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    ものみの塔 1976 | 4月1日
    • 「神のようになることに努めなさい」

      「要するに,神の愛する子として,神のようになることに努めなさい」― エフェソス 5:1,新英語聖書。

      1 (イ)他人を見倣う自然の傾向は,人にどんな影響を及ぼしますか。(ロ)聖書はとくにだれを見倣う者となるようわたしたちを励ましていますか。

      だれでも,いつかはだれかを見倣おうとするものです。子供は自分の親,あるいは多くの場合一緒に遊ぶ外の子供たちを見倣おうとします。もし良い特質を見倣おうとするのであれば,それは益になります。悪いことを見倣うのであれば,それは害になります。興味深いことに,わたしたちは,「愛される子どもとして,神を見倣う者となりなさい」と勧められています。(エフェソス 5:1)神を見倣う者などに本当になれるのでしょうか。その可能性があるかどうか,これから検討してみましょう。

      2 創世記 1章26,27節によると,最初の人間はどのように造られましたか。そのことは彼の子孫すべてにとって何を意味しますか。

      2 初めに,つまり今から6,000年ほど昔,神が人間を創造されたときのことについて,聖書は次のように告げています。「神は,『我々の像に,我々の様にしたがって人を造ろう。……』と言われた。それで神は人をご自分の像に創造し,神の像にこれを創造された。彼らを男性と女性とに創造された」。(創世 1:26,27,新)聖書の最初の書である創世記は次いでこう述べています。「神は彼らを祝福し,神は彼らにこう言われた。『生めよ,殖えよ,地に満ちよ,それを従わせよ』」。(創世 1:28,新)今までに幾十億もの人が生まれてきました。皆アダムとエバの子孫で,彼らの父である神の像と様を備えているはずでした。確かに神は彼らの父でした。そのことは,ルカがその福音書の3章38節に記していることを読むと分かります。そこには,「アダムは神の子であった」と述べられています。ですからアダムは神の子でした。そしてわたしたちは皆アダムから生まれ出た者です。創造されたときのアダムは,神の特質,つまり知恵,公正,愛,力という優れた属性を備えていました。アダムは完全な人間でした。―申命 32:4。

      3 人間が今日神の特質を完全に反映していないのはなぜですか。

      3 しかしそれ以後,事態は変化しました。なぜですか。アダムが神に背いたからです。それで,完全な人間に最初備わっていた優れた特性をある程度示す人たちがいるとはいえ,罪のほうが支配的になっています。そのことを使徒パウロはローマ 5章12節の中でよく言い表わしています。「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」。そういうわけで,アダムから現代に至るまで,「死は……王として支配しました」。全く残念なことです。(ローマ 5:14)これですべてが終わりなのでしょうか。そうではありません。神の言葉である聖書はわたしたちに希望を差し伸べ,「アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです」と述べています。(コリント第一 15:22)それはどのように準備されましたか。

      「見えない神の像」であるイエス・キリスト

      4 どんな取り決めによってアダムの子孫が再び永遠の命を得ることが可能になりましたか。

      4 次のことを忘れないようにしましょう。それはアダムが罪に陥った後もエホバ神は人類に大きな関心を抱いておられ,人間にこの地を満たさせることを意図されました。しかし神の公正さも満たされなければなりませんでした。そこで神はアダムの子孫のために,請け戻す者,すなわち贖う者を備えられました。聖書は次のように教えています。「神は[人類の]世を深く愛してご自分の独り子を[贖いとして]与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされた」。(ヨハネ 3:16)なんという愛でしょう! その神のみ子は,処女マリアから生まれ,完全な人間として現われました。彼は実際に『第二のアダム』,つまり地上で第二の完全な人間でした。(コリント第一 15:45)そして自分の命を注ぎ出して全人類を買い取ったのです。『人の子は自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来た』と述べられている通り,イエス・キリストは,自分が人類を贖う者であることを明らかにされました。(マタイ 20:28)「神はただひとりであり,また神と人間との間の仲介者もただひとり,人間キリスト・イエスであり,このかたは,すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与えてくださった」と,クリスチャンは理解しています。―テモテ第一 2:5,6。

      5 (イ)最初の人アダムとイエス・キリストの間には,どんな類似点がありますか。(ロ)神のようになるためには,だれの模範に従わねばなりませんか。

      5 この『第二のアダム』イエス・キリストについても,彼は天の父に似ていた,と言うことができます。(ヘブライ 1:3)「彼は見えない神の像であり,全創造物の初子です」。(コロサイ 1:15)クリスチャンは,神に十分喜ばれる者となることを目ざして,エホバにふさわしい仕方で歩むよう勧められています。(コロサイ 1:10)ですからエホバ神のようになることを望む人々は,キリスト・イエスを模範として仰ぎ,その足跡に従います。

      6 (イ)イエスのどんな特質が,み父のご意志に完全に従うことを可能にしましたか。(ロ)イエスが言われたことや行なわれたことを勉強すると,ほかにだれをよりよく知るようになりますか。なぜですか。

      6 イエスは天の父の像に造られましたが,神と同等になることなど決して求めませんでした。それは次のように書かれていることから分かります。「キリスト・イエス……は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。いえむしろ,自分を無にして奴隷の形を取り,人のようなさまになりました。それだけでなく,人のすがたでいた時,彼は自分を低くし,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になられました」。(フィリピ 2:5-8)ですから,完全な人の様になったイエス・キリストご自身が,エホバ神から命令された事がらすべてに従順になられたことが分かります。「神を見倣う者となり」たい人は,イエスが示された物事の正しい仕方また生き方に従って歩まねばなりません。イエスはこう言われました。「わたしを愛さない者はわたしのことばを守りません。そして,あなたがたが聞いていることばはわたしのことばではなく,わたしを遣わされた父に属するものなのです」。(ヨハネ 14:24)イエスはみ父エホバ神に非常によく似ておられ,み父の義にかなった道と生き方に全く従っておられたので,イエスの話を聞く人々は,イエスが自分で想像して考え出したことを聞いていたのではありません。なぜですか。聖書が次のように述べているからです。「子は,自分からは何一つ行なうことができず,ただ父がしておられて,自分が目にする事がらをできるにすぎません。なんであれその方のなさること,それを子もまた同じように行なうのです。父は子に愛情を持っておられ,ご自身のなさる事をみな彼に示されるからであり,また,これらよりさらに偉大な業を彼に示……されるのです」― ヨハネ 5:19,20。

