとき,創造者が悪人と義人を共に滅ぼされることなど,どうしても想像できませんでした。アブラハムにとってそれは「考えられない」こと,思いもよらないことでした。アブラハムはそのように考えるほど神に関して無知ではありませんでした。パウロがヘブライ 11章の中で示している通り,アブラハムはエホバが「ご自分をせつに求める者に報いてくださる」方であることを知っていました。神は正しいことを行ないたいと願っている者たちを悪人と同じようには扱われない,という確信をアブラハムは抱いていました。しかし,どうしてアブラハムはそれを知ることができたのでしょうか。
12 なぜアブラハムはエホバの行なわれることに確信を持つことができましたか。
12 一つには,自分自身の場合にエホバがしてくださったことをアブラハムは知っていました。アブラハムは信仰をもって行動し,命令に従ってウルを去りました。神はそれを無視されたでしょうか。いいえ,神はアブラハムを祝福し,栄えさせられました。(創世 12:16; 13:2)エジプトではエホバは,ファラオに犯されないようアブラハムの妻を守られました。(創世 12:17-20)後日アブラハムは,おいのロトを『誘かいした』四人の王に対し,神の助けを得て勝利を収めることができました。(創世 14:14-20)確かにアブラハムは経験を通して神を知っていました。
13 神の過去の行動はどのように重要になってきますか。
13 しかし,エホバが義かつ公正であられることをアブラハムが信じていたのには,さらにほかの理由がありました。アブラハムの時代以前に住んでいた人々に対する神の態度がそれでした。例えば,大洪水前に,アブラハムの先祖ノアはその家族と共に,『心の考えの傾向がすべて常に悪いばかり』である人々の世のただ中に住んでいました。(創世 6:5-7,11,12,新)暴力に満ちたその世を神が終わらせたとき,「同時代の人びとの中にあって非の打ちどころのない」者であったノアはどうなりましたか。(創世 6:9,13,新)神は義人ノアとその家族を一掃し,悪人と共に彼らを拭い去られましたか。確かにそのようなことはされませんでした。そしてアブラハムはそのことを知っていました。―ペテロ第二 2:5。
14 この証拠はどんな結論に導きますか。
14 したがってアブラハムは,ソドムに住む義人と悪人を神が同じように扱われるかどうかという,この一見未確定に思える状況に直面したとき,自分の考えの導きとなるものをたくさん有していました。義なる審判者が,両方の部類の人々を同様に扱うことなど「考えられない」,と結論した彼は正しかったでしょうか。確かに彼は正しかったと言えます。ソドムとその周辺の町々は滅ぼされました。しかしエホバは,「義人ロト」がその家族と共に逃げる機会を得るよう取り計らわれました。―ペテロ第二 2:7,8。創世 19:21-29。
15 なぜこれはわたしたちの関心を引きますか。
15 ところで,義人と悪人の生死が関係してくる将来のある事態を神がどう扱われるか,という疑問に,もしあなたが直面したなら,どうでしょうか。アブラハムに対する神のすべての行動のみならず,ノアに対する神の行動についてもあなたは知っています。神が義かつ公正なことを行なわれたことが理解できます。このことは,将来に臨むその状況の中で神に何を期待するかに影響しますか。聖書にある証言を無視しますか,それともそれによって自分の考えを正しく作り上げますか。
慎み深さが必要
16,17 この問題において慎み深くなければならないのはなぜですか。
16 わたしたちは,ソドムとゴモラの変質的な住民が完全に堕落していたことを,聖書の記録を読んで知っていますから,彼らの罪に対する叫びが上がった理由を理解することができます。また彼らを滅ぼしたことが神の義かつ公正な行動であったことを認めることができます。(創世 19:4-11。ローマ 1:26-28,32)しかし,もしだれかがすべての事実を知らず,その住民は正常で汚れを知らない人たちのようだった,とでも考えていたならどうでしょうか。もしそうであったなら,神が火といおうでそれらの町を滅ぼされたと聞けば,その人は創造者につき性急で正しくない結論を下すかもしれません。
17 このことから,神の行動について結論を出すことに関し慎み深くなければならないことが,はっきり分かるはずです。箴言 11章2節(新)には,「知恵は慎み深い者たちと共にある」と述べられていますが,これは確かにこの問題について言えることです。過去における神の行動のあるものに関する重要な事実についての知識に欠けているであろう単なる人間が,自ら裁判官や陪審員となって「全地を裁く方」を非難しようとするのは賢明でしょうか。こういう箴言もあります。「聞く前にある事に返答しているのは,その者の愚かさまた辱めである」。(箴 18:13,新)末梢的なことをほんのわずかしか知らない,まして最も重要な事実や関係している原則などは特に知らない人が,「全地を裁く方」は不公正な,義にもとった行動をしたと結論するのは,まさにそれではないでしょうか。
18 どんなことからヨブはひどい苦しみを経験することになりましたか。
