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  • 第1部 ― 南アフリカおよび近隣の区域
    1977 エホバの証人の年鑑
    • 禁令解除を求める手紙が支部の監督から検閲監査役にもう一度送られました。その手紙の写しは,前大臣が同意しながらも一度も実行しなかった個人的な会見を求める手紙と共に,新しい大臣に送られました。

      1944年1月に会見が行なわれ,大臣は,差押えられた船荷の返還,雑誌に対する禁令の解除,および没収された他の出版物の返還に同意しました。彼はまた,非常事態の規則の下に出された,協会のすべての文書を破壊的であるとする規定を撤回することも約束しました。一週間後,支部はそうした事柄すべてを確認する手紙を受け取り,それから2,3日して大量の文書(約1,800カートン)が支部事務所に運ばれました。それは3年間差押えられていたにもかかわらず少しもいたんでいませんでした。支部と野外の兄弟たちがそのことをどれほど喜んだか知れません。彼らの祈りはかなえられ実にすばらしい勝利が得られました!

      至る所で書籍が禁止される

      第二次世界大戦の初期に大英帝国および他の国々の多くの場所で書籍に対する禁令がまるで流行のように盛んに出されました。それは昔エホバが預言者ダニエルに予告させた通りであり,「小さき角」(イギリス連邦はその一部)は「自ら高ぶり」,『真理を地に投げ打って』神の神聖な事柄に対して「罪」を犯しました。(ダニエル 8:9-12)アフリカ南部の3つの英国保護領,すなわち,バストランド,ベチェアナランド,スワジランドですら例外でなく,1941年2月に協会の文書が正式に禁止されました。それを解除してもらうためにあらゆる努力がなされたのですが,その禁令は1960年まで効力を持ちました。欽定訳聖書でさえ,ものみの塔協会が印刷したものであれば禁止されました。1941年にその三か国にはエホバの証人がひとりもいなかったにもかかわらず,そうした処置が取られたのです。

      南西アフリカでの実りの多い年月

      多事多端な年であった1939年は南西アフリカにおける業の歴史の新しい一章を開きました。そこにはまだ群れがひとつもなく,広大な区域が手をつけられずに横たわっていました。一組の開拓者の夫婦,バリー・プリンスローと彼の妻ジョアンはその区域へ行って人々に証言したいという強い衝動を感じました。

      バリーはトラックを買ってそれを住宅自動車に改造し,戦争に伴うガソリン不足を適切にも見越して,ガス製造設備をその上に取り付けました。ヨハネスバーグから南西アフリカへ行くのにカラハリ砂漠を縦断しなければなりませんでした。道路はほとんどありませんでしたから,以前に通った自動車やロバの引く荷車のわだちの跡をたどらねばなりませんでした。しかもそのわだちの跡さえ全く消えていることがあったのです。

      ふたりはついにウィントフークにたどり着き,そこからさらに北へ,伝道して文書を配布しながら前進しました。しばらくの間警察がふたりの後をつけ,彼らが配布した文書を集めていました。ふたりはとうとう逮捕されて,無免許販売のかどで訴えられました。協会の勧めで,彼らは,南アフリカで行なわれていた同様の裁判の結果が出るまで自分たちの裁判を延ばしてもらいました。2,3週間後にプリンスロー兄弟は出廷し,有利な判決が下されました。

      ヨハネスバーグで大会が開かれるというニュースがふたりの耳に届きました。それに出席するには約1,600㌔の困難な旅行をしなければなりませんでしたが,彼らは行くことにしました。しかし災難が起きたのです。南西アフリカの大抵の河川は,豪雨の時以外は水の流れていない干上がった砂地の渓谷にすぎません。彼らの自動車は,そうした川のひとつを横切ろうとしていた時に動かなくなりました。その夜川に水がどっとあふれ,住宅自動車は二,三百㍍下流に押し流されました。翌朝ふたりは自動車が二つに裂けて車体が砂に深くめり込んでいるのをみつけました。彼らは出来るだけのものを引き上げ,災害に遭ったことと,大会に出席できなくて残念である旨を協会に知らせました。ところが,折り返しすぐに支部の監督からの贈物と,それを“短い休暇”のために用いるようにとの電報を受け取りました。

