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    ものみの塔 1955 | 4月15日
    • して価値ある子のなかに持たせあづけるという神の取り極めに不快を感ずべきではありません。この神の取り極めのどこが間違つていますか? 望んだ結果を生ずることができないというところは,どこにありますか? あなた方がその個人個人の好きな宗教的な者を表わし示すのを許すために,全能の神は多くの者の援助を求める必要があるでしようか? 数多くの宗教は,それぞれの宗教的な者を持つており,それらの者たちをよろこばせるためには,パンテオンつまりすべての神々の殿堂を築くことは必要でしよう。しかし,唯一つの生ける真の神は,彼御自身の選ばれた者を持たれています。その者とは犠牲として神の与えられた彼の独り子である正しい方です。神の愛を受ける資格は全くないどころか,処罰をうけた罪人であつた者たちのために,神はその最も愛する独り子を与え,罪人たちの手によつてその子を死なせましたが,その行いは愛,そうです,最も高い程度の神の愛を表わし示すものです。

      20 そのような愛は,私たちを怒らせる代りに,私たちに何をしますか? それをはねつけることは,何を表し示しますか?

      20 そのような常のものとは違う愛に,私たちは不快を感ずべきですか? そのような愛の無私の性質は,私たちをよろこばせるものです。その神の愛の恩恵をうけた一人の人は,そのことについてこう言いました。『私たちがまだ弱かつた時,キリストは不敬虔な人々のために定めの時に死なれた。実に,正義の人のために人が死ぬというようなことは殆どない。多分良い人のためならば,ある者は敢えて死ぬかもしれない。しかし,神は御自身の愛をこのようにして私たちに表し示されている。つまり,私たちが罪人であつたあいだ,キリストは私たちのために死なれた。』(ロマ 5:6-11,新世)そのように私たちに表し与えられている愛をはねつけ,拒絶することは,実際に極悪の忘恩ということを示すものです。

      21 私たちの愛は,なぜ神に答え応ずべきものですか?

      21 地上の人間でその愛する子を与えて,その子が恥をうけて苦しみなやみ,最もいたいたしい状態のうちに死なせるとしたらどうでしようか? しかも,それは,その人がなにの義務をも負わないばかりでなく,当然に亡びをうけるべき者たちが,そのことから恩恵を受けるためであるとしたならばどうでしようか? 神は私たち人間のために,その素晴らしい愛を表し示されました。このことについてこう書かれています。『神は愛である。このことによつて,神の愛は私たちの中に明らかにされた。なぜならば,神はその独り子を世に遣し,私たちが彼を通して生命を得ることができるようにされたからである。私たちが神を愛したのではなく,神が私たちを愛し,そして私たちの罪のための宥めの犠牲としてその子を遣わされたことに,愛はあるのである。』(ヨハネ第一書 4:8-10,新世)そのような神を愛せずにどうしておられるでしようか? この無私の神を愛するのを学ぶ時に,クリスチャン使徒ヨハネのようにどうしても次のように言わざるを得ません。『私たちについては,彼が最初に私たちを愛したために,私たちは愛するのである。』― ヨハネ第一書 4:19,新世。

      良い政府の手段による救い

      22 良い政府を愛するという点で,私たちは誰に似ていますか? 彼はそのような良い政府に対して何をされましたか?

      22 正義を求め願う人々が,唯一つの生ける真の神を知り,そして愛するようになると,神の愛とそれらの人々の愛が一つの特別な点で似ているものであると,よろこびのうちに認めるようになります。つまり,それは人類のための良い政府を愛するということです。このような正義で完全な政府を愛して,私たちはその政府を強く願い求めたものの,それについては何もすることができませんでした。悪くて利己的な,そして圧制の政府の勢力は,私たちにとつてあまりに力の強いものでした。私たち自身では,悪魔やその群と戦うことができません。しかし,ヱホバ神は全宇宙の最高至上者であるため,すべての正しい政府の源であります。ヱホバ神はこの世の不義な政治支配を良いとは認めていず,また無期限にそれらを許して人類を支配させるのはヱホバ神の目的ではありません。ヱホバ神は宇宙のあらゆる場所を支配する良い政府を愛せられる故に,人類を支配する良い政府を約束し,また取り極められており,それに最善の支配者,つまり彼の独り子を用いられます。その政府はヱホバ神から来るものであり,天にいて御座についた子によつて統治されるために,『神の御国』或は『天の御国』と呼ばれます。その政府にあつて,油注がれた王イエス・キリストは神に奉仕します。ヱホバは予言の中でイエスを指し示し,こう言つています『わが助くるわが僕,わが心よろこぶわが選び人をみよ。我わが霊をかれに与えたり。かれ異邦人に道をしめすべし。……彼は衰えず,気落ちせずして道を地にたておわらん。もろもろの島はその法言をまちのぞむべし。』― イザオ 42:1-4。

      23 その政府をすすめるために,神の選ばれた僕は地上で何をしましたか?

