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生命のために神権制度を認めるものみの塔 1954 | 12月1日
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生命のために神権制度を認める
『それであるから,神の力ある御手の下に自らを低くしなさい。神は正しい時にあなた方を高め,そして神はあなた方に関心を持たれているのであるから,すべての思いわずらいを神にゆだねなさい。』― ペテロ前 5:6,新世。
1 生命,一致,そして平和ということから見るときに,ヱホバの神権制度を認めることをいくら強く強調しても,なぜそれは強すぎませんか?
ヱホバの神権制度を認めるということをいくら強く強調しても,強調しすぎることはありません。もし人間の生命がある行為に依存するのであるならば,たとえ自らを低くしてその誇りが傷つけられようとも,人間はその行為をよろこんで行うべきです。これこそ神権制度を認めるべき仕方であつて,また神の御手の下にあるその運営の方法を認めるべき仕方です。無政府主義者たちは制度を認めず,制度に従うのを拒絶します。神権制度などはないと言うことは,無法または無政府主義の気味があります。なぜならば,そう言うことは神には制度が無く,神の民,神の群を組織していないということを意味するからです。神にとつては,無生の創造物である太陽,月,星が組織されるより,生きていて利智ある創造物が組織される方がより重要なことです。というのは,神の字宙の一政,調和,平和そして働きの有効さは,それらのものが神権的に組織され,運営されることに依存しているからです。
2 制度を認める支持として,昔のヘブル語聖書は誰のために書かれましたか?
2 聖書は,地上の利智ある者たちに教えを与える神の本です。神の本,聖書の教えを守り行うためには,神権制度を認めねばなりません。というのは,聖書自体全巻を通して神権制度を認めているからです。実際に,聖書は目に見える神権制度の本です。神御自身がその『指』をもつて書かれた聖書の中の最初の言葉は,神権制度のための言葉でした。すなわち,『十の言葉』である十のいましめは模型的神権制度であつたイスラエルの国民のためでした。(申命記 10:1-4)予言者モーセはヱホバ神の霊感を受けて,同じ制度のために,創世記から申命記にいたるまでの五書,すなわち律法の他の部分を書きました。昔しのヘブル語聖書の他のすべての本は,イスラエルの模型的神権制度のために書かれたということは実際の事実です。しかし,イスラエルの国民のためだけに書かれているのではありません。なぜならばクリスチャン使徒パウロは,神のクリスチャン会衆に手紙を書き,詩篇 69篇の9節を引用して次のように論じているからです。『キリストさえも自分自らをよろこばせるようなことはしなかつたからである。聖書に次のように書かれている。「あなた方を非難する者の非難は,私の上に来た。」以前に書かれたすべての事柄は,私たちを教育するために書かれたもので,私たちの忍耐とそして聖書からくる慰めによつて私たちが希望を持つためである。』(ロマ 15:3,4,新世)結果として,創世記からマラキ書までの昔しのヘブル語聖書は,主として神のクリスチャン会衆を教えるために書かれました。
3 同様に,キリスト教徒ギリシャ語聖書は誰のために書かれましたか? それらの人々が制度を念頭に置くことはなぜ必要ですか?
3 同じことは,マタイ伝から黙示録までのキリスト教徒,ギリシャ語聖書についても真であります。ルカ福音書,使徒行伝,テモテ書,テトス書,ピレモン書,そして使徒ヨハネの第二,第三の書を除いては,キリスト教徒,ギリシャ語聖書のすべては,クリスチャン会衆に対して直接に書き送られたものであり,主としてクリスチャン会衆のために書かれたものです。しかも,この8つの例外のものも,クリスチャン神権制度の中にいた人に宛てて書かれたものであり,特にその制度の代りにその人々に宛てて書かれたものです。それですから,今日ではキリスト教徒,ギリシャ語聖書の27冊は,神のクリスチャンの群に属するものであり,ある個人に属するものではありません。それで,これら27冊の本は,ヘブル語聖書の39冊の本と共になつて,霊感された聖書全部をつくりあげます。聖書がクリスチャン神権制度と破ることのできない密接な結びつきを持つていることを考えるとき,聖書は制度を念頭に置いております。そして神権制度を念頭に置かないならば,私たちは聖書を十分に理解することができません。それで,このことから神の力ある御手の下に自らを低くする者が神権制度に注意を払い,神権制度を認めることは全く必要なことなのです。神の群のすべての羊は,聖書のように制度を念頭に置くべきです。
構造と活動
4 キリスト教国の状態にもかかわらず,神は一つの見える制度を持たれていると何が確証しますか? その取り極めや,方法はどのようなものですか?
4 クリスチャン時代の最初の世紀にあつた目に見える神権制度のときから,今日の私たちの時まで19世紀経つています。この世紀のあいだ,キリスト教であると主張する制度は,多くの変化をし,幾百という宗派や分派に分裂しました。その結果に宗教的な群は散らされてしまつたのです。それで,キリスト教国内にあるいろいろな宗教的な無秩序は,しばしばひどい宗教戦争という形に表われたり,そして小さい,新しい派の者たちを迫害いたしました。クリスチャン神権制度を持つために,私たちはキリスト教国の宗教的な言い伝えを棄て去り,第1世紀昔の使徒時代の教訓と取り極めに戻らねばなりません。神は今日,その正しい牧者の下にいるその羊の群を地上に持つておられ,そしてその力ある御手の下にいま目に見える制度を必らず持たれているに違いなく,また実際に持たれております。イエス・キリストの使徒たちが神権的であつたのと同じく,この制度が神権的なものであると証明されますが,それは,神の羊のこの組織された群は,その取り極めや活動の仕方で使徒時代のもののようだからです。と同時にそれは神の定めた奉仕をするため現在の時代の必要なことにも調整されています。
5 今日の制度が使徒時代のようなものであるということは,何を意味しませんか?
5 制度が使徒時代のようなものであるといつても,いわゆる生きている『使徒』または『使徒の後継者』たちがいるということを意味しません。そのようなものがいるわけはないのです。小羊イエス・キリストの12の使徒はクリスチャン会衆の基礎石であつて,その会衆の初期,設立期,または幼少期に属したものでした。(黙示 21:14,19)1世紀の終りまでには,真の使徒はみな死にましたが,後継者については任命はなかつたのです。霊感された聖書は,いわゆる『使徒後継者』に対して反対して語つております。そのような者はサマリヤのシモン・マガスのように貪欲な心を持ち,神の群に対して使徒の力を行使したく願うのです。『実に,そのような者は偽りの使徒,惑わしの働き人であつて,自らをキリストの使徒に変身しているのである。しかし,それは驚くに当らない。なぜならば,サタン自身も自らを光の天使に変身し続けているからである。それでサタンに仕える者たちが正義の奉仕者に変身し続けることも,不思議なことではない。』そのように,野心を持つていて,おごり高ぶる人は,神権制度を認めることができず,神の大能の手の下に自らを低くすることはできません。―コリント後 11:5,12-15。使行 8:9-24,新世。
6,7 (イ)目に見える神権制度は何時,そして何人で始まりましたか? そして最初の日に何人が加えられましたか?(ロ)使徒時代の制度と活動について,記録は何と言つていますか?
