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清められる地ものみの塔 1973 | 9月1日
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られるようにすることができました。とくに,「キリスト教国」と呼ばれる国では,エホバという名を知らない人はほとんどいません。人びとは,エホバの証人がエホバのメシヤの王国を断固として支持し,世の争いや政治的派閥に関しては中立の立場を取ってきたことを知っています。
30 (イ)エホバはご自分の油そそがれた証人たちを清めることによって,諸国民の間にどんな結果をもたらしましたか。(ロ)霊的なイスラエルとその仲間は,どんな気持ち,またどんな見込みをいだいてゴグの攻撃を考慮しますか。
30 それらエホバの油そそがれた証人たちは神のみことばの原則にしたがって自らを清め,神の霊の実を生み出しながら,今や神の新秩序を目ざして生活しています。(ガラテヤ 5:22,23。エペソ 4:20-24)国々の民の中からは幾十万もの人びとが出てきて,それら証人たちの『霊的な楽園』の中に彼らとともに住むようになりました。それらの人たちは,ハルマゲドンの戦いでゴグが敗れるさいに生き残り,地上で永遠に生きる「大群衆」を構成します。(黙示 7:9-17。マタイ 25:31-40,46。ヨハネ 10:16)彼らは今,ゴグの攻撃に関する警告に注意を払い,エホバの勝利とそのみ名の立証を待ち望んでいます。そして,空気や水や食物の文字どおりの汚染から清められた,道徳的腐敗もない地上で生活できる前途に大きな期待を寄せています。というのは,王であり,牧者であられるイエス・キリストについて次のように書きしるされていることを,彼らは知っているからです。『[彼は]正義をもて貧しき者をさばき公平をもて国のうちの卑しき者のために断定をなし……正義はその腰の帯となり忠実はその身のおびとならん』― イザヤ 11:4,5。
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現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本ものみの塔 1973 | 9月1日
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現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本
現代の世代の人びとは時として,自分たちが今成し遂げている事がらだけを考えます。しかし実際のところ,エホバの証人の現代の世代の人びとは,何年も前に忠実な福音宣明者たちが行なった事がらの上に物事を築いているのです。王国の良いたよりを,現在なされているほどの規模で宣べ伝えられるようにするため,エホバ神がご自分の民をどのように導いておられるか,また何十年にもわたってどのように導いてこられたかを知るのは,わたしたちにとってすばらしいことです。神の王国の良いたよりを宣べ伝える点で多くのエホバの証人が行なった奮闘の記録をお読みになれば,読者のみなさんは深い喜びを味わわれることと思います。特に,エホバがご自分の民の努力を豊かに祝福された証拠となる記録をお読みになれば,大きな喜びが得られることでしょう。
日本は変化に富んだ国です。四つのおもな島と数多くの小さな島々から成る山の多いこの国土は,北は雪国の北海道から,西は亜熱帯の九州まで三か月形の弧を描いています。農耕に適する平野部は,国土全体のわずか15%を占めるにすぎません。たいていの場合,人びとは海岸沿いの都市や町に密集しています。階段状を呈する水田からは米が取れ,また季節ごとにさまざまのくだものがなり,海からはさかなや海草その他のおいしい食べ物が豊富に取れます。人口は今や1億500万人を超えていますが,それでも日本はかなりの程度まで食物を自給しています。
日本人は一般的には背が低めですが,勤勉で,よく働き,自分たちの伝統に誇りをいだいています。そして,方言の面での違いがごくわずかしかない,ただ一つの言語が日本中で話されています。文字の書き方はかなり複雑で,普通は1,850字もの漢字が用いられています。しかし,日本人は人口の99%までが読み書きができますし,読書が好きです。日本人は創意に富み,また他の人の発明品を改良する能力に恵まれていますが,このことは,日本が20世紀の主要産業国のひとつに発展するのに貢献しました。
日本では今日,和服よりも洋服姿の人のほうがずっと多く目につきます。食事については,かなりの割合でパンがご飯に取って代わりつつあります。かつて,木や紙などの建材で作った家の建っていた場所に,「マンション」と呼ばれる10数階から20階建の鉄筋コンクリートのアパートがそびえています。しかし,こうした産業の進歩に伴なって,汚染が重大な問題となりました。
