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ヱホバの道に従つてすべてのことをしなさいものみの塔 1959 | 12月1日
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そのことは1959年度の世界年鑑を見ても分ります,それによると,著名な一宗派は27の分派を持ち,別の宗派は21の分派,というような具合です。しかし,真のクリスチャン一致と真実の結実は,新しい世の社会をつくり上げている男子,女子そして子供たちの間に見られます。彼らは,ヱホバの制度の一部であつて,考えにおいても,聖書の理解と認識においても一致しています。彼らの行為は一致しており,全世界において一致した働らきをなしつつ御国奉仕を行なつています。彼らが制度にかたくついて良い実をむすんでいる結果として,ヱホバの御霊は波らと共にあつて,彼らから悪疫とも言うべき言伝えを清めさり,更に多くの実を産出するよう彼らを清めました。ヱホバはその道を彼らに教え,御自分の御名の為に正義の道へ彼らをみちびきます。
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ヱホバの名の中に歩くものみの塔 1959 | 12月1日
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ヱホバの名の中に歩く
1 ミカ書 4章のどんな成就は,いま見られますか。
いまは,ますます多くの人々がヱホバの道を学んで,それに従い始めた時です。このことは,霊感を受けた預言者イザヤとミカがずつと以前に告げていたことがらでした。ミカ書 4章は,次のように始まつています,「末の日にいたりてヱホバの家の山もろもろの山のいただきに立ち,もろもろの峰にこえて高くそびえ,万民河のごとくこれに流れ帰せん。すなわち,多くの民来りて言わん。いざわれらヱホバの山に登り,ヤコブの神の家にゆかん。ヱホバその道を我らに教えて我らにその路を歩ましめたまわん」(ミカ 4:1,2)この聖句は,私たちが生活しているこの時代,すなわち「末の日」について語つています。1914年以来,ヱホバの王であるキリスト・イエスは天で即位して,敵の只中で支配し始めているのです。彼が臨在していることを示す証拠の一つは,御国のこの良いたよりが全地で伝道されているという事実およびその結果として正しい心を持つ全国民は真の崇拝を行いヱホバの道を学んで彼の道に歩いているという事実です。1958年の奉仕年度だけでも62,666人は,生命を得るためにヱホバに献身したことを象徴する洗礼を受けました。宗教指導者たちは,あらんかぎりの力をつくして,人々がヱホバの道に従うのを止めさせようと努めました。エチオピヤやドミニカ共和国の場合のごとく,そのわざを禁止させるために国家に処置を取らせていますが,それは失敗に帰しています。善意者がヱホバの道を学んで,その道に歩くとき,彼らは断乎としてこう言います,「我らは我らの神ヱホバの名によりて永遠に歩まん」。―ミカ 4:5。
2 (イ)いまどんな招待が出ていますか。(ロ)なぜヱホバの民は幸福な民ですか。
2 ヱホバの祝福は,彼の民の上に見られます。彼らは古い世の道を学ばず,他の国々にいる自分の兄弟たちに対して戦争しつづけることをしません。かえつて剣をすきに打ちえて,次のような平和な招待をさしのべます,「いざ我らヱホバの山に登り」。これは真の崇拝に参加するようにすすめる招待です。ヱホバに仕える者たちは,臆病でもなければ恐れをも感じていないと,ミカは説明しています。全くのところ「これを恐れしむる者なかるべし。万軍のヱホバの口これを言う」。それで,ヱホバの僕たちはどんな反対を受けようとも,それにはかかわりなく全世界のどの国々でも真の崇拝のための確乎不抜の立場を保つています。彼らは,たとえ死にいたることがあろうとも,清い崇拝のためにその立場をかたく保つています。聖書的な証しは,再び次の事実を強調しています,すなわちヱホバの道はどれでも良いという道でなく,ヱホバが指示する正しい道であるいうことです。諸国民は,自分たちの神すなわちこの古い世の神の名によつて,ハルゲドンにいたるまで歩きつづけます。しかし,ヱホバの道に従つて事柄を行う者たちは,神が御自分の御名として選んだ個有の御名を認めて尊敬しなければならぬと理解している人々です。ヱホバの証者が幸福な民であるのは,当然です。彼らがこの道に従つていることは,ぶどうの木,いちじくの木の下に坐るという霊的な繁栄をもたらします。
3,4 神の御名の知識は,どれほど重要ですか。私たちは何をするように努力すべきですか。
