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    ものみの塔 1970 | 11月15日
    • エホバのしもべたちは異なっている

      「この事物の体制に合わせて形づくられるのをやめなさい。むしろ,あなたがたの思いを作り変えて,みずからを一変させなさい。あなたがた自身に,神の,善良で,好ましく,かつ完全な意志を実証するためである」― ロマ 12:2,新。

      1,2 (イ)人間の心臓に発する,どんな堕落した傾向に,クリスチャンは気をつけなければなりませんか。なぜですか。(ロ)エホバの考えと道と,イザヤの時代のイスラエル人のそれとの間には,どんな相違がありましたか。それはなぜでしたか。

      クリスチャンは,不完全な心臓に発する種々の傾向に屈しないよう,気をつけねばなりません。そのひとつに,人気を得たい,どんな人でもよいから,他の人に好かれたい,と願う傾向があります。そうした傾向のゆえに,人類の大多数は,迎合のわな,つまり,周囲の人びとの意見や,ふるまいに迎合,あるいは黙従するわなに捕われてきました。エホバ神を喜ばせ,かつ,神の正義の新しい天と新しい地で永遠の命を得たいと願う人はすべて,他に迎合させようとする,こうした圧力に屈する,あるいは,屈服することのないように,十分警戒しなければなりません。なぜですか。なぜなら,エホバが,ご自分の預言者,イザヤの時代の堕落した民に言われたとおりだからです。「『あなたがたの考えは,わたしの考えではなく,わたしの道は,あなたがたの道でもないからである』とエホバは言われる。『天が地より高いように,わたしの道は,あなたがたの道より高く,わたしの考えは,あなたがたの考えより高いからである』」。―イザヤ 55:8,9,新。

      2 「天が地より高いように」とは,なんと大きな相違でしょう。実際,それは,考えうる最大の相違を表わしたことばといえるでしょう。エホバとその民との間に,それほど大きな相違が生じたのはなぜですか。それは,彼らが物事を正しく行ない,親切を愛し,慎しみをもって,自分たちの神とともに歩むことをやめたためです。(ミカ 6:8)そのかわり,エホバの民は逆の方向に歩み,崇拝および道徳上の行為のいずれに関しても,周囲の諸国民に迎合するにまかせました。

      3 周囲の人びとに迎合しようとする傾向は,イスラエルの歴史の初期に,どのように現われましたか。

      3 イスラエル国民の歴史をみると,その初期に,周囲の人びとの不敬けんな道にならう傾向が現われています。モーセが神の山に40日間こもっていた時,イスラエルの人びとは異教の崇拝を取り入れ,異教の淫乱な行為にふけりました。(コリント前 10:7)しかも,ヨシュアおよび,「エホバのかつてイスラエルのために成したまひし諸の大なる行為を見」,かつ,ヨシュアの死後まで生き残った長老たちが死ぬやいなや,イスラエルの子孫は,「エホバをすてゝバアルとアシタロテ〔の像〕につかへ」たのです。(士師 2:7-13,〔新〕)そして,さばき人,サムエルの時代のイスラエル人は,周囲の諸国民に迎合し,見える王を立ててほしいと執ように要求して,こう言いました。「我らも他の国々のごとくになり 我らの王われらをさばき われらを率て我らの戦にたゝかはん」。エホバは彼らの要求をいれましたが,怒りをいだいて,そうなさったのです。―サムエル前 8:7,20。ホセア 13:11。

      4,5 (イ)エホバのしもべたちは,周囲の世界に迎合しながら,なおエホバを喜ばせることはできません。なぜですか。(ロ)それゆえ,パウロは,きわめて適切などんな助言をクリスチャンに与えていますか。

      4 エホバのしもべたちは,自分たちの周囲の人びとと同様でありながら,なお,エホバに喜ばれることなど,どうしてできるでしょうか。ノアの大洪水後の数年を除けば,アダムとエバが罪を犯し,エデンを追放されて以来,今日に至るまで,全世界は,確かに邪悪な者,サタン悪魔,すなわち,「この事物の体制の神」の支配下に置かれてきたのではありませんでしたか。このことには一点の疑いもありません。したがって,だれであれ,エホバ神のしもべにとって,世に迎合することは,重大なわなであるといわねばなりません。―コリント後 4:4,新。ヨハネ第一 5:19。

      5 ゆえに,ロマ書 12章2節(新)の次の助言は,きわめて適切です。「この事物の体制に合わせて形づくられるのをやめなさい。むしろ,神の,善良で,好ましく,かつ完全な意志をわきまえ知るために,あなたがたの思いを作り変えて,みずからを一変させなさい」。パウロのこのことばを多少意訳した,あるいは,かなり自由に訳した飜訳は次のとおりです。「現在のこの世の型に,もはや順応してはならない」。(「新英語聖書」)「この世の諸習慣に従って生活するのをやめなさい」。(「新訳聖書」C・B・ウイリアムズ訳)「あなたがたは,この世の諸習慣を取り入れてはならない」。(「アメリカ訳」)「あなたがたは周囲の世に圧迫されて,その型に押し込まれてはならない」―「現代英語による新約聖書」。

      大洪水前のエホバの証人は異なっていた

      6,7 エホバのしもべたちは,異なっていることに,ひけめを感ずべきではありません。なぜですか。この点で,だれがわたしたちのために,最初の模範を残していますか。

      6 人類の最初のふた親がエデンを追われて以来,今日に至るまで,人間の世の歩みは不敬けんな歩みだったのですから,エホバのしもべたちはみな,最初から,周囲の人びとすべてと,はっきり異なっていた,しかも,ひときわ異なっていたに違いありません。今日のエホバのしもべたちで,服装のスタイル,あるいは行動または崇拝の方式などの点で,周囲の人びとと,きわ立って異なっていることにひけめを感ずる憶病な人は,神のことばにしるされているとおり,忠実なエホバのしもべたちが,この点で最初から作り上げた記録に注目してください。

      7 まずはじめに,エホバの忠実な証人の最初の人,アベルがいます。彼がエホバの清い崇拝を大胆に擁護した当時,地上にどれほどの人が住んでいたかはわかりません。しかし,少なくとも,神聖な記録に名前の出ている,アダムとエバおよびカインは,邪悪な者すなわちサタン悪魔の影響と支配下にあったことは確かです。アベルの歩みは確かに,それら3人の人びとの歩みとは正反対でした。彼は勇敢にも他の人ときわ立って異なっていたので,最初の忠実な証人,また最初の殉教者となりました。―創世 4:3-11。ヘブル 11:4。ヨハネ第一 3:12。

