ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 『エホバの日の臨在をしっかりと思いに留めなさい』
    ものみの塔 1974 | 5月1日
    • 『エホバの日の臨在をしっかりと思いに留めなさい』

      「あなたがたは……エホバの日の臨在を待ち,それをしっかりと思いに留める者となるべきではありませんか」― ペテロ第二 3:11,12。

      1 「エホバの日」とは何ですか。なぜわたしたちは今そのことを真剣に考えるべきですか。

      全人類にとってすべてのことに決着のつけられる日が近づいています。それは悪人に対して神の裁きが執行される時であり,正しい者たちが救い出される時でもあります。その時に生きている人はすべて,神のご意志と同胞の福祉を利己的に無視してきたか,あるいは愛をもって神に従い,仲間の人間に無私の関心を示してきたか,自分の命をどのように用いてきたかについて言い開きをすることを要求されます。それは真の神がすべてのことに決着をつける時ですから,きたるべきその期間は,聖書の中で「エホバの日」と呼ばれています。それはわたしたちが真剣な考慮を払うに価するものです。―ゼパニヤ 2:2,3。

      2,3 使徒ペテロは,「エホバの日」に対してどんな態度を取るよう,すべてのクリスチャンに勧めましたか。

      2 あなたはエホバの日の臨在をしっかりと思いに留めていますか。それを胸におさめていますか。それはあなたにとって現実ですか。使徒ペテロはそう感じていました。彼は,そういう態度を持つようすべてのクリスチャンを励まし,聖書のペテロの第二の手紙 3章11節から13節に,次のように記しています。「これらのものはこうしてことごとく溶解するのですから,あなたがたは,聖なる行状と敬神の専念のうちに,エホバの日の臨在を待ち,それをしっかりと思いに留める者となるべきではありませんか。その日のゆえに天は燃えて溶解し,諸要素は極度に熱して溶けるのです。しかし,神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」。

      3 あなたはその火のようなエホバの日をしっかりと思いに留めていますか。あなたのすぐ前方にはっきり見ることができるほど,それはあなたにとって現実的なものですか。「ギリシャ語聖書の王国行間逐語訳」によると,「しっかり思いに留める」という表現は,「速度を早める」となっています。ですからわたしたちはそれを遅くする,つまりエホバの日を遠い先のこととみなし,それを先に延ばすべきではありません。

      4 エホバの日をしっかりと思いに留めなければなぜ重大な損失をこうむる結果になりますか。

      4 すべてのクリスチャンは,エホバの「日」がいつこようと,常にこういう態度を保持していることが必要です。なぜですか。使徒パウロは,「この世のありさまは変わりつつあるからです」と答えています。(コリント第一 7:31)それは舞台の場面が変わるのに似ています。魅惑的に見えていても,すぐに別の舞台装置を持つ,そして別の俳優が出る場面に変わります。ですから永続するものは何もありません。(伝道 1:4)では,真の価値を有する永久の世界で永遠の命を得る希望を持つクリスチャンが,はかない,過ぎ去ってしまうものに,自分の時間と活力を費やしてよいでしょうか。ヨハネの第一の手紙 2章の17節に述べられているように,『この世は過ぎ去りつつあります』。まもなく完全にそして永久に姿を消してしまうでしょう。あなたはそれを信じますか。

      使徒たちの取った態度

      5,6 使徒たちは,キリストとその王国に対する態度により,わたしたちにどのようにりっぱな模範を残しましたか。

      5 警戒を怠ることなく,エホバが行なわれていることと調和を保っていくなら,わたしたちはいつもすばらしい祝福にあずかることができます。その反面,もしわたしたちが,弟子たちに霊的食物を与えるためにイエス・キリストがお用いになるクリスチャンの複合体である「忠実で思慮深い奴隷」の指摘する事がらに懐疑的な態度を取るようになるなら,わたしたちは危険な状態にあると言えます。わたしたちは,軍隊の縦隊の落伍者のような状態にあり,敵の手に落ち入ることは容易です。―マタイ 24:45。

      6 神が備えてくださるものは何ひとつ逃がしたくない,というのがキリストの使徒たちの態度でした。「あなたの臨在……のしるしには何がありますか」とイエスに尋ねた時,彼らはイエスの将来の臨在が目に見えないものであるとは知りませんでした。(マタイ 24:3)イエスが復活されたあとでさえ彼らは,「主よ,あなたはいまこの時に,イスラエルに王国を回復されるのですか」と尋ねました。(使徒 1:6)彼らは王国の,目に見える回復を期待していたのです。しかしながら,彼らがそのように質問したということは,次のことを物語っています。つまりキリストによる神の王国は近いとして思いに留めていたということです。彼らはその王国に正式にあずかることを期待していました。彼らは信じようとしないユダヤ人とは違っていました。信じようとしないユダヤ人たちは,肉体を持ったイエスが彼らの中にいるのをその目で見ながら,彼が約束のメシアであること,『神の王国が彼らのただ中にあった」ことを認めませんでした。(ルカ 17:21)イエスはメシアの資格を全部備えておられました。イエスは聖書が預言していた通りの仕方でこられました。しかしそれらのユダヤ人はイエスを受け入れませんでした。彼らはイエスにつまずきました。なぜですか。

      7,8 書士やパリサイ人たちはなぜイエスを約束のメシアとして受け入れることができませんでしたか。

      7 彼らは高慢で物質主義的でした。神の賞賛や是認よりも人間のそれを愛しました。イエスは彼らにはっきり言われました。「偽善者なる書士とパリサイ人たちよ,あなたがたには災いが来ます! あなたがたは白く塗り上げた墓に似ているからです。それは,外面はなるほど美しく見えますが,内側は死人の骨とあらゆる汚れに満ちているのです。……[あなたがたは]外面では義にかなった者と人に映りますが,内側は偽善と不法でいっぱいです」。(マタイ 23:27,28)それらの宗教指導者たちは,すべてのわざを人に見られるために行ない,最も目立つ場所を好み,人びとから前でたたえられることを望む,とイエスは弟子たちに話されました。彼らは金を愛する者でしたが,神を愛することはしませんでした。―ルカ 16:14。

