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    ものみの塔 1961 | 5月1日
    • よ,どのくらいの期間ですか」とたずねました。「エホバは言われた,『町々は荒れすたれ住む者もなく,家には人かげもなく,国は全く荒れ地と……なる時まで』」。(イザヤ 6:11,新世)エホバ神は,伝道の終了する時を御存じです。それを始めさせられたのはエホバでした。それで,止める時であるとエホバが言われる時まで待ちなさい。

      19 神の奉仕者が今日ならうべきどんなことを,エレミヤとイエスはしましたか。

      19 私たちはエホバの日に生活しています。エホバからの割り当ては,地の住民に伝道することです。人々が耳を傾けて聞くか,あるいは聞くのを拒絶するかは,彼らが決定すべき事がらです。もし拒絶されるとするなら,彼らが拒絶するのであって,エホバの奉仕者が,御国の音信を持って彼らのところに行くことを拒絶すべきではありません。当時の心かたくなな,がんこな人々に対して何をしなさいとエホバはエレミヤに告げましたか。「そのままにしておけ。どっちみち彼らはやぎなのだ」とエホバは言われましたか。そう言われませんでした。エホバの言葉に耳をかたむけて聞いてごらんなさい,「たといあなたが彼らにこのすべての言葉を語っても彼らは聞かない。また彼らを呼んでもあなたに答えない」。(エレミヤ 7:27,新口)イエスもエレミヤと同じく,同国民からメシヤとしてうけいれられないということを十分に知っていながら,それでも,彼らに伝道しました。深い悲しみの中に,彼は次のように語りました,「ちょうど,めんどりが翼の下にそのひなを集めるように,わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに,おまえたちは応じようとしなかった」。(マタイ 23:37,新口)正直な心を持つ大ぜいの人々はイエスの言葉を聞いて,イエスの伝道に注意を払いました。しかし,圧倒的に大多数の人々は,イエスの平和にみちる音信を捨てて,それを憎みました。そして悪意にみちた憎しみの最高潮に彼を殺してしまいました。イエスは,反対をうけたにもかかわらず気落ちせず,またその宣教によって世界を改宗しようとも期待しませんでした。彼は,彼の弟子たちが同じ反応を経験すると警告しました,「そのとき人々は,あなたがたを苦しみにあわせ,また殺すであろう。またあなたがたは,わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう」。―マタイ 24:9,新口。

      20 私たちのおとずれに最初反対する者を,なぜはやまって非難してはいけませんか。

      20 世はこの宣教を憎んで反対します。しかし,最初この宣教に反対する個人をいそいでさばいてはなりません。状態が変化するように人々の心も変化するということを忘れてはなりません。タルソのサウロがそうでした。彼は神に反対していて神の忠実な奉仕者たちを迫害していました。しかし,後には神をよろこばす者,諸国民につかわされた神の忠実な奉仕者になりました。今日,神に献身している忠実な奉仕者たちの多数の者は,はじめて音信を聞いたときには音信に反対しました。―使行 9:11-15。

      宣教の祝福

      21 ソロモンの王国を見にきたシバの女王を感激させたものは何でしたか。

      21 さらに幾千幾万という羊を見つけて新しい世の社会内にみちびき入れねばなりません。それは,宣教の結果として多くのよろこびと祝福がうけられることを意味します。ソロモンの国の繁栄,栄光,および輝きを思いおこしてごらんなさい。シバの女王が,自ら見学に来たとき,彼女は言葉も出ないほど感銘をうけました。記録は次のように述べています,「(彼女は)全く気を奪われてしまった。彼女は王に言った,『わたしが国であなたの事と,あなたの知恵について聞いたことは真実でありました。しかし,わたしがきて,目に見るまでは,その言葉を信じませんでしたが,今見るとその半分もわたしは知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄はわたしが聞いたうわさにまさっています。……常にあなたの前に立って,あなたの知恵を聞く家来たちはさいわいです」。―列王記上 10:5-8,新口。

      22 (イ)エホバの奉仕者は今どんな祝福をまのあたりに見ていますか。(ロ)どのような気持になってはなりませんか。そしてなぜですか。

      22 今日,大いなるソロモン,キリスト・イエスに仕えている者たちは,躍進している新しい世の社会の繁栄,よろこび,そして幸福をまのあたりに見ています。彼らは,地のあらゆる場所から来た男,女,子供たちであって,物事を見たり聞いたりすることができます。そして彼らはエホバ神の御名を高くかかげています。神とその御子の御国の栄光と輝きは,また善意者によっても反映されます。彼らは,過去10年間,1週間に1000人以上という割合で制度のなかにはいってきました。主の他の羊を集めるよろこびを知ることは,宣教の別の祝福であります。宣教の地位あるいは特権をこの世の提供するあらゆる地位と交換してはなりません。宣教は私たちの主要な職であり,私たちの世俗の職業は二次的なものでなければなりません。世俗の職業は,私たちが宣教をつづけて行くのを援助する手段に過ぎません。神の奉仕者である私たちの関心事は,「まず神の国と神の義とを求める」ことです。(マタイ 6:33,新口)この要求が,エホバの奉仕者ひとりびとりの上に課せられていることを認識するとき,「私がいなくてもわざは大丈夫行なわれる」などという気分になってはなりません。もちろん,エホバ神は私たちがいなくても,この宣教を行なわせることができます。エホバ神は,私たちがいなくても新しい世を設立することができます。むしろ次のように見る方がずっと良いでしょう。エホバは私たちを用いられるのであり,もし私たちがいま私たちの宣教の目的を達成するなら彼の新しい世においても永遠にわたって私たちを用いつづけられるだろう,という見方です。この世の人々が物質的な富,権力,人気,名声,および快楽を求めるなら,求めさせなさい。しかし,これらの目標は,ハルマゲドンまでしかつづかないということを忘れてはなりません。しかし,神の奉仕者として,エホバの御名の立証に参加し,他の人々を援助してエホバ神を知らせ,あなた自身忠実な者の産出の多い奉仕者と証明することを目標にするなら,その目標はハルマゲドンの後の新しい世にいたるまであなたをみちびくでしょう。私たちの宣教がエホバ神をよろこばし,忠実な者には,それぞれ永遠の生命という報いがあたえられますように。

  • 神の会衆と神の御国とを区別する
    ものみの塔 1961 | 5月1日
    • 神の会衆と神の御国とを区別する

      神の会衆とは何ですか。神の御国とは何ですか。聖書はこのふたつの間にどんな区別を設けていますか。答を得るために,カトリックやプロテスタントの神学者の矛盾する色々な意見に聞くことなく,使徒パウロの次のすすめに従って神御自身の言葉をしらべることにしましょう。「あらゆる人を偽り者としても,神を真実なものとすべきである」。―ロマ 3:4。

      クリスチャン・ギリシャ語聖書を書いた人々は,神の会衆を指すのにエクレシアという言葉を用いました。これから英語の教会<エクレシア>という言葉が出たのです。このギリシャ語はek(外へ)とKaleín(呼ぶ)の二つの語根がその語源になっていて,公式また非公式に召し出された,あるいは呼び集められた人々の群れ,集まり,会衆を意味します。

      エクレシアに関してインペリアル聖書辞典の述べるところによると,「新約聖書の中でエクレシアという言葉は,クリスチャンが公の崇拝のために集まった実際の建物を指していない。このような建物のことが出てくるのは,使徒時代のずっと後のことである」。ですからたいていの英語の聖書のようにこれを教会<チャーチ>と訳すよりも,新世界訳にあるように会衆<コングリゲーション>あるいは

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