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喜びに満ちた心をもってエホバに仕えなさいものみの塔 1983 | 2月1日
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喜びに満ちた心をもってエホバに仕えなさい
「歓びをもってエホバに仕えよ。喜びの叫びをもってそのみ前に来るように」― 詩編 100:2。
1,2 ここに,人生に関するどんな対照的な見解が引用されていますか。
「私は人生を台なしにしてしまいました。今,変えようと思っても手遅れです。……独りで散歩に出かけるときに自分の人生を振り返りますが,自分の生き方には満足していません」。女優としての名声を既に得ていて,幸せであるべき当然の理由がありそうに見えたある老齢の婦人はそのように語りました。しかしこれは,明らかに真の喜びに満ちた心から出た言葉ではありません。
2 それとは対照的な,37年以上も麻ひと闘い続けてきたある男の人のことを考えてみてください。一見,このような人には喜ぶべき理由など余りないように思えます。ところがこの人は幸福について語り,「人生を真に意義深い,報いのあるものにする」秘けつを見いだしたと述べています。
3 (イ)どんな個人的な経験から,真の喜びを持つことのできる人がいるかどうかについて疑問が生ずるかもしれませんか。(ロ)喜びをどのように定義できますか。
3 わたしたちのほとんどは,長期にわたる苦しい病気との闘いに耐えなければならなかったわけではありません。また,芸能人として世界的に有名になってもいません。恐らくわたしたちは,日々の思い煩いや生活の難しい問題に直面しなければならないごく普通の人間でしょう。わたしたちの経験は,「女から生まれた人は,短命で,動揺で飽き飽きさせられ(る)」ことを証明しており,わたしたちは,「創造物すべては今に至るまで共にうめき,共に苦痛を抱いている」ということに同意するはずです。(ヨブ 14:1。ローマ 8:22)その理由で,地に住む人の中に真の喜び ― つまり「良いもの,あるいは満足をもたらすものによって生じる深い歓喜また幸福な感情」― を持つ人がいるのかという疑問が当然生じます。あなたはどのように考えていますか。喜びは本当に得ることのできるものですか。
あなたは見いだせますか
4 真の喜びを味わっている非常に多くの被造物の中に,だれがいますか。
4 非常に多くの被造物が喜びを味わっています。天にいる義にかなったみ使いたちは,喜びをもって『神の言葉を行ない』ます。(詩編 103:20)み使いたちは常に真の喜びをもってエホバ神に仕えてきました。地の基が置かれた時,これらの『明けの星は共々に喜びにあふれて叫びました』。(ヨブ 38:4-7)イエスの誕生を発表した忠実なみ使いは,確かに喜ばしい使命を帯びていたのです。「大きな喜びとなる良いたより」をふれ告げていたからです。―ルカ 2:8-14。
5 喜びに関して,神の独り子はどんな経験をしてこられましたか。
5 では,「神の独り子」についてはどうでしょうか。(ヨハネ 3:18)人間イエス・キリストになる前,この方は天においてエホバの「優れた働き手」でした。その奉仕は喜びに満ちたものでしたか。確かに喜びに満ちたものでした。『[わたしは]神[エホバ]が日々特別の親愛の情を抱く者となった。わたしはその前で常に喜んだ』と記されているからです。(箴言 8:22-31)人間として地上におられた時も,イエスは神のご意志を行なうことを喜びました。(詩編 40:6-8。ヘブライ 10:5-10)それだけでなく,「この方は,自分の前に置かれた喜びのために,恥を物とも思わず苦しみの杭に耐え,神のみ座の右に座られ(ました)」。(ヘブライ 12:2)間もなく神からの裁きを地上に明らかに示される「幸福な唯一の大能者」として,イエス・キリストは現在,本当に喜びに満ちた心をもってエホバに仕えています。―テモテ第一 6:13-16。テサロニケ第二 1:6-10。
6 今日あなたは何に喜びを見いだすことができますか。
6 では,今日あなたは喜びを見いだせるでしょうか。確かに見いだせます。身体的な苦しみを負った前述の男の人はその方法を示してこう述べています。「最大の幸福は神への奉仕にあるということの真実を私は体験してきました。神への奉仕は人生を真に意義深い,報いあるものにします。麻ひしたからだであっても,創造者に仕える特権と祝福をそのために奪われることはありませんでした」。心からエホバ神に自分をささげたこれらの人々の中には,真の喜びが見られます。それは当然のことです。彼らは,「幸福な神」からの「良いたより」―「天の王国」の支配下での壮大な祝福に囲まれて享受する終わりのない命に関する,人を元気付ける音信を宣明しています。(マタイ 24:14。テモテ第一 1:11。マタイ 5:3)ですから,彼らには,「歓びをもってエホバに仕え」,「喜びの叫びをもってそのみ前に来る」理由があるのです。―詩編 100:2。
7,8 (イ)エホバに自分をささげた人々が,喜びを得ているとはいえ,いつも浮き浮きした気分でいるわけではないのはなぜですか。(ロ)生活上の困難な問題が,エホバの民を意気消沈させることがないのはなぜですか。
