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    ものみの塔 1973 | 6月1日
    • 神は謙そんな人をいつくしまれる

      「エホバは優しい愛情に富まれあわれみ深い方である」― ヤコブ 5:11,新。

      1 エホバ神の崇拝はどれほど広まっていますか。これはヤコブ書 5章11節とどのように関係していますか。

      「エホバは優しい愛情に富まれ,あわれみ深い方である」という宣言は,わたしたちがだれであろうと,エホバをわたしたちに推薦するものです。確かにわたしたちは優しい愛情とあわれみとをもって扱われることを望みます。とりわけ,わたしたちが最高の神と認めて崇拝するかたにはそれを強く望みます。全世界の多くの人びとは確かにエホバ神を崇拝しています。そしてエホバのあわれみと優しい愛情を悟って大きな慰めと自信を得ます。そのような祝福を受けている人びとは非常にさまざまです。事実,この雑誌の読者と同じほど多様です。あなたが今,あなたの話すことばで提出され,あなたの住んでいる土地にも当てはまるこの問題を考慮しているのと同じく,習慣や背景のちがう場所に住んでいる,あなたとは違う他の人びとも,聖書記述者ヤコブのこのことばに思いをめぐらしているのをあなたは確かにご存じでしょう。ヤコブはキリスト・イエスの弟子でした。したがってクリスチャンであり,イエス・キリストの父なる神エホバの崇拝者であり証人でした。

      2 歴史のどの期間にエホバの愛情深いご性質は示されましたか。だれに対して?

      2 エホバの愛情深い特質は,現在過去を問わず,歴史を通じて,エホバを崇拝する者たちに示されました。事実,ヤコブは,エホバの優しい愛情とあわれみについて述べるにさいし,神の古代預言者たちに言及しました。彼は預言者たちが,エホバの預言者および証人としてエホバのみ名において語る間は,悪のもたらす苦しみを忍び,忍耐したことを指摘しました。ヤコブは5章11節で述べています。「ご覧なさい! わたしたちは忍耐した人たちは幸福である,と断言します。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞いており,エホバがお与えになった結末を見ています。エホバは優しい愛情に富まれ,あわれみ深いかたである」。そのとおりです。ヨブの経験した結末は確かに,エホバへの誠実を守り通した忠実なしもべヨブに対してエホバがあわれみと忠実な愛とを示された証拠です。聖書記述者のヤコブだけでなく,現代に住むわたしたちも,宗教の歴史の事実を認め,エホバがどのように忠実な者たちを扱い,彼らのためにそのあわれみと優しい愛情を示されるかを明確に理解するのは適切なことです。そうした良い結果は現在も,エホバのあわれみある扱いに感謝し,それにこたえる人びとの中に見られます。

      3 人びとはどのように異なっていますか。

      3 わたしたちが住んでいるこの困難な時代には,か酷であわれみのないことがたくさん行なわれています。人びとを取り巻く環境は,あらゆる種類の個人的な欲求不満を生み出します。それは人びとがあらゆる種類の背景を持つ,「あらゆる種類」の人びとだからです。この背景や境遇の多様さは実に広範におよびます。ある人びとは多くの教育があり,他の人びとはそれほどでもなく,また比較的に教育のない人びともいます。ある人はひとつの人種であり,他の人はまた別の人種です。もちろん数多くの国籍があり,人びとが用いる言語の数にいたってはそれをさえ上回ります。社会的身分も,体力や知能と同じく人によってそれぞれ異なります。すべての人が不完全さを受けついでおり,したがってエホバ神が設けられた準備をさしおいては真の命の希望がないとはいえ,個々の人が神の義の要求にそむく度合いも人によって異なります。人間の背景や境遇の違いをあげれば際限がないようです。

      4 人びとの多様性は,神のことばにかんしてどんな結果を生みますか。

      4 その結果,神のことばに接した時も,人びとはそれぞれちがう反応を示します。ある人びとは非常に誇り高ぶり,自己満足しすぎているために,あるいは非常にごう満なために,創造者が設けてくださった備えに対し,愛のこもった感謝をもって応じようとはしません。かと思うと,それとは反対に,自分はエホバの優しい愛情とあわれみを受けるに価しない者だ,と考えるほど謙そんな人たちもいます。あなたは,さらに別の種類の人,つまりエホバがあなた個人に提供するものに手を伸ばしてそれを受け取ることをしないほど自己満足してもいなければ,また自己を卑下してもいない人のようです。そうです,自分がエホバ神のあわれみのある愛情深い特質にほんとうに関心を持っていることをご存じでしょう。

      現在最も重要なものは何か

      5 ここでは人の背景よりも何のほうが重要なものとして示されていますか。

      5 あわれみ深い神が準備してくださったことば,すなわち聖書を学べば学ぶほど,あなたも神の祝福の中に含まれていること,あるいは含まれるかもしれないことを聖書が終始教えている事実を,いよいよ深く理解し認識するようになります。次のことは知っておかねばならないたいせつなことです。つまり重要なのは,あなたの背景ではなく,むしろエホバによって備えられたもの,謙そんな人びとを含め文字通りあらゆる種類の人びとが得られるようにエホバがご配慮くださったものに対してあなたが現在示す態度,またあなたが現在示す反応です。