      7 イエスがわたしたちのために残してくださった立派な模範の記録はどこに見られますか。

      7 神の独り子イエス・キリストのこの驚くべき模範の記録は聖書に収められていて,わたしたちは今日それを読むことができます。イエスはこの地上の人間として33年半にわたり,ご自分が天の父に似た者であることを証明され,確かに,神の像に造られた者の完全な模範を示されました。イエスは人間ではありましたが,まことに世の罪を取り去る神の独り子,『第二のアダム』でした。―ヨハネ 1:29。

      8 どんな希望の実現は,わたしたちが神のようになることに真剣な努力を払うことにかかっていますか。

      8 クリスチャンは今日,エホバ神に似た者になるべく特別大きな努力を払うよう勧められています。クリスチャンがそうするのを断念する理由はありません。今日,地的希望を持っていて,千年にわたるキリスト・イエスのメシア統治の終了後永遠に生きることを期待しているクリスチャンは,その時までには間違いなく神の像と様を反映していなければなりません。なぜなら,イエス・キリストがすべてのものをみ父に返される際,その時地上で生きている人は皆,「我々の像に,我々の様にしたがって」とエホバが言われた通り,キリストを通して本当に神の子となっているからです。「生めよ,殖えよ,地に満ちよ,それを従わせよ」という,最初の人間夫婦に対するエホバの目的は達成されているでしょう。―創世 1:26-28。ローマ 8:20,21。

      罪深い人間が神のようになれるか

      9 (イ)わたしたちが罪のうちに生まれたということは,わたしたちが『神のようになろうとする』のを不可能にしますか。(ロ)特にどんな特質を示すことにより,わたしたちは自分がその努力をしている証拠を示せますか。

      9 現在の事物の体制においては確かに,人の自然の傾向は悪を行なう方に向かいがちです。それは人が罪のうちに生まれ,よこしまの中に形造られたからです。しかしそれでも神の言葉は,エフェソス 5章1節で,新英語聖書によると次のように述べています。「要するに,神の愛する子として,神のようになることに努めなさい。そしてキリストがあなたがたを愛し,神に喜ばれる芳しいささげ物また犠牲としてあなたがたのためにご自身を捨てられたように,愛のうちに生きなさい」。エホバ神がみ子をこの世に遣わし,そして刑柱上でのみ子の犠牲が,代価すなわち贖い代を払ったことをわたしたちは知っています。しかしイエスはそれ以上のことを行なわれました。つまりわたしたちが従うべき完全な模範を残されたのです。イエスは忠誠の人でした。ですからわたしたちも愛においてイエスのようでなければなりません。キリストは確かにわたしたちを愛してくださいました。さもなければ,贖いの犠牲を備えるために刑柱上で死ぬという,恐ろしい死を遂げることなど決してされなかったでしょう。このような生き方,イエスが示されたこの模範は,エホバにとって非常にうれしい,喜ばしいものでした。イエスがご自分の血で贖い代を払う以前でさえ,バプテストのヨハネは,イエス・キリストのことを,「見なさい,世の罪を取り去る,神の子羊です!」と言いました。―ヨハネ 1:29。

      10 (イ)不完全な人間でも,神のみ前に「とがめのない直き者」となり得ることを,聖書のどんな例が示していますか。(ロ)サタンはヨブについてどんな挑戦をしましたか。

      10 もしキリスト・イエスと同じ生き方をするなら,わたしたちは,イエスの父でありわたしたちの父でもある,天におられるエホバ神のようになるべく努力していることになります。「でもわたしは不完全だから,イエスのようにはできない」と言うのはたやすいことです。しかし,地上の不完全な人間で,まさに命を終えるまで忠誠の道を歩み神を喜ばせた人がいたことを,どうぞ忘れないでください。それはイエスが地上で生活された時よりもずっと昔のことでした。その人の名前はヨブでした。聖書のヨブ記が告げるところによると,この人はウヅの地に住み,「とがめのない直き者」でした。(ヨブ 1:1,新英語聖書)ヨブは心から神を信じていた人で,悪行に対しては断固反対の態度を取りました。七人の息子と三人の娘があり,非常に栄えていました。またおびただしい数の羊と牛とらくだを有し,東の地方で重要な人物でした。ヨブはこの大いなる繁栄とエホバ神からの祝福を享受していたのですが,聖書の記録は次のように述べています。『ある日神の子たちきたりてエホバの前に立つ サタンもきたりてその中にあり エホバ,サタンに言いたまいけるは汝いづくよりきたりしや サタン,エホバにこたえて言いけるは 地を行きめぐり ここかしこ経あるきてきたれり エホバ,サタンに言いたまいけるは 汝心をもちいてわがしもべヨブを観しや 彼のごとく完全かつ正しくして神を畏れ悪に遠ざかる人世にあらざるなり サタン,エホバにこたえて言いけるは ヨブあにもとむることなくして神を畏れんや 汝彼とその家およびその一切の所有物のまわりにまがきを設けたまうにあらずや 汝かれが手になすところをことごとく成就せしむるがゆえにその所有物地にあまねし されど汝の手を伸べて彼の一切の所有物を撃ちたまえ さらば必ず汝の面にむかいて汝をのろわん エホバ,サタンに言いたまいけるは みよ彼の一切の所有物を汝の手に任す ただかれの身に汝の手をつくるなかれ サタンすなわちエホバの前よりいでゆけり』― ヨブ 1:6-12。

      11,12 (イ)どんな経験をしながらヨブは神に対する忠実を証明しましたか。(ロ)神のようになる努力をしたためにヨブはどのように報われましたか。

      11 その時からサタンは,エホバのしもべヨブの忠誠と廉潔を打ち砕こうとしてありとあらゆることを行ないました。しかしヨブはその情け容赦のない残酷な仕打ちにも屈しませんでした。子供たちを殺され,財産をすべて失い,そのあげくいわゆる賢人たちがやってきて,彼は大いに間違っていると告げましたが,それでもヨブは忠実の道を歩むことを思いとどまりませんでした。そのいわゆる友人に対してヨブは答えました。『かかる事は我おおく聞けり 汝らはみな人を慰めんとしてかえって人を煩わす者なり』。(ヨブ 16:2)事実,あまりにも悲惨な事態になったので,ヨブは神に向かい,「墳墓われを待つ」と叫びました。(ヨブ 17:1)しかしヨブは死にませんでした。反対者たちのただ中にあっても,忠実と廉潔を神のみ前に保ちました。聖書の記録によると,次のような結末になりました。『エホバかくのごとくヨブをめぐみて その終わりを初めよりも善くしたまえり すなわち彼綿羊一万四千匹 らくだ六千匹 牛一千くびき 雌ろば一千匹をもてり また男子七人 女子三人ありき かれその第一の女をエミマと名づけ 第二をケジアと名づけ 第三をケレンハップクと名づけたり 全国のうちにてヨブの女子らほど美しき婦人は見えざりき その父これにその兄弟たちとおなじく産業をあたえたり この後ヨブは百四十年いきながらえその子その孫と四代までを見たり かくヨブは年老い日満ちて死にたりき』― ヨブ 42:12-17。