      8 エノクが周囲の人びととは,きわ立って異なっていたことを示す事実をあげなさい。

      8 それから,エノクがいます。彼が,大洪水前の事物の体制に迎合しなかったことは確かです。そのことをどうして確信できますか。なぜなら,アダムの孫,エノスの日に,エホバのお名前が,すでに誤った偽善的な仕方で呼ばれていた,という明白な事実からわかるとおり,地上には偽りの崇拝が相当はびこっていたからです。(創世 4:26)同時に,「まことの神とともに歩みつづけた」人として,エノクだけがあげられていることからもわかります。(創世 5:22,新)事実,エノクが,ひときわ異なった人として目だっていたことは,エホバ神が彼を用いて宣明させた警告の預言からも明らかです。クリスチャンの弟子ユダが次のように記録したとおりです。「みよ,〔エホバ〕はその聖なる千万の衆を率いてきたりたまへり。これすべての人の審判をなし,すべて敬虔ならぬ者の,不敬虔をおこなひたる不敬虔のすべての業と,敬虔ならぬ罪人の,〔彼〕に逆ひて語りたるすべてのはなはだしきことばを責め給はんとてなり」。この音信の趣旨からすれば,確かに,エノクは,不敬けんな人びとに囲まれていたこと,また,それゆえに,勇敢にも,きわ立って異なっていたに違いない,ということがわかります。―ユダ 14,15,〔新〕。

      9 ノアとその家族は,当時の他の人びとと異なっていたことを,どのように実証しましたか。

      9 霊感の下にしるされた歴史はまた,ノアとその家族について述べています。アベルやエノクの場合,当時のエホバの真の崇拝者は彼らふたりだけだった,と断言することはできません。たとえば,アベルは結婚していて,その妻は彼と信仰をともにしていたかもしれないのです。ところが,ノアの時代に,ひとりのまことの神エホバを崇拝していたのは,ノアとその家族だけであり,この点に関して聖書は少しも疑問の余地を残していません。「しかし,ノアはエホバの目に好意を得た。……ノアは正義の人であった。彼は,その時代の人びとの中で,非の打ちどころのない者であることを実証した。ノアは,まことの神とともに歩んだ」のです。「エホバは,人の悪が地にあふれ,人の心臓から生ずる考えの傾向がすべて,いつも,ただ悪いだけなのを見た」といわれる時代に,ノアが,そうした証をたてられたという事実は,彼が当時の人間の世とは,きわ立って異なっていたことを示すものです。ノアが,巨大な物置きのような形の建物を陸上で建てている間,彼とその家族はたいへんな嘲笑をこうむったに違いありません。その建物は,自分と自分の家族,および陸の動物の代表類がその中にはいって,予告された大洪水の期間中,そこで生活するためのものでした。40年ないし50年間,その仕事を続行するには,たいへんな勇気が必要だったでしょう。当時の世の人びととは異なっていましたか。まさにそのとおりです。―創世 6:8,9,5,新。

      族長たちは異なっていた

      10,11 アブラハム,イサク,ヤコブなどの族長は,自分たちが他国人で,寄留者であることを,どのように示しましたか。

      10 次に,族長,また,イスラエル十二支族の最初の家長たちをあげることができます。まず最初はアブラハムです。宗教上のあらゆる慣行,なかでも,ウルの都の守護神である,月の神シンの崇拝に染まっていた人びとのただ中にあって,ひとりのまことの神エホバに信仰をいだいていたアブラハムは,ひときわ異なって目だっていたに違いありません。事実,彼の育った都ウルは,バビロン的な崇拝と宗教の主要都市として,メッカやローマに匹敵するものでした。「汝の国を出で汝の親族に別れ汝の家を離れて我が汝に示さんその地に至れ」と,エホバから命じられたアブラハムは,なおいっそう,きわ立って異なる人となりました。―創世 12:1-3。

      11 アブラハムは,近隣の人びとや知人たちにとって,まるで“雲をつかむような企て”としか思えないような事柄のために,衆人環視のうちにウルを出発したとき,たいへんな嘲笑を浴びせられたに違いありません。また,イサクやヤコブについても,だいたい同じことが言えます。彼らはみな,「自分たちが,その土地では他国人で,寄留者であることを公に宣言した」のです。故国に戻って落ち着こうと思えば,そうすることもできたのですが,それは,自分たちに対するエホバの意志ではないことを,彼らは知っていました。今日のエホバのしもべたちも,現在の事物の体制と,それに属する人びとに関するかぎり,自分たちもまた,居留外人で,寄留者であることを認識すれば,勇気をもって,周囲の世界と異なった生き方をすることができるでしょう。―ヘブル 11:8-15,新。

      12 他と異なっているという点で,ヨセフはどのようにすぐれた模範でしたか。彼は,どのように報われましたか。

      12 また,族長ヤコブに特に愛されたむすこ,ヨセフがいます。聖書の中で,ヨセフの生涯は異彩を放っています。奴隷として売り飛ばされ,エホバの真の崇拝者たちから完全に引き離されてしまったヨセフにとって,行ないや崇拝の点で,周囲の異教の崇拝者たちに迎合し,また,自分のまわりの事物の体制に合わせて形づくられるままにするのは,たいへん容易だったでしょう。彼は清い崇拝と神聖な原則をしっかり守り,そうすることによって,最も強力な誘惑に面しても,忠誠を保った人としての目ざましい模範となりました。そのうえ,エホバに対する忠誠を守ったため,投獄される羽目にあいましたが,ひき続き,確固とした立場を保ちました。ただひとりだけだったヨセフは,それまでの,あるいはそれ以後の多くの人のように,「なんにもならないじゃないか」といって,崇拝や行ないに関し,周囲の人びとの例にならうこともできたでしょう。しかし,そうしませんでした。彼は,当時の事物の体制に合わせて形づくられることを拒み,エホバへの忠実を保ったのです。そのために,エホバは彼をなんと祝福されたのでしょう。ヨセフはエジプトの総理大臣となり,エジプトと自分の父の家族とを救う者となりました。―創世 37:1-36; 39:1–45:28。

      預言者たちの模範

      13,14 エホバのしもべたちは異なっているべきであることを,モーセはどのように立証しましたか。

      13 勇敢にも他と異なっていることを示し,周囲の人びとの不信仰な手本に合わせて形づくられることをしなかった,エホバ神の忠実なしもべは,ほかにもたくさんいます。その中にも,モーセからダニエルの時代,さらにそれ以後に至るまでの,ヘブル人の預言者がいます。パロの宮廷で成人するに及んで,モーセは,周囲の人びとに迎合し,ヘブル人として受けた教育や信仰を忘れ,パロの娘の子としての自分に提供されていた快楽や名声また権力をほしいままにする生活を続けることもできました。モーセは,「エジプト人のすべての学術を教へられ,ことばと業とに能力」があったのですから,なんと有利な立場がその前途にあったのでしょう。―使行 7:22。

