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  • 『だれがエホバの思いを知るようになったであろうか』
    ものみの塔 1984 | 9月1日
    • 『だれがエホバの思いを知るようになったであろうか』

      『「だれがエホバの思いを知るようになり,だれがその助言者となったであろうか」とあるのです』― ローマ 11:34。イザヤ 40:13,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳。

      1 (イ)パウロは挑戦となるどんな質問をイザヤ 40章13節から引用していますか。(ロ)パウロの引用句の中のかぎとなる語は,原語のヘブライ語とはどのように異なっていますか。

      この挑戦的な質問は2,700年余り前に古代イスラエル国民に投げかけられたもので,かつてパリサイ派のユダヤ人であった人は自分の書いたローマ人への手紙 11章34節でそれ引用し,こう述べました。『「だれがエホバの思いを知るようになり,だれがその助言者となったであろうか」とあるのです』。使徒パウロはこの質問を,古代ギリシャ語のセプトゥアギンタ訳によるイザヤ 40章13節から引用しました。この訳はここで,ヘブライ語原文に見られる「霊」に相当する語ではなく「思い」に相当する語(ギリシャ語でヌース)を用いています。

      2 わたしたちは人間の「思い」をどのように理解しますか。例を挙げて説明してください。

      2 では,「エホバの思い」という,霊感による表現は何を意味していますか。人間という被造物であるわたしたち自身の場合,思いは思考過程を表わします。例えばわたしたちは,『キリスト・イエスにもあった精神態度』を抱くために“決心する(英語の文字通りの意味は,思いを作り上げる)”ことができます。(フィリピ 2:5。創世記 11:6もご覧ください。)わたしたちの精神的能力は,どんな動物よりも優れています。

      3-5 (イ)イザヤ 55章8,9節は,エホバの「思い」について何を示していますか。(ロ)パウロが,ローマ 11章33節に記されている感嘆の言葉を述べたのも不思議ではありません。なぜですか。(ハ)パウロは,ローマ 11章34節にある注釈で,何を言おうとしていますか。(ニ)キリスト教時代以前の筆者たちが,エホバの「思い」を知ることができなかったのはなぜですか。

      3 創造者であられるエホバ神が思いに描いておられる事柄は,わたしたち不完全な人間が自分で思いに描くかもしれないこと,あるいは想像できることよりはるかに優れています。エホバ神はイザヤ 55章8,9節の預言の中でこの肝要な事実に注意を向けさせています。そこにはこう記されています。「『あなた方の考えはわたしの考えではなく,わたしの道はあなた方の道ではないからである』と,エホバはお告げになる。『天が地より高いように,わたしの道はあなたの道より高く,わたしの考えはあなたの考えより高いからである』」。したがって,神は人間という被造物のために,とりわけご自分との契約関係に入る人々のために,地上のわたしたち被造物がかつて形造ることのできたものよりもはるかに良いものを意図しておられます。ですから「諸国民への使徒」が,エホバの取り決めに関する一つのユニークな特色と,それがどのように達成されているかについて論じた後,「ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく,その道は何とたどりがたいものなのでしょう」と,思わず感嘆の声を上げたのも不思議ではありません。(ローマ 11:13,33)確かに,神に先んじて神の道をたどり出した人は一人もいません。ですから,霊感を受けていた同使徒は,そのあとで,『「だれがエホバの思い[ギリシャ語でヌーン]を知るようになり,だれがその助言者となったであろうか」とあるのです』と注釈を加えています。(ローマ 11:34)この箇所はエルサレム聖書ではこうなっています。「一体だれが主の思いを知ることができるだろうか。一体だれがその助言者になれるだろうか」。

      4 これらの言葉によって同使徒は,神がご自分の思いの中にある事柄を啓示された後も人間は神の思いを知ることや理解することができない,と言おうとしたのではありません。そうではないのです。神は霊感によるご自身のみ言葉聖書のページの上で,ご自分の思いをわたしたち人間に明らかにされたからです。同使徒が言おうとしたのは,人間が自分のほうから,また神がご自身の思いや目的を形造られる前に,自分の思考能力をもって同じ事柄を達成したり発展させたりすることはとてもできないということです。神ご自身の啓示がある前にそのようにしたことを証明した人は一人もいません。ですから確かに,聖書に神からの啓示が記される前には,だれも「エホバの思い」を知るようにはなりませんでした。聖書の最初の39冊の書を書いた,キリスト教時代以前の人々もそうでしたし,律法を授与したモーセも例外ではありませんでした。

      5 例えば,エホバがアブラハムとその胤を扱うことについて思いに描いておられた事柄を理解できた人は一人もいませんでした。そして,そのすべてが西暦1世紀の出来事とどんな関係があるのかを理解できた人は一人もいませんでした。

