-
人類に対するわたしたちの愛を広げるものみの塔 1974 | 6月1日
-
-
他の人のためにどれほどのことをできるかは状況によって左右されます。身体的または経済的な限界,もしくはその両面の限界があるかもしれません。したがって,他の人と同じほどにできない場合があっても,だれも失望する必要はありません。わたしたちが愛や寛大さや親切さの表現において全き者であるかどうかを決定するのは,その量ではありません。それは,自分の支配的な霊として寛大さ,親切さ,愛をいだいているかどうか,自分の能力や資産を存分に活用して他の人の励みや祝福のもととなっているかどうかの問題です。
12 神から離れた人類世界に対する責任がクリスチャンの主要な責任ですか。
12 クリスチャンとして,わたしたちには,自分の家族や仲間の信者に対する優先する務めがあります。聖書はこう述べています。「自分に属する人びと,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪い」。(テモテ第一 5:8)「すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおうではありませんか」。(ガラテア 6:10)したがって,人類世界の他の人々を助けようとする一方で,自分の家族や仲間の信者のことをなおざりにするのであれば,それは正しくありません。肉的また霊的な意味でつながりを持つ人々に対するわたしたちの関係は,親切さや愛,またその福祉に対する積極的な関心をとくに反映すべきです。
13 どんな場合には物質上のものを与えないことがその人に対する愛の表現となりますか。
13 しかし,寛大さを示すことがそれを受ける人の助けとならない場合もあります。ある人々,ときには仲間のクリスチャンの中にさえ,自分の責任を負わず,怠惰で,できる仕事があるのにそれに就こうとしない人がいます。そうした人が物質面での援助を受けるとすれば,それは,仕事に対するその人の誤った見方を正すように励ますことにはなりません。そうした人の場合,聖書のテサロニケ第二 3章10節にある指示が当てはまります。「働こうとしない者は食べてはならない」。また,自分に与えられるものを神の非としておられる活動や習慣のために用いるような人の援助を拒むのは,クリスチャンにとって正当なことです。人にあるものを与えないでおくことが,考え方を改めるべきこと,また他の人がほねおって得た資産を誤用すべきでないことをその人の心と思いに銘記させるのに役だつならば,それは実際には,その人に対する愛と関心の表現となります。
重要な仕事 ― 王国を宣べ伝え,弟子を作ること
14 霊的な援助を与えることが今日とくに急を要するのはなぜですか。
14 物質面で人に与えるよりさらに重要なのは,クリスチャンが与えることのできる霊的な面での援助です。特に今,これは急を要する問題であり,人の生死を左右する事がらです。どうしてですか。聖書の預言と,それの成就となる実際のできごととは,西暦1914年以来の世代が「終わりの時」を迎えていることを証明しています。(マタイ 24:3-14,32-34。ルカ 21:25,26。テモテ第二 3:1-5。啓示 6:2-8)a つまり,献身してみ子の弟子となり,エホバ神のしもべとなっていない人はみな,自分の命を失うかもしれない危険な立場に立っているのです。
15 今日の人々の立場は,神の裁きが執行された以前の幾つかの場合にそれに直面した人々の立場とどのように異なっていますか。
15 どこにいる人もこの危険について知らされなければなりません。今日の人々の立場は,以前に神の裁きが執行された幾つかの場合にそれに直面した人々の立場と異なっています。例えば,エホバ神がバビロニア人を用いて不忠実なユダとエルサレムに対する裁きを執行したさいに滅びた幾千人の人々は,そうでなくてもやがて死ぬことになっていました。そして,彼らの死は全くの滅亡を意味していたわけではありません。しかし,神を知ろうとせず,イエス・キリストについての「良いたより」に従わない人々に対して今の世代に表明される裁きは最終的なものです。聖書はこう述べています。「この同じ者たちは,主のみまえから,またその力の栄光から離れて永遠の滅びという司法上の処罰を受けます」。(テサロニケ第二 1:9)「これらの者は去って永遠の切断にはいりま(す)」。(マタイ 25:46)一方,その滅びを生き残る人々は,その後何年か生きたのちにやはり死ぬのではありません。彼らの前には,病気や悲しみや苦痛から解放されて永遠に生きる見込みがあるのです。―啓示 7:14-17; 21:3-5。
16 エホバ神はエゼキエルの時代,不忠実なユダとエルサレムに裁きを執行する以前に何を行なわれましたか。