6 西暦33年の五句節<ペンテコスト>の祝の日に,120人の成員で成り立つクリスチャン会衆は目に見える神権制度としてエルサレムの2階の部屋で開始されました。その時に,神の聖霊はその主なる牧者イエス・キリストを通して,イエスの忠実な追随者で成り立つその小さな群の上に注がれました。そのように聖霊がその小さな会衆の上に注がれて,奇跡的なしるしが表わされたために,その注がれた聖霊の力の下にペテロと他の使徒たちは伝道をし,ヱホバ神とその高められた子イエス・キリストに対して力強い大きな証言を行いました。聴衆の群の中で3000人がその音信をうけいれて,イエス・キリストはヱホバ神の子,主・キリストであると信じ,そしてその信仰を証するため水による洗礼をうけました。その使徒時代の制度や活動については,次のように記録されています。『それで,彼の言葉を心から受けいれた者たちは洗礼をうけ,そしてその日には約三千の魂が加えられた。彼らは使徒たちの教に心を傾けて守り,互いに交りをなし,共に食事をして祈をしていた。』― 使行 2:1-42,新世; 1:15。
7 彼らの活動をさらに説明して,記録は次のように言つております。『彼らは毎日毎日心を一つにし,絶えず宮に行き個人の家で食事をとり,よろこびと真心から滋養物を取り,神を讃美し,すべての人に好意を持たれた。そしてヱホバは救われる人々を毎日加えさせられた。』(使行 2:46,47,新世)不信のユダヤ人たちが迫害を加えた後であつても,エルサレムの会衆は,前述のことを守り行いました。『そして,日々宮にいても,家から家の場合でも,彼らはキリスト・イエスについての良いたよりを教えたり宣べ伝えたりして止めることをしなかつた。』― 使行 5:42,新世。
8 それで,記録から見るとき,当時の方法は何を含んでいましたか?
8 この聖書の記録から,使徒時代の方法は,次のことを含んでいたということに気がつきます。まず使徒たちの教に心を傾けて守つたということです。その教は,使徒たちが多く引用したヘブル語聖書によつて支持されました。次に,ユダヤ人の会堂から離れて,新しい会衆をつくるために仲間の信者たちとして互に交をしたということです。そしてよろこびつつ,また真心のうちに個人の家で食事を共にしたということです。このことは,家から家への彼らの伝道と結びついていました。というのは,彼らがイエス・キリストについての良いたよりを教えたり宣べ伝えたりした時,この霊的な食物をうけいれた人々は彼らと物質的な食物を共にし,彼らの身体上の元気に貢献しました。(ガラテヤ 6:6)家から家のこの伝道の他に,彼らは宮の庭で公開集会を開き,毎日そこに出席して,宮に集まる群集に音信を伝えました。それで,彼らは個人としても,または公やけの時にも絶えず活潑に活動し,ヱホバ神を讃美し,そしてイエス・キリストについての良いたよりを宣べ伝えました。この方法は成功しました。なぜならばヱホバは信者たちを日々彼らの数に加えたからです。
9 今日誰が使徒たちの教に心を傾けて守つておりますか? そしてそれはどのようにしてですか?
9 その昔に神権的なものであつたことは,今日でも神権的なものです。神権的な性質のために,その昔に成功したものは,今日でも成功すべきです。その理由で,ヱホバの証者は使徒たちに模倣しようと努力して,使徒たちの時代に戻つているのです。使徒たちの方法を真似しなさい。それは,使徒たちの教に今日心を傾けて守る一つの道です,彼らの口頭の教えについて言うならば,今日では使徒は肉の形でもつて直接には生存しておりませんが,しかし彼らの仲間の弟子であるマルコ,ルカ,ヤコブ,そしてユダたちの霊感の書きものと共に使徒たちの書きものもあります。これら霊感されたクリスチャンたちの書きものにしつかりと従い,そして霊感をうけない人々の宗教的な言い伝えを拒絶することによつて,私たちは今日霊感された使徒たちの書いた教に心を傾けて守ることができます。この書かれた教によつて今日の真のクリスチャン会衆は資格ある監督者や奉仕の僕たちによつてどのように組織され,また司会されるかについて私たちは教をうけます。これらの監督者や僕たちは,地全部に亘る全クリスチャン会衆の統治体によつて任命されているものです。使徒時代の時のように,ヱホバの証者は集会の場所で互に交ります。彼らは定期的に交り,彼ら自身集まるのを止めるという悪い習慣に陥らず,互いに励まし合い,そしてハルマゲドンの戦が近づくのを見つめれば見つめる程益々そうしております。エルサレムの宮は西暦70年に亡びてしまい,ヱホバの証者は今日そこで公開集会を開こうとしても,その場所に出席することはできません。しかし,ヱホバの証者は,屋内であろうと屋外であろうとも,できるとこならば何処であつても今日公開集会を開いております。―使行 14:23; 20:28-35。テモテ前 3:1-13。テトス 1:5-9。ヘブル 10:25。
10 使徒時代の特別などんな顕著な点は,今日ヱホバの証者の活動を表示していますか?
10 使徒時代の一つの特別顕著な点は,今日のヱホバの証者の神権的活動を表示しています。それは何ですか? それは家から家へと良いたよりを伝道したことと,また昔の大会の都エルサレムに相当するような都市で大きな大会が開かれたときなどに個人の家庭で接待をうけましたが,そのような時に良いたよりを伝道したことです。使徒たち自身も家から家へと伝道する神権的な要求から除外されていたのではありません。そのことにつき,使徒パウロは,エペソの会衆の長老たちに次のように言いました。『利益となる事をあなた方に語るのに,私は躊躇しなかつた。また人中でも家から家へでもあなた方を教えるのに躊躇しなかつた。しかし,私は神にたいしての悔い改めと,主イエスに対する信仰についてユダヤ人とギリシャ人の両方に十分な証をしたのである。………私の行程を終え,主イエスから賜つた,神の恵みの良いたよりについて十分の証をする宣教を果し終えるならば,私の魂を少しも惜しいとは思わない。』― 使行 20:20,21,24,新世。
11 この活動に対して,どこから反対が来ますか? そしてなぜ?
