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「そねみの傾向」を退けなさいものみの塔 1973 | 11月15日
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会衆に資格を備えた長老が多ければ多いほど,会衆の霊的福祉に貢献できる優れた特質が互いに補足し合う度合いも大きくなります。
他の人に責任を担わせることに関する正しい態度は,ヨシュアに対して次のように語ったモーセのことばに示されています。『なんじわがために妬みを起こすや。エホバの民の皆預言者とならんこと,またエホバのその霊をこれに下したまはんことこそ願はしけれ』― 民数 11:29。
このような態度を示さないなら重大な結果の起こる場合があります。イエス・キリストは地上の奉仕に携わっていた時,ご自分の使徒たちにこのことを非常にはっきり示されました。明らかに神の聖霊の力のもとに,ある男の人がイエスの名に基づいて悪霊を追い出した時,使徒ヨハネと他の者たちは,その人が自分たちに同行して来ないという理由でそれをやめさせようとしました。明らかに使徒たちは,その男の人が自分たちのグループの一員でないため,力ある業をその人が行なうことは自分たちの活動の評判を損なうと考えました。それを聞いたイエスは使徒たちを正し,ついで次のような強い警告のことばを加えました。「信ずるこれら小さな者のひとりをつまずかせる者がだれであっても,その者は,ろばの回すような臼石を首にかけられて海に投げ込まれてしまったとすれば,そのほうがよいのです」。(マルコ 9:38-42,新)そうです,使徒たちが示したような自己中心的な態度は,新しくて低い立場にある人びとをつまずかせることがありました。いかなるものであれ,神はそのような有害な歩みを軽く見ることはされません。
ですから,神に是認された立場を得たいのであれば,わたしたちは,そねみが神と仲間の人間に対する罪,つまり愛の欠けた精神の表われであることを認めなければなりません。そねみが生み出す悪い実を考えても,わたしたちにはそれを憎む十分の理由があります。この種の憎しみがあるなら,そねみ深くならぬよう,また他の人の競争心やそねみの気持ちをかりたてることのないよう守られることになります。
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現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本ものみの塔 1973 | 11月15日
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現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本
前号では,ものみの塔協会会長N・H・ノアの最初の日本訪問のさいの幾つかの興味深いできごとについて述べました。この号では,そのつづきとして,1951年4月29日に開催されたエホバの証人の大会についてお伝えします。
大会の日曜日の朝,14人の新しい兄弟姉妹がバプテスマを受けました。そして,東京・神田の共立会館で行なわれた公開講演には700人もの人びとが詰めかけました。そのうちのまる500人は,大々的に宣伝された講演会に初めてやって来た,新しく関心を持った人びとでした。ノア兄弟の公開講演は,今回の訪問中の同兄弟の他のすべての話と同様,花岡亀一兄弟によってじょうずに通訳されました。花岡兄弟は日本のわざを促進するため,老年になってから日本にやって来たハワイの兄弟でした。花岡兄弟はその後も日本の野外で奉仕を続け,支部事務所で奉仕し,また特別および正規開拓者として,1971年4月22日に82歳で亡くなるまで何年間も多くの新しい会衆を組織することに貢献しました。