7 このことは,神に自分をささげた人はいつも浮き浮きした気分でいるという意味ではありません。不完全な人間社会においては,エホバの民も時に何らかの悲しみを味わいます。(ローマ 5:12)例えば,エサウがヒッタイト人の女を妻として迎えた時,「これらの女たちは[神を恐れる親である]イサクとリベカに苦々しい霊を抱かせるものとなった」とあります。(創世記 26:34,35)さらに,サタン悪魔はあからさまな迫害や間接的な「巧妙な行動」により,クリスチャンが持つエホバとの貴重な関係を打ち砕こうと必死になっています。(エフェソス 6:11,ギリシャ語聖書王国行間逐語訳)したがって,神を愛する人々は,人生航路に何らかの困難が生じることを予期できるのです。それでも,これらの困難な事態がエホバの民を意気消沈させることはありません。彼らは「聖書からの慰め」を得,神の霊と,霊の実である喜びを培う面での助けを,確信を持って祈り求めます。(ローマ 15:4。ルカ 11:13。ガラテア 5:22,23)生活上の試練があるとしても,クリスチャンは「聖霊の喜び」を持つことができます。(テサロニケ第一 1:6)とりわけエホバからの祝福は,その喜びに寄与します。
8 エホバの祝福は,確かに人を富ませます。(箴言 10:22)しかし,読者がクリスチャンであるなら,自分の祝福を数えたことがありますか。それらの祝福はあなたを『エホバにあって歓ば』せるものとなるはずです。(詩編 32:11)自分が得ている祝福のほんのわずかを考えるだけで,喜びに満ちた心をもってエホバに仕える十分の理由を見いだすでしょう。
比類のない喜ばしい特権
9 エホバを知るとはどういう意味ですか。このことは,喜びとどんな関係がありますか。
9 エホバを知りエホバに仕えるのは何にも比べられない祝福です。神は預言者エレミヤを通して次のように言われました。「自慢する者はこのことのゆえに,すなわち洞察力を持っていることと,わたしについて,わたしがエホバであり,愛ある親切,公正そして義を地に行なう者であるという知識を持っていることとのゆえに自慢せよ」。(エレミヤ 9:24)当然ながら,神のみ名に関する知識を持っているだけでは十分ではありません。エホバを知るとは,エホバの特質,物事の扱い方,態度,目的を知ることを意味します。エホバに従い,エホバの権威を認めてそれに服すことを意味しています。(ヨハネ第一 5:3)聖書を勤勉に学び,み父と完全に調和している神のみ子の言葉や行ないについて黙想するなら,神との個人的で親密な関係を得ることができます。(ヨハネ 1:18; 14:9-11)このようにしてエホバを知る人々は確かに喜びに満たされます。実際,「神[エホバ]はご自分のみ前にあって善良な人に,知恵と知識と歓びとをお与えになった」のです。―伝道の書 2:26。
10 人間の命を用いる点で,最も有意義で,最も満足を与える方法とはどんなものですか。
10 まことの神に「神聖な奉仕」をささげるという計り知れないほどの特権は,エホバの証人たちが得ているもう一つの祝福です。これ以上に有意義な,これ以上に満足を与える方法で命を用いることはだれにもできません。確かにゼカリヤ(バプテスマを施す人ヨハネの父親)は,エホバが,いつの日も「み前で忠節と義とをもって恐れなく神聖な奉仕をささげる特権」をご自分の民にお与えになったことについてエホバを賛美し,その点を見事に言い表わしました。―ルカ 1:67-79。ローマ 12:1; 啓示 7:9,13-15と比較してください。
11 喜びを生み出すどんな特権は,神に「神聖な奉仕」をささげることと関係がありますか。
11 エホバの証人としてエホバのみ名を担う特権は,神に「神聖な奉仕」をささげることと関係しています。(イザヤ 43:10-12)それは確かに喜びを促進するはずです。まさにエレミヤが述べた通りです。「わたしにとってあなたの言葉はわたしの心の歓喜となり,歓びとなります。万軍の神エホバよ,わたしはあなたのみ名をもってとなえられたからです」― エレミヤ 15:16。
12 落胆した場合には,どのような対照的な事柄を考えることにより,気分が晴れるかもしれませんか。
12 神に仕えていても時々落胆するのであれば,対照をなす事柄を何か少し考えてみると,気分が晴れるかもしれません。例えば,邪悪なみ使いたちが,神からの不利な裁きを受けるために『とこしえのなわめをもって濃密な闇のもとに留め置かれている』ことを考えると,エホバの奉仕にあずかっている義なるみ使いたちの境遇は,一層喜ばしいものとして際立ってきます。(ユダ 6)そして,喜びに満ちたイエスの立場と,とこしえの滅びに直面しているサタン悪魔の立場は何と著しい対照をなしているのでしょう!(啓示 20:10,14)さらにまた,エホバの憐れみ深いお世話と祝福に注目すれば,「義なる者と邪悪な者,神に仕える者と仕えなかった者との相違」を理解するのは確かに容易になります。(マラキ 3:17,18)しかし,喜びの心をもってエホバに仕えるための明確な理由となる,さらに別の祝福についても考えてみましょう。
真の自由と霊的な光