      12 ヨブの全生涯について読み,彼がどのようにすべての問題に立ち向かったかを知るとき,確かにわたしたちも神と同じく,彼はいかにも神を恐れ,悪行に対しては断固反対の態度を取った,清廉潔白な人であったと言うことができます。ヨブは神のようになることに努めました。そしてその忠誠に対する報いを得ましたが,時が来ればさらに報いを受けるでしょう。ヤコブはヨブについて次のように書いています。「あなたがたはヨブの忍耐について聞き,エホバがお与えになった結末を見ました。エホバは優しい愛情に富まれ,あわれみ深いかたなのです」― ヤコブ 5:11。

      13 それでも,ある人はそうした例に対してどう反応するかもしれませんか。

      13 ある人は言うかもしれません。「完全な人間キリスト・イエスが忠誠を保ち,神のみ前にとがなく歩むことは容易なことでした。また不完全な人間でもキリストと同じに近い歩みをしたヨブのような人もいたかもしれません。しかし,わたしたちが今日そうするにはどうしたらよいのですか」と。使徒パウロの時代にも,それはどうしたらできたでしょうか。パウロはエフェソスの会衆に確かにこう勧めています。「神の愛する子として,神のようになることに努めなさい。そしてキリストがあなたがたを愛し……たように,愛のうちに生きなさい」。(エフェソス 5:1,2,新英)パウロはクリスチャンたちに,不可能なことを求めていたのでしょうか。決してそうではありません。

      反抗する者ではなく,「従順な子ども」となる

      14 神に見倣う者となるためには,人はどんな事がらを憎まねばなりませんか。

      14 詩篇記者はこれをよく言い表わしています。「あなたがたエホバを愛する者たちよ,悪を憎め」と彼は言いました。(詩 97:10,新)悪を憎むとなれば,悪の何なるかを知りその逆を行なわねばなりません。つまり善を行なうわけです。パウロは悪について助言を与え,わたしたちを助けてくれます。エフェソス人への手紙の中で彼はさらに次のように述べています。「淫行,あらゆる種類の卑わいな行為,または無情な強欲などを,あなたがたの間では,神の民にふさわしく,口にすることさえしてはならない。また,卑しい,愚かな,あるいは軽薄な話もしてもならない。それはふさわしくないことである。むしろ神に感謝しなさい。淫行や卑わいな行為,または利得を偶像化するどん欲にふける者はだれひとり,キリストと神の王国にあずかれないことは,あなたがたのよく知っているところである」。(エフェソス 5:3-5,新英)この言葉から,クリスチャンは,道徳的に慎み深くなければならないことが分かります。他の人々に話すとき,クリスチャンは正しい話し方をしなければなりません。クリスチャンはどん欲な人であってもなりません。また正直な態度で周囲の人々に接します。簡単に言えば,エホバ神を本当に愛しているなら,クリスチャンは悪を憎みます。ですから,神のようになりたいなら,人はさきほどパウロが述べたような事がらを決して行なわないでしょう。

      15 (イ)だれに対して神の裁きが臨むとパウロは言っていますか。(ロ)彼らは自分たちが不従順な者であることをどのように示しますか。

      15 パウロが述べた事がら,つまり淫行,軽薄な話,強欲などにふける人々はどうなりますか。彼はこう言っています。「だれにも浅薄な論議でだまされてはならない。こうした事がらのために,神の恐ろしい裁きは不従順な民の上に臨むのである。彼らと関係を持ってはならない」。(エフェソス 5:6,7,新英)神は極めて確実な方です。神に反抗する人々の上には恐ろしい裁きが臨みます。アダムは反逆者でした。知恵,公正,愛,力という属性を与えられ,必要な物をすべて備えられて,生活状態は申し分ないものであったにもかかわらず,神に聞き従いませんでした。アダムはやはり,善悪を自分で決めることを望みました。しかし,そうした決定を行なうのは神の特権です。エホバは宇宙の創造者であり,全生物の創造者であられます。そして知性を持つ生きた被造物が皆神のようになることを望んでおられ,不完全なわたしたちであるにもかかわらず,そうすることを勧めてくださっています。神は人類を愛し,人類に関心を抱いておられます。わたしたちはエホバ神に関心を持っているでしょうか。もし関心がなく,神の道を退けて自分勝手な道を行くことを望み,自分の考えだけに従って神の助言に反した決定をするなら,『不従順な民の上に臨む恐ろしい裁き』を予期しなければなりません。パウロがクリスチャン会衆に強く勧めていることは,クリスチャンたちがその「不従順な民」― 神の道に背いている者たちと関係を持たないことです。

      16 神の恵みを得たい人は,淫行に関するどんな態度を避けるべきですか。

      16 わたしたちは淫行とは何か知っています。しかし今日宗教人は,婚前交渉は悪いことではないとか,同性愛は悪いことではないなどと大胆な発言をします。けれども聖書は,結婚の床を汚してはならない,また男と寝る男は神の目に忌まわしい者であって神の裁きを受ける,と述べていないでしょうか。確かにそう述べています。(ヘブライ 13:4。ローマ 1:27,32)ですから,クリスチャンであると主張し,イエス・キリストが示された生き方をして神のようになることに努めているのであれば,神の恵みと豊かな祝福を得られるよう,クリスチャンとして生きることに特別大きな努力を払うべきです。―コリント第一 6:18。テサロニケ第一 4:3,8。

      17 ペテロは,クリスチャンが生活の中で行なわねばならない変化について論ずる際に,どんな人になるよう勧めていますか。

      17 人がクリスチャンになると,自分の生活を大きく変化させなければなりません。使徒パウロは初期のクリスチャンたちに手紙を送り,そのことについて次のように述べました。「あなたがたは従順な子どもとして,以前自分が無知であったためにいだいた欲望にそって形造られるのをやめ,あなたがたが召された聖なるかたにならい,自らもすべての行状において聖なる者となりなさい。なぜなら,『あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしは聖なる者だからである』と書かれているからです」。(ペテロ第一 1:14-16)興味深いことにペテロはここで神の会衆のことを,「従順な子ども」と呼んでいます。神のことばに従うつもりなら,彼らはきっと自分自身の欲望にそって形造られるのをやめ,また以前歩んだ道を歩むことをせずに神のようになることに努め,キリスト・イエスの足跡に従うでしょう。