      8 このような態度だったので,イエスをメシアとして受け入れることは,ユダヤ教の僧職者たちには不可能でした。肉体をそなえたキリストが彼らの目の前におられて,最も驚嘆すべきいやしを行なっておられるのに,彼らはそれに盲目でした。思いと心がそういう状態にあったため,彼らはイエスに失望しました。利己心から,この世の標準に従ってまちがった事がらを期待したからです。―ヨハネ 5:39-44。イザヤ 8:14,15。マタイ 13:57。

      9 もし思いと心の中で,エホバの日の臨在を先に延ばすなら,わたしたちの霊の状態はどのように影響を受けますか。

      9 わたしたちも今日,彼らのように物質主義に傾いてはなりません。眠ったような無関心な状態に落ち入って,思いや心の中で,火のようなエホバの日の臨在を『先に延ばす』べきではありません。もしそういうことをするなら,わたしたちは神の導きを,わたしたちに対する神の指示を認識することはできないでしょう。神を知り,そのりっぱな特性を理解することはないでしょう。半分眠ったような態度では,神への奉仕で何をする必要があるのか,はっきり見ることはできないでしょう。わたしたちは「エホバの日」に対する『用意』もなければ,「エホバの日」が来ることを望んでもいないでしょう。わたしたちは平衡を失っていて,その「日」が到来する時には不意を打たれるでしょう。―テサロニケ第一 5:2-5。

      世界の情勢が暗示するもの

      10 (イ)聖書の年表はわたしたちの時代をどのように示していますか。(ロ)人類が直面している重大な情勢を,世界の指導者たちはどのように見ていますか。

      10 聖書の年表は,わたしたちの住んでいる時代が非常に重要な時代であることを明示しています。西暦前607年から西暦1914年まで続く「諸国民の定められた時」は終わりました。(ルカ 21:24)6,000年の人類の歴史はまもなく終わることになっています。こうした事実に照らしてみるとき,わたしたちの目前で世界に起きている事がらは暗示的です。それはどんな結論に導きますか。世界の情勢は,終わりの近いことを示す強力な証拠であるということです。ひとつには,現在,初めてのこととして,世界の指導者たちまで,世界の破滅を,実際にありうることとして認めています。全面的な核戦争は,勝者などなく敗者のみとなるほど壊滅的であることを彼らは認めています。しかし多くの人,とくに科学者たちは,世界的な汚染や「人口爆発」のほうが,広範囲に渡る飢きん,疫病,不穏などをもたらす恐れがあるだけにもっと危険だと言います。ワシントン・ポスト紙にのせられたひとつの記事は,「アメリカ,イギリス,フランス,ドイツ,イタリア,スウェーデン,チェコスロバキア,ソ連,インド,日本など異質の国々において,その国の指導的な人びとが,人間のこれまでの経験に類例のない危険が差し迫っていることをにわかに意識するようになった」と述べています。人類は,切迫している危機を,一度にひとつなら生き残ることができるかもしれないが,もし全部が,あるいはそのうちのいくつかでも,一挙に襲うなら,生き残れないということを彼らは認めています。戦争,人口増加,生態学,犯罪,飢きん,病気,不穏などあらゆる分野に,破滅をもたらす可能性がひそんでいます。これらが全部いっせいに爆発することもないとは言えません。

      11 (イ)科学技術が諸問題を解決することを期待するのはなぜ不合理ですか。(ロ)世界の破滅は人びとが恐れている方面からくるのではありません。なぜですか。(ハ)聖書に示されているように,「大患難」はいつ襲来しますか。

      11 現代の科学技術は問題を解決しうる,また実際に解決するであろう,と言う人たちもいますが,科学技術は今どんなことをしていますか。とくに戦争と汚染の状態が悪化していることに対しては,科学技術にも一半の責任があるのではないでしょうか。またたとえそれらの問題を解決しうるとしても,科学技術はそれを実際に解決するでしょうか。いいえ,人びとの間では利己心があまりにも強く,利己的な関心事があまりにも多いため,悪い状態を正そうとする努力ははばまれてしまいます。しかし,予告されている破滅は,人びとが恐れている方面から来るのではありません。現在の世界の体制は自滅するのではありません。この体制の完全な失敗はいまや明らかとなりましたから,それを滅ぼすエホバご自身の時が近づいています。エホバはこの時をずっと昔にそのみことば聖書の中に明示しておられました。聖書は明白に西暦1914年を,「世の王国」が主である神とそのキリストの王国となった時として正確に示しています。その時に生きていた世代が死に絶えないうちに,「大患難」は突如襲来するでしょう。―啓示 11:15。ダニエル 4:10-17。マタイ 24:21,34。

      12 どんな事態の発展は,この世的な宗教の影響力が多くの場所で衰えていることを示していますか。

      12 宗教の分野に生じているできごとも,聖書を研究する者にとっては,きわめて興味深いものがあります。司祭や牧師の職を去る人が続出しており,教会は閉鎖されつつあります。しかし,世界宗教の破滅を予示するものは,教会が自滅しつつあるかのような印象を与える教会の閉鎖,多くの地域における教会員の減少,僧職者の辞職,といったことばかりではありません。それにはさらに別のものがあります。