      「オリーブの木」に関するエホバの「思い」

      6 (イ)パウロはローマ 11章でどんな約束について論じていましたか。(ロ)アブラハムはどのように大きな恵みを受けましたか。それはどんな理由によっていましたか。

      6 同使徒はローマ 11章の34節に至るまで,予告された「アブラハムの胤」のことを論じていました。創世記 12章3節や22章17,18節などのモーセの記録によれば,エホバ神はアブラハムの子孫,つまり「胤」を通して老齢の族長アブラハムを祝福することを約束なさいました。この胤において,あるいはその胤によって,アブラハムの神はご自分のご予定の時に地のすべての家族と国の民を祝福されます。相続人になることの何とすばらしい約束なのでしょう。また,アブラハムがその約束の相続人になるとは,信仰と従順に対する何と大きな報いなのでしょう。

      7 (イ)予型的な「オリーブの木」の各部分は何を表わしていますか。(ロ)「枝」は何になる見込みがありましたか。(ハ)「胤」に関して,エホバの「思い」の中にあるどんなことがまだ啓示されなければなりませんでしたか。

      7 同使徒は,エホバが当初思いに描いておられた事柄を,オリーブの木の発育になぞらえています。オリーブは,パウロの故国であるイスラエルでごく一般的に見られる木です。この描写に一致して,この予型的なオリーブの木の根はアブラハム自身でした。象徴的な根であるアブラハムから生え出た幹は,アブラハムの最愛の息子イサク,孫のヤコブつまりイスラエル,そしてイスラエルの十二部族の父祖となった,ヤコブの12人の息子たちで構成されていました。これら12人の族長たちの子孫は皆,生来その予型的なオリーブの木の枝でした。そのような枝として,彼らは直接,約束された「アブラハムの胤」になる見込みがありました。その胤によって,地のすべての家族と国の民は,エホバの愛ある目的,つまり「思い」にしたがい,祝福を受けることになっていました。しかし,この「胤」について彼らは,それが族長アブラハムの生来の子孫による肉的な種ではないということを知りませんでした。それは霊的な「胤」になるはずだったからです。したがって,その父はアブラハムよりも大いなる方,アブラハムよりも高い方となります。その父に相当する方としては,命の偉大な授与者,つまりエホバ神ご自身のほかにはおられませんでした。では,だれがこの「胤」の主要な者となるはずでしたか。

      8 (イ)イエスはどのようにイサクよりも大いなる者となられましたか。(ロ)地のすべての家族を祝福するために,イエスの犠牲と天への復活が必要だったのはなぜですか。

      8 その方は,アブラハムの老齢の時の息子イサクよりも大いなる方です。それは,イサクの子孫であり,それでいながらイサクやその息子ヤコブつまりイスラエル,そしてヤコブの12人の息子,すなわちイスラエル国民の12の土台よりも大いなる「人間キリスト・イエス」でした。(テモテ第一 2:5)イエスと名づけられるその赤子は,エホバ神の霊により処女である母マリアの胎から生まれたがゆえに「神の子」でした。実際,その命は霊的な領域からマリアの胎に移されたもので,マリアの夫ヨセフはイエスの地的な養父にすぎませんでした。(ルカ 1-3章)しかし,その後の進展から理解できるとおり,イエスは地上の一人の人間としては,地のすべての家族と国の民を祝福する者とはなりませんでした。西暦33年,エルサレム城外のカルバリでご自身の完全で罪のない人間の犠牲により,イエスが全人類の祝福のために仕えることができたのは確かです。しかし,イエスの天の父であられるエホバ神は西暦33年のイエスの死の三日目にイエスを死人のうちから復活させ,その後イエスは神の霊的な子として天に戻られました。イエスが地上のすべての家族と国の民を祝福されるのは,その天からです。

      9 (イ)象徴的なオリーブの木は,今やどんな広範な意味を帯びるようになっていますか。(ロ)霊的な枝はどれほどの数に上りますか。どのようにそれが分かりますか。(ハ)ガラテア 3章28,29節は,これらの「枝」に関し,何をわたしたちに教えていますか。

      9 この観点に立つと,オリーブの木に関する使徒パウロの例えは,新しい,非常に広範にわたる意味を帯びるようになってきます。その霊的なオリーブの木の「根」は,すべてのものの命の偉大な授与者,族長アブラハムよりも大いなる方,つまりエホバに相当します。この大いなるアブラハムの独り子は,イサクより大いなる方,イエス・キリストに相当します。この大いなるイサクは,大いなるアブラハムであるエホバ神の霊によって生み出されるクリスチャン会衆の頭に相当します。クリスチャン会衆の成員は,この神権的なオリーブの木から生じる霊的な枝であり,啓示 7章1節から8節,および14章1節から3節によれば,最終的に14万4,000人を数えるようになります。そのわけでガラテア 3章28,29節にはこう記されています。「ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男性も女性もありません。あなた方は皆キリスト・イエスと結ばれて一人の人となっているからです。さらに,キリストに属しているのであれば,あなた方はまさにアブラハムの胤であり,約束に関連した相続人です」。