      6 すべての人がどんなすばらしい機会を利用すべきですか。

      6 エホバが愛情深くもキリスト・イエスを通して,あらゆる背景の人びとがエホバと和合できるようにしてくださるということは,くりかえし示されています。たとえば,テモテ前書 2章3節から6節には次のように述べられています。「これはわたしたちの救い主なる神のみまえにあって誉れあること,受け入れられることであり,[神の]ご意志は,あらゆる種類の人が救われて,真理の正確な知識に至ることです。神はただひとりであり,また神と人間との間の仲介者もただひとり,人間キリスト・イエスであり,このかたはご自分を,すべての人のための対応する贖いとして与えてくださったのです。このことはまさにその定めの時に証しされるのであ(る)」。このことばからすると,どんな「種類」の人が,救われる機会や真理の正確な知識に至る機会を与えられないでしょうか。それを与えられない人はひとりもいません。ですからすべての人は,神の提供してくださる機会を利用すべきです。だれも,神の備えを利用しないほど自分を過大評価すべきではありませんし,また同時に,自分は真理を受けて学び,受け継いだ不完全さと罪と死から救われるよう,最後に「対応する贖い」を適用してもらうに価するような人間ではない,と考えるほど自分を卑下すべきでもありません。この点もたいせつです。

      あなたは霊的必要に気づいていますか

      7 霊的必要物に対する正しい見方は何ですか。

      7 「ご自分をすべての人のための対応する贖いとして与えてくださった」このかた,つまりキリスト・イエスは,犠牲の死を遂げる前にこの地上で奉仕された時,「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです」と言われました。(マタイ 5:3,新)ここでは,これら霊的な必要を自覚している人びと,すなわち「霊に関して貧しい人びと」(王国行間逐語訳)は,霊において貧しいがゆえに拒絶されるとは示されておらず,むしろ彼らは幸いである,神に愛され,神のいつくしみを受けていると言われています。なぜでしょうか。なぜなら彼らは自分の必要を意識していて,その霊的必要を満たすためにエホバの備えを受け入れるからです。彼らはごう慢なまでに意気軒高ではありません。もし彼らがそのように意気盛んであったとすれば,彼らはエホバの備えなど必要ないという考えちがいをしていたでしょう。しかしそうではなく,彼らは霊にかんしてけんそんで,自分たちも人類の他の人びと同様に,エホバの備えによってしか満たされない必要を有していることに気づいていますから,この問題において自分自身にかんし正しい意見を持っています。特定の背景のゆえに持っているまがった考えによってわきへそらされることもありません。だれであろうと,また地球上のどこに住んでいようと,これは考えてみるべき健全な事柄です。

      広範にわたるエホバの備え

      8 エホバの備えはどれほど広範にわたりますか。

      8 神のことばおよびその中に示されているエホバの目的は,ある特定の人種もしくは国民あるいは民族だけにかんするものではありません。実際のところ,あらゆる人種の人びとが神に受け入れられ,神に愛されています。神は彼らすべてのために豊かに備えてくださいます。この趣旨の預言的なことばは,黙示録 7章に見られます。『この後われ見しに,みよ,もろもろの国・族・民・国語の中より,たれも数えつくすことあたわぬ大いなる群衆,しろき衣をまといて手にしゅろの葉をもち,御座とこひつじとの前に立ち,大声に呼ばわりて言う「救いは御座に坐したまう我らの神とこひつじとにこそあれ」』。『彼らは重ねて飢えず,重ねて渇かず,日も熱も彼らを侵すことなし。御座の前にいますこひつじは,彼らを牧して生命の水の泉にみちびき,神は彼らの目よりすべての涙を拭い給うべければなり』― 9,10,16,17節。

      9 黙示録 7章16,17節に述べられているようなエホバのご配慮にあずかる保証を得るにはどんな要求を満たさねばなりませんか。

      9 ここでもまた,エホバの備えの広範におよぶ規模を見ることができます。それは,あなたがどの『国,民族,国民または言語』から出たものであってもそれにはかかわりなくあなたにおよびます。この世の残酷で無情な環境のために,あなたがどんな実際の,あるいは比ゆ的な飢えや渇きを感じていようと,もしけんそんな態度でエホバに救いを帰すなら,あなたはこの預言的な約束の中に,霊的な飢えや渇き,またエホバの怒りの熱からの救いの保証を見いだすでしょう。あなたはそのことをしますか。つまり救いを神に帰しますか。もししないとすればそれはなぜでしょうか。しないのはほんとうに健全な考え方でしょうか。もしあなたの飢えと渇きが義に対するものであれば,あなたは必ず満たされます。イエスはマタイ伝 5章6節(新)でさらにこう言われているからです。「義に飢え渇いている人たちは幸いです。その人たちは満たされるからです」。

      家族のような取り決め

      10 家族にはどんな好ましい特色がありますか。

      10 家族の取り決めは,人びとの習慣や物事の仕方に従い,場所によって異なるもののひとつです。一般的に言って,良い家族には,さまざまの成員の間に,助けになる,気持ちの良い関係があります。全員がエホバ神の崇拝者で,全員が神の要求と導きを家庭生活に適用する家族の場合は特にそうです。一般の家族にかんして言えるもうひとつの事実は,家族はさまざまな人で構成されているということです。ひとつの家族には,赤ちゃん,子ども,おとな,中年の人,高齢の人などがいるでしょう。それぞれが他とはさまざまに異なっているでしょう。しかし,全員が家族の取り決めの中に自分の場所を持ち,だれもが神や人の前で劣等感を持つ理由はありません。