      14 しかし,彼は,他と異なっていることに,少しもひけめを感じませんでした。以前,宮廷で交際した人びとは,王位継承者ともあろう彼が,「罪のはかなき歓楽を受けんよりは,むしろ神の民とともに苦まんことを善しとし,キリストによるそしりはエジプトの財宝にまさる大なる富と」みなしたことをあやしみ,ひどくいぶかって,頭を振ったに違いありません。(ヘブル 11:25,26)その歩みのゆえに,彼は,エホバ神との関係において,すぐれた名を確かなものにしただけでなく,それまでの他の不完全な人間のだれよりも強力な器として,神に用いられました。また,なかでも,イザヤ,エレミヤ,エゼキエルなどの忠実な預言者たちは,周囲の堕落したイスラエル人と異なった生き方をする勇気を要求されました。―イザヤ 20:3。エレミヤ 16:2; 7:16。エゼキエル書 4,5章。

      15,16 ダニエルと,その3人の仲間は,自分たちが周囲の人びととは異なっているということを,どんな仕方で示しましたか。

      15 さらに,ダニエルとその3人の仲間の目ざましい模範があります。どんな種類の食物を食べるかという点で,バビロニア王国の事物の体制に迎合するのは,彼らにとって,なんと容易だったでしょう。しかし,そうしませんでした。周囲の人びとに迎合することなく,エホバ神の真の崇拝者として,勇敢にも,きわ立って異なっていたのです。それで,記録はこう述べています。「しかし,ダニエル[と,その三人の仲間]は,王のごちそうと,彼の飲むぶどう酒をもって自分を汚すことはすまいと,その心臓のうちに決意した。そして,彼は……願いつづけた」のです。そうです,彼は,その問題を単に一度だけ持ち出して,努力はしたのだからといって,良心を慰めたのではありません。「自分を汚さないようにすることを,宮廷の長官に」繰り返し願いつづけたのです。ついに,長官は,「この事柄に関して,彼らのいうことを聞き,彼らを十日の間,試みることに」しました。そして,エホバ神は,勇敢な立場を取ったダニエルと,その3人の仲間を,なんと祝福されたのでしょう。王のごちそうを食べることを拒み,質素な野菜の食事(あぶら身や血などのない食べ物)を取ったために,周囲の人びとから受けた嘲笑や侮べつを,ものともしなかった彼らは,3年にわたる訓練期間の終わりに至って,訓練を受けた他の人びとすべてにまさって健康で,賢い者であることがわかりました。―ダニエル書 1章。

      16 また,ダニエルの3人の仲間は,ネブカデネザル王がドラの平野に立てた像に,ひれ伏すことを拒んだため,その際にも,目だった,あるいは,異なった者として映りませんでしたか。その像にひれ伏さなかったかどで,ネブカデネザル王の前に召し出された3人は,高位高官はもとより,下じもに至る幾千人もの人びとの注視の的とされたに違いありません。同様に,ダニエルをなき者にすることをたくらんだ競争相手が,そのための法律を首尾よく通過させた時,ダニエルは,だれにも見えるように窓をあけてエルサレムに向かい,引き続き1日に3度,祈りをささげ,こうして,自分が他の人とは異なっている,ということを示す必要は,なかったのではありませんか。神にひそかに祈ろうと思えば,そうすることもできたのです。しかし,彼は,神に敵する,王の布告に,たとえ表面的ではあっても,自分が迎合している,という印象を,だれにも与えたくなかったのです。ゆえに,勇敢にも,他ときわ立って異なっていることを示した,ダニエルと,その3人の仲間に,エホバは,なんとすぐれた報いをお与えになったのでしょう。彼らは,奇跡的に救い出され,その地位は高められたのです。―ダニエル書 3および6章。

      イエス・キリストの模範

      17-19 イエスがおくすることなく,きわ立って異なっておられたことを示す,その生涯に関する事実をあげなさい。

      17 神の子で,メシヤであるイエス・キリストが到来するとともに,エホバのしもべたちが,きわ立って異なっていることを勇敢に示す必要が,なくなったわけではありません。彼は,エホバご自身の民に現われました。その民は,神と契約関係にあり,神のことばと律法,また,祭司職を持ち,同時に,バプテスマのヨハネによる予備的なわざの恩恵に浴していました。それにしても,その宗教指導者たちに対し,イエスはなんと著しい相違を示されたのでしょう。イエスの行動は,当時の宗教上の習慣や行為とは,まさに対照的でした。彼は,自分が紹介した崇拝という“新しいぶどう酒”と,伝統的なユダヤ教という“古い,ぶどう酒の皮袋”の相違を折衷させる,あるいは軽視するどころか,大胆にも,その相違を,だれの目にもよくわかるように目だたせました。―マタイ 9:14-17,新。

      18 一方,イエスは,権威のある教え方と,地上の一般の人びとと自由に交わることとによって,きわ立って異なっていました。(マタイ 7:29; 9:11)他方,教えた事柄のゆえに,ひときわ異なっておられました。イエスが人を喜ばせようとするかたでないことは,彼の語ったことばから,きわめて明りょうです。行なった種々の奇跡のゆえに,その国民の中で最も人気のある者となり,そのため,彼の敵は,「みよ,世は彼に従へり」と語ったほどです。(ヨハネ 12:19)それにもかかわらず,イエスは,支配者あるいは被支配者の歓心を買おうとしたりはしませんでした。大胆にも,彼はこう語りました。「……と云へることあるを汝らきけり。されど我は汝らに告ぐ」。(マタイ 5:27-48)「なんぢらこの宮をこぼて,われ三日のうちにこれを起さん」。「人の子の肉を食はず,その血を飲まずば,汝らに生命なし」。「まことに誠に汝らに告ぐ,アブラハムの生れいでぬ前より我はあるなり」。まるで,聴衆を驚かし,ゆさぶり動かしたいと思っておられたかのようでした。耳をくすぐるような伝道者ではなかったのです。―ヨハネ 2:19; 6:53; 8:58。