      神の愛から益を得る

      18 愛を示す点で,わたしたちが『天におられるわたしたちの父の子』であることを証明するには,わたしたちは何をしなければなりませんか。

      18 イエスはこの地上におられたとき,イエスの話を聞く者たちに次のように言われました。「『あなたは隣人を愛し,敵を憎まなければならない』と言われたのをあなたがたは聞きました。しかし,わたしはあなたがたに言いますが,あなたがたの敵を愛しつづけ,あなたがたを迫害している者たちのために祈りつづけなさい。それはあなたがたが,天におられるあなたがたの父の子であることを示すためです。父は邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださるのです。というのは,自分を愛してくれる者を愛したからといって,あなたがたになんの報いがあるでしょうか」。(マタイ 5:43-46)イエス・キリストと同じように「あなたがたの父の子であることを示す」つもりなら,人は隣人を愛するだけでなく,敵に対しても愛を示さねばなりません。あなたはそうしておられますか。

      19 エフェソス 3章18,19節で述べられているように,神の民は皆何を理解しなければなりませんか。

      19 主の言葉の中に,それはヨハネ第一 4章11節ですが,次のような言葉があります。「愛する者たちよ,神がわたしたちをこのように愛してくださったのであれば,わたしたち自身互いに愛し合う務めがあります」。クリスチャンになるとき,人は根を深く下ろさねばなりません。神がお求めになる満ち満ちたさまに達するよう努めなければなりません。パウロはエフェソス人に手紙を書き,そのことを次のように述べています。「あなたがたが,深い根と堅固な基礎とをもって,神の民すべてと共に,キリストの愛の広さ,長さ,高さ,深さがどれほどであるかを把握する力を持つように,また知識を超えたものではあるけれどもキリストの愛を知るようになりますように。そのようにして絶対者の満ち満ちた様,神ご自身の満ち満ちた様にあなたがたが達しますように」。(エフェソス 3:18,19,新英語聖書)神の言葉が励ましているのは,クリスチャンがキリストを通して示された愛をよく理解することに真剣に努力し,キリストに見倣って神のようになろうと努めることです。クリスチャンはそうするよう努力しなければなりません。

      20 パウロが,ローマ 8章31節から39節で愛について書いていることは,どのようによい励ましとなりますか。

      20 この点で,わたしたちには使徒パウロが書いたすばらしい励ましがあります。彼は次のように記しています。「これらのことに対してわたしたちはなんと言えばよいでしょうか。もし神がわたしたちの味方であるなら,だれがわたしたちに敵するでしょうか。ご自身のみ子をさえ惜しまず,わたしたちすべてのために彼を渡してくださったそのかたが,どうしてそのご親切によって,彼とともにほかのすべてのものを与えてくださらないことがあるでしょうか。神の選ばれた者たちに対してだれが訴えを提出するでしょうか。神が彼らを義と宣しておられるのです。罪に定める者はだれですか。キリスト・イエスは死んでくださったかた,いえ,死人の中からよみがえらされて神の右におられるかたであり,このかたはまた,わたしたちのために願い出てくださるのです。だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すでしょうか。患難,あるいは苦難,迫害,飢え,裸,危険,剣でしょうか。『あなたのためにわたしたちはひねもす死に渡されており,ほふられる羊のごとくにみなされた』と書かれているようにです。しかしその逆に,わたしたちは,わたしたちを愛してくださったかたによって,これらすべての事に全く勝利を収めているのです。死も,生も,み使いも,政府も,今あるものも,きたるべきものも,力も,高さも,深さも,またほかのどんな創造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを,わたしは確信しているからです」― ローマ 8:31-39。

      21 (イ)なぜパウロは自分に見倣うよう他の人々に告げましたか。(ロ)この点に関し,わたしたち全部にどんな責任がありますか。

      21 パウロは自分がエホバに愛されていることを全く確信していましたから,神に見倣う者となるよう真剣に努力していました。したがって,フィリピ人に手紙を書いたとき,次のように述べました。「あなたがたがわたしとの関係で学び,また受けたり聞いたり見たりした事がらは,これを実行しなさい。そうすれば,平和の神があなたがたとともにいてくださるでしょう」。(フィリピ 4:9)使徒パウロは,わたしたちが皆間違いをする者であることを十分理解していました。しかし,自分が一生懸命に努力して兄弟たちに正しい模範を示していることを知っていました。そういう理由から彼はこう言いました。「兄弟たち,皆ともにわたしに見倣う者となってください。また,あなたがたがわたしたちに見る手本にかなう歩み方をしている人たちに目をとめなさい」。(フィリピ 3:17)長老たち,また真理に長くいる他の人々,あるいは日の浅い人々さえ,パウロのように正しい模範を示す重い責任があります。もし彼らがそうしないなら,それは神の会衆内の他の兄弟たちに対してつまずきとなりかねません。わたしたちはパウロから次のように勧められています。「ユダヤ人にも,またギリシャ人にも,そして神の会衆に対しても,つまずきのもととならないようにしなさい。わたしがすべての事においてすべての人を喜ばせ,自分の益ではなく多くの人の益を求め,こうして彼らが救われるようにしているのと同じようにです」― コリント第一 10:32,33。

      22 何が,神のようになるためのわたしたちの努力を成功させる助けになりますか。

      22 パウロは人類に対してエホバ神と全く同じ精神を抱いていました。彼はそれをエホバから学びました。隣人を愛し,永遠の命を得る十分の機会を彼らに与える必要を彼は知っていました。そういう理由から,彼はすぐ次の節で,「わたしがキリストに見ならう者であるように,わたしに見ならう者となりなさい」と言っています。(コリント第一 11:1)パウロは神のみ子から目を離しませんでした。イエスは完全で,しかも父のようになる努力をする点ですばらしい模範を示されたことを知っていたので,パウロも同じようにしたいと考えました。パウロは,神の言葉の中に記録されていることを知っていたので,わたしたちすべてに,「あなたがたの間で指導の任に当たっている人びと,あなたがたに神のことばを語った人びとのことを覚えていなさい。そしてその行ないがどのような結果になるかをよく見て,その信仰に倣いなさい」と諭しています。(ヘブライ 13:7)わたしたちは古い世のならわしに従うべきではありません。わたしたちは古い世にいるかもしれませんが,その一員ではありません。わたしたちが従うことのできる最も立派な模範は,エホバ神ご自身が示される模範です。また,イエスは地上におられたとき,「わたしを見た者は,父をも見たのです」と言われました。(ヨハネ 14:9)ですから,エホバ神に倣いたいなら,つまりエホバ神のようになりたいなら,わたしたちは確かに,忠誠の人キリスト・イエスのようにならねばなりません。

