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    ものみの塔 1964 | 8月15日
    • 7 真理を知ることは,どのように一致をもたらしますか。ある人は何に妨げられて一致することができませんか。

      7 この祈りから少なくとも知ることができるように,キリストの真の追随者は,エホバとみ子イエス・キリストの間に存在するような一致に到達しなければなりません。これは永遠の生命の約束を与えられている被造物すべてに対する神の明らかなみ心です。そして神と神のひとり子の完全な一致は,彼らに対する一致の高い標準となっています。考えと行ないの面で同意があるときにのみ,一致は可能となります。このような一致を築くべき強固な基礎は,神のことば聖書であって,しかもそれを正しく理解していなければなりません。人間を自由にし,一致させるのはこの真理です。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら,あなたがたは,ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は,あなたがたに自由を得させるであろう」。(ヨハネ 8:31,32)イエスの弟子たちは,イエスの教えと行ないに同意し,イエスと一つになりました。弟子たちは生き方を変え,主に従ったのです。他方パリサイ人はイエスの教えと行ないに同意しませんでした。聖書を間違って解釈したことと,自分たちの誇りが妨げとなって,パリサイ人はイエスと一致できなかったのです。今日でもその事は変りません。

      8 神の霊はどのように誠実なクリスチャンを助けますか。

      8 しかしたとえ神のことばの真理が啓示されても,神の聖霊が真理を愛する心の正しい人を導くのでなければ,その真理を理解することはできません。聖霊はこのような人に働いてすばらしいみ霊の実を生み出し,肉の行ないからその人を清めます。人間関係を崩壊させるこの肉の行ないは,ガラテヤ書 5章19節から21節に述べられています。それは憎しみ,争い,ねため,怒り,党派心,分裂,分派,そねみなどであって,これらのものは人を離反させ,多かれ少なかれ不一致をもたらします。しかし不一致をおこすこれらの性質は,神のみ霊の感化によって除くことができるのです。これは一晩のうちにできることではありません。時がたってはじめて成熟する果実と同じで,これは時の経過と共に次第に成しとげられるものです。神のみ霊すなわち活動力にみたされた人は,親しみやすい,平和な,忍耐強い,柔和で寛容な,愛の人となります。(ガラテヤ 5:22,23)このように神のみ霊は,真実のクリスチャンの一致を実現するように欠くことのできない強力な働きをします。神のことばと神のみ霊なしにクリスチャンの一致は考えられません。

      秩序の必要

      9 国際的なクリスチャンの家族として,エホバの民は何を認めますか。

      9 しかし一致と密接な関係を持つものに秩序があります。不一致に無秩序はつきものだからです。一致していない家族には,調和と秩序のある家庭生活もありません。おそらく父親も母親も子供たちもそれぞれ自分の道を行くといった調子で,家庭の秩序は妨げられていることでしょう。クリスチャンとして一体をなすエホバの証者は,国際的な家族にたとえられます。一致と秩序は互に関連していますから,この大きな家族の成員はこの「信仰の家」を治める秩序を認め,それを尊重しなければなりません。神は秩序の神です。「神は無秩序の神ではなく,平和の神である」。(コリント前 14:33)このすばらしい秩序あるいはとりきめの中心また最高位にあるのは神ご自身です。従ってこの大きな家族の者はすべて神を愛し,神を崇拝します。またエホバがみ子イエス・キリストを万物の相続者とし,天と地にある一切の権威をキリストにお授けになったことを認めます。(マタイ 28:18。ヘブル 1:2)このゆえにイエス・キリストは神の定めた事物の秩序の中で2番目の地位を占めており,神の家族の者はすべてこの事実を認めなければなりません。み子を認めない者は神の家族の中で認められず,またその一員となれないでしょう。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は,命にあずかることがないばかりか,神の怒りがその上にとどまるのである」― ヨハネ 3:36。

      10 真の教会について,ある人はどんな考えを持っていますか。しかし聖書はその間違いをどのように示していますか。

      10 神の家族の秩序はこの地上にも見られます。秩序は組織と関連しています。真の教会は人々を集めて組織した一つの集団ではない,それはいわゆるキリスト教の各宗派に属する多くの人々から成るという考えを持つ人は少なくありません。しかしこの考えは聖書の教えではありません。大いなるバビロンの一部を成す色々な教会にも,誠実な人々が大ぜいいることでしょう。しかし聖書は,偽りの宗教の世界帝国であるこのバビロンを出るようにと,この人々に呼びかけています。神に受け入れられるには,その中から出ることが必要です。使徒パウロは次のように述べました,「不信者と,つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか……だから,『彼らの間から出て行き,彼らと分離せよ,と主〔エホバ〕は言われる。そして,汚れたものに触れてはならない。触れなければ,わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは,あなたがたの父となり,あなたがたは,わたしのむすこ,むすめとなるであろう。全能の主〔エホバ〕が,こう言われる」。(コリント後 6:14-18)ヨハネも次のように書きました,「大いなるバビロンは倒れた……わたしの民よ。彼女から離れ去って,その罪にあずからないようにし,その災害に巻き込まれないようにせよ」― 黙示 18:2,4。

