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    ものみの塔 1980 | 4月1日
    • しています。(創世 1:26-28; 2:7-9,18-25)ところが,アダムとエバはこの特権を失いました。なぜでしょうか。二人は罪を犯し,彼らの父エホバ神に対する完全な従順という的をはずしたのです。当然,主権者なる主エホバは不従順なこの夫婦に死を宣告されました。二人はかたくなになり,神から独立するようになったので,二人にはもはや,エホバの忠節な被造物の間で占める地位はなくなりました。さらに,自分たちに死の刑罰を招いただけでなく,この罪深い親たちから将来生まれ出る幾十億もの子孫にも死の刑罰をもたらしました。パウロの述べるとおりです。「それゆえ,ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がったのと同じように」― ローマ 5:12。

      6 どんな希望に基づいて創造物は奴隷状態に陥りましたか。

      6 しかしパウロは続けて,「創造物は虚無に服させられ」たが,それは「この希望に基づいていた」と述べています。どんな希望でしょうか。それは創造物が「腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子どもの栄光ある自由を持つ」ようになるという生ける希望です。わたしたちの最初の両親もそのような自由を,エデンの楽園で享受していました。それは永遠の命の希望を伴う自由でした。このような希望を与えることができるのは神だけでした。―ローマ 8:20,21。ヨハネ 17:3。

      「胤」に関する希望

      7 約束の「胤」の正体は,どのように明らかになりますか。

      7 「以前に書かれた」事柄の中でも早い時期のものには,天にある,神の妻のような組織の「胤[子孫]」が,「[蛇の]頭を踏み砕く」,つまりサタンをその配下もろとも滅ぼすという神の約束について書かれたものがあります。(創世 3:14,15,新)しかし,この「胤」とはだれのことですか。この者については,あとの所で,神の友アブラハムの「胤」でもあり,このアブラハムの胤によって「地のすべての国民は確かに自らを祝福するであろう」と述べられています。使徒パウロはこの胤の正体を明かし,「さて,その約束はアブラハムとその胤に語られました。……『またあなたの胤に』と述べてあり,それはキリストのことなのです」と説いています。―創世 22:18,新。ガラテア 3:16。

      8 (イ)地上におけるイエスの生涯については,そのはるか前にどんな予告がされていましたか。(ロ)人類に対する神の愛はどのように示されましたか。

      8 「以前に書かれた」事柄は,キリスト・イエスの地上における生涯を予告していました。イザヤが700年以上も事前に預言していたとおり,イエスはさげすまれ軽んじられ苦しめられて,「さながら羊のようにほふり場に連れて行かれ(ました)」。み父のご意志に従い,『彼は自分の魂を』死に「注ぎ出し」ましたが,それは「多くの民」が罪への束縛から解放されるためでした。(イザヤ 53:3-12,新)エホバは彼を死人の中から引き上げられ,「彼を信じる者がみな永遠の命を持つため」,天において,「命の主要な代理者」としての立場におつけになりました。神がこのような備えをされたのは,「[人類]の世を深く愛された」からです。(ヨハネ 3:15,16。使徒 3:15)このことは,実にすばらしい希望への道を開くものとなりました。―ヨハネ 5:24-29。

      永遠の命の希望に対する確かな根拠

      9 (イ)何がわたしたちの希望を保証していますか。(ロ)希望はわたしたちにどのように影響を及ぼしますか。

      9 確かな根拠に基づくわたしたちの希望は,わたしたちの神エホバの名前そのものによって保証されています。その名前には「彼は成らせる」という意味があり,神がご自分の目的を達成するに際して特定の事柄を生じさせることを示しています。その方は「偽ることのできない」神であり,「長く続いた時代の前に約束された」『希望の根拠』を与えておられます。(テトス 1:2)あなたにとってこの希望は何を意味しますか。その希望に対する見方は,キリスト教世界の人々が自らの宗教に対して抱いているのと同じような,口先だけの形式的なものでしょうか。それとも,心の奥深くから,自分のすべて,命のすべてを「希望を与えてくださる神」に捧げているでしょうか。(ローマ 15:13)その希望はあなたにとって,すでに現実と思えるほど強いものとなっているでしょうか。もしそうであれば,その希望はあなたの信仰になっています。その信仰は自分の希望について他の人々に証しを行なうという良い業を伴う生きた信仰です。―ヘブライ 11:1。ヤコブ 2:17。

