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  • 宇宙の背後にある力 ― 神秘の力か現実の人格的存在か
    ものみの塔 1980 | 5月1日
    • 存在,つまり宇宙の造り主によって備えられたことを知っています。―ヘブライ 3:4。

      ですから,すべての事実や根拠を基に論理的に考えると,至上者は現実の人格的存在であるに違いありません。では,そのかたには名前がありますか。もしあるとすれば,どんな名前ですか。

  • 神には名前がありますか
    ものみの塔 1980 | 5月1日
    • 神には名前がありますか

      『神の名前などどうでもよいのではないか。ただ一人の至上者しかおられないのだから』と,多くの人は言うかもしれません。例えば,カナダの一僧職者はかつて,「人々が神に付ける名も重要ではない」と語りました。この僧職者は,イスラム教徒のように「アラー」という名を使おうと,北米のあるインディアンのように「マニトウ」という名を使おうと大差ないと言うのです。僧職者の中には同様の意見の人が少なくありません。

      しかし,次の点を考えてみましょう。わたしたちはなぜ名前を用いますか。名前は何を表わしていますか。

      基本的に言って,名前は人を識別するのに用いられます。また多くの場合,その人の業績や名声とも密接に結び付いています。幾百万もの人々は,アレクサンドロス大王とかガンジーという名を聞くと,これらの人物の成し遂げた業績をすぐに脳裏に思い浮かべます。

      では,神の名前がどうして必要なのでしょうか。なぜなら,唯一の真の神を信じている人は少なくないものの,その一方で多くの人々が数多くの神々を崇拝しているからです。ヒンズー教徒には幾百幾千万もの神々がいます。アジアの他の地域やアフリカでは,無数の人々が自分たちの先祖を崇拝しています。国家や政治指導者,または舞台やスクリーンに登場する“スター”を崇拝している人も少なくありません。また,『その神は腹である』と言えるような人々もいます。―フィリピ 3:19。

      至上者は,神々のこの「大集団」からご自分を区別すべく,ご自分にのみ属する固有のみ名を持っておられます。このみ名は,これから見るように,至上者を識別する上で重要であるばかりでなく,その名声とも極めて重要なかかわりがあります。至上者はご自分に名前を付けられました。

      では,神のみ名は何か

      神のみ名は「アラー」でしょうか。そうではありません。定評のある辞書を見れば,「アラー」は「その神」という意味のアラビア語の短縮形であることが示されています。これが名前でないことは明らかです。

      「主」はどうでしょうか。それも名前ではありません。「多くの『神』また多くの『主』がいる」と聖書は述べています。(コリント第一 8:5)スペイン語訳の聖書にひんぱんに出てくる「主」を意味するスペイン語はSeñorで,これは普通,「……さん」とか「氏」という意味に用いられます。至上者にのみ用いられる固有のみ名にどうしてそれが用いられるでしょうか。

      『イエスというのが神のみ名ではありませんか』と言う人もいるでしょう。イエスの誕生をマリアに告げる際,天の使者つまりみ使いは,「あなたはその名をイエスと呼ぶのです。これは偉大な者となり,至高者の子と呼ばれるでしょう」と語りました。(ルカ 1:30-32)ですから,イエスは神のみ子の名前であって至上者のみ名ではありません。イエスご自身,『父はわたしより偉大なかたです』と言われました。―ヨハネ 14:28。箴 30:4と比較してください。

      神のみ子であるイエスは,み父との極めて親密な関係を享受しておられます。そしてイエスは,み父に名前のあることを明らかにされました。キリストは「主の祈り」とも呼ばれる有名な模範となる祈りを弟子たちに教えられましたが,その冒頭の言葉は「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」というものでした。(マタイ 6:9)その後,み父に捧げた祈りの中で,イエスは,「わたしは,あなたが……与えてくださった人びとにみ名を明らかに示しました。……わたしはみ名を彼らに知らせました。またこれからも知らせます」と言われました。(ヨハネ 17:6,26)この言葉どおり,イエスはみ父の名の持つ意義をことごとく弟子たちに明かされました。

      興味深いことに,「イエス」という名のヘブライ語の形は「エホシュア」で,これは「エホバは救い」という意味の「エホバ-イェシューアー」を短縮したものです。ですから,み父,すなわち至上者のみ名はエホバです。救いのためのエホバの代理者であるイエスが,み父にちなむこのような名で呼ばれるのは実に適切なことです。

      そのみ名はどこに見いだせるか

      「エホバ」という名はおびただしい数の文献に,また様々な場所に記されています。しかし,この名前の主な出典は聖書を構成する古代ヘブライ語の文献です。『でも,わたしの聖書にそのような名前は一度も出てこない』と言われるかたもおられるでしょう。神のみ名を用いていない聖書があるのは事実です。わたしたちが聖書で読むのは翻訳文であり,聖書本文を訳出する手法は翻訳者によって異なることを忘れてはなりません。それは聖書に限らず,どんな書物や記事でも,異なった人の手で翻訳されると同じことが起きます。