      11 (イ)どんな取り決めが家族に似ていますか。どんな点で似ていますか。(ロ)クリスチャンの「家族」の中ではどんな進歩が可能ですか。

      11 黙示録 7章の「大いなる群衆」に属する人びとは,家族に似たひとつの取り決めの中に入れられます。それらの人びとがこのクリスチャン家族のような取り決めの中で,家族の中の他の者たちにくらべて年を取っているとか,ハンディキャップがあるとか,教育がないとか,小心であるとか,あるいは能力がないとかいう理由で劣等感をもつ必要があるでしょうか。人は自分の限界を克服するよう努力するかもしれませんが,劣等感をもつ理由はありません。ですから,もしあなたの背景がもたらした結果としてあなたが今ハンディキャップを持っているなら,そのハンディキャップがどんなものであろうと,あなたは次のことをおぼえているべきです。それは,もしあなたが今エホバ神に対して忠実であるなら,あなたは変化することができ,クリスチャンと公言するにふさわしい『種類』の人になることができるということです。聖書が示す,この変化を遂げるひとつの方法は,エペソ書 4章23,24節にみられます。「あなたがたの思いを活動させる力において新たにされ,神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格を着けるべきことでした」。(ロマ 12:2もごらんください)これは,自分の『質』を改善したいと思っている人を励まし,またその心に訴えるものではないでしょうか。

      真の努力

      12 わたしたちの側のどんな努力が必要ですか。

      12 良い願いを持っている人の誠実さは,この目標を達成するために思いと心を集中させ,力をつくすその努力によってある程度示されます。それは自分自身が払う努力ですけれども,自分が意識している霊的必要を供給するためにエホバがキリスト・イエスを通してもうけてくださる備えを度外視して,自分自身の力で行なうのではありません。テモテ前書 4章10節にそのことがどのように述べられているかに注目してください。「わたしたちはそのためにほねおって働き,また努力しているのです。わたしたちは生ける神に希望を託しているからです。神はあらゆる種類の人,特に,忠実な者の救い主です」。ですから「あらゆる種類の人」がいっしょうけんめいに働き,また努力する必要があります。そうすればエホバの祝福がありますから,それを首尾よく行なうことができます。ではそれは励ましではありませんか。

      13 (イ)あなた自身については,どのように有利に考えますか。(ロ)神の霊についていえば,どんな事実がここで助けになりますか。

      13 あなたは,自分が他と異なる個人として,ほかのだれにもない特質を持っているということを考えたことはありませんか。あなたはほんとうにそれを持っているのです。ほかのだれにも正確にはまねのできない方法で,またまねのできない程度にできる事柄があなたにはあるのです。ですから,ほかの人がすること,またはできることに圧倒される必要はありません。それよりも,ひとりびとりが自分自身の特質を考慮し,それを崇拝においてエホバをたたえることに用いるほうがよいのです。人にはそれぞれ生まれつきの才能がありますから,それをよりよく用いるよう,向上させることができます。また,クリスチャンがエホバ神の霊の働きを通して受ける賜物もあります。しかし,この場合でさえも,すべての人が同じ賜物を受けるわけではありません。コリント前書 12章4節から6節に述べられているとおり,『賜物は殊なれども,御霊は同じ,務は殊なれども,主は同じ。活動は殊なれども,すべての人のうちにすべての活動をなしたまう神は同じ』です。謙そんな人は自分の生まれつきの才能を伸ばし,新しい才能をさえ獲得することができ,さらに心や思いや努力のうえに,『すべての人のうちにすべてのことをなしたまう神』への個人的な,喜ばしい崇拝と奉仕すべてにおいて,エホバの聖霊の助けと祝福を得ることができます。

      14 他の人々の特質に対してはどんなバランスのとれた見方を持つべきですか。

      14 ほかの人たちをよく観察することも,よい助けとなり,よい援助となります。自分の周囲を見回すと,能力のある人たちがいるでしょう。もちろん,そうすると劣等感を感じるかもしれませんが,それはまちがいです。反対に,別の人の良い特質を観察することによって学ぶのです。そして自分にできる程度にその特質を見習うのもよいでしょうし,またなんらかの資格のある人に援助を求め,その援助を受けてもよいでしょう。とはいっても,その人になろうとすべきではありません。自分はあくまで自分であるべきです。そして,クリスチャンの組織体のどんな部分であっても神が自分に割り当てられた部分でいるべきです。

      15 コリント前書 12章の,適切な人体のたとえについて説明しなさい。

      15 事実,聖書は,クリスチャンの会衆の組織を人体にたとえて,尊くないと思われるからだの部分もやはりきわめて必要であることを示し,クリスチャン会衆内で尊くないと思えるかもしれない人びとの例としています。『もしみな一肢ならば,からだはいずれか。げに肢は多くあれど,からだはひとつなり。眼は手にむかいて「われ汝を要せず」と言い,頭は足にむかいて「われ汝を要せず」と言うことあたわず。否,からだのうちにて最も弱しと見ゆる肢は,かえって必要なり。からだのうちにて尊からずと思わるる所に,物をまといて殊にこれを尊ぶ。かく我らの美しからぬ所は,ひときわすぐれて美しくすれども,美しき所には,物をまとうの要なし。神は劣れる所に殊に尊栄を加えて人のからだを調和したまえり。これからだのうちに分争なく,肢々一致して,互いに相顧みんためなり。もし一つの肢苦しまば,もろもろの肢ともに苦しみ,一つの肢尊ばれなば,もろもろの肢ともに喜ぶなり』― コリント前 12:19-26。

      信仰をもって応ずる

      16 信仰についてどんなことを考えてみる必要がありますか。

      16 神が,謙そんな人びとをいつくしまれるという事実を頭で確かめ,エホバの愛情深い備えに自分もあずかれるということを心に確信したなら,そのへりくだった,謙虚な人は,自分にも他の人たちと同様に信仰が必要であるということを認めることができ,それはその人にとって益となります。それで霊的必要を意識していると思う人は次のように自問してみなければなりません。わたしはほんとうにエホバとそのみ子に信仰を持っているだろうか。わたしを助けるという神の約束をわたしは信じているだろうか。このことにかんするイエスのことばによると,そのような信仰はエホバの霊を求めつづけることにあらわれます。イエスは次のように言われました。「求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。たたきつづけなさい。そうすれば聞かれます。だれでも求めている者は受け,探している者は見いだし,まただれでもたたいている者には開かれるのです。それで,あなたがたが,邪悪な者でありながら,自分の子どもに良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天におられるあなたがたの父は,ご自分に求めている者に良いものを与えてくださるのです」。―マタイ 7:7,8,11,新。