      23 この選ばれた僕が人間イエス・キリストとして地上にいた時,彼は神の御国を伝道し願うすべての者たちに御国を生活のなかで第一のものとするように強くすすめ促し,この政府への献身を示しました。彼は,病気の者たちを直す多くの奇蹟の業を行い,死んだ者を生命に甦らすことすらいたしました。それは,イエスこそ御国のために神の選んだ者であると示すためであり,また従順な臣民たちにたいして御国のする力ある仕事を示すためでした。『それは,予言者イザヤによつて語られたことが成就されるためであつた。イザヤはこう言つた「見よ! 私が選び,愛し,私の魂が認めた僕を! 私は彼の上に霊を置く。彼は裁きの何であるかを諸国民に明らかにするであろう。……本当に,諸国民は彼の名に希望を置くであろう。」』― マタイ 12:17-21,新世。

      24,25 (イ)神はその油注いだ王にどんな特質を持つように欲しますか? イエスは,そのような者であると,どのように示しましたか?(ロ)それでは,人間の危機を救う神の愛は,どの種類の政府によつて来ますか?

      24 ヱホバ神は良い政府を愛し支持しますが,その聖霊によつて油注ぎ,王位につける王が,丁度牧者が自分の羊に対してやさしくあるように,その人間の臣民に対してもやさしくあるようにと欲しています。イエス・キリストは牧者のような性質を持つていると証明しました。正しい牧者は,自分の羊のために生命を棄てます。丁度それと同じく,完全な人間であつたイエスは,自分の羊である追随者たちのためにその人間の生命を棄てました。イエスは,牧者 ― 王として自分に何が要求されているかを知つていたということは,彼が次のように言つたことから分ります『私は正しい牧者であり,父が私を知つており,私が父を知つているように,私の羊を知つており,私の羊は私を知つている。そして,羊のために私の魂を棄てる。また私は,この檻のものではない他の羊を持つており,私はそれらをも導かねばならず,彼らは私の声を聴き,一つの群一つの牧者になるであろう。私が魂を棄てる故に,父は私を愛しているのである。……私はこの命令を父から受けた。』(ヨハネ 10:14-18,新世)そしてイエスは,自分の羊のために完全な人間としての彼の魂または生命を棄てましたが,それは死から甦えつて天の御国でイエスと共に支配する小な群の羊のためだけではなく,また地上にあつて御国の支配をうける忠義で従順な臣民となるすべての『他の羊』のためでもあります。

      25 イエスは自分の羊に対して最大の愛を持つていました。彼自身の言葉を引用するとこうです『人がその友のために自らの魂を棄てることより大きい愛はない。』(ヨハネ 15:13,新世)あなたが,イエスの友であるならば,使徒パウロと共にこう言うことができます『神の子は私を愛し,私のために御自身を渡された。』(ガラテヤ 2:20,新世)ヱホバ神はそのような支配者を愛します。それは,この神の子について語つている予言が次のように述べている理由であります『あなたの御国の杖は正しい原則の杖である。あなたは正義を愛して不法を憎まれた。その為に,あなたの神はあなたの仲間のものに勝つて喜びの油をあなたに注がれた。』(ヘブル 1:8,9,新世)神の愛がいま人間を救われるのは,その子によるこの御国,すなわち善と真理を愛するこの神権政府によるのです。これこそ神がいま認め,人類を支配するよう権威を与えている唯一つの政府であります。

      26 神がこの古い世を亡ぼす理由が愛であるとはどうして可能ですか?