      例えば,当誌によく用いられる新世界訳聖書には「エホバ」という名が幾千回も出てきます。一方,西欧諸国でよく知られているジェームズ王欽定訳聖書では,ほんの数か所で使われているにすぎません。欽定訳の出エジプト記 6章3節にはこう記されています。「かく我は全能の神の名をもって,アブラハム,イサク,ヤコブに現われしが,我が名エホバによりては彼らに知られざりき」。

      カトリック訳聖書を好む人もおられることでしょう。カトリック訳聖書の多くには神のみ名は出てきません。しかし,現代のカトリック訳聖書,エルサレム聖書で上記の聖句を調べてみると,「エホバ」の代わりに「ヤハウェ」という名前が用いられています。それはなぜでしょうか。

      なぜヤハウェとなっているのか

      「ヤハウェ」は本来のヘブライ語により近い形で神のみ名を示そうとする試みの一つにすぎません。古代ヘブライ語を書く際は母音が記されず,子音だけが用いられました。古いヘブライ語の写本には,神のみ名は יהוה(アルファベットのYHWHまたはJHVHに相当)と示されています。聖書注釈者たちはしばしばこれを「四つの文字」という意味の「テトラグラマトン」と呼んでいます。

      幾世紀もの歳月を経るうちに,神のみ名のヘブライ語の正確な発音は分からなくなってしまいました。ですから,その名前にどのような母音を付すべきかは定かでありません。アドーナーイ(主)とエローヒーム(神)というヘブライ語の二つの言葉の母音符号をテトラグラマトンに組み合わせて,イェホワという発音が考え出されました。やがてこれがラテン語化されて「エホバ」となりました。しかしながら多くのヘブライ語学者は,「ヤハウェ」のほうがより正確であると語っています。一方,ビブリア・ヘブライカの編集者ルドルフ・キッテルは,自分の編集したすべての版を通じて,ヘブライ語のテトラグラマトンに「イェホワ」と発音する母音符号を付しています。

      「エホバ」の名のほうがよりよく知られている

      しかし,「エホバ」という名のほうがずっと広く知られ,また使われています。幾世紀にもわたって,翻訳聖書またあらゆる種類の文献に,この名が用いられてきました。a また,この名は様々な碑文にも記されています。例えば,英国,プリマス市の紋章にはラテン語で,Turris Fortissima Est Nomen Jehovaと刻まれています。これは,「エホバのみ名は最強の塔」という意味です。(箴 18:10をご覧ください。)ですから,市内を走るバスにさえエホバのみ名が記されています。

      ここで,スペインの沿岸の地中海に浮かぶ島ミノルカをちょっと“訪れ”てみましょう。島の主要都市マオンの公共野菜市場の壁にテトラグラマトンが記されています。ここは以前,教会の回廊でした。近くのサンルイスという小さな町の教会の塔には,エホバのみ名を示すヘブライ語の文字が刻まれています。

      スペインの古代教会都市トレドの有名な大聖堂に入ってみましょう。主聖具室<ペストリー>の天井に描かれている美しいフレスコ画が目につきます。これは17世紀のイタリアの有名な画家ルーカー・ジョルダーノの作品です。その絵の目立つ所に,神のみ名を示すヘブライ語の四文字が描かれています。

      キリスト教世界の教会の中で最も有名なのは,おそらく,バチカン市にあるサン・ピエトロ大聖堂でしょう。ここにある法王ピウス十世(1835年-1914年)の墓の装飾には,テトラグラマトンの記された頭飾りを付けたイスラエルの大祭司の姿が描かれています。この文字は,法王クレメンス十三世(1693年-1769年)の墓を飾る像の額帯にも見いだせます。

      「フラウィット・エホバ」メダルについて聞いたことがありますか。それは,西暦1588年に英国艦隊がスペインの無敵艦隊に勝利を収めた記念に造られました。侵入してきたスペイン艦隊は激しい嵐のために敗北を被りました。このメダルにはラテン語とヘブライ語で次のような言葉が刻まれています。Flavit יהוה et dissipati sunt ―「エホバが風を起こされたので彼らは散らされた」。

      クラッシック音楽の愛好者は,ヘンデルの有名なオラトリオ,メサイヤの荘重な「ハレルヤコーラス」をよくご存じのことでしょう。1743年の初演以来,幾百万もの人々がこの歌声を耳にしてきました。しかし,「ハレルヤ」(または「アレルヤ」)に「エホバを賛美せよ」という意味があることをどれほどの人が理解していたでしょうか。

      別の有名な音楽家フランツ・シューベルトは「全能」(ドイツ語では,Die Allmacht)と題する詩に曲を付けました。この曲のテーマは,「偉大なるかな主エホバ」という言葉です。(30ページ参照)

      神の固有のみ名が敬われ,表示されている場所や曲は他にも数え切れないほどあります。わずかな研究を行なうだけで,ヘブライ語聖書に示されているようにJHVH(またはYHWH)が至上者のみ名であることが一点の疑いもなく明らかになります。その聖なるみ名は聖書中にどれほど出ているのでしょうか。なんと,6,960回も出てくるのです! 神のみ名は本来省かれるようなものでないことは極めて明白ではありませんか。

      ところが,翻訳聖書の中には,神のみ名を省いているものが少なくありません。それはなぜですか。それに答える前に,歴史の流れの中における神のみ名について考慮してみましょう。