18 ヨブと関係のある聖書の記録も,このことをさらに示すのに用いることができるでしょう。ヨブと,後ほどヨブに助言する彼の三人の友には分かりませんでしたが,サタンはヨブの忠実さについてエホバに挑戦しました。エホバはヨブの愛ある忠節心を確信しておられたので,サタンがヨブに次々と災難をもたらすのを許されました。ヨブの財産は取り去られました。羊の群れや家畜の群れの世話をする者たちは襲撃者たちに殺されてしまいました。息子や娘たちは時ならぬあらしで死にました。そしてヨブは重い身体的病気にかかり,妻までが彼を非難しました。(ヨブ 1:6-19; 2:1-9)ヨブと他の人々はどう反応したでしょうか。あなたならどう反応したでしょうか。神についてどんな結論を下したでしょうか。
19 ヨブはどう反応しましたか。しかし彼の三人の友はどうでしたか。
19 神に忠節であることを決意していたとはいえ,ヨブはなぜ自分が苦しむのか理解できませんでした。自分自身の義を弁護するために彼は,神には悪人ばかりでなく義人をも苦しめる権利がある,と言いました。(ヨブ 32:2; 10:7; 16:17; 23:11; 33:8-12)むろん今日わたしたちはヨブが『知識なくして語って』いたことを知っています。というのは,彼を苦しめていたのはサタンであって,エホバではなかったからです。(ヨブ 34:35,新)ヨブの友たちはどんな立場を取りましたか。彼らも事実を知らずに慎みのない愚かな答えをしました。神は人間の忠実さなどには関心がない,と非難しました。(ヨブ 4:17-19; 15:15,16)また事実上彼らは,ヨブの息子たちが罪を犯していると非難し,エホバが彼らを殺した,と主張しました。(ヨブ 8:3,4,20)ヨブの友たちの論議は結果として「神をよこしまな者とする」ものであった,と聖書は正しく述べています。―ヨブ 32:3,新。
20 (イ)この例は,聖書の特定の記録に対するわたしたちの反応にどう影響するはずですか。(ロ)わたしたちの反応はどうあるべきですか。
20 今日,わたしたちは記録全体を研究することができ,またそれらの友が神の行動の仕方に対する見方をいかに誤っていたかを難なく理解することができます。しかし,わたしたちがあまり情報を多く与えられていない,聖書の他の記録についてはどうでしょうか。例えば,エホバかまたはエホバの命を受けた人たちがよこしまな人々や都市または国民を処刑したことを聖書で読むなら,わたしたちはヨブの友に倣って「神をよこしまな者とする」でしょうか。(申命 9:1-5)すべての事実や関係している問題をたとえ知らなくても,起きた事柄は,エホバが「義と公正を愛される方」であることと一致していたに違いない,と結論するほうがずっと賢明であり,より慎みのあることではないでしょうか。(申命 7:2,23-26。レビ 18:21-27)それは,ヨブとその友たちを正した若者エリフの確信でした。エリフは宣言しました。「神は断じて悪を行うことなく,全能者は断じて不義を行うことはない。まことに神は悪しき事を行われない。全能者はさばきをまげられない」― ヨブ 34:10,12,口。
すべての人に対して義かつ公正である
21,22 エホバの義と公正はどんな重要な面で多くの人間のやり方と異なっていますか。
21 エホバの義と公正はどのようにすべてを包容するのでしょうか。すべての人に,またあらゆる時にそれらが適用されることを期待できるのでしょうか。わたしたちがこのことを心配するのは無理もありません。というのは,人間が権力の座つまり高い地位についていると,人を扱う仕方はその人が「どんな人であるか」に左右されることが多いからです。金持ちであり重要人物であるなら,悪いことをしても「大目に見られる」とか,許されるとか,あるいは軽い罰ですむかもしれませんが,貧しく重要でない人は,どちらかというと厳しく処罰されます。あなたはそういうことを見たことはありませんか。しかし,エホバはどうでしょうか。
22 エリフの意見はわたしたちに答えを与えています。エホバのことを説明するに当たり,エリフが,神のヨブに対する行動だけについて述べていないことに注目してください。彼は総括的な宣言をしました。「神は断じて悪を行うことはなく,全能者は断じて不義を行うことはない」。次いでエリフはこうつけ加えます。エホバは,「君たる者をもかたより見られることなく,富める者を貧しき者にまさって顧みられることはない。彼らは皆み手のわざだからである」― ヨブ 34:19,口。
23 モーセの律法はこの事実をどのように裏付けていますか。
23 エホバがイスラエル人に与えた律法の一面に注目するなら,この事実は裏付けられます。人間の裁き人が,種々の問題および個人が犯すかもしれない違法行為を扱う際の規定を定めるに際し,エホバは裁き人たちに,「あなたがたは,さばきをする時,人を片寄り見てはならない。小さい者にも大いなる者にも聞かなければならない」とお命じになりました。(申命 1:17; 16:18-20,口)そのことが要求されたのは,不穏の原因を作らないということだけが目的だったのでしょうか。そうではありません。それが期待されたのは,そうすることによって裁き人たちは彼らの神の性格を正しく反映することになったからです。次のように書かれています。『なんじらは人のために裁判するにあらずエホバのために裁判するなり 裁判する時にはエホバなんじらと偕にいます……我らの神エホバは悪しき事なく人を偏見ることなく賄賂を取ることなければなり』― 歴代下 19:6,7。出エジプト 23:6,7。
24 それでわたしたちは何を確信できますか。