      13 エルサレムとその宗教制度が西暦70年に荒廃に至った理由はどこにありましたか。

      13 次のことを考えてみましょう。西暦70年に神の怒りが臨んで,エルサレムとその宗教制度は荒廃するに至りましたが,その実際の理由はどこにありましたか。それは彼らが神のことばを拒否し,それがあらゆる種類の道徳的腐敗を招いたからでした。また,メシアとしての神のみ子を拒絶し,その代わりにカエサルに信頼を寄せたからでした。(マタイ 15:1-9。ヨハネ 19:14-16)エルサレムの滅びは全く当然のことでした。今日のキリスト教世界の僧職者は何かまさるところがありますか。いいえ,彼らは古代エルサレムの腐敗した宗教指導者に等しい存在です。

      14 僧職者たちは,神の霊感によることばとしての聖書を退けますが,そのことは,道徳に対する彼らの見方にどのように影響していますか。

      14 彼らもまた,神の霊感によることばとしての聖書を拒絶しました。ある場合に彼らは,聖書のいくつかの箇所をおおっぴらに「神話」と呼びます。しかしそれだけではありません。新聞にのせられた次の見出しをごらんください。これらは多くの見出しの中のほんの2,3にすぎません。オーストラリアの新聞,「牧師,同性愛者を祝福するよう教会に勧告」。ニューヨーク市の新聞,「同性愛は悪か。監督派の牧師は否定」。スウェーデンの新聞,「牧師,性の規則の緩和を提唱」。ロンドンの新聞,「司教,性の合法化の対象を14歳に引き下げることを要望」。人びとが神のことばを退けるとこのようなことになります。

      15 キリスト教世界の僧職者は,神のメシアの王国を拒否していることをどんな方法で示しましたか。

      15 彼らが,神のみ子に託されている神のメシアの王国を拒否していることもまた紛れもない事実です。キリスト教世界の僧職者は,パリサイ人と同様に,人間の政府を信頼してきました。大統領とか王がその地位につく時には出席して祈りをささげます。従軍牧師は軍隊が戦争に行くときに祝福します。そして彼らは,神のメシアの王国しかもたらしえない平和と安全を人類が得るための手段として国際連合を指摘することに積極的であり熱心です。

      16 それで,教会出席者の減少よりもむしろ何が,キリスト教世界の破滅の近いことを確実にしていますか。

      16 こうしたことは,キリスト教世界の宗教が犯した多くの罪の一例にすぎません。彼らは神とキリストのみ名をはなはだしく冒涜し,地上からエホバ神の真の崇拝を消し去ろうとしました。こうした事がらのゆえに,キリスト教世界の破滅が差し迫っていることは確実です。

      その『日』の近いことを示す別の証拠

      17-19 (イ)ほかに,「エホバの日」の近いことを示すどんな証拠がありますか。(ロ)神の新秩序が近いことを示す,神の民の間の発展をいくつかあげてください。

      17 世界の状態は疑いなく「エホバの日の臨在」の近いことを示しています。しかし証拠はそれだけではありません。神の真のクリスチャン会衆の中で生じていることに,つまりエホバがご自分の民に関連して行なわれている事がらに,その日が近い明白な証拠を見ることができます。近年における神のご処置から見ると義の新秩序のま近いことがわかり,わたしたちはそれが眼前で形成されているのを見ることができます。

      18 次にあげる発展を考えてみてください。組織の面から言うなら,エホバの民の組織は,長老と奉仕のしもべの取決めがつくられてから,いまやよりいっそう聖書に即したものとなりました。また彼らは,『エホバここにいます』と呼ばれる都市に似た,地上における世界支配の座にかんするエゼキエルの幻を理解するよう助けられました。天の王国の支配下で奉仕する管理機関,つまりエゼキエルの預言で「首長」と呼ばれている集合体があることに気づいています。(エゼキエル 45:7; 48:35)さらに彼らは,「大患難」の生存者である「大群衆」が,「新しい地」,つまりキリストの千年統治中にもたらされる新しい地の社会の基礎となることもいまでは理解しています。ゼカリヤの預言の解明に啓発されて彼らは次のことを悟りました。すなわち神の民の行なうことはすべて神聖で神の主権をほめたたえ,汚れや害のないものとなるので,神はご自分の民にどんな欠点をも見つけ出す理由がなくなる,ということです。(ゼカリヤ 14:20,21)それに加えて彼らは,もし「大患難」を生き残りたいならば人びとはいまどのように生きなければならないかについて,ことこまかに教えられてきました。こうしたことはすべて,心の正直な人びとが,神の新秩序での生活に備えるための助けとなります。また,「大群衆」を構成する人びとが,かつてないほどの,驚異的とさえ言える勢いではいってきています。「羊」と「やぎ」を分けるわざは驚くべき速度で進んでいます。今日,正しい状態を切望する人びとは,良いたよりにす早く反応します。―マルコ 13:10。マタイ 25:31-46。啓示 7:9。

      19 こうした証拠を考えるなら,わたしたちが神の義の新秩序の到来する直前の,イエスが預言されていた時代に住んでいるということに気づかない人は,よほど耳の遠い人か,観察力のにぶい人と言わねばなりません。しかも,目前に見られるすべての証拠によると,その時代もかなり経過しています。―マタイ 24:34。

      偽りの宗教の終わりは突然に来る

      20,21 (イ)この世的な宗教のどんな状況を見て,ある人びとは,激しいエホバの日を『先に延ばす』傾向を持つ可能性がありますか。(ロ)しかし啓示 17章16,17節は,「大いなるバビロン」の破滅はどのように来ると述べていますか。

      20 しかしなかには,宗教の状態を見て,激しいエホバの「日」を『先に延』ばす人たちがいます。その人たちは次のように推理するのかもしれません。『なるほどある地域ではこの世的な宗教の勢力は弱まっている。教会の閉鎖,教会に対する敬意の低下その他,教会が力を失っている証拠はある。しかしそのような地域においてさえ,教会は政治と非常に深いかかわりを持っている場合が多いではないか。また教会はしばしば多くの産業用土地や,幾ブロックもの広い宅地を所有していて,それらを営利的に利用している。教会は経済的に確立している。さらにまた,他の地域では教会への出席はまだ盛んである。腐敗が見られるにもかかわらず多くの人びとが教会員としてとどまっている。だから,教会がこうした力を示しているのは,激しいエホバの日の臨在がまだ何年も先のことであることを示すと言えるのではないか』。