13,14 宗教的に言って,エホバの僕たちはどんな真の自由と霊的な光を得ていますか。
13 偽りの宗教の世界帝国「大いなるバビロン」からの解放は,確かに喜びを促進するもう一つの祝福です。真のクリスチャンは,自分たちが,『彼女の罪にあずかることも,彼女の災厄を共に受けることも』ないのでうれしく感じます。(啓示 18:2,4)加えて,エホバの僕たちは偽りの宗教に伴う恐れや作り話からの自由を得ています。「[あなた方は]真理を知り,真理はあなた方を自由にするでしょう」とイエスは言われました。(ヨハネ 8:32)この真の自由は,霊的な暗闇にいる人々の隷属状態を考えると,なお一層貴重なものに思えます。
14 例えば,偽りの宗教の数多くの信奉者とは違い,エホバの崇拝者たちは,話すことも,見ることも,聞くことも,かぐことも,触ることも,歩くこともできない像の前に身をかがめたり,そうした像に祈ったりすることはありません。(詩編 115:4-8)それに,霊的な自由を得,啓発を受けたクリスチャンは,地上に住む多くの人々とは違い,死者を恐れることがありません。人間には不滅の魂があるという偽りの宗教の教えは,死んだ人が戻って来て生きている人に付きまとったり苦しみを与えたりするかもしれないという恐れの気持ちをはぐくんでいます。しかし神からの霊的な光はこうした恐れを払いのけました。真のクリスチャンは,死者には『何の意識もない』ことを知っているからです。(伝道の書 9:5,10)神の記憶にとどめられている亡くなった愛する人々が,復活を経験するのを知ることは,それよりもはるかに健全なことです。(ヨハネ 5:28,29。使徒 24:15)確かに,エホバの献身的な証人たちは,自分たちが一つになって仕える天の父が,その聖霊により彼らに「神の奥深い事柄」を啓示してこられたことを喜べます。(コリント第一 2:10)そうです,神はご自分の民に,喜びを生み出す霊的な光と真理とを与えておられるのです。―詩編 43:3。
他の人々を助けることの喜び
15,16 (イ)イエスの初期の弟子たちが『自分たちの光を輝かせた』とき,何が生じましたか。(ロ)今日のクリスチャンは弟子を作る業においてどんなことを経験しますか。
15 霊的な光を反映することも祝福です。イエスはご自分の追随者たちにこう言われました。「あなた方は世の光です。……あなた方の光を人々の前に輝かせ,人々があなた方のりっぱな業を見て,天におられるあなた方の父に栄光を帰するようにしなさい」。(マタイ 5:14-16)それら初期の弟子たちが言葉と行動によって『自分たちの光を輝かせた』とき,何が生じましたか。他の人々も益を受けましたが,こうした活動はキリストの追随者自身にも喜びをもたらしました。(ルカ 10:1,17-20。使徒 8:4-8)確かに,これら弟子を作る人々は,喜びに満ちた心をもってエホバに仕えていました。―マタイ 28:19,20。
16 今日のクリスチャンも,王国の音信をふれ告げる業において,同様の喜びを経験します。特に,神の真理の知識を得るように助けた人々に関して,このことは真実となっています。使徒パウロはこの種の喜びを得ていました。自分が援助したフィリピの人々は自分の「喜びまた冠」であったと述べているからです。(フィリピ 4:1)同使徒は自分がテサロニケで援助した人々に関して,こう書きました。「わたしたちの主イエスのみ前,その臨在の際に,わたしたちの希望,喜び,また歓喜の冠となるものは何でしょうか ― それは実にあなた方ではありませんか。確かにあなた方は,わたしたちの栄光また喜びなのです」。(テサロニケ第一 2:19,20)そうです,パウロは今日のクリスチャンと全く同じく ― 霊的な面で自分が援助した人々に喜びを見いだしました。あなたはエホバの奉仕に励み,このような喜びを味わっていますか。
17 ある地域では結果が限られているとしても,エホバの証人が弟子を作る業に喜びを見いだすのはなぜですか。
17 今日,証しを行なっても限られた結果しか得られない地域もありますが,エホバの証人は自分たちが神に喜んでいただいていることや,神を賛美していることを知って喜びを得ています。ある家の人は,エホバの証人が戸口に現われることを好ましく思っていませんが,それでもこのことは真実です。エホバの僕たちはそのことで落胆しません。神に仕えることこそ,地上のだれもが享受し得る最も優れた特権であることを知っているからです。
迫害でさえ喜びをもたらす
18 クリスチャンが,迫害を受けても喜べるのはなぜですか。
18 迫害を受けることが多いとしても,クリスチャンは喜びに満ちた心をもってエホバに仕えます。イエスは,ご自分のために迫害される人々は幸いであると明言されました。また使徒ペテロもこう述べました。「キリストの苦しみにあずかる者となっていることを歓びとしてゆきなさい。それは,彼の栄光の表わし示される時にも,あなた方が歓び,また喜びにあふれるためです。キリストの名のために非難されるなら,あなた方は幸いです」。なぜでしょうか。ペテロはこう述べます。「栄光の霊,すなわち神の霊があなた方の上にとどまっているからです」。(ペテロ第一 4:13,14。マタイ 5:11,12)クリスチャンであるために迫害を経験することは祝福ではないように思えるかもしれませんが,そうした苦しみを忍ぶなら,あなたは神の霊と是認の証拠を得ることになるのです。その事実こそ確かに喜びを促すものです。