      [脚注]

      a ウェブスター新国際辞典(1955年版)は「エホバ」の項で次のように述べています。「至上者。神。全能者……テトラグラマトンに対するクリスチャンの呼び方」。

      [7ページの図版]

      スペイン,ミノルカ島の教会の塔

      英国,プリマス市の市バス

      法王クレメンス十三世の墓の上にある像

  • 初期の歴史における神のみ名
    ものみの塔 1980 | 5月1日
    • 初期の歴史における神のみ名

      神つまり宇宙の背後にある力は現実の人格的存在です。さらに,このかたはご自分にのみ属する固有のみ名エホバ(もしくはヤハウェ ― ヘブライ語のYHWHで表わされる)を有しておられることも知りました。

      しかし,そのみ名の歴史的背景についてはどうでしょうか。歴史は神のみ名にどのような解明の光を投げかけますか。

      初期の歴史的背景

      西暦前16世紀にまでさかのぼることにしましょう。イスラエル人はエジプトでファラオの苛酷な支配に苦しんでいます。モーセはエホバから,イスラエルの解放を要請する任務を与えられます。だれの名において行動し,語るべきかを示して,神はモーセにこう言われます。「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『あなたがたの父祖の神エホバ……がわたしをあなたがたのもとに遣わした』と。これは定めなき時に至るまでわたしの名であ(る)」― 出エジプト 3:15,新。

      しかし後に,ファラオ自ら,「エホバがだれであるというの(か)。わたしはエホバなど知らない」と語って,耳を貸すことを拒みます。(出エジプト 5:2,新)幾つかの災厄を下した後,エホバはファラオにこうお告げになります。「[わたしは]ただこのためにあなたを存在させておいた。すなわち,あなたにわたしの力を見させるため,またわたしの名を全地に宣明させるためである」― 出エジプト 9:16,新。

      上記の記録を含む聖書の最初の五つの書には,神の固有のみ名が幾度も出てきます。そのみ名は申命記のヘブライ語本文の中だけで550回も出てきます。み名を使用するのは祭司やレビ人だけに限られてはいませんでした。モーセはこう書きました。「イスラエルよ,聴きなさい。わたしたちのエホバはただ一人のエホバです。ゆえにあなたは,心を尽くし,魂を尽くし,活力を尽くしてあなたの神エホバを愛さなければなりません。そして,わたしが今日命じているこれらの言葉はあなたの心にあらねばならず,あなたはそれを自分の子に教え込み,家に座する時も,道を歩く時も,寝る時も,起きる時もそれについて話さねばなりません」。(申命 6:4-7,新)その当時,神の高められたみ名が家族の崇拝に際して自由に用いられていたことに疑問の余地はありません。

      ダビデ王の治世

      ダビデ王の治世に,エホバのみ名はそれまで以上に栄光ある仕方で用いられるようになりました。神の霊感の下に,ダビデはエホバに対する数多くの美しい詩つまり賛美の歌を書きました。ダビデはまた,幾千人もの歌い手や奏者から成る神殿の大規模な楽団と合唱隊を組織しました。彼らは定期的に,美しく感動的なエホバへの賛美の歌を奏し,歌って,「そのみ名に調べを奏で」ました。―詩 68:4,新。

      ご自分のみ名が公にまた家庭で使用されることをエホバは不快に思われたでしょうか。「あなたの神エホバの名をいたずらに取り上げてはならない」という十戒の三番目の戒めに照らして,ダビデやその時代の人々を非とされましたか。(出エジプト 20:7,新)明らかにそうではありませんでした。ダビデは神の豊かな祝福を受け,その統治は数多くの面で優れた成功を収めています。

      変化する見解

      それからほぼ五世紀後,エホバの忠実な預言者マラキは,四つの短い章から成る自分の預言の中でテトラグラマトン(神のみ名を表わすヘブライ語の四文字)を48回用いました。マラキを通して語られたエホバの言葉の中に,「日の出る所からその沈む所に至るまでわたしの名は諸国民の間で大いなるものとされ(る)」というところがあります。そして重要な点を強調するために,「『わたしの名は諸国民の間で大いなるものとな(る)』と万軍のエホバは言われた」という言葉が繰り返されています。―マラキ 1:1,11,新。

      マラキが当時の祭司のある者たちについて書き記した次の言葉にも注目してください。「『子は父を敬い,僕はその大主人を敬う。それで,もしわたしが父であるなら,わたしに対する敬意はどこにあるのか。また,もしわたしが大主人であるなら,わたしへの恐れはどこにあるのか』と万軍のエホバは言われた。ああ,わたしの名を軽んじている祭司たちよ」― マラキ 1:6,新。