  • 『直き者に目を留めなさい』
    ものみの塔 1976 | 4月1日
    • 『直き者に目を留めなさい』

      1 (イ)詩篇作者ダビデは,どんな人たちを見つめなさいと言っていますか。(ロ)今日住んでいる人々の中にそのような人々がいますか。

      詩篇作者ダビデは,神のようになろうと努めている人々に特別の関心を抱くことの価値を認識していました。「とがめのない者を見つめ,直き者に目を留めよ。その人の将来は平和なものだからである」と彼は書いています。(詩 37:37,新)そういう人はたくさんおり,皆神への奉仕に忙しく従事しています。イエス・キリストの足跡に従い,良いたよりを宣べ伝えることに自らをささげ,父のようであったイエス・キリストのようになろうと非常な努力を払う人々のことを,多年にわたり聞くことができたのは本当に大きな喜びです。彼らの伝道,また正しい道を歩むことにおける彼らの粘り強さは,以下の例が物語っているように多くの人を神に引き寄せました。

      性道徳を実践し,正直に生きる

      2 性道徳に関する公開講演のあと,講演者は,出席していた二人の人とどんな会話をしましたか。

      2 エホバの証人の王国会館で講演を行なう特権を得たある兄弟は,人間が守るべく神が定められた高い原則を唱道し,また神の愛を力説しました。講演中同兄弟は,人類が陥っている不道徳についてかなり詳しく話し,結婚の床は淫行によって汚されるべきでない,という考えを強調しました。(ヘブライ 13:4)この非常に興味深い講演が終わったあと,ある夫婦が講演者のところへ来て,幾つかの質問をしました。その一つは,『もし淫行ができないとしたら,男はどうすればよいのですか』というものでした。その人の質問は,世の男性が普通もっている考えからそうかけ離れたものではありませんでした。使徒パウロの時代にさえ,パウロは,淫行がはびこっているゆえに,男はそれぞれ自分の妻を持つべきである,と言いました。(コリント第一 7:2)そこで講演者はその夫婦に,性は遊びの道具ではないこと,結婚は極めて厳粛な制度であって,神がエデンの園で,アダムとエバを「一体」とされたときに創始されたものであることを説明しました。そしてさらに詳細な点を取り上げ,キリスト・イエスさえその最初の結婚に言及されたこと,またこれは神がつくられた取り決めで清く保たれねばならないこと,結婚の床は汚すべきでないことなどを説明しました。(マタイ 19:4-6)夫が妻を,妻が夫を心から愛し,神のことば聖書の中に記されている原則に従うなら,二人の良心にやましいところはありません。したがってその結婚は幸福なものとなり,不道徳や乱交のゆえに今日世にはびこっている病気にかかることもありません。その三人は非常に興味深い討論をし,最後に講演者は家庭聖書研究をすることを二人に勧めました。

      3 (イ)五週間後,その若者はどんな質問をしましたか。(ロ)彼は問題をどう扱うことに決めましたか。なぜですか。

      3 それから五週間後,すでに聖書を真剣に勉強していたその若者は,自分の教え手に重要な質問をしました。彼はこう話しました。「去る六月のこと,わたしの友人が事故を起こして自分のトラックを壊してしまいました。それで彼は,保険金が取れるように,わたしがそのトラックを運転していたと言ってくれ,とわたしに頼みました。その時にはなんとも思わなかったので,じゃそう言おう,とわたしは言いました。ところが,その後保険会社は問題を法廷に持ち込みました。ですから証人が全部出頭しなければなりません。もしわたしが証人台に立って,もとの話をそのままするとすれば,わたしはうそを言うことになります。それは神の言葉に背くことです。神の言葉を学んだので,うそをつくことはわたしの良心が許さないのです」。もちろんこの人の質問は,「どうしたらよいでしょうか」ということでした。正直と真実を言うこととに関する聖書の原則について話し合ったところ,その若者は,トラックが受けた損害を自分が払って,トラック所有者に保険会社への請求を撤回させることに決めました。(ヨハネ 8:44。ヘブライ 13:18)そのために訴訟は取り消されました。若者は今は清い良心を持ち,正しい方である神に一層似る者となるように努めています。(ペテロ第一 3:12)真実を言うことに対するその人の愛は,生活を大きく変化させ,今では彼は神の王国の良いたよりを家から家に宣べ伝えています。

      4 したがって,この夫妻はますます神のようになるために何をしていたのでしょうか。

      4 こうした経験は何を物語っていますか。この夫妻は,聖書の勉強を初めてわずか五週間しかたっていなかったにもかかわらず,聖書を勉強することにより自分たちの生き方を改めることに,そしてアダムとエバの創造者である神のようになることに,努めていたのです。二人は直く生きるよう努力しており,神の定めた原則に従うことを望んでいます。彼らの生活の中には,淫行やどん欲が占める場はもはやありません。―ローマ 12:2。エフェソス 5:5。

      クリスチャンの愛は人を引き付ける

      5 (イ)ヤコブ 2章8節は,どんな特質を示すよう,わたしたちを励ましていますか。(ロ)英国での大会で話されたように,ある証人はその愛をどのように示しましたか。

      5 神のようになるためには,他の人々への愛が生活の中で主要なものでなければなりません。隣人愛を示す方法はいくらでもあります。(ヤコブ 2:8)1975年の夏,英国のシェフィールド市で開かれた大会で一つの経験が語られましたが,話し手の婦人は次のように言いました。「二年前,夫が私と六歳の息子を残して出て行ったとき,私の生活は全く空虚なものになってしまいました。頼る家族もありません。私は病気で,経済的にも困っていました。家の中には暖房用の燃料もありませんでした。そうしたある日,近所の人が電話をかけに来ました。私の様子に目を留めたその人は,魔法びんにコーヒーを入れてケーキと一緒に持って来てくれました。また薬を手に入れてくれたり,後ほどバケツ一杯のたきぎを持って来てくれたり,いろいろな面でなにくれとなく助けてくださったので,とても元気づけられました。