      10 (イ)最初に霊的な枝になる見込みを持っていたのはだれでしたか。(ロ)彼らのうちだれが「救われ」ましたか。そしてパウロはその点を例証するためにどのように預言を引用しましたか。

      10 イエスの時代の生来のユダヤ人は,イエスの生来の兄弟たちであったため,また族長アブラハムの生来の子孫であったため,その霊的なオリーブの木の最初の「枝」になる見込みがありました。彼らは,モーセを仲介者とする大いなるアブラハムとの律法契約に入っていました。イエス・キリストは,「イスラエルの家の失われた羊」以外の地上のだれの所にも直接には行かれませんでした。(マタイ 10:6)したがって,エホバ神を根とするその霊的なオリーブの木の「枝」となる最初の人々は,生来のユダヤ人であり,イエス・キリストの忠実な12人の使徒たちと他の幾千人もの生来のユダヤ人でした。しかし,正にイザヤ 10章22節に予告されていたとおり,「救われ」て大いなるアブラハムの胤となり,その「約束」の相続者となるのは,少数の「残りの者」だけでした。パウロはこの預言をローマ 9章27節で引用しています。

      11 (イ)「枝」になる見込みを持つ人々が折り取られたのはいつですか。(ロ)野生のオリーブの「枝」はどのように接ぎ木されるようになりましたか。どのオリーブの木にですか。

      11 「アブラハムの胤」の「枝」となる見込みのあった人々を折り取ることは,割礼を受けたサマリア人の改宗をもって始まり,大いなるイサクであるイエス・キリストの死と復活の3年半後に本格的に行なわれるようになりました。その時点で,非ユダヤ人で割礼を受けていない信者,つまりローマ人の百人隊長のコルネリオとその家族および信仰を持った友人たちが使徒ペテロにより改宗し,エホバの霊により生み出され,油そそがれた後にバプテスマを受けました。(使徒 10章)このようにして,野生のオリーブの木の「枝」が,エホバ神を命を与える「根」とする霊的なオリーブの木に接ぎ木されました。

      12 (イ)折り取られた「枝」が悔い改めた場合にはどんなことが生じますか。例を挙げて説明してください。(ロ)これは何を例証しましたか。(ハ)パウロに倣い,わたしたちはエホバの「思い」に関するこのような啓示にどのように反応すべきですか。

      12 しかし,だれであれ折り取られた生来のユダヤ人が,アクラとプリスキラのように問題を再び考慮し,悔い改めるなら,それらの人々は,大いなるイサクであるイエス・キリストに対する不信仰ゆえにユダヤ国民が失ってしまった霊的な特権に再び接ぎ木されたことでしょう。(使徒 18:1-4,26。ローマ 16:3。コリント第一 16:19)このことは,大いなるアブラハムであるエホバ神の愛ある親切を例証しました。自らの父祖たちのゆえに神からなお愛されていた生来のユダヤ人に対するエホバ神の側のこれほどまでの称賛すべき寛大さこそ,使徒パウロをして,「ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく,その道は何とたどりがたいものなのでしょう」と叫ばせたものなのです。エホバの「思い」のこのような啓示は,わたしたちの心からの感謝の念をも呼び覚ますでしょうか。

      心をつくし,思いをつくして神を愛する

      13,14 (イ)神はどのように律法を備えられましたか。どんな目的のためですか。(ロ)イエスは,その律法に関して何と言われましたか。ここで言及されているのはどんな“ハート”ですか。(ハ)イエスはどんな二つのおきてを引用されましたか。わたしたちがそれらを守るべきなのはなぜですか。

      13 エホバ神は,預言者モーセに仲介者を務めさせ,族長アブラハムの生来の胤,つまりイスラエル国民と一つの契約を結ばれました。その出来事は,西暦前1513年の昔,シナイ半島の荒野とシナイ山で生じました。そこでエホバは彼らにご自分の律法をお与えになりました。使徒パウロはこの律法について,「したがって,律法は,わたしたちをキリストに導く養育係となったのであり,それは,わたしたちが信仰によって義と宣せられるためでした」と書きました。(ガラテア 3:24)では,キリスト・イエスはモーセを通して与えられたこの律法に関して何と述べていますか。律法の条項のうちどれが「最大のおきて」であるかと尋ねられて,イエスはこうお答えになりました。「『あなたは,心[ギリシャ語でカルディア]をこめ,魂[プシュケー]をこめ,思い[ディアノイア]をこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。これが最大で第一のおきてです。第二もそれと同様であって,こうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。律法全体はこの二つのおきてにかかっており,預言者たちもまたそうです」。(マタイ 22:35-40)ここで心<ハート>は思いと関連して言及されており,それが比喩的な意味での「心臓<ハート>」でなければならないことを示しています。

