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全地にエホバのような者はひとりもいないものみの塔 1970 | 11月1日
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神は巨大なわなを用意されていました。―出エジプト 14:3。
25 自分の力のもとから解放された,大いなる群衆に関連して,より大いなるパロは,まもなく何を行なうと考えられますか。
25 現代においてもそれと同様,大いなるパロは,「ゴグ」という名称のもとに,エホバの驚くべき解放のわざを無に帰させようと努めるでしょう。しかしエホバは,そうした事態を処理する十分の用意があることを,ご自分を避け所としてのがれてきた人々すべてに保証しておられます。(エゼキエル 38:14-16)恥辱的な敗北をこうむって滅亡するのは,サタンと彼の強力なしもべたち,および,進んで彼に仕えた支持者たちです。一方解放された奴隷たちは,至上の主権者,諸軍のエホバの強い手と差し伸べられた腕を賛美するのです。―出エジプト 15:1-21。
26 パロに対する神の処置に基づき,どんな大勝利を当然期待できますか。
26 紅海でエジプト人に臨んだすさまじい災難は,大いなるパロと彼の支持者全部をまもなく飲み尽くす大惨禍の前に,まったく取るにたらないものとなるでしょう。それが最終的に執行されるのは,ハルマゲドンの時およびその直後です。現代の実体的エジプトが,ソドムや不信仰なユダヤと同様に滅亡するばかりか,大いなるパロみずから,神の天軍の司令官キリスト・イエスによって,つながれ,底なき所に投げ入れられます。(黙示 20:1-3)それはなんという勝利でしょう。「全地に〔ご自分〕のような者がひとりもいないこと」を,一点の疑問の余地なく立証される神に,最も壮大な賛美と感謝の調べをささげてしかるべき大勝利です。
27 その大勝利にあずかることを,各人はどうすれば,確かなものにできますか。
27 しかし,今や足早に近づいてくる,さばきの執行されるその重大な日に,あなたはどこにおられますか。実体的なエジプトからのがれることを,あまりにも遅らせすぎてしまっているでしょうか。それとも,エホバにより解放された人々からなる大群の勝利の行進に加わった,入り交じった群集のひとりになっておられるでしょうか。解放者に向かい心臓から賛美の声を高らかに上げ,「この事物の体制の神」であるサタンと彼の全世界の滅亡を大胆に宣言しておられるでしょうか。神がキリストにより得られる永遠の勝利にあなたがあずかれますように。その幸福な将来を確保するために決定を下し,行動をするのは,あなたご自身の事柄です。
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神の予知力ものみの塔 1970 | 11月1日
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神の予知力
神の予知とその驚くべき力の行使をどのように理解するかは,神とわたしたちとの関係に重大な影響をおよぼします。しかしこの問題に対して正しい見解を持つためには,いくつかの要素を認める必要があります。
まず,神の予知し,予定する能力は,聖書に明示されているということです。エホバご自身が,ご自分の神なることの証明として,救いと解放,および審判と刑罰を予知,予定し,かつそれらのことを成就する能力を示されています。(イザヤ 44:6-9; 48:3-8)すべての真の預言の基礎をなすのは,そうした神の予知と予定です。(イザヤ 42:9。エレミヤ 50:45。アモス 3:7,8)神は,ご自分の民に敵対する諸国民の神々に,その神なること,すなわち諸国民が彼らの偶像に付与している神性を証明するよう挑戦しておられます。神は諸国の神々が,同様の救い,または審判のわざを予告し,かつそれを成就させることによってそれをするよう要求されています。この点における神々の無力は,諸国民の偶像が「風であり,空しいもの」にすぎないことを示すものです。―イザヤ 41:1-10,21-29; 43:9-15; 45:20,21。
考慮すべき2番目の要素は,神の理知ある被造物が倫理的に自由に行動する力を付与されているということです。聖書の示すところによると,神は理知ある被造物に,自由選択,および倫理的に自由に行動する力を行使する特権と責任を与え(申命 30:19,20。ヨシュア 24:15),そうすることによって,彼らを自分の行為に責任をもつべき者とされました。(ロマ 14:10-12。ヘブル 4:13)従って彼らは,自動人形,つまりロボットではありません。もし倫理的に自由な行為者でないとすれば,人間はほんとうに「神の像」に造られたとは言えません。(創世 1:26,27)論理的に言って,神の予知(および予定)と,神の理知ある被造物の倫理的に自由に行動する力との間にはなんの矛盾もありません。
