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  • 驚くべき新しい証拠が明るみに出る
    ものみの塔 1978 | 8月1日
    • 語を話すユダヤ人の間でこの訳の聖書が広く用いられていました。使徒たちの書き残した書物の言葉遣いから,彼らがセプトゥアギンタ訳に通じていたことが分かります。そして,イエスもその訳に通じていたに違いありません。

      しかし,そのギリシャ語訳には神のみ名が出ていたでしょうか。西暦四世紀のものと思われる,現存するセプトゥアギンタ訳の最も完全な形の写本は,驚くべき事態を明らかにしています。ヘブライ語聖書の中でテトラグラマトンの現われる箇所すべてに,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳は「神」(セオス)または「主」(キリオス)という語を入れているのです。ですから,イエスとその使徒たちは神のみ名を使わなかったというのが学界の見解となってきました。ヘブライ語で聖書を読んだり,そこから引用したりする際には,イエスや使徒たちも習慣に従って,神のみ名の代わりに「主」または「神」に相当する語を口に出したと言われていました。そして,イエスや使徒たちの用いたセプトゥアギンタ訳の写本には,神のみ名さえ出ていなかったとされています。

      大抵の神学者たちは,この見解に確信を抱いてつき従ってきました。しかし,恐怖の洞窟から得られた手がかりについてはどんなことが言えるでしょうか。

      ユダヤからの手がかり

      ユダの荒野にある恐怖の洞窟の中で,イエスが生まれたころに書かれた巻き物の一部であった12預言者の断片が見いだされたことを思い起こしましょう。それはセプトゥアギンタ訳の形式を取っており,ギリシャ語で書かれていました。しかし,神のみ名はどうなっていましたか。ここに掲げた写真をご覧ください。

      ユダの荒野で発見されたこれらの断片には,ヘブライ語の古い表記法で神のみ名が書かれていたのです。本文はギリシャ語で書かれてはいるものの,ヘブライ文字で書かれた神のみ名は残されていました。後代のセプトゥアギンタ訳の写本とは異なり,ギリシャ語の称号キリオスがテトラグラマトンに取って代わるというようなことはありませんでした。

      その後,さらに近年になって,別の重要な手がかりが脚光を浴びました。これも,あなたの聖書に神のみ名が出ているべきかどうか,またそれゆえあなたもその名を用いるべきかどうか,ということと重大な関係があります。

      エジプトからの手がかり

      この手がかりは,博物館目録でフォウアド・パピリ266番と呼ばれる,申命記の古代パピルスの巻き物の断片から成っています。これらの断片は,1940年代に発見されましたが,学界の人々が研究のために使用することはできませんでした。

      1950年に,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」が,これらの珍しい断片の写真の数々を初めて公にしました。それでもなお,1950年代,および1960年代を通じて,ほとんどの専門家たちはその断片を利用することができず,学術的な出版物でその写真を転載したり,その断片すべての分析を行なったりした書物はほかにありませんでした。そしてついに,「パピルス学の研究」の1971年の巻がその分析を行なったのです。

      フォウアド266番パピリは西暦前二世紀ないし一世紀に作成されました。それらはヘブライ語ではなく,ギリシャ語で書かれていました。下に転載したフォウアド266番に見られる文字をご覧になってください。本文はギリシャ語で書かれていますが,テトラグラマトンは角ばったヘブライ語文字で書かれているのがお分かりになりますか。

      ですから,このパピルスの巻き物を写した写字生も,テトラグラマトンの代わりに「主」(キリオス)あるいは「神」に相当するギリシャ語を入れることをしていません。むしろ,30回以上にわたって,この写字生はギリシャ語の文のただ中に,ヘブライ語でテトラグラマトンの文字を入れたのです。

      オックスフォードのパウル・E・カール博士は,これらの断片の中に,「現存する申命記のセプトゥアギンタ本文としては最も完全と言って良いもの」が残されている,と説明しています。また,「教父著作の研究」と題する本の中で,同博士は次のように付け加えています。「ここにあるパピルスの巻き物の中に,バチカン写本よりも信頼できる形のセプトゥアギンタの本文を代表し,バチカン写本よりも400年余り昔に書かれた,ギリシャ語本文が収められている」。そしてこの断片には,ユダの荒野で見いだされた12預言書のギリシャ語断片の場合と同様,神の固有の名が残されていました。両者はこの点で一致しています。

