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だれが復活するか ― なぜ?ものみの塔 1965 | 7月1日
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を示すためです。パウロは次のように述べました。「女は静かにしていて,万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり,男の上に立ったりすることを,わたしは許さない。むしろ,静かにしているべきである」。ゆえに会衆内で教えることを女に許さない理由を説明するためにエバをあげてのち,パウロは,教えることを許されていない「女」すなわち婦人一般に話を戻して,女は子を産むことにより霊的な意味で安全を保てる事を述べているのです。
36,37 テモテ前書 2章15節がエバのことを述べていない事は,どんな現代訳聖書に示されていますか。
36 以下にあげるテモテ前書 2章15節のさまざまな現代訳は,このことを示しています。アメリカ訳は,「しかし信仰と愛と清さを保ち,かつ分別を失わないならば,彼らは母親となることによって救われる」と述べ,ジェイムス・モファット博士の新訳聖書は,「しかし忠実と愛と清さを保ち,慎しみ深いならば,女たちは子を産むことによって安全を得る」と述べています。
37 改訂標準訳によれば,「信仰と愛と清さに留まり,慎しみを忘れなければ,女は子供を産むことによって救われるであろう」とあり,ジョージ・ラムサの東方古代写本に基づく聖書は,「彼女の子孫が信仰と清さと貞節の中に留まるならば,彼女は彼らによって生きるであろう」となっています。またC・E・ウイリアムスの口語新約聖書は,「信仰,愛,清さのうちに分別を以て生活をつづけるならば,女たちは母親となることによって救われる」と述べ,チャールス・キングスレー・ウイリアムス訳,やさしい英語の新約聖書は「慎しみを忘れず,信仰と愛と清さを保つならば,女は子供を産むことによって救われる」と述べています。―テモテ前 2:15。
あがないは適用されるか
38 テモテ前書 2章5,6節から,アダムとエバに関してどんな疑問が起きますか。
38 エバが神の国の下で救われるという説の根拠としてあげられる聖句は,今まで論じたことから明らかなように,永遠の生命の機会がエバにもう一度与えられるという事の証明にはなりません。ゆえにエバが救われるという論議をいくらしても,それはアダムの救いを論証することにはなりません。しかしアダムとエバの両方が,「最後のアダム」主イエス・キリストのあがないの犠牲から益を得るのではありませんか。テモテ前書 2章5,6節に使徒パウロは,「人なるキリスト・イエス……はすべての人のあがないとしてご自身をささげられた」と述べています。従って13,14節に述べられているアダムとエバは当然「あがない」の益にあずかるべきではありませんか。多くの人はそのように論じます。
39,40 (イ)あがないとは何ですか。マタイ伝 20章28節において,イエスは何を言われましたか。(ロ)モーセを通して与えられた,あがないに関する神のどんな律法を,イエスはご存知でしたか。
39 あがないとは,あるものがとらわれ,支配され,隷属させられた場合,それを解放するため,相手の人あるいは団体に支払うか,あるいはひき渡した,価値あるものです。主イエス・キリストは犠牲の死を遂げることによってご自身を「あがない」として与えました。すなわちイエスの与えた価値あるものは,失われたもの,従って解放し,買い戻すべきものに全く等しいのです。マタイ伝 20章28節においてイエスは言われました。「人の子がきたのも,仕えられるためではなく,仕えるためであり,また多くの人のあがないとして,自分の命を与えるためである」。イエスは,仲保者モーセを通してイスラエルの国民に与えられた神の律法に十分通じていました。
40 「しかし,ほかの害がある時は,命には命,目には目,歯には歯,手には手,足には足,焼き傷には焼き傷,傷には傷,打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない……〔つながれていなかった〕牛が……男または女を殺したならば,その牛は石で撃ち殺され,〔警告されたにもかかわらず注意を怠った〕その持ち主もまた殺されなければならない。彼がもし,あがないの金を課せられたならば,すべて課せられたほどのものを,命の償いに支払わなければならない」― 出エジプト 21:23-30。
41 「あがない」となるため,神のみ子には何が必要でしたか。
41 人類の「あがない」となるため,神のみ子は天から下り,エデンの園にいた完全なアダムに相当する,つまり等しく完全な人間になることが必要でした。このためみ子はユダヤ人の処女マリヤから人として生まれました。しかしその父はなおエホバ神です。このような奇跡によって生まれたみ子は完全で罪のない人であり,アダムからの罪を受け継いでいませんでした。神のみ心を行なうために献身し,その象徴として,バプテスマのヨハネにより水のバプテスマを受けた30歳のイエスは,エデンの園にいた罪のない,完全なアダムと全く等しい人間でした。それゆえにイエスは,罪とその罰である死から人類を解放するために,ご自分の人間の生命すなわち魂をささげることができたのです。
42 アダムとエバの子孫の多くは,イエスの「あがない」から益を得ますか。このあがないはまずアダムに,ついでエバに適用されるのではありませんか。
42 アダムとエバの子孫の多くがイエス・キリストの「あがない」から益を受けてシェオール(陰府)すなわちヘーデース(黄泉)から復活し,楽園の地で完全な人間となることは,聖書に明白に教えられています。しかしアダムとエバについてはどうですか。人間イエスのからだまた魂が,エデンの園にいたアダムのそれに全く等しかったことを考えれば,イエスのささげた「あがない」はまずアダムに,次にエバに適用されるのではありませんか。必ずしもそうではありません。