      10 (イ)わたしたちの希望をより現実的なものとするのは何ですか。(ロ)なぜ油そそがれたクリスチャンは,その希望にあって今,喜ぶべきですか。

      10 わたしたちの主権者なる主エホバは永遠に生きておられるのですから,神の約束は「生ける希望」の根拠となります。そして復活されたみ子イエス・キリストは「永久に生き続けるので」,この希望は一層現実的なものになります。なぜなら,「彼は自分を通して神に近づく者たちを完全に救うこともでき(る)」からです。み子は「常に生きておられて彼らのために願い出てくださるからです」。(ヘブライ 7:24,25)そのわけで,使徒ペテロは油そそがれたクリスチャンたちに次のように書きました。「わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられんことを。神はその大いなるあわれみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新しい誕生をわたしたちに与えてくださったのです。すなわち,朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産への誕生です。それはあなたがたのために天に取って置かれているものであり,そのあなたがたは,終わりの時期に表わし示されるよう備えられている救いを信じているので,神の力によって保護されています。このことをあなたがたは大いに喜んでいます」。(ペテロ第一 1:3-6)すでに「終わりの時期」に入っている現在,油そそがれたクリスチャンには,この希望を抱いて喜ばずにはいられない理由があります。

      11 (イ)「大群衆」も,どんな「生ける希望」を抱いていますか。(ロ)その希望に関するどんな確かな根拠がありますか。

      11 では,地上の楽園での永遠の命を望み見る,「すべての国民と部族と民と国語の中から来た……大群衆」についてはどうでしょうか。彼らの希望も「生ける希望」です。というのは,彼らには次の約束が与えられているからです。「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に冒されることもない。[神の]み座の中央におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。(啓示 7:9,16,17)こうした「良いたより」に希望を置いている人々は,それが霊感を受けた神の言葉の上にしっかりと築かれたものであるゆえに,落胆することはありません。使徒ペテロはイザヤ書 40章8節を引用し,「生ける,いつまでも存在される神のことば」に関し,次のように述べました。「『肉なるものはみな草のごとく,その栄光はみな草の花のようである。草は枯れ,花は落ちる。しかしエホバの語られることばは永久に存続する』とあるからです。そして,これが,すなわち,あなたがたに良いたよりとして宣明されたことが,その『語られることば』なのです」― ペテロ第一 1:23-25。

      12 永遠の命を与えてくださる,という点で,神はどれほど寛大な方ですか。

      12 イエスは,ご自分のことを『羊のために自分の魂をなげうつ』りっぱな羊飼いと言い表わし,「わたしは,彼らが命を得,しかも満ちあふれるほど豊かに得るために来ました」と語られました。(ヨハネ 10:10,11)この寛大さは,天でキリストの共同相続者となる「小さな群れ」だけに示されるのではありません。(ルカ 12:32)決してそうではないのです。なぜならイエスは,「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,ひとりの羊飼いとなるのです。そしてわたしは彼らに永遠の命を与え(ます)」とおっしゃったからです。(ヨハネ 10:16,28)「大患難」を生きて通過することを期待する「大群衆」のほかにも,キリスト教以前の忠実な僕たちと,永遠の命の見込みを抱いて地上に復活する幾十億もの死者たちがいます。(マタイ 24:21。ヘブライ 11:35。啓示 20:12)こうした命のための備えを与えてくださるわたしたちの神は何と寛大な方なのでしょう。

      13 人類に対する神の愛はどのように表明されていますか。このことからわたしたちはどんな影響を受けるはずですか。

      13 エホバが人間に対する愛を寛大に示しておられることは,イエスがその前に語られた次の言葉からもうかがえます。「神は[人類の]世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされたからです。神はご自分の子を世に遣わされましたが,それは,彼が世を[不利に]裁くためではなく,世が彼によって救われるためなのです。彼に信仰を働かせる者は裁かれません」。(ヨハネ 3:16-18)エホバとそのみ子は大変寛大な方であられるのですから,わたしたちもこの壮大な「良いたより」を他の人々に知らせる点で,寛大であるべきではないでしょうか。

