舌は善悪二様の力を持つ
「あなたがたに言うが,審判の日には,人はその語る無益な言葉に対して,言い開きをしなければならないであろう。あなたは,自分の言葉によって正しいとされ,自分の言葉によって罪ありとされるからである」― マタイ 12:36,37。
1,2 将来の生命は何に依存することがありますか。どうすればその結果を左右できますか
これを言われた時にイエスは伝道の書 12章14節にあるソロモンの次のことばを考えていられたのかもしれません。「神はすべてのわざ,ならびにすべての隠れたことを善悪ともにさばかれるからである」。これは人を考えさせます。ことばは人の将来の生命を決定するほど重要なものですか。そうとすれば,各人が自分を吟味するのは益のあることです。神の新しい事物の制度の下で生命を得るため,今から生活を律するのは,努力のかいがあることですか。
2 意義のある事柄のために努力するなら報いを得ます。捨てられる者とならないように,自分のからだを打ちたたいても服従させると語った使徒パウロの手本を思い起こしてください。「人の道は自身によるのではなく,歩む人が,その歩みを自分で決めることのできない」ゆえに,わたしたちは導きを求めなければなりません。(エレミヤ 10:23)この導きは霊感による神のことば聖書です。「心をつくして〔エホバ〕に信頼せよ,自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ,そうすれば,主はあなたの道をまっすぐにされる」。(箴言 3:5,6,〔文語〕)神の導きを得るとき,正しく語り,理知をもって舌を制し,「すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」ることができます。―コリント第二 10:5。
3,4 ヤコブは会衆内のどんな状態を憂慮しましたか。その原因を何に帰することができましたか。
3 これがどれほど大きな仕事かを知るため,弟子ヤコブが「制しにくい悪」について述べている事柄を考慮してください。(ヤコブ 3:8)ヤコブは舌の力を知り,それが善悪二様の感化を与え得ることを理解していました。エルサレム会衆の監督であり,初期会衆の統治体の成員であったヤコブは,ちょうど使徒パウロが,争いとねたみ,怒り,論争,悪口,不満,うぬぼれその他,無秩序の状態におかれていたコリント会衆のことを心配したのと同様,諸会衆の内紛を気づかっていました。(コリント第二 12:20)そこでヤコブは「離散している十二部族の人々」に対し,すべての汚れ,道徳上の悪,階級差別,つまずきを起こさせるものを除く必要を考慮するように促しています。―ヤコブ 1:1,21; 2:4,9。
4 ヤコブは人間の不完全さ,つまずきやすい生来の傾向をまず認めることをすすめ,次のように述べています。「もし,言葉の上であやまちのない人があれば,そういう人は,全身をも制御することのできる完全な人である。馬を御するために,その口にくつわをはめるなら,その全身を引きまわすことができる。また船を見るがよい。船体が非常に大きく,また激しい風に吹きまくられても,ごく小さなかじ一つで,操縦者の思いのままに運転される。それと同じく,舌は小さな器官ではあるが,よく大言壮語する…舌は火である。不義の世界である。舌は,わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが,全身を汚し,生存の車輪を燃や(す)」。ついでヤコブは矛盾を蔵したこの小さな器官である舌の働きについて,こう述べています,「わたしたちは,この舌で父なる〔エホバ〕をさんびし,また,その同じ舌で,神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から,さんびとのろいとが出て来る」。確かに舌には善悪二様の力があります。―ヤコブ 3:2-6,9,10,〔新世訳〕。
5,6 (イ)各人はどんなことを自問できますか。(ロ)舌を制することによって,どんな恵みが得られますか。
5 このことばを読むと,なるほどそのような“二枚舌”の人もいるという考えが浮かぶかもしれません。しかしヤコブのことばの意味を深く考えると,それはあなたにもあてはまるのではありませんか。あなたは例外ですか。舌をおさえることができなくて,山火事のようにならせ,他の人や自分にも害を与えたことはありませんか。隣人愛や神の愛を反映するために舌を使うのを忘れたことはありませんか。つまり同じ舌で,ある時には神をほめ,他の時には人をしかりつけたりしませんか。神をのろったり,他の人について無礼なことを語って神の御名を悪く用いたりすることはありませんか。これらは心をさぐる質問です。しかしそれらを心にとめてください。その重要さをみくびることはできません。