3 いまに至るまで多くの人々は,この高貴な御名に気づいていません。三位一体の神という考えにあざむかれて,父の御名はイエスであると信じています。しかし,イエス自身は,ヱホバ神にささげた祈の中で次のように語りました,「私は,あなたが世から選んで私に賜わつた人々に,み名をあらわしました。……私は彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせます」(ヨハネ 17:6,26,新口)。まずヱホバとはどんな御方であるか,その御名および私たちに対する御名の意義を知らないなら,ヱホバの道に従つてすべてのことをするなどということは希望し得ません。ヱホバの御言葉を注意深く研究することによつて,それらのことを知ることができます。
4 ヱホバの民は,ヱホバとその御目的を学ぶことに一生懸命です。彼らはイザヤ書 55章8,9節を思いおこします,「ヱホバのたまわく,わが思はなんじの思とことなり,わが道はなんじのみちと異なれり。天の地よりたかきがごとく,わが道はなんじらの道よりも高く,わが思はなんじらの思よりもたかし」。この思は,心をさわやかにするもの力づけるもの,滋養を与えるものです。ちようど乾いた土の上に降る天からの雨または雪のようです。その水が地をうるおすと,木は芽ばえて実をむすびます。ヱホバに関する一切のものは,実を良くむすび,産出が大きいからです。私たちがヱホバの道に従つて事柄をするなら,このことについてもヱホバにならわねばなりません。私たちは御言葉を聞くだけでなく,御言葉を行う産出の多いものでなければなりません。それで,私たちは良いたよりを他の人々と分かち合うことによつて御国の実を結ぶため,私たちの受ける真理の水を用いたいと欲します。霊的にしぼんで枯れない状態を保つのにやつと十分な水を取り入れる,― 時折り会衆の集会に出席するが,準備なしで出席する ― というようであつてはなりません。私たちは霊的な水を定期的に必ず取り入れ,ヱホバの誉を高めるようにしなければならないのです。農夫は良い収穫を得るために,地を耕すことに長い時間をかけてもいといません。それと同じように,私たちは他の者を教えるだけの資格を得るために熱心に研究しなければなりません。このようにして産出の多い良いたよりの奉仕者になれるのです。理解を進歩させるためには,一生懸命つとめねばなりませんが,その知識または資料に限りというものはありません。ヱホバの道をことごとく探し出すことは不可能です。ロマ書 11章33節(新口)は次のように述べています,「ああ深いかな,神の知恵と知識との富は,そのさばきは窮めがたく,その道は測りがたい」。
5 私たちは,霊的な知識のみなもとをどこに見出しますか。
5 この知識の祝福を十分に得るため,私たちはその源に近づかねばなりません。あるいは真理の水が流れている径路を見出さねばなりません。じつとして動かずにいながら,真理の水は私たちのところに来るなどと考えてはなりません。人は砂漠に行けば,水が自分のところに来るまで待つているなどという愚かなことをしません。かえつて,いちばん近い沃地<オアシス>をいつしよう懸命に探し求めます。沃地<オアシス>は生命を意味する,ということを知つているからです。ヱホバは私たちの為に調子を合わせて彼の道を変えるとか,または私たちの両親の信仰と一致するために彼の道を変える,などと考えるべきではありません。むしろ,私たちは創造者を探し求め,私たちに対する彼の御こころを探し求めねばなりません。キリスト教国の干乾びた牧場を見るとき,そしてキリスト教国の人々のなかには真実の聖書知識が欠如しているのを見るとき,爽快な生命の水の河を楽しめる場所に行くことの必要さを良く認識することができます。その水は,神と小羊の御座から流れ始め,神のみちびく径路を通つて流れます。ヱホバの御言葉こそ,神ののぞまれる道に私たちをみちびきます。詩篇 23篇2節は,「ヱホバは我を……いこいの水浜にともないたまう」と述べています。ヱホバ御自身が私たちをその道にみちびかれるとき,私たちはヱホバを拒絶すべきですか。神からの招待を拒絶するなどということは,とうてい考えません。しかし,御国会館での集会出席をさそう兄弟たちの招待を拒絶することは,神からの招待を拒絶することと同じです。御国会館は,古い世の問題から離れて休息するところです。そこでは,真理の水が自由に飲めるところ,私たちの魂をさわやかにするところです。
6 現在および将来においてヱホバの道が交りの道であるということは,どのように示されますか。
6 集会に行くには,手数がかかるから,とても出席できないと,あなたは言われるかも知れません。真の信仰を持つ人々と互に集まることは,ヱホバの道に従つて事柄を行うことの一部です。新しい世では,私たちはヱホバのみちびきに従つて互に集まります。いまそのことに心をかたむけないなら,ハルマゲドン後の大会の祝福を楽しむためにそのすえと名前が生き残る者の中に入れる,などと期待すべきではありません。「ヱホバ言いたもう,新月ごとに安息日ごとによろずの人わが前にきたりて崇拝をなさん」(イザヤ 66:23)そのときすべての人は清い崇拝の中に一致します。そして宗派によつて分裂するということはもはやなくなるでしよう。すべての人はヱホバをあがめることに一致するからです。そのときに集まる信仰の人々の中にいたいと希望するなら,いまヱホバの民の会衆と定期的に集まることによつてそのことを示さねばなりません。ヱホバの僕たちが,ヱホバの御言葉とヱホバと自分たちとの関係を考えるとき,ヱホバの御霊は彼らを祝福するために注がれています。ヱホバの道は交わりの道ということが分ります。それで,読者は近くの御国会館でヱホバの証者と定期的に交わり,聖書研究をされるよう心からの招待をさしのべます。