      19 そのあからさまな話し方には,彼の弟子たちさえ,時々驚かされました。ある時,弟子たちはこう言いました。「御言をききてパリサイ人のつまづきたるを知り給ふか」。それで,それらパリサイ人は,自分たちの伝統によって神のことばをむなしくしている,とイエスに言われてつまずいたとすれば,偽善者・へび・まむしの子孫,そして,ほかならぬ悪魔サタン自身の子らと呼ばれて,イエスにきびしく懲らしめられたとき,それはそれは激しく反発したに違いありません。イエスは,語った事柄のゆえに,自分が異なっていることにひけめを感じたりは,決してなさいませんでした。それは,彼が行なったことについても言えます。このことは,2度にわたって,ご自分の父の神殿から,貪欲な両替人たちを追い出した事件からもわかります。―マタイ 15:12; 23:13-39。マルコ 11:15-18。ヨハネ 2:13-17; 8:44。

      同様に,イエスの弟子たちも異なっていた

      20,21 イエスの使徒や初期の弟子たちは,周囲の人びとと異なっていることを,どのように実証しましたか。

      20 イエスの弟子たちは,イエスに見習い,同じ仕方で同じ神を崇拝していたのですから,イエスと同様,仲間のユダヤ人とは異なっていたに違いありません。ナザレのイエスこそ待望のメシヤであって,エホバ神は彼を死からよみがえらせた,という彼らの特異な音信と,その伝道方法の点でも,彼らはきわ立って異なっていました。ペテロと,その仲間の者たちが,イエス・キリストについて,恐れることなく証するのを見た反対者たちは,「その無学の凡人なるを知りたれば,これをあやしみ」ました。そうです,どうして彼らが,教育のない普通の漁師と全く異なる者になったのかをあやしみ,「かつそのイエスとともにありし事を認(め)」ました。―使行 4:13。

      21 イエスの初期の弟子や使徒たちについていえば,わたしたちは,だれよりも使徒パウロについて多くを知っています。彼は,「八日めに割礼を受けたる者にして,イスラエルの血統,ベニヤミンの族,ヘブル人より出でたるヘブル人」で,「律法につきては[厳格で熱狂的な]パリサイ人」でした。クリスチャンになったパウロは,以前の仲間たちのすべてとは,全く異なっていたに違いありません。彼は今や,あまりにも異なっていたため,テサロニケのユダヤ人は,パウロとその同労者たちを,「天下をくつがへした」として,訴えたのです。王アグリッパ2世の前でパウロが弁明した時,「パウロよ,なんぢ狂気せり,博学なんぢを狂気せしめたり」と,フェストが呼んだのも,無理からぬことでした。パウロは,現在の事物の体制に迎合してはならない,と他のクリスチャンに教えただけでなく,教えたことを,確かに実践しました。―ピリピ 3:5,6。使行 17:6; 26:24。ロマ 12:2。

      使徒時代以後のクリスチャンも異なっていた

      22-25 (イ)使徒時代以後のクリスチャンは,彼らの宗教の点で,どのようにきわ立って異なっていましたか。(ロ)カイザルと彼らの関係,(ハ)その道徳,(ニ)互いに対する彼らの愛の点ではどうでしたか。

      22 使徒たちが死の眠りについてまもなく,つまり,「人々の眠れる間に」,敵であるサタン悪魔がやってきて,小麦の畑に雑草の種をまきましたが,小麦の畑が直ちに,雑草のはえる土地と化したわけではありません。(マタイ 13:25)それで,初期の教会史家は,当時のクリスチャンが周囲の人びととはきわ立って異なっていたことを述べています。その相違は,少なくとも四つの別個の事柄に明らかにみられます。そのひとつとして,彼らは宗教の問題で,他の人びとすべてと,きわ立って異なっていました。その信仰内容と崇拝の方式だけでなく,自分たちの宗教だけが真の宗教であるとし,他のすべてを偽りとした,その主張も特異なものでした。そう主張するには,勇気を要しました。それは,一教会史家が述べたとおりです。「クリスチャンにとって,その神は,決して,イシスやミトラ,あるいはアウグスツスと同じ範ちゅうに入れることのできないものであった」。ローマの皇帝たちは,さまざまな宗教を容認しましたが,「ローマの神々および他のあらゆる宗教の神々は等しく偽りである」と教え,かつ,「全人類を,その信仰に引き入れることに努めた」宗教だけは,認めませんでした。

      23 それら初期クリスチャンはまた,当時の事物の体制の他の部分との関係においても,きわ立って異なっていました。彼らは,政府の公職につくことや,カイザルの軍隊にはいることを拒む一方,物質主義を退けました。物質上の富の獲得は,もはや人生の目標ではなくなり,そうした富は,伝道活動を拡大する単なる手段として用いられました。

      24 初期クリスチャンは,道徳面でも,同様に,きわ立って異なっていました。当時のローマおよびギリシア文明の世界には,あらゆる種類の不道徳がはびこり,性的不道徳は人びとの崇拝の一部をさえ成しており。同性愛行為その他の性的倒錯がはやっていました。歴史家は,初期クリスチャンが,この点でも周囲の人びとといかに異なっていたかをしるしています。「われわれは,彼らの非の打ちどころのない生活,申し分のない道徳,その善良な市民生活,また,クリスチャンとしての美徳を裏づける証拠を持っている」。

      25 そして最後に,それら初期クリスチャンは,互いに対する深い無私の愛の点でも,ひときわ異なっていました。そうあるべきであると語られたイエスの次のことばどおりだったのです。「あなたがたが自分たちの間で愛をいだいているならば,それによって,すべての者が,あなたがたはわたしの弟子であることを知るであろう」― ヨハネ 13:34,35,新。

      26 アベルの時から,使徒時代以後の時期に至るまで,エホバのしもべたちに関して,きわ立っている事実をあげなさい。現代については,どうですか。

      26 疑問の余地は少しもありません。霊感による記録も,そうでないものも,エホバのしもべたちは,アベルの時以来,使徒時代以後の初期に至るまで,周囲の人びとと異なっていたことを証しています。しかし,現代についてはどうですか。前述のことは,今もなお真実ですか。次の記事をお読みになれば,そうであることが,おわかりになるでしょう。

  • 世は,あなたの歩みに当惑していますか ― そうあってしかるべきです
    ものみの塔 1970 | 11月15日
    • 世は,あなたの歩みに当惑していますか ― そうあってしかるべきです

      「あなたがたは,こうした道を,放とうの同じ卑しい深みまで,彼らとともに走りつづけないゆえに,彼らは当惑して,あなたがたをば倒しつづけるのである」― ペテロ前 4:4,新。