      17 神の霊については,どんな異なる働きがあることを理解すべきですか。

      17 もうひとつ質問があります。あなたは,神の霊がいろいろに働いて,会衆の成員が持つ種々の能力を生み出し,そういう方法によって会衆の必要を満たしていることを認めますか。これは事実です。なぜなら,コリント前書 12章11節が,『すべてこれらのことは同じ一つの御霊の活動にして,御霊その心にしたがいて各人に分け与えたまうなり』と述べているからです。これは,謙そんな人びとは自分自身の能力に依存していることを意味する,と言えるでしょうか。決してそういうことは言えません。『もし語るならば,神のことばをかたる者のごとく語り,事うるならば,神の与えたもう能力を受けたる者のごとく事えよ。これイエス・キリストによりて事々に神の崇められ給わんためなり。栄光と権力とは世々限りなく彼に帰するなり,アァメン』― ペテロ前 4:11。

      18 どうすれば人は神が与える能力から益を得ることができますか。例をあげなさい。

      18 神が与えてくださる能力の結果をよいものにするためには,教えと訓練を進んで受ける必要があります。そうすればその人は,自分は指導も訓練も助言も必要としないと考えている人よりも神にとって用い易い存在にさえなります。このことを示す現代の実例は,世界の各地で行なわれているエホバの証人の福音伝道のわざを支援するために組織されている,ものみの塔協会の本部と支部の施設で自発的に奉仕している奉仕者たちに見られます。本部と支部には,いずれの場合にも,ベテル家族を構成する奉仕者たちがいます。それらの奉仕者たちは,最初のうち,頼まれる重要な仕事については全く経験がないかもしれません。その仕事には,エホバの証人たちが伝道区域全体に配布する聖書,聖書の話をのせた印刷物,聖書研究の手引などを印刷する上で必要な,数多くのこまかな事柄を扱うことが含まれています。ベテルでの奉仕を自発的に申し出たそれらの奉仕者の多くは,はじめのうちは,割り当てられた仕事を果たすことができないかもしれない,と感じます。でも彼らは謙そんでよく教えを聞き,最初からよい訓練を受け,基礎的な事柄を学び,また正しい方法で物事をすることを学びます。その結果,仕事は成功し,エホバの神権組織のわざのひとつの重要な部分を成し遂げたということを絶えず実感します。

      19 けんそんな人は会衆内でどのようにして進歩することができますか。

      19 エホバの証人の会衆内でも同様です。新しい人,あるいは内気な人たちは,与えられる援助を受け入れて,会衆の組織に協力するよう誠実に努力すべきです。そうすれば,証言を行なう最もすぐれた,そして基礎的な方法を学び,証言のわざに実際に参加するようになるでしょう。そのようにして謙そんな人びとはなんとすばらしい進歩を遂げるのでしょう。

  • 会衆内でエホバの優しい愛情に答え応じなさい
    ものみの塔 1973 | 6月1日
    • 会衆内でエホバの優しい愛情に答え応じなさい

      「自分に力を与えてくださるかたのおかげで,わたしはいっさいの事に対して強くなっているのです」― ピリピ 4:13,新。

      1 エホバの証人の会衆にはすべての人があずかれるどんな備えがありますか。それは参加者をどのように助けていますか。

      エホバの証人のすべての会衆にみられるすぐれた備えのひとつは,会衆内のすべての人がはいれる神権宣教学校です。この学校に出席し参加する人は,聖書の特定の主題を勉強することができます。あなたは参加しておられますか。もし参加しておられるなら,ご自分の知識や理解を深めておられるのではありませんか。また,あなたは他の人びとに真理を宣べ伝えることにおいて進歩をつづけ,会衆内のほかの人びとを霊的に建て起こしているのです。

      2 神のことばにかんするどんな事実は,神権宣教学校をフルに活用するよう励ましますか。

      2 しかし備えはあっても,会衆内には,神権宣教学校にはいらず,また参加しない人たちがいるかもしれません。なぜでしょうか。おそらく,自分には能力がないとか,自分にはとてもそういう技量はないなどと考えるからでしょう。でもそのような人たちは,エホバがご自分の民にご自分の真理を語ることを望んでおられるという事実を考えてみるとよいのではないでしょうか。霊感によって書かれた聖書のことばを語ると多くの益があります。『聖書はみな神の感動によるものにして[1]教えと[2]いましめと[3]矯正と[4]義を薫陶するとに益あり。これ神の人の[5]全くなりて,[6]諸般の善きわざに備を全うせんためなり」。(テモテ後 3:16,17)確かにすばらしい益です。

      3 学校が与えるどんな援助も励ましになりますか。

      3 民が真理を語り,しかも明確に語ることをエホバが望んでおられることは疑問の余地がありません。といってもそれは,全部の人が演壇で話をする講演者と同じほどの雄弁さを身につけるという意味ではありません。しかし,神権宣教学校は,すべての人が知識を増し加え,ことばをはっきりと表現し,物事を正確に述べ,また他の人びとに近づく能力を増進する助けになります。学校に参加することはまた愛を助長し,会衆内の他の兄弟姉妹たちに励みを与えます。そのことはさらに,エホバに全幅の信頼を寄せ,エホバにより頼んで最善の努力を払う参加者の信仰の表示でもあります。