24 エホバの公平な義と公正に関するこの証言は,エホバがわたしたちをどう扱われるかを示す心強い証言ではありませんか。わたしたちはまたその証言を,次のことを暗示するものとしても見なければなりません。つまりエホバは,まだ将来に属する問題に関しても必ず,ご自分が過去においてお定めになりまた守られた規準に従って行動されるということです。
わたしたちが持つ義と公正の観念
25 わたしたち自身の内面の「感覚」は,エホバについて何を証ししますか。
25 神の義と公正に関して検討できる別の方法は,わたしたちの持つ内面の感覚と関係があります。人間は神の像に造られたと聖書は述べています。(創世 1:27)といってもそれは神の体の形という意味ではありません。なぜなら神は霊であられ,わたしたちは肉だからです。コロサイ 3章10節に示されているように,むしろこの「像」は性格もしくは特性と関係があります。神は,愛や公正や義や知恵を含むご自分の特性を持つ者としてアダムを創造されました。わたしたちは不完全で,完全なアダムとはほど遠いものですが,世界中の人間が,ある程度の良心もしくは道徳観念を示すとおり,ほとんどの人間は,そうした神の特性をある程度反映します。(ローマ 2:14,15)そういうわけで,わたしたち自身が持つ公正と義の観念は,神がそれらの特性を持っておられまた示されること,ただしわたしたち人間よりもはるかに優れた方法で示されることをわたしたちが確信する理由となるはずです。
26,27 このことは地獄の火の教理を用いてどのように説明することができますか。
26 この「感覚」が示す反応の一例として,多くの人々が火の燃える地獄の教理に対して示す反応を,あるいはわたしたち自身のそれに対する反応を考えてみましょう。多くの教会は,とりわけ過去において,悪人の魂は地獄の中で永遠に責めさいなまれる,と教えました。聖書はそのような教えを支持しません。死者は無意識で,そのほとんどは復活によって再び生きる,と聖書は述べています。(伝道 9:5,10。エゼキエル 18:4。ヨハネ 5:28,29; 11:11-14)しかし,聖書がどう述べているかを知らなくても,多くの人は地獄の火の教理を不快に思います。自分の教会がそれを教えていても受け入れることができません。性に合わないのです。愛と公正と義の神が,仮に60年間悪かったある人間を,ひどい苦しみで永遠に責めさいなむということなど信じられないのです。そして多くの人は,自分のその公正と義の感覚を神の言葉が支持していると知ってあんどしました。
27 神の「像」を不完全にしか反映しないわたしたち人間が,義かつ公正なことが行なわれるのを見たいという抑えがたい欲望を持っているということから,エホバご自身がそのような特性によって導かれておられるというわたしたちの確信は一層深められるはずです。
28 自分が感じることは正しい道ということについて,なぜわたしたちは依然注意が必要ですか。
28 反面,わたしたちが明らかに不完全なのは事実ですから,わたしたちはこの「感覚」がゆがまないように,そして間違った結論にわたしたちを導くことがないように注意しなければなりません。何が義かつ公正であるかに関するだれかの感覚が不完全さによって誇張されると,その感覚はでこぼこのあるガラス板を通して物を見ている人のようになるかもしれません。向こう側にあるものをはっきり見たいとどんなに思っても,その人の目に映る像は欠点のあるガラスの影響を受けています。
29,30 (イ)一部の人々は救いについてどう結論しましたか。(ロ)しかし聖書は何と教えていますか。
29 神の行動の義と公正に対するわたしたちの見方にも同様のことが起こるかもしれないことは,一部の人々が信じるようになった事柄に認められます。彼らは,自分自身の同情の念,正義感,公正の観念に動かされ,自分たちがこのように感じるのであるから,まして神はそれ以上にそのように感じられるに違いないと確信して,万人救済の教理を教えてきました。神が不完全な人間を永久に滅ぼすのは公正なことでも義にかなったことでもない,と彼らは推論します。それで彼らは,神はキリストの犠牲に基づき,生まれてきた人間すべてを許されるのだと結論します。それどころか,神は悪魔サタンでさえもお許しになる,とまで言います。
30 その教理はある人々の感情や情緒の『琴線に触れる』かもしれませんが,エホバご自身が聖書の中で述べられていることとは絶対に一致しません。聖書は,人間の不完全さによってゆがめられていない神の見方をわたしたちにはっきりと理解させてくれます。聖書は,罪を犯し聖霊を冒涜する者についてこのように述べています。「聖霊に言い逆らうのがだれであっても,その者はゆるされないのです」。(マタイ 12:32)また使徒パウロはヘブライ人のクリスチャンたちに次のように書き送りました。「真理の正確な知識を受けたのち,故意に罪をならわしにするなら,罪のための犠牲はもはや何も残されておらず,むしろ,裁きに対するある種の恐ろしい予期……があるのです」。(ヘブライ 10:26,27)確かに聖書は,一部の人間が永遠の救いを得ないことを示しています。イエスはそのことを次のように言われました。「み子に信仰を働かせる者は永遠の命を持っている。み子に従わない者は命を見ず,神の憤りがその上にとどまっているのである」― ヨハネ 3:36。ローマ 2:7,8。
31 わたしたち自身の「感覚」に加えてほかに何が必要ですか。なぜですか。