      26 正義の政府と忠実な支配者に対する神の愛の故に,ヱホバ神は悪い政府を有するこの古い世を亡ぼされます。神は悪を行つている者たちを亡ぼしますが,それは愛の表われです。たしかに,その愛とは,正義の原則の愛,圧迫をうけることなく平和と繁栄のうちに地上で生きるにふさわしい者たちへの愛であります。神の憎まれるものがありますが,それらのものがこの古い世にあることから,この古い世は必らず亡びるにちがいありません。こう書かれています。『ヱホバの憎み給うもの六つあり,否その心に嫌い給うもの七つあり,すなわち,驕る目,いつわりを言う舌,罪なき人の血を流す手,悪しき謀計をめぐらす心,すみやかに悪に走る足,いつわりを述ぶる証人,および兄弟のうちに争いをおこす者なり。』(シンゲン 6:16-19)神は彼の憎むものを私たちが愛するのをよろこばれません。私たちへの神の命令はこうです『世とまた世にあるものとを愛するな。もし世を愛するならば,父の愛はその者の中にない。なぜならば,世にあるすべてのもの ― 肉の慾,目の慾,そして財産を見せびらかすということは,父から始まつているのではなく,世から始まつているのである。それに,世は過ぎ去つており,そしてその慾も過ぎ去つて行くが,神の御意をするものは永遠に存続する。』― ヨハネ第一書 2:15-17,新世。

      27 ハルマゲドンの時に,愛はなぜ最大のなやみをもたらしますか? 無私の気持から新しい世を愛する者に対して愛は何をしますか?

      27 正しい見地から見る時に,この世の組織制度が,ハルマゲドンで全歴史のうちで最も大きななやみのうちに過ぎ去ることは,亡ぼすために神のもたらすなやみがどれ程に恐ろしいものであろうと,それは神の愛のあらわれであります。地の不敬虔な悪い全制度だけでなく,この目に見える組織制度の背後にある目に見えない悪魔の勢力,つまり地の近くに追い落され,そしていま地と海に災いを生じさせているサタンとその悪鬼たちを亡しさるためにそのすべてのなやみはどうしても已むを得ないものです。すべてのなやみのうちでも最も悪いそのなやみにくるしむ者たちは,神が愛の御心のうちにいまさし延べられている保護と脱出の路をしりぞけまた拒絶することにより自らそのような苦しみを選ぶのです。神は,この古い世を愛する利己的な者たちをハルマゲドンで亡ぼすでしよう。ヱホバ神は,無私の気持から正義の新しい世を愛する者たちを保護し,その宇宙戦争のあいだ守り通して,新しい天と新しい地を持つ新しい清い世に導き入れます。これらの者たちは,神の御意を行い続けることにより,正義の新しい世で永遠に存続するでしよう。

      28 神が強く愛された世はどんな世でしたか? 神はその世に対する愛をどのように,またなぜ示しましたか?

      28 正義の新しい世を準備し,ハルマゲドンの宇宙戦争の後にその世を設立することは,神の愛の表現です。その世こそ,ヱホバ神が強く愛された世であつて,その世のために彼は最大の犠牲を払われました。この理由のために,神の子イエス・キリストは,神の御国について論じた時に,次のように言われたのです。『神はその世を強く愛されたので,彼の独り子をあたえられた。それは,彼に信仰を持つ者はみな亡ぼされず,永遠の生命を持つためである。』(ヨハネ 3:3,5,16,新世)神はその愛された子をよろこんで地に遣し,犠牲の死を遂げさせましたが,それは神がそんなにも愛されている新しい世をつくり上げる人々のためでありました。イエスの死は,この貴重な新しい世において生命を得るという彼らの救いへの手段を設けるものでした。しかし,彼の犠牲の益を得るためには,彼らはその価値と力に信仰を持たなければなりません。この信仰に基いて行うことにより,彼らは古い世を愛する者たちと共に亡びるのを逃れ,新しい世での永遠の生命という祝福をうけます。新しい世の愛された王と交る者たち自身は,王のなされた犠牲を信ずる者たちであり,神はその信仰の故に,御霊によつて彼らを生まれしめ,霊の子たちとして選び取ります。死から甦えらす時に,神は霊の生命をそれらの者たちに与えて,新しい世の霊的の部分となし,彼らが天の御国にいるキリスト・イエスと共にいるようにします。この御国の愛される地的臣民になるすべての者も,同じように彼らの王の犠牲に信仰を持たなければなりません。こうするならば,その結果は,この地に回復される楽園にあつて完全な幸福の状態の下に永遠の生命の賜物を受けることになります。

      29 新しい世は,その最初からなぜ違つた世ですか?

