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新生社会の大会についての一論評ものみの塔 1954 | 1月15日
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新生社会の大会についての一論評
『ヱホバの証者の8日間に亘る世界大会に,ニューヨーク・市の近辺には,この永続する派の人々が15万人も集まった。―世界全地から男も,女も,家族の者達も集まつた。彼等はその信仰を強く保ち,信仰の通りに生活しているのである。………福音伝道についての彼等の方法は直行的であつて,或る人々にとつてはうるさく感ぜられるのであるが,しかしこの同じ非常な宣教の熱心があるからこそ,彼等のすべての努力は地球上の最も小さな,暗い隅々までに及ぶのである。
『キリストの時代にステパノが石打ちされて以来,証者達は恐らく,他の如何なる宗教の群よりも,多く罵しられ反対を受けたようである。しかし,何度も何度も合衆国の最高裁判所や他の裁判所は彼等を支持し,彼等の欲する如く信じ,願う通りに崇拝し,またたとえその方法が他の人にとつて,煩わしいものであつても,彼等自身の方法で改宗者を探すというその憲法上の権利を認めているのである。
『証者達の最初の日の集会には,ニューヨークのヤンキー野球場に8万2861人の証者達が集まつた。これは野球の試合に今日まで集まつた群集よりも大きい群集である。更に4万8000人の証者達はハドソン河の向う側に集会し,拡声器によつて大会の進行を聞いた。そのような印象は記憶に残るものであり,すべての人が必らず感じ,非常に強いものである。我々は,ある他の人々に次のことを憶い起させる。すなわち,此れはアメリカであり,此れは民主主義であり,此れは崇拝と集会の自由であつて,我々の憲法は明白にされ,我々の共通の相続物は防禦されたということである。』― 1953年7月24日,ワシントン州・ヴァンクーバー・コロムビア紙より。
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ものみの塔・聖書研究の助けものみの塔 1954 | 1月15日
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ものみの塔・聖書研究の助け
何故『ものみの塔』は必要ですか? 何故ならば,『ものみの塔』は私達を助けて,聖書を理解させるからです。それでは,何故私達は聖書の理解を求めなければなりませんか? 何故なら聖書は絶対に間違いの無い導きであつて,愛ある賢明な創造者が私達に与えたものだからです。
神の言は,私達の足の燈火であり,私達の路の光りです。(詩 119:105)神の言が無ばけれ,私達は暗やみを歩くでしよう。(イザヤ 8:20,21。マタイ 15:1-14)神の言は,暗い場所を照らしている燈火であつて,夜が更け,明星が昇るまで私達が注意を払うことは良いことです。(ペテロ後 1:19-21,新世)使途パウロは次のように述べています。『聖書のすべては神により霊感されたものであつて,教えや,戒しめや,物事を正しくする事,そして義しいことを訓練する事に有益なものである。それは,神の人が,すべての善い業に対して全き備えをして,十分に力を持つ為である。』― テモテ後 3:16,17,新世。
神の言は,私達にとつて,光であるばかりでなく生命をも意味します。『唯一つで真の神であるあなたと,あなたが遣した者,すなわちイエス,キリストを知ること,これこそ永遠の生命を意味する。』とイエスは裏切られた夜の祈りの中で言いました。イエスは弟子達に語りました。『私があなた方に語つたものは,霊であり,生命である。』イエスの語つたものは,聖書の中に記録されています。イエスは,また『人はパンだけではなく,ヱホバの口から来るすべての言葉によつて生きなければならない。』ということを良く知つていました。アダムでさえもその真理を強く認識していました。アダムは生命を支えるに必要な物は十分に持つていましたが,930年生きた後に,結局は死にました。それはアダムが神の言を無視したからです。創世 3:17-19; 5:5。
神の言は私達にとつて生命と光りを意味しますが,しかし,それには私達が信仰を持たなければ駄目です。(マタイ 9:29)『信仰が無ければ,神の良き喜びを得ることは出来ない。何故ならば神に近づく者は,神が居られることと,また神は,彼を熱心に求める者達には報いを与える方であるという事を信じなければならない。』― ヘブル 11:6,新世。
今日では,昔に無かつた程の攻撃が,聖書の真実性,その原則,そしてその智
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