      4 ここで語られている経験について述べ,その中で信仰がどのように示されているかを示しなさい。

      4 これは,自分の住んでいる土地のことばをりゅうちょうに話せない人たちの場合にも言えることです。そのようなハンディキャップがあるにもかかわらず,彼らは神権宣教学校で誠実に努力するので,かなり熟達した奉仕者になります。神の霊が成し遂げる事柄には実に驚くべきものがあります。無教育の人たちもこの学校の助けを受けて自分の境遇を克服しています。次にかかげる,西アフリカのダオメーにある当協会支部の事務所から寄せられた手紙の抜粋に見られるとおりです。

      「兄弟たちはいくつかのむずかしい問題に直面しています。ほとんどの人が文盲なのです。宗教的迷信も非常に根深いものがあります。そのうえ,国語がないのにたくさんの言語があります。たとえばコトノウ市には現在エホバの証人の会衆が五つありますが,それらの会衆の集会は五つの異なる言語で行なわれています。言語の多くは文字を持たないので,人びとには文字のある言語で読むことを教えなければなりません。昨年は108人が読むことを習いました。その人たちは,会衆の監督下で開かれている読み方クラスに出席したのです。字の読めない兄弟たちはまだ600人ほどいます。来年はそれらの兄弟たちがこの問題と取り組むことでしょう。もちろん,字が読めることはたいへん必要とされています。かつて文盲であったある伝道者が話したとおりです。

      「この兄弟は新しい人で,初めて戸別に神のことばを伝える奉仕に参加していました。彼はあるプロテスタントの男の人に話しかけました。その人は伝道者が文盲であることを見てとって,『きみ自身聖書が読めるようになるまでぼくのところに説教しにくるのはよしてくれ』と言いました。その新しい伝道者は話をつづけようと努力しましたが,その人は耳を傾けようとせず,また,文盲の人間は何を教えることもできない,と言いました。そこで伝道者は,自分のその問題を克服する決意をしました。クラスに出席して読み方を習うだけで満足せず,それに加えて毎日みっちり勉強し,それを6週間つづけました。どこへ行くにも本を携えて行き,字の読める人に発音の仕方を教えてもらいました。6週間後,彼はまた奉仕に出ました。その人がまっ先に尋ねたのはだれだったでしょうか。それは彼がはじめて伝道に出た時,耳を傾けようとしなかった人でした。こんどはそのプロテスタントの男の人は,この『文盲』の男が自分に聖書を読んで聞かせるのに驚いたばかりでなく,彼が教えていたことにも関心を示しました。

      「来年はさらに多くの人が,読めるということのたいせつさに気づくよう希望しています。そうすれば『より多くの弟子をつくる』ために,この地域でも『良いたより』はより効果的に宣べ伝えられるでしょう」。

      5 謙そんな人びとはどのようにエホバの民の組織を支持することができますか。

      5 この経験からわかるように,そしてまた聖書に記録されている種々の経験が物語っているように,謙そんな人びとは,もし彼らがエホバに奉仕する特権と機会に進んで応じ,信仰を持って自分にできるだけのことをするなら,多くの場合最も祝福された人びとです。もし謙そんな人たちが会衆と交わっており,聖書的にみて野外奉仕に参加する資格があるなら,そうするよう励まし,また活動を拡大するよう助けるべきです。このことに対する彼らの良い反応はエホバの民の組織のささえとなります。彼らは自分に与えられている能力の最善をつくすと同時に,へりくだった思いも捨てないからです。このような態度は,エペソ書 4章2,3節に述べられているような良い結果を得るのに力があります。『ことごとにけんそんと柔和と寛容とを用い,愛をもて互いに忍び,平和のつなぎのうちにつとめて御霊の賜う一致を守れ』。

      6 謙そんな人の忠実な努力を通してどれほど広範な結果の得られることがありますか。

      6 イスラエルが敵の軍隊に勝利を収めたことに関する聖書の記録には,単に一地域社会のエホバの民の一会衆が助けられたのではなくて,神権国家全体がひとりの謙そんな人の忠実な努力によってささえられたことを示す物語がのせられています。イスラエルの将軍バラクは,カナン人の軍隊の将シセラが,バラクの手ではなく,ひとりの女の手に『売られる』,つまり渡されるということを知らされました。その大いなる誉れは,あるケニ人の男の謙虚な妻ヤエルという婦人に与えられることになりました。彼女は大きな危険があったにもかかわらず勇気を出し,自ら進んで事を行ないました。彼女は自分にできるかぎりのことをすべて行ないました。そして神の邪悪な敵を渡されたことによってその報いを得ました。また,彼女の業績にかんする記録と彼女の名前は,聖書の中にとどめられています。その聖書の物語は,士師記 4章8,9,21-23節にのっています。

      7 士師記 4章の聖書の物語のどの点がとりわけ印象的ですか。

      7 『バラク[女預言者デボラ]にいいけるは汝もし我とともにゆかば我ゆくべし されど汝もし我とともに行かずば我行かざるべし デボラいいけるは我かならず汝とともにゆくべし されど汝は今ゆくところの途にては栄誉を得ることなからん エホバ婦人の手にシセラを売りたまうべければなりと デボラすなわち起ちてバラクとともにケデシにゆけり 彼疲れて熟睡せしかばヘベルの妻ヤエル天幕の釘子を取り手につちを携えてそのかたはらに忍び寄りびんのあたりに釘子をうちこみて地に刺し通したればシセラすなわち死にたり バラク,シセラを追いきたりしときヤエルこれをいでむかえていいけるは きたれ我汝のもとむるところの人を示さんと かれそのところに入りて見るにシセラびんのあたりに釘子うたれて死にたおれおる その日に神カナンの王ヤビンをイスラエルの子孫のまえに打敗りたまえり』。それは,忠実な,謙そんな者による,実に大いなる勝利でした。