      11 真実の信仰はただ一つであることを認めていた初期クリスチャンは,その認識をどのように示しましたか。

      11 神の真の会衆が,キリスト教国のあらゆる教会組織の中に散らばる人々から成り立っているとすれば,思想と行動の一致は見られないでしょう。初期教会に見られ,エペソ人への手紙の4章に強調されている一致は存在しないに違いありません。「からだは一つ,御霊も一つである。あなたがたが召されたのは,一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ,信仰は一つ,バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり,すべてのものを貫き,すべてのものの内にいます,すべてのものの父なる神は一つである」。(4-6節)このような一致を達成するために,初期クリスチャンは以前の宗教から離れ,クリスチャン会衆の中で一致したのです。イエスの弟子となったユダヤ人はユダヤ教の宗派から離れ,ギリシャ人の弟子は当時の哲学と偶像崇拝から離れました。ローマ人のクリスチャンも同様です。これらの制度とどの程度の関係を持っていたにしても,この人々はすべてそれから離れ,バビロン的な偽りの宗教の中から出ました。そして一つのクリスチャン会衆に加わりました。

      12 初期会衆にはどんな秩序あるとりきめが存在していましたか。

      12 この人々の集団には秩序があり,組織がありました。使徒および他の円熟した人々から成る統治体があって指導しました。それぞれの会衆には監督と補佐のしもべがいました。(テモテ前 3:1-9)すべての会衆は同じ根拠すなわち霊感による神のことばに基づいた教えと教訓を受けました。統治体と監督を尊敬するようにとのさとしも,会衆に与えられています。おもだった兄弟の一人であった使徒パウロは次のように書きました,「あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて,従いなさい。彼らは,神に言いひらきをすべき者として,あなたがたのたましいのために,目をさましている。彼らが嘆かないで,喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと,あなたがたの益にならない」。(ヘブル 13:17)各会衆において,また総体的にわざを指導する兄弟たちを会衆が認めるとき,一致が保たれるのです。監督また責任を持つ人々が不完全であり,間違いをするにしても,そのことは必要でした。これらの監督は神のみ霊を持っていました。

      13 パウロは一致のためにどんな助言を与えましたか。

      13 監督は自分の思うままに何でも伝道し,また会衆に教えてもよいというのではありません。また神のことばの一部だけしか受け入れないといった事も許されてはいませんでした。会衆の成員についても同様です。各人は伝道のつとめを与えられていますが,何を伝道してもよいというのではありません。そのすべては真理を伝道することを求められました。従ってエルサレムでもローマでもコリントでも,当然に同じ音信を伝道することになります。「あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし,お互の間に分争がないようにし,同じ心,同じ思いになって,堅く結び合っていてほしい」。(コリント前 1:10)対立する動きが始まる余地はなかったのです。ところが今日では同じ一つの教会の中に「積極的な」グループと「自由主義的な」グループが存在して,後者はキリストの犠牲の死や復活さえも認めないといったことさえあります。使徒パウロは監督テモテに対し,「人を教える場合には,清廉と謹厳とをもって,非難のない健全な言葉を用いなさい」と書き送りました。(テトス 2:7,8)この言葉から益を受けるのはテトスとその会衆だけではありません。これはあらゆる時代のクリスチャンの監督のために書かれました。

      14 分派をおこそうとする人を,どのように取り扱うべきですか。

      14 一致を保ち,分派を避けるために,初期の統治体の一人であった使徒パウロはテサロニケ人に次のことを書き送っています,「もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば,そのような人には注意をして,交際しないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである」。(テサロニケ後 3:14)霊感を受けた使徒の教えを受け入れようとしない人は,会衆の人々が安心して交際できる人ではありません。このような人は演壇に立つことを許されませんでした。それは使徒が書き,また語ったのとは反対の,自分勝手な意見を会衆に述べないためです。その人は無視されるべきでした。そのようにして自分の非を悟り,またさとされてやがては従順を学ぶようになるためです。このようにして会衆は内部の一致を保つと同時に,他の会衆また重だった兄弟たちとも一致を保つことができました。

      15 バビロン的な宗教を離れる人には,どんな一致の基礎がありますか。

      15 今日においても復興したエホバの証者のクリスチャン会衆内に,同じ秩序と原則が見られます。過去二,三十年間に何十万人に上る善意者がバビロン的宗教の教会から離れました。その人々は家のしきたりで生まれた時から一つの教会に属していたという場合が多いのです。しかし神の国の音信を受け入れたいま,エホバに献身して,エホバの証者の組織された会衆に加わりました。以前はカトリック,プロテスタント,ユダヤ教,仏教,回教その他どんな宗教の信者であった人も,神の国の下,神の大家族の中にあって聖書の真理という共通のものによって結ばれるようになりました。そして以前には知らなかった一致を見出したのです。