      聖書文献ジャーナル誌(第79巻111-118ページ)の中で,カール博士は,ユダヤ人の間で神のみ名が使われていたことを示す,積み重なる証拠を調べた後,次のような結論に達しました。

      「クリスチャン時代以前のユダヤ人のために,ユダヤ人によって訳されたギリシャ語訳の聖書すべては,神の名として,ヘブライ語文字のテトラグラマトンを用いていたに違いない。そして,[セプトゥアギンタ訳の]クリスチャンによる写本に見られるように,[キリオス]およびその略号が使われるようなことはなかった」。

      神のみ名を選び出し,細心の注意を払って保存してきた事実は,一世紀前後のヘブライ語本文にさえ表われています。死海沿岸の洞窟から発見されたヘブライ語の巻き物の中には,テトラグラマトンが赤インクで書かれていたり,識別しやすい古い書体のヘブライ語で書かれていたりするものがあります。この点に関して,J・P・シーゲルは次のように評しています。

      「20年以上も前にクムラン写本が発見された当初,その一層驚くべき特徴の一つは,幾つかの本文群の中に,古ヘブライ文字で書かれたテトラグラマトンが現われたことであった。……この習慣が神の名に対する深い敬意の念を象徴しているということは,ほぼ自明の理であると言える」― ヘブライ・ユニオン大学年報,1971年版。

      それに加えて,一世紀当時エルサレムには,テトラグラマトンを金文字で記した,モーセの五書のヘブライ語で書かれた巻き物があったと伝えられています。―イスラエル探検ジャーナル,第22巻,1972年版,39-43ページ。

      この新しい証拠は,イエスが聖書をギリシャ語あるいはヘブライ語のどちらで読んだとしても,彼が神のみ名をよく知っており,それを用いたということを強力に示すものではないでしょうか。

  • 神のみ名に関する新しい事実?
    ものみの塔 1978 | 8月1日
    • 神のみ名に関する新しい事実?

      前の記事の中では,イエスと使徒の時代における神のみ名の使用について,驚くべき新しい証拠をいくらか検討しました。

      この証拠がさし示す結論にお気づきですか。それは聖書の中に見いだされるはずのものとどう関係していますか。またあなた個人が神のみ名をどのように見るかにどう影響しますか。証拠となる写本を研究した,著名な一権威者の結論を考慮してください。

      1年余り前,ジョージア大学の宗教学準教授ジョージ・ハワードは,聖書文献ジャーナル(1977年第96巻第1号,63-83ページ)誌上において,問題の争点に取り組んでいます。その記事は冒頭で次のように述べています。

      「エジプトおよびユダヤ砂漠における最近の発見によって,キリスト教時代以前における神の名の使用を直接に見ることが可能となった」。

      次いで同教授はキリスト教時代以前のギリシャ語本文を論じています。それは読者が前のページでその写真をごらんになったものです。セプトゥアギンタ訳においてはギリシャ語の称号キリオスが常に神の名に代わって用いられたというのが従来の通説ですが,これに関して次のことが述べられています。

      「これらの発見物からほぼ絶対に確実な事として次のように言うことができる。すなわち従来の通説とは異なり,神の名יהוהは,キリスト教時代以前のギリシャ語聖書中において[キリオス]とは訳されていなかったのである」。

      死海写本の大部分についてはおおむね何と言えますか。ハワード教授は次のように書いています。

      「神の名は様々な形で使われており,その様式を観察した結果引き出せる,おそらく最も重要な結論は,テトラグラマトンがきわめて神聖視されたということである。…聖句自体の筆写に際してテトラグラマトンは注意深く保護された。テトラグラマトンを保護することは,聖書本文のギリシャ語訳でさえ行なわれた」。