11 この家から家の宣教の方法は,非常に効果的であつて,この20世紀の時代に多くの人々に神の音信を伝えることができました。それで,キリスト教国の牧師は,神権的とは全く逆にこの方法に反対し,訴え出て,そしてこれを国の政治,警察,司法,諸官憲の前に問題としました。それは丁度使徒時代のユダヤ人の教師がしたことと同じでありました。その結果,神の御国の音信を伝道する道を確保するため,ヱホバの証者は法律の法廷で戦わねばなりません。ヱホバの証者が禁ぜられ,またその国家の宗教のために,証者たちの公開講演が許可にならないような国では,彼らは使徒たちに真似をして,家から家へと神権的に出かけ,公共の注意を引くことなしに静かに伝道いたします。
君としての奴隷
12 今日神権的であるためには,私たちはどんな基礎の上に依存しなければなりませんか?
12 使徒時代の方法と1世紀の取り極めに調和一致することは,私たちの生命のために今日神権制度を認める一部分であります。新しいエルサレムは,12の基礎石を持つていると示され,その基礎石には『小羊の十二の使徒の十二の名前』が録されていることを私たちは知つています。(黙示 21:14,19,新世)私たちが,今日神権的であるためには,これらクリスチャン使徒や予言者の12の基礎の上にいまでも依存しなければなりません。そしてイエス・キリスト自身は基礎の隅石であつて,それら使徒の基礎はその基礎の隅石に依存しました。―エペソ 2:20-22。
13 今日,制度を全く認めるために,私たちは制度のどんな他の特色を認めるべきですか? そして何時からですか?
13 しかし,この世の『終りの時』にあつて,私たちが認めねばならない神権制度の他の一つの特色があります。それは,何ですか? それは『忠実にして,賢い奴隷』です。イエスは,彼が目に見えない状態で臨在される時,『終りの時』を特色づける証拠について詳細な予言を与えましたが,その予言の中で,そのような『忠実にして賢い奴隷』を任命すると語りました。『主人が家人の上に任命して,正しい時に食物を与える忠実にして賢い奴隷とは実際に誰であるか? 主人が着いた時,そのようにしているのが見られるその奴隷は幸いである。私はまことにあなた方に言う。主人は彼を任命して全財産を管理させるであろう。』(マタイ 24:45-47,新世)西暦1914年以来の世界の出来事,とくに西暦1918年以来のヱホバの民のあいだの出来事によつて,次のことについての目に見える証拠があります。すなわち主イエス・キリストはその御国に来られてから,神の霊的の宮に来られ,『神の家』で最後の裁きを執行し,そしてその裁きの仕事の表われとしてイエスは『忠実にして賢い奴隷』を見出し,その奴隷を任命してその財産全部すなわち地上にある見える御国の福祉を委ねました。(ペテロ前 4:17)それで,今日の神権制度を十二分に認めるためには,再臨された主,審判主が全財産の上に任命したこの『忠実にして賢い奴隷』を認めなければなりません。そのことを避けることはできません。
14 この『奴隷』は誰ですか? その奴隷は,いま誰に食物を給仕していますか?
14 幾年ものあいだ,この『忠実にして賢い奴隷』は一人の人,またはある一人の人が取る責任ある職務と考えられていました。しかし,目に見える神権制度は『正しい時に霊的な食物』をうけるのに,ある一人の人に依存していますか? いいえ,そうではありません。成就された予言の光に照らして見る時に,任命された『奴隷』は一つの級であつて,イエス・キリストの油注がれた霊的追随者の残れる者又は残存している者です。彼らはイエス・キリストと共に天の御国で共同相続者になるよう召されている者です。この『奴隷』級は,今日地上にある主イエスの全財産を管理する際に『正しい時に食物』を給仕いたします。それによつて油注がれた残れる者の成員たちだけでなく,いまでは主の『他の羊』の『大いなる群集』すなわち新しい世で地的な運命を待つている忠実な信者たちも給仕をうけています。主は『奴隷』級を任命してその目に見える全財産を管理させているのですから,正しい牧者である主イエスは,この『奴隷』以外のものでもつては,今日地上の羊を養つてはおりません。
15 どんな模範に従つて,『奴隷』級は統治体を持つていますか? その統治体には誰が含まれますか?
15 『忠実にして賢い奴隷』は,一つの級であることから,その永続する忠実と賢明さはある一人の人の生涯や行為に依存しません。『奴隷』級は,多くの油注がれたクリスチャンで成り立つていますから,それは統治体を持たなければなりません。使徒時代の神権的会衆が統治体を持つていたのと同じく,それは統治体を持つています。ペテロは,自分がその統治体であるとは主張せず,パウロも同じく主張しませんでした。ペテロとパウロの両人は,統治体は自分たちよりも多くの人を含んでいると認め,異論の事柄を統治体の決定に委ねました。小羊の12使徒は,わずか12人だけであつたため,当時において霊的に資格を備えていた人がみなそのような特別な使徒になれることはできません。それで,統治体は小羊の12使徒の他に,エルサレムの神権制度の他の長老たち,例えばイエス・キリストの異父弟ヤコブのような者を取り入れました。(使行 15:1-29。ガラテヤ 1:18,19。ヤコブ 1:1)12使徒はもはや死んで長い年月が立つているのですから,今日の『忠実にして賢い奴隷』級の統治体には,当然12使徒は含まれておりません。しかし,今日の統治体は,それら使徒たちの書かれた教えや,また使徒と交つてキリスト教徒ギリシャ語聖書を書いた他の長老たちの教えに従います。今日の統治体には,油注がれた残れる者で長老の,霊的に資格ある人々が含まれています。
16 統治体は何と密接に結んでいますか? その拡張は全地においてどのように行われていますか?
16 今日の目に見える神権制度は,現代の状態と要求に適応し,そしてカイザルにはカイザルのものを与えねばならないために,合法的に設立された奉仕機関『ものみの塔聖書冊子協会』を有しております。同協会は,アメリカ合衆国ペンシルバニア州の法律の下に1884年に法人化されたものです。(マタイ 22:21)『忠実にして賢い奴隷』級の統治体が,管理,合法,出版の目的のために密接に結びついているのは,この合法の法人であります。それは『御国のこの良いおとづれ』が,全国民に対して証しをするため全地に伝道されるのを監督するためです。(マタイ 24:14,新世)御国の伝道はすでに150の国々に拡大したため,この合法の法人はその60以上の国々に支部事務所を持つております。支部は,元始の合法の法人から適宜に,又必要に応じて経済的な支持をうけております。その支部を管理するクリスチャン男子は,献身したヱホバの証者であつて,『支部の僕』と呼ばれます。支部の僕は,全く『僕』あつて,首領ではありません。すべてのことを良く考えて見る時に,今日の神権制度を認めるということは,イエス・キリストを通して今日のためになされるヱホバ神の取り極めと御準備をみな認めるということでなければなりません。忠節な心をもつてそれらを認める証として,私たちは神権制度とその任命そしてその運営部門と忠実に協力するよう努力すべきです。
17 何時からイザヤ書 32章1,2節は適用しますか? そしてどのように?