大会の後,ノア兄弟は東京支部の宣教者の家の訪問に続いて,日本の他の4つの宣教者の家を疾風のような勢いで見て回りました。ノア兄弟にとって,それは戦後の日本人の生活状態や仕事ぶりを正しく知る機会となりました。この時には,ノア兄弟の秘書ミルトン・ヘンシェルも台湾の訪問を終えて日本に着き,ノア兄弟の旅行に同行しました。
2週間にわたるノア兄弟の訪問中に,日本における宣教者のわざを組織することに関連して多くの事柄が成し遂げられました。今や,47人の宣教者たちはかつてなかったような勢いでわざを押し進めようとしていました。4つの公開集会に1,730人が出席し,4月にはすでに,宣教者を含めた260人の伝道者の最高数を報告していました。しかし野外では,さらにすばらしい収穫の期が熟していたのです。
組織された巡回奉仕のわざ
1951年に日本を訪問したさい,ノア兄弟は,神戸の宣教者のひとりであるエドリアン・トムソン兄弟が日本の最初の巡回監督として奉仕を始めるよう取り決めました。トムソン兄弟は語学に非常にすぐれ,新しい宣教者に日本語を教える十分の資格を備えていました。
日本の端から端まで,3,000㌔以上に及ぶトムソン兄弟の巡回区を,兄弟といっしょに旅行してみることにしましょう。最初に,9人の宣教者と30人の伝道者とから成る小さな東京会衆を訪問します。会衆には,支部にある中心的な王国会館に非常に遠くから通っている人もいます。退職したアメリカ人の船長ジョー・コペックもそのひとりで,彼は汽車で一時間半もかかる千葉県に住んでいます。
トムソン兄弟は東京から仙台の近くの小さな町,石巻に向かって北上します。石巻では,第二次世界大戦前においてさえ忠実に奉仕していた三浦家族との楽しい交わりが持てます。次に,北海道の最北端にある稚内に行き,広大な北海道全域でただひとりの関心者を訪問します。稚内の海岸に立っていると,海の向こうにソ連の領土であるサハリンがぼんやりと見えます。いつの日か,良いたよりがシベリアでも宣べ伝えられるでしょうか。さらに身近な関心は,王国の音信は日本のこの部分で十分に宣べ伝えられるでしょうか。1951年当時の日本においては,1,2の例外を除けば,人口100万以上の都市の中だけでエホバの目的が宣明されていたにすぎません。
トムソン兄弟は汽車で約1,600㌔旅をして稚内から横浜に戻ります。この旅に要する時間は2日に1時間足りないだけです。横浜では,トムソン兄弟は2週間の訪問の間毎日,宣教者たちと朝晩1時間ずつ日本語の集中的な勉強を行ない,野外の奉仕で彼らといっしょに働きます。次に,名古屋の宣教者のグループを訪問し同じことを繰り返します。それから,大阪と神戸の会衆および宣教者の家を訪問します。
神戸では,戦後最初の日本人の開拓者,佐藤圭介が1950年の8月以来開拓奉仕を行なっています。後に,他の人びとも開拓者の隊伍に加わります。その中には,モード・神田という名のアメリカ人の年配の姉妹の家でお伝いの仕事をしていた第二次世界大戦のさ中に,パスター・ラッセルの著書から真理を学んだ浅山あさのもいました。佐藤兄弟と浅山姉妹は神戸出身の他の人びとといっしょに,後にギレアデ学校に行きました。
汽車に一日乗ってトムソン兄弟は,神戸の西方にある広島の近くの呉へ行きます。呉に数日間滞在して,戦前からの忠実なしもべである石井治三兄弟の家族といっしょに聖書を勉強したり,伝道したりします。呉から別府までは船で数時間の距離です。別府では,アメリカ進駐軍の将校の夫人であるひとりのアメリカ人の姉妹が他のアメリカ人や日本人に ― お手伝いの人に通訳をしてもらって ― いっしょうけんめい証言しようと努力しています。トムソン兄弟の最後の訪問地は日本の最南端の都市鹿児島です。ここには,第二次世界大戦前から真理に接していた東兄弟がいます。同兄弟とその妻および5人の子どものいる息子夫婦はさらに知識を受け入れ,自分たちの家を集会場として開放しています。
訪問地はわずか11にすぎませんでしたが,トムソン兄弟の巡回区は稚内から鹿児島までの広大な地域におよんでいました。今日では,それら両端の都市にそれぞれ活発な会衆があり,その間にも何百という会衆があります。新しい会衆が急速に増加するため,1974奉仕年度には巡回区を32に,地域区を2つに拡大する必要が生じました。