31 したがって,わたしたちは次のことを理解することができます。すなわち,わたしたち自身の義と公正の「観念」に基づく単なる人間的な考えは平衡が保たれねばならず,エホバご自身が言われることに導かれねばならないということです。神が「義と公正を愛される方」であることを証明する証言と証拠がふんだんにあるとは,なんとありがたいことでしょう。(詩 33:5)しかも神によるそれらの特性の行使は不完全さによってゆがめられることがないと知れば,その感謝は一層深まるはずです。あらゆる面で,あらゆる時に,そしてあらゆる人に対して,神はその豊かな知識と知恵と愛とに従って完全なことを行なわれるのです。わたしたちは常に,「わたしは良く知っています,ああエホバよ。あなたの司法上の決定が義なることを」と言うことができるでしょう。―詩 119:75,新。ローマ 11:33-36。
32 それでわたしたちはどんな分野を検討することができますか。
32 このことに対する確信は,すでに述べた王国伝道の行なわれる範囲や,新秩序における復活とか結婚などに関する問題のように,神が将来行なわれる事柄についての疑問に対するわたしたちの考えに確かに影響を及ぼすはずです。それで次の記事ではこれらの問題を聖書に照らして,またわたしたちの神が義かつ公正であられることを十分に確信して,検討してみることにしましょう。
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神の義と公正を確信して将来を待ち望むものみの塔 1976 | 9月1日
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神の義と公正を確信して将来を待ち望む
1,2 あなたの知人たちは,何か良くない活動をするときそれにあなたを誘わないかもしれませんが,それはなぜでしょうか。
あなたの職場の人たちか,学校または近所の人たちが幾人か一緒に不道徳な映画を見に行くことに決めたとしましょう。そしてある人が,あなたもみんなと一緒に行きたいだろうか,と言い出します。あなたを知っている人たちはどんな反応を示すと思いますか。『彼(あるいは彼女)を誘うなんてとんでもない。彼はそんなことには関心がないんだ。彼のいき方は違うんだ』と言うでしょうか。確かにクリスチャンが持つ関心と仕事に対する評価はそのようなものでなければなりません。―テモテ第二 2:19。
2 しかし,それらの知人はどんなことからそういう反応を示すのでしょうか。彼らはあなたの主義を知っていますし,あなたの過去の行状を観察してきていたので,この場合にあなたがどう反応するかはっきり分かっていたのです。
3 神の道は常に義かつ公正であることを保証するどんな根拠がありますか。
3 もし観察力の鋭い人間に,一人のクリスチャンのいき方が分かるのであれば,ましてわたしたちは,特定の状況においてエホバ神が取られる方法により大きな確信を抱くことができます。エデンでのこと,一つの倫理上の論争が持ち上がりました。それはエホバの宇宙主権に関するもの,またエホバが人類を扱う仕方の是非に関するものでした。その論争は解決されねばなりません。聖書の歴史のページには,その論争の最終的解決に向かって進まれるエホバの行動が漸進的に記されています。そしてまさにその記録が,エホバは常に義かつ公正なことを行なわれる,という確信を抱く十分の理由をわたしたちに与えてくれます。またその記録は,エホバの方法が義かつ公正であるばかりでなく,常に人間の永続的最善の益にもなるという確信を与えてくれます。
4 人類が苦しみを経験することをエホバが許されたのは,義と公正の欠如の現われですか。
4 使徒パウロは次のように書きました。「創造物[アダムとエバの子孫である人類]は虚無に服させられました[罪のうちに生まれ,死に直面した]が,それは自らの意志によるのではなく[わたしたち人間は,わたしたちに罪と不完全さをもたらしたアダムの罪に対して何をする力もない],[アダムが子孫を生み出すのを許すことによって]服させたかた[神]によるのであり,それはこの希望に基づいていたからです。すなわち,創造物みずからも腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子どもの栄光ある自由を持つようになることです」。(ローマ 8:20,21)人間が生まれてくるのを神が許されたことは,たとえ彼らが痛みや生活の諸問題を経験しようとも,決して義にもとることでも不公正なことでもありません。なぜなら神はそのうちに,永遠のパラダイスの中で完全な命を得る機会を彼らの前に置くこともされるからです。
5 人間が「腐朽への奴隷状態」にあることと関連して,わたしたちは今日特にどのように恵まれていますか。
5 今日住んでいるわたしたちは特に恵まれています。というのはわたしたちは,従順な人間が「腐朽への奴隷状態から自由にされ」る神の新秩序の入口に立っているからです。聖書預言の成就は次のことを示しています。つまりわたしたちは1914年以来,神が地上の悪を一掃して全地を楽園にされるのを見る「世代」に入っているということです。そのためにエホバの証人は「王国の良いたより」を熱心に宣明しています。その王国は,エホバに忠節な人間に,「神の子どもの栄光ある自由」をもたらします。―マタイ 24:3-14,21,34。
あらゆる人に宣べ伝える ― どのように?