考慮すべきもうひとつの要素は,見落とされがちなものですが,聖書に示されている神の道徳規準,および公正・正直・公平・愛・あわれみ・親切などを含む神の属性です。したがって,神の予知し,予定する力の行使にかんする理解は,いかなるものでも,これらの要素の一部のみならず,全部と調和していなければなりません。
神が予知されることは何事にかぎらず,必ず実現しなければなりません。それでこそ神は,「無きものを有るものの如くに呼」ぶことができるのです。(ロマ 4:17)そこでつぎのような疑問が生じます。神の予知力の行使は無限か。神は全被造物の未来の行動をことごとく予見し,予知されるか。神は未来の行動を予定されるか。あるいは全被造物の窮極の運命を,彼らが存在しないうちから前もって定められるか。
または,神の予知力の行使は,予知予見しようと思うものを予知予見し,予知予見すまいと思うものを予知予見しないというように,選択的で,任意に行なわれるものか。また,被造物の永遠の運命にかんする神の決定は,被造物の存在に先行するものではなく,むしろ彼らの生きかた,また試練のもとで彼らが示した態度に対する神の審判に待つものであるか。これらの疑問に対する答えは,当然聖書そのものから得られねばなりません。
予定説の見方
神の予知力の行使は無限であって,神はすべての人間の歩む道と運命をあらかじめ定めているという見方は,予定説として知られています。この説の信奉者は,神の神性と完全性は,過去と現在のみならず未来についても全知であることを要求する,と論じます。この説によると,神がすべての事柄を詳細な点に至るまで予知しないことは,不完全である証拠です。
しかし予定説のそのような見方が何を意味するかを考えてみなければなりません。その考えかたからすると,神は,天使や地上の人間を創造する前に,予知力を働かせ,ひとりの霊の子の反逆,それにつづく最初の人間夫婦のエデンにおける反逆(創世 3:1-6。ヨハネ 8:44),そしてその反逆が招いた,今日まで,かつ,これから未来にまでおよぶすべての悪い結果をも含めて,そうした創造のわざが何をもたらすかをことごとく予見し,予知していたことになります。ということは必然的に,歴史に記録されているあらゆる悪(犯罪と不道徳・圧制とそれが生み出す苦難・虚偽と偽善・偽りの宗教と偶像崇拝)は,創造開始前に,神の思いの中だけに,未来の予知という形で,かつて存在していたことになります。
もし人間の創造者が,人間創造以来の歴史を予知する力を実際に行使していたとすれば,それ以後に生じた悪の全勢力は,神が,「我ら人を造(らん)」と言われたとき,神によって故意に活動を開始させられた,ということになります。(創世 1:26)そうなると,予定説を唱える人々の考えの合理性と一貫性は疑わしいものになってきます。弟子のヤコブが,みだれとさまざまの悪しきわざとは,天にいます神から下るのではなく,「地に属し,情慾に属し,悪鬼に属するもの」であることを示している以上,とくにそういうことが言えます。―ヤコブ 3:14-18。
神が,未来のすべてのできごとと状況を細部に至るまで予知しないなら,それは,神が不完全な証拠だという論は,実際には,完全性に対する専断的な見方です。なににせよ,それが完全であるか否かを決定するものは,結局神ご自身の意志であり,御旨であって,人間の意見や概念ではありません。―サムエル後 22:31。イザヤ 46:10。
これをたとえて言えば,神の全能性はまとがいなく完全であり,その範囲は無限であるということです。(歴代上 29:11,12。ヨブ 36:22; 37:23)しかし強さにおいて完全であるからといって,ひとつの事,またはすべての事に,その全能の力をあますところなく用いねばならぬわけではありません。明らかに神は,そうしてこられませんでした。さもなければ,古代のある都市や国にとどまらず,地球とその上のものすべてが,ノアの大洪水とかその他の時に,神の刑執行により,とっくの昔にまっ殺されていたでしょう。(創世 6:5-8; 19:23-25,29)したがって,神が力を行使される場合,無限の力をただ解き放つと言うのではなく,その力は常に神の目的によって支配され,必要な場合にはあわれみによって加減されます。―ネヘミヤ 9:31。詩 78:38,39。
同様に,もし神があることにおいて,その無限の予知力をある特定の方法で,また,ご自分に喜びをもたらす程度,使用することを選択されたとしても,「汝何をなすや」と言える権利が,人間にも天使にも,ないことは当然です。(ヨブ 9:12。イザヤ 45:9。ダニエル 4:35)ですから,神が何を予見し,予知し,予定できるかは,能力の問題ではありません。「神はすべての事をなし得る」からです。(マタイ 19:26)問題は,神が何を予見し,予知し,予定することをよしとされるかです。「行なうことを喜びとする事柄すべてを,彼は行なわれた」からです。―詩 115:3,新。