      文脈を調べると,祭司たちは神のみ名を用いなかったために罪ありとされたのではなく,受け入れてはいただけない犠牲を捧げて神のみ名に不敬を表わしていたことが分かります。その当時のヘブライ語の聖書や他の文献はエホバの名が広く使用されていたことを示しています。例えば,上エジプトのユダヤ人入植地で発見された西暦前五世紀のものとされる文書(エレファンティネ・パピリと呼ばれる)には,神のみ名が記されています。しかし,エルサレムがローマ人によって滅ぼされるまでに,神のみ名の使用を控える迷信的な傾向が広まっていたことを示す幾らかの証拠があります。a これは,神のみ名をいたずらに用いてはならないという十戒の三番目の戒めに対する極端主義者の狂信的な解釈によるもののようです。(出エジプト 20:7,新)しかし,その命令をお与えになった際,神は,聖所で用いるようなごくまれな特別の機会を除いて,ご自分のみ名を一切用いてはならないということを意図しておられたのでしょうか。そう考えることはできません。神のみ名が(ダビデの時代のように)広く用いられていた時代に,神の祝福がイスラエルにそそがれていたことは極めて明白だからです。一方,イエス・キリストが地上の生涯を送り,宣教を行なっておられたころ,ユダヤ人の宗教上の伝統のために神のみ名は使われなくなっていましたが,その時期,同国民全体からは明らかに神の祝福が取り去られていました。当時のユダヤ人の宗教指導者たちは,神とその原則から遠く離れていたため,神のみ名を包み隠すにとどまらず,神のいつくしむみ子の死に対する責めを負う者とさえなりました。それから何年か後の西暦70年に聖なる都市エルサレムとその神殿がローマ軍によって破壊され,ユダヤ人は恐ろしい代償を払うことになりました。

      キリストとその弟子たちはどうしたか

      イエス・キリストとその弟子たちは神のみ名に関するユダヤ人の伝統に従ったでしょうか。イエスは,恐れることなく,パリサイ人や書士たちの伝統を非難し,霊的な死をもたらすそのような影響力のもとから弟子たちを自由にされました。イエスはそれらの「偽善者」に向かって,「あなたがたも自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えているのはどうしてですか。……あなたがたは,自分たちの伝統のゆえに神のことばを無にしています」と言われました。―マタイ 15:3-9。

      それでは,イエスやその弟子たちは神の言葉を自由に用いましたか。そう断言できます。というのは,イエスも弟子たちもみな,エホバのみ名の記されている聖書の言葉を幾度も引用しているからです。彼らはしばしばセプトゥアギンタ訳を用いました。これはヘブライ語聖書のギリシャ語訳で,西暦前三世紀ごろアレクサンドリアにおいてその訳業が開始されました。その写本にはテトラグラマトンがそのまま記されていました。確かに何世紀か後のセプトゥアギンタ訳の写本は,神のみ名を削除するというユダヤ人の伝統に従うようになりましたが,イエスが地上におられた時期のものとされるギリシャ語セプトゥアギンタの巻き物や断片にはテトラグラマトンがヘブライ語の文字で記されています。―「ものみの塔」誌,1978年8月1日号,6-8ページをご覧ください。

      イエスご自身の言葉も,イエスが神のみ名を用いられたことをはっきり示しています。例えば,イエスはみ父に対する祈りの中でこう言われました。「わたしは,あなたが世から与えてくださった人びとにみ名を明らかに示しました。……わたしはみ名を彼らに知らせました。またこれからも知らせます」。(ヨハネ 17:6,26)さらにイエスは,ご自分の追随者たちに,「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」と祈るよう教えられました。(マタイ 6:9)もし神のみ名を用いておられなかったなら,イエスはどうしてこのように語ることができたでしょうか。

      ですから,新たに神に選ばれた人々,霊的イスラエル,クリスチャン会衆は,神のみ名を広く用いていました。(ガラテア 6:16)ギリシャ語聖書(「新約聖書」)のある翻訳にエホバの名が出てくるのはそのためです。例えば,そのような翻訳聖書として,フランツ・デリッチの「ギリシャ語聖書ヘブライ語訳」(1877年),ベンジャミン・ウィルソンの「エンファティック・ダイアグロット訳」(1864年),ジョージ・N・ルフェブルの「クリスチャン聖書 ― 新約」(1928年),「クリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳」(1950年)その他があります。それに対し,大半の翻訳はユダヤ人の伝統に従って神のみ名を省いてしまいました。

      イエスの時代の後間もなく,予告されていた背教が生じ,真のキリスト教の教理と精神を腐敗させるようになりました。(テサロニケ第二 2:3。ペテロ第二 2:1-3)「暗黒時代」の長い夜の訪れと共に,神のみ名を使用することはしだいに行なわれなくなりました。b 幾世紀にもわたって,神のみ名に関する知識そのものは,主として修道院の中だけにとどめられ,学者や修道僧のような人にしか知られませんでした。

      では,どのようないきさつがあって,神のみ名は今日のように世界中で知られるようになったのでしょうか。

      [脚注]

      a 西暦一世紀のユダヤ人の宗教指導者の多くは異教のギリシャ哲学に強く影響されていました。例えば,アレクサンドリアのユダヤ人哲学者フィロンは,有名なギリシャ人哲学者プラトンを神の霊感を受けた人物であると信じ,神は説明しがたい存在であり,それゆえ名前を持ち得ないと教えました。

      b 1,000年以上にわたって,キリスト教世界の神学はプラトンの教えの影響を受けて形作られました。H・A・L・フィッシャー著「ヨーロッパ史」,52ページ,およびブリタニカ百科事典,1964年英語版,第18巻,63ページをご覧ください。