16 ここで問題となっている事がらの重大性のゆえに,今日のエホバのクリスチャン証人が,人の命を救う,神のことばからの音信を人々に伝えるために最善の努力をするのは当然のことではありませんか。その業に携わることによって,すべての人が悔い改め,正確な知識にしたがって生きるようにとの神の願いに対する正しい顧慮を示すことになります。エルサレムを滅ぼしてユダの土地を荒廃させることをバビロニア人に許すに先だち,エホバ神は必要な警告を伝えさせました。エホバは,その警告に注意を払う人々が持つあと幾年かの命をさえ貴重なものとみなされました。そして,戦争やそれに伴うできごとの結果としての恐ろしい死をできるだけ多くの人が免れることを望まれました。それゆえエホバはご自分の預言者エゼキエルに重い責任を課してこう語られました。「人の子よ,わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口からことばを聞くたびに,わたしに代って彼らを戒めなさい。わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき,あなたは彼の命を救うために彼を戒めず,また悪人を戒めて,その悪い道から離れるように語らないなら,その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。しかし,もしあなたが悪人を戒めても,彼らがその悪をも,またその悪い道をも離れないなら,彼はその悪のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う」― エゼキエル 3:17-19,口。
17 エゼキエルの受けた任務は,宣べ伝えて弟子を作るわたしたちの任務を認識するうえでどのように役だつはずですか。
17 今日の人々が迎えているさらに重大な危険について考えるとき,人々の命に対するわたしたちの責任はエゼキエルの場合よりも小さいと考えてよいでしょうか。もとよりそのようなことはありません! 19世紀以上前にイエス・キリストによって与えられた,宣べ伝えて弟子を作るという任務は「事物の体制の終結の時まで」継続されるものです。(マタイ 28:19,20)あなたはこの任務を遂行する自分の責任をはっきり自覚していますか。
18 忠実でない人がいても,警告を発するという神の目的が果たされないで終わることはありませんが,それはなぜですか。
18 これは,もしあなた個人がこの任務を果たさなければ人々は永遠の滅びを被るという意味ですか。そうではありません。これは人間の仕事ではなく神の仕事だからです。各人の心を開いておられるのは神であり,「神とともに働く者」となることはわたしたちの壮大な特権です。(使徒 16:14。コリント第一 3:9)警告を発するために,エホバ神は,必要であれば『石に叫ばせ』ることもできます。(ルカ 19:40)したがって,任務を果たさない人がいるとしても,それによって神の目的の遂行が阻まれるようなことはなく,神は,現在の事物の体制の滅亡以前に,どれだけでもご自分の望むだけ警告を伝えることができます。そして,エホバのクリスチャン証人の集合体は,警告を発する業を怠ったりはしません。エホバと仲間の人間たちに対する彼らの愛は非常に強く,時の残されているうちに救いの道を見いだせるように人々を助ける点で最善の努力を行なわせます。彼らはこれを成し遂げるために喜んで自分の個人的な事情を整え,自分の環境を調整することさえします。こうして,石が叫ぶことは必要でありません。
19 不忠実な人が血の罪を免れないのはなぜですか。
19 しかし,これによって,仲間の人間に対する真の愛と関心を示さない人各人が血の罪から免れるわけではありません。例を挙げて説明しましょう。父親が自分の子どもをなおざりにしてその子どもが危険な状態になったとすれば,だれかほかの人がその子どもを死から救い出したとしても,父親自身は罪を免れません。同様に,エホバのしもべであることを唱えながら,他の人に対する務めを怠る人も罪を免れません。彼の愛と関心の欠けた態度は殺人にも等しいと言えるでしょう。その人は,自分が多少の伝道をしたということで言いのがれることはできません。エホバ神は人の怠慢の程度を知っておられ,それに応じて裁きを下されます。―ローマ 14:12。
20 なぜ今はしるしだけの奉仕をする時ではありませんか。例を挙げなさい。
20 だれにしても,今は,単なるしるしだけの奉仕ですませようとしたり,他の人々のために少しの時間も取れないほど生活の心配や商業上のもくろみにまとわれたりする時ではありません。命を救う,人類史上最大の仕事が今や急速に終わろうとしています。したがって,わたしたちがすすんで犠牲を払い,個人的な楽しみや欲望を慎しむのは正しいことではありませんか。これは,何かの災害があった場合に人々が行なうことではありませんか。そうした場合,人々はその救出活動を時計に支配されて行なうのではなく,その必要があるかぎり,またなんとか用いる力があるかぎり最善の努力を続けます。
21 王国を宣べ伝える業に対するわたしたちの感じ方についてどんなことが尋ねられますか。