19 ナチによる迫害の犠牲者となったある人は,どのように自分の意見を述べましたか。
19 エホバがお与えになる神の聖霊と力を持っているので,迫害されるクリスチャンは極限状況のもとでも喜びを保てます。(フィリピ 4:13)何年か前,不当にも死刑の宣告を受けたある若いエホバの証人は,ナチの強制収容所から両親にあてて次のような手紙を書きました。「すでに真夜中が過ぎました。自分の考えを変える時間はまだ残っています。しかし,わたしたちの主を否定したあと,この世で再び幸福にすごせるでしょうか。決してできません! しかしわたしは幸福と平安のうちにこの世を去る覚悟ですからご安心ください」。そうです,迫害されるクリスチャンたちは,確かに喜びに満ちた心をもってエホバに仕えます。
喜ぶべき他の理由
20 仲間の信者たちと交わることによって,喜びはどうなりますか。
20 エホバの証人は自分たちが耐え忍ばねばならない迫害があるにもかかわらず,仲間の信者たちとの交わりにおいて真の喜びを経験します。何という祝福でしょう! 不正直と偽りと悪行に満ちるこの世にあって,「新しい人格」を身に着けた仲間たち,正直でうそを言わない廉直な仲間たちを持つのは本当に良いことです。(コロサイ 3:8-11)それに,自分自身の行状がエホバの心を喜ばせるものであることを知るのも大きな満足をもたらします。―箴言 27:11。
21 真の崇拝の関心事を喜びのうちに促進する方法には,どんなものがありますか。
21 クリスチャンの集会場所の建設や管理や維持などにあずかったりして,喜びのうちに真の崇拝の関心事を促進するのも祝福です。(出エジプト記 36:1-7。列王第二 12:4-15)このような努力は確かに心の喜びを人に与えます。そして,神から与えられた証しの業においてエホバの民に協力することに加え,彼らと定期的に集い合うことの祝福と喜びを,だれが完全に言い尽くせるでしょうか。―詩編 122:1。コリント第一 3:5-9。
22 敬虔な行為をする際の忠実さは,どんな結果を生み出しますか。
22 敬虔な行為をする際の忠実さも,豊かな祝福をもたらします。それは救いの見込みと,神が約束された新しい事物の体制での喜ばしい将来です。(ペテロ第二 3:11-13)希望に満ちたエホバの僕たちと,「希望もなく,世にあって神を持たない」人々との間には,何という相違があるのでしょう。(エフェソス 2:11,12)今日のエホバの民はダビデに和して,確かにこう言うことができます。「わたしは,あなたの愛ある親切に依り頼みました。わたしの心があなたの救いを喜びますように」。(詩編 13:5)実に,クリスチャンが自分たちの祝福を数えるなら,喜びに満ちた心をもってエホバに仕えるための数多くの理由が見いだせます。
「喜びをもってエホバに仕え」続けなさい
23 増しゆく圧力がわたしたちの考えを支配するのを許すのではなく,むしろわたしたちは何をすべきですか。
23 現在エホバの証人は数多くの祝福を味わっていますが,この古い事物の体制から来る増しゆく圧力を逃れるわけにはゆきません。職場でも,学校でも,ほかのどこでも,こうした圧力には勇気をもって当たらなければなりません。そのような要素は気をくじくものとなり得るのです。しかし,いつもこれらの不愉快な事柄がわたしたちの考えを支配したり,わたしたちを悩ませたりするのを許すのではなく,考える事柄を積極的で築き上げるものに切り替えるほうが賢明です。そうです,落胆したり悲しみに沈んだりするのではなく,「りっぱな業に熱心」であるようにし,エホバの僕としてのわたしたちの祝福について熟考しましょう。(テトス 2:14)そうすれば,絶えることのない宴を楽しんでいるかのように,快活になります。箴言 15章15節が述べている通りです。「苦しむ者の日はどの日もみな悪い。しかし,心の善良な者には絶えず宴がある」。
24 (イ)どうすれば,あなたの人生を報いの多い目的を持つものとすることができますか。(ロ)適切にも,どんな質問がここで生じますか。
24 一般に認められているように,多くの人々は自分の人生の境遇に満足しているわけではありません。しかし,神を愛し,神に従い,神への奉仕にたゆまず熱心に携わるなら,あなたの人生の目的は報いの多いものとなります。さらに,エホバの助けを得て,生活の様々な問題や圧力を,首尾よく耐え忍ぶことができます。ですから,大いに勇気を出し,喜びに満ちた心をもってエホバに仕えるときに神から与えられる様々な祝福を,これからも大切にしてください。(詩編 100:2)ところで,エホバの崇拝において喜びを引き続き保つには何が求められるでしょうか。
次の点を思い起こせますか
□ エホバの民は生活上の困難な事柄によって意気消沈させられることはありません。なぜですか
□ エホバを知るとはどういう意味ですか。このことは喜びとどんな関係にありますか
□ 弟子を作ることは喜びとどんな関係がありますか
□ どうすれば,真の崇拝を喜びのうちに促進することができますか