      14 (イ)諸国民にはなぜ『希望がない』のですか。(ロ)どのような面にわたしたちの信仰と「生ける希望」は反映されますか。

      14 このことを行なうとき,わたしたちは,「わたしたちがそのうちを歩むようにと神が前もって準備してくださった」「良い業」にあずかります。わたしたちはもはや,『約束にかかわる数々の契約に対するよそ者』,「希望もなく」,「世にあって神を持たない」者とパウロが描写したような者ではありません。「諸国民」は,「彼らのうちにある無知のため,またその心の無感覚さのため」に「精神的な暗やみにあり,神に属する命から疎外されています」が,わたしたちは,もう「思いのむなしさのままに歩む諸国民と同じように」歩むことはありません。(エフェソス 2:10,12; 4:17,18)それというのも,今わたしたちは神と共に歩んでおり,「良いたより」を宣べ伝え教えることを特色とする「良い業」には,わたしたちの信仰と,心に満ちあふれる「生ける希望」が反映されているからです。―マタイ 4:17; 5:16; 9:35; 24:14。

      義の政府に関する希望

      15 (イ)「生ける希望」を抱くために,なぜ良い政府が必要となるのですか。(ロ)この点で,イザヤは励ましとなるどんな預言を記しましたか。

      15 わたしたちの生ける希望に含まれているのは永遠の命の見込みだけではありません。考えてみてください。歴史上幾度となく支配を行なってきた,残虐で圧制的な人間の政府のもとで永遠に生きるのはどれほど楽しいものでしょうか。その種の束縛よりもむしろ死を選ぶ人々さえいます。幸いなことに,神の民の生ける希望には,義の政府に関する希望が伴っています。クリスチャンはその王国のことを長い間祈ってきました。その王国はエホバのみ名を神聖なものとし,神のご意志が「天におけると同じように,地上においても成される」ようにします。(マタイ 6:9,10)この王国のための長い準備期間に,エホバはキリスト・イエスの王としての役職を予表するために,イスラエルのダビデ王をお用いになりました。預言者イザヤはその方を「平和の君」と述べ,次のように記しています。「あまねく行き渡るその君としての支配と平和に終わりはなく,ダビデの王座とその王国に座して,公正と義によりこれを堅く立て,これを支える。今より,定めのない時に至るまで。実に万軍のエホバの熱心がこれを行なう」― イザヤ 9:6,7,新。

      16 王国に関し,ガブリエルと詩篇作者はどんな保証を与えていますか。

      16 それから1,000年余り後のこと,み使いガブリエルが処女マリアに現われて言いました。「あなたは神の恵みを得たのです。そして,見よ,あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。あなたはその名をイエスと呼ぶのです。これは偉大な者となり,至高者の子と呼ばれるでしょう。そしてエホバ神はその父ダビデの座を彼に与え……るのです。そして,彼の王国に終わりはありません」。(ルカ 1:30-33)ですから,この「至高者の子」は,永遠の命に至る救いの道を開かれるだけでなく,その王国による祝福をも与えてくださるのです。この政府は正義をもって全人類を治め,全地の臣民にあふれるばかりの平和をもたらします。―詩 72:1-8。

      17 では,わたしたちが『希望に満ちあふれる』べきなのはなぜですか。その希望をどのように表わすことができますか。

      17 使徒パウロは「以前に書かれた」事柄にもう一度言及し,このように書き記しています。「そしてまたイザヤは言います,『エッサイ[ダビデの父]の根があり,諸国民を支配するために起こる者がいる。諸国民は彼に希望をおくであろう』。希望を与えてくださる神が,その信ずることによって,あなたがたをあらゆる喜びと平和で満たしてくださり,こうしてあなたがたが,聖霊の力をもって希望に満ちあふれますように」。(ローマ 15:12,13)キリストによる神の王国に対するわたしたちの希望は,確かに,喜びと心の平安の源であり,この希望に満ちあふれるときわたしたちは,神の霊から得られる力をもってこの希望を他の人々にふれ告げるよう促されます。―ゼカリヤ 4:6。イザヤ 40:28-31。