      14 イエスはその時に,「ゆえにあなたは,心[ヘブライ語でレーヴァーヴ]をつくし,魂[ネフェシュ]をつくし,活力をつくしてあなたの神エホバを愛さねばならない」という申命記 6章5節から引用していました。そしてまた,「あなたの仲間を自分自身のように愛さねばならない。わたしはエホバである」というレビ記 19章18節からも引用しました。ですからイエスは,この二つのおきてを,モーセの律法契約に含まれるおきてのうち最大のもの,およびそれに次ぐものと定められました。今日のわたしたちはモーセの律法のもとにはありませんが,これらの基本的な要求は時代遅れになったわけではありません。わたしたちはそれらを守るべきです。

      15 (イ)体の心臓の動きを誘発するものは何ですか。それはどのように機能しますか。(ロ)体の心臓は,脳や思いとどのような関係がありますか。

      15 わたしたちは「命の霊」が体の心臓を動かすことを知っています。(啓示 11:11。創世記 7:22)この生命力は生ける身体の心臓の動きを誘発し,その結果として心臓は脳を含め,人体のあらゆる器官に血液を送り出すようになります。エホバ神はこう言われました。「あらゆる肉なるものの魂[ネフェシュ]はその血であり,魂がその内にあるからである。そのためわたしはイスラエルの子らにこう言った。『あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである』」。(レビ記 17:14)体全体が生きるためには,血液の循環が神から与えられた自然の心臓によるものであろうと,だれかほかの人の体から移植された心臓によるものであろうと,あるいは感覚のない,こしらえ物の機械的な心臓によるものであろうと,体の心臓が,命を支える血液を体のすべての器官に押し出さなければなりません。このようにして血液は脳に送り出され,脳の思考能力は刺激を受け,思いは機能します。ですから,体の心臓が,活動的な生命力,つまり「命の霊」を含む血液を脳に与えるという理由により,脳を養うということが明らかになります。人が意識していようといまいと,心臓は脳や体の他のすべての器官に血液を送り出し続けます。

      16 (イ)聖書によれば,比喩的な心臓とは何ですか。(ロ)「心をつくして」エホバを愛するためにわたしたちには何が求められていますか。(ハ)どのようにわたしたちは「思い」をつくしてエホバを愛しますか。

      16 しかし,生体組織の文字通りの心臓<ハート>の奥を調べてみましょう。聖書の中で用いられているように,“ハート”は動機の座,および感情の座を表わします。これは,実際にはわたしたちの内奥の自己を意味する比喩的な心臓<ハート>です。ペテロ第一 3章4節でそれは「心<ハート>の中の秘められた人」(新世界訳),「心<ハート>の中の隠された人」(改訂標準訳),「あなたの内面的な自己」(新国際訳)と表現されています。したがって,わたしたちは心をつくしてエホバを愛するようにという命令のもとにあります。わたしたちはまた,魂をつくして,わたしたちの存在全体をもってエホバ神を愛するようにとも命じられています。そのためには,全能者であられる生ける唯一まことの神を活力をつくして愛し,わたしたちのエネルギーのすべてを,この「事物の体制の終結」の期間中,啓示された神のご意志を行なうことに,そして神の業を十分に行なうことに振り向ける必要があります。(マタイ 24:3)それに加えて,わたしたちの「思い」,つまり精神的能力をつくして,聖書の神を愛する気持ちがなければなりません。―マルコ 12:29-31。

      17 (イ)わたしたちが心と思いをつくしてエホバを愛するなら,どんな保証を得ることができますか。(ロ)フィリピ 4章7節によると,わたしたちの心と思いは神の平和によりどのような影響を受けますか。

      17 もしわたしたちが心と思いをつくしてエホバ神への愛を表わすなら,エホバが喜んでわたしたちの祈りに答えてくださることは言うまでもありません。そしてこの保証は,わたしたちを思い煩いからいつも解放してくれます。わたしたちは,この動乱に満ちる世が享受していない,また理解することのできない平和を享受します。なぜそう言えますか。なぜなら使徒パウロがギリシャの古代フィリピの愛されたクリスチャンたちに次のように保証しているからです。「一切の考え[ギリシャ語でヌーン]に勝る神の平和が,あなた方の心[カルディアス]と知力[ノエーマタ; 「思い」,欽定訳; 改訂標準訳]を,キリスト・イエスによって守ってくださるのです」。(フィリピ 4:7)このように,わたしたちの比喩的な心臓は,軽率でよこしまなどんな動機や感情的動揺によっても興奮させられることがなく,知力,つまり思いは,混乱させられたり曲げられたりしません。クリスチャンは,神の霊感による聖書に従い,また指導者であられるキリスト・イエスの助けを得て,自分の道を追い求め続けます。