      しかしイエスおよび弟子たちについてはどうか

      前述の事柄すべては学者の関心をとくにひくかもしれません。しかしそれはあなたの聖書とどんな関係がありますか。神ご自身のお名前を使うことに関してどんな見方を持つべきですか。

      ハワード教授は幾つかの重要な結論を引き出していますが,まず次の事を指摘しています。

      「ギリシャ語を話すユダヤ人が彼らのギリシャ語聖書中に引き続きיהוהと書き表わしたことを,我々は事実として知っている。そのうえ,ギリシャ語を話す,初期の保守的なユダヤ人のクリスチャンがこの習慣を変えたとはまず考えられない。…彼らが聖書本文自体からテトラグラマトンを追放するのは,きわめて異例なことであろう」。

      クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者は,原語のヘブライ語からにせよ,あるいはギリシャ語の翻訳からにせよ,ヘブライ語聖書から引用する際にどうしましたか。引用箇所にテトラグラマトンが書かれている場合,彼らはそれを使いましたか。このたび発掘された証拠に基づいて,ハワード教授は次のように説明しています。

      「初期教会の聖書はギリシャ語聖書の写本であるが,その中になおテトラグラマトンが書かれていた以上,新約聖書の筆者が聖書から引用するとき,聖書本文中にテトラグラマトンを保存したことは当然に考えられる。キリスト教時代以前のユダヤ人の習慣から類推すれば,新約聖書本文に引用された旧約聖書の聖句中にテトラグラマトンが取り入れられたことは想像に難くない」。

      では,現存する「新約聖書」の写本すべてがテトラグラマトンを欠いているのはなぜですか。神のみ名は,使徒たちの死後,除かれたのでしょうか。証拠はまさにその事を示しています。ハワード教授は次のように言葉を続けています。

      「もちろん,これら引用句中のテトラグラマトンは,それがクリスチャンのセプトゥアギンタ訳中に引き続き用いられていた間は存続したであろう。しかしそれがギリシャ語の旧約聖書から除かれた時,新約聖書中に引用された旧約聖書の聖句からもそれは除かれてしまった。

      「それで2世紀初めごろに,テトラグラマトンは,代用語[神の名に代わって用いられた語]のために新旧約両方の聖書から締め出されてしまったに違いない。まもなく神の名は,代用語の縮約された形の中に反映されたり,学者が時おり思い出したりする以外,異邦人の教会にとって全く忘れられたものとなった」。(傍線は発行者)

      これは新しい! はたしてそうか

      聖書文献ジャーナル誌を読んだ多くの学者は,そこに述べられた結論すなわち神のみ名エホバ(ヤハウェ)が,最初に書かれた時から“新約聖書”の中にあったということに驚きを感じたかもしれません。それは新しいことのように思われたかもしれません。それはクリスチャンの筆者が神のみ名の使用を避けたと言われてきた,今まで長い間の通説からの180度の転向であったからです。しかしそれは新しいことですか。

      早くも1796年の昔にドミニカス・フォン・ブレンターノは,彼の“新約聖書”ドイツ語訳の各所に神のみ名を用いています。例えば,ここに示したマルコ 12章29節を考えてみてください。イエスは,「いずれが第一の戒めですか」と問われていました。ブレンターノの翻訳は次のように続いています。「第一の戒めはこれですと,イエスは答えて言われた。イスラエルよ,聞きなさい。わたしたちの神エホバは唯一の神です」。

      29. Das allervornehmste Gebot, antwortete Jesus, ist dieß: Höre Israel! Jehovah, unser Gott, ist der einige Gott☆).

      ブレンターノは,イエスが神のみ名を発音されたことを示していますが,それには十分な理由がありましたか。そうです。なぜならイエスの言葉は申命記 6章4節の引用であり,そこにはテトラグラマトンが含まれているからです。確かにイエスはユダヤ人の宗教指導者の大多数とは異なり,言い伝えに束縛されてはいませんでした。イエスは「権威のある人のように教えておられ,彼らの書士たちのようではなかった」からです。(マタイ 7:29)キリストは,ご自分の父のみ名すなわち実際の名と,その名にかかわるすべての目的および成就の両方に栄光を帰したいとの願いを公に表明されました。(ヨハネ 12:28)そして地上の生涯の終わりごろ,父のみ名を知らせることをすでに成し遂げたと言われました。それで翻訳者ブレンターノは,神のみ名を含む聖句を引用した時のイエスが神のみ名を用いたと述べる論理的な根拠を有していたのです。―ヨハネ 17:6,26。

