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神のみ名と「新約聖書」神のみ名は永久に存続する
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語聖書の筆者たちがそれ以前のヘブライ語聖書から引用している箇所では,ヘブライ語原文に神のみ名の出ている部分のキュリオスという語を「エホバ」と訳す権利が翻訳者にはあります。
そのようにした翻訳者は少なくありません。遅くとも14世紀から,クリスチャン・ギリシャ語聖書のヘブライ語訳が数多く作られてきました。神のみ名の出ている「旧約聖書」の引用句について,翻訳者たちはどのようにしたでしょうか。多くの場合,神のみ名を本文に復元せざるを得ないと感じました。クリスチャン・ギリシャ語聖書の一部または全巻のヘブライ語訳の多くが神のみ名を含んでいます。
さまざまな現代語訳の聖書,特に宣教師たちが用いる聖書はこの範に倣いました。「エホバ」のみ名を用いている日本語版の聖書としてはナタン・ブラウンによるギリシャ語聖書の翻訳,1906年版があります。その中では,他の翻訳者たちが「主」という語を用いている多くの場所に「エホバ」のみ名が添え書きされています。
正当な権威のもとに神のみ名を大胆に復元している翻訳の一つはクリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳です。日本語を初め,現代の11の言語で現在入手できるこの訳は,ヘブライ語聖書中の神のみ名を含む句がギリシャ語聖書に引用されているすべての箇所で神のみ名を復元しています。ギリシャ語聖書のこの翻訳では,確かな根拠に基づいて合計237回み名が出てきます。
み名に対する反対
聖書中に神のみ名を復元しようとする多くの翻訳者の努力にもかかわらず,み名を消し去ろうとする宗教的圧力も常に存在してきました。ユダヤ人は,み名を聖書にとどめてはいましたが,それを発音しようとしませんでした。西暦二,三世紀の背教したクリスチャンたちは,ギリシャ語聖書の写本の写しを作る際にみ名を取り除き,聖書の翻訳を行なった時にもみ名を省いてしまいました。現代の翻訳者たちは,み名が7,000回近く出ているヘブライ語原文に基づいて翻訳する場合でも,み名を除き去ってしまいました。(新世界訳聖書,英文1984年版のヘブライ語聖書部分には,み名が6,973回出ています。)
エホバは,聖書からご自分のお名前を除く人々をどう見ておられるでしょうか。もしもあなたが何かの本の著者であるなら,あなたの著わした書物からあなたの名前を除き去ってしまうようなことをする人についてどう感じるでしょうか。発音上の問題を理由にしたり,ユダヤ人の伝統を盾に取ったりしてみ名に異議を唱える翻訳者たちは,イエスが言われた,「ぶよは濾し取りながら,らくだを呑み込む者たち」と比較されるでしょう。(マタイ 23:24)彼らはこれら小さな問題につまずき,かえって大きな問題を作り出しています。宇宙で最も偉大な方のお名前をその方の霊感による書物から取り除くという行為によって問題を引き起こしているのです。
詩編作者は次のように書きました。「神よ,いつまで敵対者はそしり続けるのですか。敵はあなたのみ名を永久に不敬な仕方で扱うのですか」― 詩編 74:10。
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神のみ名を知らなければならない理由神のみ名は永久に存続する
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神のみ名を知らなければならない理由
「エホバの名を呼び求める者はみな救われる」。(ローマ 10:13)使徒パウロはこのように述べて,神のみ名を知ることがいかに重要であるかを強調しました。パウロのこの言葉は最初に取り上げた質問にわたしたちの注意を再び向けさせます。その質問は,ほかにさまざまの重要な事柄があるのに,なぜイエスは模範となるその祈りの冒頭で,それらすべてよりも先に,神のみ名が『あがめられる』こと,つまり神聖なものとされることを求めたのだろうかというものでした。これを理解するために,かぎとなる二つの言葉の意味をもう少し正確に把握する必要があります。
まず,『あがめる』,もしくは『神聖なものとする』という言葉は実際には何を意味しているのでしょうか。その言葉には字義的には,「聖なるものとする」という意味があります。しかし,神のみ名は既に聖なるものではないのですか。もちろん,聖なるものです。わたしたちが神のみ名を神聖なものとすると言っても,それによってみ名をいっそう聖なるものにするというのではありません。むしろそれは,わたしたちがみ名を聖なるものとして認め,それを取り分け,最大の敬意を込めて扱うことを意味します。神のみ名が神聖なものとされるよう祈り求める時,わたしたちは,被造物すべてがみ名を聖なるものとして敬う時が訪れることを望み見ているのです。