      天の支援と導き

      8 (イ)キリスト教は単なる信仰以上のものです。なぜですか。(ロ)テモテ後書 3章14節はこのこととどんな関係がありますか。

      8 エホバの献身したしもべたちの背景がどんなものであろうと,それぞれが過去のある時にキリスト教の道を歩みはじめたのです。この道は単なる信仰ではなく生き方であり,忠実な歩みが要求される道です。使徒パウロはテモテに,「学びて確信したる所に常にお(る)」べきことを思い出させました。(テモテ後 3:14)わたしたちもこの義の道を歩みはじめたのですから,最初真理を聞いた時にそれを注意深く検討したことを思い出し,全き確信をもってこの道にとどまります。時がたつうちにわたしたちは十分に納得しました。しかも感情に動かされたり圧力をかけられたりして納得したのではなく,反論の余地のない真理によって納得させられたのです。ですからわたしたちは,聖書に述べられている真理の道に従いつづけるべきです。そうするときに,わたしたちは全能の神,そのみ子で統治しておられる王およびその聖なるみ使いたちのうしろだてを確信することができます。

      9 地上で神を賛美する人びとに対して天からの支持があることを黙示録 7章がどのように示しているかを説明しなさい。

      9 あなたは黙示録 7章の『大いなる群衆』が,『救いは御座に坐したまう我らの神とこひつじとにこそあれ』と大声で叫びつづけているのをおぼえておられますか。(10節)エホバの賛美者であるこの『大いなる群衆』に対する天の支持は,次の11,12節のことばの中に示されています。『み使いみな御座および長老たちと四つの活物との周囲に立ちて,御座の前に平伏し神を拝して言う,「アァメン[『大いなる群衆』が大声で叫んだことに対するアァメン],賛美・栄・知恵・感謝・尊貴・能力・勢威,世々限りなく我らの神にあれ,アァメン」』。そうです,確かに『大いなる群衆』は天のうしろだてを持っています。

      10 (イ)エホバの導きはどんな事に関係していますか。(ロ)謙そんな人びとは神の奉仕者として伝道したり教えたりすべきですか。

      10 また,謙そんな人びとには,クリスチャンの道を歩むさいに導きがあるということを示す聖書的な証拠もあります。というのは,『なんじの聖言はわがあしのともしびわが路のひかりなり』としるされているからです。(詩 119:105)献身したエホバのしもべは行ない,考え,習慣,態度,奉仕などに関して神の導きを受けます。そのようなしもべたちの中のめだたない人たちでも,次の命令を実行することによって益を得ます。『なんじ御言を宣べ伝えよ,機を得るも機を得ざるも常に励め,寛容とおしえとをつくして責め,戒め,勧めよ…されど汝は何事にも慎み苦難を忍び,伝道者のわざをなし,なんじの職を全うせよ』― テモテ後 4:2,5。

      11 (イ)ではだれが神の規準に従わなければなりませんか。(ロ)エホバへの奉仕の機会に関してとるべき最善の道は何ですか。

      11 では,エホバのうしろだてと導きを得たいと思えば,神権組織内のあらゆる「種類」の人が,「この道」の指し示す要求,責任および特権に従わなければならないことになりませんか。そうすれば,「この道」を歩む,謙そんな人,また「この道」と関係のある多くの事柄を行なう資格は自分にはないとしばしば感ずる多くの人びとが関係してきます。(使行 19:9,新)しかしながら,そういう人びとは,もしより大きな責任もしくは特権を差し伸べられたなら,それを受けて,誠心誠意それを行なうのが最善の道であるということをおぼえていなければなりません。神はわたしたちの限界をご存じですし,わたしたちが神から割り当てられた事柄を扱うに十分の能力をわたしたちにお与えになることができます。『我を強くし給う者によりて,すべての事をなし得るなり』と使徒パウロは書きました。(ピリピ 4:13)ですから,もし会衆内で特定の立場で奉仕することを頼まれたなら,問題を主のみ手にゆだね,堅く信頼してそれに応じ,最善をつくすべきです。詩篇作者は次のように述べています。『なんじのいきおいの日になんじの民は聖なるうるわしき衣をつけ心よりよろこびて己をささげん』― 詩 110:3。

      心よりよろこんで答え応じる

      12,13 (イ)エホバはどのような区別をされますか。(ロ)どんな人がエホバのいつくしみを受けますか。

      12 人が「謙遜」を身につけているということは,その人が高慢でないことを意味します。そしてそれは望ましい資質です。しかし,自分の背景や生まれつきの能力の限界ゆえに自分を低く考えている人は,エホバに全き信頼を寄せる必要があります。

      13 エホバは,高慢な者と謙そんな者とを区別して扱われます。エホバご自身のことばが,『エホバは高くましませども卑きものを顧みたまう されどまたおごれるものを遠きよりしりたまえり』と述べています。(詩 138:6)イザヤ書 66章2節にも,「エホバ宣給く」とあって,やはりこの区別が示されています。『我はただ苦しみまた心をいため我がことばを畏れおののく者を顧みるなりと』。またクリスチャンは次のように助言されています。『みなたがいに謙遜をまとえ「神は高ぶる者を拒ぎ,謙だる者に恩恵を与え給う」。この故に神の能力ある御手の下に己を卑うせよ,さらば時におよびて神なんじらを高うし給わん』。『神は高ぶる者を拒ぎ,謙だる者に恩恵を与え給う』。(ペテロ前 5:5,6。ヤコブ 4:6)『謙遜』が,着物のように着るべきもの,そしていつも着ていなければならないものであることは明らかです。『慈悲の心・なさけ・謙遜・柔和・寛容を著よ』。(コロサイ 3:12)わたしたちの指導者キリスト・イエスはそういうかたです。イエスはご自分のことをわたしは「心卑ければ」と述べておられます。(マタイ 11:29)神はそのような謙そんな人をいつくしまれます。