6 マルコ 13章10節のイエスの言葉に関してどんな質問が生じますか。
6 「あらゆる国民の中で,良いたよりがまず宣べ伝えられねばなりません」とイエスは言われました。(マルコ 13:10)エホバの証人の精力的な努力にもかかわらず,直接に証言を受けたことのない人はまだ幾億もいるようです。証人たちが活発に活動している国々においてさえ,証言を聞いたことのない人々がいくらかいます。そして,証人がいてもその数が非常に少ない国に住んでいる人々はさらに多くいます。重要な王国の音信は,時のあるうちに,そうした人々すべてに宣べ伝えられるのでしょうか。もしそうだとすれば,どんな方法でなされるでしょうか。わたしたちはそれを『ただ神におまかせ』すべきでしょうか,それともなんらかの面でかかわりがあるのでしょうか。神はどんな裁きを下されるのでしょうか。
7 マルコ 13章10節の成就をわたしたちはなぜ確信できますか。
7 もし宣べ伝える業が人間の業であるなら,心配する理由はあるかもしれません。幾つかの国で現在伝道の業を阻んでいる政治上の障壁や,「人口の爆発的増加」の結果音信を聞いたことのない人が毎年幾百万も増えていることなどを考えると,この仕事はあまりにも大きすぎるように思えるでしょう。しかし幸いなことに,諸国民にどの程度証言するかを決める者は,どの人間でも,または人間の団体でもありません。それはエホバ神です。エホバ神が行なわれることは,そのご性格,すなわち賢明で,公正で,愛に満ち,同情心に富む神に全くふさわしいものでありましょう。わたしたちはなぜそれを確信できますか。
8 人間が永遠の命を得ることについて,エホバはどう考えておられますか。
8 エホバはご自分のみ子を,「すべての人のための対応する贖いとして」地に遣わされました。(テモテ第一 2:6。ヨハネ 3:16)神は,不従順のために滅びる者が一人もいないことを望んでおられ,そのことをわたしたちにはっきり告げておられます。ペテロ第二 3章9節に次のように述べられています。「エホバはご自分の約束に関し……遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです」。創造者は,「あらゆる人が救われて,真理の知識を得ることを望む」がゆえに,救いについて聞きかつ悔い改める時間を人々にお与えになるのです。(テモテ第一 2:4,モファット訳)エホバが200以上の国々や海洋の島々でご自分の証人たちに「良いたより」を宣べ伝えさせてこられたことは,エホバが人々に配慮を示しておられる一つの証拠です。人々が従順になり,永遠の命の祝福を得ることをエホバは望んでおられるのです。―ローマ 6:23。ヘブライ 5:9。イザヤ 55:6,7; マラキ 3:7と比較してください。
9 (イ)宣べ伝える業をまだより大規模に行なうことができるのはなぜですか。(ロ)どんな例がそのことを裏付けていますか。
9 証言の業がまだどれほどより大規模に行なわれるのか,わたしたちには全く分かりません。この業はエホバが行なっておられ,天のみ使いたちを用いてそれを監督しておられるという事実を,わたしたちは見逃してはなりません。(啓示 14:6,7)西暦33年のわずか一日のうちにどんな事が起きたか考えてごらんなさい!(使徒 2:37-42)あるいは現代においてソ連で起きていることを考えてご覧なさい。つい何年か前までは,「良いたより」がこの共産主義国全土に宣べ伝えられることなど想像さえできないことに思われたかもしれません。ところが,現在ではそれがシベリアの辺ぴな所でさえ宣べ伝えられているのです。モーライス・ヒンダスは,「クレムリンの人間的なジレンマ」の中で,エホバの証人のことを次のように書いています。
「彼らを阻止する方法はない。彼らは一箇所で弾圧されると別の場所に姿を現わす。ヨーロッパのソ連にいることもあれば,シベリアにいることもある。……彼らは,ソビエトから彼らを一掃する決意をしているソ連の警察に劣らずがん強であるようだ」― 304ページ。
また,多くの国の王国会館は満員で,1960年代の半ば以前に伝道に参加した人々がびっくりするほどです。確かにエホバはご自分の音信を伝道させておられます。
10 この伝道に関し,わたしたちは何に没頭すべきですか。
10 神が意図された範囲まで伝道がなされたかどうかは,全能かつ義であられる神がお決めになる,とはっきり知らされているのですから,わたしたちは自分がしなければならないことに一意専心没頭することができます。神はわたしたちに,伝道が十分になされた時を決めなさい,とは言われませんでした。むしろ,良いたよりを宣明し続けなさいと言われました。これには人の命が関係しています。この認識は,神がわたしたちに伝道することをお命じになったという自覚と相まって,わたしたちに行動を促すはずです。
11 (イ)エゼキエル 33章7節から9節のエホバの言葉からどんな教訓を学ぶことができますか。(ロ)パウロのように,わたしたちは伝道についてどんな関心を持つべきですか。
11 エホバ神はエゼキエルに,差し迫った滅びと関係のある彼の責務について話されましたが,わたしたちはそれから教訓を学ぶことができます。
「わたしはあなたを立てて,イスラエルの家を見守る者とする。あなたはわたしの口から言葉を聞き,わたしに代って彼らを戒めよ。わたしが悪人に向かって,悪人よ,あなたは必ず死ぬと言う時,あなたが悪人を戒めて,その道から離れさせるように語らなかったら,悪人は自分の罪によって死ぬ。しかしわたしはその血を,あなたの手に求める。しかしあなたが悪人に,その道を離れるように戒めても,その悪人がその道を離れないなら,彼は自分の罪によって死ぬ。しかしあなたの命は救われる」― エゼキエル 33:7-9,口。