      大会後ふたりは戻ると,壊れた住宅自動車を直すために自動車のそばでキャンプし,その傍らヨハンネスを通訳にしてオバンボ農場の労働者に証言しました。ヨハンネスと言うのは彼らが区域を旅行するに際して雇ったブッシュマン人であり,彼は恐らく真理を受け入れた最初のブッシュマンだったことでしょう。ブッシュマンは砂漠に住む遊牧民で,弓と毒矢を使った狩を主な生計手段としています。彼らはアフリカ南部のあらゆるアフリカ人の中でも特別に小柄で,中央アフリカのピグミーと比較し得るほどであり,非常に原始的な生活をしています。ブッシュマンは近づきにくい場所に住んでいるばかりか,語彙の限られた舌打ち音を連続的に用いることばを話すので,彼らと他の人々とが意思を通わせることはたいへん困難です。とはいえ,農場労働者になっているブッシュマン人もいます。文書の禁止と一般情勢のために協会はやがてプリンスロー夫妻を南アフリカへ召喚しました。

      したがって,1929年,1935年および1942年に開拓者が南西アフリカへ行って多くの文書を配布したにもかかわらず,実際に区域を耕すことはなされなかったので,業の実はほとんど生み出されませんでした。しかし,1950年に南西アフリカにおける業の歴史に転換期が訪れました。その年,協会はギレアデ学校を卒業した4人の宣教者,すなわちジョージ・コエット,フレッド・ヘイハースト,ガス・エリクソンおよびロイ・ステフンズを送り,同年初めに宣教者の家がウィントフークに設けられたのです。

      それら4人の兄弟たちは,文書を配布することだけでなく,主の「ほかの羊」を見いだして養うことにも力を注ぐことが求められていたにもかかわらず,彼らの配布は非常に良いものでした。(ヨハネ 10:16)それと同時に,宣教者たちは,南アフリカ連邦から近隣のアフリカ人居住地に移って来ていた5人のアフリカ人の兄弟と連絡を取ることができ,その兄弟たちを組織して会(会衆)を作りました。宣教者のひとりはまた,そのアフリカ人居住地で少なくとも25件の聖書研究を取り決めました。その区域での,特にアフリカ人の間での業はどう見ても,増加の見込まれる上々の出発をしました。

  • 第2部 ― 南アフリカおよび近隣の区域
    1977 エホバの証人の年鑑
    • 第2部 ― 南アフリカおよび近隣の区域

      円滑な移行

      それまでの25年間協会の会長として忠実かつ熱心に奉仕していたラザフォード兄弟は1941年の末までに重い病気にかかっていました。長年の間骨身を惜しまずエホバへの奉仕に携わってきた同兄弟は,その時72歳でした。1942年1月8日,彼は地上での王国の奉仕を死をもって閉じました。協会の理事会は2,3日以内にブルックリン・ベテルで会合を開き,ネイサン・H・ノアを新しい会長に選びました。ラザフォード兄弟の死後に示された野外の兄弟たちの反応はラッセル兄弟が亡くなった時の兄弟たちの感じ方とは大いに異なっていました。1942年には,「わたしたちはこれからどうしたらよいのか」という叫びは聞かれませんでした。むろん,ラザフォード兄弟が亡くなった時に真理の敵は歓喜し,「やつらの指導者かつ講演者がいなくなったからには,その業も間もなく崩壊するだろう」と言っていました。しかし彼らはその点に関してすぐに幻滅を感じました。

      亡くなる少し前の1941年8月にラザフォード兄弟はアメリカ,ミズーリ州セント・ルイスの大会に出席しました。その大会の顕著な催しのひとつは「子供たちの日」で,「子供たち」と題する新しい書籍が発表されました。この際立った大会の特色をなすプログラムは,1942年4月に開かれたヨハネスバーグの大会で小規模に繰り返されました。その時の出席者は

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