6 不完全だからといっていつも同じあやまちをくり返すことは正しくありません。そのような人の仕事は,やとい主にとっても無益に近いものです。それで「言葉が多ければ,とがを免れない,自分のくちびるを制する者は知恵がある。正しい者の舌は精銀である,悪しき者の心は価値が少ない。正しい者のくちびるは多くの人を養い,愚かな者は知恵[正しい動機]がなくて死ぬ」と述べられています。ゆえにあやまちを恐れて口をつぐむべきではありませんが,舌を常に制する決意が必要です。「多くの人を養」う牧者として,今日,神から大きな誉れを与えられている人々に関して,とくにこのことは大切です。―箴言 10:19-22。
7 (イ)多くの人は悪いどんな行ないを習慣にしていますか。(ロ)どうすればそれを避けられますか。
7 どこにおいても健全なことばがおろそかにされている今日,罪深い人間が舌をいつも制するのは困難なことです。多くの人はともすると同じようなことばでやり返します。(箴言 24:29)落ちついて考えれば,それは自分がふだん快く思っていない低い程度にまで自分をおとすことであるのに,怒りのために舌をおさえることができなくなるのです。怒る人はその気持ちを口に出してしまい,ことばに気をつけることができなくなります。ダビデは憤りをもよおさせる仕打ちを何回もされました。彼は怒りをぶちまけましたか。彼は次のように述べています。「わたしは言った,『舌をもって罪を犯さないために,わたしの道を慎み,悪しき者のわたしの前にある間はわたしの口にくつわをかけよう』と」。(詩 39:1)ダビデは人間の罪深い傾向を知っていました。「わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」。それゆえに助けを祈り求めています,「エホバよねがはくはわが口に門守をおきて わがくちびるの戸をまもりたまへ」。(詩 51:5; 141:3,文語)わたしたちも舌をおさえる努力をすることができ,またそうしなければなりません。それだけでなく,「人の道は自身によるのではなく,歩む人が,その歩みを自分で決めることのできないこと」を認め,御心を行なわさせてくださるようエホバに祈らねばなりません。―エレミヤ 10:23。
舌にくつわをかける
8 (イ)どんなことを習慣にしないようにすべきですか。なぜですか。(ロ)人はどのように自分の本性を表わしますか。
8 このように舌をおさえたからといって,口がきけなくなるわけではありません。それはことばを清いものにするのに役だちます。世の人との長い交わりのため,少し話すと,すぐに悪いことばが出て困ると言う人がいます。悪いことばが酒や麻薬,タバコのように根強い習慣になってしまったのです。それで神やイエスのことを語るのに“ぞんざいな”ことば,また使いなれている俗語がいけないとなると,口がきけないように感じます。これは悪いことばが習慣になっている人にとって不名誉であるばかりか,舌の創造者エホバ神に不名誉なことです。神の御名をふさわしくない方法で口にすることが神を悲しませるのを知っていながら,それを簡単にあしらって,改めることを怠りますか。次のことを心にとめてください。「あなたは,あなたの神,主の名を,みだりに唱えてはならない。主は,み名をみだりに唱えるものを,罰しないでは置かないであろう」。(出エジプト 20:7)悪いことばを使うことに何かよさがあるという事はありません。悪いことばをいつも使う人は自分で気づかなくても,自分がどんな者かを表明しているのです。それは誇りにするようなことではありません。「彼らは高慢な言葉を吐き散らし,すべて不義を行う者はみずから高ぶります」― 詩 94:4。
9 聖書は,今日,クリスチャンが舌を制しなければならないどんな理由を述べていますか。
9 クリスチャンは「キリストの使者」となり,「星のようにこの世に輝」き,「暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを…語り伝え」,「世の光」となる権威を授けられています。(コリント第二 5:20。ピリピ 2:15。ペテロ第一 2:9。マタイ 5:14)この大きな誉れにふさわしい者となるため,小さくてしかも重要な器官である舌を厳重におさえ,神への奉仕において舌を使う目的をむなしくしないようにすべきです。今日,クリスチャンのことばと行ないはその伝える音信,そしてクリスチャンが代表している神に良くも悪くも反映します。建てられた神の御国の福音を伝え,光を掲げる者として,神に栄光を帰するには正しく光を掲げねばなりません。「あなたがたの光を人々の前に輝かし,そして,人々があなたがたのよいおこないを見て,天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」― マタイ 5:16。
10 友人の選択に注意することは,今日なぜ大切ですか,