      18 イザヤは王国に関するどんなあざやかな予告編を示しましたか。

      18 パウロはイザヤ書 11章を引用して,「エッサイの根」のことを述べていますが,このイザヤ書 11章には次のような,キリストの王国支配に関するあざやかな予告編が示されています。「彼の上に必ずエホバの霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊,計り事と力強さの霊,知識とエホバへの恐れの霊である。また,エホバを恐れることに彼の楽しみがある。そして,彼はその目に映る単なる見掛けによって裁くことなく,単にその耳で聞くところにしたがって戒めることもない。それで,彼は必ず義をもって低い境遇にある者たちを裁き,廉潔さをもって地の穏和な者たちのために戒めを与える」。そしてこの預言は,神の民が今日すでに享受している,地の野獣が飼いならされるかのような平和そのものの霊的パラダイスの情景を描いてから,「地は水がまさに海を覆っているように,必ずエホバについての知識で満ちる」と述べています。何と輝かしい希望なのでしょう。「エッサイの根」,つまり王座につき「もろもろの民のための合図として立ち上がる」イエスに物を尋ねようと,諸国民の大勢の者たちが向かうのは少しも不思議ではありません。―1節から10節,新。

      19 わたしたちが,特に今,希望にあって喜ぶべきなのはなぜですか。

      19 多事多難だった1914年以来,人類は「事物の体制の終結」の時に住んでいます。「人の子」はあらゆるみ使いを従えて到来し,栄光ある天のみくらに座しておられます。その方は,裁きのため,また「羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分け(る)」ため,諸国民を集め始められました。これは諸国民と「やぎ」にとっては絶望的な苦難の時ですが,羊のような従順な人にとっては『救出が近づいているゆえに,身をまっすぐに起こし,頭を上げる』べき時です。―マタイ 24:3-8; 25:31-34。ルカ 21:26-28。

      20 何を行なう面で,わたしたちは今,希望を抱いて忍耐できますか。

      20 しかし,希望が自分にとって現実のものとなるためには,忍耐が必要とされます。今の「終わりの日」はその終結に近づいているのですから,わたしたちは物事をイエスと同じように見なければなりません。パウロの諭しにあるとおりです。「忍耐と慰めを与えてくださる神が,キリスト・イエスと同じ精神態度をあなたがた互いの間に持たせてくださるように。それは,あなたがたが同じ思いになり,口をそろえて,わたしたちの主イエス・キリストの神また父の栄光をたたえるためです」。(ローマ 15:5,6)では,「それから終わりが来る」との確信を持ち,王国のこの良いたよりを「あらゆる国民に対する証しのために」宣べ伝えつつ,今後も「同じ思いになり,口をそろえて」忍耐のうちに仕えてゆきたいものです。(マタイ 24:13,14)そうです,「希望を与えてくださる神」,わたしたちの主権者なる主エホバに,揺るぎない確信を置くことができますように。

  • 「生ける希望」によって鼓舞される
    ものみの塔 1980 | 4月1日
    • 「生ける希望」によって鼓舞される

      「わたしたちはそのためにほねおって働き,また努力しているのです。わたしたちは生ける神に希望を託しているからです。神はあらゆる人,特に忠実な者の救い主です」― テモテ第一 4:10。

      1 なぜ神の言葉はわたしたちを行動へと促すはずですか。

      「喜ばしい言葉」と『書き記された真実の正確な言葉』は神の言葉である聖書の中にあります。(伝道 12:10,新)これらの言葉が喜ばしいのは,特に,それらがわたしたちに生ける希望を抱かせるものだからです。その希望とは,主権者なる主エホバがみ子イエス・キリストを通してご親切にも準備してくださった王国の取り決めのもとでの永遠の命の希望です。(ヨハネ 3:16。ローマ 15:12,13)召集者の言葉にあるように,「賢い者たちの言葉は牛追い棒のようであり」,聞き手を行動へと駆り立てます。このように,神の言葉の中にある知恵と希望の言葉は,神の義の王国の関心事に仕える面で骨身を惜しまず精力的に働くようわたしたちを動かします。―伝道 12:11,新。

      2 信仰の人々は何を待ち望んできましたか。

      2 エホバが楽園に関する約束をなさってからというもの,神に信仰を持つ人々はメシアなる胤が蛇の頭を砕く裁きの日をずっと待ち望んできました。(創世 3:15。ローマ 16:20)それはサタンの世が裁かれる日であり,キリストによるエホバの王国に希望を託す人すべてが救出されることによってその極に達します。―テモテ第二 4:1,18。ルカ 21:28。