      独裁支配ではない

      16 独裁支配とは何ですか。それに関してどんな質問が出ましたか。

      16 神の民の国際的な一致を認める人の中には,すべての人が一定の原則に従っているのを見て,エホバの証者は独裁支配の下におかれているのではないかとの問いを発する人があります。「独裁支配」と言えば,普通には絶対の権力をもつ政府による圧制的な支配のことです。今日何百万に上る人々がこのような独裁支配の下におかれており,一般にこのような支配体制は教会の支持を得ています。しかし独裁的な支配を受けている人々のうち,このような支配に喜び,また満足している人がどれだけいますか。多くの人はそれから解放されることを願っているに違いありません。このような支配体制下に生活する大部分の人は自らそれを好んでいるのではありません。それは押しつけられたのであって,それを受け入れる以外にすべがなかったのです。

      17 神の支配と独裁支配はどのように対照的ですか。

      17 しかし神の国の支配は独裁的ではなく,エホバの証者の新世社会にも独裁的なところは一つもありません。独裁者は強制的に支配します。エホバ神は心の正しい人々の善意と自由意志に訴えます。だれも神への奉仕を強制されません。「あなたがたの仕える者を,きょう,選びなさい」。(ヨシュア 24:15)エホバのこの原則は昔も今も変りません。今日,神の家族の中に運営されている神権組織を受け入れることは,だれにも強制されていないのです。それは自由意志による選択にまかされています。エホバは愛によって人々の心を得ます。また神の民がひとつ心で神を愛することを望まれます。(マタイ 22:37,38)神の支配はすべて愛に基づいています。これは独裁支配には見られないことです。さらに神の支配は完全な正義と知恵と力に基づいています。このことも独裁支配には見られません。創造主であるエホバは,被造物から全き従順と献身を求める絶対の権利をお持ちになっています。しかしこのような権利を持つ独裁者はいないのです。

      18,19 (イ)神は私たちになにを望まれますか。(ロ)神の家族の一部として私たちはどんな態度をとるべきですか。

      18 神を愛し,キリストの治める神の国を愛するクリスチャンの愛は,神の戒めを従順に守ることによって示されます。「神を愛するとは,すなわち,その戒めを守ることである」。(ヨハネ第一 5:3)神に対する私たちの従順は強制的なものではなく,自発的に喜んでささげるものです。それは不平を言いながら負う重荷ではありません。「わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである」と,神の国の王は言われました。(マタイ 11:30)詩篇に書かれているように,神のみ心を行なうことは喜びです。「エホバを畏れてそのもろもろのいましめをいたく喜ぶ者はさいはひなり」― 詩 112:1,文語。

      19 ゆえに独裁支配とエホバの組織とをくらべるならば,非常に大きな相違のあることがわかります。もしそういう事ができるならば,独裁支配の下から逃れてくる人は無数にあるでしょう。他方,毎年何万人に上る心の正しい人々が神の国に逃れてきます。なぜならばそこに永遠の生命の約束と幸福を見出したからです。その人々は神の家族の一致の中に迎え入れられます。「見よ,兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう」― 詩 133:1。

  • 苦難の時にも一致を保つ
    ものみの塔 1964 | 8月15日
    • 苦難の時にも一致を保つ

      「一つの霊によって堅く立ち,一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い,かつ, 何事についても,敵対する者どもにろうばいさせられないでいる」― ピリピ 1:27,28.

      1 エホバの証者とこの世はどんな面で対照的ですか。

      いまが多難の時であることに疑問の余地はありません。それは預言された通り私たちの上に臨みました。(テモテ後 3:1)人間社会が大きく動揺しているこの多難な「終りの時」にあって,エホバの証者の一致と平安はひときわ目立っています。しかし調和のあるこの状態は,エホバの証者の会衆があらゆるところにあるというだけの理由で,努力なしにひとりでに出現したのではありません。前の記事の中で,この一致の霊的な基礎について論じました。この一致が人間の力によるものでないにしても,神の大家族に属する各人はこの一致を保ち,また完全の域に高めるためにそれぞれの分をつくすことを求められています。

      2,3 (イ)一致を妨げるどんなおとし穴がありますか。(ロ)どのようにそれを避けますか。

      2 一致をもたらす要素がいろいろあるように,不一致と争いをおこす要素もいろいろあります。目ざとい神のしもべはこれらの危険を知り,またそれを見て避けるでしょう。一致をおびやかすこれらの危険は,むかし神の家族の一致を破ることに成功して神の敵となったサタンの策略です。またこの危険はサタンの世にもさらには堕落した人間自身の中にもひそんでいます。この最後のものは決して小さな危険ではありません。―ヨハネ第一 5:19。ガラテヤ 5:19-21。

      3 使徒パウロが当時のコリントのクリスチャンに対して,一致を保つようにとさとしたのはきわめて当然でした。パウロは彼らの間に争いがあることを聞いていたのです。「わたしの兄弟たちよ。……あなたがたの間に争いがあると聞かされている」。(コリント前 1:11)今日の神の民の間でも,これは時おりここかしこで起こり得ることです。たいていの場合このような不和は個人的な性質のものですが,時にはそれが会衆全体に影響を及ぼすこともあります。事情はどうあろうと,これらの問題は避けるべきであり,関係者各人はできるだけ早くそれを除き去るために最善の努力をしなければなりません。「憤ったままで,日が暮れるようであってはならない。また,悪魔に機会を与えてはいけない」― エペソ 4:26,27。