17 神が西暦1914年に天で御国を設立してより,そして特に1919年以来,イザヤ書 32章1,2節の予言は,御座に即いたイエスと地上にいる任命された僕たちについて適用いたします。『ここにひとりの王あり,正義をもて統治め,その君たち(ヘブル語でサリム)は公平をもて宰どらん。また人ありて風のさけどころ,暴雨ののがれどころとなり旱ける地にある水のながれの如く,倦み疲れたる地にある大なる岩蔭のごとくならん。』ここの『君たち』または『サリム』は,この世的な君たちを意味しているのではなく,主要な神権的な人を意味しています。すなわち,10人だけで成り立つ群であろうとも一つの級または一つの群の任命された長たちのことです。それで,『忠実にして賢い奴隷』級は,ヱホバの証者の『他の羊』について君のような立場を占めております。支部の僕は,油注がれた残れる者の成員であろうと,あるいは『他の羊』級の成員であろうと,それぞれの支部の管轄下にある区域内で,神権的な君またはサリムであります。統治体によつて任命され,10人のヱホバの証者の中で「公平をもつて宰る」男子の僕は,神権的な君,またはサル(サリムの単数形)です。地上にいるすべてのヱホバの証者の中で,神権的なサリムは,今日運営している神権制度を特に認めるべきです。
18 どんな根拠に基いて,人はサリムとして奉仕いたしますか? サリムが「公正に宰る」ためには,何が必要とされますか?
18 ヱホバの神権的な王イエス・キリストは,ただ忠実にして従順な『君たち』だけを地上で用いています。サリムたちは,特別な奉仕を行うために,彼らの主であり御座についたヱホバの王を認め,その王の御手の下に自らを卑くし公平をもつて宰らねばなりません。公平をもつて宰るという意味はサリムは彼らの王イエス・キリストの側にて正しく行わねばならず,又地的な全財産の上に任命されている王の『忠実にして賢い奴隷』の側にて正しく行わねばならず,そして王の他の羊である王の臣下たちの側にて正しく行わねばなりません。審判人の期間のあいだ不幸なことにイスラエルには正しいと認められていた習慣がありました。しかし,王のサリムの地位は,そのような習慣に従うことではありません。『そのころ,イスラエルには王がおらず,それぞれの目に正しいと見えたことをするのが習慣であつた。』(シシ記 21:25,新世)サリムは,その奉仕する人々の模範となるため,彼ら自身制度の教えを実行すべきです。このことは,彼ら自身がそのような教えを注意して良く知らねばならず,又研究しなければならないことを意味します。昔のイスラエルの祭司たちは,聖書の教えを暗記した程です。そのようにして,彼らはその教えの意味を理解し,またその含意を悟り,そして教えの中で明白に述べられていない多くの事柄を取扱うことができます。公平に宰るためには,その後でも彼らは制度の教と常に一致するよう努力いたします。
19 支部の僕を例にとつてみると,支部の僕が制度を認め,そしてその教に従わねばならない第1番の理由は何ですか?
19 例えば,支部の僕の場合ですと,支部の僕は次の点に留意しています。すなわち,木の枝または蔓が幹を支えているのではなく,幹がすべての枝を支えているということです。枝は幹から切離されては,働くことができません。枝が実を結ぶためには,枝はしつかりとついているべきです。同じことは支部の制度についても言えます。支部は,ただに合法の法人の機関であつて資金とか運営の他の手段を支給するもので,経済的には源の法人に依存しております。そのように経済的に依存していること自体によつても,支部の僕は言われることを行わねばなりません。なぜならば,資金を供給する協会は,支部についての金銭を費す場合に責任を取らねばならず,そしてどのように資金を用いるかということは神に責任を取らねばならないからです。協会になされる神権的な寄附ということからしても,金銭を最も賢明な,そして最も効果的な方法で費すことは協会の責任です。この世であつても,そのような処置は,正常で,良い健全な事務手腕と考えられています。従つて,支部の僕は制度の教に従わねばならず,そしてその奉仕の地位にいて効果的であるよう努力すべきです。それは,支部の運営を最も経済的に行うとともに,そして最も良く,又最も大きな結果を得るためです。しかし,支部の僕は王のサリムの一人ですから,経済的な責務や依存という動機よりももつと高い動機がなければなりません。なぜならば,私たちの制度は商業的ではないからです。制度は神権的であつて,ヱホバ神に服従しており,その統治する王イエス・キリストを通して神によつて支配されている事実から高い動機は生じます。これこそ,神に献身しているすべてのものが制度を認め制度に服従し,制度に忠節を証明しなければならない主要な理由であります。
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制度を認める模範ものみの塔 1954 | 12月1日
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制度を認める模範
1 一人の宣教者が制度を認めたということについて,どんな聖書的な模範がありますか? その結果は何でしたか?
神権制度とその統治体を正しく認めることについての多くのよい模範を考えてごらんなさい。キリスト教の会衆がエルサレムで制度化されて間もなく,ユダヤ人宗教家たちの猛烈な迫害をうけて,その会衆はエルサレムの都から散りました。しかし,使徒たちは統治体として同市に残つていました。福音伝道者または宣教者であつたピリポは,北サマリヤで良いたよりを伝道し,その町に会衆を設立するのに成功し,その成員たちに洗礼をほどこしましたが,その会衆には一つの大切なものが不足していました。すなわち,それは奇蹟的な賜物を伴う聖霊でした。ピリポの願いは,その地生まれの証者たちで成り立つ会衆にも,これらの賜物を受けさせたいということでした。彼は神権制度を認めており,また御霊の奇蹟的な賜物は,小羊の使徒たちだけによつて与えられるか,あるいは彼らが直き直きに居合わせる時に与えられると知つていましたので,エルサレムに通知をいたしました。そのことは,福音伝道者または宣教者が無私と忠義の気持で神権制度を認めたものでした。その結果は何でしたか? 使徒時代の統治体は,使徒ペテロとヨハネを遣し,そして洗礼をうけたサマリヤの信者たちには,御霊とその賜物が与えられました。聖書にこう書かれています。『それで二人は下つて行き,彼らが聖霊をうけるようにと祈つた。というのは,彼らは主イエスの名によつて洗礼をうけただけであつて,聖霊は注がれなかつたからである。それで二人は彼らの上に手を置き,彼らは聖霊をうけ始めた。………使徒たちが手を置くことによつて,御霊は与えられた。』― 使行 8:1-19,新世。
2 パウロとバルナバの場合,彼らはどのように制度を認めましたか? どんな結果が,それに続きましたか?
