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「言葉」はヨハネによるとだれですかものみの塔 1962 | 10月15日
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その1
「言葉」はヨハネによるとだれですか
1,2 イエス・キリストの生涯の記録の中で,ヨハネは最初にだれを私たちに紹介していますか。それで当然読者は何を知りたいと思いますか。
「はじめに言葉があった。言葉は神と共にいた。言葉は神であった。同じ言葉は,はじめ神と共にいた」。聖書のローマ・カトリックのドウェー訳および欽定訳によると,イエス・キリストの生涯についての使徒ヨハネの記録の最初の2節は,そのように始まっています。
2 それで,ヨハネの記録の冒頭においてヨハネが私たちに紹介している最初の人は,「言葉」と呼ばれています。言葉がそのように突然紹介されて後は,読者はこの言葉がだれであるか,あるいは何であるかを知りたく思うでしょう。全く,キリスト教時代の第2世紀以来,この言葉が何であるかについては大論争がありました。特に第4世紀以来,この論争において少数者の群れに対しては宗教的な迫害が多く行なわれました。
3 ヨハネはその記録を何語で書きましたか。ヨハネの冒頭の部分を理解するのはなぜむずかしいのですか。
3 使徒ヨハネは,第1世紀の通俗のギリシャ語でその記録を書きました。通俗のギリシャ語は当時の国際語でした。ヨハネが宛てて書いた人々は,ギリシャ語を語ることも,読むこともできました。それで,彼らはこの最初の数節の意味を知っていました。あるいは,すくなくとも,原文のギリシャ語で書かれたヨハネの記録の残り全部を読むことによって,彼らは知ることができたのです。しかし,この最初の部分を現代の英語のような他の言語に訳すときになると,その正確な意味を表わすために正しく訳すことは難しい仕事です。
4 現代の訳はみな,昔から容認されている聖書の訳と同じですか。その是非を示すどんな例がありますか。
4 もちろん,一般に公認されている聖書訳を使用している人は,すぐにこう言います,「この言葉がだれであるかは,容易に知れるはずだ。それは,言葉は神であるとはっきり言っている,神は神ではないか」。しかし,私たちは次のように答えねばなりません。すなわちギリシャ語の学者たちによると新しい現代訳の全部はそのように言っているのではないということです。例えば,次の例を考えてごらんなさい,1961年3月に出された「新しい英語聖書」(英文)は,「言葉は神のようであった」と述べています。「言葉」と訳されているギリシャ語はロゴスです。それでジェームス・モハット博士の「聖書の新約」(英文,1922年)は,「ロゴスは神性であった」と述べています。「全訳聖書 ― アメリカ訳」(英文,スミス-グッドスピード)は,「言葉は神性であった」と述べています。フューフ・ジェイ・ジョンフィールドの「真正の新約」(英文)も,そのように述べています。(ドイツ人による)別の訳はこうです,ボエマー,「それは神とかたくむすばれ,それ自体神からのものであったa」。シュターゲ,「言葉自体は神からのものであったb」。メンゲ,「そして言葉は神(神のものc)」ファエフリン,「そして神の重々しさがあったd」またシンメ,「そしてその言葉は一種の神であったe」。
5 二つの例によって示されているように,最も物議をかもしているのはどの訳ですか。なぜトレー博士の訳をそれと並べて見ますか。
5 しかし,最も物議をかもしているのは,ヨハネ伝 1章1,2節の次の部分です,「言葉がはじめにあった。言葉は神と共にあった。言葉はひとりの神であった。この言葉ははじめ神と共にあった」。この訳は,1808年,英国ロンドンで出版された「改善された訳による新約」の中の言葉ですf。以前のローマ・カトリックの神父の訳も,それに類似しています,「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉はひとりの神であった。これは,はじめ神と共にあった。万物は言葉を通して存在し,それなしでは,何ひとつ存在するようにならなかった」。