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予知力の選択的な行使ものみの塔 1970 | 11月1日
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予知力の選択的な行使
予定説に代わるもの,すなわち,神の予知力の選択的もしくは任意的な行使は,神ご自身の正義の標準と調和していなければならず,また神が聖書においてご自身を啓示されていることと一致していなければなりません。予定説とは対照的に,聖書の句には,神がある時期に一般に見られたある状況を検討し,それにもとづいて決定を下されたことを示すものが少なくありません。
ソドムとゴモラの町で悪がはびこったのち,エホバはアブラハムに,「その号呼の我に達れる如くにかれら全く行ひたりしや」を(天使を通して)調べ,「若しからずは我知るに至らん」とのご自身の決定を伝えておられます。(創世 18:20-22; 19:1)神は『アブラハムと知り合いになった』ことについて語られました。そして彼がイサクを犠牲にささげようとするに至り,エホバはこう言われました。「汝の子即ち汝の独子をも我ために惜まざれば,我今汝が神を畏るを知る」― 創世 18:19; 22:11,12。
選択的予知とは,被造物の未来の行動をすべて無差別に予知すまいとすればそれができるということです。これはつぎのことを意味します。すなわち創造以後の歴史全体は,すでに予知し,予定してあったものの単なる再上映ではなく,神は全き誠実をもって,最初の人間夫婦の前に,悪のない地で永遠に生きる見込みを置くことができた,ということです。したがって,神の完全な,罪のない代理の者として,子孫をもって地を満たし,地を楽園にし,動物を支配せよとの,最初のむすこと娘に対する神の指示は,真の愛から出た特権の付与であり,彼らに対する神の偽りない願望であったということです。つまり,それは,あらかじめ失敗に終わるように定められていた使命を,彼らに与えるというものではなかったのです。また神が,「善悪を知る樹」によって試みたことや,エデンの園に「命の木」を創造したことなども,人間夫婦が罪を犯し,「命の木」の実を食べえないことを予知して行なった,無意味な,冷笑的な行為,ということにはなりません。―創世 1:28; 2:7-9,15-17; 3:22-24。
たいへん望ましいもので,手にはいらぬことが初めからわかっているものを人にすすめることは,偽善的であり,残酷なこととされています。しかし,永遠の生命の見込みは,すべての人々の目標,到達可能な目標として聖書に示されています。イエスは自分の話を聞いていた聴衆に,神からの良きものを『求め,たずねつづける』ことをすすめたのち,父親というものは,パンや魚を求める子に,石やへびは与えないものだ,と言われました。そして,人の正当な望みをくじくことについてのご自身の父の見方を示してつぎのように言われました。「然らば汝ら悪しき者ながら,善き賜物をその子らに与ふるを知る。まして天にいます汝らの父は,求むる者に善き物を賜はざらんや」― マタイ 7:7-11。
ですから,益を受けなさい,という招待とそれを受ける機会,およびすべての人間の前に置かれた永遠の祝福は,神の誠意から出たものです。(マタイ 21:22。ヤコブ 1:5,6)神は全き誠実をもって人々に,『とがを離れて生きつづけよ』とすすめることができます。神はイスラエルの民に対してそれをなされました。(エゼキエル 18:23,30-32)もし彼らが,それぞれ悪のうちに死ぬよう運命づけられていて,そのことを神が予知していたとすれば,この勧告は論理上不可能なことでした。エホバはイスラエルに言われました。「我はヤコブの裔になんぢらが我を尋ぬるは徒然なりとはいはず,我エホバはただしき事をかたり直きことを告ぐ。……地の極なるもろもろの人よ,なんぢら我をあふぎのぞめ然ばすくはれん」― イザヤ 45:19-22。
使徒ペテロも同様の意味のことを書いています。「エホバはご自分の[エホバの日の到来の]約束に関して,ある人々がおそいと考えるようにおそくない。彼はひとりの滅びることも望まず,すべての者が悔改めに至ることを望んで,あなたがたを忍んでおられるのである」。(ペテロ後 3:9,12,新)だれが永遠の救いを得,だれが永遠の滅びを受けるかを,すでにいく千年も前から正確に予見し,予定していたとすれば,神のそのような『忍耐』はいったい何の役に立つのか,また『すべての人が悔い改めるように』との神の望みは,はたしてどの程度誠実なものか,疑問が生ずるでしょう。霊感を受けた使徒ヨハネは,「神は愛なればなり」と書き,使徒パウロは,愛は「おほよそ事望」むと述べています。(ヨハネ第一 4:8。コリント前 13:4,7)神はこのすぐれた属性に調和して,人々が,救われる価値のない者,望みのない者であることを,自ら証明するまで,彼らが救いを得ることを望みながら,すべての人に,真に公平で親切な態度をもって臨まれるのです。(ペテロ後 3:9とヘブル 6:4-12を比較してください)使徒パウロが,「なんぢを悔改に導く」「神の仁慈」について語っているのは,その理由です。―ロマ 2:4-6。