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わたしたちは「すべての日々にわたって歓ぶ」ことができますものみの塔 1983 | 2月1日
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わたしたちは「すべての日々にわたって歓ぶ」ことができます
「朝にあなたの愛ある親切をもってわたしたちを満ち足らせてください。わたしたちが喜び叫び,すべての日々にわたって歓ぶためです」― 詩編 90:14。
1 エホバはご自分の民の幸福を望まれることを,どのように示されますか。
エホバ神はご自分の民が幸福であることを望まれます。満ち足りた健康な生活を送るには,心からの喜びが不可欠であることをエホバはご存じです。(箴言 17:22)したがって,愛ある親切の神としてエホバは,もし生活に適用するなら喜ばしい感情をはぐくむような導きを与えてくださいます。
2 真のクリスチャンが,喜びを祈り求めることについて確信を持てるのはなぜですか。
2 真のクリスチャンであるエホバの証人は,不敬虔な事物の体制における生活上の様々な圧力に直面したとき,喜びを祈り求めることができます。喜びは神の聖霊の実であり,神はそれを願い求める,ご自分の忠実な献身した民にその霊をお与えになります。(ルカ 11:13。ガラテア 5:22,23)彼らは,神の預言者モーセが祈りのうちに語ったのと同様の気持ちをはっきり言い表わすことができます。「朝にあなたの愛ある親切をもってわたしたちを満ち足らせてください。わたしたちが喜び叫び,すべての日々にわたって歓ぶためです」。(詩編 90:14)エホバを信頼する人々は,エホバがこうした熱心な嘆願に答えてくださることを確信できます。―ヨハネ第一 5:13-15。
3 もしわたしたちが「すべての日々にわたって歓ぶ」ことを願うなら,どんな二つの基本的な要素を守らなければなりませんか。
3 しかし,もしわたしたちが「すべての日々にわたって歓ぶ」ことを願うなら,祈りのほかに二つの基本的な要素を忘れてはなりません。この二つの要素は,もし『エホバの声に聴き従わず,そのおきてを守らず』,また『楽しみと心の喜びとをもってエホバに仕え』ないなら呪いが臨むと古代の神の民が告げられた時,浮き彫りにされました。(申命記 28:45-47)ですから,一生涯幸福でありたいなら,(1)エホバに従い,(2)喜びに満ちあふれてエホバに仕えなければなりません。
4 (イ)エホバは,ご自分の民が喜びに満ちた心をもってご自分に仕えることができるよう,何を与えてくださいますか。(ロ)どんな格言を考慮できますか。そうすることによってどんな結果が得られますか。
4 エホバは,ご自分の民が喜びに満ちた心をもってご自分に仕えるために必要な動機付けと助けをお与えになります。さらに,喜びを促進する信頼できる指針をも寛大に与えてくださいます。例として,聖書の箴言の書のある箇所で具体的に表現されている格言が,どのように深い喜びを生み出すかに注目してみましょう。もし生活に適用するなら,このような諭しは「すべての日々にわたって歓ぶ」ことを可能にしてくれます。
家族内の喜び
5 (イ)エホバは親に何を期待しておられますか。(ロ)従順に関し,子供たちは家族にどんな影響を及ぼすことができますか。
5 家族としての幸福を築き,それを保つには,神に従い,神のみ言葉に見られる諭しに敏感であることが必要です。例えば,エホバは親が子供たちを訓練する点で最善を尽くすことを期待しておられます。この点では父親が率先すべきですが,母親もそのことに積極的にあずかるべきです。(箴言 22:6; 31:1)では子供たちはどうですか。「父をあざ笑い,母への従順をさげすむ」子供は確かに成功せず,両親に喜びではなく悲嘆をもたらします。(箴言 30:17; 17:21)他方,敬虔な親から与えられる懲らしめを従順に受け入れ,聖書の原則と調和して生活する賢い息子や娘たちは家族に喜びをもたらし,家族の誉れとなります。―箴言 10:1; 15:20; 23:15,16。
6,7 (イ)箴言 23章22-25節にはどんな諭しがありますか。その諭しに従うとき,どんな結果が生じますか。(ロ)「真理を買え。それを売ってはならない」という諭しは何を意味しますか。
6 義にかなった道を追い求めるように促す仕方で子供を育てる敬虔な親には,真の喜びの理由があることになります。この点に関して聖書の中にはこう記されています。「あなたを誕生させた父に聴き従い,ただ年老いたからといって,あなたの母をさげすんではならない。真理を買え。それを売ってはならない ― 知恵と懲らしめと理解を。義なる者の父は必ず喜びに満ち,賢い者の父となる者もその子を歓ぶ。あなたの父と母は歓び,あなたを産んだ母は喜びに満ちる」― 箴言 23:22-25。
7 賢い子供はクリスチャンである父親の霊的な教えに留意し,たとえ母親が年老いているとしても,その敬虔な母親の言うことを無視しません。結局のところ,責任能力を持つ成人でさえ,自分の老齢の親から依然として何かを学ぶことができるのです。「真理を買え。それを売ってはならない」という諭しは,生活の導きとして真実の原則に付き従うことを意味しているに違いありません。義に傾く心を持つ子供は,快楽や富や名誉のために真理を投げ出すようなことはしません。そしてすべての成員がエホバに堅く付いている家族には,確かに永続的な喜びがあります。―申命記 10:20,21。