      保証された希望

      3 (イ)これはなぜ保証された期待ですか。(ロ)わたしたちの希望を公に宣明するよう鼓舞して然るべきものは何ですか。

      3 聖書のヘブライ書の11章には,手本とすべき信仰を示した男女のことが列記されています。それらの人々は「望んでいる事柄に対する保証された期待」を抱いていました。彼らにとってその希望は現実的なものであり,「その都市の建設者また作り主(が)神」である,「真の土台を持つ都市を待ち望(み)」つつ,その希望に基づいて行動しました。自分たちの生きている間に約束の成就を見たわけではありませんが,「彼らは……それをはるかに見て迎え入れ,自分たちがその土地ではよそからの者,また寄留者であることを公に言い表わしました」。(ヘブライ 11:1,10,13)今日,王国は近づいていますから,その希望はもはや「はるか」なものではありません。ですから,わたしたちの希望を公に宣明すべき一層強力な理由があります。―マタイ 24:14,33。

      4 エノクは何について預言しましたか。このことは今のわたしたちとどんな関係がありますか。

      4 「望んでいる事柄に対する保証された期待」を抱いていたこれら忠実な人々の中には,今のわたしたちと同様,神の裁きの時に生きていた人々がいました。エホバは彼らを用いて,悪人に警告を与えさせました。例えば大洪水前の時代にエノクは,道徳的に腐敗した人々について,次のような預言を行ないました。「見よ,エホバはその聖なる巨万の軍を率いて来られた。すべての者に裁きを執行するため,また,すべての不敬虔な者を,不敬虔なしかたで行なったそのすべての不敬虔な行為に関し,そして不敬虔な罪人がご自分に逆らって語ったすべての忌むべきことに関して有罪を証明するためである」。(ユダ 14,15)この裁きは,ひどく不敬虔な今の世に対する神の裁きを予表するものでした。

      5 信仰の業においてノアはどんな模範を残しましたか。

      5 それに,不敬虔な世に対するエホバの裁きの執行を生き残ったノアも,「義の宣明者」でした。(ペテロ第二 2:5)ノアは信仰の業を行なうために力を尽くし,「自分の家の者たちを救うために箱船」を造りました。『そして,この信仰によって,彼は世を罪に定めました』。(ヘブライ 11:7)ノアは今日のわたしたちの優れた模範です。まもなく「神の義の裁き」が表明され,「神を知らない者」が「主のみまえから,またその力の栄光から離れて永遠の滅びという司法上の処罰を受けます」。その裁きの執行が迫っているのですから,今はどの時代にも増して,エホバの義をこの地に宣べ伝えるべき時です。―テサロニケ第二 1:5-10。

      6 (イ)どんな昔の裁きが,「大患難」の確実性を裏書きしていますか。(ロ)どうすればその裁きから逃れられますか。

      6 神の王国に対する希望を『公に言い表わした』人々の中に,アブラハム,サラ,それにイサクとヤコブがいます。アブラハムはソドムとゴモラに対する神の裁きの執行された時代を生き残りました。ソドムに(おいのロトのような)義人がわずか十人しかいないとしても,この都市が滅びることがないようにとアブラハムは願ってやみませんでした。最後にエホバは,「わたしはその十人のゆえにそれを破滅に至らせることはしない」と言われました。今日のわたしたちも,アブラハムのように,多くの人々が差し迫っている「大患難」での滅びを免れることを願っているかもしれません。しかし不敬虔な世は,楽園が回復する前に地を清めるため,ソドムとゴモラ同様どうしても滅ぼされなければなりません。神の裁きに生き残る唯一の道は「世のものとならない」ことです。それはロトとその家族が火による滅びを前にしてソドムから逃れたことに相当します。そして世の事柄に逆戻りすることは悲惨な結果を招くことでしょう。「ロトの妻のことを思い出しなさい」― ルカ 17:26-32。創世 18:22-32; 19:15-26。マタイ 24:21。ヨハネ 15:19。

