-
神が与えてくださる霊的安全ものみの塔 1975 | 3月1日
-
-
は,ご自分もだれが宇宙主権者であるかを認めていることを示し,弟子たちにこう言われました。「あなたがたの敵を愛し,善を行ない,何か返してもらうことなど期待せずに利息なしで貸すことを続けてゆきなさい。そうすれば,あなたがたの報いは大きく,あなたがたは至高者の子となるのです。彼は感謝しない邪悪な者にも親切であられるからです」― ルカ 6:35。
25 最重要の問題に関するどんな祈りが,わたしたちの世代のうちに答えられますか。それでわたしたちの安全はどこにありますか。
25 霊感による祈りが答えられ,天地の産出者の宇宙主権に敵対する者たちに対してそれが実現する時は近づきました。「人々は,エホバという名をお持ちになるあなただけが全地を治める至高者であることを知る」。(詩 83:17,18,新)したがって,最重要な宇宙主権の問題が永久に解決されるこの世代におけるわたしたちの安全は,至高者の側をしっかりと支持して,「至高者のもとなる秘められた所」に住むことにあります。わたしたちがそこに住むことは,いま地にはびこっている,議論を引き起こすあらゆる政治的宣伝に影響され,誤導されて災いを被らないための保護となります。―詩 27:5。
「全能者の影」
26,27 (イ)客として「至高者のもとなる秘められた所」に入れられる人々はだれですか。(ロ)なぜこのかたはご自身の主権を行使することができますか。それでわたしたちとしてはどうすることが道理にかなった行ないと言えますか。
26 「至高者のもとなる秘められた所に住まう者」は何を得ますか。詩篇 91篇(新)の最初の節全体は次のように答えます。「至高者のもとなる秘められた所に住まう者はみな,まさに全能者の影のもとに宿り場を得る」。この場合,宿るということは,全能者の客として扱われるであろう,という意味です。この全能者と至高者は同じかたです。その同一の神は,至上性と全能性の特質をともに備えておられます。
27 神は全能であられますから,ご自身の至上権,ご自身の宇宙主権を維持することがおできになります。理性を持つどんな被造物が反抗しようとも,宇宙のすべての場所でご自分の主権を行使することがおできになります。被造物が至高者の主権に反対したりそれを無視したりするのは無益なことです。なぜなら神は全能者であられるからです。神の正当な主権を認め,それに従い,忠節をつくし,誠実を保ち,神を常に自分の命の主権者と認めることこそ,道理にかなった行ないです。このことを行なう人々が,全能者の客として「至高者のもとなる秘められた所」に入れられる人々です。
28 至高者はいつ,ご自分が全能であることに,アブラハムの注意を引かれましたか。そしてそれをどのように証明されましたか。
28 聖書をよく知らない今日の多数の人々にとって,存在の全領域において比類のない全能なる神,という考えは理解しがたいものです。しかし,西暦前20世紀という昔に,至高者,すなわち天地の産出者は,地に住んでいたご自身の友,族長アブラムをしてその事実に注意を向けさせました。アブラムの息子イサクが生まれる前の年,至高者はそのみ使いを通してご自分が全能であることを語られました。創世記 17章1,2節は次のように伝えています。『アブラム九十九歳の時エホバ,アブラムにあらわれてこれに言いたまいけるは 我は全能の神なり なんじわが前にあゆみて完全かれよ 我わが契約をわれとなんじの間に立て大いになんじの子孫を増さん』。神は,アブラムとその老いた妻が,子どもをもうけるという点では死んだも同然の状態にあったときに,彼らに息子イサクを奇跡的に授けることにより,ご自分に不可能なことが何もないことを証明されました。イサクが生まれた時,アブラムは100歳,妻は90歳でした。(創世 17:17; 21:1-5。ローマ 4:19-21)この全能者はいまも存在しておられます。
29 今日わたしたちは,だれを通してのみ「至高者のもとなる秘められた所」にはいることができますか。なぜですか。
29 アブラハムの孫ヤコブにとって全能者は非常に親しい神でした。(創世 35:11; 43:14; 48:3; 49:25。出エジプト 6:3)比較すればいかにも取るに足りない被造物ですが,神はそのわたしたちにも非常に親しくしてくださるのです。「至高者のもとなる秘められた所」で全能者の客となることを考えてごらんなさい! しかし今日のわたしたちは,神と最も緊密な関係にある天のみ子イエス・キリストの尽力によってのみ,この親しい関係に入れていただけるということを,覚えていなければなりません。ご自分の完全な人間の命をわたしたちの罪のための,神に対する犠牲として捨てられる前夜,イエスは忠実な使徒たちに言われました。「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」。(ヨハネ 14:6)ですから,わたしたちはイエスを通して,全存在の中の至上者に近づき,その至上者を宇宙の主権者,すなわちわたしたちが自分の命と,愛のこもった忠節および献身をささげるべきわたしたちの主権者であることを認めるのです。このようにしてわたしたちは,「まさに全能者の影のもとに宿り場」を得ます。
30,31 「まさに全能者の影」にいることについて語った時,詩篇作者は明らかにどんな情景を頭に描いていましたか。
30 全能者の影に覆われることは,わたしたちにとってなんとすばらしいことでしょう。このことは,全能者の興味と関心と注意がわたしたちに注がれていることを示します。その情景は,小さな人がずっと大きな人の陰に隠れているとか,あるいは無生物の陰に,『倦みつかれたる地にある大いなる岩陰』に隠れているといったものではありません。(イザヤ 32:2)詩篇作者が思いのうちに描いた正しい情景は,詩篇 17篇8節の中で言われているような情景です。ここでダビデは至高者に次のような祈りをささげています。『願くはわれを瞳のごとくにまもり なんじのつばさの蔭にかくし(たまえ)』。