2 後になつて,バルナバとパウロは,無割礼の国民に遣わされた宣教者でしたが,彼らは割礼と異邦人の問題で非常に悩まされました。二人ともその問題については正しく理解していましたが,しかしアンテオケの会衆で争論が起つた時,『彼らはパウロとバルナバおよび彼らのうちのある者たちに,この問題についてエルサレムの使徒や長老たちのところへ行かせるよう取り極めをした。』(使行 15:1,2,新世)神権制度をこのように認めたため,再びよい結果をもたらしました。エルサレムの統治体の特別集会が召集されて,その問題は徹底的に審議されました。ヤコブは神の代弁者として用いられ,聖書の成就に人々の注意を向けさせるとともに,無割礼の異邦人の信者たちが守らねばならない正しい結論を語りました。統治体は聖霊によつて支持をうけ,そのような信者たちに対する基礎的な要求を記した手紙をつくり,パウロとバルナバはその手紙を持つてエルサレムを去りました。その問題が討論されていた多くの町々で,この手紙は読まれました。パウロとその同労者が,信者のいた町々を旅行した時に,『彼らは,その地の人々に語り,エルサレムにいた使徒や長老たちが決定した命令を守るようにと告げた。』この結果からして,会衆が動揺し,意見の分裂をし続けることはなくなり,『会衆は信仰をかたく強められ,日ごとにその数は増し続けた。』(使行 15:3より16:5,新世)神権制度を認めることは,一致を保つて力を強め,多くの増加を得るものです。
3 今日誰が同じように制度を認めなければなりませんか? なぜ,そしてどのように?
3 今日でも,支部の僕や,制度の他のすべての特別な代表者たち,そしてまた制度によって奉仕の地位に任命されている者たちは,同様に神権制度を認めねばなりません。使徒パウロと彼の若い随伴者テモテの場合と全く同じく,キリストの下にある目に見える神権制度はこれらの任命者や代表者たちを任命し,職務に即けます。いま,なすべきことは,制度からの指示を受け,そして良心をもつてその指示を遂行することです。大切なことは,このことをするときに,ヱホバの神権制度の王なる支配者を心に留め,また王をよろこんで認めて行い,そして王のほまれのために行うことです。
4,5 私たちは,自分自身にほまれを取つて,そして王を暗やみに押しこめてはいけないと,ヨアブはどのように説明しましたか?
4 利己的な気持をいだいて,自分個人のために栄えを奪いとり,王を蔭に押しこめてしまうような努力を決してしてはなりません。ダビデ王の甥であつたヨアブ将軍の例を考えてごらんなさい。ヨアブは,王にたいして正しい気持を持つていた時に,物ごとを正しく認めていました。アンモンの国はダビデ王の使者をひどく侮辱し,それでダビデ王の戦闘指揮官であつたヨアブは首都ラバにむかつて戦い,その水の都を取りました。水の都とは,つまり水の供給を持つていた都の部分か,またはその水の供給を守つていた城砦でした,この大切な部分が取られてしまつたので,首都は長いこと保つことができず,結局にはどうしても降伏せざるを得ないでしよう。しかし,ヨアブは自分個人の名声を得ようと自分一人で都の包囲を強めて,成功の最高潮に達しようとはせず,彼の地的主権者とまたヱホバの油注いだ王に関する事柄の神権的至当さに対して正しい認識を示しました。ヨアブは,たとえ大切な準備の仕事をしたのではありますが,ヱホバの油注いだ王が敵の王都を取り,そしてこの偉業に対して名声を得るようにと欲しました。
5 『ヨアブはダビテに使者を送り,こう言つた。「私はラバと戦い,水の都を取つた。さて,民の残りの者を共に集めて都を囲み,それを取りなさい。それは,私が都を取つて,私の名前でもつてその都が呼ばれないためである。」それで,ダビデはすべての民を共に集めてラバに行き,ラバと戦つてそれを取つた。それからダビデはアンモン人の王の冠(またはミルコムの冠)をその王の頭から取つた。その重さは,一タラントの金であり,その中には貴重な石があり,その冠はダビデの頭の上に置かれた。そして,彼は非常に多くの都の分捕品を持ち出した。』― サムエル後 12:26-30,改訳; 10:1-7。
6,7 (イ)任命された僕は,その奉仕の割当てを,個人的な誉を得る踏石にはいたしませんが,それはどのようにしてですか?(ロ)個人的な誉の代りに,彼は何のために計画し,そして働きますか?
6 同様に,今日でも神権制度の代表者または,任命者は仕事の特別な割り当てをうけます。その者はその割り当てを達成しようと働き,ヱホバ神は祝福して成功を得させます。その仕事は完成に近づき,あるいは終に公やけに発表することが必要になります。もしも制度の代表者または任命された代理者が公やけに知られるのを求めるならば,どこまでも行い続け,達成された仕事が公共の注意をひいて,彼の名前がその仕事と結びつき,彼の名前が人々に言われ,そして自分自身の追従の名声を得るでしよう。しかし,その人は賢明な態度をとり,自分はただ神権的な奴隷であつて,制度内で特権の仕事を与えられたのみであり,自分がした仕事については公やけに讃められる価値などはなく,ただヱホバとその主イエス・キリストの助けによつてすることができたのであると心から認めます。その人は,利己的で個人的なほまれを得るための踏石として,この特権である仕事の割り当てをいたしません。そのようなほまれは,彼自身に対して公共の注意をひきますが,奴隷として彼が属している神権制度の重要さを隠蔽してしまうでしよう。
7 それで,その人は華々しい輝きの光から身を離します。公共の目から見えないように,自分の割り当てられた仕事をいたします。彼は身を退いて,制度内の上位の者にその仕事を続けさせ,全部の仕事を完成するのに必要な手段を取らせそして最終の成功を得て公共の注意の前に置かれます。このようにして,完成したことに対するほまれは,制度の王なる首イエス・キリストに捧げられるようにいたします。その人は完成したことについて制度がほまれをうけ,この完成は神権制度全部の仕事の一班であると公共の人に認められたく願います。制度が賞讃を得るようにしなさい,制度の深い認識こそ公共のあいだに持たれるべきものです。公共の人には,制度内にいる成員・つまり制度内の単なる奴隷たちを讃めさせるよりは,制度を主としていつも心に留めさせ,制度について語らせ,そして制度に確信を持たせなさい。こうするならば,滅亡に導く個人的な誇りが入るということは阻止され,そして神の大いなる御手の下にあつて自らを低くするということを意味します。それは,神が正しい時に忠実な者を高めることのできるためです。―ヤコブ 4:6,7。ペテロ前 5:6。
8 ヨアブ将軍は,ダビデ王がアブネル将軍を用いるのをどのように阻げましたか? ヨアブ将軍は,アブサロムに関係して,王の命令にどのように背きましたか?