      29 新しい世は,其処に住む人たちの生活に働く神の御霊の果でその最初から充たされるでしよう。こう言われています『御霊の結ぶ果は愛,よろこび,平和,忍耐,親切,善,信仰,温和,節制である。それらの事がらに反対する律法はない。』(ガラテヤ 5:22,23,新世)それはいまとは全く違つている世なのであります!

      30 神御自身の愛を考えるとき,どんな真理が見えてきますか? また,増し加わわる不法を考えるとき,何を生ずる危険に私たちはいますか?

      30 神は愛のうちに人間の危機を救いに来られている故に,私たちはこの愛という性質の重要さを悟ります。それで,大きな真理は明白に見えて来ています。私たちは,生きるために愛さなければなりません。このことは,私たち各個人についても真のことです。それよりも大きな規模について言うならば,人間の人種は,生きるために愛さなければなりません。エデンの園にいたアダムとエバは,その創造者である神に対して愛を失つて罪を犯し,神を愛し得ずに死なねばならなかつた時に,そのことを知り悟りました。今日の人類は,そのことを知り悟らねばなりませんが,しかし,アダムとエバの場合のように遅すぎてはなりません。アダムとエバが神を愛し得ず,また互いに愛し合えなかつたその愛の失敗のために,今日私たちはみなそのつらい結果を感じております。しかし,増加し続ける多くの人々は,ハルマゲドンの激烈な勃発によつて時の遅すぎることが示される以前の今それを知り悟つております。そして,必要な愛を発展し行使しようと学んでいます。私たちは今日『終りの時』に住んでおり,その終結に非常に近づいているため,利己主義と狂気の憎しみに屈するという危険におります。世の終りについての予言のなかでイエス・キリストは次のように述べこのことを警告しました。『不法の増し加わるために,多くの者の愛は冷えるであろう。』(マタイ 24:12,新世)愛することを止めるならば,それは死を意味します。死にたくないならば,私たちは愛さねばなりません。

      31 今日の人類の間ちがいは,どんないましめに不従順ですか? その二番目だけを守ろうとすることは,結局はどういうことになりますか?

      31 今日の人類の間違いは,二つの大きないましめに従つていないということです。それでは,それらの二つのいましめとは何ですか? イエス・キリストはこう答えています。『律法の中でどれが一番大きないましめですか?』と尋ねられた時,イエスはこう答えました『すべての心,すべての魂,すべての精神をこめて,あなた方の神であるヱホバを愛さねばならない。これは一番大きな初めのいましめである。第二のいましめもこれと同じ様に,自分のごとくに隣人を愛さなければならない。これら二つのいましめに,すべての律法と予言者たちは懸かつている。』(マタイ 22:35-40,新世)これら二つの主要ないましめは,積極的なものです。それらは愛を要求しています。最初に神への愛,それから私たち自身と同じ程に仲間の者を愛することです。最初に神への愛がないならば,仲間の者たちへの見せかけの愛,見せかけの人道主義も最後には失望と失敗になるでしよう。

      32 どんな予言の成就の故に,生命はいまの終りの日にいる大部分の人類にとつて空虚のものですか? この古い世は,なぜ死の中にとどまりますか?

      32 聖書の予言によると,私たちは『苦しい時』が地上に存在する『終りの日』に住んでおります。この苦しい日,危機の時に,人類の大部分にとつて生命は空虚のもので意味の無いものです。生命の空虚であるということには,何が責任ですか? 予言はこう答えています。『人々は自分自身を愛する者となり,金を愛し……自然の情を持たず……善を愛さず……自尊心のために思いあがり,神を愛するよりは快楽を愛し,敬虔の形だけは持つているが,その力にたいしては偽りなることを証明している。』(テモテ後 3:1-5,新世)人類は愛のないために,その生命の欠亡を感じています。人類は愛に欠乏しているために,生命に欠乏しています。次の言葉は真です『(これら二つの大きないましめに従つて)愛さない者は,死の中に留まる。』この愛のない殺人の古い世は,ハルマゲドンまで死の中にとどまり,そしてハルマゲドンで永遠に亡ぼされるでしよう。―ヨハネ第一書 3:14,新世。

      33 新しい世の生命を得ようとする私たちの努力は,どのように全然利己的ではありませんか? それで,大多数の人類はなぜハルマゲドンで滅亡しますか?