日本における巡回大会
一連の巡回訪問の合間に巡回大会が行なわれました。最初の巡回大会は1951年10月に大阪で,2番めの大会は1952年4月に神戸で開かれました。その後は,巡回区で2つの大会が開かれ,ひとつは北日本で,もうひとつは南および西日本で準備されました。これら初期の頃の大会は決して忘れることができません。宣教者の日本語はたん能と言うにはほど遠いものでしたが,大会のすべてのプログラムはいっさい日本語で行なわれました。このことはそれぞれの大会に出席する新しい兄弟や関心を持つ人びとから大いに感謝されました。1951年当時には,ほとんどすべての食料品は配給制か,品不足でした。また,日本人の兄弟たちは経済的に裕福ではありませんでした。そのような状況のもとでも,50円以下の値段で滋養のある食事が準備されました。当時は,開拓者や宣教者のための無料の食券はありませんでした。宣教者たちは朝食のご飯を盛ったどんぶりの上に生の卵をかけることを学びましたし,朝食にみそ汁を飲むことにも慣れ,はしを使って魚やご飯を食べました。また宣教者たちは,おおぜいの人が寝ている広間の畳の上で日本人の大会出席者といっしょに眠れるようにもなりました。
それら初期の頃の大会に出席した人びとはみな,今日の大会の出席者数に驚きの目を見はるとともに大きな喜びを感じます。1952年の春に神戸で開かれた日本全体の巡回大会には410人が出席し,11人がバプテスマを受けただけであったのに対して,1973年3月から6月にかけて日本の28の巡回区で開かれた大会の公開集会の出席者の合計は2万8,847人であり,バプテスマを受けた人の数は1,262人でした。エホバは確かに巡回訪問や巡回大会の取り決めを祝福してくださいました。そして,日本におけるこの活動に携わった兄弟たちは,結果としてもたらされた繁栄の状態を見て大きな喜びを味わっています。
王国のわざは沖縄で進展する
第二次世界大戦後,沖繩の人びとはアメリカ民政府のもとで働くため日本に来た一群のフィリピン人の兄弟たちから真理を聞くようになりました。それは1950年のことでした。真理を最初に受けいれた沖繩の人は比嘉ヨシ子で,彼女は今九州で特別開拓者として奉仕しています。彼女は英語をほとんど知らず,フィリピン人の兄弟たちは日本語がわかりませんでしたが,兄弟たちは特定の主題に関する一連の聖句を聖書から読ませるようにして彼女に真理を教えました。戦時中,比嘉姉妹は他のおおぜいの沖繩の人といっしょに,沖繩に多い,山腹の大きな墓穴に避難しました。墓穴の中で人骨をじっと見つめていた時,彼女は,死者は土に帰るものであり,人間は不滅ではないと結論せざるをえませんでした。ですから彼女は,死者に関する聖書の教えを,王国および復活の希望とともに容易に受けいれることができました。その当時入手できた日本語のただひとつの小冊子,「すべての人びとの喜び」を手にした時,その表紙と内容から,さらに大きな希望が彼女のうちにわき起こりました。それからまもなく彼女は,沖繩の住民の中から出た最初の証人として,戸別伝道を行ない始めました。
「琉球の声」ラジオ放送局は,地元の僧職者たちがなかなか聖書の話を放送してくれないため,比嘉姉妹に聖書を扱った日本語の定時放送を担当してほしいと申し出ました。この番組で,姉妹は「ものみの塔」誌の新しい号から,「神の道は愛」と題する記事などを含む,適当な資料を読みました。この放送は1952年11月から1953年の春まで行なわれました。
1953年4月からは,日本の支部の監督ロイド・バリーが毎年沖繩を訪れることができるようになりました。最初の訪問の時には,訪問の行なわれた2日間毎日,バリーは伝道者たちとともに野外奉仕に出かけ,彼らを訓練することができました。日本語の公開講演を含め,幾つかの集会が開かれ,ふたりの新しい伝道者がバプテスマを受けました。またバリーは,中立の問題に関してはっきりした立場を取ったためアメリカ軍の営倉に入れられていた3人の若い兵士を訪問することもしました。その訪問は営倉の従軍牧師からも歓迎されました。青年たちは,真理の側に立場を定めたなら,上官に協力することはいっさい拒否すべきであると考え,王国の歌を夜昼かまわず声を張り上げて歌っていました。中立の意味とクリスチャンにふさわしいふるまいについて聖書から説明された時,彼らはそれに従って自分たちのふるまいをすぐに改め,当局者たちをほっとさせました。その後まもなく,その青年たちは船でアメリカに送還されました。