  • いま啓示されている「エホバの思い」に自分を合わせる
    ものみの塔 1984 | 9月1日
    • いま啓示されている「エホバの思い」に自分を合わせる

      1 どの国民が生来のイスラエルに取って代わりましたか。どの契約においてそうしましたか。

      神のみ子は,神と生来のイスラエルとの間の律法契約の仲介者であった預言者モーセに代わる者となられました。イエス・キリストは,予告されたエホバの新しい契約の任命された仲介者となられました。この契約は,古代の生来のイスラエルに取って代わった国民,つまり「神のイスラエル」である霊的イスラエルと結ばれたものです。(ガラテア 6:16)不完全な人間モーセの仲介で結ばれた契約に含まれる十戒や他の関連するすべての律法は,写本に記録されましたが,現実には,割礼を受けた肉のユダヤ人,つまりイスラエル人の心と思いに刻まれたわけではありませんでした。モーセの律法契約に関して効果が上がっていないことに注目されたエホバ神は,エレミヤ 31章31節から34節に記録されているとおり,新しい契約を設けることを預言者エレミヤを通して予告されました。

      2 (イ)イエスはどのように契約の仲介者となられましたか。(ロ)この契約はどのように,そしていつから有効となりましたか。

      2 イエス・キリストは,エルサレム城外の苦しみの杭の上で心臓破裂により死なれた時にご自身の命の血で約束の「新しい契約」を締結されました。その前夜,モーセの律法契約に従ってご自身の忠実な使徒たちと最後の過ぎ越しの夕食を祝った際,イエスは彼らにぶどう酒の杯を回し,「この杯は,わたしの血による新しい契約を表わしています。それはあなた方のために注ぎ出されることになっています」と述べて,そのぶどう酒に新たな意味を付与されました。(ルカ 22:20。コリント第一 11:23-26)このようにしてイエスは,モーセの律法契約よりも「勝った契約」となった新しい契約の仲介者となられました。(ヘブライ 8:6; 9:11-28)したがって,イエスは,西暦33年にご自分の完全な命の血の価値を天において差し出されて以来,エホバ神が新しい契約の中に入れておられるこれらの弟子たちに対する仲介者として奉仕してこられました。―テモテ第一 2:5,6。

      3 ヘブライ 10章15,16節によれば,エホバはこの契約の律法をどこに書かれますか。

      3 同使徒はヘブライ 10章15,16節で新しい契約のことを論じた際,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳によるエレミヤの預言を引用してこう書いています。「さらに,聖霊もわたしたちにこう証ししています。『「これが,それらの日の後にわたしが彼らに対して締結する契約である」と,エホバは言われる。「わたしは,わたしの律法を彼らの心[カルディアス]の中に置き,それを彼らの思い[ディアノイアン]の中に書き記す」』と述べた後」。

      4 (イ)比喩的な心臓と思いはどのように異なりますか。(ロ)詩編 119編に調和して,新しい契約に入っているクリスチャンはどのように心と思いを用いますか。(ハ)いつまたどのように,神の律法を心と思いに書くことが始まりましたか。

      4 比喩的な心臓と思いの働きに従って,仲介者キリストを通して新しい契約に入れられたクリスチャンたちは,これらの律法に従う動機づけを与えられているので自分たちの心をもってエホバの律法を愛します。そしてこれらの神聖な律法をしっかりと記憶にとどめることもします。詩編作者はその点を次のように表現しました。「わたしはどんなにあなたの律法を愛していることでしょう。それは一日じゅうわたしの思い[「わたしの黙想」,改訂標準訳; 欽定訳]となっています」。(詩編 119:97)エホバの律法をキリストの弟子たちの比喩的な心臓の中に置くこと,およびその律法を彼らの思いの上に書くことが始まったのは,西暦33年のペンテコステの日でした。イエス・キリストの待機していた弟子たちに聖霊が注がれ,「さながら火のような[目に見える]舌」が120人の弟子たちの頭上にとどまり,彼らが自分たちの研究したことも学んだこともない外国語を話し始めたのはその時のことです。目を見張るばかりの奇跡です! そこに集まり,見ていた人たちに証しが行なわれた結果,イエスをキリスト,つまりメシアであると信じてバプテスマを受け,キリストを仲介者とする新しい契約に入れられた人々が3,000人に及びました。―使徒 2章。ヨエル 2:28-32。