      同様にマタイの福音書の中だけでも,ヘブライ語聖書からの引用が100以上あります。1950年に「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」は,マタイについて次のように述べていました。「これらの引用句に神のみ名が含まれている場合,彼には忠実にテトラグラマトンを含める義務があったであろう」。

      1950年のこの翻訳は,後になって1977年の聖書文献ジャーナル誌上に述べられたものと,基本的に同じ結論に達していました。“新約聖書”の筆者が,ヘブライ語本文とギリシャ語セプトゥアギンタ訳のいずれから聖句を引用したにせよ,テトラグラマトンに出会ったことを示す証拠に照らして,新世界訳の序文は次のように述べていました。

      「マタイその他がヘブライ語聖書あるいはセプトゥアギンタ訳から節,句および表現を引用している場合,神のみ名が使われている箇所からの引用であれば,現代の翻訳者がその引用句の箇所に[「主」および「神」を意味するギリシャ語]に相当するものとして神のみ名を使うことは正当とされる」。

      それで1977年にハワード教授が述べている立場は,全く新しいものという訳ではありません。しかしそれは,1950年に「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」が“新約聖書”中に237回「エホバ」を用いた時には得られなかった,新しいすぐれた証拠に光をあてるものです。

      それで神のみ名は聖書の翻訳中に確かに存在すべきものです。イエスに倣って父のみ名を崇めたいと願い,また「天にいます我らの父よ,願くは,御名の崇められん事を」と祈るすべての人々が用い,認識するために,神のみ名はそこにあってしかるべきです。―マタイ 6:9,文。

      [9ページの写真]

      ナハル ヘベルから東側,死海をのぞむ

  • 早まった批判
    ものみの塔 1978 | 8月1日
    • 早まった批判

      1950年に「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」は,神のみ名を用いるに際してその事を裏づける証拠を提出しました。にもかかわらず,ある宗教著述家たちは,“新約聖書”中に「エホバ」という名前を入れたことに対して批判を加えました。こうして彼らは,次のように歌ったダビデとは異なる心の持ち主であることを示す記録をみずから残したのです。「わたしと共にエホバを大いなる方としてたたえよ,あなたがた民よ。そして共にそのみ名を高めよう」― 詩 34:3,新。詩 74:10,18と比べてください。

      ローマ・カトリック・コロンブス騎士会出版の一冊子は次のように攻撃しました ―

      「新約聖書を書いた初期クリスチャンは,確かに[エホバ]を使わず,『主』という語を用いた。これはキリストにも適用される語である。したがって,擁護できないものを擁護しようと試みるえせ学問の哀れむべき例をここに見る」。

      長老派教会の学者ブルース・M・メッツガーも“擁護できないもの”とそれを断じ,こうつけ加えました ―

      「『エホバ』という語を新約聖書の本文に取り入れることは…手前勝手な議論の典型である」。

      チャーチ・オブ・クライスト大学のジャック・P・ルイス教授は,「エホバ」を使用することについて次のように書きました ―

      「旧約聖書中においてさえ疑わしいのに,新約聖書においては全く正当化できることではない」。

      またバプテスト教会の牧師ウォルター・R・マーチンは侮辱的な言葉を述べました ―

      「エホバの証人の浅薄な学識…神の名(エホバ)を聖書に復元する十分な根拠があるという彼らの不遜な主張は…不誠実な学問的欺瞞であることが暴露されている」。

      このような批判はなんと大胆で独断的また無作法なものであったのでしょう。しかもこの号の他の記事が示しているように,これらの批判は全く根拠のないものでした。イエスの使徒たちが神のみ名を用いたこと,事実,“新約聖書”中にそれを含めたことは,今,学者たちの間でさえ認められつつあります。