      21 欺かれてはなりません。偽りの宗教の終わりは,ただ支持がなくなるためにつぶれる,ということで来るのではありません。むしろ,啓示 17章16,17節に記されている,使徒ヨハネが与えられた幻の中で神が言われている方法で来るのです。そこには次のように記されています。「あなたの見た十本の角,また野獣,これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつくし,彼女を火で焼きつくすであろう。神は,ご自分の考えを遂行することを彼らの心の中に入れたからである。すなわち,彼らの王国を野獣に与えて彼らの一つの考えを遂行し,神のことばの成し遂げられるに至ることである」。エホバ神ご自身が,ご自身の「日」の初めに,「大いなるバビロン」の破滅をお命じになるのです。しかもその破滅は驚くほど突然に臨みます。

      22-24 (イ)この世的な宗教の信奉者たちは彼らの宗教とその僧職者たちをどのように見ますか。(ロ)エレミヤ記 25章34,35節は,僧職者とその偽りの宗教が突如滅びるさまを例を用いてどのように説明していますか。

      22 バビロン的な世界宗教がその信奉者たちから,何か神聖なもの,美しいものと見られていることをわたしたちは忘れてはなりません。その指導者たち,とりわけキリスト教世界の僧職者たちは,神の人,高徳の人として仰がれてきました。政治家や実業家の中の,宗教に関心のない人びとでさえ,彼らを呼ぶのに,尊師,主教,神父,教皇などの大げさな尊称や他のお追従的なことばをもってします。もとより,この世的な宗教は一部の人たちに彼らの望むものをもたらしました。ある人たちには社会的地位を,ある人たちには政治的権力を,さらに他の人たちには経済上の利益をもたらします。教会へ通う人びとのなかには,神を崇拝するには教会に出席しなければ,あるいは教会に所属しなければならないものと考えている人たちがいます。なぜなら,キリスト教世界は,神を崇拝すると主張し,また聖書を説明するとか,真理の宝庫であるなどと主張するからです。

      23 しかしエレミヤ記 25章34,35節はこのことについてなんと述べていますか。西暦前607年のエルサレムの陥落直後ユダヤの宗教指導者たちの上に何が臨むかについて,したがってキリスト教世界の指導者たちに何が起こるかについて,それらの聖句は次のように述べています。『牧者よなげき叫べ 群れの長たちよ汝ら灰の中に転ぶべし そは汝らのほうらるる日満つればなり 汝らは貴き器のごとくおつべし』。

      24 ですから,キリスト教世界の偽りの宗教とその僧職者たちは,会員の減少によって徐々に衰微していって終わりを迎えるのではありません。ちょうど美しい花びん,「貴き器」が,突如その台座から落ちて傍観者を驚かせるように,僧職者とその偽りの宗教も突如,驚きのうちに砕けて破滅に至るのです。

      25 (イ)同様に,啓示 18章10,21節では,大いなるバビロンの滅びの迅速なことがどのように示されていますか。(ロ)これらの聖書的事実に対する認識は,何に対する保護となりますか。

      25 また,大いなるバビロンの滅びの迅速なことについて,啓示 18章10節はなんと述べていますか。「[多数の商人を含む嘆く者たちは]彼女の受ける責め苦を恐れるあまり,遠く離れたところに立って,こう言うであろう。『気の毒だ,気の毒なことだ,大いなる都市よ,強力な都市ともあろうバビロンよ,あなたの裁きが一時のうちに到来したとは!』」。そして21節では引き続きこう述べられています。「また,強い使いが,大きな臼石のような石を持ち上げ,それを海に投げ込んで言った,『大いなる都市バビロンはこのように,速い勢いで投げ落とされ,二度と見いだされることはない』」。この事実に対する認識は,バビロン的宗教が依然ある地方でかなりの影響力を持っているというだけの理由で,エホバの日を『先に延ばす』という傾向に落ち入らないようわたしたちを保護するものとなります。

      『至上者のもとなる隠れたるところにすまうその人は全能者の陰にやどらん われエホバのことを宣て エホバはわが避所わが城わがよりたのむ神なりといわん そは神なんじを狩人のわなと毒をながす疫病よりたすけいだしたまうべければなり かれその羽をもてなんじをおおいたまわん なんじその翼の下にかくれん その真実は盾なり 干なり 夜はおどろくべきことあり 昼はとびきたる矢あり 幽暗にはあゆむ疫病あり 日午にはそこなう励しき疾あり されどなんじ畏るることあらじ 千人はなんじの左にたおれ 万人はなんじの右にたおる されどその災害はなんじに近づくことなからん なんじの眼はただこの事をみるのみ なんじ悪者のむくいを見ん なんじさきにいえり エホバはわが避所なりと』― 詩 91:1-9。

  • 正しい態度は身の守りとなる
    ものみの塔 1974 | 5月1日
    • 正しい態度は身の守りとなる

      1 (イ)ペテロはいつクリスチャンたちに手紙を書いて,『エホバの日の臨在をしっかりと思いに留める』よう勧めましたか。(ロ)そのあと,エホバの「日」が来るまでどのくらいの期間がありますか。

      西暦64年ごろ,使徒ペテロはクリスチャン会衆に手紙を書き送り,『エホバの日の臨在をしっかりと思いに留める』よう彼らに勧めました。クリスチャンたちがこのことばを初めて読んだのは,ローマ人がエルサレムを破壊する,つまり神の裁きの「日」がその都市に臨む6年ほど前のことでした。(使徒 2:14-21)それは,キリスト教世界と現在の事物の体制に対するエホバの裁きの「日」の臨在の1,900年以上前のことでした。それでもペテロのことばは,当時生きていたクリスチャンたちに適用しました。