      1,2 神を喜ばせながら,同時に,世の友でありたいと考える人の歩みが,いかに愚かであるかを示す,聖書の証拠をあげなさい。

      神とキリストに仕えるクリスチャンである,と唱えながら,同時に世の友となろうとする人は,たいへん愚かであるといわねばなりません。この二つの立場に同時に立とうとするのは,水と油を混ぜるようなもので,決してできることではありません。なぜできないのですか。なぜなら,使徒ヨハネが述べるとおり,「全世界は邪悪な者の権力のもとにある」からです。―ヨハネ第一 5:17,新。

      2 それゆえに,イエスの次の警告どおり,世はわたしたちを憎むのです。「あなたがたは世の一部ではなく,わたしがあなたがたを世から選び出したのである。それゆえに,世はあなたがたを憎むのである」。使徒ヨハネが次のようにさとしたのも,もっともです。「世も,世の中のものをも愛していてはいけない。もし,だれかが世を愛するなら,父への愛は彼のうちにはない。なぜなら,世の中のもの ― 肉の欲求,目の欲求,また,自分の生活の資産をはでにひけらかすこと ― はみな,父から生ずるのではなく,世から生ずるからである。そのうえ,世は過ぎ去りつつあり,その欲求も同様である。しかし,神の意志を行なう者は,永遠にとどまるのである」。―ヨハネ 15:19,新。ヨハネ第一 2:15-17,新。

      3 神と世とを同時に喜ばすことに関し,パウロとヤコブは,どんなことを述べていますか。

      3 世は肉の事柄を思う以上,どうしてこのさとしの逆でありうるでしょうか。この点について,こう告げられています。「肉の思うことは,神との敵対を意味しているからである。それは,神の律法に服しておらず,また,事実,服しえないからである。ゆえに,肉に従っている者は,神を喜ばせることができないのである」。それで,イエスの異父兄弟,ヤコブが次のように書いたのも当然です。「わたしたちの神また父の立場から見て,清く,汚れのない崇拝の方式は…世のよごれを持たぬよう,みずからを守ることである」。また,こうしるされています。「姦淫をおこなふ者よ,世の友となるは,神に敵するなるを知らぬか,たれにても世の友とならんと欲する者は,己を神の敵とするなり」。―ロマ 8:7,8,新。ヤコブ 1:27,新; 4:4。

      4,5 聖書と事実が示すとおり,世はどんな行動を追求しますか。

      4 現在の世界は,サタン悪魔の権力のもとにあるのですから,エペソ書 4章17-19節〔新〕で,いみじくもパウロが述べたとおり,邪悪をきわめているのも不思議ではありません。「なんぢら今よりのち異邦人のその〔思い〕のむなしきにまかせて歩むがごとく歩むな。彼らは念暗くなりてその内なる無知により,〔心臓〕の頑固によりて神の生命に遠ざかり,恥を知らず,放縦にすべての汚穢をおこなはんとて己を好色に付せり」。これはなんとはっきりしたことばでしょう。しかも,テモテ後書 3章1-5節に予告されているとおり,このことばは,今日の世界にさらにぴったりとあてはまる,ということを忘れないでください。

      5 そうです,どこを見ても,道徳の退廃があふれています。映画・テレビ・演劇・小説・新聞・大衆雑誌などは不道徳を売り物にし,堕落した欲情を満足させるものとなっています。みだらなシーンや,わいせつ行為のあふれた映画が,“成人向け”あるいは,おとな専用の映画として宣伝されていますが,そうした映画の上映されている劇場は,官能的なシーンを喜ぶ老若男女であふれています。性病が疫病のようにまん延し,私生児の出生がいよいよふえているのも,もっともです。かつては,わいせつなことを好む人は,わいせつをこととする,好色的でみだらな娯楽を提供する場所や読み物をさがすために,いろいろ苦労しなければなりませんでしたが,今ではその逆で,そうしたものが,一時に,あらゆる方面から押しつけられるのです。それで,徳を高める健全な清い娯楽や読み物をたのしむには,うっかりして自分の心臓と思いを汚すことがないように,じゅうぶんに注意し,慎重を期さねばなりません。今後,流行歌は,きそってその同じ方向に進み,性を暗示することばで満たされてゆきます。ダンス音楽や女性のスタイルについても,同じことが言えます。この世は再び,性を崇拝しているのです。ただ,現代の男根崇拝は宗教の名のもとで行なわれていないだけです。しかし,それは偶像崇拝の一種の形式で,きわめて貪欲なものです。―コロサイ 3:5。

      6 人びとがこの世に迎合しようとするのはなぜですか。世の圧力に特に屈しやすいのはだれですか。

      6 滅びに定められた,この古い世は,サタン悪魔の支配下にあって,苦悩し,かつ,道徳的に退廃をきわめています。では,人びとがなおも世に迎合するのはなぜですか。みんなによく思われたい,と考えるのはなぜですか。なかでも,主義の問題で,他ときわ立って異なるのを,ひどく恐れるのはなぜですか。なぜ,「人をおそ(れ)る」わなに捕えられているのですか。(箴言 29:25)それは,行動を律する規則が,しっかりした土台を失ったためであり,精神・道徳・感情・宗教・哲学などの面で確信を失い,動揺しているためです。神のことばの権威を退けた人は,基点となるべきものを持っていません。ですから,そのような人は,「人のあざむきごとと誘惑のてだてたる悪巧とより起るさまざまの教の風に吹きまはされ(る)」「幼童」のような者です。(エペソ 4:14)そして,特に,若い人びとは,人間への恐れ,また,人気を得たい,理解してもらいたい,よく思われたい,わかってもらいたい,という欺きの欲求のわなに陥る危険があります。なかでも,クラスの友だちときわ立って異なって見えることに,ともすると,ひけめを感ずる,それどころか,それをひどくきらう人がいます。それは未熟さのせいです。“変わり者”扱いされることを恐れるのです。

      7 エホバに対する忠実を実証したいなら,どんな事実を甘んじて受け入れねばなりませんか。

      7 しかし,以上の事実すべてから考えて,わたしたちは,世ときわ立って異なっていることを誇りとすべきです。まさにそうあってしかるべきなのです。このことを甘んじて受け入れなければ,エホバへの忠実を実証できません。そうでなければ,不満や失意,あるいは人間への恐れなどのわなに陥ってしまうからです。イエスの次の警告を忘れてはなりません。「すべての人,なんぢらを誉めなば,汝ら禍害なり。彼らの先祖が虚偽の預言者たちになししも,かくありき」。(ルカ 6:26)それとは逆に,わたしたちは,使徒たちのようでありたいと思います。また,そうでなければなりません。使徒たちは,公にはずかしめられ,むち打たれたのち,「御名のために辱しめらるるにふさはしき者とせられたるを喜びつつ」出ていった,としるされています。そうです,他と異なっていることを大いに喜ぶべきです。世がわたしたちの歩みに当惑していること,世が,わたしたちを“げせない”,あるいは理解できないでいること,また,「キリストのために愚なる者」とされた使徒パウロ同様,わたしたちが,たいへん愚かな者とみなされていることを,わたしたちは誇りとすべきです。―使行 5:41。コリント前 4:10。