日本の宗教
ブリタニカ百科事典は,「日本古来の年代記にしるされている日本の古代の歴史は徹頭徹尾神話の世界に包まれているため,全く信用できない」と述べています。その神話によると,初代の神武天皇は西暦前660年に即位したと考えられています。神武天皇から今上天皇(裕仁)に至る歴代の124人の天皇は太陽の女神,天照大神の子孫であると言われています。天照大神は鏡に映る自分の美しい姿をのぞくように仕向けられ,大きなほら穴から誘い出されたとき,世界に光をもたらしたとされています。神道(つまり「神の道」)は何世紀もの間に,おもに先祖や自然の力を崇拝する一つの制度として発展してきました。そのみこしの中には,鏡や宝石や刀が神道の象徴物として祭られています。第2次世界大戦が終わるまで,天皇崇拝を非常に重視した神道は日本の国教とされていました。
しかし,日本人の多くはひとつ以上の宗教を奉じています。そうすれば,いくつかの宗教から最善の益が得られると感じているのです。中国や朝鮮から仏教が日本に伝来した西暦6世紀以来,多くの仏教的慣行が日本人の生活に加えられるようになりました。そして,神道と仏教は共存するようになりました。地方の神道の神社と仏教の寺が並んで建っているのを見かけるのは珍しいことではありません。多くの日本の家庭では,奥の間に家族の仏壇が堂々と置かれている一方,玄関には神棚が飾ってあり,そのどちらにも先祖の霊を喜ばせるために,くだものや花などが供えられます。
結婚式や生まれた子どものためのお祝いは神式で行なわれるのが伝統とされていますが,葬式やその後の記念法要は仏教の僧侶によって行なわれています。神道はおもに儀式的な汚れを清めることに関係していますが,仏教は死者の供養に関係しています。そして,仏教にも神道にもそれぞれ文字どおり何百という宗派があります。
神道が国教として勢力を振っていた当時,日本人の考えは天皇崇拝におおいに傾倒していました。そして,多くの日本人の間には強烈な軍国主義的また国家主義的熱情が広まり,その熱情は第2次世界大戦の真最中に最高潮に達しました。天皇崇拝の祭壇の上に人命は犠牲として惜しみなくささげられ,天皇の誉れのために死ぬ道を取らずに,降服することを選んだ人びとは,多くの場合非国民とみなされました。日本が敗北した時,日本軍はみな,降服よりもむしろ玉砕を好みました。軍国主義の全盛期およびそれ以前の日本の情勢は,「平和の君」に関する良いたよりを首尾よく宣べ伝えることのできる明るい見込みを差し伸べるものではありませんでした。
事実,日本の歴史はおしなべて内乱や暗殺,切腹や変革や剣術などで特長づけられています。これほど暴虐に満ちた歴史を持つ国は,ほかにはほとんどありません。しかも,武士や武士道を呼び物にした演劇や映画の中では,そうした事がらの多くが今なおたたえられています。対立する仏教各派の間で激しい争いが行なわれた時分には,日本の古都,京都の街路は僧兵やその仲間の血で文字どおり赤々と染まりました。
キリスト教世界の宣教師の来訪
仏教や神道の各派が寄り合い,そして特に国教としての神道が人びとの生活の中で非常に主要な要素を成しているところに,はたしてキリスト教が確固とした地歩を占めることができるでしょうか。
キリスト教世界の諸宗派は16世紀半ばに日本に宣教師を派遣し始めました。長崎地方では約15万人がカトリックに改宗したと言われています。しかしブリタニカ百科事典は,ローマ・カトリックが日本人にとって,「ヨーロッパ文明の象徴」以上のものになったことについて述べた後,さらに次のように説明しています。「抑圧された農民の中には救いの福音を喜んで受け入れる者もいたが,商人や貿易をもくろんでいた諸大名はカトリック教会を,拡大するヨーロッパ大陸と自分たちとを結ぶ重要なきずなとみなした」。カトリック教会は銃砲・火薬類の密輸入者や商人の手先と化し,ほどなくして将軍,豊臣秀吉は禁令を発し,残忍な迫害をもって同教会を抑圧しました。西日本のカトリック教徒は必死になって武装蜂起しましたが,結局1637年までには事実上根絶されてしまいました。生き残った者たちは信仰を捨てるか,あるいは「隠れキリシタン」となって地下にもぐるか,そのどちらかの道を取らざるをえなくなりました。地下にもぐったカトリック教徒は,カトリックの像を仏教的な象徴的手法で偽装しました。