      2,3 過去19世紀にわたり,『エホバの日をしっかりと思いに留める』ことが油そそがれたクリスチャンたちにとって重要であったのはなぜですか。

      2 神の最後の裁きの「日」からはるか昔に住んでいたクリスチャンたちが,なぜそのような思いをいだく必要があったのでしょうか。なぜなら,それ以外の態度は,この世とかかわりを持つわな,そしてこの世的なものに信頼と希望を置くというわなに彼らを導くからです。彼らの周囲のものはやがて破壊されるということを彼らは思いに留めていなければなりませんでした。そのうえに彼らは,神に対する忠実を,『世を,あるいは世にあるものを愛さない』ことによって証明しなければなりませんでした。というのは,時がたてば彼らは死ぬからです。その時の彼らの,霊によって生まれた油そそがれたクリスチャン,イエス・キリストの兄弟,としての履歴はどういうものになっているでしょうか。―ヨハネ第一 2:15。

      3 油そそがれたクリスチャンたちが,過去19世紀間ずっと直面していた問題は,エホバのみ前における自分の現在までの経歴はどうか,キリストとともに統治する希望のある「王なる祭司」のひとりとなる資格を持つように,神の召しと選びを確かなものにしているだろうか,ということでした。(ペテロ第一 2:9。ペテロ第二 1:10。啓示 20:4,6)彼らがその召された天の地位にふさわしいかどうかをエホバが判断なさるのに,彼らが「エホバの日」に住んでいる必要はなかったのです。―ヘブライ 3:1。

      4 わたしたちはなぜ今日,そして日ごとに,自分の生き方に真剣な注意を払う必要がありますか。

      4 今日のわたしたちはどうですか。わたしたちはこの事物の体制の終わりが近い時に住んでいるので事情が違いますか。そうではありません。それは,わたしたちの上に「大患難」が臨むまで待つかどうかの問題ではありません。というのは,わたしたちがその時に生きているかどうかは,わたしたちにはわからないからです。聖書は,ヤコブの手紙 4章14節で,わたしたちに次のことを思い起こさせています。「あなたがたは,あす自分の命がどうなるかも知らないのです。あなたがたは,少しのあいだ現われては消えてゆく霧のようなものだからです」。問題を軽く見ているなら,頼りにならないわたしたちの心はいつわたしたちを真の崇拝から引き離すかわかりません。(エレミヤ 17:9)それにわたしたちは,「大患難」が来る前でさえ,わたしたちの油断をついてわたしたちに災いを及ぼすような事態がいつなんどき臨むかをも知りません。それはどんな場合でしょうか。いっしょに考えてみましょう。

      終わりまで耐え忍ぶということの意味

      5 (イ)「終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」というイエスのことばにはどんな意味がありますか。(ロ)ソロモンは,人の現在の命が「終わる」可能性についてどんな事実をわたしたちに思い起こさせますか。

      5 イエスは,わたしたちが住んでいる今の時代を予示するものであった使徒たちの時代について語られたとき,こう言われました。「終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」。(マタイ 24:13)迫害,増加する不法,世の憎しみなどを耐え忍ぶことについてイエスは語っておられました。弟子の中には,迫害の間に殺される者もあるだろう,とイエスは言われました。しかし,こうしたことすべてを死に至るまで,あるいは世のこの激しい敵対状態の終わりまで耐え忍ぶなら,そのクリスチャンはその忠実さゆえに救われます。(マタイ 24:9-12)その人は,事物の体制の終わりまで生きていないかもしれませんが,その人にとっての「終わり」がいつになろうとも,その人はこの世のものであったかどうかについて裁かれるのです。(ヨハネ第一 2:15。ヤコブ 4:4)霊によって生まれた油そそがれたイエス・キリストの兄弟たちであろうと,地的希望を持つ「ほかの羊」であろうと,若者であろうと老人であろうと,わたしたちはみな,宗教的迫害が突発するなど,予期しない事態のために,きょうあすにも死にかねない者です。賢王ソロモンは,すべての人間が直面する事態についてこう述べています。『すべて人に臨むところの事は時あるもの偶然なるものなり 人はその時を知らず 魚のわざわいの網にかかり鳥の鳥あみにかかるがごとくに世の人もまたわざわいの時の計らざるに臨むに及びてそのわざわいにかかるなり』― 伝道 9:11,12。

      6 ものみの塔協会本部のメンバーのひとりに,最近どんな「偶然なるもの」がふりかかりましたか。しかし彼はその時まで何をしていましたか。

      6 わたしたち個人の終わりがいかに早く来るかを示す,そして神のみ前に常に正しい立場を持つことと,神の恵みを得られる良い立場を持つことの重要さを強調する例はたくさんあります。少し前のこと,ものみの塔協会本部職員のひとりが,ニューヨークのある王国会館で別の兄弟といっしょに仕事をしていたところ,ひとりの若者が会館の中にはいって来て彼に近づき,質問をしました。それで証人はその質問に親切に答えました。ところが,宗教的敵意をいだいていたその若者は突然ナイフを取り出してその証人を刺し殺しました。証人がその時まで忠実に奉仕していたことを知るのは大きな慰めです。