  • 神学者は神のみ名につまずく
    ものみの塔 1978 | 8月1日
    • 神学者は神のみ名につまずく

      僧職者や神学の大家が神のみ名につまずくことがどうしてあり得たのでしょうか。

      まず,神のみ名を聖書から取り除いた結果,教義上の大きな間違いが生じたように思われます。前の記事の中で指摘されたとおり,明らかに「2世紀初めごろに」“新約聖書”中の神のみ名は「主」または「神」に置き換えられ始めました。

      ヘブライ語聖書中のエホバに関する聖句が“新約聖書”に引用され,それがみ子について語られている文脈の中で用いられている場合があります。(イザヤ 40:3 ― マタイ 3:3 ― ヨハネ 1:23。ヨエル 2:32 ― ローマ 10:13。詩 45:6,7 ― ヘブライ 1:8,9)これは理解できることです。なぜならイエスはみ父の第一の代表者であったからです。事実,同様にして天使でさえも,エホバであるかのように述べられた例があります。それは天使がエホバに代わって代表者の資格で仕えていたからです。(創世 18:1-33)しかし神のみ名を除くことはどんな結果になったと考えられますか。

      聖書文献ジャーナル誌は次のように述べています。

      「神とキリストとの人格の区別が明白であった多くの聖句において,テトラグラマトンを取り去ったことによって,その区別は著しく不明瞭なものとなったに違いない。…引用句中の神の名を変えることによって,ひとたび混乱が生ずると,同じ混乱は,引用句が全く関係していない新約聖書の他の部分にも波及した」。

      これが三位一体の教義の発展する一因であったことを明らかに認識したうえで,この記事は次のように問いかけています。

      「聖句のこのような再構成は,後代の教会内において[キリストの本質に関する]キリスト論論争が生ずる原因になったのではあるまいか。またこの論争の的となった新約聖書の句は,新約時代には何ら問題のなかった聖句と同一のものではなかったか。…[現在のキリスト論]研究は,第一世紀当時のままの新約聖書の聖句に基づいているだろうか。それとも教会史上,神とキリストの区別が聖句の上で混乱し,聖職者の思いの中で不明瞭になった時期を象徴する,改変された聖句に基づいているだろうか」。

      それで“新約聖書”から神の名を除くことは,元来,聖書に全く教えられていない三位一体の教義を後代になって受け入れる素地を作ったと考えられます。

      神学者にとって第二のつまずきの原因は,み名の発音と関係があります。それは通例YHWHあるいはJHVHと書き直されるヘブライ語の四つの子音で書かれています。古代イスラエルにおいて,人は昔から伝えられてきた発音を習い覚えるのが常でした。しかし西暦70年後のある時期に正確な発音は伝えられなくなったようです。後にユダヤ人の写字生が,読者の便宜のために母音符号を子音に付けた時,彼らはアドーナーイ(主)およびエローヒーム(神)を示す記号を用い,これから「エホバ」という形ができました。

      今日多くのヘブライ語学者は「ヤハウェ」という発音を好んで用いています。しかし今日では,例えばモーセが神のみ名をどのように発音したか,確信をもって実際に言える人はひとりもいません。

      ヴェタス・テスタメンタム(1962年10月)の中でE・C・B・マクローリン博士は次のように述べました。「繰り返して言うべきことであるが,神の名をはたしてヤハウェと発音したのかどうかを示す初期の決定的な証拠はない。しかしHū',Yah,Yo-,Yau-,-yahそしてたぶん-yoと発音したことを示す初期の証拠は豊富にある」。M・ライゼル博士は「神秘的な名Y.H.W.H.」の中で「テトラグラマトンの発音は元来YeHūàHあるいはYaHūàHであったに違いない」と述べています。さらにケンブリッジ大学のキャノン・D・D・ウイリアムズは次のように主張しました。「証拠の示すところによれば,いや,ほとんど証明済みのことであるが,テトラグラマトンの本当の発音はヤハウェではなかった。…神の名そのものはおそらくJĀHÔHであった」― 旧約聖書学誌,第54巻。