      33 ただ単に愛されるということではなく,愛すということ,そうです特に愛すということは健全で,意気を高め,富まし,励まし力づける事柄であります。神を愛することは,最も崇高な経験です。人間の危機のこの時において,永遠の救をもたらす神の条件を私たちが認めそれに従うのは,主として神を愛するからであります。なぜならば,新しい世で生命を得ようとする私たちの努力は,全然利己的なものではないからです。人類のこの危機にあつて,私たち自身を実際に益しそして,神を崇めるためには,神の愛に答え応じ,神の二つの大きないましめに従わねばなりません。人類の大部分はそれを拒絶し,また神の与える生命の真の希望を持たず,神の処罰をうけてハルマゲドンの時に彼らは本当に亡び朽ちます。彼らは『キリストの兄弟たち』にも,彼の他の羊にたいしても愛を持つていません。これらの者たちに愛を持つていないために,彼らは実際にはキリストやまた彼の神であるヱホバを愛しません。彼らは最後の亡びの時にいたるまで死の中に留まることを望むため,自分自身の運命を決めるか,またはハルマゲドンで亡び失せます。

      34 諸国民はどんな時にいるために,全人類は危機にいるのですか? そしてなぜ?

      34 すべての人類は,諸国民の裁きの時にいるために,いま危機の時におります。聖書の予言と,そして現代歴史におけるそれら予言の成就によると,そうです聖書に書かれてある神御自身の時の予定によると,この世の国々の『終りの時』は西暦1914年に初まり,神の御国が天に設立される正しい時が来ました。1914年に第一次世界大戦の起つたことは,その事実を証明する予言された証拠の一つにすぎません。そして,神のすすめに従いイエス・キリストは御国に来て,支配のために天の御座に坐りました。それは,この古い世を亡ぼして新しい世をまつたく導き入れるためです。

      35 (イ)御座に坐した王は,いまどんな分離の業をしていますか? なぜある者は処罰され,他の者は賞められるのですか?(ロ)それら賞められた者たちは,すでに生命の状態にどのように移りましたか?

      35 世の終りについての同じ予言の中で,イエスは,栄光を持ち,また聖なるすべての御使たちをしたがえ来て,栄光の御座に坐り,地の国民をみな御前に集めて,分離の業を始めると言いました。牧者が羊と山羊を分けるように,イエスは分けますが,しかしそれは政治的な国民を分けるのではなく,人々を互いに分けることです。イエスは恵みの右に羊のような人々を置き,排斥の左には山羊のような人々を置きます。イエスは山羊の級のものたちを非難しますが,それは彼らがキリストの霊的兄弟たちに対して愛を示さなかつたからです。また彼は『悪魔とその御使たちのために準備された永遠の火』によつて表わされている永遠の亡びに彼らを宣告します。彼は羊級の者たちを賞めますが,それは彼らがキリストの霊的兄弟たちに愛を示すからです。そしてこれらの義しい者たちを導いて,新しい世における永遠の生命を与えます。(マタイ 25:31-46,新世; 24:7)彼らは,ハルマゲドンの亡びの力に対してもキリストを通してなされる神の力で保護をうけ,この古い世の恐ろしい終りにあつても生きたまま通り抜け,開かれている栄光の新しい世に入るという希望を持つています。なぜ? なぜならば,今でさえ神とキリストを愛することを学び,また自分自身のように隣人を愛することを学ぶことによつて,彼らは死の状態から生命の状態に移り,永遠の生命への道を歩んでいるからです。このことのために,世は私たちを憎むでしよう。クリスチャン使徒ヨハネはこう言つています『私たちは兄弟を愛すために,死より生命に移つたことを知る。』― ヨハネ第一書 3:14,新世。

      36 私たち生けるものに対して,神のいま開かれている手は何をなし得ますか? しかし,ある者はなぜ不満足のままにハルマゲドンで滅亡しますか?