      舌をおさえる事と喜んで許すこと

      4 なぜ話すことばに注意すべきですか。

      4 舌の使い方をあやまると,往々にして緊張した関係の原因となります。聖書の示すように,からだの小さな器官である舌は大きな災のもとになります。1本のマッチは取るに足らないほど小さくても,山火事をおこしてばく大な損害を与えることがあります。「舌は小さな器官ではあるが,よく大言壮語する。見よ,ごく小さな火でも,非常に大きな森を燃やすではないか」。(ヤコブ 3:5)人のことを悪く言い,ないことを言いふらすならば,親しい関係は生まれず,分裂と不一致の種を宿した打ちとけない感情が生まれるでしょう。もちろん個人的な不和のためにクリスチャン会衆が瓦解してしまうことはありません。しかしそれに他の人々の同情や反感が加わると,会衆内に対立が起きて会衆全体に影響が及ばないとも限りません。会衆は集会を開き,福音伝道の使命をはたしてはいても,その上に一抹の影がさしており,喜びのない状態になるでしょう。

      5 けんそんは一致を保つのにどのように役立ちますか。

      5 従って舌を制することは肝要です。(ヤコブ 3:10-18)強いことば,無分別な,人を傷つけることば,あるいは真実でないことばのために兄弟との間に気まずい感情が生じたならば,謝罪することをためらってはなりません。それには謙遜が必要でしょう。しかし謙遜は多くの面で平和と一致のために役立ちます。謙遜とはへり下った心です。それは弱さではありません。それとは反対に謙遜はエホバに喜ばれる心です。「みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ,へりくだる者に恵みを賜うからである」。(ペテロ前 5:5)謙遜な心があれば,神の組織の中でどんな地位についている人でも,自分のあやまちを認めて謝罪することをはばからないでしょう。けんそんであれば,神の家族の秩序に従うことも容易です。また謙遜であれば,自分に与えられていない奉仕の地位を他の兄弟が得ても,ねたむことをしません。天の父に対し,また兄弟たちや神権組織に対して自分の持つ関係を正しく認め,それらのものにくらべれば自分は小さい者であることを認めるでしょう。けんそんな心を持てば,自分をえらい者のように思うことはありません。

      6 なぜ喜んで許すべきですか。

      6 許し合うことを決してしないという人に会ったことがありますか。このような人同志の関係は断ち切られているか,あるいは無いも同然の状態でしょう。しかし天の父が私たちを許して下さらないとすれば,私たちはどうなりますか。従ってすぐに許すという事は,クリスチャンの一致を保つためにきわめて大切です。私たちは何回許すべきですか。イエスがペテロに与えた言葉はそれに答えています。「イエスは彼に言われた,『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい』」。(マタイ 18:22)他の人を許そうとしないのは自分自身の不利益です。なぜそうですか。悪感情や恨みを抱くことは心の平和を奪い,身体に悪いだけでなく,神から罪の許しを得られなくなるおそれがあるからです。聖書はそのことを述べています。「もしも,あなたがたが,人々のあやまちをゆるすならば,あなたがたの天の父も,あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば,あなたがたの父も,あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」― マタイ 6:14,15。

      7 個人的に何か悪いことをされたとき,どんな態度をとるべきですか。なぜ?

      7 何か悪いことをされたといっても,多くの場合それは小さな事であり,思いやりとか巧みさの不足,しつけの不足あるいはその時の感情のさせたことで悪意から出たものではありません。ですから狭量にならず大きな心を持って,他の人を許すことができなければなりません。このようにして悪感情の雲は吹きはらわれ,再び日がさすことでしょう。完全な人は一人もいません。私たちはみな不完全であり,他の人から許してもらうとき,うれしく思います。しかし自分の欠点よりも他人の欠点のほうが目につきやすいものです。

      教義の問題で不一致を避ける

      8 (イ)エホバの証者はなぜ教義の点で一致していますか。(ロ)難しい点の理解を助け,また一致を保つためにどんな提案がありますか。

      8 教義のことで不一致が生ずるかも知れません。どのようにそれを避けますか。このような問題が起きたとき,「彼らはみな神〔エホバ〕に教えられるであろう」と述べたヨハネ伝 6章45節を思いおこすのは良いことです。全世界のエホバの証者は聖書に基づく教えを授けられています。マタイ伝 24章45節に言われた「忠実な思慮深い僕」を代表するものみの塔聖書冊子協会は聖書を説明します。このように一つの源から一様の教えが与えられることは,全世界のエホバの証者の一致に大きく貢献しているのです。もし会衆内のある人が特定の点を理解し難いとか,受け入れ難い場合,知識のある円熟した兄弟と話し合うかも知れません。それでもなお不明ならば,そこで問題を打ち切るのが最善かも知れません。おそらく後日,協会がその点を更に説明して,理解は深められるでしょう。私たちは理解を与えられるようにエホバに祈ることができます。「あなたがたのうち,知恵に不足している者があれば,その人は,とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に,願い求めるがよい。そうすれば,与えられるであろう」。(ヤコブ 1:5)しかしある教義に関して自分の異なる意見を会衆内の多くの人に周知させようと図るのは悪いことです。それは一致をすすめるかわりに不一致と不信の種をまくことになるでしょう。多くの場合,論争の的になるのは小さな点です。しかしそれを余りに大きくすると,大切な神の国の真理が見失われます。そして神の国の福音を伝道することをやめてしまう人が出るかも知れません。