悪行者がいるとしても喜びを保つ
8,9 箴言 2章10-14節に示されている通り,敬虔な知恵を用いることは,どのようにわたしたちを悪行者から保護するものとなり得ますか。
8 エホバの諭しに従順であれば,様々な状況のもとで喜びを保つ助けが得られます。例えば,敬虔な知恵を用いることにより,自分を悪行者から保護するものを見いだせます。聖書はこう述べます。「知恵があなたの心に入り,知識があなたの魂に快いものとなるとき,思考力があなたを守り,識別力があなたを保護するであろう。それは,悪い道から,ゆがんだ事柄を話す者から,闇の道を歩むために廉直の道筋を捨てる者たちから,悪を行なうことを歓び,悪のゆがんだ事柄を喜んでいる者たちから,あなたを救い出すためである」― 箴言 2:10-14。
9 エホバの是認は,真の知恵を大切にし,その知恵によって自分の心を動かそうとする人々の上にあります。そのような人々は賢明にも,「ゆがんだ事柄」,すなわち,真実で正しいこととは逆の事柄を「話す」どんな人とも交わりません。正しい思考力と真の識別力は,敬虔な知恵を退け,邪悪な行為に喜びを見いだし,他の人々を腐敗させようとする人々からわたしたちを保護するものとなります。―箴言 4:16と比較してください。
10 悪人の違犯はどのように当人をわなに掛けるものとなりますか。
10 悪行者は『悪を行なうことを歓ぶ』かもしれませんが,真の喜びを得ているのはだれですか。別の箴言はこう答えます。「悪人の違犯には,わながある。しかし義なる者は歓呼の声を上げて喜ぶ」。(箴言 29:6)そうです,悪人の違犯は当人をわなに掛けるものとなるのです。一つの罪が別の罪へと発展し,予期しなかったような災いが当人に臨むかもしれません。例えば,他の人を破滅させることを企てたとしても,自分の計略が自分自身に跳ね返って来るにすぎないことがあります。古代イスラエルにおいては,偽りの証人がある潔白な人について不利な偽証を行ない,その人を死に至らせようとしても,その企てが発覚した場合には,計略をめぐらした本人が死に処せられることになっていました。―申命記 19:16-21。
11 義に傾く心を持つ人はなぜ『歓呼の声を上げる』ことができますか。
11 義なる者の境遇は何と優れたものなのでしょう。義なる者は,自分の隣人について計略をめぐらすことも,罪を習わしにすることもありません。それで義なる者は,違犯によってわなに掛かることがなく,悪行に付きまとう問題や,腹黒い悪行者であることが発覚したために受ける処罰を経験することがありません。ですから義に傾く心を持つ人は『歓呼の声を上げて喜びます』。一つの点として,その人はやましい良心によって苦しめられることがありません。加えて,神の恵みを享受します。「ねじくれた人はエホバにとって忌むべきものであり,神の親密さは廉直な者たちと共にあるからである」― 箴言 3:32。
敵が困っている時に歓んでよいか
12 敵が困っているとき,クリスチャンはどのように反応すべきですか。なぜですか。
12 では,敵が困っているような時に,クリスチャンはどう反応すべきでしょうか。別の箴言にはこう書かれています。「あなたの敵が倒れるとき,歓んではならない。彼がつまずくとき,あなたの心が喜ぶことのないように」。なぜでしょうか。「エホバがご覧になって,それがその目に悪となり,み怒りをその者から引き戻すことのないためである」。(箴言 24:17,18)この箴言は,敵が何らかの災いに直面した時の,悪意の伴う喜びとでも呼べるものを不適切と断定しています。単に個人的な満足を得るために敵の上に災厄が下ることを望むのは間違いなので,このように歓ぶ人は自分の罪に関しエホバに言い開きをしなければならないでしょう。この点に関し,神は心を読むことができますから,わたしたちが他の人の災厄をひそかに喜んでいるかどうかをご存じです。したがって,そのような間違った精神は仲間の人間には気付かれないとしても,エホバには手に取るように分かるのです。「復しゅうはわたしのもの,また応報を加えることも」とエホバは述べておられます。(申命記 32:35。ヘブライ 10:30)そのわけで神は,人の不幸を喜ぶ人を何らかの方法で罰するかもしれません。―箴言 17:5と比較してください。
13 箴言 11章10節にはどんな意味がありますか。
13 他方,このようにも言われています。「義なる者たちの善良さゆえに町は大いに喜び,邪悪な者たちが滅びるとき,喜びの叫びが上がる」。(箴言 11:10)この言葉はどのように理解すべきでしょうか。一般に義なる人々は愛されており,隣人たちを幸福にします。しかしだれも「邪悪な者たち」を好みません。残虐な者は自分の身をのけ者にします。(箴言 11:17)それに加え,邪悪な者が死んでも一般の人々は哀悼の意を表するわけではなく,エホバがこれらの悪行者たちを滅ぼしても確かに悲しみは生じません。むしろ,そのような人々が活動の場面から除かれたために喜びが生じるでしょう。わたしたちは,他の人の喜びや『大いなる喜び』に貢献する仕方で振る舞っていますか。