      7 エゼキエルの特権に似たどんな特権を今わたしたちは持っていますか。そしてそれについて何をすべきですか。

      7 ヘブライ 11章でパウロが「望んでいる事がらに対する保証された期待」を抱いていたと述べる「雲のような証人たち」の中には,「サムエルやほかの預言者たち」もいました。これらの人々はエホバの言葉を知らせる点で何という勇気を示したのでしょう。(ヘブライ 11:32; 12:1)そのうちの一人エゼキエルは,背教したエルサレムに対するエホバの裁きに関する預言をバビロンで行ないました。その裁きは西暦前607年に執行されました。エゼキエルの使命が重大なものであったことは,幾度もエゼキエルに与えられた「エホバの言葉」に如実に表わされています。それは次のようなものです。「『さて見張りの者についてであるが,剣が来るのを見ているのに,角笛を吹き鳴らさず,民は全然警告を受けず,剣が来て彼らから魂を取り去るなら,自らの咎のためにそれは必ず取り去られる。しかしその血の弁済をわたしは見張りの者の手に求める』。さあ人の子よ,さてあなたについてであるが,わたしはあなたをイスラエルの家に対する見張りの者とした。あなたは必ずわたしの口から言葉を聞き,彼らにわたしからの警告を与えねばならない」。(エゼキエル 33:6,7,新; 3:17-21)わたしたちは今日,「剣が来る」のを見ていますか。現在の諸国民の間の「苦難」がハルマゲドンという神の戦いにつながるのは必至だということを認識していますか。もしそうなら,『警告のラッパ』を吹き鳴らし,人間の唯一の希望である神の王国に通じる道を人々に示さなければなりません。エゼキエルがかつて行なったように,現在の裁きの日に警告の業に携わることは,何という特権なのでしょう!―マタイ 24:3-8,14; 25:31,32。啓示 16:13-16。

      『信仰の完成者』

      8 警告を与えることに関して,イエスはどんな立派な模範を残しましたか。

      8 パウロは,大勢の「雲のような証人たち」― その多くはキリスト教時代以前に警告の音信を宣べ伝えた ― のことを説明してから,「わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエス」に注意を向けています。この神のみ子も,裁きの日の間,神の王国を勇敢にふれ告げましたが,その裁きの執行は西暦70年のエルサレムの崩壊と共に到来しました。パウロは別の裁きの日に住むわたしたちに,圧迫を受けているときにはイエスの模範を「いっしんに見つめ」,「深く考え(る)」よう勧めています。それはわたしたち自身が,「疲れて,[わたしたちの]魂が弱り果ててしまうことのないためです」。―ヘブライ 12:1-3。ヨハネ 12:31。

      9,10 (イ)イエスはどんな食物を最も貴重なものとみなしましたか。(ロ)何に関し,イエスは弟子たちに指示を与えましたか。

      9 神のみ子ご自身以上に,エホバの王国の関心事のために熱心に働いた人はいません。この点でみ子は天のみ父の模範に倣っています。「わたしの父はずっと今まで働いてこられました。ですからわたしも働きつづけるのです」,と述べておられるからです。王国奉仕はイエスにとって物質的な食事以上のものでした。というのは,「わたしの食物とは,わたしを遣わしたかたのご意志を行ない,そのみ業をなし終えることです。……さあ,あなたがたに言いますが,目を上げて畑をご覧なさい。収穫を待って白く色づいています。すでに,刈る者は報酬を受け取って永遠の命に至る実を集めて(います)」とも述べられたからです。―ヨハネ 5:17; 4:34-36。

      10 イエスが述べておられたのは,「羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていた」人々を収穫することでした。そしてイエスは,村や町を巡って王国の希望について教えかつ宣べ伝えながら,この収穫の業のための型を残されました。同時にそれは警告の業でもありました。イエスは十二使徒を送り出されるときに次の指示を与えておられます。「どこでも,人があなたがたを迎え入れず,またあなたがたのことばを聴かない所では,その家またはその都市から出るさいに,あなたがたの足のちりを振り払いなさい。あなたがたに真実に言いますが,裁きの日には,その都市よりもソドムとゴモラの地のほうが耐えやすいでしょう」― マタイ 9:35-10:15。

      それより大きな業

      11 イエスは刑柱につけられる直前に,どんな異例なことを語られましたか。

      11 イエスは刑柱につけられる前夜,業を行なう点でご自分がみ父と密接に結び付いていることを弟子たちに話してから,次のことをつけ加えられました。「きわめて真実にあなたがたに言いますが,わたしに信仰を働かせる者は,その者もまたわたしの行なっている業をするでしょう。しかもそれより大きな業をするのです。わたしが父のもとに行くからです」。(ヨハネ 14:9-12)イエスはどんな業のことを言っておられたのでしょうか。どうしてこの業が,み父と結び付いて働かれた神のみ子自身が成し遂げた業より大きなものとなるのでしょうか。