      エホバに対するあなたの崇拝に当惑する

      8,9 わたしたちの信仰と名前の根拠に関する,どんな点に,世は当惑しますか。

      8 あなたは,弟子を作る,良いたよりのりっぱな奉仕者ですか。そうであることを実証するなら,世はあなたの行動に当惑するでしょう。使徒パウロがテモテ前書 6章20節でさとしているように,この世の誤った知識を退けて,聖書を受け入れることがどうしてできるのかを世はどうしても理解できません。『神は偽ることができない』という立場を取り,「人はみな偽り者であっても,神は真実であることを認めさせ(る)」ゆえに,あなたは変人または,愚か者とみなされるでしょう。「あなたはほんとうに聖書を信じているのですか。その全部をですか。そんなばかな,時代遅れもはなはだしいことです。単純すぎますよ」。いぶかしそうに,こう尋ねる人に会うことでしょう。―ヘブル 6:18,ロマ 3:4,新。

      9 また,エホバの名を用い,自分がその証人のひとりであることを明らかにするなら,世はあなたの歩みに当惑するでしょう。世の人びとは,それを奇妙な名前と考え,ヘブル語聖書の神を嘲笑し,エホバとは,血に飢えた軍神,また,ユダヤ人の民族神であると言います。しかし,あなたの用いる名称は,「ルーテル派」「メソジスト」「バプテスト」「クエーカー」などの,キリスト教世界の多数の宗派名のような単なる呼び名ではありません。それどころか,イザヤ書 43章10-12節(新)にしるされているとおり,エホバ神ご自身がそのしもべたちの名称を次のように示されたのです。「エホバはこう言われる。『あなたがたはわたしの証人であり,わたしの選んだ,わたしのしもべである。……わたしは神である』」。

      10 わたしたちの崇拝の方式に関する,どんな事柄のゆえに世は当惑しますか。

      10 また,毎週開かれている,会衆の五つの集会に,天候のいかんを問わず,定期的かつ熱心に出席するなら,この世はあなたの歩みに当惑するでしょう。スポーツの試合,その他の娯楽などに目もくれず,聖書の集会に行くあなたは,狂信者としてのらく印を押されるかもしれません。仲間のクリスチャンとともに集まることをやめてはならない,という使徒の助言に忠実に従って,いったいどうして“楽しい”のかが,世の人びとには理解できません。この世で最も宗教熱心とされる人びとでさえ,神が求めておられるのは,1週間に1回,集会に行くことであると考えているのです。―ヘブル 10:24,25。

      11,12 わたしたちが携わる,どんな神権的活動は,世を当惑させるものとなっていますか。

      11 同時に,ヨハネ伝 2章17節にあるように,イエスが表わした燃えるような熱心さを示すなら,あなたのこの世の知人は当惑するでしょう。良いたよりを伝え,弟子を作るため,街頭に立って雑誌を人びとにすすめ,天候のいかんを問わず戸別訪問をし,退けられるのを覚悟で,偶然の証言をするあなたを見て,気が変になったのではなかろうか,と人はあやしみます。どちらかといえば,人は神とイエス・キリストのために何ほどのこともしたいとは考えていないのですから,理解することなどとてもできません。

      12 そして,特に,良いたよりのために,文字どおり,すべてをあとにして,あなたの模範者,イエス・キリストに従い,開拓奉仕,宣教者奉仕,ベテル本部での奉仕にはいる場合,世はあなたの歩みに当惑するでしょう。イエスの使徒たちのようになって,クリスチャン宣教のために,家族・友人・家・土地・経済的に安定した地位・有望な仕事をあとにする必要がどこにあるのか,世の人びとにはどうしても理解できません。何かの宗教を持つのは,良いことですが,『とんでもない。それほどまでに真剣に考えなくても,よさそうなものに』というのが,世の考え方です。しかし,イエスがペテロに語ったことばが,マルコ伝 10章28-30節にしるされているとおり,こうした全時間宣教こそ,人間の携わりうる最も報い多い仕事なのです。それに携わる人は,現在の生活および現在の事物の体制において,家・兄弟・姉妹・母の百倍を受け,それとともに,間近に迫った新しい事物の体制における永遠の命にあずかる希望を得るからです。クリスチャン宣教に熱心に携われば携わるほど,世はあなたの歩みに当惑させられるのです。このことには疑問の余地がありません。

      あなたの中立の立場に当惑する

      13,14 政治問題に対するクリスチャンのどんな態度は,多くの人を当惑させるものといえますか。

      13 また,世の諸国家の政治や戦争に関して,クリスチャンの中立の立場に堅くつき従い,さらに,キリストの王国はこの世の一部ではなく,クリスチャンの国籍は天にあるという立場を取るなら,世は,あなたの歩みに当惑するでしょう。(ヨハネ 18:36。ピリピ 3:20)善意を持つ人はすべて,公民権運動のたぐいを支援し,すぐれた立候補者や政党また綱領などを支持し,なかでも,恒久平和のための人類の唯一の希望とされる国際連合を支持すべきである,と世の人びとは考えます。キリスト教世界,また,他の宗教世界のいずれを問わず,僧職者のほとんどすべてが,政治に深く介入しているのですから,あなたがそうしない理由を理解できないのです。

      14 それとともに,国旗敬礼をしたり,国歌がうたわれでいるときに起立したりなどして,愛国心をあからさまに表明することをしないと,世は,あなたの歩みに当惑するでしょう。そして,剣をすきの刃に,やりを刈り込みばさみに打ち変えることにあずかり,したがって,軍服を着て戦場におもむき,仲間の人間を殺すことを拒むあなたの秘められた動機を,おそらく非難するでしょう。世の人は尋ねます。「もし,みんなが,あなたのような信仰を持って行動したなら,われわれはいったいどうなるのか」。もし,みんながそうするなら,確かに戦争などはなくなってしまうでしょう。それこそ,願ってもないことではありませんか。―イザヤ 2:4。