      たいていの言語においては,神のみ名を書き表わし,発音する仕方が慣習的に定まっており,それは言語により異なります。イタリア語の場合それはGeovaでありフィジー語ではJiova,デンマーク語でその名はJehovaです。専門の大家の間でさえ意見の一致が見られない,古代ヘブライ語の発音を,今日すべての人が模倣することに努めるべきであるなどと主張する必要がどこにあるでしょうか。チュービンゲン大学のグスタフ・エーラー教授が,ある本の中で様々な発音について論じたのちに述べているとおりです。

      「ここから以後,わたしはエホバという語を使う。なぜなら,事実上,この名は今では我々の語いの中でいっそう国語化されており,他の語に代えることができないからである。それはヤルダンがいっそう正確であるとはいえ,言いならわされたヨルダンという呼び方に代わり得ないのと同様である」。

      これは実際的な見方です。なぜなら,それは,広く知られている発音,しかも創造者なる神を今もなお明白に識別する発音を用いることを認めるものだからです。神はそのみ名を用いることをわたしたちに促しておられます。―イザヤ 42:8。ローマ 10:13。

  • 神のみ名とあなたの名前
    ものみの塔 1978 | 8月1日
    • 神のみ名とあなたの名前

      当然なことながらあなたはご自分の名前に関心を持ち,それを大切なものと考えています。それが人の口に上る時,あなたは耳をそばだてます。しかしあなたの“名前”は,オットー,ナンシー,カルロスその他何であれ,付けられた名前以上に,あなたの評判を暗示します。この観点からすると,あなたの名前はあなたの人格,これまでに示されてきたあなたの人柄に関係するものです。

      おそらく,あなたの身近な人たちはあなたの姓ではなくて名前を呼ぶことでしょう。そして“良い名”を持つ者と見られる時に,あなたは非常にうれしく感じます。(箴 22:1)わたしたちすべてが自分の名前に関心を抱くのは当然です。

      人間にとってそれが真実であれば,宇宙の創造者にとってはなおのこと真実です。人間に対し,創造者は固有の,意義深い名を持たれる神としてご自身を啓示することを選ばれました。その名は神がご自身の目的と約束を成就するかたであることを明らかにしています。ゆえに神は適切にもご自身の「記念」としてそのみ名エホバに言及されました。(出エジプト 3:14,15。ホセア 12:5。詩 135:13)その名は神が行なわれた事柄,そしてなお行なおうと意図しておられる事柄すべてと結びついています。

      ゆえにわたしたちは神のみ名を認識し,また使うべきではありませんか。そのうえ,神はわたしたちの個人的な名前および神に是認される者としてのわたしたちの立場という二つの意味においてわたしたちを名前によって知っておられるのではありませんか。

      神のきわだったお名前を無視し,あるいは軽視する傾向がたいていの宗教指導者また多くの聖書翻訳にさえ見られますが,それは人が神の前に是認された立場を得るのを妨げる方向に働きます。ウォルター・ローリー博士は英国国教会の「神学評論」の中で,一部の聖書が神の名を除いたことについて次のように述べています。

      「人間関係において,自分の愛する人,話している相手,話題に上る人の固有の名前,氏名を知ることはきわめて重要である。神との関係においても,まさしく同じ事が言える。神の名前を知らない人は,人格的な存在としての神をほんとうには知らず,神と語り合う間柄(祈りはすなわちこの事を意味する)になっていない。そして非人格的な力としてしか神を知らないならば,神を愛することはできない」。

      この筆者は,最近のある聖書翻訳中に神のみ名が4回しか現われていない事実にとくに留意していました。僧職者の多くは,「願くは御名の崇められん事を」と祈るように信徒を教えながら,その名を使うこと,あるいはその名を聖書翻訳中に含めるように促すことには率先してきませんでした。―ルカ 11:2。

      例えば,新教徒およびローマ・カトリック教徒の両方が使うことを認められているコモン・バイブル(1973年)を考えてください。その序文には,神のみ名を何千回も用いているアメリカ標準訳(1901年)の例を踏襲しない旨,明白に述べられています。神の名を放棄したのはなぜですか。述べられているひとつの理由は,その発音に関する見解がさまざまであるという事です。第二の理由

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