      6 さらにどんなことが,その婦人の霊的な進歩に貢献しましたか。

      6 「私はこのことに驚いてしまいました。というのは,この隣人がエホバの証人であることを知っていたからです。私はいつも,エホバの証人はどこか変わっていると考えていました。しかしこの隣人らしい行ないから,彼らがいかに正常であるかに気づきました。私たちの友情は深まり,数週間後にその人は,主イエスの死を祝うため王国会館に行くよう,記念式の時に私を誘ってくれました。幼い息子も一緒に行きました。私にとってそれは非常に良い経験でした。以前一度も会ったことのない,知らない人たちのまん中にいたのに,すっかりくつろいだ気分になれました。その晩,私はその親切な隣人から小さな贈り物をもらいました。それは『とこしえの命に導く真理』という本でした。初めのうち私はそれを読みませんでしたが,ついに『幸福な家庭生活を築く』という題の章があるのに気づきました。これには興味をおぼえました。そこに言われていることを自分の聖書で調べてみましたが,述べられていることはすべて事実であることが分かりました。言うまでもなく,私はすぐに聖書研究を始めました。離婚および主にある者との結婚について聖書が述べていることを学んだ私は,結婚相手として考えていたカトリック教徒のある男性との関係を断ちました。そのころまでには,つり合わないくびきを共にしてはいけないこと,また結婚するならクリスチャンは『主にある』者とすべきであることを学んでいたからでした。―コリント第一 7:39。コリント第二 6:14。

      7 その婦人自身の活動において,他の人々に対する愛はどのように明らかになりましたか。

      7 「それからまもなく献身とバプテスマへ心を動かされたことを,エホバに感謝しています。今年はいろいろな月に一時開拓奉仕を行ないました。年内には五か月にしたいと思っています。私の家はほんとうに小さな家ですが,地域大会の時に20人の兄弟姉妹をお泊めして,兄弟愛を示せたことは大きな喜びでした。このうち五人は,私の屋敷内に張ったテントの中で寝てくださいました。エホバに感謝すべきことに,私は今満ち足りた生活をしています」。―ローマ 12:13。ヨハネ第三 5-8。

      8 エフェソス 5章1,2節に示されている通り,何が神を喜ばす助けになりますか。

      8 ですから,神のようになることに努め,『キリストがわたしたちを愛したように愛のうちに生きる』ことは,確かに神に喜ばれることです。(エフェソス 5:1,2,新英)神の言葉を勉強し,誠実な気持ちでそれを信じ,神の前に自らを低くするなら,人の生活は大きく変化します。

      9 カナダに住むある男の人は,妻と子供たちがエホバの証人の集会に行き始めたとき,どんな反応を示しましたか。妻はどのように賢明に行動しましたか。

      9 交わりと兄弟愛も人の生活に大きな影響を及ぼします。例えば,カナダのオタワからは次のような報告が寄せられました。オタワに住む信心深いカトリック教徒のある婦人は,エホバの証人の会衆の集会に出席するようになりました。その人は子供たちを全部連れて出席しました。一人の子供は以前教会で侍者をつとめました。王国会館から戻ると子供たちは,聖書から新しく学んだことを興奮して父親に話したので,父親はひどくきげんを損ねました。それは,多くの夫がよく示す反応でした。やけになった父親は,エホバの証人との勉強をやめなければならない,証人の集会にももう行ってはいけない,と妻子に言い渡しました。業を煮やした彼は,そこの家で妻や子供と聖書を勉強していた開拓者の姉妹を含め,五人を全部撃ち殺してやる,とまで言いました。妻は夫が本気でおどしていることを知っていたので,エホバの証人の会衆の長老に電話をかけ,家に来て主人に問題を説明してください,と頼みました。そうすれば,エホバの証人に関する彼女の夫の誤解や偏見が解けるかもしれません。

      10 その男の人を訪問したとき,長老は事態をどのように扱いましたか。

      10 初めのうち主人は冷淡な態度を示し,ものを言いませんでした。しかしその長老は親しみやすくて親切な,そして力になりたいという態度で接し,夫なら,妻子が一つの礼拝所に行き,自分が別の教会に行くということになれば,あなたと同じような気持ちになることはよく分かります,と話しました。(テモテ第二 2:24,25)そして,わたし自身,妻がわたしのあまり知らない,あるいは全く知らない組織とかかわりを持つことは望みません,と説明しました。それで,少なくとも妻や子供たちが行く集会の一つに出席して,どんな人々が,エホバの証人の王国会館の集会に出席しているかを見ることを,長老はご主人に勧めました。出席者たちをよく観察し,彼らが教えられることを聞き,また彼らの気質を知れば,家族の霊的関心について賢明な決定を下すはるかに良い立場を得ることになります。

      11 王国会館に来たとき,その人はどんな印象を受けましたか。どんな結果になりましたか。

      11 反対していたその夫は,妻が本当に何に関心を持っているかを見るために,ただ試しに集会に来て見るよう,暖かく招待されました。二人は親しくなって分かれました。さてどうなるか,皆関心を寄せていました。次の日曜日が来て,反対の夫は朝のうち自分の教会に行きました。そして妻と子供たちがひどく驚いたことに,その日の午後王国会館に来たのです。兄弟たちから示された愛と友情に深く感動し,次の日曜日にも出席しました。こんどは先に自分の教会に行かないで出席しました。このころその人との聖書研究が始まりました。問題が頂点に達していた時にその家庭を最初に訪問した長老が,その人と勉強を続け三か月たちました。そして地域大会の発表がありました。開催都市は965キロ離れたところにありました。その人はもっと多くを見,もっと多くの事を知りたいと思っていたので,家族にとっても初めての地域大会に一緒に行きました。兄弟愛,隣人愛,戒めの中で最大のものである神への愛が,この夫に非常に大きな印象を与えました。(ヨハネ 13:35。マタイ 22:35-39)一年後,その夫妻はバプテスマを受け,夫は会衆内で非常に活動的になり,霊的にすばらしい進歩を見せています。

      12 神のようになろうと努めている人々は,他の人々のためにどんな活動に従事しますか。

      12 エフェソス人に対するパウロの訓戒はこの場合にぴったり当てはまります。「要するに,神の愛する子として,神のようになることに努めなさい。そしてキリストがあなたがたを愛し……たように,愛のうちに生きなさい」。多くの人々は今日,人間が創造される時に最初に植え付けられた,愛,公正,知恵,力という立派な属性を培っています。それはできることなのです。上述のことは例外だと考えるべきではありません。現在,エホバの証人の集会に定期的に出席している人は200万人以上います。そればかりではありません。彼らは王国の良いたよりを世界中で宣べ伝えて,多くの人々に,同じような平和と喜びと満足をもたらしています。先ほど述べた長老は,不正な利得を愛する気持ちからでも,強いられてでもなく,自分から進んで神の羊の群れを牧することに熱心でした。―ペテロ第一 5:1,2。

      五年後のすばらしい結果

      13 (イ)エホバのしんぼうは人間にとってどのように益となりましたか。(ロ)エホバの証人とのわずかな出合いは,ある10代の少女に,学校在学中どれほどの影響を与えましたか。