喜びに満ちた心は祝福
14 これまで討議されたように,エホバに従うとき,どのようにわたしたちは「すべての日々にわたって歓ぶ」ことができますか。
14 エホバに従うとき,「すべての日々にわたって歓ぶ」ことが可能になります。既に述べたように,神からの諭しを生活に当てはめるなら,親子関係は幸福なものになります。神の導きを受け入れることは,悪行者の悪影響からわたしたちを守り,わたしたちを喜びで満たしてくれます。さらに,エホバの教えに堅く従うなら,邪悪な者たちのどんな不幸に対しても間違った態度を抱かないように守られ,こうして喜びを保つことができます。そうです,エホバ神に従うことにより,わたしたちは喜びに満ちた心を得るのです。このこと自体が一つの祝福です。
15 悲しみの余り「煩い事」によって自分の心を「かがま」せてしまうのではなく,どうすべきですか。なぜですか。
15 賢い王ソロモンはこう言いました。「喜びに満ちた心は顔色をよくするが,心の痛みのゆえに打ちひしがれた霊がある」。(箴言 15:13)実際のところ,喜びや悲しみの感情は人の顔色に現われます。もちろん,生活には多くの思い煩いがあり,それらがわたしたちを大変悲しませることはあります。「人の心の煩い事はこれをかがませ,良い言葉はこれを歓ばせる」という箴言もあります。(箴言 12:25)それで,悲しみの余り「煩い事」によって自分の心を「かがま」せてしまうのではなく,良い事柄を収めた倉である,霊感によるみ言葉聖書を黙想してエホバに近付くほうがはるかに賢明です。確かにこうすれば,悲しいとはいえ義にかなった心に喜びを取り戻すことができます。
16 (イ)良い報告は,どのように『骨を肥やし』ますか。(ロ)『喜びに満ちた心は治療薬として良く効く』とはいえ,いつも浮かれ騒いでいることをどう見るべきですか。
16 ソロモンはさらにこう言いました。「目の輝きは心を歓ばせ,良い報告は骨を肥やす」。(箴言 15:30)良いたよりは「骨を肥やす」ものとなります。つまり骨に活力を満たします。このようにして体全体がそう快にされ,喜びに満たされた心は,明るく輝く目に映し出されます。憂うつな気持ち,すなわち「打ちひしがれた霊」が体に悪い影響を及ぼすのに対して,『喜びに満ちた心は治療薬として良く効きます』。(箴言 17:22。詳訳聖書と比較してください。)しかし,言うまでもなく,心をいつも非常識な浮かれ騒ぎにゆだねるべきではありません。ソロモンは,「笑いに向かって,『狂気だ!』,歓びに向かって,『これは何をしているのか』と言った」からです。(伝道の書 2:2)とはいえ,神のご意志を行なうことを歓ぶ心から,人は確かに益を得ます。
17,18 (イ)忠節な友を,『心を歓ばせる油と香』になぞらえることができるのはなぜですか。(ロ)イエス・キリストは,どのような意味で,率直な話し方をする天の友ですか。(ハ)どんな個人的な質問が生じますか。
17 喜びを生み出す別のものを指摘して,もう一つの箴言はこう述べています。「油と香は心を歓ばせる。魂の助言ゆえの友の快さもそうである」。(箴言 27:9)油が苦痛を和らげ,香がその快い香りで歓びをもたらすように,助けになりたいという目的で助言を与える忠節な友は,それを受ける人の心を歓ばせます。このような友情は快いものです。率直に話す人々は,生活の中で自分たちの弱点となっている部分を改善し,矯正し,強化するために助け合うことができるからです。確かに,率直に考えまた話す良い友を持つのは,喜びの理由となります。
18 栄光を受けたイエス・キリストは率直な話し方をする天の友であり,啓示 2章と3章に記されている七つの会衆に音信を送りました。ふさわしいところではほめ言葉も示されましたが,訓戒も与えられました。例えばエフェソス会衆には,同会衆が最初に抱いていた,エホバに対する熱烈なクリスチャン愛がもはやありませんでしたが,イエスはその愛を再び燃え立たせようとされました。(啓示 2:1-7)この天の友からの助言を祈りのうちに考慮し,矯正手段を講じたエフェソスのクリスチャンはすべて,喜びに満ちた心をもってエホバに仕え続けることができました。あなたは,エホバへの奉仕を改善して神への愛を示すため,どの点で改善するための措置を取る必要があるか,個人的に理解していますか。
「聖なる業」において歓ぶ
19 エホバに献身した人はみな,なぜ他の人に「良いたより」を定期的に分かち与えるべきですか。
19 もう一つこういう質問があります。あなたは,心をこめ,定期的に,また喜びにあふれて『神の良いたよりの聖なる業に携わって』いますか。(ローマ 15:16)地上で行なわれている今日の活動の中で,これをしのぐものはありません。これはクリスチャン会衆の存在そのものの主要な理由となっています。(マタイ 24:14; 28:19,20)それで,エホバに献身した人はみな,他の人に「良いたより」を定期的に分かち与えなければなりません。そして,熱心な王国宣明者たちは,非常に豊かな報いや祝福を幾度も経験するため,「喜び叫ぶ」ように動かされます。―詩編 90:14。マラキ 3:10。