7 宗教のことを決して論じない,というこの世の態度は,なぜ正しくありませんか。
7 新しい世の社会との交わり,および幸いにも私たちの持つている真理の理解にたいして認識を持つとき,私たちはそれを他の人々と分ち与えることに熱心でなければなりません。そのときヱホバに捧げる私たちの愛は,隣人に対する私たちの愛の中に反映し,私たちは真理を学ぶように隣人を励まします。宗教について話をすることについては,口をつぐんでしまつて論じようとしない古い世の態度を取つてはなりません。このことは天的な知恵と生命に関係する事柄です。イエス自身も,宗教のことと聖書のことになると腹蔵なく話しました。誠実な心を持つ人は,たとえ最初は同意しようとしなかろうと,みなそのような事柄に深い関心を持たねばなりません。「さあわれわれは互に論じよう」という言葉は,ヱホバの道を更に学びたいと欲する人々に,ちようど時機よく適用するものです。(イザヤ 1:18,新口)もし私たちがヱホバについて語るのを恥ずかしく思うなら,ヱホバは私たちを恥ずかしく思われるでしよう。もし私たちが生ぬるいなら,私たちは捨てられてしまうでしよう。私たちは,ヱホバの道に活発に従おうという誠実な気持を示すべきです。すなわち,ヱホバの道を学んで,それについて自由にまた大たんに語り,御言葉を行う者にならなければなりません。
8 (イ)人はヱホバに仕えることから免除されますか。(ロ)なぜ私たちは奉仕に参加することを恐れてはなりませんか。
8 あなたは年老いて病気かも知れません。しかし,奉仕に参加している他の人々もそうです。それらの人々は近所の人々を訪問して良いたよりについて語り,いつしよに聖書を研究し,ヱホバをあがめるために時間と力をささげています。人は生きているかぎり,創造者の讃美に用いることができるある程度の健康と力を持つています。非常な年寄りでもヱホバの道に従うことができます。なぜならくびきは軽いとイエスは私たちに保証されたからです。ヱホバの力があれば,私たちはどんな状況の下にいようとヱホバに奉仕することができます。イザヤ書 35章3,4節(新口)は次のように述べています,「あなたがたは弱つた手を強くし,よろめくひざを健やかにせよ。心おののく者に言え,『強くあれ,恐れてはならない。』」年若い者たちもヱホバの道に従つて事柄を行い,彼を讃美することを学びます。ソロモンは,そのような行いの賢明さを知つていて,次の言葉を述べています,「あなたの若い日に,あなたの造り主を覚えよ」。(伝道の書 12:1,新口)イエスは,幼少のころからヱホバに仕える必要さを知つていました。それで,弟子たちにこう語つています,「あなた方は,『幼な子,乳のみ子の口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。それで,私たちが若い者であろうと,年老いた者であろうと,真理に長くいる者であろうと新しいものであろうと,私たちの創造者の目的を知らせることに参加することができます。私たちの隣人に真理を話すことは,裏庭の垣根越しに天候のことを話したり,いちばん新しいうわさ話をするよりもずつと大切です。隣人に真理を語る者となりましよう。それは,すべての事をヱホバの道に従つて行う者の中に数えられたいということを示します。―マタイ 21:16。ゼカリヤ 8:16。
9 ある人々は,真理を学ぶ機会が与えられずに死にますか。そのことについて私たちは何をすることができますか
9 ヱホバの御名によつて歩く民は,次のように言う者である,と述べたミカの言葉を思い出して下さい,「いざ我らヱホバの山に登りヤコブの神の家にゆかん」。ヱホバの証者だけが,この招待を活発にさしのべており,戦争道具である槍や剣を捨てて,諸国民の間に平和なわざ,生命を与えるわざを行つています。それは緊急な事柄です。なぜならイエスが指摘したごとく「畑は世界である」(マタイ 13:38,新口)。彼は真理を活発に伝道する者として,模範を残しました。パウロは,この模範に従う者たちに代つて次のように語りました,「人は口でもつて公に言い表わして救われるのである……『ヱホバの御名を呼び求める者はみな救われるであろう』しかし,信じていない者をどうして呼び求めることがあろ
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