      14 『こころ砕けてへりくだる者』に対して神はどんな目的を持っておられますか。

      14 神が謙そんな者をいつくしまれるのは彼らの心と精神を強めるためです。『至高く至上なる永遠にすめるもの聖者となづくるものかくいい給う 我はたかき所きよき所にすみ またこころ砕けてへりくだる者とともにすみ 謙だるものの霊をいかし砕けたるものの心をいかす』。(イザヤ 57:15)エホバは,自分の背景や現在の状況の圧力によってゆがみくだけている人びとに,新生面を開くことができます。

      15 謙そんな人はどんな区別をしなければなりませんか。

      15 エホバがへりくだる者と高慢な者とを区別して扱われるように,謙そんな人びとも識別力を働かせて,必要な,正しい,クリスチャンの謙そんさと,見せかけの謙そんさとを区別しなければなりません。なぜなら見せかけの謙そんさはほんとうの謙そんさではなく,実際にはずうずうしさだからです。

      16 何を調べればこの区別を正しく行なう助けになりますか。

      16 謙そんな人びとが,この区別をするうえで助けになるのは,エホバに対する自分の信頼度を調べてみることです。わたしたちは次の箴言をよく知っています。『汝こころをつくしてエホバにより頼め おのれのさとりによることなかれ 汝すべての道にてエホバをみとめよ さらばなんじの途を直くしたまふべし』― 箴 3:5,6。

      17 聖書は真の謙そんさと見せかけの謙そんさをどのように区別していますか。

      17 使徒パウロはコロサイのクリスチャンたちに書き送った手紙の中で,真の謙そんさと単なるかたくなな態度との区別のしかたをわたしたちに教えています。『殊さらに謙遜をよそおい,御使いを拝する者に汝らのほうびを奪わるな。かかる者は見し所のものに基づき,肉の念にしたがいて徒らに誇(る)。これらの誡命は,みずから定めたる礼拝と謙遜と身を惜しまぬ事とによりて知恵あるごとく見ゆれど…力なし』。(コロサイ 2:18,23)謙そんな人びとは,『肉の念』を避けねば,あるいは除かねばなりません。それは,『知恵あるごとく見ゆれど』,真の知恵でも,謙そんでもありません。箴言 11章2節が注意しているとおりです。『たかぶりきたれば辱もまたきたる 謙だる者は知恵あり』。賢明なのは,『おのれをさとしとする』人ではなく,ほんとうに謙そんな人です。(ロマ 12:16)このことは確かに多くの考えるべき事柄,真剣に考慮すべき多くの神の助言を謙そんな人たちに与えます。それは彼らが,エホバの優しい愛情と,愛情深い備えとに答え応じ,しかも確信をもってそうすることができるためです。『義者はししのごとく勇まし』― 箴 28:1。

      18 この記事からどんな二つの結論を引き出すことができますか。

      18 以上のことから,わたしたちは次のように結論することができます。つまり,エホバ神の助けがあればだれもが,どんなタイプの奉仕の割り当てでも行なう能力を相当程度培うことができるということです。また,エホバは謙そんな者をいつくしみ,もし彼らがエホバの導きと指示を求め,エホバのことばを信じ,そして自分に差しのべられた奉仕の特権を受けさえすれば,より大きな奉仕の特権に対する備えをしてくださると結論することもできます。

      19 自信のある人びとにはどんな助けと助言がありますか。

      19 自分は能力がないとか劣っていると考える人たちとは対照的に,他の人びとは,自分の境遇や業績や背景のゆえにかなりの自信を持っているかもしれません。神のことばの中にはそういう人びとにも役だつ助言があります。エホバの民はみなエホバの群れの「羊」です。それには,神の民の会衆の中で特権と責任を持つ人びとも含まれています。その象徴的な羊の中から,群れを導き世話をする羊飼いたちが取られますが,彼らはやはり群れの「羊」でなければならず,自分を過大評価して高慢にならないよう自分自身に注意しなければなりません。もし彼らが高慢であるなら,あるいは高慢になるなら,エホバは彼らを用いつづけることができません。なぜなら,神は誇り高ぶる者に好意を持たれないからです。「あなたがた自身と群れのすべてに注意を払いなさい。[神]がご自身のみ子の血をもって買い取られた神の会衆を牧させるため,聖霊があなたがたをその群れの中に監督として任命したのです」― 使行 20:28,新。

      20 イエスは追随者たちにどんなよい模範を示されましたか。

      20 神「ご自身のみ子」イエス・キリストさえも自分に頼ることをせずにこう言われました。『子は父のなし給うことを見て行なうほかは自ら何事をもなし得ず,父のなし給うことは子もまた同じくなすなり』。(ヨハネ 5:19)使徒たちはイエスの前で劣等感を持ったかもしれません。しかしイエスの謙そんさと愛は,彼らの最も良い資質を引き出しました。神の民の会衆の中で責任ある立場にある人びとはみなそのようでなければなりません。つまり,み父の優しい愛情とあわれみを反映した,謙そんで愛のあるイエスのようでなければなりません。