20 聖書的な重い責任を担う熱心な会衆の伝道者たちは,どのように,たびたびエホバの奉仕において喜びを増し加えてきましたか。
20 聖書的な重い責任を担う熱心な会衆の伝道者たちは,エホバへの奉仕の質を改善することにより,たびたび喜びを増し加えます。また,あるクリスチャンの家族は,王国宣明者の必要が大きな所で奉仕することに真の満足を見いだしました。ある月に全時間の証言の業を楽しんだ人もいれば,全時間宣教に定期的にあずかることのできた人もいます。そのような熱心で心からの努力を,エホバは大いに喜ばれます。―マルコ 12:29,30。
21 ものみの塔ギレアデ聖書学校の卒業生たちには歓ぶべきどんな理由がありますか。
21 多くのクリスチャンの男女はものみの塔ギレアデ聖書学校を卒業し,自分たちの活力を用いて地の様々な場所でエホバに仕えることを歓んでいます。エホバ神とそのすばらしい目的について学ぶよう多くの人々を助けることができる全時間の奉仕者であることを,彼らは喜んでいます。例えば,熱帯の西アフリカで宣教者として20年以上を過ごした後,一人の宣教者はこう書きました。「わたしは引退して,若い人びとに代わって働いてもらう時が来たと考えているでしょうか。いいえ,そうは考えていません。数々の祝福やエホバの組織の発展を見ていると,45年余生きながらえて,荒野の旅を終え,約束の地にはいったカレブと同様に感じています。カレブはこう言いました。『それでもわたしは今日,モーセがわたしを遣わした日と同じく強健です。その時のわたしの力も,今のわたしの力も同じです』。(ヨシュア 14:11)幾多の不自由や苦難に直面してはきましたが,それでもこれまでの年月の経験は将来に対するすぐれた訓練と備えを施すものとなりました」。
22 ベテル奉仕とはどんなものですか。この特権に恵まれた一人の婦人は,どんな意見を述べていますか。
22 資格ある人々に開かれている,もう一つの喜ばしい特権は,ベテルで奉仕することです。この奉仕には,聖書文書の出版や王国の関心事の促進に直接関係した仕事が含まれます。このような特権を得ている人々は,ニューヨーク州のものみの塔協会のベテルの成員の一部として,あるいは世界中の支部事務所がある場所でそのような家族と共に仕えています。スイスで1924年1月から全時間奉仕を始め,現在はドイツ連邦共和国のベテル家族の成員として奉仕している一人の婦人はこう書いています。「私はエホバへの奉仕を行なって数々のすばらしい機会に恵まれ,幸福で豊かな人生を送れるようにしてくださったエホバのご親切すべてに対してエホバに感謝したいと存じます」。そうです,この婦人はエホバへの奉仕を歓んでいます。
23 生活の中で神への奉仕を第一にする人々には歓ぶべき理由があるということを,どのように聖書から示せますか。
23 確かに,生活の中で神への奉仕を第一にする人には,歓ぶべき理由がいつもありました。もちろん,彼らの生活にも人間に共通の問題が全くないわけではありませんが,エホバは彼らが試練にある間,彼らを支えてこられました。(コリント第一 10:13。コリント第二 4:8,9)『エホバの喜びは自分たちのとりで』であるので,彼らは成功しました。(ネヘミヤ 8:10)考えてみてください,モーセは「神の民と共に虐待されることを選び」,大きな特権に恵まれたのです。(ヘブライ 11:23-29)モアブ人のルツは自分の民と自分の神々を捨ててエホバに仕えることを選び,イエス・キリストの先祖になるという報いを得ました。(ルツ 1:14-17; 4:13-17。マタイ 1:1,5)信仰の篤い年配のシメオンも,忠実で老齢のアンナも,真の崇拝に対する関心ゆえに,また神殿に定期的に通っていたゆえに,幼児イエスをそこで見るという喜びを得ました。―ルカ 2:25-38。
24 どんな根拠に基づいて,わたしたちは「すべての日々にわたって歓ぶ」ことができますか。
24 それで,もしエホバへの崇拝と奉仕を生活の中で第一にするなら,大きな特権と祝福が与えられることをわたしたちは確信できます。(マタイ 6:33)そして,このことを行なっている時に難しい事態に直面するとしても,わたしたちはエホバが『神を愛する者たちの益のために,そのすべてのみ業を協働させておられる』ことを知っています。(ローマ 8:28)そのわけでわたしたちは,天の父に従い,喜びに満ちた心をもって神に仕える決意を抱きたいものです。確かに,もしエホバへの全き愛を抱くなら,「喜び叫び,すべての日々にわたって歓ぶ」ための明確な理由を持つことになるのです。―詩編 90:14。
思い起こせますか
□ もしわたしたちが「すべての日々にわたって歓ぶ」ことを願うなら,どんな二つの基本的な要素を忘れてはなりませんか
□ 家族内に喜びがあるためには,親と子は何をしなければなりませんか
□ 悪行者の活動があるとしても,クリスチャンはどのように喜びを保てますか
□ 喜びに満ちた心は,どのような意味で祝福ですか
□ エホバへの奉仕における喜ばしい特権にはどんなものがありますか。したがって,わたしたちは何を行なう決意を抱くべきですか
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