-
神はなぜ義人が苦しむのを許してこられましたかものみの塔 1971 | 11月15日
-
-
神は愛であり,また人類に対して寛容であり,だれかが滅びるどころか,「あらゆる種類の人が救われ,真理の正確な知識に至ること」を願っておられます。迫害はこのことを疑問の余地なく確証するものとなりました。(テモテ前 2:3,4,新)迫害はまた,クリスチャンはこの救いの音信を人々に伝えるため悪に苦しむゆえに人類を愛する者であるということをも実証しています。残された唯一の質問は次のとおりです。今や間近に迫ったハルマゲドンの戦いで神が最終的にこの争いに劇的な終止符を打たれるとき,あなたは論争のだれの側に立っておられるでしょうか。あなたは忠実を保つ人とされるでしょうか。この質問を今考慮してください。なぜなら,あなたの永遠の運命がそのことにかかっているからです。
-
-
人々があなたを迫害するときあなたは幸福ですものみの塔 1971 | 11月15日
-
-
人々があなたを迫害するときあなたは幸福です
「義のために迫害されてきた人たちは幸福です。天の王国は彼らに属するからです」― マタイ 5:10,新。
1,2 キリストはご自分の追随者にどんな警告をお与えになりましたか。そのことばはエホバの証人の生活のうちにどのように成就していますか。
イエス・キリストのくちびるをついて出たことばほどに追随者に労苦を求めることばを口にした人はひとりもいません。第二次世界大戦勃発後まもなく,時の英国首相ウィンストン・チャーチルは,「血と涙と苦労と汗」を予期しなければならないと英国民に警告しました。しかしキリストはさらに暗たんたる警告を発しました。キリストの追随者は迫害され,会堂の法廷の前に引き出されたり,王や総督たちの前に引き立てられたりする場合のあることが予想されるばかりか,中には殺される人もいるでしょう。イエスは言われました。「汝等わが名の故に凡ての人に憎まるべし」。「人もし我に従ひ来らんと思はば,己をすて,己が〔刑柱〕を負ひて,我に従へ。己が〔魂〕を救はんと思ふ者は,これを失ひ,我がために,己が〔魂〕をうしなふ者は,之を得べし」。―ルカ 21:12-17。マタイ 16:24,25,〔新〕。
2 これらのことばは1世紀以降のクリスチャンの生活をいみじくも特色づけるものです。今日,わたしたちは世界中のエホバの証人の生活のうちにこのことばの成就を目撃しています。証人たちは多数の国々で活動を禁止され,ひどい迫害に苦しみ,幾千もの家を焼かれ,幾百もの王国会館を破壊されました。証人たちの女子は無残にも打たれ,また殴打が原因で死んだり,即座に殺されたりした男子もいます。不当にも親から引き離された子どもたちもいます。しかもそれは証人たちが,イエスやその使徒たちの行なった仕方で,すなわちこの世の政治問題に関し中立を守って神を崇拝することを固執するためなのです。―ヨハネ 17:16。ヤコブ 1:27。
3 (イ)迫害に対するエホバの証人のどんな態度が傍観者を驚嘆させましたか。(ロ)迫害に関するどんな疑問は提起するだけの価値がありますか。なぜですか。
3 にもかかわらず,そうした迫害を受けたからといって,神に対して,あるいは自分たちを迫害する者に対して憤ってはいません。自分たちを迫害する人々に反抗して立ち上がり,彼らに対し悪をもって悪に報いたことはありませんし,また今後もそうしないでしょう。迫害はエホバの証人をして神に仕えることをやめさせるものとはなりませんでしたし,今後もそうなることはないでしょう。傍観者は,迫害および迫害者に対するエホバの証人の態度に驚嘆させられました。中には,証人たちはなぜもっと攻勢に出たり,もっと復しゅうしたりしないのだろうかといぶかる人もいるので,次のような深刻な疑問が生じます。クリスチャンは迫害に対してどんな態度を取るべきですか。あなたは迫害をどうみなしますか。途方に暮れてしまいますか。そのためにおびえますか,それとも悲しみますか。そうした苦しみは無意味ですか。クリスチャンは迫害者に対してどんな正しい態度を取るべきですか。こうした,またその他の疑問に対する答えは,エホバの証人は迫害に直面しながらも,なぜ穏やかさと勝利の喜びを保ってきたかを説明するものとなるでしょう。
迫害に対する正しい態度
4 迫害を念頭においているにしても,クリスチャンは神について何を知っていますか。迫害があるにもかかわらず,クリスチャンは何を確信できますか。
4 クリスチャンは神のみ手が短いものではないことを知っており,また神はご自分を愛する者たちを保護し,救出し,ささえうるかたであることをも信じています。預言者イザヤは述べました。「エホバの手はみぢかくして救ひえざるにあらずその耳はにぶくして聞えざるにあらず」。(イザヤ 59:1)一つのことは確かです。つまり,エホバの献身したしもべであるクリスチャンは神の世話を受けており,悪魔のなすがままに全く放置されてはいません。さもなければ,それらクリスチャンは今日ここにエホバの証人として存在してはいなかったでしょう。彼らは,ちょうどヨブ自身保護されたように,神の保護を受けるしもべたちとして地上にいるのです。(ヨブ 2:4-7)しかしながら,神はクリスチャンが試みられ,苦しみ,あるいは死ぬことをさえ許される場合があります。とはいえ,エホバが何を許容されるかにはかかわりなく,もしわたしたちが忠実であるならば,わたしたちにはエホバの愛が保証されているのです。わたしたちはその愛を深く感謝しています。―ロマ 8:38,39。
5 イエスのことばによれば,クリスチャンは迫害に対してどんな態度を取るべきですか。なぜですか。
5 山上の垂訓の中でイエスはこう言明されました。「義のために迫害されてきた人たちは幸福です。天の王国は彼らに属するからです。人々がわたしのためにあなたがたを非難し,迫害し,あなたがたに対して偽ってあらゆるたぐいの邪悪なことを言うとき,あなたがたは幸福です。喜び,かつ喜び躍りなさい。天においてあなたがたの報いは大きいからです。人々はそのような仕方であなたがたより前の預言者たちを迫害したのです」。(マタイ 5:10-12,新)ゆえに,迫害はイエスのことばによれば,喜ぶいわれ,つまり喜び躍るいわれとなるのです。なぜなら,天の王国はそのような人に属するからであり,天において彼らの報いは大きいからです。また,クリスチャンとして苦しむ人はそれゆえに,預言者たちやイエス・キリストおよびその使徒たち ― 神への信仰のために苦しんだ人々の高潔な優れた仲間に数えられるのです。そうした人々の仲間として格付けされるのは,取るに足りない誉れどころか,まさに喜ぶべき,つまり喜び躍るべきいわれにほかなりません。
6 イエスは苦しむことに対するどんな模範を残されましたか。
6 迫害に対するクリスチャンの態度はキリストの範例にのっとるものであるべきです。使徒ペテロは書きました。「汝らは之がために召されたり,キリストも汝らの為に苦難をうけ,汝らを其の足跡に随はしめんとて模範を遺し給へるなり。彼は罪を犯さず,その口に虚偽なく,また罵られて罵らず,苦しめられて脅かさず,正しく審きたまふ者に己を委ね,木の上に懸りて,みづから我らの罪を己が身に負ひ給へり。これ我らが罪に就きて死
-