(ヨハネ 1:1-3g)「ひとりの神」という表現については,多くの議論がなされています。その訳と共に,チャールス・カツラー・トレー教授による1947年再版の「四福音書 ― 新訳」を参考にしてみましょう,「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。彼がはじめ神と共にいたとき,万物は彼を通して創造された。彼なしでは,つくられたものは何一つ存在するにいたらなかった」。(ヨハネ 1:1-3)言葉は,太文字でない「神」であることに気をつけて下さい。
6 前に引用した聖書の中には,どんな異なった表現がありますか。そこで私たちは,だれの身元を調べねばなりませんか。
6 それで,前述の聖書訳の中には,「神」「神性」,「一種の神」,「神」および「ひとりの神」という表現が使われています。三位の神,すなわち三位一体を教える人々は,「ひとりの神」という訳に強く反対します。彼らは,三位一体について,いろいろ述べる中でも,それが多神論を信ずることであると言います。あるいは,彼らはそれを一元論あるいはアリウス派教義と呼びます。三位一体は,「ものみの塔」誌の400万の読者の大多数が住む欧州,アメリカおよびオーストラリア内のキリスト教国でひろく教えられています。アジアとかアフリカのような他の場所にいる読者は,キリスト教国の宣教者を通して,三位一体の教えを知っています。それで,言葉すなわちロゴスがだれであるかをたしかめるだけでなく,神ご自身がだれであるかをたしかめねばならないことは明白です。
7,8 キリスト教国は,神を何であると言いますか。しかし,この同意語をヨハネ伝 1章1,2節に適用すると,どんな混乱が生じますか。
7 キリスト教国は,自分たちの宗教の基礎的教理は三位一体であると信じています。そして,三位一体とは三者一体を意味するというわけです。つまり,「父なる神,子なる神,聖霊なる神」という三つの位格をもつ一つの神という意味です。これが三つの神ではなくて,「三つの位格をもつ」ただ「一つの神」と言われているからには,神という語は三位一体という意味をもつことになり,三位一体と神とは同意語になります。この観点から,ヨハネ伝 1章1,2節を引用して,神という語を同意語に置き替え,どんなことになるかみてみましょう。
8 「初めに言葉があった。言葉は三位一体と共にあった。言葉は三位一体であった。同じ言葉は,はじめに三位一体と共にいた」。しかし,どうしてそのようなことがあり得たのでしょうか。もし言葉自身が一つの位格で,三位一体と共にいたのなら,四つの位格があったことになります。ところが三位一体論者によると,言葉は三位一体の第二の位格,すなわち「子なる神」なのです。しかしたとえそうであるにしても,子なる神としての言葉が,三つの位格で構成される三位一体であった,とどうしてヨハネに言えたでしょうか。どうして一つの位格が三つの位格であり得るでしょうか。
9 もし,「神」は父なる神を意味すると主張すれば,どんなむずかしい問題が生じますか。
9 しかし,三位一体論者はこういうでしょう。ヨハネ伝 1章1節の「神」は,三位一体の第一の位格,すなわち「父なる神」を意味するだけである。だから,言葉は初めに父なる神と共にいたのだと。「神」に関するこの定義に基づくなら,どうして彼らのいう「子なる神」が「父なる神」であると言えるでしょうか。また彼らのいう「聖霊なる神」の立場はこの場合どこにありますか。もし神が三位一体なら,言葉は初めに「父なる神」と共にいたと同時に「聖霊なる神」とも共にいたのではないのですか。
10 「神」は三位一体の他の二つの位格を意味するというならどういうことになりますか。どんな説明は説明になりませんか。