      13 エホバは人類に非常なしんぼうを示してこられました。(ペテロ第二 3:9)人の心が,神の目的と全く一致するまでには,多くの場合時間がかかりますから,それはたいへん有益でした。若い人々が,親のあらゆる反対や,「高等教育」の影響にもかかわらず,ある期間のうちに神の言葉の真理を実際に悟るのを見るのは,胸のおどる思いです。ポルトガルからの報告によると,五年ほど前のこと,ある10代の少女は,戸別伝道をしていたひとりのエホバの証人に会いました。二人はおもに進化論について討論しました。少女の父親は「進化」の本を求めて読みましたが,それでも進化論を擁護し,聖書が人間の創造について述べていることを娘に信じさせまいとしました。当時その少女は,カトリック教会の教義問答のクラスに通っていたので,司祭に,エホバの証人についての意見を尋ねてみたところ,エホバの証人はイエス・キリストさえ信じていない,と司祭は言いました。その後は証人たちと会うこともなく数年が過ぎました。高校教育も終わりに近づいたころ,進化論が取り上げられ,注意の的となりました。少女は情報源を明らかにはしませんでしたが,「進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか」という本で学んだ点を用いて,教師の論議に巧みに反論し始めました。最後に教師は,進化論が証明されていない学説であることを認めざるを得ませんでした。(ヘブライ 3:4)これが動機となってその少女は,同じ本に載せられている他の聖書的主題についても真剣に考えました。

      14,15 最後に,どんなことから彼女はエホバの証人と再び連絡を取る気持ちになりましたか。どんな結果になりましたか。

      14 彼女が大学に入ってから,ポルトガルで革命が生じました。他の多くの人々と同じように,彼女も政治論議にすっかり熱中し,すべての政治集会に出席しました。彼女は「平等,友愛,自由」というスローガンに心を奪われていました。そして最後に選んだ政党の熱心な闘士になりました。しかし彼女の高遠な希望は政治上の論争によって打ち砕かれ,どの政党も,人類を一致させることはできないことに気づきました。こうしたことについて考えていた1974年12月のこと,リスボンの新聞を取り上げたところ,一ページ全体に,エホバの証人の合法化が報道されていました。エホバの証人の目的を明示した組織の定款を読んで彼女はうれしくなりました。今や彼女は,エホバの証人こそ神の言葉の真理を教えている唯一の人々であるという確信を抱きました。

      15 彼女は証人たちと再び連絡を取るべく直ちに行動を起こし,新聞に載っていた住所,つまり協会の仮の支部事務所がある所に行きました。この時までエホバの証人はポルトガルで禁令下に置かれていたのです。その人との聖書研究が始まりました。親の反対は続きましたが,彼女はずっと研究を続け,エホバの目的を明確に理解しました。(マタイ 10:36,37)そして1975年の夏リスボンで開かれた「神の主権」地域大会で,エホバ神に対する献身を表わし,彼女はもとより,彼女と交わるようになった人々も,大きな喜びを得ました。心を決めるまでには長い年月がかかりましたが,それでも彼女はとがめのない者を見つめ,直き者に目を留める機会を持ちました。(詩 37:37)現在ではエホバを知るようになり,エホバのようになるべく努力を傾けていますから,彼女の将来は平和なものになるでしょう。そして思いと心に安らぎを得るでしょう。

      神を見倣う,200万余の人々

      16 (イ)エホバの証人は世界中にどれほどいますか。(ロ)昨年バプテスマを受けた人は何人いましたか。これにはどんな変化が関係していましたか。

      16 以上は,1975奉仕年度中に,217万9,256名のエホバの証人の伝道者が味わった多くの経験の中の,ほんの数例に過ぎません。昨年中,29万5,073人もの人がエホバに献身し,私事を調整して王国の良いたよりを戸別に宣べ伝え,また以前一度も会ったことのない人々との聖書研究を司会したことなど,想像できますか。神の言葉は彼らの生活に影響を及ぼしました。彼らは「古い人格」を捨て去りました。使徒パウロはそれをどのように説明していますか。『あなたがたの以前の生き方にかない,またその欺きの欲望にしたがって腐敗してゆく古い人格を捨て去り,あなたがたの思いを活動させる力において新たにされ,神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格を着けるべきである』。(エフェソス 4:22-24)ですからバプテスマを受けた人々は彼のように,つまり神のようになることに努めているのです。彼らは新しい力によって思いを活動させます。ですから聖書の中で新しい人格と呼ばれているものが,神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造されています。したがってそれらバプテスマを受けた人々は,変化することを望んでいたのです。彼らはその変化を,エホバの証人として知られている組織との交わりの中で,引き続き行なっています。彼らはクリスチャンです。

      17 (イ)昨年は,野外奉仕にどれほどの時間がささげられましたか。(ロ)この業を行なったのはどんな人々でしたか。

      17 興味深いことに,年次報告を見ますと,これらの神のしもべは,3億8,229万6,208時間を伝道にささげました。これは膨大な量の時間です。どんな人たちがこれだけの伝道をしたのでしょうか。人々が聖書の知識を得るのを助けようとして,決まった日常生活の中で,できる限り多くの時間をささげた人たちがいた,ということです。その人たちの多くは結婚していて家庭を持っています。ですから土曜か日曜,また夜出かけて行って,一か月に10時間か12時間奉仕します。自分の仕事を調整して一か月に100時間ほど野外で過ごす人たちもいます。これらの証人をわたしたちは開拓者と呼びます。それから特別開拓者がいます。特別開拓者は150時間を野外奉仕にささげ,多くの場合,新しい地域に入ります。

      18 (イ)幾人が開拓の業を行なっていますか。(ロ)現在伝道は幾つの国で行なわれていますか。(ハ)この業において雑誌はどれほどの場を占めていますか。

      18 昨年の報告の示すところによると,毎月11万4,491人の開拓者と,1万5,734人の特別開拓者が世界のどこかで伝道していました。宣教者の分野では2,456人が奉仕しています。彼らはたいてい自分の家から遠く離れたところにいます。事実,この王国の良いたよりは今210の異なる国々で宣べ伝えられています。キリスト・イエスのことを宣べ伝える業はキリスト教世界,すなわち特定の言語を話す国々に限られてはいません。例えば,あなたがお読みになっているこの雑誌は,78の異なる言語で発行されており,各号の発行部数は1,000万部を超えます。1975年には,「ものみの塔」誌はその姉妹誌「目ざめよ!」とともに5億1,370万5,582冊印刷されました。人々が全能の神についてさらに多くのことを学んで神のようになるべく努力するよう,これらの雑誌を配布し,雑誌が人々の家庭に入るようにしているのはエホバの証人です。