      5 今日において新しい契約に入れられてきたのはだれですか。その人々が「枝」であることをどんな証拠が示していますか。

      5 それから1,900年たった現在,「神のイスラエル」の残りの者がいます。その成員は,聖霊によるバプテスマを受けて新しい契約に入れられていることをはっきり示します。彼らは,エホバ神の律法を自分たちの比喩的な心臓に置いていただいたこと,思いに書いていただいたことをはっきり示しています。彼らはマタイ 24章14節とマルコ 13章10節に記されている,彼らの仲介者の予測しておられた事柄を行なっています。彼らは使徒パウロがローマ 11章で描写している霊的なオリーブの木の「枝」であり,多くの実を生み出します。

      6 (イ)エホバの「思い」の別のどんな特色が1935年以来明らかにされてきましたか。(ロ)「ほかの羊」は,この時代のための神の「律法」に対する自分たちの愛に関しどのように説得力のある証拠を示していますか。

      6 「エホバの思い」の別の特色が,1935年のワシントン特別区のエホバの証人の大会以来明らかにされています。啓示 7章9節から17節に予告されている「大群衆」に関するエホバの「思い」とは何でしたか。神の比喩的な神殿で神に仕える,エホバ神と子羊イエス・キリストの予告された賛美者のこの群れは,1935年以来姿を現わしています。ワシントンでその後6月1日の土曜日にバプテスマを受けた840人には,現在に至るまで人々が加えられています。今日ではりっぱな羊飼いイエス・キリストの「ほかの羊」が全世界で250万人以上存在しています。それらの人々は,新しい契約にあずかっている,霊によって生み出された人々と定期的に交わり,マタイ 24章14節に予告されている王国の証しの業に参加しています。(ヨハネ 10:16)彼らは詩編作者と同じく,この「事物の体制の終結」の時のためのエホバの「律法」を愛していることと,その神の「律法」を彼らの思いに置いて黙想し,彼らの心の思いにするということを示す説得力のある証拠を提出します。

      信念と告白を通しての救い

      7,8 (イ)救いは,頭の知識だけに依存していますか。(ロ)ローマ 10章5節から10節は,比喩的な心臓と思いの相互作用について何と述べていますか。

      7 天のエホバの王国への救いであろうと,イエス・キリストの千年統治のもとにある地上の楽園への救いであろうと,救いを得るということは頭の知識を得るというだけの問題,つまり思いの問題ではありません。使徒パウロは,ローマ 10章5節から10節でその点を明らかにしています。その箇所でパウロは,移植された心臓や機械的な心臓ではなく,自然の,身体の心臓を持つクリスチャンに関する問題を論じています。パウロは自分の論議を次のように進めます。

      8 「モーセは,律法の義を行なった人はそれによって生きる,と書いています。しかし,信仰の結果である義はこのように語ります。『あなたの心の中で,「だれが天に上るだろうか」と言っては,つまりキリストを引き下ろそうとしてはならない。また,「だれが底知れぬ深みへ下るだろうか」と言っては,つまりキリストを死人の中から引き上げようとしてはならない』。では,それは何と言うのですか。『その言葉はあなたに近く,あなたの口の中,あなたの心の中にある』。つまり,信仰の『言葉』のことであり,わたしたちが宣べ伝えているものです。その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。人は,義のために心で信仰を働かせ,救いのために口で公の宣言をするからです」。

      9 (イ)救われることには何が関係していますか。そのように答える理由を述べてください。(ロ)クリスチャンは自分の心の中で本当に何を信じなければなりませんか。(ハ)アテネ人はどんな態度を取りましたか。なぜですか。

      9 このことは,問題が知性あるいは思いよりも,人間存在のもっと深いところに及ぶことを示しています。単に情報を収集したり,それを思いの中で分類したり,それを機械的に繰り返すことができる,といった問題ではないのです。知識を蓄えている思いが決定的な要素なのではありません。ここで関係してくるのは神のみ前における動機です。クリスチャンの信念は比喩的な心臓によって動機づけられなければなりません。キリストの復活を,全能の神が行なってくださったこの奇跡に対する心からの感謝ゆえに心をつくして信じなければなりません。このこと,つまり死んだみ子を神が天的なレベルの命に復活させたということは,キリストが自分の力では行なえなかったことであり,だれか他の人が行なうこともできなかったことなのです。(コリント第二 4:13)使徒パウロの時代の知的なアテネ人は,ある人々の場合,「死人の復活」について聞いたときに「あざける」傾向があったとはいえ,他の人々は問題についてすぐに決定をせず,「これについてはあなたの言うことをまた別の時に聞こう」と言ったことが思い出されます。知識の詰め込まれた彼らの思いは,実際の事実に基づいていたにもかかわらずこの情報を受け入れるのをはばんだのです。幾人かの人だけが信者になり,パウロと交わるようになりました。―使徒 17:21,32-34。