1868年に明治時代とともに始まった,日本の「偉大な再覚醒」つまり明治維新まで,宗教を含めて,外国からの影響力はほとんど日本に浸透できないようにされていました。しかし,外の世界に向かって門戸が再び開かれた時,キリスト教世界の各宗派は多数の宣教師を派遣しました。その結果はどうでしたか。日本人の大規模な改宗は見られませんでした。当時の日本人は,神道や仏教は自分たちの先祖にとって十分満足のゆくものだったのだから,それは自分たちにとっても十分満足できるものだと感じていました。仏教は良い道徳律を教えているのではありませんか。戦争や植民地での圧政などの長い記録を持つキリスト教世界は,自分たちの宗教のほうがまさっていることを,何をもって示すというのでしょうか。それで,日本人は,何世紀も前に儒教や仏教のある事がらを取り入れたのとだいたい同じ方法で,キリスト教世界の宗教から,何であれ,益になると思われる事がらを自分たちの伝統的な信仰に付け加えました。
「救いの福音」に関してはほとんど発展を遂げられないことに気づいたキリスト教世界の宣教師たちは,病院や学校や大学を建てて自分たちの名を上げ,そのようにして,キリスト教世界の諸宗派の信仰を受け入れさせるよう間接的に働きかけようとしたのです。宣教師たちはその点で成功しましたか。日本の大勢の人びとはそうした施設を通して受けた医療や教育に感謝していますし,またそうした奉仕をよく利用しました。しかしそのため,キリスト教世界の宗教を受け入れる理由を見いだした人はほとんどいませんでした。今日,1億を超える人口のうち,クリスチャンと唱えている人はわずか50万人にすぎません。
今日,日本人の多くは聖書を持っており,キリスト教世界が設けた学校で聖書の講義を受けたと言う人がいますが,そのような人びとも今では,もし宗教を持っているとすれば,先祖代々の宗教を奉じて満足しています。キリスト教世界の諸宗派が日本人に最も強く印象づけたものは,きらびやかな飾り付けや,自制心をかなぐり捨てたお祭り騒ぎが付きもののクリスマスの祝いのようです。日本のある商店主はかつて,ものみの塔協会の一宣教者に向かって次のように言いました。「わたしは良いクリスチャンですし,また神道の良い信者です。クリスマスのためにはクリスマスツリーを売りますし,正月のためには門松を売ります」。クリスマスは日本人をクリスチャンにする点で功を奏するものとはなりませんでした。
王国の音信は日本にもたらされる
万国聖書研究会は1911年9月1日から10日にわたって開かれた大会で,ひとつの委員会を選任しました。それは,「世界旅行を行ない,一般に『異教徒』と呼ばれている人びとの住む東洋の国々の実情を調査し,そのありのままの報告を作成する」ためのものでした。これより先に,世界の当面の改宗のために3,000万㌦を募金するという,ある俗人宣教運動が提唱されていました。パスター・ラッセル,R・B・マクスウェル,L・W・ロビンソン博士,W・P・ホール将軍,J・T・D・パイルス,F・W・ロビソン教授およびE・W・V・クエーンから成る同委員会は直ちに出発し,ハワイに立ち寄ったのち日本に向けて旅行を続けました。
ラッセル兄弟とその同行者たちは,横浜,東京,その他の諸都市を訪問しながら,長崎まで日本を1,100㌔以上旅行しました。ラッセル兄弟は東京で2つの講演を行ないましたが,そのさいキリスト教世界の宣教師たちがかなり落胆していることに注目しました。ラッセル兄弟は,人びとの宗教心が「無信仰や疑念,また無神論に傾いている」と報告し,その中で東京大学の3つの学部で行なわれた当時のある調査の結果を引用しました。学生たちの宗教に関するその調査の結果は次のようなものでした。キリスト教徒4人; 仏教徒,儒教徒,神道信者17人; 不定46人; 無神論者60人; 不可知論者282人; 合計409人。ラッセル兄弟は当時の情況を要約しました:
「日本におけるキリスト教は次の2点において,アメリカおよびヨーロッパの状態と非常によく似ている。(1)真の崇拝者,また熱心なキリスト教信者がいくらかいるが,それはごくわずかである。(2)多くの人は,夜学があるとかYMCAの体育館が利用できるといったなんらかの特典に与かれるので教会に通っている」。
パスター・ラッセルの話は日本人が今まで聞いたことのないような,考えるための糧を与えました。ラッセルの報告にはこう書かれていました。「日本人が必要としているのは,地の全家族を支配し,いやし,教えるために,イエスが栄光のメシアとして再度来臨することを告げ知らせる『王国の福音』である」。
1915年にはさらに,英国人のF・L・マッケンジー姉妹によって,中国,朝鮮,日本におけるすぐれた証言がなされました。マッケンジー姉妹は「聖書の研究」と題する本を多数配布したり,貸したりしました。そして1918年に,同姉妹は東洋の国々を再び訪問しました。この地域の関心を持つ人びとに宛てた姉妹の一通の手紙は,「すでに世界で始まっており,しかも40年近くも前に聖書から指摘されていた大いなる悩み」を取り上げている「世々にわたる神の経倫」の本の15章に注意を促すものでした。
(この続きは次号に載せられます)
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