10 すると彼らはたぶんこう言うでしょう。ヨハネ伝 1章1,2節の「神」は,三位一体の他二つの位格を意味している。だから言葉は初めに父なる神および聖霊なる神と共にいたのだと。この場合はつぎのようなむずかしい問題にぶつかります。すなわち言葉は,神であることによって,三位一体の他の二つの位格である父なる神および聖霊なる神であったということです。ですからこれは,言葉すなわち三位一体の第二の位格である「子なる神」は,三位一体の第一,第二の位格でもあったと言っていることになります。言葉は父なる神と同じで,父なる神に等しかったが,それでも父なる神ではなかった,といってもそれはこのむずかしい問題の解決にはなりません。もしそうであったなら,言葉は聖霊なる神と同じで,聖霊なる神に等しかったが,やはり聖霊なる神ではなかったということになります。
11,12 三位一体論によると,言葉は神のどのくらいに当たりますか。また,神の個性についてどんな質問をせざるを得ませんか。
11 それなのに三位一体論者は,ヨハネ伝 1章1,2節の神は,三つの神ではなくてただ一つの神であると言います。では言葉は神の三分の一ですか。
12 科学的にいって,1つの神(父)+1つの神(子)+1つの神(聖霊)=1つの神というような計算は成り立たないので,1/3の神(父)+1/3の神(子)+1/3の神(聖霊)=3/3の神,もしくは1つの神というふうに計算しなければなりません。そればかりでなく,ヨハネ伝 1章1,2節の「神」という言葉は,その個性を変える,あるいはこの「神」は一つの文章の中でその個性を変えると結論しなければなりません。ほんとうにそうでしょうか。
13,14 (イ)三位一体の教理は,ヨハネ伝 1章1,2節の意味をどのようにしてしまいますか。(ロ)言葉と神についてヨハネの心の状態はどうでしたか。
13 読者のみなさん,もう何がなんだかさっぱり分からなくなってきましたか。きっとそうだと思います! 三位一体の教理を論証しようとするどんな試みも混乱を招くのです。ですから,三位一体という教理は,ヨハネ伝 1章1,2節の意味を混乱させるだけで,それを平易に,あるいは明確に,理解しやすくするものではありません。
14 ヨハネは19世紀の昔,国際的クリスチャンの読者のために,普通のギリシャ語でこの文章を書きましたが,その時彼の心がこの問題に対して少しも混乱していなかったのはいうまでもありません。イエス・キリストの生涯の記録を書きはじめるに際して,言葉すなわちロゴスとはだれか,神とはだれかについてヨハネの心には少しも混乱がありませんでした。
15 だれがだれであったかを知るには,だれの助けが必要ですか。ことの詳細を説明するものとしてどんな本を参考にできますか。
15 ですから私たちは,使徒ヨハネ自身に,言葉とはだれであったかを証明してもらい,神とはだれであったかを説明してもらわねばなりません。それこそヨハネが,イエス・キリストの生涯の記録のあとの部分と,霊感によって書いた他の彼の書物の中で行なっていることです。いわゆるヨハネの福音書のほかに彼は,三つの手紙あるいは書簡と,黙示録を書きました。多くの人は,ヨハネは最初に黙示録を書き,それから三つの手紙を書き,最後にヨハネ福音書を書いたと理解しています。ジー・アーネスト・ライト(1957年)著「聖書の考古学」の238頁はこう述べています,「ヨハネの書いた物は普通小アジアのエペソと関連をもっており,大多数の学者は,西暦90年頃の日付を付している」。ヨハネ福音書の日付としてはこの「ものみの塔」は,西暦98年を受け入れています。ですからヨハネ福音書に書かれている事柄の詳細な説明としては,それ以前の彼の書,すなわち黙示録と三つの手紙もしくは書簡を参考にすることができます。
16 これをなすにさいし,私たちはどんな目標をもって出発しますか。なぜですか。
16 ではいまからそれらを参考に調べてみましょう。これをするに当っての私たちの願いは,言葉すなわちロゴスがだれであったかについて,使徒ヨハネと同じ結論に達することです。そうすることは,私たちにとって,間近に近づいている神の新しい正義の世における幸福な永遠の生命を意味します。ヨハネは,すべての知識をじかに得,直接の交わりをもっていたので,全く正しい結論に達する理由すなわち基礎をもっていました。彼は,私たちが正しい結論に達するように,彼の読者になることを望みました。それでヨハネは,私たちが彼と同じ結論に達する助けとなるように五つの異なった書物の中で,正直に,忠実に事実を述べています。したがって,ヨハネの証言を真実として受けいれるとき私たちは,正しい目標,すなわち限りない祝福に通ずる目標をもって出発することになります。