      10 (イ)心はどんな動機を与えなければなりませんか。(ロ)したがって,どんな二つの事柄がエホバから求められていますか。

      10 したがって,人の心は信ずるように当人を動機づけなければなりません。自分の心をもって人は信仰を働かさなければなりません。そうするとき,信ずる者の心 ― 内奥の自己 ― は自分の口で公の告白をするようその人を動機づけます。人は心をつくして信仰を働かせなければなりません。信ずる心によって動機づけられた,口による公の宣言がそれに続きます。信ずる者がイエス・キリストを通してエホバ神に献身したことの象徴として水の中に浸される時,その人は救いに至る公の宣言を行なっているのです。エホバ神は,人を活発にさせる信仰があるかどうかと比喩的な心臓を探られるだけではなく,公の宣言にも耳を傾けられます。

      「全き」心のゆえに忠節を守る

      11 (イ)ダビデはどのようにしてエホバに忠節を保つことができましたか。(ロ)ダビデは自分の罪にもかかわらず,なぜ詩編 86編11節のような祈りをすることができましたか。(ハ)ダビデのりっぱな模範にだれが従っていますか。

      11 古代のダビデは,わたしたち人間の他の人々すべてと同じように,とがのうちに産み出され,罪のうちに宿されましたが,イスラエル国民の神に対して「全き」比喩的な心臓を持っていたために,自分の神エホバに対する忠節を保ちました。(詩編 51:5)この主旨のことを証明する言葉が,列王第一 15章3節にあります。そこには,「彼の[アビヤムの]心はその父祖ダビデの心のように,彼の神エホバと全く一致してはいなかった」と記されています。確かにダビデは,ヒッタイト人のウリヤの妻との憎むべき罪を犯しましたが,これを誠実に悔い改め,ダビデの心は自分の神であるエホバへの専心において分かたれることも,揺らぐこともありませんでした。(列王第一 15:4,5)ダビデが,「あなたのみ名を恐れるようわたしの心を一つにしてください」と祈ることができたとしても不思議ではありません。(詩編 86:11)ダビデは,イスラエルを治める王位に就く後継者たちに優れた模範を残しました。そしてアサ王はこの点においてダビデに倣いました。列王第一 15章14節には,「アサの心は,一生涯エホバと全く一致していた」と記されているからです。

      12 どんなことには勇気と正直さが求められますか。ヒゼキヤはどのようにこの点を示しましたか。

      12 最も聖なる神,人間の心を探られる方に嘆願し,その方の憐れみと優しい思いやりを哀願するためには,確かに大きな勇気と自分に対する正直さが求められます。しかし,イスラエルのヒゼキヤ王はそのとおりのことを行ないました。王は,神の介入がなければ確実に死に至る病気に冒された時,このように祈りました。「エホバよ,お願い申し上げます。どうか,思い出してください。私が真実のうちに,全き心をもってみ前に歩み,あなたの目に良いことを行ないましたことを」― イザヤ 38:3。

      13 油そそがれたクリスチャンは,イエスの模範に倣い,何を絶えず思いにとどめていなければなりませんか。

      13 天におけるイエス・キリストとの「王国のための契約」に入れられている今日の油そそがれたクリスチャンは,こうした模範を前にして,「全き心で」エホバのみ前に歩む責務があることを絶えず思いにとどめなければなりません。イエス・キリストは完全な人間として地上におられた時,王統の上で自分の父祖に当たるダビデと同じように「全き心で」天の父エホバのみ前に歩まれました。ですから,王を立てる方であるエホバ神は,天の王国における支配権をキリストに与えることを非常に喜ばれました。そこにおいてイエスは,「王の王,主の主」として,従属の王また主である,忠誠を保つ弟子たちと共に統治します。―ルカ 22:29。啓示 19:16。

      14 どんな理由により,「ほかの羊」は「一人の羊飼い」のもとにある「一つの群れ」に入れられてきましたか。

      14 キリストの「ほかの羊」の「大群衆」は,イエス・キリストと14万4,000人の共同支配者たちによる千年統治に生きて入る最初のものとなることを期待しています。(啓示 7:9,10。ヨハネ 10:16。啓示 14:1; 20:4-6)あの極めて重要な1935年以降,「大群衆」の成員は,全き心でエホバ神のみ前に歩んでいるそれら王国相続者たちの残りの者と交わってきました。りっぱな羊飼いイエス・キリストのこれらの「ほかの羊」が「全き心で」エホバ神のみ前に歩もうとしているため,彼らは現在,「ひとりの羊飼い」であるイエス・キリストのもとにある王国相続者たちの残りの者と「一つの群れ」を形成しています。こうした一致した全き心で忠誠を保っているために,彼らは神の宇宙主権を立証する面で特権的な役割を担うことになります。彼らはその神エホバの証人なのです。―イザヤ 43:10,12。