      9 まだ明白に理解できない点があるとき,どんな見方をするべきですか。

      9 啓示されたエホバのお目的に関する真理は,絵画の名作にたとえることができます。この絵には,新しい秩序の下に永遠に生きる希望が描かれています。ただこの絵は最後の仕上げがすんでいません。私たちはまだすべての事を理解していません。時がたつにつれて,ある事柄は更によく理解されるようになるでしょう。全部のことを理解できないからと言って,そのために喜びを失い,神のことばと神の組織に不信を抱くべきではありません。エホバの用いるものみの塔協会からどんなに多くの真理を学んだかを考えてごらんなさい。そうすれば感謝できます。エホバがその組織によってご自分の民を安全に導かれていることを,考えてごらんなさい。そうすれば確信が持てるでしょう。理解の程度は時によって異なるにしても,霊的に飢えかわいたことはなく,また神の愛に不足したことはかってありませんでした。ゆえに私たちはダビデと同じく感謝して次のことを言えます,「エホバはわが牧者なり,われ乏しきことあらじ エホバは我をみどりの野にふさせ,いこひの水浜にともなひたまふ エホバはわがたましひをいかし……給ふ」― 詩 23:1-3,文語。

      迫害の下で一致を保つ

      10,11 迫害の下で,エホバの民は聖書の教えるどんな道をとりますか。

      10 マタイ伝 24章にあるイエスの預言にたがわず,この「終りの時」に多くの迫害がエホバの証者に加えられてきました。その事実は一般にも知られています。今日とくに全体主義諸国においてエホバの証者は圧迫と迫害を受け,そのクリスチャン活動を行なうことが困難になっています。神から与えられる力によって,エホバの証者はそれに耐えています。忠実なクリスチャンであって,革命家でも反革命家でもないエホバの証者は,政治権力に反抗せず,また報復の行為に出ません。彼らは民主主義をも含めてどんな形態の政治からも救いを期待せず,神の国に望みをおいています。神の国だけがすべてのものを新しくするのです。―黙示 21:5。

      11 最善をつくして一致を保つことがエホバの証者にとって何時も大切ならば,地下活動を行なわなければならない迫害下にあって,そのことはもっと大切です。それはなぜですか。

      12 わざの禁止されるとき,どんな事態が予想されますか。

      12 ルーマニア,ハンガリー,ソ連などのように,エホバの証者の活動が禁令下におかれると,ブルックリン本部との通信は直ちに影響をこうむります。おそらく何ヵ月ものあいだ通信はとだえてしまうでしょう。独裁支配の国では会衆間および責任ある兄弟たち同志の通信も,事実上とだえてしまいます。協会の雑誌また教訓や知らせをのせた手紙も郵便で配達されてきません。普通の状態ならば,会衆や個人に届く豊富な霊的食物も突然に手に入らなくなり,霊的食物はごくわずかになります。おそらくその大部分は警察の手で押収されてしまい,御国会館も閉鎖されて,ものみの塔出版物を何でも読んでしらべることはできなくなるでしょう。

      13,14 宣教をやめさせるために,何が行なわれるかも知れませんか。従って何が肝要ですか。

      13 それだけではありません。会衆の監督や支部のおもだった兄弟たちは捕われて刑務所につながれているかも知れません。おそらく個人的にはすべての兄弟に知られていない他の兄弟が代わって任につくことが必要です。大きな集会はなく,小人数の集まりがひそかに行なわれるに過ぎません。このすべてが神の民の一致を危険にさらすことは言うまでもありません。それであらゆる手段を講じて一致を保つ必要は,いくら強調しても強調し過ぎではありません。

      14 「分裂させて支配せよ」というラテン語のことわざがありますが,全体主義の国においてエホバの証者の組織を破壊しようとする政府は,この原則をよく用います。正面攻撃では破壊できないため,政府はあらゆる策略を用い,組織の一致を乱して内部から崩壊させようとします。

      15 ある証者はどのように誘惑に耐えましたか。

      15 たとえばこのような全体主義の国で,ある人々は追従によって兄弟たちの心を得ようとしました。それで政府から罰せられるほど「極端」になって意地をはるよりも政府と協力し,クリスチャンの原則などは忘れてしまうほうが,はるかに有利で自分のためになると語りかけます。またエホバの証者の組織内で有力な地位につかせてあげよう,そしてこの申し出を受け入れるならば,万事は好都合に運ぶだろうといった誘いのことばを政府から聞かされた兄弟もあります。しかし兄弟たちはこのような非神権的な誘いを拒絶しました。「私は売りものではない」とある兄弟は答えました。神権組織内の奉仕の地位に人を任命するのはこの世の政府ではなくて,組織そのものです。兄弟たちはその事を知っており,誘いに乗りませんでした。―詩 12:2。