      19 (イ)なぜわたしたちは書籍を配布しますか。(ロ)昨年はどの程度再訪問が行なわれましたか。

      19 エホバの証人が配布するのは雑誌だけではありません。堅い表紙の立派な書籍が幾冊かあり,証人たちは,関心を持つ人とその人の家で勉強をする際に,好んでそれらを用います。事実,昨年中それら神のしもべであるクリスチャンたちは,2,841万783冊の書籍を配布し,文書を求めた人々を1億5,533万6,481回再訪問しました。次のことを想像してみてください。1975年に,彼らは毎週,少なくとも141万1,256人の人の家庭で座って彼らと聖書を勉強したのです。ところで,これは自分を与えることです。これは隣人愛を示すことです。わたしたちは,イエス・キリストや使徒たちが1,900年前に行なったことを行ないたいと思っている人々が皆,エホバの証人と交わって,この同じ活動をされるよう歓迎します。

      20 世界中で幾人が,記念式に出席することによってある程度の関心を示しましたか。

      20 わたしたちの業に関心を持つ人々が非常に多くいることに疑問はありません。しかし,むろんそれはすべての人に受けのよい業ではなく,世界の多くの場所で迫害があります。諸政府は,自分たちのものとは異なる王国,すなわち神の王国を人類の唯一の希望としてわたしたちが宣べ伝えることを好みません。本当に関心を持つ人々と言えば,エホバの証人は,一年に一回,キリスト・イエスの死の記念式に出席する人々の数を数えます。1975年3月27日には,492万5,643人がエホバの証人の王国会館に来て,キリスト・イエスの死が彼らにとり,また全人類にとって何を意味するかに関する話を聞きました。この報告の中でお気づきになった通り,29万5,073人が,勤勉にエホバに奉仕し,王国の良いたよりを宣べ伝え,キリスト・イエスが,従うべき型として残されたものと一致した新しい人格を着けることによって,一層エホバのようになるべく努力する決意をしました。

      21 この記事と一緒に印刷されている奉仕の表に,再訪問と聖書研究が載せられているのはなぜですか。

      21 エホバの証人は210の異なる国々や海洋の島々で活発に活動していますが,彼らの行なっている事がらについての詳細な点に関心をお持ちかもしれません。すべてのエホバの証人の便宜のために,わたしたちは各国内のバプテスマを受けた人の数と,そこにある会衆の数を示す表を載せました。その国の全部のエホバの証人が野外奉仕で費やした時間を発表すれば,その特定の地域内でどんな証言が行なわれたか分かります。エホバの証人に関する限り再訪問と聖書研究は本当に重要なものです。なぜなら,その時こそ人々の家で人々と一緒に座って聖書に関する質問に答え,世界の現状についてまたなぜ神はそのような悪を許しているかについて,人々が持っているかもしれない質問の答えを聖書に求めるように助けることができるからです。この世は終わるのでしょうか。悪魔サタンというような害を働いている者がいるのでしょうか。あなたも恐らく多くの疑問をお持ちのことでしょう。それで彼のように,すなわちエホバ神のようになりたいなら,世界中に3万8,256あるエホバの証人の会衆の一つをぜひお訪ねになるようお勧め致します。エホバの証人の王国会館においでになって,彼らとの交わりを楽しんでください。だれにでも結構ですから恥ずかしがらずに話しかけて,あなたと一緒に聖書研究をするよう頼んでください。わたしたちは喜んでお手伝い致します。

      22 詩篇 37篇1節から4節に従い,わたしたちは誠実な人すべてに何をすることを勧めますか。

      22 あなたは生活上の問題をお持ちですか。失望していますか。安全について心配がありますか。世界の状態に心を悩ましておられますか。ではダビデ王が言ったことに耳を傾けてください。「悪行者たちの故に激してはならない。不義を行なう者たちをうらやんではならない。彼らは草のように速やかに枯れて行き,緑の若草のように消えて行くからだ。エホバにより頼み,善を行ないなさい。地に住み,忠実をもって対しなさい。また,エホバを無上の喜びとしなさい。そうすれば,彼はあなたの心の願いをかなえてくださる」。(詩 37:1-4,新)あなたはこのことを信じますか。それが事実かどうか調べてみるのはいかがですか。エホバの証人と交わってください。彼らは喜んであなたをご援助します。

      [212-215ページの図表]

      全世界のエホバの証人の1975奉仕年度の報告

      (製本した雑誌を参照)

  • ベトナムにおける良いたよりの伝道
    ものみの塔 1976 | 4月1日
    • ベトナムにおける良いたよりの伝道

      ● 共産主義者が政権を執った南ベトナムは,現在,協会のパリ支部事務所の監督下にあります。知ることのできる限りでは,わたしたちの兄弟が100名ほどサイゴンに留まっています。昨年を振り返ってみると,エホバの証人のすべては,全能者なる宇宙の主権者であられるエホバ神がこの国の仲間の信者に保護の手を差し伸べてくださったことに深い感謝の念を覚えます。共産主義者が4月に政権を執る以前,南ベトナムのエホバの証人は連続6か月にわたって伝道者の最高数を記録しました。良いたよりの宣布者が120人の最高数に達したのです。三つの会衆が支部の家と宣教者の家で集まりを開いていました。日曜日の集会の平均出席者数は180人前後でした。昨年中にサイゴンで地域大会が開かれました。また,昨年の特筆すべき出来事は,共産主義者が政権を執る以前にノア兄弟の訪問があったことでした。その時同兄弟は,世界のいろいろな土地における神の民の業をスライドで見せ,その後非常に励ましとなる話をしました。

      サイゴンが陥落した後,土地の兄弟との通信は全く途絶えてしまいました。兄弟たちはそれまでの年月,良い助言や聖書による援助を受けてきましたから,彼らの信仰はきっと明らかになることでしょう。それらの兄弟たちは,初めて,宣教者の援助を受けずに伝道を続けなければなりません。とはいえ,エホバは兄弟たちの境遇をご存じであり,わたしたちは,エホバが忠実な人々を引き続き保護しその世話をされることを確信しています。

      南ベトナムからの撤退に伴い,幾千人もの人々が様々な国,特にアメリカに追放されました。ベトナムを離れた宣教者の一夫婦は,現在,カリフォルニアの難民収容所のひとつで働くよう割り当てられています。ふたりは,サイゴンで知っていた人にたくさん会いました。それで,この宣教者たちはテントからテントに行き,聞く耳のある人々に真理を伝えています。難民収容所のひとつで会衆の正規の集会が開かれています。世界中のクリスチャンは南ベトナムの兄弟たちのために祈り続けるに違いありません。―「エホバの証人の1976年の年鑑」より

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