最後に,もしキリスト・イエスのあがないの犠牲の益を受ける機会が,誕生前からの神の予知により,ある人々 ― おそらく幾百万という人々 ― にとってすでに閉ざされ,それが変更されないものであるために,彼らがいかにしても,あがないの益を受けるにふさわしいことを証明できぬとすれば,キリスト・イエスのあがないの犠牲は,すべての人間のためにささげられたとは言えません。(コリント後 5:14,15。テモテ前 2:5,6。ヘブル 2:9)神の公平さが,単なることばのあやでないことは明らかです。「神は……何れの国の人にても神を敬ひて義をおこなふ者を容れ給ふ」。(使行 10:34,35。申命 10:17。ロマ 2:11)「神を求め,神をさがし尋ねて,ほんとうに見いだす」ことは,すべての人がしようと思えば実際にでき,また,その機会はすべての人に疑いなく開かれています。「事実神はわたしたちおのおのから遠く離れておられるのではない」。(使行 17:26,27,新)そういうわけで,「聞く者も言へ『きたり給へ』と,渇く者はきたれ,望む者は価なくして生命の水を受けよ」という,黙示録の最後にしるされている神のすすめは,むなしい希望でも,そらぞらしい約束でもありません。―黙示 22:17。
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神が予知する事柄ものみの塔 1970 | 11月1日
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神が予知する事柄
聖書の記録全体を通じて,神の予知と予定は,一貫して神の目的および神の意志と結びついています。神の目的が必ず成就するからには,神はその結果,すなわちご自身の目的の窮極的な実現と,それを達成するために適当と見られる手段とを予知し,予定することができます。(イザヤ 14:24-27)したがってエホバは,将来のできごと,または行動にかんするご自分の目的を『形づくる』,あるいは『形成する』かたとして語られています。(列王下 19:25。イザヤ 46:11,新)偉大な陶工であられる神は,ご自身の目的にそって,「すべての事を〔御意志〕の思慮のままに行ひたま」い,(エペソ 1:11〔新〕)神を愛する者のために,「すべてのこと相働きて益となる」ようにされるのです。(ロマ 8:28)ですから神が,「終のことを始よりつげ,いまだ成らざることを昔よりつげ」られるのは,ご自身のあらかじめ定められた目的と確実に関係のある事柄です。―イザヤ 46:9-13。
神が最初の人間夫婦を創造されたとき,彼らは完全でした。また神はご自分のすべての創造のわざの結果をごらんになって,『はなはだ善い』ということができました。(創世 1:26,31。申命 32:4)記録によると,それから神は,その人間夫婦の将来の行動を自信なげに心配することなどせず,『休まれて』います。(創世 2:2)それができたのは,全能の力と最高の知恵のゆえに,将来のいかなる行為や状況や偶発事件も,神の至上の目的の実現をはばむ,打ち勝ちがたい障害,もしくは対処しがたい問題を生み出す可能性がないからです。―歴代下 20:6。イザヤ 14:27。ダニエル 4:35。
人々の級にかんする予知力
神が特定の団体,国民,または大多数の人類のたどる道を予知し,彼らの将来の活動の基本的な進路を予告し,それにかんする対策をあらかじめ定められた例はいくつかあります。しかしそのような予知や予定は,人類のそうした集団もしくは区分の中にいる個々の人間から,特定の道を歩む選択の自由を奪うものではありません。この点は以下にかかげる実例に見ることができます。
ノアの洪水以前,エホバは,人の命はもとより,動物の命を奪う,破滅をもたらすというご計画を発表されました。しかし聖書の記録によると,神のその決定は,そうした処置を必要とする状況が発展したのちに下されています。そのうえに,「人々の〔心臓〕を知り給ふ」神は調査を行なって,「〔人の心臓〕の思念の都て図維る所の恒にただ悪きのみなるを」知られました。(歴代下 6:30。創世 6:5)しかし個々の人間,つまりノアとその家族は神の恵みを得て,破滅をのがれました。―創世 6:7,8; 7:1。