  • 後代における神のみ名
    ものみの塔 1980 | 5月1日
    • 後代における神のみ名

      初期のころ神のみ名が用いられたことに疑問の余地はありません。しかし,後代においてはどうでしょうか。ある聖書翻訳がみ名を省いているのはなぜですか。そのみ名は何を意味し,わたしたちにとってどんな意義があるのでしょうか。

      「エホバ」という名が広く知られるようになる

      興味深いことに,神のみ名を「Jehova」と初めて訳出したのは,スペインのドミニコ会士,レイムンダス・マルティーニでした。この形は,今から700年以上前の西暦1270年に出版された,マルティーニの著書,「Pugeo Fidei」に登場します。

      やがて,カトリック教会の内外で改革運動が展開され,聖書は一般の人々の手に入るようになり,「エホバ」という名はもっと広く知られるようになりました。西暦1611年には,ジェームズ王欽定訳聖書が出版されました。この聖書はエホバという名を4回使っています。(出エジプト 6:3。詩篇 83:18。イザヤ 12:2; 26:4)それ以降,聖書は幾度も,幾度も翻訳されてきました。中には,欽定訳聖書の例に倣って,神のみ名を数回用いているだけの翻訳もあります。

      アメリカ訳(スミスとグッドスピードの共訳)もやはり同じ範ちゅうに入ります。もっとも「エホバ」の代わりに「ヤハウェ」を用いるというわずかな違いはあります。しかし,こう尋ねる人もいることでしょう。「翻訳者たちはどうしてそんなことをするのだろうか。『エホバ』とか『ヤハウェ』を使うのが間違いなら,どうしてそれを完全に除いてしまわないのか。もし正しいのなら,聖句の中でそれが現われるたびに,一貫してそれを用いないのはどうしてなのか」,と。

      翻訳者たちが答えとして述べる事柄を先に考慮した歴史的背景や事実に照らして検討してみましょう。

      翻訳者の回答

      アメリカ訳の序文はこう述べています。「この翻訳において,我々は正統派ユダヤ教の伝統に従い,『ヤハウェ』というみ名の代わりに『主』という語を当てた」。しかし,「正統派ユダヤ教の伝統」に従うことにより,ご自分の『名を全地に宣明させる』という神の明確な決意を無視することがどれほど有害な結果を招きかねないか翻訳者たちは気づいていたのでしょうか。その上イエスは,神の言葉を無効にする,人間の作った伝統を非としておられます。―出エジプト 9:16,新。マルコ 7:5-9。

      改訂標準訳の序文は次のように述べています。「この改訂版は,ジェームズ王欽定訳の手法に立ち返るものである。すなわち……ユダヤ教の会堂におけるヘブライ語聖書の読み方に関して古くから確立されている習慣に……従っている。当委員会がジェームズ王欽定訳の比較的なじみ深い用法に立ち返った理由は二つある。(1)『エホバ』という語は,ヘブライ語でこれまでに用いられたいかなる形のみ名をも正確に表わすものではない。また,(2)唯一の神に対していかなる形であれ固有名詞を用いることは,あたかも他の神々が存在して,唯一の神を目立たせる必要があるといわんばかりの行為であり,それはキリスト教時代以前にユダヤ教において用いられなくなった。その使用は,キリスト教会の普遍的な信仰にとって,全くふさわしくない」。(下線は本誌。)

      ジェームズ王欽定訳やユダヤ教の伝統の例に倣うことにより,翻訳者たちは大きな誤りを犯しました。翻訳者たちはみ名を表面に出さないことが神のご意志だと本当に考えたのでしょうか。神のみ名は,聖書から除外しなければいけないほど恥ずべきものなのでしょうか。

      宗教上の偏見か

      1901年に出版されたアメリカ標準訳がヘブライ語聖書の中で,一貫してエホバという名を用いているのは興味深い事実です。それに対して,1952年に出版された改訂標準訳は,脚注で一か所(出エジプト 3:15で)ごく簡単にテトラグラマトンに言及しているだけです。その時期に,エホバの証人は神のみ名を世界中で宣明していました。その証言活動に対する偏見によって,ある翻訳から神のみ名が省かれてしまったということはありませんか。

      カソリッシェ・ビルデポスト誌(ドイツのカトリックの雑誌)に載せられた次の言葉は,そうした可能性も皆無とは言えないということを示唆しています。「しかし,彼ら[エホバの証人]は神のみ名を『エホバ』に変えてしまったが,それは異端派の編み出したものにすぎない」。(1969年8月24日号)この言葉には宗教的偏見のにおいがただよっています。これは研究が浅いことをもあらわにしています。既に述べたとおり,「Jehova」という語を最初に用いた著述家はカトリックの僧侶だったからです。カトリックの僧侶がエホバの証人であろうはずがありません。

      二重基準

      「『エホバ』という語は,ヘブライ語でこれまでに用いられたいかなる形のみ名をも正確に表わすものではない」と,改訂標準訳の序文は述べています。では,どの語がヘブライ語の神のみ名を『正確に表わし』ているのでしょうか。「ヤハウェ」のほうを好む人もいますし,「イェホワ」や「ヤーベ」などを好む人もいます。古代ヘブライ語を書く際には子音しか用いられなかった,ということに問題があります。そして,専門家たちでさえ,神の厳密なみ名にどの母音が用いられたかは憶測の域を脱しないことを認めています。