10 ある人は思うままになんでもしゃべって,たとえそれが親しい友人に不利な影響を与えようと,自分のことばのもたらす結果に頓着しないように見えます。このような人を避けなければなりません。このように無分別な人と交わっていると,悪い感化を受けるおそれさえあります。悪い交わりは良いならわしをそこない,悪いことばのやりとりは礼儀を失わせ,悪友は道徳をそこないます。(コリント第一 15:33)それで友人の選択には注意しなければなりません。「イエスによって,さんびのいけにえ,すなわち,彼の御名をたたえるくちびるの実を,たえず神にささげ」ることを決意している人々を友にしてはいかがですか。―ヘブル 13:15。
11 (イ)無分別で気ままなことばは,どんな結果になることがありますか。(ロ)ことばによって人を傷つけた時,どのように,そしていつそれを直すことができますか。
11 「失礼しました」「そんなつもりではありませんでした」「つい,口をすべらしました」「考えが足りませんでした」。このような言いわけは,舌をおさえなかったために,はからずも加えた傷をある程度までいやすのに役だちます。しかし口に出す前に考え,心が舌を導いて建設的なことばを語らせるならば,そのほうがはるかに良いではありませんか。無考えなことばは,大きな害を与えます。気ままなことばは,たいてい無考えなことばです。それは不一致,分裂,心痛のもとになります。神と隣人を愛することを教えた二つの大きな戒めを守ろうとする人は,舌にくつわをかけなければなりません。しかし無考えなことばのために思いがけず他の人を傷つけたなら,誇りを捨てて謝罪し,許しを求めるだけの謙遜さが必要です。互いの仲が気まずくなるのを放置すべきではありません。それをさっそくいやすのが当然です。怒りを,日の没するまでつづけてはなりません。無分別なことばに対してつぐないをするのは良いことです。深くなるおそれのある傷をいやすだけでなく,神に対しても相手の人に対しても清い良心を持つことができます。―エペソ 4:26。使行 24:16。エペソ 4:31,32。マタイ 5:22。
12,13 (イ)クリスチャンは「甘言」や「二枚舌」をなぜ使ってはなりませんか。(ロ)「甘言」に耳を傾けることはどのように危険ですか。
12 今はダビデの次のことばが預言的に示していた時代です。「神を敬う人は絶え,忠信な者は人の子らのなかから消えうせました。人はみなその隣り人に偽りを語り,へつらいのくちびると,ふたごころとをもって語る。〔エホバ〕はすべてのへつらいのくるびる……を断たれるように。彼らは言う,『わたしたちは舌をもって勝を得よう,わたしたちのくちびるはわたしたちのものだ,だれがわたしたちの主人であるか』と」。(詩 12:1-4,〔文語〕)今日,「ふたごころ」を持つ人は,紀元前617年,しるしだけの数の人々がバビロンに連れ去られてのち,エルサレムになお残された不忠実な祭司や長老のようです。彼らの誇り,また異教の憎むべき偽りの崇拝を行なっていながらそれを正当化しようとした彼らの企ては,エゼキエルによって記録されています。「エホバは我らを見ず」。(エゼキエル書 第8,9章)ペテロはこのようなふたごころと二枚舌をいましめて次のように助言しています。「いのちを愛し,さいわいな日々を過ごそうと願う人は,舌を制して悪を言わず,くちびるを閉じて偽りを語らず」。(ペテロ第一 3:10)これは箴言 4章24節にあるソロモンのことばを繰り返したものです。「曲った言葉をあなたから捨てさり,よこしまな談話をあなたから遠ざけよ」。「二枚舌」を使わないことは,クリスチャン会衆の補佐のしもべたちに対する要求の一つです。甘言や美辞,敬虔ぶったあいさつの言葉は純朴な人々の心を欺くために用いられます。―テモテ第一 3:8。ローマ 16:18。マタイ 23:6,7。
13 今日,多くの人は耳ざわりの良い事柄を聞こうとします。“楽な宗教”が好まれます。人々は安心立命の感を与える事柄を聞くことを望み,責任感に目ざめさせるような事柄を聞くことを必ずしも好みません。パウロは「人々が健全な教に耐えられなくなり,耳ざわりのよい話をしてもらおうとして,自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め,そして真理からは耳をそむけ」る時がくると述べました。(テモテ第二 4:3,4)ゆえに甘言を弄する人,耳ざわりのよい話に終始する人に警戒しなければなりません。「その口は牛酪よりなめらかだが,その心には戦いがある。その言葉は油よりもやわらかだが,それは抜いたつるぎである」。それはいやせない害を与えるかもしれません。ダビデは詩篇 55篇21節に記録されたこのことばを良く述べることができました。イエスの時代にも(イザヤの時代と同じく)このようなことばが聞かれたので,イエスは預言者イザヤをとおして告げられた神のことばを引用して,それを非とされました。「この民は,口さきではわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え,無意味にわたしを拝んでいる」― マタイ 15:8。イザヤ 29:13。