1954年5月に開拓奉仕のわざを始めた比嘉姉妹は,最初の月に174時間の奉仕時間,260の再訪問,そして15の家庭聖書研究を報告して,自分にも「開拓奉仕ができる」ことをすぐに知りました。彼女の初めの頃の研究の多くは,沖繩の古都,首里市にあり,その活動は首里教会に食い込むようになりました。多くの人がエホバの証人になるために教会に行くのをやめました。そのうちの何人かは1955年1月に開かれた沖繩での最初の巡回大会でバプテスマを受け,中には開拓者になった人もいました。
1963年には,沖繩出身の,沖繩地方の巡回監督宇根忠吉がギレアデ学校に行きました。同兄弟は1964年に沖繩に戻ると沖繩で最初の王国会館を那覇市に建てる準備に率先しました。わざは引き続き進展し,1965奉仕年度には,平均37人の開拓者を含む234人の伝道者が報告しました。日本支部がこれらの活動をすべて十分に世話するには,沖繩はあまりに遠すぎるため,1966年1月1日から独立した沖繩支部が組織されました。桃原家族は日本から沖繩に移り,桃原真一が支部の監督として任命されました。
日本における宣教者の家の拡大 ― 京都
1952年4月にさらに7人の宣教者が到着するとともに,新しい宣教者の家が京都にある「キリスト教系」の同志社大学の近くに設けられ,その家は以後5年半にわたって王国の関心事に奉仕しました。最初,京都にはわずか4人の伝道者しかいませんでした。この宣教者のグループはギレアデで日本語を勉強していなかったため,野外奉仕の前後に宣教者の家族が集まっていっしょに日本語を,懸命に勉強しなければなりませんでした。
京都は,何百という寺社や仏像のある,古い伝統の強い都市であるために,年寄りの中には“外国人”にかなりの敵意を示す人もいました。ていねいな態度の若い人に証言しているさいに,おじいさんかおばあさんが現われて,ひと言もいわずに,ただ手を振って宣教者に出て行くよう求める時など,冷静な精神の大きな試みとなりました。
しかし,宣教者と勉強していた人びとは,宣教者のために土地のごちそうなどを出して,非常に親切にもてなしてくれました。ある新しい宣教者の兄弟は,家の主人にごちそうのお礼を丁重に述べたところ,次から次へとごちそうが出され,その兄弟は日本語でていねいに断わる方法をまだ知らなかったために,食べ続けなければなりませんでした。それで,宣教者の家の次の日本語の勉強ではこの問題が取り上げられました。
聖書研究や集会のさいに床の上に座ることは宣教者たちにとって初めのうち非常に奇妙に思えましたが,そうすれば冬場でも足を暖かくしておけることに気づきました。集会を司会する宣教者が日本語をほとんど知らなかったにもかかわらず,集会は宣教者の家で始めから日本語で行なわれました。司会者の初めのころの問題のひとつは,「ものみの塔」研究の時に「ものみの塔」の読み手に,各節の終わりで朗読をやめさせることでした。出席者が増えるにつれて,集会は個人の家から市場の二階の部屋へ,また後にはもっと良い建物へと移りました。京都の最初の宣教者のひとりで,現在でも引き続き,東京で宣教者として奉仕しているエリザベス・テーラーは,集会がどんなものかを見に来て,それ以来集会を欠かしたことのない,教会に通っていたひとりの婦人との研究のことを今でも思い出します。彼女が伝道者となり,後に開拓者になるのを見たのはテーラー姉妹にとって喜びでした。また同姉妹は,彼女の家族全員 ― 夫と3人の子どもたち ― がエホバの証人になるように助けました。その家族の娘のうちのふたりは特別開拓者になりました。