ヨハネ第一書 5章7節(ドウェー聖書,欽定訳聖書)については何と言えるか
17 時代おくれの三位一体信者ならどんな質問をするでしょうか。彼らが自分の聖書から持ち出す節については,なんといわねばなりませんか。
17 もし三位一体論者が時代におくれているなら,ヨハネ自身が,三位一体すなわち三つは一つと教えてはいないかと質問するでしょう。そして自分の聖書のヨハネ第一書 5章7節を指摘し,読むでしょう,「天に於て証するもの三あり,聖父と御言と聖霊と是なり,而して此三のものは一に帰し給う」。ローマ・カトリック「ドウェー聖書」のヨハネ第一の書 5章7節はそのように述べています。「欽定訳」もこれによく似ています。しかし,「天に於て」「聖父と御言と聖霊と是なり」は,最も古いギリシャ語の写本には出てきません。ですから大部分の現代訳の聖書はこれらの言葉をはぶいています。「コンフラタニティ・オブ・クリスチャン・ドクトリン」のローマ・カトリックの司教委員会が出した聖書は,この言葉をカッコに入れ,次のよな脚注を付して説明しています,「法王庁は,現在の句の起源について最終的に決定する権利を保留する」。
18 マイウス枢機卿は,ヨハネ第一書 5章7節につき,彼の編集したバチカン写本1209号の中でどんな告白をしていますか。
18 多くの人の判断によると,キリスト教聖書の最も古いギリシャ語の写本は,4世紀の前半に書かれたバチカン写本1209号です。私たちがもっているこのギリシャ語写本は1859年のアンジェラス・マイウス枢機卿の編集になるものですが,彼はこの中にギリシャ語を挿入しています。しかし前節の終りに脚注の記号を付しています。脚注はラテン語で,翻訳するとつぎのようになります。
最古のバチカン写本 ― この版に転載している ― では,ここからあとは,つぎのように書かれている: 「あかしをするものは三つある。御霊と,水と,血である。この三つは一致している。もしあかしが」云々。ゆえに,神聖な三つの位格に関するヨハネの有名な証言はない。この事実は,すでに長い間批評家たちに知られていた。
19 イー・ジェイ・グッドスピード博士は,ヨハネ第一書 5章7節につきなんと述べていますか。それでどんな基礎に基づいて言葉と神がだれであるかを調べることはできませんか。
19 聖書の翻訳家エドガー・ジェイ・グッドスピード博士は,ヨハネ第一書 5章7節についてこう言っています,「13世紀以前の新約聖書あるいはそれに関するどんな写本にもこの節をギリシャ語で見出すことはできない。また,15世紀以前のヨハネ第一書のどのギリシャ語写本にも出ていない。15世紀にはカーシブ書体の写本の一つに出ており,16世紀の一つの写本にもこの句がある。この句が見出された新約聖書のギリシャ語の写本は,この二つだけである。昔のギリシャ語写本あるいはギリシャ語キリスト教聖書にも,また東洋のどの訳にもこの句は出ていない。……ギリシャ語学者もギリシャ語の新約聖書編集者も,一般にこの句を信じていないh」そういうわけで,言葉と神がだれであるかについて,ヨハネの書いた物を調べるさいに,ヨハネ第一書 5章7節の虚言に依存することはできません。
人間として地上に誕生
20,21 (イ)言葉はいつ神のみ前を去りましたか。そして,言葉がどのようにそうしたかについて,どんな質問が生じますか。(ロ)ヨハネは言葉がそれをどのようにしたと言っていますか。それはどんな意味ですか。
20 言葉すなわちロゴスが,初めに共にいた神のみ前を去る時がきました。それは彼が地に下って,人間に加わった時でした。ヨハネ伝 1章10,11節はつぎのように述べています,「彼は世にいた。そして世は彼によってできたのであるが,世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに,自分の民は彼を受けいれなかった」。言葉は天から下る時に,以前天使がしたように,霊者のままで,目に見える人間のからだを着ただけでしたか。そしてそのからだを通して人間と交わりましたか。それとも言葉は混合物でしたか。霊者のからだと人間のからだの混合物でしたか。憶測するよりもヨハネの説明を聞きましょう。