      また,「エホバ」という形に反対する人には,どうして「イエス」や「ペテロ」などの名には反対しないのか,と尋ねることもできるでしょう。批評家たちが,それらの名前の原語であるギリシャ語の形(イエソウスとペトロス)を用いるようにと主張しないのはなぜですか。そうした人たちは,「エホバ」という名を退けることにより,二重基準を用いる罪を犯してはいませんか。

      ほかの翻訳

      言うまでもなく,「エホバ」や「ヤハウェ」,あるいはテトラグラマトンを表わす他の何らかの言葉を用いている翻訳は少なくありません。さらに,クリスチャン・ギリシャ語聖書(「新約聖書」)の中でも,Iehova(ハワイ語)やUyehova(ズール語)などのようにそれぞれの地方語でテトラグラマトンを表わす形が用いられている地方語訳聖書が40ほどあります。

      「現代英語聖書」(スティーブ・T・バイイングトン訳)も,ヘブライ語聖書の中で終始一貫「エホバ」という名を用いています。その序文の中で,バイイングトンは「エホバ」という名に関してこう述べています。「そのつづり方や発音が特に大切なのではない。特に大切なのは,それが固有名詞であることをいつも明確にしておくことである」。そうです,宇宙で最も高められた存在者のみ名は,唯一のもので,その方だけに属し,他とたぐうことのできない,崇高な名です。

      この唯一のみ名は何を意味しているか

      これに答えるため,昔のある出来事を思い起こしてみるのはふさわしいことです。イスラエル人をエジプトから導き出すようにとの任務を至高者から受けたとき,「モーセは真の神に言った,『わたしが今,イスラエルの子らのもとに行って,「あなたの父祖の神がわたしをあなたがたのもとに遣わされました」とまさに言う場合,彼らが「その名は何か」とまさに言うなら,わたしは何と言えばよいでしょうか』。そこで神はモーセに言われた,『わたしはなるものになる』。そしてまた言われた。『あなたはイスラエルの子らにこのように言うべきである。「わたしはなるという方が,わたしをあなたがたのもとに遣わされた」と』」。(出エジプト 3:13,14,新)これは,エホバがご自分のみ名と主権を立証するために,ご自身の壮大な目的を完遂されることを意味します。このことは,15節に現われる「エホバ」という記念の名を理解するのに役立ちます。この名のヘブライ語の語根からすれば,この語はご自身に関して「彼はならせる」(つまり,「なる」)ということを意味しているようです。ですから,考え深い人にとって,神のみ名には本当に深い意義があります。その名は,神がご自分の約束した事柄をたがうことなく成し遂げられ,どんな事態になろうともすべてを完全に掌握しておられる方であることを明らかにしています。

      神のみ名には,実に深く,尊い意味があります。それは宇宙でも卓越した名,輝かしい名です。それに引き替え,「主」という語はばく然としており,あいまいです。イエスは,ご自分の父のみ名を愛し,敬われ,「父よ,み名の栄光をお示しください」と言われたことがありました。その記録はさらに次のように続いています。「すると,天から声があった。『わたしはすでにその栄光を示し,さらにまたその栄光を示す』」― ヨハネ 12:28。

      イエスが現代の聖書翻訳者であったとしたら,ご自分の父のみ名を新しい翻訳から除き去ったりするでしょうか。決してそのようなことはしないでしょう。イエスはだれにも増して,全能の神とそのみ名に対して正しい見方を持っておられたことに疑問の余地はありません。では,神とそのみ名に対するわたしたちの態度はどのようなものであるべきですか。

  • あなたは神のみ名に対してどんな態度を取りますか
    ものみの塔 1980 | 5月1日
    • あなたは神のみ名に対してどんな態度を取りますか

      あなたは神が存在しておられること,また身の回りに見られる数限りない美しい物を備えてくださった,つまり創造してくださったことを,すでに心の奥底で確信しておられるに違いありません。ところが,神に対して本当に深い敬意を抱いているのに,それでもなお,神を身近に感じてはいないかもしれません。神は自分にとって,縁遠い,深遠な存在と思えるのです。

      しかし,神を知って,神を本当に愛するようになり,その方を宇宙的な家族の父と認め,その大きな家族の一員になることは,何にも増して重要な,急を要する事柄です。一個の人間としての見地からすれば,愛ある父としての神を知り,敬い,従うようになることは生死にかかわる問題です。また,全地球的な見地からすれば,今日の人類の置かれている恐るべき混乱状態に終止符を打つ唯一の解決策は,この世界的な家族を作り上げることにあるのです。神の預言は,この古い事物の体制が全地球的な大変動へと向かっており,神と隣人を本当に愛している者しかその大変動を生き残れない,ということを極めて明確にしています。(詩 37:10,11,28,29)しかし,こうお尋ねになるかもしれません。……

