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エホバの組織に対する忠節ものみの塔 1964 | 11月1日
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の兄弟のピレモンにパウロが期待したと同じ仕方で,会衆の監督を補佐する僕,および群れを牧する仕事の一端を担うべくなんらかの割当てを受けた人のすべてが,各自の仕事に答え応ずるなら,会衆内でどれだけの事が成しとげられるか,またその時見られる建設的で熱心な雰囲気を考えて下さい。「わたしはあなたの従順を固く信じて,この手紙を書く。あなたは,確かにわたしが言う以上のことをしてくれるだろう」。―ピレモン 21。
17 会衆を牧する仕事に加わるため,会衆の組織についてどんな態度を取るべきですか。
17 研究や会衆の活動に加わる際に,できるだけ簡単な方法でやろうとする態度を捨て,かわりに,「心を傾けてこれらのことを専らつとめよ。汝の進歩の明かならんためなり」との助言に従いましょう。(テモテ前 4:15,文語)安易な道を求める肉の思いに迎合するのを止め,機会を捉えて円熟に進みなさい。もし,会衆の成員各自が,自分の好みに従って物事を決定し,最も伝道し易い区域を選び,会衆の聖書研究の群のうち自分の好きなところに行くとするなら,監督は群を牧することができないでしょう。もしすべての者が神の言葉と仕事を第一とし,すすんで組織を建てることを求めるなら,結果の相違はいかばかりでしょう。それこそエペソ書 4章15節のすすめるところです,「愛にあって真理を語り,あらゆる点において成長し,かしらなるキリストに達するのである」。
18 エホバの心を知ることはいかにしてなされますか。これを助けるのは会衆のどんな活動ですか。
18 信仰の高揚となる新しい事柄を聖書から学ぶため,神の組織内の他の者を伴って,忠実に集りに出席することも忠節のしるしです。それぞれの会衆ごとに開かれる集会は,神の組織の活動がきわめて明確に表現されるところです。忠節なクリスチャンは,こうした集りに出席することを各自の予定のうち最大事としており,次のパウロの言葉がその理由を説明しています。「ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか」。(ヘブル 10:25)こうした集りにおいては,自分の思いを語ることにより,集会そのものに参加できます。これによって私たちは少しずつ建て起こされ,聖書の諸点を説明できるようになり,やがては,それらが私たちの考えの一部となります。集会,大会,野外奉仕活動,経験を積んだ人々との交り,また数多くある出版物の研究などにより,たえず組織と共に行動するなら,私たちの語るところは組織の語るところに似て来るでしょう。組織に近づけば近づくほど,そのすべての活動に加わって,組織と共に働き,共に語り,共に喜ぶようになるでしょう。この組織は導き手たるキリスト・イエスに従っていますから,私たちが近づくのはイエス・キリストの思いです。こうして私たちはキリストの思いを持つようになるでしょう。(コリント前 2:16)イエスは御父の意志を反映していますから(ヨハネ 5:30),私たちはエホバの心を知り,エホバの道をあゆむことになります。(イザヤ 2:1-4)これをするのに他の方法がありますか。ただエホバの用いられる器に固く従うことによってのみこれは可能です。コロサイ書 3章10節もこの点を指摘しています,「新しい人格を着なさい。この新しい人格は正確な知識により,それを造られた方の像に従いますます新しくされる」。
19 私たちはどのようにして神の組織を守らねばなりませんか。
19 次いで私たちには,組織を守る責任があります。私たちは組織の一部です。私たちは全世界においてこれが神のみわざであることを認めます。これは働き,地上の事柄をまかなうため「忠実な思慮深い僕」により用いられています。(マタイ 24:45-47)これは折々に必要な食物を私たちに与えます。この組織がストライキをすることはありません。この組織内に分裂はなく,御国のわざを推進するにあたってはいつも強固です。これは日夜働いて,私たちに対する配慮を怠りません。これを利益を目的とする巨大な企業体と見てはなりません。もしだれかがこれにつけ込んで私利を得ようとするのを見るなら,「私に関係がない」と言ってほっておくべきではありません。組織の成長と共に,多額の資金,機械,御国会館,大会用備品,補給品などが用いられるようになりますが,ここで私たちは,これらの資産を私用に帰し,組織は大きいのだからだいじょうぶだろうといったこの世の慣行にならいません。組織の清さについても同じです。「だれかが不潔な行いをしたからといってどうして怒るんだい。どうしてわざわざ人の感情を害するんだい。組織は大きいじゃないか。全体に影響はないよ」といって,無関心な態度を取るべきではありません。個人の非行は全体に影響します。組織は神のものです。深慮をもってこれを見るなら,そこなわれるのは私たちであり,なによりも神の定めが軽視されているのです。
20 どんな事のゆえに,私たちは今喜びますか。
20 エホバの証者の新世社会全体を見渡してごらんなさい。以前に増して世界一致の妨げが拡大するこの緊張の時代に,私たちには愛に発する平和があるのです。その愛の根は深く,強力な国家の力もこれを根こぎにすることはできません。物質主義も,また民族主義も,この神権社会の分解をはかり,あるいは,その造り手なるエホバ神に対する愛を絶たせることはできません。人々は,成長と円熟を促す霊の食物を豊かに与えられています。たしかにイエスがペテロにさとされたごとく,『羊が飼われています』。(ヨハネ 21:15-17)組織は円熟しており,その度合は日毎に増しています。私たちはまちがいのない教義を知っており,神と私たちとの関係をいぶかり,神のみこころは何かと動きまわる必要はありません。食物,霊の食物はふんだんにあります。出版物,聖書,仕事の仕方に関する指示,激励の助言など,仕事に必要なものはすべて備わっています。まさに神権社会は住むにふさわしい所,栄え,にぎわい,安全で確実なところです。イザヤ書 32章18節はこの有様を巧みに描写しています,「わが民は平和の家におり,安らかなすみかにおり,静かな休み所におる」。この状態はかぎりなく続きます。そう,アブラハムのごとく,私たちも満ち足りるでしょう。このエホバの証者の新世社会内にいる私たちは,神に忠節をつくす人々に囲まれています。彼らは神の友であり,神はその人々の神と呼ばれることを恥とされません。それゆえ,エホバに固く着き,その言葉に従って生き,その民と共に働きなさい。そして,エホバの組織と共にかぎりなく生きなさい。
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小さな事にも忠実をしめすものみの塔 1964 | 11月1日
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小さな事にも忠実をしめす
「よい僕よ,うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから,十の町を支配させる」。―ルカ 19:18。
1 日常生活でどんな事に面しますか。その応じ方は人によってどう異なりますか。
日常の生活に小さな事はいくらでもあります。一つの問題に付随する事柄,ちょっとした痛みや苦しみ,仕事の細部,になう責任の一端,あるいは楽しいひととき,あるいは自分が引き受けたやゝ余分な用事などがあるでしょう。その余分な用事は人を助けるために引き受けたのかも知れません。こうした小さな事柄の多くは処理されてゆきますが,そのままにしておかれるものも少なくありません。多くの責任を受け入れ得る人
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