31 そうです,ここに描かれているのは,親鳥がひなの頭上高く舞い,ひなの上に影を落としている情景です。下方にいるひなたちは,上方の親鳥の影の中にいるかぎり,自分たちには親鳥の注意が注がれていて,猛禽から保護されており,安全であるということを知っています。頭上でのそのような鳥の飛行が,注意と保護を示すものであることは,イザヤ書 31章4,5節に述べられていることによって確証されます。『万軍のエホバくだりてシオンの山およびその岡にて戦い給うべし 鳥のひなをまもるがごとく万軍のエホバはエルサレムをまもりたまわん これを護りてこれをすくいすぎ越してこれを援けたまわん』。
32 (イ)それで全能者と,全能者の「影」にやどるわたしたちは何に例えられていますか。(ロ)全能者は至高者でもあられるので,忠実な主人としてどんなことをすることができますか。
32 このように全能者は力の強い大きな鳥になぞらえられており,霊的な意味で安全な「秘められた所」にいる人々は,その親鳥の若いひなに例えられています。彼らは「まさに全能者の影」にいるので,「秘められた所」は彼らにとって一層安全な所となります。全能者は至高者ですから,他のすべてのものはその下にあり,下方のものは何一つその全能の視力から逃れることはできません。全能者は,その「影」の下にいる者たちに反対する下方のどんなものの,あるいはどんな人のどんな動きも,直ぐに見てとることができます。また,霊的な意味での客としてご自分のところに宿っている,自分の陰にいる者たちの防衛と保護に直ちに赴くことができます。全能者は,主人として,ご自分が客としてもてなす人々に対する責任と関係のある誉れを忠実に保たれます。なんと大きな慰めを与える考えでしょう。わたしたちは他のどこに,霊的安全を見いだすことができるでしょうか。
-
-
霊的な危険に対する恐れからの自由ものみの塔 1975 | 3月1日
-
-
霊的な危険に対する恐れからの自由
1 恐れからのそのような自由を得るには,人はどんな道を追い求めなければなりませんか。
詩篇 91篇に記述されている霊的な危険に対する恐れからの自由を得るには,同詩篇が指示している道を追い求めなければなりません。その道の一部に言及し,詩篇作者はこう言いました。「わたしはエホバに申し上げよう。『あなたはわたしの避難所,わたしのとりで,わたしの信頼する,わたしの神です』と」― 詩 91:2,新。
2 それでその独特の名前は,出エジプト 6章2,3節と一致して,だれを明らかにしていますか。
2 わたしたちはみな,詩篇作者(あるいは彼が代表する者)が,エホバに対して,『あなたはわたしの避難所,わたしのとりでです』と言っているのに注目しましょう。こうして彼は,至高者および全能者が,エホバという独特の名前を持つかたであることを明らかにしています。このことは,モーセがエジプトに戻ったあと至高者が彼に言われたことと合致します。「わたしはエホバである。そして,わたしは,アブラハム,イサク,ヤコブに全能の神としてよく現われたが,わたしの名,エホバに関しては,わたしはみずからを彼らに知らせなかった」― 出エジプト 6:2,3,新。
3 ご自分の名前を押し広げ,詳しく説明するさいに,全能者はどんなヘブライ語の表現をお用いになりましたか。そしてそれは,いくつかの英語の翻訳が訳出しているように,どんな意味を持ち,どんな意図を含んでいましたか。
3 ご自分の名前の意味を推し広げて,詳しく説明されるに際し,全能者はモーセに,「エヒエ アシェル エヒエ」と言われました。出エジプト記 3章14節に見られるこの表現は,「我は我がなるものにならん」(ユダヤ教の教師リーサーの訳),あるいは「我は我が喜ぶものとならん」(ロザハム訳),または「わたしは自分が成るところのものに成る」(新世界訳)という意味です。つまり,この全能者は,ご自分の民の状況に適応することができ,しかも,ご自分の民のために,そしてご自分の目的に即応して,なんであれご自分がなる必要のあるものになることができ,またなる,あるいはなんであれご自分がそれに成る必要があれば,それに成ることができ,また成る,という意味です。神はいかなる事態にも首尾よく対処することができ,また対処されるのです。ですから全能者は,このヘブライ語の表現によって,ご自分の自存,ご自分が永遠であることについて語っておられたのではありません。
4 (イ)ヘブライ語の語根によると,エホバという名前にはどんな意味がありますか。それはだれと,あるいは何と関係がありますか。(ロ)この名前の,神のみ子キリストに対する適用についてはどうですか。
4 神の名前はその表現と関係があります。エホバという名前は神の「記念」の名前,「代々にわたってわたしの記念となるもの」とされました。(出エジプト 3:15,新)ヘブライ語のエホバという名前の語根によると,それは,「彼はならせる(あるいは成らせる)」という意味を持つようです。すなわち,ものを創造することに関してではなく,神ご自身に関して,またご自分が何になる,あるいは成るかに関してそうなさる,という意味です。命を持つ理知あるものの全領域において,至上者と全能者のほかにだれが,そのような名前を正当に自分に付けることができたでしょうか。神のみ子イエス・キリストでさえ,そのような名前は採用されませんでした。「エホバは救い」という意味のエシュアすなわちイエスというような,神の名と結合した名前をもらうことはできましたが,エホバという名前を全くそのままでもらうこと
-