西暦前607年のエルサレムの滅び以前にエホバはこの言葉を語られました。しかしこれは今日のクリスチャンにとっても意味があります。彼らは,『罪を離れて公正と義を行ないなさい』という,人々に対する警告であり勧めでもある音信を持っています。(エゼキエル 33:14)わたしたちの関心は,使徒パウロが抱いていた関心と同じでなければなりません。
「パウロはひたすらにみことばのことに携わるようになり,イエスがキリストであることを証明するためにユダヤ人たちに証しをした。しかし,彼らが反対と悪口を続けた時,彼は自分の衣を振り払って,こう言った。『あなたがたの血はあなたがた自身の頭上に帰するように。わたしは潔白です』」― 使徒 18:5,6。
この邪悪な事物の体制の終結が近いことを示す証拠が非常に多くある以上,わたしたちも『ひたすらにみことばのことに携わり,証ししている』べきです。そうするならわたしたちは「すべての人の血について潔白である」ことができ,また神が満足されるまで伝道の業がなされた時について神が決定を下されるのを待つことができます。―使徒 20:26。
神はどんな裁きを下されるか
12,13 (イ)事物の体制の終結の時のエホバの裁きがどんなものであるかについて心配しなければならない理由がありますか。(ロ)エゼキエル 33章17節に書かれていることはそのことをどのように確証していますか。
12 王国の良いたよりがまだどの程度宣べ伝えられるか,という問題と関連して,ある人々は,事物の体制の終結の時にエホバがどんな裁きを下されるかに関し,一種の不安を抱いています。彼らはエホバの裁きが公正で義にかなったものかどうか,幾分憂慮しています。
13 しかし,エホバがその結果に対して責任を持たれることを考えるなら,実際に心配する理由がありますか。その昔預言者イザヤはエホバについて,「主はだれと相談して悟りを得たか。だれが主に公義の道を教え,知識を教え,悟りの道を示したか」と書きました。(イザヤ 40:14,口)人間が神に公正と義を教える必要が一度もなかったことは事実ではありませんか。一部のイスラエル人が,「エホバの道は正しく整えられていない」と言ったとき,欠けていたのはどちらでしたか。それはエホバではなく,何が正しいかについて不完全な見方をする不完全な人間のほうでした。「彼らについて言えば,正しく整えられていないのは彼らの道である」とエゼキエルは記しています。(エゼキエル 33:17,新)事物の体制の終結の時におけるエホバの裁きが義にかなった,公正な,愛とあわれみのあるものであることを,わたしたちは全く確信することができます。
14 羊とやぎの例えはいつに当てはまりますか。
14 イエスが語られた例えは,その裁きについてある程度の情報を提供します。使徒たちはイエスに,『イエスの臨在と事物の体制の終結のしるし』は何か尋ねました。(マタイ 24:3)イエスの答えの最後の部分は羊とやぎのたとえ話でした。(マタイ 25:31-46)この例えは現在に当てはまります。というのは,西暦1914年に,王国の権を持つイエスの天における「臨在」が始まったからです。そのとき『人の子は栄光のうちに到来してその栄光の座にすわりました』。(マタイ 25:31。ダニエル 7:13,14)また,この例えがイエスの「臨在」の始まりと事物の体制の滅びとの間のこの期間に当てはまることを確証しているのは,イエスがご自分の霊的兄弟,すなわち14万4,000人の残りの者の受ける虐待と投獄について語られたという事実です。これは今彼らに対してなされていることであって,新秩序において起こることではありません。―啓示 12:17。
15 今が裁きの時であると結論できるのはなぜですか。
15 その例えの中でイエスは,この期間中に,「すべての国の民が[即位した王としての]彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます」と言われました。(マタイ 25:32)これは問題の単なる一時的処置ではなく,「生きている者と死んだ者とを裁くよう」エホバによって任命された方が行なう決定的な裁きです。(テモテ第二 4:1。ヨハネ 5:26,27)ではこの期間中に,ある人々の態度と行動は,彼らを永遠の滅びに価する者とする結果になる,と結論することができますか。ある人々はそのようなきっぱりした結論を下すことをためらうかもしれませんが,現在「やぎ」であることを示す人々についてイエスが言われたことに注意してください。「のろわれた者たちよ,わたしから離れ,悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に行きなさい」。(マタイ 25:41,46。テサロニケ第二 1:6-9)ですからこれはそういう人々の永遠の命が岐路に立つ時です。それは裁きの時です。
16,17 (イ)人間は「やぎ」に関して裁きを下す立場にはありません。なぜですか。(ロ)そのような問題についてわたしたちはどうすべきですか。