宣教者たちが他の割当てを受けて京都を離れる少し前,宣教者のひとりは旧帝国陸軍の兵士美馬勝三と勉強しました。その当時,彼は寝たきりの病人でした。そしてそれまでは,聖書については何も知りませんでした。しかし今では,肉体的にも霊的にも最良の健康状態にあり,12年以上も正規開拓奉仕を行なっています。美馬兄弟の妻も正規開拓者です。同兄弟は京都の都市の監督として奉仕しています。土地の伝道者がわずか4人しかいなかった(今では,そのうちの3人は正規開拓者)時分に,その宣教者の家の奉仕を受けた区域には,今日8つの会衆があり,1972年7月の報告によると,合計452人の伝道者が交わっており,そのうちの80人は開拓者でした。
東北への拡大 ― 仙台
1952年10月に,ドンおよびメーブル・ハズレットが仙台に移り,初めて人口100万以下の都市に宣教者の家が開かれました。人口100万以下といっても,仙台市は50万以上の人口を有しています。大阪の宣教者の家が閉鎖された時,桃原真一兄弟の家族も仙台に移りました。これらハワイ出身の宣教者たちは東北の寒い冬の気候にすぐに慣れました。後に,ハワイとカナダの宣教者の姉妹たちが彼らに加わりました。6年半にわたって,仙台の宣教者の家はりっぱな奉仕を行ないました。
カナダ出身の宣教者のひとり,マーガレット・パスターは,大会が開かれていた最中に仙台に到着した時のことを今でも思い出します。新しい宣教者たちは日本語を全く知りませんでしたが,ある人が宣教者のために大会のバッジを作ってくれました。宣教者たちは自分でそれを読むことはできませんでしたが,地元の仙台の伝道者たちには読むことができたので,彼らは宣教者のところにやって来て身ぶり手ぶりで,彼らのバッジが宣教者のものと同じであることを示しました。こうして,宣教者たちは新しい会衆とすぐに親しくなりました。
宣教者が仙台を去る時には,関心ある人びととの研究を引き継ぐことのできるおおぜいの伝道者がいました。仙台の宣教者たちが初めに奉仕していた区域には現在,3つの会衆があります。
ものみの塔協会の会長は再び日本を訪問
1956年4月21日から27日にかけて,ノア兄弟はドン・アダムスとともに日本を再度訪れました。到着は午前1時10分でしたが,約20人の宣教者が兄弟たちを空港に出迎えました。ノア兄弟の訪問と時を同じくして計画されていた大会が,東京西部の新しい美しい中野区公会堂で4月21日から23日にわたって開かれました。当時はまだ,東京の西部ではそれほど証言が行なわれていませんでしたが,今や,20万枚の招待ビラ,2,500枚のポスター,2万冊の特別号の「目ざめよ!」誌(同誌は1956年1月に発行されて以来,非常に多くの人に読まれるようになりました),それに宿舎捜しのための集中的な戸別訪問のわざによって,近隣の人びとにすぐれた証言が行なわれました。新聞も大会とノア兄弟の訪問を報道してよい宣伝となりました。
(この続きは次号に載せられます)
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読者からの質問ものみの塔 1973 | 11月15日
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読者からの質問
● 神はいつ恐竜を創造されたのですか。そして恐竜はいつ絶滅したのですか。―アメリカの一読者より
この質問に対して聖書は明確な答えを与えていません。創世記の記述によると,動物は創造の第五および第六期間すなわち『五日め』『六日め』に創造されました。もし「海の巨獣」[ヘブル語でタンニニム]と訳されているヘブル語の表現に,沼地や湿地帯に生息することが多かった恐竜(ダイナソア)が含まれていたなら,恐竜は「五日」めに創造されました。(創世 1:21,新)恐竜が人間の創造された時(「六日」めの終わり)まで存在していたかどうかはわかりませんが,どんなにおそくても,ノアの日の洪水の時には地から姿を消していたものと思われます。恐竜は,は虫類でした。そしてある種の恐竜は,構造その他の点でトカゲによく似ていました。(事実,サウロスはギリシア語で「トカゲ」のことです。七十人訳のレビ記 11章29節ではサウラとなっています)恐竜といってもあらゆる恐竜が巨大なものであったわけではありません。したがって,恐竜が大洪水まで生きていたとしても,巨大な種類の恐竜の雄と雌を箱船の中に入れる必要はありませんでした。それらの恐竜が属していた科もしくは「類」の,より小さなメンバーで神の命令は十分に果たせました。―創世 6:19,20; 7:14。