      16 証者を混乱させるために,どんな試みが行なわれましたか。

      16 ある共産主義の国では,組織内のおもだった人々を非難攻撃する内容の手紙が兄弟たちに送られてきました。その手紙はこれらの人々を酒飲みであり姦淫を行なう者,裏切り者であるとして非難しています。謄写版ずりのこの手紙を出したのは秘密警察でした。このような策略の目的は明らかです。それは混乱をひきおこし,おもだった兄弟たちに対する不信を抱かせるためです。もちろん手紙の差出人が警察であることは書かれておらず,封筒には差出人として忠実な兄弟の名がしるされています。別の国では,やはり兄弟たちを混乱させるために「ものみの塔」が偽造されました。秘密警察はその目的にそうようにほんものの「ものみの塔」の記事を変えています。しかし兄弟たちが相違を見破ったので,この企ては失敗しました。

      17 私たちは何に対して責任がありますか。例をあげなさい。

      17 エホバの証者の活動が禁止されている国において,分裂をはかる別の企ては,一人の人を別の人に対抗させてそれを利用することです。地下活動のいろいろな事実を集めた判事は,取り調べている兄弟にそれを語って次のように言うかも知れません。「N兄弟はこのすべてを私に話した。この通り彼は我々に協力している。お前も協力したらどうだ」。こうして兄弟が裏切ったかの印象を与えます。このような場合,兄弟は警察に情報を提供した本人に会わせてもらいたいと言います。その願いはたいてい容れられないため,その事は事実でないことがわかります。どんな事情の下においても,このような手に乗ってはなりません。しかしある兄弟が本当に警察の側についたとしたら,どうすべきですか。他の人がそれにならう必要はありません。それはその人の責任であって,あなたの責任ではありません。人は自分の行いに対し,また忠実な兄弟たちを保護することに対して責任があります。従うべきものは忠実な人の手本であることを忘れないで下さい。昔の人のこのような手本はヘブル書 11章にしるされており,また現代にも忠実の手本は少なくありません。

      18 信者になったばかりの人を責任のある地位に任命してはいけないと,聖書が述べているのはなぜですか。

      18 聖書は,信者になったばかりの人をクリスチャン会衆内の地位に任命してはいけないと述べています。「彼はまた,信者になって間もないものであってはならない。そうであると,高慢になって,悪魔と同じ審判を受けるかも知れない」。(テモテ前 3:6)とくに迫害のとき,この原則を無視できません。信者になって間もない人は,御国奉仕に熱心でも円熟に欠けているかも知れません。普通の状態ならば,このような人の行動をよく見て援助できます。神の国を伝道するのに地下活動が行なわれているとき,それは困難です。信者になったばかりの人は独りよがりの行動をして分派をおこすかも知れません。その人は信頼のおける「忠実な思慮深い僕」の導きに従うという点で認識に欠け,自分を過信し,神のお考えよりも自分の考えに支配され,自分の行動が望ましくない結果を生むことに気づかないでしょう。あるいは妥協しやすいかも知れず,あるいは考え方が極端で狂信的になる傾向があるかも知れません。この人が会衆の監督ならば,不一致の原因にならないとも限りません。従って地下活動の場合には,十分に信頼できる,証明ずみの人を奉仕の地位に任命することに留意すべきです。「彼らはまず調べられて,不都合なことがなかったなら,それから執事の職につかすべきである」。(テモテ前 3:10)すべての監督とくに一国内の諸会衆の連絡を保つ巡回また地域のしもべについて,この事が言えます。

      19 聖書にしるされた先例にならって,どのように不一致を解決できますか。

      19 万一にも不一致が生じたならば,それにかかわった人々は,その国における伝道のわざに責任を持つ兄弟たちの指示に従わなければなりません。その助言は神のことばに基づいているからです。場合によっては協会の本部から,助言ないしは決定をしるした手紙が送られてくるかも知れません。意見の相違が統治体の手紙によって解決をみた例は,初期教会にもあります。そのとき論争の的となったのは割礼の問題でした。救われるには割礼を受けなければならないという考えが,ある人々によってひろめられました。その考えは間違っていました。(使行 15:1)それは大論争になりました。エルサレムの責任ある兄弟がこの問題を解決してから,割礼はもはや必要ないという正しい答えが手紙によって諸会衆に伝えられました。この手紙の興味深い内容を今日でも使徒行伝 15章23節から29節に読むことができます。統治体の手紙は兄弟たちにとって励みとなり,また真の助けとなりました。「人々はそれを読んで,その勧めの言葉をよろこんだ」― 使行 15:31。