      「どうしたら神を本当に知ることができるか」

      学問のある分野で研究を行なっていて,その分野の著名な教師を深く尊敬するようになったとしましょう。そして,その教師をもっとよく知り,もっと多くを学びたいと思っているのに,その教師は遠く離れた国に住んでいるとしましょう。そのような場合にどうしますか。その人の書いた文献すべて,またその人について書かれている事柄は何でも読もうとするのではありませんか。その人物とその教えについてすでによく知っている他の学生と話し合うのではありませんか。その後,その人に手紙を書き,個人的な難しい質問や問題を尋ねたところ,非常に満足のゆく答えが与えられたとします。この優れた教師に対する賞賛の念と敬意は大いに深まり,その助けを得た結果,その教師を慕うようになるでしょう。

      最も偉大な教師であられるエホバについても,それと同じことが可能ですか。確かに可能です。(イザヤ 30:20,21)でも,どのようにしてですか。

      『その方の書かれた文献』― すなわち聖書 ― をお読みになったことがありますか。読もうとして,理解しにくい部分があることに気づかれたかもしれません。では,聖書を読んでいて質問を持った,アフリカのある国の役人の模範に倣ってみてはいかがですか。その人はどうしたでしょうか。エホバの証人であるフィリポに助けを求めました。使徒 8章26節から39節を開いて,この興味深い出来事に関する記述をお読みになるのはいかがですか。

      さて,あなたにも今日,同じことができます。聖書を読んで質問があれば,エホバの証人に尋ねてみてはいかがですか。証人たちは,天の父エホバに関する知識を求める人々を,いつでも心から喜んで援助してきました。その上,誠実な研究者に啓発を与える,聖書に基づく出版物が(この雑誌のほかにも)あります。

      実際のところ,経験豊富な聖書研究者と共に聖書について話し合えば,エホバに関する知識と,エホバに対する敬意や愛を大いに深めることができます。例えばエホバは,「憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛の親切と真実とに満ちる神」であられることを学ぶでしょう。(出エジプト 34:6,新)ゆゆしい罪を犯しながらも,悔い改め,寛大に扱っていただいたダビデの場合と同じく,あなたもエホバの憐れみと忍耐の数多くの例に注目されるでしょう。―サムエル後 12:13,14。詩篇 51篇。

      また,エホバが悪の存続を許された理由やまだ悪と腐敗をぬぐい去っておられない理由を理解できます。しかし,それは太陽が明日の朝昇るのと同じほど確実に起きることなのです。(箴 2:21,22。ペテロ第二 3:7)また,エホバの大いなる辛抱強さ,無限の知恵と理解,地を清めて平和と楽園を復興させるというすばらしい目的などを認識するようになるでしょう。―イザヤ 65:17,21-25と比較してください。

      「探しつづけなさい」

      しかし,困難な事態や反対に直面することがあるかもしれません。ご家族や友人の中にさえ,エホバの言葉を研究するあなたの努力をけなしたり,あなたに助けを与えてくれている人を中傷しようとしたりする人がいるかもしれません。イエスは弟子たちに,そのような事を予期しておくようにと警告されました。―マタイ 5:11。

      しかし,人類の将来の鍵を握る崇高なかたが存在されることを確信したなら,そのかたとそのみ子であるイエス・キリストとを知ろうとする自分の決意を守り通してください。次のように語られたのは,まさにそのみ子でした。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」。イエスはまた,こう言われました。「探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます」。―ヨハネ 17:3。マタイ 7:7。

      そうするなら,エホバが実際にはどれほど身近な存在で,どれほど近づきやすいかたかを知って,快い驚きを経験することでしょう。一群のアテネ人を前に行なった公開の話の中で,使徒パウロは,「神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません」と語りました。(使徒 17:27)また,神の霊感を受けた一預言者はこう書いています。「あなたがたはエホバを捜し求めなさい,なお見いだされる間に。近くにおられる間に呼びかけなさい」― イザヤ 55:6,新。

      そうです,『神に呼びかける』のです。「神に近づきなさい。そうすれば,神はあなたがたに近づいてくださいます」。(ヤコブ 4:8)真理を捜し求めているのなら,また,ゆゆしい問題や罪のために意気消沈させられているなら,「優しいあわれみの父またすべての慰めの神」であられるエホバに呼びかけるのです。(コリント第二 1:3)その際,「すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなたがたをさわやかにしてあげましょう」と語られた,み子イエス・キリストの名によって呼び掛けます。―マタイ 11:28。

      エホバに近づこうとする努力が自分の生活に,満足のゆく,大きな相違をもたらすことに気づき,うれしく思われることでしょう。不安を引き起こし,混乱をきたす偽りの宗教の教理や見解が頭の中から一掃されます。また,神の預言の言葉と目的を研究すると,世界がどうしてこれほど問題や腐敗や恐れに満ちているのか分かります。そして,そのようにして聖書を検討してゆくと,地球と神の王国の下でその地に住む特権にあずかる人々との前途には,すばらしい将来の待ちかまえていることが明らかになります。―マタイ 6:9,10。

      人間の歴史上のこの暗い時期にあって,理解と先見の明と霊的な光が差し迫って必要とされています。詩篇 119篇105節(新)は,神についていみじくもこう述べています。「あなたの言葉はわたしの足のともしび,わたしの通り道の光です」。

      そうです,神のみ言葉は,現在の生活におけるすばらしい新たな道筋を明らかにし,将来に対しては壮大な展望を与えます。それは,真の神エホバに関する正確な知識とそのかたに対する深い愛へと導きます。