16 しかしながら,だれが「羊」でだれが「やぎ」かの決定を,イエスが人間にまかせておられないことを考えてください。それは本当に良いことです。もしわたしたち人間が裁かねばならないとしたら,その人は良いたよりを聞き受け入れる機会をどの程度得たか,遺伝的,家族的,宗教的背景がその人の反応に影響したか,その人の心の状態はどうか,義を愛しているか,相手がもし子供であるなら,あるいは生まれつき知能のおくれた人であるなら,家族の責任もしくは共同責任がどの程度問題に関係しているか,といった要素をどうして正しく評価することができるでしょうか。―コリント第一 7:14。申命 30:19。
17 わたしたちのうちに,こうした問題やおそらく他の多くの問題,また重要な要素や原則を考量する資格のある者が一人もいないことは,疑問の余地がありません。わたしたちは,『完全で義にかなった,方正な』裁きを行なうことはできません。(申命 32:4)ですからわたしたちはだれも,あの人は生き残り,あの人は生き残らないと決めるような不必要な事柄に関係すべきではありません。『この特定の状態にあるこれらの人は「やぎ」だから永遠に滅び,他の部類に属する人々は生きるだろう』と言うとすれば,わたしたちは人を裁いているのではないでしょうか。(ヤコブ 4:12)わたしたちは,ある人,家族,あるいは人々のグループが,「やぎ」の描写に適合するかどうかを決めようとするよりも,「全地を裁く方」に問題をゆだねるほうが満足できます。―創世 18:25。
18 (イ)神は公正さだけを厳格に守られますか。(ロ)神の裁きが義かつ公正であることを確信できるのはなぜですか。
18 神の裁きは,単に厳格で無情な原則を当てはめるだけのことではありません。それには神のあわれみ,同情,そして愛が関係しています。詩篇作者ダビデは,「彼はわたしたちの罪に従ってさえわたしたちに対してことを行なわれなかった。また,わたしたちの誤りに従ってわたしたちが当然受くべき分をもたらすこともされなかった」と述べています。(詩 103:10,新)実際,不完全で罪深い人間が受けるに価する唯一の報いは死です。(ローマ 6:23)にもかかわらずエホバは,そのあわれみと同情心とをもって,救いの音信を広く広める目的をお立てになりました。それは人間に命を得させるためでした。エホバは人間が命を得ることを望んでおられるのです。(エゼキエル 33:11。イザヤ 55:6,7)もし神のあわれみや愛や同情が今日に至るまで首尾一貫して示され,わたしたちがそれから益を受けてきたのであれば,事物の体制の終結の時の裁きにおいても,それらの特性が働くことを少しの疑いもなく確信できるのではないでしょうか。そうです,「全能者なるエホバ神,あなたの司法上の決定は真実で義にかなっています」という生存者たちの宣言は全く正しいものとなるでしょう。―啓示 16:5-7; 19:1,2。
復活 ― だれの?
19,20 将来行なわれる復活については聖書はどのように教えていますか。
19 わたしたちは,『王国の良いたより』の伝道や事物の体制の終結の時の神の裁きに関して神が義かつ公正であられることを確信し得る十分の理由のあることを見てきましたが,またわたしたちには,個々の人を復活させる際にエホバがなさることについても確信し得る,同じほど十分の理由があります。
20 神はそのみ言葉である聖書の中で,「義者と不義者との復活がある」とわたしたちに約束しておられます。(使徒 24:15)聖書の述べるところによると,死んでシェオールもしくはハデス,すなわち死んだ人間の共通の墓に行っている者は,皆よみがえらされます。(啓示 20:13)したがって,過去に死んだ幾十億という人々は,新秩序において,エホバの義の道に従って命を得る機会を与えられます。しかし聖書は,一人残らず復活させられるのではないことも示しています。なぜかというと,わたしたちがすでに理解している通り,ある人々は聖霊に対して罪を犯し,エホバにより永遠の滅びに価する者と裁かれ,ゲヘナに入れられているからです。―マルコ 3:28,29。ヘブライ 6:4-6。マタイ 23:33。
21 わたしたちは,だれが死人の中からよみがえらされるかを知る立場にありますか。なぜですか。
21 『わたしのこの親せきは復活させられるだろうか。この知人はどうだろう。また真のクリスチャンを迫害してきたこの特定の支配者は復活させられるだろうか』と考える人たちもいます。そのような疑問は起こるかもしれません。しかし,わたしたちの中に,これに対して明確な結論を出せる立場にある人がいるでしょうか。もし聖書そのものに,ある人が死んでハデスに行ったとも,あるいは永遠の滅びに定められたとも明確に述べられていないのであれば,わたしたちがそのことについて独断を下すことはできません。わたしたちは,その人の生涯に関する事実を知り尽くしているわけではありません。またわたしたちはその人の心を読むことができるでしょうか。いいえ,できません。しかしエホバは事実を余すところなく知っておられ,また心を読むことがおできになります。「わたしエホバが心を探り……おのおのに,その道にしたがい,その行動の結ぶ実にしたがって与えるためである」と書かれています。(エレミヤ 17:9,10,新。サムエル前 16:7)それでわたしたちは,だれが復活しだれが復活しないかを自分で決めようとするよりもむしろ,エホバとイエスが義にかなった公正なことを行なわれると確信できる十分の理由があるのです。―ヨハネ 5:30。ローマ 9:14。
エホバの備えに確信を持つ
22 復活した人々のために神がどんな準備をされるかについて,聖書は詳細な点をすべて述べていますか。