8 ヨアブ将軍が,常にそのような神権的な気持ちを持ち続けていたならば,どれ程に良かつたことでしよう! そうではなかつたのです,彼は,他の者に対するねたみや,また王の任命に対してのうらみの心で,気持が多く動かされました。このために,彼はその王に対して反逆の行いをするようになり,そして最後の反逆の行いの時に,自分自身の生命を失いました。サウロ王が死んだ後,ユダの支族はヘブロンの町でダビデを王としました。他の11の支族は,サウロの子であるイシボセテを王として選び,内乱が続いて行われました。時がたつて,アブネル将軍はイシボセテと仲違いをし,ダビデ王と交渉し,ヱホバの油注ぎしダビデのところに支族の残りの者をひきつれると話しました。しかし,将軍ヨアブはアブネルに復讐の気持をいだき,アブネルを騙して殺し,このことを阻げました。(サムエル後 2:1より3:39)幾年か後に,ダビデの子アブサロムはダビデに反逆し,ダビデは止むを得ずエルサレムから逃げてヨルダン河を越えねばならず,アブサロムは優勢な大軍をひきいて出かけ,ダビデと戦つてダビデを殺し,イスラエルの王座を得ようとしました。ヨアブと同僚の者たちが戦いに出かけた時,逃亡者ダビデは彼らに命じ,『私のために若者アブサロムを手柔かに取扱つてもらいたい。』と言いました。しかし,アブサロムは敗戦から逃げようとしたときに,木の枝にその長い毛がかかつて,宙に浮いているとの報告をうけて,ヨアブは其処に行き,この無力のアブサロムに3度槍を故意に突きさし,殺しました。だが,ダビデ王はこのためにいたく歎きました。―サムエル後 15:1より19:4,ア訳。
9 ヨアブは,ダビデの行つたアマサ将軍の昇進をどのようにして阻げましたか? そして,ソロモンについての神の御目的とはどのように反対しましたか?
9 附随することですが,アブサロムはその反逆の時に,ユダの支族のアマサを将軍といたしました。(サムエル後 17:24,25)アブサロムが死んで後,イスラエルの支族は,ダビデ王がエルサレムに戻つてきてもらいたいとの願いを示しましたが,しかしユダの支族は,そうする決議をするのに遅かつたのでした。ダビデ王は,将軍ヨアブの反逆の行いを考えて,アマサに言葉を送り,不従順なヨアブの代りに彼を王の軍隊の指揮官にならせようと約束しました。ヨアブの性質として,ヨアブはこのことを深く憤りました。ダビデがエルサレムに戻り,アマサを任命してしばらくたつて後に,ヨアブはアマサに会いました。ヨアブは,丁度イエスに対するユダのように,欺きの身振りをして,アマサに接吻しようとしました。アマサがなんの疑うこともなく気をゆるめていたとき,ヨアブは剣を抜いて,刺し通し,その腸を地に流しました。(サムエル後 19:8-15; 20:3-13; 23:25)ヨアブは自身自ら殺人者であると表し示し,『太平の時に戦の血を流し,戦の血を己の腰のまわりの帯とその足の履につけたり。』(列王紀略上 2:5)ダビデの子アドニヤが,ソロモンをしてダビデ王の相続者にするというヱホバの任命より先んじて,彼を王として支持するよう人々の群に呼びかけた時,ヨアブはその招待の召しを受けいれ,アドニヤに従つて,支持いたしました。ダビデ王は,アドニヤの潜越な王位横領を阻げるため,その愛する子ソロモンを正式に即位させました。
10 ヨアブは,どのような最後を遂げましたか,なぜそうなりましたか?
10 ヨアブについて,ダビデがソロモン王に与えた最後の指示は,次のようでした。『それであるから,お前の知慧に従つて行いなさい,それは彼の白髪を安らかにショオールに行かせないためである。』(列王紀略上 2:6,ア訳)ソロモンにそれらの指示を行う時が来た時,ヨアブは逃れて幕屋を求め,ヱホバの祭壇の角をとらえていました。その聖なる場所で彼は撃ち殺されねばなりませんでした。というのは,ソロモンの言葉を引用するとこう記されています。『彼は,彼よりも正義であり名誉ある二人の人を撃ち,剣でもつて殺した。しかし,私の父ダビデはそのことを知らなかつたのである。すなわち,イスラエルの軍隊指揮官ネルの子アブネルとユダの軍隊指揮官エテルの子アマサである。』(列王紀略上 2:28-35,ア訳)ヨアブが不満足になり,彼よりも良い人々を彼の濫用した職務につかせまいと努めたために,彼は自ら災いに導かれました。
11 僕がどんな道をとるときに,最善の結果が得られますか? そして低位された時には,なにをしてはなりませんか?
11 今日制度内での任命された僕が,ヱホバの油注いだ王大いなるダビデに忠節を保ち,その奉仕の地位に対してなすことのできる最善のことをするならば一番良い結果が得られるものです。そして,それは神権制度を正しく認めていることであります。支部やまたは奉仕制度の他の部門で移動変更がされ,あなたが低位するならば,ヨアブのように憤りの心を持つて振舞うとか,新しい任命者とその地位に対してねたみの心を持たないように注意しなさい。あなたの前の地位にいまついている新しい僕を遅らせたり,阻げたり,また重荷をつけたりしてはなりません。そして,あなたがその地位で得たものよりも,新しい任命者の方がより多くの成功を得るようにとの真心からの願いをさし控えてはなりません。なぜならば,それは神の制度とその仕事が繁栄する時だからです。
12 協会が移動変更をする時,ヨアブのような最期を遂げるのを避け,又はデオテレペスのようになるのを避けるためには,私たちは何をすべきですか?
12 協会が移動変更をすることに対して,憤つたり,不満になる感情をなくするため,その変化で得られる教訓を謙遜な気持ちでうけいれ,どんな面であろうとあなたがしなければならない点において,あなた自身矯正し,改善してゆきなさい。穏和な気持を持つて,制度に忠節を保ち,あなたの後に入れ代る兄弟と仲良く働きなさい。それは,制度の善と進歩に貢献するものです。ヨアブの終りのような悲惨な終りを避けなさい。デオテレペスのしたように,神権制度とその統治体を決して無視してはなりません。デオテレペスについて,使徒ヨハネはこう書きました。『私は(統治体の一員として)いくらかのことを会衆に書いた。しかし,デオテレペスは人々のあいだで首になりたく思い,私たちから来るものを尊敬せず,うけ取らない。それで私が行くならば,彼のしている仕事を思い起させよう。彼は悪い言葉を用いて私たちについてとやかく言つている。また,これらのことに満足せず,それに尊敬の心をもつて兄弟たちをうけいれない。そればかりでなく,兄弟たちをうけいれようとする者を妨げ,会衆から追い出そうとする。愛する者よ,悪いものではなく,善いものを見習らいなさい。』(ヨハネ第三書 9:11,新世)それですから,謙遜になり,僕たちについての制度の任命に忠節であり,従順でありなさい。
忍耐できないことは傲慢に導く
13 ある僕は,制度からいましめをうけた後に,ヱホバに待ち望められないということをどのように示しますか?