第二の点として,「名」という言葉には厳密に言ってどのような意味が含まれているのでしょうか。神にはエホバというお名前があり,聖書中にそのみ名は幾千回となく出てくることを知りました。また,み名を聖書本文中の正当な箇所に復元することの重要性についても論じてきました。み名が記されていなければ,詩編作者の次の言葉はどのように成就されるのでしょうか。「あなたのみ名を知る者たちはあなたに依り頼みます。エホバよ,あなたはご自分を捜し求める者たちを決して捨てられないからです」― 詩編 9:10。
しかし,『神のみ名を知ること』には,神のみ名がヘブライ語でYHWH,日本語ではエホバであるという知識を単に頭の中に持つことだけが関係しているのではありません。それよりさらに多くのことを意味しています。モーセがシナイ山にいた時,「エホバは雲のうちにあって下って来られ,[モーセ]と共にそこに立ち,エホバの名を宣明され」ました。エホバのみ名のこの宣明には何が伴っていたでしょうか。エホバの特質に関する次の描写が伴っていました。「エホバ,エホバ,憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神」。(出エジプト記 34:5,6)モーセは,死ぬ少し前にも,イスラエルの人々に向かって,『わたしはエホバの名をふれ告げる』と語りました。続いて何が語られたでしょうか。エホバの偉大な属性のことが幾つか述べられ,次いで神がご自分のみ名のためにイスラエルに対して行なわれた事柄が回顧されました。(申命記 32:3-43)このように,神のみ名を知ることは,み名が表わす事柄を学び,そのみ名を持たれる神を崇拝することを意味します。
エホバがみ名をご自分の特質や目的,行ないと結びつけておられることから,聖書が,神のみ名は聖なるものであると述べている理由が分かります。(レビ記 22:32)そのみ名は威光を帯びており,大いなるもので,畏怖の念を起こさせ,達しがたいまでに高いのです。(詩編 8:1; 99:3; 148:13)正しく,神のみ名は単なるラベル以上のものです。それは神を人格的存在として示しています。それは一時期用いられ,次いで「主」などの称号に取って代わられるべき単なる一時的な名前ではなかったのです。エホバご自身がモーセにこう言われました。「『エホバ……』。これは定めのない時に至るわたしの名,代々にわたるわたしの記念である」― 出エジプト記 3:15。
人間がたとえ試みたとしても,神のみ名を地上から消し去ることはできません。次のように記されているからです。「『日の昇る所から日の沈む所に至るまで,わたしの名は諸国民の間で大いなるものとなり,あらゆる所で犠牲の煙が上り,進物,すなわち清い供え物がわたしの名に対してささげられるようになるのである。わたしの名は諸国民の間で大いなるものとなるからである』と,万軍のエホバは言われた」― マラキ 1:11。出エジプト記 9:16。エゼキエル 36:23。
ですから,神のみ名が神聖なものとされることは他のいかなる問題よりはるかに重要です。神の目的すべてはそのみ名と結びついています。人間の抱える諸問題は,サタンがエホバを事実上,偽り者と呼び,人類を治めるにはふさわしくないと主張して,最初にそのみ名を汚した時に始まりました。(創世記 3:1-6。ヨハネ 8:44)神のみ名が正しく立証されて初めて,人間は,サタンの偽りがもたらした悲惨な影響からの完全な安らぎを享受できるのです。それゆえにこそクリスチャンは,神のみ名が神聖なものとされることを熱烈に祈り求めます。しかし,み名を神聖なものとするためにクリスチャンに行なえる事がほかにもあります。
どうすれば神のみ名を神聖なものとすることができるか
一つの方法は,他の人々にエホバについて語り,キリスト・イエスによるその王国を人類の唯一の希望として示すことです。(啓示 12:10)大勢の人がそのようにして,イザヤの次の預言の言葉を現代において成就しています。「そして,その日,あなた方は必ず言う,『あなた方はエホバに感謝せよ! そのみ名を呼び求めよ。もろもろの民の中にその行ないを知らせよ。そのみ名の高く上げられることを語り告げよ。エホバに調べを奏でよ。見事にことを行なわれたからだ。これは全地に知らされている』」― イザヤ 12:4,5。
別の方法は神の律法と命令に従うことです。エホバはイスラエル国民に次のように告げました。「あなた方はわたしのおきてを守って,それを行なうように。わたしはエホバである。そして,あなた方はわたしの聖なる名を汚してはならない。わたしはイスラエルの子らの中にあって神聖なものとされなければならない。わたしはエホバ,あなた方を神聖にしている者であ(る)」― レビ記 22:31,32。
イスラエル人がエホバの律法を守ることは,どのようにそのみ名を神聖なものとすることになったでしょうか。律法はみ名に基づいてイスラエル人に与えられました。(出エジプト記 20:2-17)ですから,律法を守る時,そのみ名に対してふさわしい誉れと敬意を示していたことになります。さらに,エホバのみ名が一国民としてのイスラエル人の上に置かれていました。(申命記 28:10。歴代第二 7:14)正しく振る舞う子供が父親に誉れをもたらすのと同様,彼らが正しく行動するとき,それによって神に賛美がもたらされました。
一方,イスラエル人が神の律法を守らないとき,
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