      20 クリスチャンの中立に関してどんな問題が起きますか。それをどのように克服できますか。

      20 政治選挙の場合にどんな態度をとるべきかという事は,円熟したクリスチャンにとって少しも問題ではありません。全体主義の国では法律によって投票が義務づけられていることも多く,家から投票場まで連れて行かれる場合さえあります。民主主義の国でさえも,投票が法律上の義務になっている国があります。どの国においてもエホバの証者は政治に参加しません。エホバの証者はこの世のものではありません。(ヨハネ 17:14)従って選挙のさいに投票に参加しないのです。彼らは政治の問題で自分たちの中立の立場を妥協させません。しかし投票所に行くならば,線をひいて消すなり,あるいは「神の国を支持」という言葉を書くなりして,投票を無効にするでしょう。これで自分の立場は明らかにされます。これによって投票は無効となり,だれの得票にもなりません。しかし法律に従って投票所に行ったことになり,従って罰を避けることができるでしょう。「わたしがあなたがたをつかわすのは,羊をおおかみの中に送るようなものである。だから,ヘびのように賢く,はとのように素直であれ」と言われたイエスのことばを心に留めて下さい。(マタイ 10:16)前述のことをしたからと言って,その人をとがめることはできません。「あなたは,なぜ兄弟をさばくのか。あなたは,なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな,神のさばきの座の前に立つのである」― ロマ 14:10。

      21 確信の持てないとき,何を導きにするのが賢明ですか。

      21 しかし以前になかった事態,おそらくは話に聞いたこともない問題が起きて,決定を下さなければならないとき,どうしますか。だれかに尋ねようと思っても,そのような人はいないかも知れません。それでも聖書にある神のことばの原則を知っているならば,献身した人にとって正しい決定を下すことはそう難しくないはずです。私たちは人に何を負っているかを知っています。しかし人よりもまずエホバに何を負っているかを知っています。私たちは何よりもエホバを愛して,エホバに従わなければなりません。(マタイ 22:36-40)私たちは世の中にいても世の一部ではありません。従って政治と戦争に対して中立の立場をとります。私たちは異性に対する正しい関係を知っています。また血の間違った使い方についても教えられています。また家族やクリスチャン会衆内の秩序について聖書の教えることを知っています。やとい主また政府に対してとるべき正しい態度を知っています。聖書の原則という光に照らされて啓発された良心を持つ人は,正しい決定を下すことができるでしょう。確信をもって正しい決定を下せないときは,良心のとがめを感じない決定をするのが賢明です。何かの事態に直面して決定を迫られるとき,エホバの導きを祈り求めるのは正しいことです。「されば御名のゆえをもて我を引きわれを導きたまえ」― 詩 31:3,文語。

      22 人体はどのように組織の一致のよい例ですか。

      22 一致と密接な協力ということは,きわめて適切な例をもって聖書に説かれています。コリント前書 12章を読んでごらんなさい。そこでは人間のからだがたとえに使われています。たしかに人体は完全な一致を保っている組織体です。からだのいろいろな機能は調和を保ち,からだ全体のために働いています。一つの器官の機能が狂うと,たいていからだの工合が悪くなるか,病気になります。エホバの証者の新世社会は全世界に散らばっていますが,それでもこのような人間のからだにたとえられるでしょう。その組織はどの国にあるものでも,人体にたとえられます。そのすべての成員が同じ働きをするのではありません。「もし,すべてのものが一つの肢体なら,どこにからだがあるのか。ところが実際,肢体は多くあるが,からだは一つなのである。目は手にむかって,『おまえはいらない』とは言えず,また頭は足にむかって,『おまえはいらない』とも言えない」― コリント前 12:19-21。

      23 外部からの圧迫の下でどのように一致を保てますか。どんな間違いを避けなければなりませんか。

      23 地下活動においても,この原則は無視できません。このような事情の下においても,一国におけるわざはただ一つの中心となる,責任のあるところから進められます。それはからだで言えば,あたまに相当する場所です。それは霊的食物を受け取って国中に配るだけでなく,必要な教訓や助言を受け取ります。神のことばは何時でも正しい導きであることを忘れてはなりません。イエスの模範通りにクリスチャンの生活を送り,加えて神の国の良いたよりを伝道しているならば,私たちは正しいことをしているのです。この行いをすることによって,圧迫や迫害の下でも一致が保たれます。可能なかぎり,私たちは一国において責任を持つ代表的な機関と連絡を保ちます。私たちは忠実な兄弟たちを知らなければなりません。そうすればコリントのあるクリスチャンがした間違いをしないですむでしょう。「はっきり言うと,あなたがたがそれぞれ,『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケパに』『わたしはキリストに』と言い合っていることである。キリストは,いくつにも分けられたのか」。(コリント前 1:12,13)もちろんそうではありません。それでエホバの証者としてどこにいても,忠実な兄弟たちと共にいなさい。