13 神権制度を認めるときに,私たちは次の忠告に必らず従わねばなりません。『ヱホバを待ちのぞみて,その道をまもれ。』『ヱホバを待ち望め,雄々しかれ,汝のこころを堅うせよ。必ずやヱホバをまちのぞめ。』(詩 37:34; 27:14)第一に,これはいろいろな面で制度より先走つてはならないことを意味します。人は消極的な方法でこのことをいたすかもしれません。どのように? 奉仕の地位において,人は誤つたり,また間違つた振舞をして制度からいましめをうけるでしよう。そのいましめを受けた人が『私の奉仕は,認められていない』と考えるならば,それは自分自らを過大に評価しており,自分のことのみを強く考えすぎて,いましめの要点を見ることに失敗しています。いましめを聞いて,ひどく腹を立ててしまい,もう奉仕の地位で役立たないものであると自分に言い聞かせたり,または仕返しをすべきであるなどと感ずるかもしれません。それで,自分勝手に考えて,通知なしで突然にその地位を止めたり,制度の統治体からのなんらの命令なしに出て行つてしまいます。そして,その奉仕の地位をうち棄ててしまいます。それは早まつた,考えの足りない行です。いましめは,地位から人を解除することではありません。いましめは,その地位とまたその地位を持つている人の益のために与えられる矯正なのです。いましめを価値あるものとうけとつて,より良く行うように努め,そして制度の教を為すときに正しく振舞うことこそ良いことなのです。それからまた,そのいましめられた人を解除するか,あるいは変化した道をとつていることと考慮して同じ地位に残すか,どちらにしても制度の次の動きを待ち望むのは正しいことです。『こらしめのいましめ(または教訓)は,生命の道なり。』(シンゲン 6:23,改訳。ア訳)を記憶しなさい。いましめによつて益をうけ,その神権制度によつて代表されるヱホバに待ち望み,そして生きなさい。
14 ある者は,円熟している又はずつと忠実であると感じて,どのように先走ろうとしますか? 1917年1918年の裁きの試錬のあいだにはどうでしたか?
14 ときにある人は早く円熟したと感じます。つまり,精神的にもまたは霊的にも特別早く進歩したと自ら感じ,後れて愚図愚図して進歩しないように見える会衆内の多くの人々と比べてずつと忠実であると感ずるのです。それらの人は,自分自身のことをあまりに高く考えて,他の者たちや,また神権制度全部とも忍耐することができなくなります。彼らは,指導をして,真の進歩は何であり,進歩した真の思想と理解は何であるかを制度に示さねばならぬと感じ,離れて行きます。その時に,できるだけ多くのいわゆる『進歩主義者』を連れさり,神権制度と分れて行きます。それから,自ら勝れたものであり,より進歩したと考える彼ら自身の社会を設立します。1917年と1918年のひどい裁きの試みのあいだ,『ものみの塔』協会の多くの著名な人々は,全くそのことをし,そして彼ら自身の多くの分離した制度は設立されました。しかし,36年過ぎたいま,それらの制度は今日どこにありますか? また,一方に,ヱホバの神権制度は今日何処にありますか?
15 モーセの模範は,ヱホバの制度を棄てて,自分自身の制度をつくるものたちを,どのように叱責しますか?
15 そのような我儘な忍耐のない仕方に対しては聖書に良い模範があります。例えば,モーセを考えてごらんなさい。ヱホバ神御自身が,モーセをその族長とする新しい模型的神権制度を始められるという機会がありました。その新しい模型的神権制度は,神の律法の契約を破つて,淫らな犢崇拝を行つた不忠実なイスラエルの民とは入れ代るべきものでした。しかも,その機会はモーセがつくり出したものではなかつたのです。ヱホバは怒りを感ぜられ,モーセにこう言いました。『私を止めてはならない。彼らに対して私の怒は燃え,彼らを亡しつくそう。そしてあなたを大いなる国民にさせよう。』しかし,モーセは心に思い高ぶることをせず,深いことを考えていました。エジプトから堂々と救い出した民を,ヱホバが荒野で亡してしまうならば,ヱホバの御名に非難をもたらすでしよう。エジプト人や他の異教の人々は,ヱホバの御名を嘲笑し,ヱホバに悪い悪意ある考えを負いかぶせる機会ともなりましよう。モーセは,アブラハム,イサク,そしてヤコブと結んだヱホバの契約を憶えていました,というのはその契約は彼らの子孫であるイスラエルの国民に影響したからでした。モーセは,ヱホバの新しい制度内で素晴らしい地位を得るというこの機会を大急ぎで摑むようなことをせず,ヱホバにお願いしてその我儘な民に憐れみを感じ,ヱホバ御自身の御名のための忠実な残れる者を考えていただきたいと申しました。(出エジプト 32:1-14,新世)モーセの取つたこの無私の道は,ヱホバの制度を棄てて自分自身の制度をつくるものたちに対して,なんという叱責なのでしよう!
16,17 ヱホバに待つということについて,ヨシュアとカルブは,どのように試みられましたか? しかし,彼らは何をしましたか?
16 ヨシュアとカルブも,忠実な奉仕を常に続けてヱホバに待ち望み,ヱホバより先走ろうと試みなかつたすばらしい模範です。エジプトから出て2年目に,12人の間者が乳と蜜の流れる約束の地を偵察した後,10人の間者は,その地についての事実を曲げ,人々を失意落胆させて,ヱホバ神に従つて直ぐに行進するのを止めさせ,また処罰されている異教の住民を亡してその地を占領し,ヱホバの契約を立証するのを止めさせました。しかし,ヨシュアとカルブは忠実な報告をして,敵を圧倒するヱホバの力を崇め,イスラエルの国民を勇気づけてその地に進軍し,勝利を得ました。イスラエルは全能の神に対する信仰が不足しており,そしてこの時ヱホバ神に対して公然と叛逆したために,ヱホバは,生存者たちを約束の地に導く前に不忠実な不平家たちは荒野で死んでしまい,全国民は40年間荒野でさまようであろうと宣告をくだしました。
17 この神の言われた決定のときに,ヨシュアとカルブは何をしましたか?『私たちにとつてこの国民は遅すぎて,あまりに臆病である。自分たちだけで先に行こう。』と言いましたか? イスラエルは進歩することなく,また勇気がなくてすぐに怖気ついてしまうからというので,ヨシュアとカルブはイスラエルから逃け去つて行きましたか? イスラエルは全くそのような者たちでしたので,約束の地に入るのは39年も延期され,その期間のあいだ静止しておらねばならぬという刑罰をうけたのでした。ヨシュアとカルブは,他の者とくらべてずつと忠実であり,より義しいと感じ,この延期の年月のあいだそのような国民とは係るまいと決定しましたか? いいえ,そうではありません。ヱホバはその処罰された時代の者たちの中で二人を生存させ,後の時にその地に入れさせる恵みを与えると約束しましたが,二人はそのヱホバの約束に確信を持つていました。二人はヱホバの力ある御手の下に自らを低くし,その国民の制度に固くついていました。なぜならば,ヱホバ御自身も,またモーセもその制度から離れなかつたからです。モーセは再び神にお願いし,国民を亡ぼさず,またモーセからは『彼らよりも大いにして力ある国民』をつくらないようにと述べました ― 民数紀略 13:25より14:38,新世。
18 彼らが,そのような道を選んだために,彼らは何ものも失いませんでしたが,それはどんな面においてですか? 彼らは何についての模範ですか?