イスラエル民族の場合も同様でした。神は彼らに,神の契約を守ることによって「祭司の国,聖なる国民」となる機会を与えられましたが,40年ほどのち,同民族が約束の地の境まで来たとき,エホバは彼らが神の契約を破り,国民として神から捨てられることを予告されました。しかしこの予知は,先だつ根拠なしに行なわれたのではありません。国民の不従順と反逆はすでに現われていました。それで神は言われました。「我いまだわが誓ひし地に彼らを導きいらざるに彼らは早くすでに思い量る所あり我これを知る」。(申命 31:21。詩 81:10-13)そのような明らかな傾向が,悪の増加という結果を招くことを,神は予知することができました。しかし,そのような予知力を持っているからと言って,神はその事態に対して責めを負わねばならないということにはなりません。それは,質の悪い材料を使って粗雑に建てられた家が悪くなることをある人が予知していたからと言って,その家が実際に悪くなっても,それはその人の責任でないのと同じです。ある預言者たちは,神の予定されたさばきにかんする預言的警告を伝えましたが,それらはみな,すでに存在する状況や心臓の態度に根拠をおくものでした。(詩 7:8,9。箴言 11:19。エレミヤ 11:20)しかしここでもまた,個々の人間は,神の助言,しっ責,警告などに答えて,神の恵みにあずかることができました。―エレミヤ 21:8,9。エゼキエル 33:1-20。
神のみ子もやはり人間の心臓を読むことができ(マタイ 9:4。マルコ 2:8。ヨハネ 2:24,25),神から予知力を与えられていて,将来の状態,できごと,神のさばきなどを予告しました。彼は,学者やパリサ人の級に対するゲヘナのさばきを預言しました(マタイ 23:15,33)が,使徒パウロの場合からわかるように,個々のパリサイ人または学者が滅びに運命づけられているとは言いませんでした。(使行 26:4,5)イエスは,エルサレムと他の町の悔い改めることをしない住民に災いを予告しましたが,み父が,それらの町の個々の住民に,その苦しみを予定されているとは述べませんでした。(マタイ 11:20-23。ルカ 19:41-44; 21:20,21)イエスはまた人間の性向と心臓の態度がどんな結果を招くかを予知し,「事物の体制の終局」の時までに,人類の間に発展するであろう状態,および神ご自身の目的の完遂を預言しました。―マタイ 24:3,7-14,21,22,新。
個人にかんする予知
級にかんする予知があるのに加えて,ある人々は神の予知と特別に関係がありました。それはエサウとヤコブ,出エジプト記のパロ,サムソン,ソロモン,エレミヤ,バプテスマのヨハネ,イスカリオテのユダ,そして神ご自身の御子イエスなどです。
サムソン,エレミヤそしてバプテスマのヨハネに関して,エホバは彼らの誕生前に予知力を行使されました。しかしこの予知は,彼らの最後的な運命がなにかを明示しませんでした。むしろ神は,その予知にもとづいて,サムソンはナジル人の誓願に従って生活し,ペリシテ人からイスラエルを救うわざに着手するように,エレミヤは預言者として奉仕するように,そしてバプテスマのヨハネは,メシヤの先駆者として準備のわざをするように予定されました。(士師 13:3-5。エレミヤ 1:5。ルカ 1:13-17)彼らはそのような大きな特権に恵まれましたが,それは彼らが永遠の生命を得ること,または彼らが死に至るまで忠実であることさえ(もっとも3人とも最後まで忠実ではあったが)保証するものでありませんでした。たとえばエホバは,ダビデのむすこのひとりがソロモンと名づけられることを予告し,そのソロモンを宮の建築に用いることを予定されました。(サムエル後 7:12,13。列王上 6:12。歴代上 22:6-19)しかしそのような恩ちょうを受け,聖書の本をいくつか書く特権まで与えられながら,ソロモンは晩年になって背教しました。―列王上 11:4,9-11。
エサウとヤコブの場合も同様に,神の予知は彼らの永遠の運命を定めず,むしろ,この二人のむすこから出る国民のどちらが,他を支配する地位を得るかを決定,もしくは予定したにすぎません。(創世 25:23-26)この予見された支配は,ヤコブの長子の権,すなわちアブラハムの「裔」のあらわれる家系となる特権を伴う権を得ることをも意味しました。(創世 27:29; 28:13,14)これによってエホバ神は,特定の事柄に用いるための神による個々の人間の選択は,普通の習慣や,人間の期待に添った順序などに拘束されないことを明らかにされました。また神から割り当てられる特権も,行ないのみを基礎にして与えられるのではありません。それは,人がそのような特権に対する『権利を努力によって得た』とか,その特権は『自分の働きによる』とかと考えないためです。使徒パウロは,神がなぜ,かつてイスラエルのためにたくわえ置かれたかにみえた特権を異邦人に与え得たかを示すにさいし,この点を強調しています。―ロマ 9:1-6,10-13,30-32。