      36 それで私たちは,いままでのうちで最大な危機にいるのです。ヱホバ神は,すばらしい愛を持たれて私たちを助けに来られたという事実に目覚めるならば,私たちは悩む代りに幸福になり,そしてヱホバ神の道によろこんで従い救われたく思います。神の開かれている手をうけ入れるならば,私たちは愛ある心の願いを満すことができます。美しい御国の詩篇は,神の愛の御親切を説明し,次のような言葉で神に呼びかけています。『なんじ御手を開きてもろもろの生けるものの願いをあかしめたもう。』しかし,贈物をするには,二人が必要です。与える者がいるならば,受け取る者が必要です。全人類は,利己的な気持ちから,ヱホバの開かれた手の準備される物質的な良い物だけをうけ入れ楽しもうと欲しています。しかし,すべての人が,ヱホバの開かれた手の与える最大な提供,つまり霊的な提供物を心から認め感謝するわけではありません。永遠の生命という神の贈物は私たちの主イエス・キリストを通して来るという理由で,それらの人々はその神の贈物の提供を排斥し,また,物質的な食物だけでなく生命を与える霊的食物で養おうと差し出す手を彼らは咬みます。彼らは全くの意味で満足を感ぜず,不満足のままにハルマゲドンで滅亡してしまうでしよう。

      37 (イ)それで私たちは永遠の満足をどのように見出しますか?(ロ)何をすることにより,私たちは生命を得る決定をなし,また行い果しますか? そして何を立証いたしますか?

      37 しかし,詩篇はこう言つています『ヱホバは己をおそるるものの願いをみちたらしめ,その叫びをききて之を救いたもう。ヱホバはおのれを愛しむものをすべて守りたまえど,悪しき者をことごとく亡したまわん。』(詩 145:16,19,20)それで,いまヱホバの開かれた手にある愛の提供をうけいれることによつて,私たちは永遠に満足を見出すでしよう。私たちは愛の感謝の気持ちのうちに,私たちの救いの大きな手段,つまりイエス・キリストによるヱホバの御国を認めうけ入れます。その御国は,いまや天で設立されており,私たちは終りの来るまで証しとしてその御国を全世界に宣べ伝えます。(マタイ 24:14)私達は新しい世の社会として互いに結び合い,また定期的に集会します。それを必らずすることにより,互いに愛と正しい業にはげましすすめ合い「あの大いなる日が近づくのを見つめれば,ますます」そういたします。(ヘブル 10:24,25)これをすることにより,私たちは人間の危機のこの時にあつて生命を得るか否かを決定をなし,また行い果すことになります。そして私たちを救いに来る神の愛は立証されます。

  • 最善の行儀
    ものみの塔 1955 | 4月15日
    • 最善の行儀

      クリスチャンは最善の行儀をすべきです。神と人間に対するその真の愛から,クリスチャンは穏やかで礼儀正しく,親切な振舞をいたします。クリスチャンは神とキリストの大使であり,世の中で最高の地位を占める者です。この理由からも,彼らは正しい礼儀をなすべきでしよう。神は御旨のままに,クリスチャンを『御使と人間の両方に,この世の見もの』にし,見せものにされました。それで彼らの生活やすべての行為は,常に観察され,批評されています。彼らは生ける実例であり,神に誉をもたらすか,或は不名誉をもたらします。

      使徒パウロは,この事を知り,クリスチャンに次のことを思い起させています『キリストについての善いたよりにふさわしく振舞いなさい。』『何事も争や利己主義の気持からするのではなく,へりくだつた心を持ち,他の者を自分より優れた者と考えなさい。自分自身の利害だけに気をつけず,他人の利害にも気をつけなさい。』クリスチャンは何故そう振舞わねばならぬかについて,ペテロはこう語つています『諸国民のあいだで,正しい行をしなさい。それは,彼らがあなた方を悪人呼ばわりしても,あなた方の正しい業を見て,かえつて裁きの日に神を崇めるようになるためである。主のために,あなた方は人の立てたものに従いなさい。』この正しい振舞は,本質には良い行儀です。それは,互に平和を保つて生活する仕方を知る技術です。それは神と隣人の愛から出る礼節です。―ピリピ 1:27; 2:3,4。ペテロ前 2:12,13,新世。

      イエスは完全な紳士でした。彼は行儀を一度も間違えたことはありません。『人にして貰いたいと思う如く,他の人になせ』という神の規則を完全に実践しました。イエスを見守り,彼の言葉を聴き,その智恵の言葉を聞き,大いなる業と恵み

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