43,44 (イ)イスラエルののがれの町はだれのためのものでしたか。それはどんな定めになっていましたか。(ロ)民数紀略 35章18節から21節,30節から32節において,この律法は故殺人について何を定めていましたか。
43 ひとつの例をあげると,預言者モーセを通してイスラエル民族に与えられたエホバの律法は,イスラエルの全地に便利な場所を選んでのがれの町六つを設けることを定めていました。それは全くのあやまちで人を殺した者のためです。あやまって人を殺した者が血の報復を求める者の手を逃れていちばん近いのがれの町に逃げ込み,エホバの大祭司をつとめるレビ人の死ぬまで町に留まるならば,死の刑罰を避けることができました。(民数 35:9-29)しかし故意に人を殺した者,故殺人,暗殺者はどうなりましたか。のがれの町に関する神の律法は次のように定めています。
44 「故殺人は必ず殺されなければならない。血の復讐をする者は,自分でその故殺人を殺すことができる。すなわち彼に出会うとき,彼を殺すことができる。またもし恨みのために人を突き,あるいは故意に人に物を投げつけて死なせ,あるいは恨みによって手で人を打って死なせたならば,その打った者は必ず殺されなければならない。彼は故殺人だからである。血の復讐をする者は,その故殺人に出会うとき殺すことができる」。「人を殺した者,すなわち故殺人はすべて証人の証言にしたがって殺されなければならない。あなたがたは死に当る罪を犯した故殺人の命のあがないしろを取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。また,のがれの町にのがれた者〔あやまって人を殺した者〕のために,あがないしろを取って大祭司の死ぬ前に彼を自分の地に帰り住まわせてはならない」― 民数 35:18-21,30-32。
45 故殺人のためのあがないがエホバに受け入れられない事を,私たちはどのように見るべきですか。
45 故意に人を殺した者はあがなわれず,ユダヤ人の大祭司の保護の下に生き延びることもできませんでした。あらゆる生命の与え主であるエホバ神は,その当然の権利として,また公正なはからいとしてこの事を定めました。
46,47 (イ)責任を持つ者アダムに関して,ロマ書 5章12節から14節およびテモテ前書 2章14節は何を述べていますか。(ロ)死の宣告を受ける以外に,アダムの罪は何の喪失を招いたかも知れませんか。
46 神はアダムとエバに対しても同様にされます。おもに責任のあるアダムに関してロマ書 5章12節から14節はこう述べています「このようなわけで,ひとりの人によって,罪がこの世にはいり,また罪によって死がはいってきたように,こうして,すべての人が罪を犯したので,死が全人類にはいり込んだのである……しかし,アダムからモーセまでの間においてもアダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も,死の支配を免れなかった」。
47 アダムによって,罪と罪の罰である死が人類の世にはいりました。このようにアダムはすべての子孫に罪と死を伝え,またその造り主エホバ神の聖なるみ名を汚しました。それは知らずに犯したあやまちではありません。「アダムは惑わされなかった」。(テモテ前 2:14)アダムは,善悪を知る木の実を禁じた神の律法を故意に破ったのです。アダムは,神のみ手によって死がもたらされる道をあえてとりました。アダムは,父親となる機会さえなく,24時間のその日に命をとられることを期待したかも知れません。こうしてアダムから子孫が生まれ出る機会さえ,失われたかも知れないのです。神の過分の恵みによってアダムが人類家族の親となったとき,人類は罪と死の定めの中に生まれ,生命の権利を持ちませんでした。
48 (イ)アダムのためのあがないを神が受け入れないことに関して,何が言えますか。(ロ)アダムとエバの子孫の場合には,何が言えますか。
48 神の明白な警告にもかかわらず,すべての子孫の上にあえて死をもたらしたアダムは故意の殺人者であり,エバもアダムの意識的な罪にあずかっています。ゆえに後代のイスラエルの「のがれの町」に関する律法と一致して,エホバはアダムとエバのためのあがないを受け入れず,大祭司イエス・キリストのつとめの益を二人に得させないでしょう。しかしアダムとエバから生まれ出た人類の家族について言えば,神は大祭司イエス・キリストが彼らのためにささげたあがないの犠牲を嘉納されます。死に値した彼らの罪は,彼らの意志とは無関係にアダムから受け継いだものであり,あやまちに過ぎないからです。
49 アダムの息子カインとあがないの益については何が言えますか。
49 アダムの長男カインの場合,神はキリストのあがないの犠牲の益をカインには与えません。エホバ神から直接に警告されたにもかかわらず,悪意を抱いたカインは敬虔な弟アベルを殺したからです。両親のアダム,エバと同様,カインは死人の中からよみがえらないものと当然に考えられます。
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20世紀に住む私たちの世代と復活ものみの塔 1965 | 7月1日
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20世紀に住む私たちの世代と復活
1,2 (イ)この20世紀の世代の人すべてが,復活という神のご準備に与りますか。(ロ)イエスのたとえ話は,やぎ」にたとえられた人々に関して何を明らかにしていますか。
この20世紀に住む世代の多くは,死んでのちもエホバ神の恵みを受け,み子の国の下で復活します。
2 しかし私たちの世代の人々の中には,サタン悪魔および悪鬼と同じ最後を遂げる人々も大ぜいあります。イエス・キリストはこのような人々を山羊にたとえました。現存する悪の事物の制度の終結のさまを述べたイエスの預言は,羊とやぎのたとえ話で終わっています。このたとえ話はマタイ伝 25章31節から46節にあります。私たちの世代の中で「やぎ」
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