18 カルブとヨシュアは,国民の悪い行いの結果を共に苦しんで,そして国民より先に機会をとらえ自分たちだけで約束の地に入ろうとはしませんでしたが,それでもつて何かを失うということは全然なかつたのです。延期されたこの39年のあいだ,彼らはその民についてのヱホバの力ある業をさらに見ることができ,貴重な経険を積むことができました。ヱホバの定めた正しい時が来た時,ヱホバは忠実なレビ人と共に例外としてこの二人をカナンに入れさせました。ヨシュアはモーセの後継者になつて国家的な指導をし,カルブはモーセの忠実な仲間の戦士としてヱホバの至上権を立証しました。当時において,ヨシュアとカルブは目に見える神権制度にどれ程価値ある者であつたか考えてごらんなさい! 神の業に対しての忠実さ,神権的な従順,十分の力ということについて,また神への忠節と献身に対する神の報いということについて,二人はなんという良い模範なのでしよう! 今日,試みをうけている私たちにとつて,二人は非常に良い模範です。
ほまれを捧げる者たちにはほまれ
19 (イ)私たちは,何の拡大のために働くべきですか? 私たちは,どのようにして住んでいる土地の信者を助けて,制度の広さを見させるべきですか?(ロ)私たちは,それに対するどのようにして正しい行の力強い模範になることができますか?
19 神の言葉である聖書は,制度の本です。そして聖書は励ましと薦めとを書き録しており,神権制度を人間自己より上のものとし,どのようなことがあろうと神権制度を認めて,又制度に忠節に従うようにさせております。私たちの努力は,制度を拡大し,神の祝福の下に制度が繁栄するのを見ることであつて,制度の事柄の中で自分自身を大きくし,制度内の人々の尊敬や声望をうけたりしてはなりません。なぜラハブのようにならないのですか? ラハブはイスラエルの間者と契約を結びましたが,それはエリコの奇跡的な落城のときに彼女自身を保護し生存させるためだけでなく,信仰を持ちそしてラハブの家で安全を求めたすべての親族をも保護し,生存させるためでした。(ヨシュア 2:1-21)私たちは他の人々を援助して,私たちの交り,そして私たちがその僕であり象徴である神権制度を見させるべきです。丁度ヱホバの証者たちは,ニューヨーク市のヤンキー野球場で開催された1953年の巨大な大会の時その様でした。私たちが外国の地で支部の僕または宣教者として働いているならば,私たちはその地の信者と証者を助けて神権制度についての深い認識を得させなさい。そのことは,単にその地方の制度というもの以上のことを意味するものです。このようにして,人々を助け,制度が何を意味するかについて限定された地方的な見方を取り除くことができます。制度に対する私たち自身の破れることのない一致と調和,その取り極めに対する私たち自身の従順,御国のたよりを熱心に伝道する者として私たちがその制度とともにしつかりと働くこと,これらは力づよい模範でありましよう。私たちは制度を愛しますので,その制度が清さを保ち,その大いなる創造者にして造り主ヱホバ神が用いるのにいつもふさわしく清いものであるように欲します。私たちは,制度を愛しますから,火のようなひどい迫害も私たちを制度から引き離しません。
20 私たちは,どんな行にたいして,制度から必要な助けをうけますか? そして,何をすることに対して,遂には高められますか?
20 私たちが常に大切に思う一つの考えはこうです。私たちが謙遜になり,熱心で忠実な従順と協力により,忠節をつくして神権制度を認めるならば,神権制度は私たちを認め,私たちを支持し,私たちのために働き,そして私たちを神の奉仕に止め保ちます。神権制度の巧みな創造者にして神の沿う規則は,神自身の言葉によるとこう述べられています。『我を尊む者は,我もこれを尊む。我を賤しむる者はかろんぜられるべし。』(サムエル前 2:30)私たちは神の是認する制度を献心の心をもつて認めて,神を尊び,そして神に最大の尊敬を示すならば,私たちは制度と幸福であつて,満足をもたらす関係を保ち続けることができ,そして現在制度と共に奉仕の多くの特権を楽しむことができます。最後には,ハルマゲドンの戦いの後の新しい世で,その神権制度の中にいる者には,ヱホバ神よりイエス・キリストを通して正しい報いが来るでしよう。このことは次のことを意味します。すなわち,私たちは神権制度なしには決して成功し得ることはできず,そして,その神権制度は私たちを助けて神に対する忠実を保たせ,全宇宙に対する神の至上権とキリストの支配下にある神の御国を立証するのに私たちを参加せしめます。私たちはいま神の大いなる御手の下にあつて自らを低くしていますが,それに対して永遠の生命を与えられると共にその時私達は高められます。
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最近にアフリカでものみの塔 1954 | 12月1日
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最近にアフリカで
あるキリスト教の奉仕者たちは,一人の善意者を訪問しました。その人は,霊符協会の指導者でもあり,また霊符の力を強く信じていました。キリスト教の奉仕者たちは,昔バアルの崇拝者たちについて聖書は何を記録しており,またヱホバが唯一人の生命の与え主であることについて聖書は何と言つているかその人に知らせました。証者たちの言つた言葉に深く注意を払つた後に,その人は,証者たちが霊符よりも力が強いならば,信じようと言いました。それで,取り極めた日に,証者たちは互いに集まり,また町の人をみな招待して,どんな事が行われるかを見させました。最初に聖書の講演がなされ,そして,それから霊符の偶像が皆の前で燃されました。ヱホバの恵みある御親切により,霊符のこの指導者がヱホバの証者になつたばかりでなく,この人は又他の善意者にも真の崇拝についての興味を引き起させました。そしてこの二人は洗礼をうけました。
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