聖書の古い翻訳の中では,ヘブル語のタンニニム(「海の巨獣」,新)を訳すのに「竜」という語が使われています。(詩 74:13; 148:7。イザヤ 27:1,欽定訳)。「竜」(ギリシア語ではドラコン)という語はクリスチャン・ギリシア語聖書中に見られます。この表現は全くの神話に基づくものではなく,もとは恐竜のような巨大な生物を呼ぶのに用いられ,それらの巨大な生物が姿を消してからずっと後になって神話的な感じを帯びるようになった,という説もあります。興味深いことに,神話に出てくる「竜」の描写の多くは,恐竜を含む大は虫類のある種の生物に非常によく似ています。
● ラテン・アメリカのある部分で習慣となっているように,クリスチャンが両親や祖父母に自分を祝福するよう頼むのは正しいことですか。―ベネズエラの一読者より
聖書の示すところによると,古代の神のしもべたちは他の人びとを祝福しました。ヤコブはパロを祝福しました。つまりヤコブはパロが栄えますようにとあいさつしました。(創世 47:7)リベカの家族は,彼女がイサクと結婚するため上メソポタミアを離れた時彼女を祝福しました。(創世 24:60)またヤコブもイサクも,彼らの子孫を特別に祝福しました。(ヘブル 11:20,21)箴言 30章11節によると,親は子どもたちから祝福を受けるに値します。
ですから,聖書的な面からすれば,親または祖父母が自分の子どもたちを祝福することに対して異議を唱える必要はありません。祝福を求めることが一般の習慣となっていない国々においてさえ,祝福を与えるのは普通です。エホバの献身したしもべたちの間ではどこでも,仲間の信者が,任命された特別の仕事に関連して神の祝福を得るように,あるいは別の場所で忠実に奉仕をつづける時に神の祝福があるようにという願いを言い表わすのは珍しいことではありません。また,多くの言語の別れのあいさつは,実際には祝福であることも注目に値します。たとえば英語の「グッド・バイ」は,「神があなたとともにいますように」という意味です。
もとより,自分の住んでいる地域に,ラテン・アメリカのある国で行なわれているような「祝福を求め」たり与えたりする習慣がないのであれば,新たに始める必要はありません。しかし,もし他の人を祝福することがすでによく知られた習慣となっていれば,それについてクリスチャンが考慮しなければならない要素がいくつかあります。つまり次のようなことを自問してみます。自分はそういう祝福について正しい見方を持っているだろうか。その祝福は単なるきまり文句で,誠実さも純粋さもなく,またまごころもこめずに神を口にすることだろうか。(マタイ 15:4-7と比較してください)この習慣に従わない時はいつも物事がうまくいかない,と考える傾向があるだろうか。迷信的になって,その祝福をまじない文句のように考えはじめることのないよう注意しなければなりません。それに,親または祖父母がエホバの献身したしもべでなければ,彼らの宗教的見解がはいってきます。真の崇拝に対する認識を持たない人が,真の神をさえ知らずに,どうして子どもの上に神の祝福があるよう正しく願い求めることができるでしょうか。
以上のように,人が親か祖父母に祝福を求めることは,聖書的には異存はありませんが,特別の場合に直面してどうするかを決定しなければならない時には,クリスチャンは,聖書によって訓練された良心の支配に従わねばなりません。そして,人をつまずかせる,あるいは真の神を誤り伝えるようなことをするのを,ぜひとも避けねばなりません。―ピリピ 1:10。
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