舌を積極的に善用する
14 舌を制することには何が含まれていますか。
14 舌を制するとは,神と人を汚すことばを口から出さないというだけのことではありません。間違いをしないでいれば上役からよく見られるというわけではないのと同じです。ゆえに積極的な面があります。舌を制するとは創造者に誉れとなり,自分にも人にも名誉となるように舌を使うことです。エホバ神の御名,主権,御国を支持するために舌を使うのは,大事なことです。クリスチャンはそれをするために毎日いくらかの時間をとることを決心しなければなりません。それを決意すべき時は今です。今ほどの好機会はありません。―コロサイ 4:5,6。
15 どんないろいろな面で,舌はいやす働きをしますか。
15 今日,生活のほとんどあらゆる分野において,建て起こすために舌を使うことができます。「おりにかなって語る言葉は,銀の彫り物に金のりんごをはめたようだ」。(箴言 25:11)「つるぎをもって刺すように,みだりに言葉を出す者がある,しかし知恵ある人の舌は人をいやす」。(箴言 12:18)舌を完全に制することは,現存する悪の事物の制度の下において不可能かもしれません。しかし舌を用いていやすわざを,現在行なっている以上にすすめることは,たいていの人にとって可能です。家庭においてもだれかが病気の時,あるいはけがをした時,悲しみの時,健康や安全,失敗などについて心配事のある時,いやす力のあることばを出すことができます。他の人からきらわれるのを心配したり,孤独を恐れる人を慰めることもできます。洞察力のある人は価値ある事柄を語り,心配事を克服するのを援助できます。「心に憂いがあればその人をかがませる,しかし親切な言葉はその人を喜ばせる」― 箴言 12:25。
16 真の慰めはどのようにする時にのみ与えられますか。どうしてですか。
16 医者が治癒あるいは回復をもたらす方法を知らなければ,医者の役にたちません。それと同じく,必要とする人々に「福音」を伝える方法を知らなければ,語ることができません。それで舌を制するとは,舌を効果的に用いることです。神のことば聖書を熱心に学ぶことは大きな報いをもたらします。あらゆる慰めの神のことばである聖書は,真の慰めの唯一の源です。舌を制して善用するには,エホバ神の導きを求めなければなりません。預言者イザヤはイザヤ書 50章4節(文語)にこう述べました。「主エホバは教をうけしものの舌をわれにあたへ言をもて疲れたるものを扶支ふることを知得しめたまふ」。疲れた者を慰めるには,教えを受けた者の舌が必要であり,エホバにそれを求めることができます。正しい者の祈りはエホバに喜ばれます。「義人の祈は,大いに力があり,効果のあるものである」。このような祈りは働くものであり,わざを伴っていなければなりません。―ヤコブ 5:16; 2:14-26。
17 舌を正しく導くものはなんですか。
17 舌を正しく用いるには心を教育しなければなりません。真理で心を養うことが必要です。また神の活動力すなわち聖霊によって心が導かれるならば,舌は「エホバの言」を語ります。「エホバの言はきよきことばなり地にまうけたる爐にてねり七次きよめたる白銀のごとし」。(詩 12:6,文語)今日,神の導きを祈り求め,それを受け入れ,エホバに仕えるために献身した人々がいます。「エホバよなんぢの大路をわれにしめしなんぢの径をわれにをしへたまへ我をなんぢの真理にみちびき我ををしへたまへ汝はわがすくひの神なり」と,彼らは願いました。(詩 25:4,5,文語)そこで彼らは神を喜ばせる事柄をするために時間,力,自分たちの持つものを使います。彼らの組織は語る者から成っています。彼らは舌を制するために努力しますが,沈黙することはありません。舌を使わなければ,彼らはかえって当惑するばかりか,自分たちの使命に対して不忠実となります。(コリント第一 9:16)ゆえに彼らは理知をもって賛美することの必要を悟っています。それで聖書を研究するのです。
18 会衆での研究はどのように大切ですか。しかし神の崇拝の一部としてほかにも何が必要ですか。
18 神に受け入れられる崇拝をするには,聖書を研究しなければなりません。個人的な研究はぜひとも必要ですが,それだけでは不十分です。そこでエホバの証人は,(政治的であると宗教的であるとを問わず,神に敵対する悪魔的な支配者が全体主義的な法律によって集会を禁止している国を除き)全世界で週に5回の集会を開いて神のことばを一緒に学び,また神を賛美するために舌を正しく用いることを学んでいます。神の崇拝には集まる以上のことが関係しています。神の是認を得るには,単に音信を聞くだけでなく,それに従って行動しなければなりません。舌を制することと神の崇拝とはこうして密接に関連しています。神のしもべは家庭で家族そろって,友人との交際において,職場で,学校で,遊びの時にも,日毎に神を賛美しなければなりません。神を賛美するために舌を正しく使うことを,一時的にしてもやめることはできないのです。「わたしたちは,全世界にも,天使にも人々にも見せ物にされた」ことを忘れてはなりません。―コリント第一 4:9。ヤコブ 1:22。