      12 この「大きな業」は何であるとイエスは示されましたか。

      12 イエスは死と復活の何日か後にガリラヤで弟子たちに現われ,これら「大きな業」とは何であるかを示して次のように言われました。「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなたがたとともにいるのです」。40日間イエスは神の王国について弟子たちに教え続け,それから昇天する間際には,「聖霊があなたがたの上に到来するときにあなたがたは力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」と述べられました。―マタイ 28:16-20。使徒 1:3-8。

      13 使徒時代にはどんな「徹底的な証し」が行なわれましたか。

      13 このようにしてイエスは,地の隅々にまで達する,証しをし教える業のことを話されました。ペンテコステの日に弟子たちの上に聖霊が注がれてのち,宣べ伝える活動はエホバの祝福のもとに開始されました。その結果,使徒たちの活動の書の中にひんぱんに出て来るように,「徹底的な証し」が行なわれました。この業で率先した人の一人に使徒パウロがいます。パウロはエフェソスで,クリスチャン会衆の長老たちに向かって次のように語りましたが,それは順当なことでした。「わたしは,なんでも益になることをあなたがたに話し,また公にも家から家にもあなたがたを教えることを差し控えたりはしませんでした。むしろ,神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰について,ユダヤ人にもギリシャ人にも徹底的に証しをしたのです」― 使徒 20:20,21,24; 2:40; 10:42; 23:11; 28:23。

      14 (イ)西暦70年以前に宣べ伝える業はどの程度広がっていましたか。(ロ)働き人たちは「敬神の専念」をどう見ていましたか。

      14 西暦一世紀のこれらのクリスチャンは,人々に警告を発し,「良いたより」を教える業に着手しましたから,ユダヤ人たちはエルサレムに滅びが迫っていることを十分に知らされていました。その滅びはイエスの預言にたがわず,西暦70年,驚くほど突然にやって来ました。(マタイ 23:37,38; 24:15-22)その裁きの執行が近づきつつあった時に,使徒パウロは,「良いたより」の希望が「天下の全創造物の中で宣べ伝えられた」と書くことができました。(コロサイ 1:23)確かに,この「徹底的な証し」は,結果として,イエスの成し遂げられたものより大きな「業」となりました。では働き人となったのはだれでしたか。それは敬神の専念を生活の中で最優先する謙遜な男女でした。そうした人々は使徒パウロと同じように,次のように語ることができました。『敬神の専念はすべての事に益があります』,「それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです。……わたしたちはそのためにほねおって働き,また努力しているのです。わたしたちは生ける神に希望を託しているからです。神はあらゆる人,特に,忠実な者の救い主です」。(テモテ第一 4:8-10)彼らがその裁きの日に「徹底的な証し」を行ない,「大きな業」に携わったことは,神の豊かな祝福を受けました。

      現代の証人たち

      15 エホバの証人の活動はキリスト教世界の宗教活動とどのように異なっていますか。

      15 「諸国民の定められた時」が1914年に終了した時に始まった,不敬虔な世に対する最後の裁きの時代に,証人たちの大群衆は,全地を覆い尽くしてエホバのみ名と王国を知らせました。彼らが自分たちの希望について証しするその方法はキリスト教世界のひんしゅくを買いました。イエスとその使徒たちがユダヤ人の宗教指導者から白眼視されたのと同じです。(ルカ 21:24。ヨハネ 7:45-52。使徒 5:27-29)エホバの証人は,神学校を出た少数の選り抜きの僧職者たちに依り頼んで,説教壇やテレビやラジオで自分たちを代表させるようなことはしません。むしろ彼らは伝道者たちの集まりであり,200万人以上の勢力を持ち,個人個人のレベルで証しを行ないます。心に取り入れた「良いたより」の希望を,家から家で,そして公の場所で,また非公式に知らせています。(使徒 5:42; 20:20,21。ペテロ第一 3:15)彼らはこの世が裁きの日を迎えており,「世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難」に直面するという警告を,忠実に鳴り響かせています。―マタイ 24:21,22。