      21 聖書は誇り高ぶる人にどんな助言を与えていますか。なぜですか。

      21 もし人が祝福と特権のために誇り高ぶるようになったなら,その人は思いと心の謙そんさという必要な特質を失ったのです。もし変化しないならその人は失敗します。『神は高ぶる者を拒ぎ…給う』からです。(ペテロ前 5:5)『たかぶりは滅亡にさきだち誇る心はたおれにさきだつ 卑き者に交わりて謙だるはたかぶる者とともにありてえものをわかつにまさる』― 箴 16:18,19。

      22 次の人びとに対する正しい態度は何ですか。(イ)良い境遇と能力に恵まれた人びと。(ロ)進歩するのに時間と訓練を必要とする人びと。

      22 謙そんな人たちに対する神の態度は明らかです。すべての人はそれを見習うべきです。良い境遇と天賦の才に恵まれた人たちは努力し,クリスチャンとしてよく進歩します。この進歩は称賛に価します。そのような能力,責任そして特権をもつ人たちは,ほかのある人びとにはそういうものがないことを認めなければなりません。訓練とエホバの霊の働きとから益を受ける人たち,そして時がたつにつれて進歩し,神権的な特権を加えられる人たちもいます。それは非常にすばらしい事ですし,クリスチャンとしての正しい進歩を示すものです。加えて,クリスチャン会衆内にいる多くの新しい人,あるいはまだ事情が許さないために進歩していない人びとをもわたしたちは神の見地から見なければなりません。そのようなやや進歩のおそい人びとを重要でないと考えるのは,まちがった人間的な考えです。神はそういう人たちに関心を持っておられ,価値のある方法でその人たちをお用いになることができますし,また現に用いておられます。

      23 (イ)だれがだれを助けるべきですか。(ロ)ヤコブに共鳴して,わたしたちはみな何が真実であることを知りましたか。

      23 ですから,このような正しい見方をもって,謙そんな人びとも他の人びともみな,お互いに助け合いましょう。このことには,年の若い,文字通りの子どもたちを助けることも含まれています。また,年を取った人,からだの弱い人,そして劣等感を感じているかもしれない人なども援助すべきです。謙そんな人びとが,エホバの愛情深い備えに答え応じて,エホバの民の会衆の組織に支持と力を与えるとき,すべての人が彼らから霊的な益を受けることができます。この点で会衆での交わりや個人的な交わりは貴重なもので,すべての人に,『神は劣れるところに殊に尊栄を加えて人のからだを調和したまえり』という聖書のことばの真実さを実感させます。(コリント前 12:24)確かにエホバのしもべたちはみな同じように,聖書の記述者ヤコブのことばに共鳴するでしょう。彼は言いました。『なんじらヨブの忍耐を聞けり,〔エホバ〕の彼に成し給いし果を見たり,すなわち〔エホバ〕は慈悲ふかく,かつあわれみあるものなり』― ヤコブ 5:11,〔新〕

  • おくらさないでください
    ものみの塔 1973 | 6月1日
    • おくらさないでください

      ● 『たいてい明日という日は1年中で一番忙しい日だ』ということわざは,人間の遅延という性向をよく言い表わしている。したがって,現在,つまり今日のことに関して霊感のもとにしるされた次の激励のことばはなんと適切であろう。『それゆえに〔機会のあるごとに〕,すべての人,ことに信仰の家族に善を行なえ』― ガラテヤ 6:10〔口語〕。

  • エホバの新しい体制について教える
    ものみの塔 1973 | 6月1日
    • エホバの新しい体制について教える

      ● アルゼンチンのチャコ州でわざの興味深い面は,森林を伐採する野営で公開講演を行なうことです。こうした野営は密林のまん中にあり,きこりたちが住む不安定な小屋や差掛け小屋から成り立っています。中には小じんまりしたテントを張ったり,ハンモックをかけたりして生活する人がいます。私たちはこうした野営を訪れ,ある日時に予定されている聖書の無償の講演会に彼らを招待したものです。もちろんそれは,いつも就労時間の終わった夜に行なわれました。このようにして人びとは仕事から帰って,少しばかり汚れを洗い落とし,マテ茶をいっぱい飲む時間があります。もう一つの経験は,私たちが滞在していたクリスチャン兄弟の家からの旅にかんするものです。私たちは夜の集会のためにカンテラを持って行きました。また時には,土地を仕切ってある有刺線の塀のわきを一列になって通ることもありました。私たちのうち,この冒険から無きずで帰宅した者はまれであり,シャツやからだは有刺線のそばを通ったことを表わし示しました。しかし障害はこれだけではありませんでした。午後のこの時刻になるとヘビが出てきて,道路沿いに寝そべっていることがあります。まちがってその上を踏もうものなら命とりになりかねません。集会場所への私たちの到着は風変りです。ここではなんの儀式もなく,ただ何人かの人とあいさつを交わし,風雨や労働で手の荒れた人と握手をし,それからカンテラをつりさげるための木を探します。講演者が筋書きを置くスタンドや演壇や扇風機はありません。人びとは地面や箱の上にすわったり,しゃがんだり,木にもたれたり,めいめい思いどおりにしました。私はより明るい場所を求めて,カンテラの下に立つという失敗を一度しました。私は,自分にではなく,光に関心のある何百ぴきもの虫に見舞われたのです。私たちが,日光や風雨によって皮革のような色に日焼けし,言うに言われない疲労をのぞかせているそれらの人たちに向かって話している時でも,それらの人が約束されている新しい体制のことを学んでうれしそうにほほえみを浮かべるのを見るのはすばらしいことです。講演は終わりました。そして再びみなとあいさつを交わしてから,『行って,弟子を作りなさい』というイエスのご命令の成就にあずかれたことの喜びを味わいながら,星の輝く夜空の下,徒歩で家に帰ったものです。―1972年エホバの証人の年鑑より。

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