      15 今,どんなことのために,わたしたちすべては感謝することができますか。

      15 このような方法で,神のみ子,わたしたちのりっぱな羊飼いの弟子としてわたしたちはみな献身してバプテスマを受けた崇拝者たちにいま啓示されているエホバの「思い」に自分を合わせています。天の至高の神がご自身の「思い」にまずのぼった事柄を,そして肉と骨を持つどんな人間からも出ることのなかった事柄をわたしたちに明らかにされたことに対し,わたしたちは感謝することができ,またそうしなければなりません。この理由でわたしたちは,エホバがご自分の栄光ある目的に関して考えておられるのと同じように考えるよう動かされます。

      16,17 (イ)コリント第一 2章16節には,「エホバの思い」と「キリストの思い」について何が示されていますか。(ロ)フィリピ 2章5-8節は「キリストの思い」について何を明らかにしていますか。

      16 わたしたちは,コリント第一 2章16節に書かれていること,つまり,「『だれがエホバの思いを知って,彼を教え諭すようになったであろうか』とあるのです。それでもわたしたちは,キリストの思いを持っているのです」ということを認識しています。この場合の「思い」に相当するギリシャ語はどちらもヌースです。

      17 全く矛盾することなく,キリストの「思い」は「エホバの思い」と合っていました。フィリピ 2章5節から8節にある霊感による言葉は,人間となる以前の神の子の「思い」を洞察するための助けになります。そこにはこう記されているからです。「キリスト・イエスにあったこの精神態度[「思い」,欽定訳; アメリカ標準訳; 改訂標準訳]をあなた方のうちにも保ちなさい。彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。いえ,むしろ,自分を無にして奴隷の形を取り,人のような様になりました。それだけでなく,人の姿でいた時,彼は自分を低くして,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になりました。まさにこのゆえにも,神は彼をさらに上の地位に高め,他のあらゆる名に勝る名を進んでお与えになったのです」。

      18 み父の「思い」に合わせるため,み子には何が求められましたか。

      18 エホバ神は人類をとこしえの死から請け戻すことを思いに描いておられ,神の独り子は,たとえ自分にとって地上でのひどい苦しみを意味することになろうとも,この点に関する天のみ父の思いに喜んで自分を合わせました。

      19 (イ)エホバの「思い」に関連して,わたしたちの比喩的な心臓をどのように用いることができますか。(ロ)「キリストの思い」に関し,わたしたちはいま何を行なわなければなりませんか。

      19 同様に,今日のわたしたちが「エホバの思い」に自分を合わせたいのであれば,キリストに似た方法で自分自身を低くし,無条件でエホバのご意志に自分を従わせなければなりません。このことから,わたしたちにはエホバの証人となる責務が生じます。そして,愛ある忠節な心[カルディア]を動機として,わたしたちは,イエス・キリストが「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために[終わりまで]人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう」と言われたとき,先見の明のある思いの中に描いておられたことを行なわなければなりません。―マタイ 24:14。マルコ 13:10。

      20 (イ)今,全世界的な行動の一致に寄与しているものは何ですか。(ロ)神の民の一致した群れは今どんな成功を享受していますか。

      20 至高の神の,献身してバプテスマを受けた証人であるわたしたちすべては,この奉仕の特権に関して「同じ思いで」いることを願います。(フィリピ 4:2)これは,全世界的な行動の一致に寄与します。わたしたちがそうしていることに対して,エホバ神はキリストの「ほかの羊」の「大群衆」と,キリストの王国相続者の油そそがれた残りの者の双方に,喜ばしい成功をもって祝福してくださっています。その成功は,「ほかの羊」のすべてを集める業において,またハルマゲドンにおける神の栄光ある勝利と神の宇宙主権の立証が見られる前に全人類に最後の警告を与える業において,彼らがいま全世界で経験しているものです。―啓示 16:16。

      復習のための幾つかの質問

      □ エホバが新しい契約の「律法」を書かれたことには,どのように「心」と「思い」が関係していましたか

      □ 救いを得ることにはどんな二つの事柄が関係していますか

      □ 「全き」心は忠節を守るようどのようにわたしたちを助けますか

      □ わたしたちは「エホバの思い」と「キリストの思い」双方を持っていることをどのように示せますか

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