21 きわめて重要な王国伝道の業に対してあなたはそのように感じていますか。人々の家を訪ねるさい,あなたの心は,いこいや休息の必要性また他の聖書的な務めを見落とさないなど道理にかなった範囲で,できるだけ長くその業を続けようとする方向に働きますか。それとも,その業を切り上げること,そしておそらくは何かの娯楽やレクリエーションに携わることを楽しみにしますか。また他の場合,学校や職場その他の場所で日ごろ人と接するさいに,その機会を活用して人々に真理について話しますか。聖書の音信を親族や知人に伝えることにほんとうに関心をいだいていますか。また,ことばよりもりっぱな行動で証しをするほうがよい場合があれば,それを目ざとく見きわめますか。
22 弟子を作る業にはどんなことが関係していますか。
22 イエス・キリストが与えた任務は,神の真理を宣べ伝えたり宣明したりすることだけではありません。この点も銘記すべきです。人々は,イエスの弟子となるために教えられることが必要です。あなたは,なんらかの関心を示している人を再び訪ね,そうした人との家庭聖書研究を始めるために道理にかなった努力をしていますか。人々は,単に聖書の述べる事がらだけでなく,どうしたらそれに従って生活できるかをも知らなければなりません。真理を教えることに最善の努力を尽くした使徒パウロは次のように言うことができました。「わたし(は)すべての人の血について潔白で(す)……何一つ差し控えることなく,神のみ旨をことごとくあなたがたに伝えたからです」。(使徒 20:26,27)あなたは,パウロと同じように,自分の教えが重要な点で不備にならないように,また,あなたの教えている人が神のご要求を十分理解するようにしていますか。人の知るべき情報を伝えないで人の悪行に寄与するようなことは望まないはずです。
23 コリント第二 3章2,3節を用いて,教えを受ける人に対して持つべき態度および正しく教えることの結果について述べなさい。
23 もうひとつ大切なのは,自分の教える人たちに対する深い関心と愛です。使徒パウロは自分自身および自分の同労者たちについてコリントの人々にこう書き送りました。「あなたがた自身が,わたしたちの心に書き込まれ,すべての人に知られ,かつ読まれている,わたしたちの手紙なのです。あなたがたは,奉仕者であるわたしたちによって書かれ,インクによらず生ける神の霊によって,石の書き板ではなく肉の書き板に,すなわち心に書き込まれた,キリストの手紙として示されているからです」。(コリント第二 3:2,3)自分の教える人たちに深い愛と関心をいだくとき,その教えを受ける人たちはわたしたちの心に書き込まれた「手紙」のようになります。そして,わたしたちが神の霊の助けに頼り,自分の可能な範囲内で力を尽くすなら,それに答え応じる人々は,神の霊によって心に書き込まれたキリストの手紙のようになります。そうです,そうした人々の心に対する神の霊の働きの結果としてクリスチャンの人格が表わし示されるようになり,観察する人々はそれを見,もしくは『読む』ことができます。あなたは,神の『同労者』として,そうした「手紙」を生み出すために精力的に努力していますか。
24 エホバのしもべとしてのわたしたちの活動について真剣に考えるなら,それはどのような結果になりますか。
24 エホバ神のしもべとしての自分の活動を考えるとき,あなたは多くの喜びを思い返すことができるにちがいありません。確かにあなたは,さらに多くのことができたらと考え,また自分を改善できる分野があることに気づくかもしれません。また,生きた「手紙」をこれといって示せないということでときに失意することもあるかもしれません。しかし,宣べ伝えて教えるというクリスチャンの任務を果たすために努力してきたのであれば,エホバ神とイエス・キリストがあなたの身をささげた奉仕を喜んでくださることを確信できます。今,他の人々に対する自分の責任を,霊的な「赤子」であった時以上に強く自覚するのは全く当然であり,また良いことです。他方,もしわたしたちの中に,多少利己的な傾向をいだいてきた人がいるならば,そうした人たちは,自分を広くして,仲間の人間に愛と親切さと寛大さを示す面で全き者となることについて真剣に考えるべきです。わたしたちは,エホバ神とイエス・キリストが人類に対して持つ愛に一致して行動する者となり,それによって,神の報復の日に,保護を受けるに価する者として見いだされますように。
-
-
私たちは祭司職を必要としていますかものみの塔 1974 | 6月1日
-
-
私たちは祭司職を必要としていますか
人びとが助けを必要としていることには疑問の余地がありません。病気のために恐るべき数の人びとが命を失っており,犯罪は増加の一途をたどって人びとを脅かし,また不道徳はあらゆる種類の災いや暴力行為はもとより忌まわしい疾病を引き起こしています。多くの人は落胆し,希望を失い,何をしてよいのか途方に暮れています。―ルカ 21:25,26。
ところで今日,何千人もの祭司たちがさまざまの宗教団体を代表しています。ローマ・カトリック諸教会の司祭や監督教会派の司祭もおれば,仏教や神道その他,キリスト教以外の諸宗教の祭司もいます。それら祭司は人びとの苦しみを軽減させ,犯罪や不道徳,病気や死の潮流を食い止めてきましたか。
それらの祭司,特にキリスト教世界の諸教会の
-