      聖書の原則につき従うあなたに当惑する

      15 ペテロの時代のクリスチャンは,どうして世を当惑させる者となりましたか。

      15 同様に,私的な行為に関するクリスチャンの原則につき従うと,世は,あなたの生き方に当惑するでしょう。使徒ペテロが,初期クリスチャンに書き送ったとおりです。「あなたがたが,みだらな行ない,愛欲,ぶどう酒の暴飲,飲み騒ぎ,飲みくらべ,また,不法な偶像崇拝をつづけ,諸国民の望むことをやって過ごした時代は,それで十分だからである。あなたがたは,こうした道を,放とうの同じ卑しい深みまで,彼らとともに走りつづけないゆえに,彼らは当惑して,あなたがたをば倒しつづけるのである」。(ペテロ前 4:3,4,新)世の性道徳が,大洪水前,また,昔のソドムとゴモラにおけるほどにすたれている今,次の賢明な助言に,あなたがなぜ聞き従うのか,世の人は理解できません。「淫行や,あらゆる種類の不潔なこと,あるいは,どん欲を,あなたがたの間では,神聖な人々にまったくふさわしく,口にすることさえしないようにしよう。また,恥ずべき行ない,愚かな話,あるいは,わいせつな冗談をいうこともしないようにしよう。それらは,ふさわしいことではない。むしろ,感謝をささげることをしよう」― エペソ 5:3,4,新。

      16,17 (イ)エホバのしもべたちは,従業員としての正直さに関し,(ロ)カイザルに返すべきものを返すことに関し,どのように世ときわ立って異なっていますか。

      16 また,雇用関係など,仕事上の問題に関する正しい原則につき従う態度に,世は当惑させられます。できるだけ少なく働いて,給料あるいは手当をもらうこと,また,仕事の手をぬいたり,中休みを長びかせたり,責任を回避したりなどすることは,上手なやり方とされています。クリスチャンは,コロサイ書 3章22,23節の助言に従い,与えられた仕事はなんでも,魂をつくして行ないますが,世の人びとには,それが理解できません。事実,雇い主のものを盗んで,なんとも思わない人がいるのです。たとえば,ニューヨーク市の主要な空港でのこと,あるレンタカーの会社は,相当量のガソリンが失われていることに気づき,ガソリンの盗用者を見つけるため,ひそかにテレビを設置しました。そして,自社の従業員20人中,18人がガソリンを勝手に自分の車に移しかえているところを見つけられ,全部,解雇されました。解雇されなかったのは,ふたりだけでした。頭をひねった経営者は,そのふたりに,会社のガソリンを盗用しなかったのはなぜか,と尋ねました。ふたりは答えました。「ご存じのとおり,わたしたちはエホバの証人なのです」。そのひとりは,店の責任者になってはどうかとの相談を受けましたが,辞退したため,経営者側は,またも当惑させられました。彼は,王国の良いたよりを伝道し,他の人を弟子とするわざに携わっていたので,店の責任者として働くほどの時間と余力がなかったのです。一方,会社のガソリンを横領した,それら18人の従業員は,証人たちがそうしないので,当惑したに違いありません。今日,正しいことをすると,人びとは当惑するのです。

      17 また,国の法律すべてに服し,マタイ伝 22章21節にあるとおり,カイザルのものをカイザルに返すと,世は当惑します。それに,世の人びとは,政府との関係において,税金・交通規則その他,あらゆる事柄で,できるかぎり上手にごまかすことをよしとしており,エホバの証人がそうしないのを見て,驚いています。たとえば,1967年の春,ニューヨーク市の住居検査官ふたりが,ブルックリンのベテル・ホームを検査しましたが,実際を見て,驚くばかりでした。検査官たちによれば,こんな良い報告は,上司に信じてもらえまいとのことでしたが,案の定,翌日,上司たちがやってきました。ブルックリンのベテル・ホームの管理者が,はたして良心的に建物内の安全性と清潔さを保ち,また,防災処置を講じているかどうかを確認するためでした。規則違反として報告できるようなことを一つも見いだせなかった上司たちは,案内をした人たちの証言に熱心に耳を傾けました。

      18,19 物質上のものに対するクリスチャンのどんな態度は,多くの人を当惑させていますか。

      18 この世は,物質主義の考えを持つ人びとで構成されています。そうした人びとは,生来,人間に備わっている感覚でとらえて楽しめるものしか理解できません。あなたが物質主義の考えをもたず,そして,虫やさびがついてだめにされたり,盗人にはいられて盗まれたりする地上に宝を積まないで,永続する天に自分のために宝をたくわえるようにとのイエスのことばに聞き従うと,世の人びとは当惑します。神の王国と神の正義を第一に求めつづけるので,人びとは当惑するのです。彼らは,存在さえ信じられないもの,つまり,1914年以来,王として統治するキリストの治める,エホバ神の天の王国を,わたしたちがどうして生活の中で第一にしうるのかを理解できません。―マタイ 6:33,新。黙示 11:15-18。

      19 世の人びとは,富や栄誉また人気を得る競争で他に先んずること,また,隣人におくれをとらないようにすることに気をつかいます。次の賢明な助言に聞き従うあなたを見て,世は当惑します。「足ることを知りて敬虔を守る者は,大なる利益を得るなり。我らは何をも携へて世に来らず,また何をも携えて世を去ることあたはざればなり。ただ衣食あらば足れりとせん」。利己的な野望を持たないわたしたちは,世の人びとにとって奇妙に思えるかもしれません。しかし「あらゆる種類の有害な事柄の根」である「お金に対する愛」は,たいへん愚かなものといわねばなりません。―テモテ前 6:6-9,10,新。

      20 クリスチャンの間に見られる,どんな状態を,世は理解できませんか。

      20 利己主義の考えに染まっている人びとは,個人個人も,また家族としても,自分たちのことだけしか考えないため,クリスチャンが,愛,すなわち,無私のアガペー愛を表明するので,世は当惑します。そして,愛に関するコリント前書 13章のパウロのことばに聞き従うあなたをあやしみます。愛は,自分個人の事柄を求めず,感情を害されても,それをいつまでも根に持たず,すべてのことをしのび,希望を持ち,忍耐することです。クリスチャンがどうして自分自身の事柄のみならず,他の人の事柄にも個人的な関心を払い,かつ,イエスがご自分の追随者たちに示した愛をいだけるのか,世の人びとは理解できません。―ヨハネ 13:34,35。ピリピ 2:4。