19,20 (イ)特に喜ばしい舌の用い方について述べない。(ロ)援助を受けた人々には,避けられないどんな責任がありますか。
19 戸別訪問による宣教において日毎に神を賛美することも,見のがせません。このことに舌を用いるのは大きな喜びと報いをもたらします。このような奉仕において舌はためされ,また善のための真の力となります。心の正しい人々は神の恵みを得るために何をすべきか,どうすれば「善意の人」となって生命が得られるかを知ろうとしています。エホバの証人は「いのちの言葉」をこのような人々のもとに携え,家庭で一緒に聖書を学び,生命の道を歩むためにどうすべきかを示して,生命を救うわざを行なっており,その特権に喜んでいます。イエスを捕えるためにつかわされた者たちが,この人のように語った者はいませんと報告したのと同じように人々が語るのも当然です。それは人々がふだん聞いている事柄と全く異なっています。
20 義にかわく,心の正しい人は,援助を受けて真理の正確な知識を学ぶと,受けたいま,今度は与える責任があることを悟ります。イエスが言われたように,それは喜ばしい特権です。(使行 20:35)ソロモンの次のことばがその人々にあてはまります。「あなたの手に善をなす力があるならば,これをなすべき人になすことをさし控えてはならない。あなたが物を持っている時,その隣り人に向かい,『去って,また来なさい。あす,それをあげよう』と言ってはならない」。(箴言 3:27,28)どんな理由であれ,生命に通ずる知識を与えずに口をとざしていることは,その知識を与えなかった人と与えられなかった人の両方が生命を得そこなう結果となります。しかし舌を正しく用いるならば,両方の人が生命を得ます。「『〔エホバ〕が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは,わたしに対してかがみ,すべての舌は,神にさんびをささげるであろう』と書いてある。だから,わたしたちひとりびとりは,神に対して自分の言いひらきをすべきである」― ローマ 14:11,12,〔新世訳〕。
21 さらにどんな援助が与えられていますか。
21 今日,人は神を喜ばせるために必要な真理を聖書から掘り出す能力を持たなくても,悲観する必要はありません。エホバは時期にかなった霊的食物を備えさせるため,「忠実な思慮深い僕」の組織を地上に持たれています。(マタイ 24:45-47)この組織は今日,全世界2万4900の会衆を傘下におさめています。あなたのお近くにも会衆があります。その集会の場所には「エホバの証人の御国会館」という名前が掲げられています。この組織はあらゆる国の人々を援助するため,166か国語で聖書研究の手引きを出版しており,また71か国語で現在495万部の「ものみの塔」誌を発行しています。それに加えてこの組織と交わる110万人以上の人々は,宇宙の至上主権者エホバ神をほめるために舌を用い,隣人愛を示すわざに忙しく励んでいます。天の父を知り,「救われて,真理を悟る」ように人々を助けるため,あらゆる人種,言語また宗教の人々をたゆまず訪問することが行なわれています。それは隣人愛の表われです。(テモテ第一 2:4)このように援助するためにこの人々がおとずれたならば,迎え入れてください。
22 アダムとエバはどんな致命的あやまちをしましたか。ゆえに今日すべての人は何をすることを決意すべきですか。
22 人類共通の親アダムとエバは,神のかたちとさまに造られ,創造者をほめるために完全に舌を用いる能力を疑いなく持っていたにもかかわらず,舌を誤用した偽りの元祖,悪魔の側について創造者の名誉を汚しました。ふたりは生命の権利を失いました。神から授けられた器官である舌を正しく用いる特権が,今日の人間にさしのべられています。真理を求めるすべての人は,言語能力をも含めあらゆる良い賜物の与え主であられるエホバを認め,自分のすべてをエホバにささげねばなりません。義の永遠の御国が治める神の新しい秩序は,目前に迫っています。その新しい秩序の下で「息のあるすべてのもの」はエホバをほめるでしょう。(詩 150:6)逆に言うと,ほめない者は息のあるもののうちにはいることができません。今は創造者をほめるために舌を用いる「恵みの時」です。(コリント第二 6:2)各人の祈りは次のようなものでなければなりません。「エホバわが磐わが贖主よ わがくちの言わがこゝろの思念なんぢのまへに悦ばるゝことを得しめたまへ」― 詩 19:14,文語。