21 「そして言は肉体となり,わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって,めぐみとまこととに満ちていた」。(ヨハネ 1:14,新口)ほかの翻訳の聖書も,言葉が「肉体となった」としています。(改訂標準訳。アメリカ訳,ロザハム訳,新英訳聖書)これは,彼が,体現とか化身の場合のように,肉体を着たというのとは大きな相違があります。それは彼が人間そのもの ― 肉と血 ― になり,私たちと同じ人間のひとりとなったという意味です。ヨハネの書いた物をどんなに調べてみたところで,ヨハネが言葉は神人,すなわち神と人間との混合物となったと述べているところはぜんぜんありません。
22 自からの人性について,言葉は自分をなんと呼んでいますか。彼が肉体になったことは,実際にはなにを意味しますか。
22 神人という語は,三位一体論者が発明したもので,聖書全体を通じどこにも見られない言葉です。地上にいた時言葉は自分を「人の子」と呼びました。これは神人とは非常に異なっています。彼は,ナタナエルというユダヤ人に初めて会った時,このユダヤ人につぎのように言いました,「天が開けて,神の御使たちが人の子の上に上り下りするのをあなたがたは見るであろう」。(ヨハネ 1:51,新口)ユダヤ人のパリサイ人ニコデモにもこう言いました,「ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように,人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が,すべて永遠の命を得るためである」。(ヨハネ 3:14,15,新口)ヨハネの書いた物の中で,「人の子」という表現は16回言葉に適用されています。これは彼が,地上で人間として生まれることによって「肉体となった」ことを示すものです。彼が肉体になったということは,霊者であることをやめたという意味にほかなりません。
23,24 肉体になることによって,言葉は人間の感覚に対し何になりましたか。ヨハネは言葉と接した経験についてどう述べていますか。
23 以前目に見えない霊者であった言葉は,肉体になることによって,地上の人間に見えるように,聞けるように,感じられるようになりました。したがって肉の人間は彼と直接に接触することができました。使徒ヨハネは,肉体で地上にいた時の言葉と接した彼自身の経験を私たちに告げています。それはヨハネがその喜びを私たちと分かち合うためです。彼はこう述べています。
24 「初めからあったもの,わたしたちが聞いたもの,目で見たもの,よく見て手でさわったもの,すなわち,いのちの言について ― このいのちが現れたので,この永遠のいのちをわたしたちは見て,そのあかしをし,かつ,あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは,父と共にいましたが,今やわたしたちに現れたものである ― すなわち,わたしたちが見たもの,聞いたものを,あなたがたにも告げ知らせる。それは,あなたがたも,わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは,父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」。―ヨハネ第一 1:1-3,新口。
25,26 (イ)ヨハネは,イエスの地上の養父についてどう言っていますか。(ロ)ヨハネは,イエスの人間の母親を引き取ったのち,彼女のことをなんと言っていますか。