エホバの『ヤコブ[イスラエル]に対する愛,およびエサウ[エドム]に対する憎しみ』にかんするパウロの引用句は,ヤコブやエサウの時代よりずっとのちに書かれた,マラキ書 1章2,3節からの引用です。したがって聖書は必ずしも,エホバが,誕生前からこの双生児に対してそのような気持ちをいだいておられたとは述べていません,子供の全般的な性格と気質が多分に,両親からくる遺伝的要素をもととして,妊娠時に決まることは,科学的に確証された事実です。神にそのような要素が見えることは自明で,ダビデはエホバのことを『胎児の自分』をさえ見るかたとして語っています。(詩 139:14-16。伝道の書 11章5節もごらんください)神のそのような洞察力が,このふたりの男児にかんするエホバの予定にどの程度影響したかは言えませんが,ともかく,エホバがエサウよりもヤコブを選ばれたこと自体,エサウやエサウの子孫であるエドム人を破滅に運命づけるものではありませんでした。しかしエサウが涙を流して求めた「思いの変化」は,長子に与えられる特別の祝福はすべてヤコブのものとなるという,父イサクの決定を変えさせようとする,むなしい試みにすぎませんでした。したがってこのことは,エサウが,神のみまえに,その物質主義的な態度を悔い改めなかったことを示しました。―創世 27:32-34。ヘブル 12:16,17,新。
こういうわけで,個人の誕生前になされた予知に関するこれらのケースも,啓示されている神の属性や,表示されている標準と矛盾するものではありません。また神が人に,その人自身の意志に反する行為を強制したことを表わすものも皆無です。パロや,イスカリオテのユダ,そして神ご自身の御子の場合,彼らが存在する前に神の予知が働いた証拠はなにもありません。これら個人の場合には,神の予知と予定に関係のある特定の原則が例証されています。
そのひとつは個人に対する神の試みです。それは,ある状態もしくはできごとを引き起こす,またはその発生を許すことにより,あるいは霊感によるおとずれを個人が耳にするように仕向けることによって,行なわれます。そうすれば,人は自由選択による決定を余儀なくされる結果になって,真の心臓の態度を表わし,それをエホバが読まれるのです。(箴言 15:11。ペテロ前 1:6,7。ヘブル 4:12,13)神はまた,人の反応に従い,彼らが自分の意志で選んだ道にその人を形づくることもできます。(歴代上 28:9。詩 33:13-15; 139:1-4,23,24)ですから,『地の人間の心臓』は,エホバがその歩みを導かれぬうちは,ある方向に傾いています。(箴言 16:9,新。詩 51:10)そして試みを受けると,その人の心臓の状態は,出エジプトの時のパロの心臓のように,不義と反逆でかたくなになるか,またはエホバ神に対し,またその御計画を行なうことに対する,破れることのない献身で心臓をかためるか,どちらかに定まります。(出エジプト 4:21; 8:15,32)このように自分で選択するところまできたならば,その人の歩む道の最終的な結果を予知し,予告でき,また,そうしたからと言って,人間に付与された倫理的に自由な行為力を犯すことにはなりません。―ヨブ 34:10-12と比較してください。
イスカリオテのユダの反逆行為は,神の預言を成就し,エホバとその御子の予知の正しかったことを証明しました。(詩 41:9; 55:12,13; 109:8。使行 1:16-20)しかし,神がユダ自身にそれをさせるよう予定した,つまり運命づけた,とは言えません。預言は,イエスの親しい友が,彼を裏切ると告げていますが,そういう友の中のだれが裏切り者になるかは明示していません。それに,聖書の原則は,神がユダの行為を予定したことを否定します。使徒が述べた神の標準は,「軽々しく人に手を按くな,人の罪に与るな自ら守りて潔くせよ」です。(テモテ前 5:22)十二使徒の選択が賢明に,そして正しく行なえるようにという懸念を示すものとして,イエスは決定を発表する前にひと晩御父に祈られました。(ルカ 6:12-16)もしユダが裏切り者になるよう神によってすでに予定されていたならば,神の指示と導きは矛盾したものとなり,規則に従えば,神もその裏切り者が犯す罪にあずかることになります。
ですから,使徒として選ばれた時,ユダの心臓に反逆的な態度を明示するものがなかったことは明らかなように思われます。彼は『にがき根を生えいでさせて』自分を汚し,その結果道をふみはずして,神の指示ではなく悪魔の導きに従うようになり,盗みや裏切りを行なうようになったのです。(ヘブル 12:14,15。ヨハネ 13:2。使行 1:24,25。ヤコブ 1:14,15)このような道をふみはずした状態が,ある段階に達するころまでには,イエスはみずからユダの心臓を読んで,彼の裏切りを預言することができました。―ヨハネ 13:10,11。