      16 エホバは今日ご自分の業を行なうためにどんな種類の人々を選ばれましたか。

      16 このようにエホバのクリスチャン証人は現代において,イエスが地上におられる時に行なわれた業よりも「大きな」,つまりより広範にわたる業を,神の霊の助けを得て成し遂げました。彼らはそのことを自分の手柄とはしません。幸いなことに,その一人一人は,パウロが次に述べるような種類の人々であることを喜んでいます。「兄弟たち,あなたがたが自分たちに対する神の召しについて見ていることですが,肉的に賢い者が多く召されたのではなく,強力な者が多く,高貴な生まれの者が多く召されたのでもありません。むしろ,神は世の愚かなものを選んで,賢い人びとが恥をこうむるようにされました。また神は世の弱いものを選んで,強いものが恥をこうむるようにされました。また神は,世の卑しいものや見下げられたもの,無いものを選んで,有るものが無になるようにされました。それは,肉なるものがだれも神のみまえで誇ることがないためです」。(コリント第一 1:26-29)時間を割いて耳を傾ける人々の心をつかむのは,多くの場合,世の標準では「愚かな」,しかし信仰に富んだ謙遜な王国の証人なのです。

      わたしたちの「生ける希望」を表明する

      17 (イ)詩篇 145篇10-14節と一致して,エホバは1979奉仕年度の間ご自分の民をどのように祝福してこられましたか。(ロ)表の中で顕著な点と思われるものを幾つかあげてください。

      17 エホバは1979奉仕年度の間も,全地のご自分の民の証言活動をすばらしく祝福され,禁令や迫害や経済的な圧迫を受けても彼らが「大きな業」を完遂できるよう援助を与えられました。そして,表が示しているように,エホバのみ名と王国について大規模な証言が行なわれました。

      18 (イ)バプテスマはどうでしたか。(ロ)王国奉仕はどのように実を結びましたか。(ハ)1979年の記念式の報告はどうでしたか。これらの出席者の多くについてわたしたちはどんな願いを抱きますか。

      18 この表の中で際立っているのは,11万3,672人というバプテスマを受けた人の数です。これは前年度にバプテスマを受けた人の数を19.6%上回っています。そのほか,野外奉仕に携わった人の数,王国奉仕に捧げられた時間,関心ある人に対してなされた再訪問,そうした羊のような人々の家で司会された聖書研究も増加しました。この聖書研究の業は実を結んでおり,そのことは,合計532万3,766人の人々が一年のうち最も重要な集会であるイエスの死を記念する式典に出席したことに表われています。その数字は前年度の4.4%の増加にあたります。出席した,エホバの証人ではない300万の人々が『救いのために口で公の宣言をすること』を目指して進歩し続けることをわたしたちは願っています。―ローマ 10:8-10。

      19 (イ)開拓者の活動についてはどんな喜ばしい報告がありますか。(ロ)開拓奉仕は「大きな業」にどのような面で貢献していますか。

      19 全時間の“開拓者”である王国宣明者の数が増加を続けているのを見るのは喜びです。月平均は1978年から10.5%増え,12万7,558人となりました。これらの人々はこの「終わりの時」における「大きな業」を遂行する上で大きく貢献し,そのうちの多くが,世界中で2週間にわたって開かれる開拓奉仕学校でその活動に関し祝福を受け,強められました。(ダニエル 12:4)他の大勢の人々も全時間の“正規開拓者”となることに深い関心を示しています。8月だけでも,米国で896人が,日本では777人がこの奉仕のための申込書を出しました。一か月だけ,あるいは数か月の間活動を増し加える“補助開拓者”の業に携わる人が最高数に達したと報告している国は,実に多くあります。この業は「大きな業」を行なうよう引き続き諸会衆を鼓舞しています。

      20 (イ)1979年度の報告からわたしたちはどんな励ましを得るはずですか。(ロ)では,わたしたちの「生ける希望」に関してわたしたちはどのように行動すべきでしょうか。

      20 総合的に見て,1979年の奉仕活動に関する報告は,各地のエホバの証人たちが喜ぶ強力な理由となっているはずです。そして,時間が残されている間にこの「大きな業」に十分にあずかるようすべての人を鼓舞するはずです。この報告に励まされてわたしたちは,イエスを通して常に「賛美の犠牲」「すなわち,そのみ名を公に宣明するくちびるの実」を「神にささげ」るため,「わたしたちの希望を公に言い表わすことを,たじろぐことなくしっかり保(つ)」はずです。(ヘブライ 13:15; 10:23)そうです,その「生ける希望」がこのようにわたしたちにとって絶えず真実なものでありますように!

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