      7,8 マラウィの兄弟たちの経験からわたしたちは何を学ぶべきですか。

      7 また,マラウィのエホバの証人たちの経験もあります。マラウィは,人びとが王国の音信に驚くべき反応を示した国です。1972年には,マラウィの人口194人につきエホバの証人ひとりという割合でした。その年の間に1,617人が新たにバプテスマを受けました。この国の中にはエホバの証人の会衆が447存在し,2万2,000人以上の証人がそれらの会衆と活発に交わっていましたから,エホバの証人はほんとうに繁栄していたと言えます。1967年に迫害があったことは事実です。しかしある人は1972年に,『これほど霊的に繁栄しているのだから,わたしたちに災いが臨むことはまずない』と考えたかもしれません。しかし,マラウィのエホバの証人の身に,ほとんど一夜にして,何がふりかかったでしょうか。この世の政治に対して中立を保つことに忠実であったため,彼らの家は焼かれ,一部の女性は強姦されました。また彼らは暴徒の襲撃を受け,ある者は拷問にかけられるかまたは殺害されました。ほとんどの証人は,命がけで隣国に逃亡することを余儀なくされました。

      8 このことからわたしたちは何を学びますか。クリスチャンは毎日を,その日があたかも自分の地上での生活の最後の日であるかのように生きなければならないということです。真のキリスト教を生きる道とし,会衆内の兄弟たちと密接な関係を保ち,力をつくして活発にエホバに奉仕していなければなりません。もしマラウィの証人たちが無関心で,彼らの霊的状態をおろそかにしていたならどうなっていたでしょうか。試練が臨んだ時には霊的力を持つ人だけが堅く立つことができました。そしてマラウィの証人の大多数がそうしたことは,彼らの誉れです。

      9 「大患難」が到来する時,わたしたちがエホバに喜ばれる者であるかどうかを決定するのは何ですか。

      9 神は,わたしたちが賢明な道を歩み,また危険と,エホバの「日」の近いことを警告することによって他の人びとを助けられるように,わたしたちが知る必要のある事がらを啓示してくださいます。しかしエホバは,正確に何年に,または何日に,何時に,この世界に「大患難」をもたらし始めるかをわたしたちに告げてはおられません。(マタイ 24:36)エホバへの奉仕を活発にするかどうか,あるいは神に喜ばれる生き方をするかどうかを決定するのは,「大患難」の始まる正確な時にかんする知識の有無ではありません。神を喜ばせるには,終わりが近いということではなく,わたしたちのすばらしい天の父としての神に対する愛を真の動機として,常に奉仕しなければなりません。

      神の選ばれる時機が適切であるのはなぜか

      10-12 (イ)どういう意味でエホバの「日」は「わな」のように臨みますか。(ロ)自分が予期していたときに物事が起きないために信仰を失う人たちは,エホバの地位の卓越性を認識していないことをどのように示していますか。

      10 「大患難」は突然に臨むということをわたしたちは知りました。それは「わな」のように臨む,とイエスは言われました。(ルカ 21:34-36)わなにかかる前の動物は,自分がわなのそばにいることにさえ気づかず,突然に捕えられて望みのない状態に落ち入ります。聖書は起こりもしない事態を警告しているのではありません。それはほんとうのことであって,しかるべき時にまちがいなく生じます。神はこの事物の体制を滅ぼす時を定めておられます。しかしある人びとは,事が自分の予想どおりに起きないために,また神の行動が遅いように思えてしんぼうできなくなり,信仰を失います。それは,人間の寿命が短いために,自分が持っている短い時間の中で物事を成し遂げようとしてあせるからです。その結果,限りのあるそのような人間経験にもとづいて神を裁く傾向に落ち入るかもしれません。―ハバクク 2:3。

      11 一方,エホバは永久に生きておられます。あせりを感じられる必要はありません。エホバは状況をつぶさに調べて,ご自分が時の流れのどのあたりで行動すれば,関係者すべてに最大の益を与え,同時にご自分の目的を徹底的に遂行しうるかを的確に見定めることがおできになるのです。―箴 15:3。

      12 ペテロはこの考えを次のように言い表わしています。「愛する者たちよ,この一事を見過ごしてはなりません。エホバにあっては,一日は千年のようであり,千年は一日のようであるということです。エホバはご自分の約束に関し,ある人びとが遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです」― ペテロ第二 3:8,9。

      13 (イ)この事物の体制に対してエホバがまだ裁きを執行されていないことから,実際にだれが益を受けていますか。(ロ)「エホバにあっては,一日は千年のようであり,千年は一日のようである」ということはどのように事実ですか。

      13 それで,エホバが手間取っておられるように見えるのは,エホバご自身の利益のためでもなければ,行動ののろさなどによるものでもありません。それはわたしたち人間のためです。エホバはこの世界をすぐに滅ぼすことができます。ペテロが指摘しているように,エホバは,人間が1,000年間になしうることよりも多くのことを,1日でなさることができます。たとえば,イエスは地上におられたとき,なえた手をいやし,見えない目を見えるようにし,からだの一部が腐敗していた死者をよみがえらせることさえされました。イエスはこうした力あるわざを即座に成し遂げられました。しかし,もしその人が普通の状態のもとで新しい腕を発達させるとしたらあるいはよみがえらされた人がからだの腐敗した部分を自然の過程で回復させるとしたら,どのくらいの時間がかかったかを考えてみてください。さらに,他の面から問題を見るなら,永遠に生きられる,そして幾時代も前もって目的をお立てになるエホバにとっては,1,000年の経過は,『夜の間のひとときにおなじ』です。(詩 90:4)エホバは,わたしたちのように時間に制限されることはありません。それでもしエホバが,わたしたちに遅く思えるような仕方で行動されるなら,それはわたしたちに対するエホバのご配慮であり,関係者すべてにとって最善の道であるということを念頭においていなければなりません。

      14 わたしたちはエホバの「日」がいつ来るかを正確に知る必要はありません。なぜですか。しかしわたしたちは何をしているべきですか。

      14 神のみ前における自分の立場を理解し,神を信仰している人は,心配する必要はありません。『あなたがたの労は主にあってむだではない』と,使徒は保証しています。(コリント第一 15:58)もしわたしたちが神の目的を知り,神のわたしたちに対する現在のご意志は何か,将来どんな希望があるかを知っているなら,できごとの起こる正確な時間表を知らなくてもよいわけです。エホバの「日」がいつ到来しようと,わたしたちは神のご意志を行なうことに忙しく働いているでしょう。それがあなたの決意ですか。