      クリスチャンの若い人たちに当惑する

      21 自分たちの仲間と異なっているために,特に試みられる人たちがいます。それはだれですか。また,なぜですか。

      21 世の若者たちは,他の人びとすべてにもまして,あなたがたクリスチャンの若い人たちの歩みに当惑しています。実際,若い人たちは,たいへんむずかしい役割を果たさねばならないといえるでしょう。なぜなら,今日,反抗・暴力・犯罪などの面で主役を演じているのは,若者たちだからです。予告されてさえいたように,「親に対して不従順」な彼らは,あなたがたクリスチャンの若い人たちを冷笑し,あざけり,嘲笑します。あなたがたが父母を敬い,年長者に敬意を示し,あらゆる事において,主にある親に服するからです。クリスチャンの少年なら,髪の刈り方の点で,学校の友だちにならわずにいるには,勇気がいります。クリスチャンの少女が,友だちにならってミニスカートをはかないようにするにも,同じことがいえます。―テモテ後 3:2,新。エペソ 6:1-3。コロサイ 3:20。

      22,23 清い崇拝のために,しっかりした立場を取る人は,ときどきどのように報われていますか。

      22 あなたが,あまりにも多くのことを問題にするので,学校の友だちは当惑するかもしれません。誕生日や万聖節のパーティー,クリスマスその他のバビロン的な祝い,国旗敬礼や愛国的な歌をうたうことなどに,あなたは加わらないでしょう。しかし,クリスチャンの若い人たちが,確固とした立場を取ったために,事態がどう発展したかを知るなら,きっと驚かれるでしょう。まだ,最近のことですが,そのような若い人のひとりで,行ないの模範的な生徒が,そうした宗教的で愛国的な歌をうたおうとしなかったので,自分がうたいたいと思う歌詞を一つ学校に持ってくるように,担任の先生に言われました。そこで,彼は,「心に音楽をかなで…歌いつつ」と題する,歌の本を持ってゆき,自分の大好きな歌として,109番,「我こゝにあり我をつかはしたまへ」と題する歌を示しました。先生は,謄写版でその歌のコピーを作らせ,校内で行なわれる余興の一つとして,クラス全員でそれを歌うことにし,先生は,その少年の大好きな歌の一つとして,それを紹介したのです。なんとすばらしい証言がなされたのでしょう! その歌詞はエホバのお目的をよく描写したものだからです。

      23 それで,あなたがたクリスチャンの若い人たち,あなたがたが異なっているゆえに,また,スポーツ,パーティー,行楽など,正課外の活動に付随する種々の交わりを持つ時間がない,あるいは,それを好まないゆえに,学校の友だちが冷笑し,あざけり,嘲笑するのであれば,そうさせておきなさい。あなたがたは,そうした事柄に関係を持つことが,どうしてもできないのです。あなたがたは,彼ら以上の,はるかに賢明な目標を持っているのです。今,個人的に研究し,集会に出席し,野外宣教に携わり,そうした目標に向かって働きはじめなさい。休暇開拓の活動にあずかりなさい。それは,あなたの身の守りになるとともに,数多くの豊かな祝福の源となるでしょう。

      24 使徒パウロは,クリスチャンが他と異なっていなければならないことを強調した,どんな賢明な助言を与えていますか。

      24 前述の事柄すべてを考えると,聖書の次の賢明な助言は,いかにも適切です。「あなたがたは,むなしいことばをもって,人に欺かれてはならない。……神の憤りが不従順の子らにふりかかっているからである。それゆえ,彼らに関与する者となってはならない。あなたがたは,かつては,やみであったが,今は,主との関係において,光となっているからである。光の子どもたちとして歩きつづけなさい。光の結ぶ実は,あらゆる種類の善良さと,正義と,真理とで成っているからである。何が主に受け入れられるものであるかを,確かめつづけなさい。そして,やみに属する,実を結ばないわざに彼らとともにあずかることをやめなさい。むしろ,それらをとがめさえしなさい。それで,あなたがたの歩き方が,賢くない者のようではなく,賢い者のようであるように,厳重に注意し,自分自身のために,都合のよい時間を買い取りなさい。今は邪悪な時代だからである。……エホバの意志がなんであるかをわきまえつづけなさい」― エペソ 5:6-11,15-17,新。

      25 アベルの時代から現代に至るまで,エホバのしもべたちは,どんな歩みを取ってきましたか。その正しさが立証され,報いを受けるのはいつですか。

      25 アベルから,キリストの使徒たちに至るまで,エホバの忠実なしもべたちは,きわ立って異なっていたことを,神のことばは示しています。世は彼らを理解できませんでした。彼らを見て,当惑しました。なぜなら,それらのしもべたちは,エホバ神の清い崇拝に携わり,常に世から離れており,また,エホバの正義の原則に従って生活したからです。世は,あなたの歩みに当惑していますか。そうあってしかるべきです。また,あなたが,それらエホバの忠実なしもべたちの模範に従い,かつ,現在の事物の体制に迎合しない勇気を持っているなら,世は当惑するでしょう。世の人びとは,神は死んだ,と言い,それが事実でもあるかのようにふるまいます。しかし,近づく「大かん難」に際し,まもなく,『神の憤りが不従順の子らにふりかかる』時,世はエホバ神が宇宙の全能の至上者として,まさに生きておられることを知らされるでしょう。(黙示 7:14,新)そして,その時,エホバのしもべたちの,世と異なった歩みの正しさは,十分に立証され,報われるでしょう。

  • 忠実な一老人の模範
    ものみの塔 1970 | 11月15日
    • 忠実な一老人の模範

      ◆ チェコスロバキアの老齢の兄弟たちは,現在,エホバのわざにそれほど多く携われない場合がありますが,その忠実な歩みと,集会に定期的に出席する点で,会衆にとっては至宝的な存在となっています。ある会衆において,若い婦人は,深い関心をいだいたからではなく,両親を喜ばせたいばっかりに,時おり集会に出席していました。最近,その婦人は,ある集会で,高齢の一兄弟が出席しているのに気づきました。その老人は病弱で,歩くことにも,話を聞くことにも困難を感じていることがわかりました。「いったい,こんな老人が出席したところで,何になるのだろう」と人は思ったかもしれません。その集会の終わりに,その老人は祈りをささげるようにと求められました。その祈りがほんとうに暖かみのこもったものであったので,前述の無関心な若い婦人は深く感動し,かつ驚かされました。同時に婦人は,その老齢の兄弟が,会館まで約2キロも歩かねばならないにもかかわらず,いつも集会の始まる15分前には会館にいることを思い出しました。こうして,突然深い感銘を受けた婦人は,それは非常に重要な事柄にちがいないとの結論に達しました。そして,その婦人は聖書を研究しはじめました。今度は,学んだ事柄を自分だけのものとはせず,その婦人はこれまでに,聖書に関心を持つ人々を5人見いだしました。そして,これほど幸福なことははじめてですと書き寄せてきました。このすべては,老齢の一兄弟の示した良い模範から生じたのです。

      ― エホバの証人の1970年度年鑑より

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