      24 愛の絆はどれほど強いですか。愛は私たちに何をしますか。

      24 エホバはこの世の混乱の中からご自分の民を導き出されました。(ペテロ前 2:9)神の民は神と一致し,兄弟たちと一致するように招かれました。日毎に近づく新しい組織制度においては,このような一致が全く実現することでしょう。この困難な時代に住む私たちにとって,いま一致のうちに住むことは急務です。自由な時にも迫害の時にも,どんな事情の下にあっても,毎日,一致を目ざし,エホバの組織内にあって一致を保っていなければなりません。一致のための完全な絆が与えられています。それは愛です。「これらいっさいのものの上に,愛を加えなさい。愛は,すべてを完全に結ぶ帯である」。(コロサイ 3:14)エホバと隣人に対する愛は強く,破れることのない絆となり得ます。東西南北どの土地に住んでも,愛は私たちすべてを一致させます。福音を自由に伝道し,集まることができても,地下に潜ってひそかに行なうにしても,愛は私たちを一致させます。愛があれば舌を悪く用いて兄弟を傷つけることはできません。愛があれば神の家族の神権的な秩序を認めることも容易です。愛はまた僣越なふるまいをしたり,勝手な行動をしないように,私たちを守ります。また利己的になったり,極端な考えを抱いて独りよがりになったり,あるいは安易な道をとることのないように,私たちを守ります。また自分の任命されていない責任の地位を得ようとして策を用いるべきではありません。愛はエホバを俟つことを人に教えます。

      25 パウロは,苦難の時にも一致を保つのを助ける,どんなすぐれた助言を与えましたか。

      25 ですから愛というすぐれた性質をつちかいましょう。古い組織制度の滅びが近づき,それと共にエホバの選民の上に臨もうとする試練を見るにつけても,ますます愛をつちかわなければなりません。使徒パウロは一致をすすめ,心を動かす次のことばを述べています,「ただ,あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして,わたしが行ってあなたがたに会うにしても,離れているにしても,あなたがたが一つの霊によって堅く立ち,一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い,かつ,何事についても,敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を,聞かせてほしい。このことは,彼らには滅びのしるし,あなたがたには救のしるしであって,それは神から来るのである」― ピリピ 1:27,28。

  • 神権宣教学校の益
    ものみの塔 1964 | 8月15日
    • 神権宣教学校の益

      信仰を言いあらわす

      ◆ オランダでのことです。学校で聖書の授業が行なわれていたとき,ひとりの少女が,「先生,エホバの証者のことについて話して下さい」と教師に頼みました。教師は生徒の中にエホバの証者がひとりいるのを知っていたので,その生徒のほうがよく説明できるだろうと言いました。教師はその証者に15分間与えて説明させ,みな耳をそばだてて聞きました。それからいく日かたって教師は,この問題についてもっとくわしい説明をすることを証者に頼みました。若い証者は喜んで承諾しました。話をする時間は30分間で,あと50分は質疑応答の形式の討論にあてられました。その証者はこのように言っています。「準備する時間は充分なかったのですが,それでも聖書をもって行って,『エホバの証者』という名称のもつ深い意味,エホバの証者が何を伝道しているか,正しい新しい秩序のもとにおける人類の希望の基礎などについて話しました。先生とクラスメートはノートを取り,あとでたくさんの質問をしました。ひとりの女生徒は,家に帰って起きたことをぜんぶ母親に話しました。いま私はそこの家に毎週行って聖書の勉強をしています。私は神権宣教学校に定期的に出席したことをほんとうにうれしく思っています。人の前で信仰を言いあらわす仕方が学べたのも,神権宣教学校に出席したからです」。

      「まだまだ学ぶ必要がある」

      ◆ アメリカ,オクラホマ州の若いエホバの証者はこのように言いました。「私はエホバの証者の集会に出席しはじめた頃,神権宣教学校の価値を充分理解できませんでした。高校時代には討論会や弁論大会で活躍したので演説をすることにはなれていました。ところが神の言葉について話すために人々の前に初めて立ったときには,まだまだ学ぶことがたくさんあるのを知り,また聖書にかんする主題について誠実と確信をもって話すのは雄弁術や討論などとは違うことも発見しました。聴衆に印象づけたい点さえ不明りょうにすることもたびたびありました。4年間の定期的な話し方の訓練によってこの欠点は克服できましたが,話の強調に力をそそいできたため,もう一つの点がるすになっていました。ですから現在の私の助言用紙には,その点をもっと練習するようにとの助言が3回も記入されています。それで,私にはまだまだ努力しなければならない点がたくさんあります。そしてこの世がつづくあいだは,『神権宣教学校はもういらない』とは決して言えないことも知っています」。

      自信と落着

      ◆ 9歳の時から神権宣教学校にはいっている若い証者は次のように話しました。「英語の時間に先生は,感謝祭の休日の計画について話すようにと宿題を出しました。私はその日特別雑誌活動に参加する計画でしたから,私たちが戸別伝道によってどのようにエホバに賛美をささげ,隣人に愛を示すかについてクラスで話しました。この方法でクラス全体に良い証言ができました。のちほど先生は,私の信仰について私に直接たくさんの質問をしました。そして私の話はクラスでいちばんすぐれていたし,話し方にも自信と落ち着きがあってよかったと言いました。この宿題で良い点がもらえたのは,神権宣教学校で受ける訓練の賜物と考えています」。

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