      あなたは「しるし」を持っていますか

      15 (イ)神の新秩序における地上で生きるよう救われる人すべてが持っていなければならない「しるし」とは何ですか。(ロ)世の中の悪い状態に対する人の反応についてのどんな質問は,その人が神の求める見方をほんとうに持っているかどうかを分析するのに役だちますか。

      15 古代エルサレムがバビロニヤ人によって破壊される直前に,エホバはエゼキエルにひとつの幻をお与えになりました。その幻の中でひとりの象徴的な人がエルサレムを行き巡り,エルサレムで行われていた『もろもろの憎むべき事のために歎き哀しむ』人びとのひたいにしるしをつけました。(エゼキエル 9:4)それは今日行なわれているひとつのわざを予示するものでした。「ほかの羊」であることを公言し,神の新秩序におけるこの地上で生きることを望む人は,めいめい次のことを自問すべきです。『わたしはほんとうにしるしを持っているだろうか。わたしの生活は,わたしのひたいのしるしのようにはっきりと,わたしがほんとうにクリスチャンの人格を持つ証拠を示しているだろうか。わたしは自分が今目撃している,とりわけキリスト教世界で行なわれている悪事をほんとうに憎んでいるだろうか。そうした事がらが危険をもたらし,また自分にとって不都合であるというだけの理由で残念に思っているだろうか。それとも神のみ名が非難されているのでそれを嘆いているだろうか』。

      16 (イ)道徳的に常に清い生活を送ってきていても,それ自体はその人が「しるし」を持っていることを意味しません。なぜですか。(ロ)それでも性の不道徳を避けることはなぜたいせつですか。

      16 クリスチャン的人格の「しるし」を実際にあらわす人びとは,世を愛する者の部類にはいるような事を行なっている時にエホバの日が突如来ることのないよう,細心の注意を払います。あなたもそうですか。たとえば,放縦,淫行,姦淫などを実際にどう考えていますか。過去においてどんな生活をしていたにせよ,現在は,そうしたことを常習的に行なう者に対するエホバの裁きの正しさを心から認めていますか。(コリント第一 6:9-11。ヘブライ 13:4)もちろん,そのようなことを一度もしたことのない人たちもいます。しかしそのこと自体は,その人たちが生き残れる「しるし」をつけられていることを意味しません。「しるし」を持つ人というのは,不快な結果を招きかねないからそうした行ないを避けるというだけの人ではありません。悪事はエホバの義の道に対する違反であるゆえにそれを憎むのです。彼らは,忠実であったヨセフと同じように,淫行や姦淫が汚れた行為であるばかりでなく,『神に対する』『大いなる悪』であり『罪』でもあることを認めています。(創世 39:9)彼らが第一に関心を払うのは,エホバの見方です。性の不道徳がサタンの主要なわなのひとつであることを知っている以上,この罪を犯させて新秩序の門口が近づいている今この時に落伍させようとする誘惑の危険のある状況を避けるのは重要なことです。約束の地の境のモアブでイスラエルが示した例を忘れないようにしましょう。性の不道徳というわなにかかって2万4,000人のイスラエル人がそこで命を失いました。―民数 25:1-9。

      17 ほんとうに「しるし」を持っているなら,正直であることについてどんな態度を取りますか。なぜですか。

      17 正直であることについてはどうでしょうか。わたしたちはほんとうに真実を重んずるでしょうか。それとも都合の悪い状況から抜け出すために,あるいは自分が欲しいものを手に入れるために,真実を少しばかり曲げることをはばからないでしょうか。今日,実業界ではうそをつくことがあたりまえのようになっています。しかし,うそをつくことは最初どこで始まったでしょうか。悪魔は「偽り者であり,偽りの父」である,とイエスは言われました。(ヨハネ 8:44)ですから,うそをつく人は,実際には悪魔に仕えているのです。しかし,もしわたしたちが常に真実を語るなら,わたしたちは新しい人格を着たこと,ほんとうに「しるし」を持っていることを明らかにしているのです。「あなたがたは偽りを捨て去ったのですから,おのおの隣人に対して真実を語りなさい」と神のことばは述べています。(エフェソス 4:25)あなたは,窮地に立つとき,そこから抜け出す安易な方法として,うそをつく気持ちを起こしますか。それともあなたは,「うそと偽りとをわたしから遠くへ離れさせてください」と言った箴言の筆者のようですか。―箴 30:8。

      18,19 神のみ前で正しい良心を持ちたいならば,集会に出席し,エホバの証人と交わる以上のことが求められていますが,なぜですか。

      18 「エホバの日」の近い現在,多数の人びとが新しく真理の道にはいってきています。その人たちは以前は,自分の思いや肉体に害となる習慣を持っていました。しかし今ではバプテスマを受け,正しい良心を神に求めています。(ペテロ第一 3:21)もしあなたがそのバプテスマの段階を踏もうとしている人のひとりであるならば,あるいはしばらく前にその段階を経ているならば,思いと肉体に有害な影響のあることがわかっている事がらを引きつづき行なっていて,神から正しい清い良心をいただく,あるいは受けることができるでしょうか。清さにかんする聖書の高い標準に従って生きるよう努力するエホバの証人と交わるだけで,清い良心を得ることができるでしょうか。もしその一方で,証人たちが退けることを引き続き行なっているとすれば,あなたはほんとうにエホバの証人のひとりと言えるでしょうか。あなたはエホバの証人になることを望んでいますか。