25 ヨハネは,この人の子の人間の母親に私たちの注意を引きますが,彼女個人の名前は出していません。ヨハネは,彼女の最初のむすこのことを「マリヤの子」とは言っていません。ヨハネは,記録の初めの方で,人の子の人間の養父の名前をあげています。それはピリピがナタナエルにこう言った時です,「わたしたちは,モーセが律法の中にしるしており,預言者たちがしるしていた人,ヨセフの子,ナザレのイエスにいま出合った」。(ヨハネ 1:45,新口)後日,このイエスが五つのパンと2匹の魚で5000人を養うという奇跡を行なった時,イエスの素性をけなそうとしたユダヤ人たちはこう言いました,「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか」。(ヨハネ 6:42,新口)そういうわけでヨハネは,ほかのマリヤという女たちのことを話す場合には名前を出していますが,イエスの母の名前は出していません。彼女のことを話す場合は,決して「マリヤ」とか「母」とかにしないで,「女」としています。
26 一例をあげると,イエスは,ゴルゴタの杭の上でまるで罪人のように死のうとされていた時,地的の母と愛する弟子ヨハネとがたたずんで見ていたので,彼女への最後の言葉として「母にいわれた,『婦人よ,ごらんなさい。これはあなたの子です』。それからこの弟子に言われた,『ごらんなさい。これはあなたの母です』。そのとき以来,この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった」。(ヨハネ 19:25-27,新口)ヨハネがどのくらいの期間イエスの母マリヤの世話をみたかはヨハネは告げていませんが,イエスの母であったという理由で,彼女をまつりあげたり祝福するようなことは決してしていません。
27,28 マリヤはだれの母になったと三位一体論者は言いますか。これからどういう質問が生じますか。
27 しかし,三位一体論者によると,「言葉が肉体となった」時,マリヤは神の母になりました。しかし彼らは,神は三位一体だというのですから,ユダヤ人の処女マリヤは,「神の母」になったのではなくて,たった三分の一の神の母になったわけです。彼女は,神の一つの位格,「父なる神,子なる神,聖霊なる神」という公式の中の二番目の位格の母になったのです。ですからマリヤは,ただ「子なる神」の母であったに過ぎません。「父なる神」の母でもなければ「聖霊なる神」の母でもなかったのです。
28 しかしもしローマ・カトリック信者やその他の人々が,マリヤは「神の母」だったと主張してやめないなら,私たちは,では神の父はだれであったかと質問せざるを得なくなります。もし神に母があったとすれば,だれが神の父でしたか。ここで私たちはまた,三位一体がいかにばかげたものであるかを知ります。
29 黙示録 4章8節,11節で,ヨハネは主なる神をどのように描写していますか。マリヤがその胎内に神をいれるということについてはどんな疑問が生じますか。
29 さらに使徒ヨハネは,天のある生物が,みくらにいます神に「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,全能者にして主なる神。昔いまし,今いまし,やがてきたるべき者」といい,他のものたちが,「われらの主なる神よ,あなたこそは,栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって,万物は存在し,また造られたのであります」というのをまぼろしで見ました。(黙示 4:8,11,新口)聖書ははっきりと,諸天の天も主なる全能の神を入れることはできないと述べています。そして,ソロモン王の建てたエルサレムの巨大な宮も,主なる全能の神をいれることはできませんでした。ではどうして,マリヤの子宮の中の卵子のような極端に小さな物が,神を入れることができ,それによって彼女が母になることができましたか。ですから私たちは,自分が教えていることによく注意を払って,神を見くびるようなことがないようにしましょう。
彼の誕生地
30,31 (イ)ガリラヤのナザレから来たように見えたイエスについて,ユダヤ人の間でどんな疑問が生じましたか。(ロ)イエスがエルサレムに勝利の入城をされた時,大いなる群衆は,彼の誕生地をどのように暗示しましたか。