22 聖書は復活に関する詳細をすべて述べているわけではありません。例えば,復活した人がだれと一緒に,またはどこで住むかを述べていません。ですから,そうした問題についてあれこれ憶測して自分や他の人々の気持ちをかき乱さないのが賢明です。むしろ,神を信頼して成り行きを見守っていればよいのです。
23 (イ)ユダヤ教の指導者たちは,復活についてどんな質問をしましたか。(ロ)イエスの答えはだれに当てはまりますか。
23 しかし聖書は結婚の問題については幾つかのことを述べています。ある時のこと,天の命への復活について何も知らない幾人かのユダヤ教指導者たちが,モーセの律法下にいた,そして七人の夫を持ったことのある一人のユダヤ人の女について質問しました。復活したらその女はだれの妻になるのか,と彼らは尋ねました。イエスは次のようにお答えになりました。
「この事物の体制の子らはめとったり嫁いだりしますが,かの事物の体制と死人の中からの復活をかち得るにふさわしいとみなされた者たちは,めとることも嫁ぐこともありません。事実,彼らはもう死ぬこともないのです。彼らはみ使いたちのようであり,また,復活の子であることによって神の子たちなのです。しかし,死人がよみがえらされることについては,モーセでさえ,いばらの茂みに関する記述の中で明らかにしました。そのとき彼は,エホバを,『アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神』と呼んでいます。彼は死んだ者の神ではなく,生きている者の神です。彼らはみな,神にとっては生きているのです」― ルカ 20:34-38。マタイ 22:29-32。
イエスは天的復活について話しておられたのでしょうか。そうではありません。イエスは地的復活に関する彼らの質問に答えなかったのではありません。それに答えられたのです。イエスは,アブラハム,イサク,ヤコブなどが受ける地上の命への復活について話されました。そのような忠実な人々は不滅性は受けませんが,み使いのようになります。なぜそうですか。み使いたちは不滅ではありませんが,エホバに忠誠を保てば死ぬことがないからです。永遠に生きる権利を報いとして与えられているので,神の許可なくしてほかのだれも彼らの命を取ることはできないのです。地上における終わりのない命は,エホバだけが与え得る祝福です。そしてエホバはそれを与えまた保護されるのです。
24 死が結婚のきずなに及ぼす影響についての情報が聖書に載せられているのはなぜですか。
24 イエスはその答えを与えるに当たり,死が結婚のきずなを解消することを暗示されました。その事実はパウロが後日確証しています。(ローマ 7:3。コリント第一 7:39)ではもし女の夫が死ぬなら,夫のいない,あるいは子供たちに父親のいない状態のままでいなければならない,と女は考える必要がないのでしょうか。そうです。なぜそれがわたしたちに分かるのでしょうか。それはエホバがご親切にもその情報を聖書に載せてくださっているからです。新秩序における家族制度について詳しいことをすべて教えようとされていたわけではありませんが,そのようにしてエホバは,まだこの事物の体制の中にいるクリスチャンの身に生ずる可能性のある問題を除く助けを与えておられたのです。エホバがそのような理解と同情を示された事実は,新秩序においてエホバがどんな制度を設けられようとも,それもやはりエホバの愛と同情と知恵を反映するものであるに違いない,というわたしたちの確信を一層強めないでしょうか。
25 なぜわたしたちはエホバに仕えることを喜びとしていますか。
25 人間がエホバに仕えるのは,そのことから利己的な益が得られるからに過ぎない,とサタンは主張しました。しかし真のクリスチャンは本来,今祝福が与えられるから,あるいは新秩序でいただけると考えているものがあるからそのために,神に仕えているのではありません。彼らが神に仕えているのは純粋の愛からであり,神のみ名を神聖なものにすることが彼らの特権であるからであり,また今から永遠にわたって,エホバのご性格のゆえにエホバに仕えることを喜びとしているからです。エホバはわたしたちの創造者であられ,わたしたちは命を与えられたことをその創造者に感謝しています。(詩 100:3-5)またエホバは,その特質とその道のゆえに,また『忠実の神であり,不公正なところがなく,義かつ方正であられる』ゆえに,わたしたちの崇拝に値する神です。―申命 32:4,新。
26 エホバとイエスを知るならわたしたちは将来をどのように見ますか。
26 わたしたちがエホバに失望させられるようなことは決してありません。エホバの義に則した行動によって,わたしたちはエホバがわたしたちの神であることをますます深く感謝するでしょう。そして,「神の栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出」である神のみ子による千年統治は,同じ義と公正で特徴づけられたものとなるでしょう。(ヘブライ 1:3)聖書はその支配をこのように描写しています。「ダビデの王座またその王国の上にあって,今よりのち,定めのない時まで,それを堅く立て,公正と義とによってそれを支えるため,君としての支配の豊かさと平和とには終わりがない。万軍のエホバの熱心がこれを行なう」。(イザヤ 9:7,新; 11:2-5)エホバ神とそのみ子から来るそのような祝福を,わたしたちは全き確信を抱いて待ち望むことができます。
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