      19 神から恵みと命をいただくことを期待しているのであれば,清い良心は不可欠な要素です。したがって,わたしたちが行なうすべてのことにおいてまず第一に考慮すべきことは,これらの事がらは神のみ名にどのような影響を及ぼすだろうか,ということでなければなりません。第二は,これらの事がらは,神のみ名と王国を代表するクリスチャン会衆にどう影響するか,ということです。こうした考慮を払うならば,わたしたちが選ぶ道において正しい良心を保つのに役だちます。神がクリスチャン会衆を,「真理の柱また支え」とされたことを考慮する必要があります。(テモテ第一 3:15)わたしたちは,その会衆が教えることと一致した生き方をすべきです。エホバの日の臨在をしっかりと思いに留めることは,エホバの恵みという輝かしい宝とくらべて「多くのあくた」に等しいものに執着しないよう,わたしたちを保護するものとなります。(フィリピ 3:8)またそうすることによって人は正しい良心を保つよう努力することができます。他の人に宣べ伝えておきながら,自分自身が神に非とされることのないよう,自分の肉体を制御します。―コリント第一 9:27。

      イエスは何に対する警告を弟子たちに与えたか

      20-23 (イ)ルカによる書 21章34節から36節に示されているように,イエスは,わたしたちの信仰を弱めかねないどんな事がらについて警告をお与えになりましたか。(ロ)こうした日常生活に関係のある事がらが,そのように信仰を破壊する影響力を持つことについて説明してください。(ハ)神の霊に導かれることをほんとうに望むならば,わたしたちはどこにいるべきですか。

      20 とはいえ,人の信仰をくつがえすものは必ずしも大きな事がらばかりとは限りません。主イエス・キリストは,毎日信仰によって生きることの問題を強調し,こう警告されました。「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」― ルカ 21:34-36。

      21 イエスはここで,どんな事がらについて警告を与えておられるのでしょうか。イエスは,淫行,姦淫,盗みなどの罪について話しておられたのではありません。もちろん,そのようなことを行なっても神の王国から閉め出されます。しかしイエスは,食べること,飲むこと,日常生活の苦労など,わたしたちだれもが容易に影響を受けるありふれた事がらについて彼らに警告しておられたのです。こうしたことには,罪と言えるところまでふけるのが非常に容易です。そこにこれらの油断のならない危険がひそんでいます。自分は安全な道を歩んでいると考えちがいをしているときに,ふいに捕えられることがないとは言えません。この世の事がらに関係し,それがもたらす煩いに巻き込まれて,自分の霊性をひどくそこなうこともありえます。この世に属するものを自分に必要だと考えて,それを得ることに夢中になる恐れもあります。一般の人びとが持っているあらゆる便利品や生活を安楽にするもののなかでも,「いちばん上等のもの」を持たねば気がすまないと考えるようになるかもしれません。そして,それを手に入れるために世俗の職場で余分に働くのは悪いことではない,と考えるかもしれません。

      22 その結果,その人は霊的生活をおろそかにします。勉強をするための時間を取りません。家族が霊的健康を保つよう必要な助けを与えません。クリスチャンの兄弟たちとの交わりの益も失います。したがって野外奉仕に対する熱意にも欠けています。たまにする奉仕でさえ,たいてい形式的なもので,他の人が弟子になるように助けようとする親切はありません。その人は,キリストが統治しておられることやエホバの日が近いことをほんとうは信じていないことを,実際に示しているのです。

      23 一方,心から神に願い求めている人は,神の霊が自分の上にあること,自分がそれに導かれることを望みます。そして神の霊を持つ人びとと交わり,その人びとの真の友となり同労者となって,神の霊が活発に活動しているところに身を置きます。

      宣べ伝えるわざに携わる正しい動機

      24 イエスはどんな動機から「良いたより」を伝道されましたか。

      24 かつて地上に存在した最も偉大な伝道者であったイエス・キリストは,どんな動機をお持ちだったでしょうか。それはエホバとエホバの「羊」に対する愛でした。イエスは「群衆を見て哀れみをお感じになった。彼らが,羊飼いのない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていたからである」と,マタイは9章36節で述べています。イエスはただ彼らのことを気の毒に思われただけでしょうか。あるいはただ彼らのあわれな状態を弟子たちに話されただけでしたか。そうではありません。イエスは心から彼らを愛しておられたのです。その愛に動かされてイエスは彼らのために奮闘されたのです。マタイの記録のすぐ次の節(37,38節)にはこう書かれています。「そこで,弟子たちにこう言われた。『確かに,収穫は大きいですが,働き人は少ないのです。それゆえ,収穫に働き人を遣わしてくださるよう収穫の主人にお願いしなさい』」。そしてイエスとその弟子たちは実際に大きな収穫を得ました。使徒たちの活動の4章4節を見ると,その時までに信者になった人の数は約5,000人になっており,そのあと,使徒たちの活動 6章7節にはこう記されています。「その結果,神のことばは盛んになり,弟子の数はエルサレムにおいて大いに殖えつづけた。そして,非常に大ぜいの祭司たちがこの信仰に対して従順な態度を取るようになった」。

      25,26 (イ)人びとが真理を学ぶ必要のあることを考えるとき,わたしたちはみなどんな質問に直面しますか。(ロ)アイルランドのある夫妻の経験からわかるように,わたしたちはどんな動機で伝道を続けるべきですか。

      25 同様に今日も,必要はたいへん大きいと言わねばなりません。今ほど全世界の人びとが真理を切実に必要としている時はありません。それでわたしたちはみな次のような質問に直面します。わたしは散らされているエホバの「羊」を愛しているだろうか。悪い状態をただ非難したりけなしたりするのではなく,進んで何かを,その人たちの真の助けとなる唯一のことを行なうだろうか。愛をそのような方法で証明するほどわたしはエホバを愛しているだろうか。

      26 エホバの証人の開拓奉仕者として妻とともに14年間アイルランドで奉仕したあるクリスチャンは,こう言いました。『来る日も来る日も,朝から

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする