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  • 立ちかえることは今なお可能
    ものみの塔 1965 | 11月1日
    • 24,25 (イ)今日,エホバはどのようにこれまで以上にご自身を啓示しておられますか。(ロ)一人一人にどんな励ましが与えられていますか。それにはなにが伴っていますか。(ハ)いっそうの啓発をどんな源に期待できますか。

      24 すでに述べたとおり,神のことばは個々の人に強く訴えています。また,最大の検閲の時とも言うべき今日,エホバは以前にまさって偉大な神格者としてのご自身を啓示され,衷心から,私たちの心と私たちの専心の愛と献身に訴えておられます。ただエホバだけがそれにふさわしいおかたです。エホバは近づくことのできないおかたではありません。パウロがアテネの人々に語った通り,神は「住居のさかひ……を定め給へり。これ人をして神を尋ねしめ,あるひは探りて見出す事あらしめん為なり。されど神は我らおのおのを離れ給ふこと遠からず」。また神はバビロンに流刑となっていたユダヤ人に語られました,「あなたがたはわたしに呼ばわり,来て,わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて,わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば,わたしはあなたがたに会う。……(わたしは)あなたがたを導き帰ろう」。最後に,エホバの崇高な激励の言葉を思い出して下さい。そこには個々の人の心に強く訴えるものがあります。「わたしは高く,聖なる所に住み,また心砕けて,へりくだる者と共に住み,へりくだる者の霊をいかし,砕けたる者の心をいかす」。どの場合にも心が含まれていることに注目して下さい。単に自分が何を必要とするかを意識するだけでは足りません。誠実にエホバを求め,エホバに帰る事を願う人々には,エホバご自身が帰られます。そうした人々にとって立ちかえることはいまだ可能です。―使行 17:26,27。エレミヤ 29:12-14。イザヤ 57:15。

      25 この主題に関しては考慮に入れるべき他の大切で興味ある面があります。そして私たちは聖書から多くの教えと励ましとを学べます。それゆえ私たちはイエスのたとえ話の一つを取りあげましょう。そのたとえは私たちの主題にとくに適切であり,独特な力をもって人の心に訴えています。私たちが取りあげるのは良く知られた放とう息子のたとえ話です。

  • 迷い出た若者
    ものみの塔 1965 | 11月1日
    • 迷い出た若者

      1 (イ)なぜイエスはたびたびたとえを用いられましたか。(ロ)真の問題のありかたをイエスはどのように明らかにされましたか。

      イエスは多くのたとえ話を語られました。私たちの心には,イエスがなぜそのような教え方を何度もされたのだろうとの気持ちが起こります。一般に,たとえを使うのは物事の理解を助け,印象を強めるためです。しかし,ここにあげる例に明らかなとおり,この通則にも例外があります。弟子たちはイエスにたずねました,「なぜ,彼らにたとえでお話しになるのですか」。イエスの答えを読む時,本心に立ちかえることとすべてにまさって大切な心の態度とについて私たちが今見てきたことをイエスが語っておられるのを知ってすぐ驚かされます。イエスは弟子たちに言われました,「あなたがたには,天国の奥義を知ることが許されているが,彼らには許されていない」。これはイエスの勝手な決定であると見られるかも知れませんが,つづいてイエスは問題の真因が人々自身にあることを示されました。イザヤの預言を引用し,それが当時成就したとしてイエスはこう語られました。「この民の心は鈍くなり,その耳は聞えにくく,その目は閉じている。それは,彼らが目で見ず,耳で聞かず,心で悟らず,悔い改めていやされることがないためである」。―マタイ 13:10,11,15,34。

      2 イエスの教えかたはどのように試験となりましたか。それにはどんな結果がありましたか。

      2 たしかに,イエス時代の民の過半は巧みな話し手としてのイエスの話を聞くことを楽しみました。しかし,彼らは従来の物の見方また生活の仕方を乱されることを望みませんでした。彼らはイエスの音信がそれほど深く自分たちにはいることを望みませんでした。それゆえ,彼らは心の耳と目を閉じて本心に立ちかえらず,自分の心と足を全く異なった方向にむけねばなりませんでした。イエスは「その心のかたくななのを嘆いた」とマルコは書いています。(マルコ 3:5)このように,たとえによるイエスの教えかたは一種の試験となり,彼らはこれに失敗して,すでに持っていた知識と機会をさえ失う結果になりました。イエスはこう言われました,「持っていない人は,持っているものまでも取り上げられるであろう」。―マタイ 13:12。