30 ガリラヤの地方で,ナザレから来たイエスの誕生地についてユダヤ人の間に議論が生じました。一般のユダヤ人は,彼がベツレヘムで生まれたのを知らなかったのです。そこでヨハネはこう告げています,「ほかの人たちは『この方はキリストである』と言い,また,ある人々は,『キリストはまさか,ガリラヤからは出てこないだろう。キリストは,ダビデの子孫から,またダビデのいたベツレヘムの村から出ると,聖書に書いてあるではないか』と言った。こうして,群衆の間にイエスのことで分争が生じた」。(ヨハネ 7:41-43,新口)しかしながら,イエスが,西暦33年の春エルサレムに堂々と乗り込まれた時,彼を神の約束された王,ベツレヘムのダビデ王の子としてほめたたえたユダヤ人がたくさんいました。ヨハネ伝 12章12-15節(新世)は次のように告げています。
31 「その翌日,祭にきていた大ぜいの群衆は,イエスがエルサレムにこられると聞いて,しゅろの枝を手にとり,迎えに出て行った。そして叫んだ,『われらを救いたまえ! エホバの御名によってきたる者,イスラエルの王に祝福あれ!』 しかしイエスは,ろばの子を見つけて,その上に乗られた。それは『シオンの娘よ,恐れるな。見よ! あなたの王がろばの子に乗っておいでになる』と書いてある〔ゼカリヤ 9:9〕とおりであった」。―詩篇 118:25,26も見て下さい。
32 (イ)ナタナエルはイエスと王との関係をどのように示しますか。(ロ)黙示録の中でイエスは王との関係をどのように示していますか。イエスの御国は,彼の先祖の国にくらべてどのように違いますか。
32 しかし,それより3年まえ,つまりイエスがイスラエルの地で公生活にはいられた時,ナタナエルはイエスとダビデ王の関係にきづき,イエスにこう言いました,「先生,あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。(ヨハネ 1:49,新口)また,使徒ヨハネのまぼろしの中でも,王とイエスの関係がいく度も強調されています。黙示録 3章7節ではイエス自身が,「聖なる者,まことなる者,ダビデのかぎを持つ者…が,次のように言われる」と言われています。黙示録 5章5節では,ひとりの長老がイエスのことを「ユダ族のしし,ダビデの若枝であるかたが,勝利を得た」と言っています。そして最後に,黙示録 22章16節には「わたしイエスは,使をつかわして,諸教会のために,これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの若枝また子孫であり,輝く明けの明星である」,と書かれています。イエスは地上におられた時,ご自分のことを「ナザレのイエス」と言われましたが,実際は,ダビデ王の生まれた町で生まれ,ナザレでは育っただけでした。(ヨハネ 18:5-7; 19:19)ナザレでは養父のヨセフはイエスの父と思われていました。イエスの先祖ダビデは,地上の国をもっていました。しかしイエスの天の御国は,もっと大きく,全人類にとってもっと有益なものです。
33,34 (イ)牧師はどのように,ヨハネ伝 1章14節の言いまわしは,言葉の化身を暗示していると主張しますか。(ロ)ペテロがこの手がかりとなる言葉を使っており,ほかのところにも使われていることから何が分かりますか。
33 言葉すなわちロゴスであったかたが,人間の間におられたのはわずかの期間で,ダビデ王の子孫にあたるユダヤ人の処女の胎に宿られた時から35年足らずでした。アメリカ訳が,ヨハネ伝 1章14節を,「そこで言葉は肉と血とになり,しばらくの間わたくしたちの中に住まれた」と訳しているとおりです。化身と神人を信じる牧師たちは,「しばらくの間住まれた」と訳されているギリシャ語の動詞の語源が,「テント」または「幕屋」という語にあることに人々の注意を引きます。事実,ロバート・ヤング博士は,この表現を,「そして言葉は肉体となり,われらの間に仮住居された」と訳しています。キャンプする人がテントの中に住むことから,牧師たちは,イエスはやはり霊者であり,肉体の中で仮住居されたに過ぎない,だから化身であり神人であったと主張します。しかしながら,使徒ペテロも自分自身について同じような表現を用いてこう言っています,「わたしがこの幕屋にいる間,あなたがたに思い起させて,奮い立たせることが適当と思う。それは,わたしたちの主イエス・キリストもわたしたちに示して下さったように,わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近であることを知っているからである」。(ペテロ後 1:13,14,新口)そうは言ってもペテロは,自分が化身だという意味でいったのでないことは確かです。ペテロのいわんとしたのは,彼が肉の人間として地上にいるのは,いましばらくの間にすぎないということでした。