たしかにヨハネ伝 6章64節には,一部の弟子がイエスのある教えにつまずいたことについて,「イエス初より[「最初から」,エルサレム聖書]信ぜぬ者どもは誰,おのれを売る者は誰なるかを知り給へるなり」と書かれています。ペテロ後書 3章4節では,「初」という語が,創造の初を表わすのに使われていますが,この語はまた他の時を表わすことができます。(ルカ 1:2。ヨハネ 15:27)たとえば,使徒ペテロは,聖霊が「初め我らの上に降りし如」く異邦人のうえにくだったことを述べたとき,西暦33年の五旬節,すなわち特定の目的のために聖霊がそそがれた「初め」に言及していました。(使行 11:15; 2:1-4)ですから,シャフーレンジ著「批評,教義,説教上の注釈」の中の,ヨハネ伝 6章64節にかんするつぎの注解は興味深いものがあります。「〔初め〕は,形而上学的に見た万物の初めを意味するものでもなければ,…彼[イエス]が各人と知り合った初めでも…彼の回りに弟子を集めた時の初めでも,彼のメシア的奉仕の初めでもなく…[一部の弟子をつまずかせた]ひそかな不信の最初の芽がはえはじめてからという意味である。したがって彼は,彼を裏切る者を初めから知っていたのである」。―ヨハネ第一 3:8,11,12と比較してください。
メシヤ
エホバ神は,メシヤの苦しみ,彼が経験する死,そしてその後,復活することを予知し,預言されました。(使行 2:22,23,30,31; 3:18。ペテロ前 1:10,11)神のそのような予知の働きによって定められた事柄の実現は,一部は神ご自身の力の行使に,そして一部は人間の行動にかかっていました。(使行 4:27,28)しかしその行動を取る人間は,みずから進んで,神の敵であるサタン悪魔にあざむかれたのです。(ヨハネ 8:42-44。使行 7:51-54)それで神は,パウロの時代のクリスチャンたちが『悪魔のたくらみに無知でなかった』ように,油そそがれた者に対して敵のいだく邪悪な欲望やたくらみを予見されました。(コリント後 2:11)また神の力は明らかに,預言されていた方法,または時に適合しない,メシヤに対する攻撃やたくらみは,いかなるものでもくじき,あるいは阻止することができました。
予定説を唱える者は,神の犠牲の小羊としてのキリストが,「世の〔ギリシア語,コスムー〕創〔カタボレー〕の前よりあらかじめ知られ」ていたという,ペテロのことばを,神は人類の創造以前にそういう予知を働かせた,という意味に解釈します。(ペテロ前 1:19,20)「創」と訳されているギリシア語「カタボレー」の文字どおりの意味は,「投げること,または下に置くこと」で,ヘブル書 11章11節に書かれているように胤を『やどす』ことを指すこともあります。これはつまりアブラハムが,子を生むために,人間の種を投げ落とし,受精するようにサラがそれを受けたということを意味します。ヘブル書 4章3,4節に示されているとおり,神が最初の人間夫婦を創造されたとき,人類の世の「創」はありましたが,その後その夫婦は,神の子としての地位を失いました。(創世 3:22-24。ロマ 5:12)しかし彼らは,神の過分のご親切により,種を投げ落とし(まき),みごもって子孫を生み出すことを許されました。その子孫のひとり,つまりアベルは,神の恵みを受け,罪のあがないと救いにあずかる立場を得た者として聖書に明示されています。(創世 4:1,2。ヘブル 11:4)イエスが,ルカ伝 11章49節から51節で,「世の創より流されたるすべての預言者の血」に言及し,これと,「アベルの血より…ザカリヤの血に至るまで」ということばを対比させておられることは,注目に価します。このようにしてイエスは,アベルを「世の創」,つまりその総括的な時と結びつけておられます。
メシヤすなわちキリストは,約束の裔となり,彼を通して,地のもろもろの国の正しい人々が祝福を受けることになっていました。(ガラテヤ 3:8,14)その「裔」のことが初めて語られたのは,エデンにおける反逆がすでに始まったのちでしたが,アベルの誕生よりは前でした。(創世 3:15)これは,メシヤを通してくる支配にかんする「奥義」が示されたときより4,000年以上まえのことです。ゆえにこの奥義はたしかに,「長き世のあひだ隠れた」ものでした。―ロマ 16:25-27。エペソ 1:8-10; 3:4-11。
予定の時になってエホバ神は,ご自身の長子に,預言されていた「裔」の役目を果たしてメシヤとなることを任命されました。御子が,造られる前から,またはエデンで反逆が起こる前から,そのような役目につくべく「予定されていた」ことを示すものはなにもありません。預言の成就を託された者としての御子の神による最後的な選びも同様,先だつ根拠なしに行なわれたのではありません。御子が地につかわされる以前,神と御子が親密な交わりをもたれた期間がありました。その交わりの結果,神が,預言的な約束と予影を御子は忠実に成就すると確信できるまでに,御子を知られたことは疑う余地がありません。―ロマ 15:5。ピリピ 2:5-8。マタイ 11:27。ヨハネ 10:14,15とを比較してください。