      3 どんな同様の状態が今日見られますか。取るべき賢明な道はなんですか。

      3 同じことは今日でも言えます。これはとくにキリスト教国の人々にあてはまります。彼らは彼らなりの宗教を持ち,好みの教会に行き,自分の歩みを改め,あるいは改めるべきことを意識する人は多くありません。今日に対する聖書の音信に注意を向けさせるためエホバの証人の一人が彼らをたずねても,当惑がおで話を聞くのがせいぜいです。実際に,彼らは耳と目を閉じ,戸も閉めてしまいます。彼らはすでに心に決めています。どのような仕方で近づいても,エホバの証人お断わり! 以外にはありません。断わるかどうかは彼らの権利であり,また責任ですが,いつでもそうしなければならないわけではありません。イエスの時代と同じように,今日においても,決定は各自に委ねられています。イエスは弟子たちの求めに応じてあるたとえの意味を説明されました。それゆえ私たちはそうした聖書の言葉の意味を調べ,それが今日どのようにあてはまるかを学びましょう。私たちの知るとおり,それらはとくに「世の終りに臨んでいる」「わたしたちの教えのために書かれた」のです。―マタイ 13:36。ロマ 15:4。コリント前 10:11。

      4 放とう息子のたとえ話のあらすじを述べなさい。

      4 放とう息子のたとえ話には多くの意味が含まれています。情景を心に描くため,たとえ話のあらすじを簡単にしらべましょう。これは二人の息子を持つ男の話です。弟は財産の分け前を父親に求めました。これは許されました。若者は自分の持ち物全部をまとめて遠くの土地に行き,放とうな生活をして自分の持ち物を使い果たしました。その土地にききんが起き,若者はかろうじて豚飼の仕事を見つけましたが,豚の飼料を食べることさえ許されませんでした。極度の苦境に立った若者はようやく本心に立ちかえり,家に帰ることに決めました。若者は自分の罪状を知り,息子としてではなく,しもべの一人として雇い入れてもらおうと考えました。しかし父親はまだ遠くにいるうちに息子のすがたを見つけ,駆けよって迎え入れ,手厚くもてなしました。息子には最上の着物とはきものと指輪がつけられ,歌と踊りの宴が設けられました。しかし家に近づいて事の次第を聞いた兄は腹を立て,宴に加わろうとはしませんでした。父親がなだめても,兄は言い返えすだけでした。父親はふたたび親切に,また訴えるような態度で自分のしていることの意味を説明しました。ここでたとえ話は急に終わり,兄の最終的な反応は不明のままに残されています。―ルカ 15:11-32。

      5 どんな面でこのたとえ話は特異ですか。

      5 このたとえを特異なものとする面がいくつかあります。イエスのたとえ話の中では長いものであり,それゆえに情景を細かに思い浮かべることができ,より深い印象を残します。登場人物が家族関係で結ばれていることも読者に与える印象を深くします。他のたとえには種類の異なる種や土などの無生の物や,主人と奴隷などの関係が出てきます。(マタイ 13:18-30; 25:14-30。ルカ 19:12-27)しかし,ここには父と子の親密な関係があります。もとより,父親が息子との間にそうした友好的で親しい間がらをはぐくまず,息子は父親を恐れ,またただ尊敬するように育てられ,父親を自然に愛することを学んでいない場合もあります。しかし,ここでは父親が二人の息子に深い愛情をもっていたことと,過分ではあっても息子のそれぞれにその愛情を自由に示した事とを読み取るべきです。このたとえ話はイエスの意図したとおり人の温情に訴えるものであり,それゆえに私たちは大きな期待を抱いて今日における成就の詳細を検討しようとしています。

      たとえ話の背景

      6 どんな事情があってこのたとえ話と他の二つが語られましたか。

      6 まず初めにこのたとえ話の語られるにいたった事情を知らねばなりません。時はイエスの宣教の後期であり,エルサレムへの最後から2番目の旅の途上にありました。(ルカ 13:22)このたとえと,同時に語られた他の二つのたとえ話とを引き出した事情はルカ伝 15章の初めの部分に明らかにされています。「さて,取税人や罪人たちが皆,イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて,『この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている』と言った」。(ルカ 15:1,2)このうちイエスは三つのたとえ話を語りましたが,それらはいずれも失われたもの,すなわち,失われた羊,失われた硬貨,そしてすべてにまさって大切な「いなくなっていたのに見つかった」若い息子を取りもどすことに関するものでした。また,いずれの場合にも,取りもどした時の持ち主の大きな喜びに重きが置かれています。―ルカ 15:32。

      7 イエスの考え方と態度は宗教指導者とどんな対照をなしていましたか。

      7 ここにあった宗教指導者その他のつぶやきや不平は事新しいものではありませんでした。浸礼者ヨハネが宣教を開始した時からすでにこうした不平は始まっています。イエスの語られたとおり,ヨハネの音信を信じ,それに答え応じたのは「取税人や遊女」でした。自らを正しいとしていた宗教指導者たちにとってこれらの階級の人々は言わば失われ,さげすまれた者たちであり,いかなる考慮にも価しない者たちとなっていました。しかしイエスが見るなら,これらの階級の人々は迷い出で,失われた者たちであったとは言え,すすんでイエスの話を聞き,本心に立ちかえろ

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