      神のみ名に対する態度

      どの人種や民族に属していようとも,物に動じない,親切で,愛のある家族の頭は大いに賞賛されるものです。良い父親は生みの親であるというだけでなく,扶養者であり,助言者であり,保護者であり,いざというときの助けとなる友です。そのような父親は子供から尊敬され,愛されます。

      父親がそのような人であれば,子供はどんな場合でも

      ― 父親をほめるのではありませんか。

      ― 父親が批判されれば,父親を擁護するのではありませんか。

      ― 父親の不興を買わないようにするのではありませんか。

      ― 父親の名を誇りに思うのではありませんか。

      エホバの世界的な家族の成員になった人は,どんな場合でも神をたたえます。神のみ名を隠そうとする運動を支持せず,その偉大なみ名を諸国民に知らせることに鋭意専念します。(詩 105:1-3)そして,『賛美の犠牲,すなわち,そのみ名を公に宣明するくちびるの実を神にささげる』備えをいつもしています。―ヘブライ 13:15。

      そのような人は,どんな場合でも,み父が批判されれば,そのみ名を擁護することを切に望みます。み言葉を注意深く研究した結果,『地獄の火と責め苦』という神をはずかしめるような教理を論ばくできます。そして,「神は愛」であることを示せます。(ヨハネ第一 4:8)さらに,神は「死んで」はおらず,現に生きており,この地上で起きている事柄に心を砕き,人類に対するご自分の目的を壮大な最高潮へともってゆこうとしておられることを指摘できます。

      この世界的な家族の成員は,み父の不興を買うことは何一つしないよう努めています。「あなたの神エホバの名をいたずらに取り上げてはならない」という古代の戒めを心に留めているのです。(出エジプト 20:7,新)不完全で,ダビデ王と同じように間違いを犯しやすいとはいえ,エホバを愛する人は高い行動基準を保とうとします。その基準には,正直さ,身体および道徳上の清さ,そして偶像礼拝・貪欲・強欲を避けることなどが含まれます。(ルカ 12:15。コリント第一 6:9,10。ヘブライ 13:18。ヨハネ第一 5:21。啓示 19:8; 21:8)エホバを愛する人は政治的な紛争や暴力から離れています。そうした紛争や暴力は,神の名において行なわれているといわれますが,実際にはみ名に大きな恥辱をもたらしています。(イザヤ 2:4。ヨハネ 15:19)しかし,神のしもべは政府や民事当局に敬意を払い,法を守り,税金をきちんと納める市民です。また,職場では正直に一日働き,「神の名……が決して悪く言われることのない」ようにします。―テモテ第一 6:1。ローマ 13:1-7。

      み名を負うことを誇りとする

      良家の出であれば,自分の父親の名を誇りとしておられることでしょう。今日エホバの名を負う人々にしても同じことです。全世界に広がる,大規模な国際的家族は,エホバの証人という名称により,天の父のみ名を負っていることを誇りにしています。(イザヤ 43:10,12。啓示 7:4-10)エホバの証人は,創意に富んだ人間の働きによって増し加わる知識や種々の利器を高く評価する一方,『天と地と海とその中のすべての物を作られた生ける神』を認め,そのかたをほめたたえます。その神こそ,「天からの雨と実りの季節を与え,食物と楽しさとをもって[人間の]心を存分に満たされた」方です。(使徒 14:15-17)さらに神は,み子というこの上ない賜物を与え,わたしたちがその方を通して「永遠の命を持つ」ようにしてくださいました。(ヨハネ 3:16)エホバの賛美者たちはその賜物すべてに対して深い感謝の念を抱いています。―ヤコブ 1:17。

      自分たちの創造者に対する深い感謝の念の表われとして,この献身した,世界的な家族は,栄光に満ちた,唯一のみ名を神聖なものとすることに貢献しています。神ご自身の聖なる書物であるヘブライ語聖書とクリスチャン・ギリシャ語聖書の双方において,み名の正当な位置付けを認めることによってそれを行なっています。そして,主人であるイエス・キリストやその一世紀の追随者の足跡に従って,今の時代に対する肝要な音信を熱心に広めています。すなわち,神の王国は間近に迫っており,それこそ人類にとって唯一の希望であるという音信です。―マタイ 4:23; 24:14; 28:19,20。

      訴え

      わたしたちは,真の神エホバとそのみ子イエス・キリスト,そして『神の名を全地で宣明』している一つに結ばれたこの幸福な家族についてもっとよく知るよう訴えます。これは急を要する事柄です。(出エジプト 9:16。ローマ 9:17)それは現在の生活を一変させるだけでなく,来たるべき「大患難」を生き残り,神の約束された新しい事物の体制でとこしえに生きる道へと導くことにもなります。―マタイ 24:21,22。ペテロ第二 3:13。

      あなたの命そのものが自分の追い求める道にかかってくるのは事実です。聖書は,「エホバのみ名を呼び求める者はみな救われる」との保証を与えています。(ローマ 10:13。ヨエル 2:32)あなたは,エホバの献身した崇拝者として,信仰のうちに神のみ名を用いて神に呼びかけますか。

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