『召された者と選ばれた者』
「召された者」,または「選民」のクリスチャンと関係のある聖句を,さらに考慮しなければなりません。(ユダ 1。マタイ 24:24)彼らは,「神の預め知り給ふところに随ひて……選ばれたる者」(ペテロ前 1:1,2),『世の創の前より選ばれた者』,『神の子としてあらかじめ定められた者』(エペソ 1:3-5,11),『はじめより救いに選ばれ,招かれた者』と言われています。(テサロニケ後 2:13,14)これらの聖句の解釈は,問題の聖句が,特定の個人をあらかじめ選び定めることを指し示すものか,あるいは人々のひとつの級,すなわちクリスチャン会衆,天の御国でキリスト・イエスの共同相続者となる人々の「一体」(コリント前 10:7)を,あらかじめ定めることを示すものかどうかによって左右されます。―エペソ 1:22,23; 2:19-22。ヘブル 3:1,5,6。
もしこれらのことばが,永遠の救いに予定された特定の個人を意味するとすれば,その人々が,不忠実になるとか召しにそむくことは,絶対にないはずです。というのは,神の予知は常に正確であって,彼らに予定された運命が実現を見ずに終わるとか,その実現が妨害されることなどあり得ないからです。ところが,霊感を受けて前述のことばを書いた同じ使徒たちの示すところによると,キリストのあがないの犠牲の血によって「買われ」,「潔められ」,「天よりの賜物を味ひ,聖霊に与る者となり……来世の能力……を味」った者の中にも,悔い改めができないまでに背教し,滅びをみずからに招く者がいます。―ペテロ後 2:1,2,20-22。ヘブル 6:4-6; 10:26-29。
一方,これをひとつの級,すなわちクリスチャン会衆,または召された者の「聖なる国民」(ペテロ前 2:9)全体に適用するものと見るならば,さきほど引用した聖句は,神がそのような級(ただしその級を構成する個々の人間ではない)の生み出されることを予知し,予定されたという意味になります。またそれらの聖句は,予定の時に,その級の成員となるべく召された人すべてが従うべき『型』を神がそのお目的のままに規定された,つまりあらかじめ定められたことをも意味します。(ロマ 8:28-30。エペソ 1:3-12。テモテ後 1:9,10)神はまた,その人たちに遂行させるわざと,彼らが世のもたらす苦痛のゆえに試みられることとを,あらかじめ定められました。―エペソ 2:10。テサロニケ前 3:3,4。
それで,神が予知力を行使されることは,神の正しい御意志に従うよう努力する責務から,人間を解放するものではありません。
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読者からの質問ものみの塔 1970 | 11月1日
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読者からの質問
● ヨハネの第一の書 5章18節の,「神から生まれた人はすべて,罪をならわしにしない。…しかし,神から生まれたそのかたは,彼を見守っておられ,よこしまな者が彼をしっかり捕えることはない」ということばは,どうして正しいと言えますか。―アメリカの一読者より
この聖句を理解するには,まず第一に,使徒ヨハネが,その手紙の中で繰り返し強調している点,つまり,罪を犯すことと,故意に罪をならわしにすることとは違うということを,はっきり知らねばなりません。ヨハネは,問題の聖句の中で,神によって生まれたクリスチャンは罪を犯さない,とは述べていません。それどころか,ヨハネは前の章で,クリスチャンは罪を犯す場合が確かにあることを,つぎのように明示しています。「これらの事を書き贈るは,汝らが罪を犯さざらんためなり。人もし罪を犯さば,我らのために父の前に助主あり,すなはち義なるイエス・キリストなり」― ヨハネ第一 2:1。
しかし,真のクリスチャンは罪を犯すのを習慣にすることはありません。それは,ヨハネが,さらに続けて述べているとおりです。「罪をならわしにする者はすべて,同時に不法をならわしにしているのである。ゆえに,罪は不法である。あなたがたはまた,そのかたが明らかにされたのは,わたしたちの罪を取り去るためであることを知っている。そして,彼には罪がない。彼とともにとどまっている者はすべて,罪をならわしにしない。罪をならわしにする者はだれも,彼を見たこともなければ,彼を知るようになったこともないのである。幼い子たちよ,あなたがたはだれにも迷わされてはならない。正義を行ないつづけている者は,そのかたが正義にかなっておられるとおりに,正義にかなっているのである。罪を行ないつづけている者は,悪魔から生じている」― ヨハネ第一 3:4-8,新。
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