34 ヨハネ伝 1章14節に用いられているのと同じギリシャ語は,化身でなかったほかの人についても黙示録 12章12節,13章6節で用いられています。ですからヨハネ伝 1章14節の言葉は,化身説を支持するものではありません。
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人間になる以前の存在ものみの塔 1962 | 10月15日
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その2
人間になる以前の存在
35,36 (イ)ヨハネ伝 1章1節は,どの存在のことを言っていますか。だれが最初にそのことに人々の注意を引いていますか。(ロ)イエスがヨハネのあとから来る人でありながら,ヨハネよりも前に存在していたというのは,どういうわけですか。ヨハネがイエスを神の子羊と呼んだことは,何を示しましたか。
35 使徒ヨハネは,つぎのような言葉で記述を始めています,「初めに言があった言は神と共にあった」。でもヨハネはこれによって,19世紀昔,イエスが地上で公の奉仕をし始めたことを言うつもりはありませんでした。彼は,言葉が,地上で「肉体となる」ずっと以前にすでに存在していたことを言ったのです,ヨハネは,彼の記録全体を通じて,この点を明りょうにしています。イエスがヨルダン川で洗礼を受けられて,1ヵ月以上たって,洗礼者ヨハネはつぎのように言つて,イエスとイエスの以前の生活に人々の注意をよび起こしています,「見よ,世の罪を取り除く神の小羊。『わたしのあとに来るかたは,わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは,この人のことである。わたしはこのかたを知らなかった。しかしこのかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために,わたしはきて,水でバプテスマを授けているのである」。―ヨハネ 1:29-31,新口。
36 洗礼者ヨハネが生まれたのは,言葉が「肉体となる」,すなわちユダヤ人の処女の子として生まれる約6ヵ月前でした。そういうわけでヨハネはイエスのことを「わたしのあとに来るかた」といったのです。しかしヨハネはいま,彼がイエスに洗礼を授けたのちイエスに起こった事のために,イエスを「わたしよりもすぐれたかた」と呼ぶことができたのです。ですからヨハネが,イエスのことを「わたしよりも先におられた」と言ったのは,イエスが人間になる以前に存在しておられたことを意味したに違いありません。ヨハネはまた,イエスが神へのささげものとなることになっていたことを指摘しました。というのは,古代のイスラエルでは,ユダヤ人の祭司たちによって,毎日神へ犠牲がささげられていたからです。イエスが,「神の小羊」として世の罪をとりのぞくためには,彼の血が犠牲として流されねばなりませんでした。ひとりの罪のない犠牲者の血を流すことなしに,神から罪のゆるしを得ることはあり得なかったからです。―ヘブル 9:22。
37 イエスはなぜニコデモに天のことについて告げることができましたか。
37 多くの場合にイエスは,ご自分が地上で肉体となる以前に天にいたことをご自分で証明されています。したがってイエスは,「天上のこと」を語ることができました。ユダヤ人の支配者ニコデモにイエスが言われたとおり,「天から下ってきた者,すなわち人の子のほかには,だれも天に上った者はない」からです。―ヨハネ 3:12,13,新口。
38 マナについての話で,イエスは以前天にいたことをどのように証明されましたか。
38 イエスはご自分のことを,天からのパンと言って,ユダヤ人にこう話されました,「天からのパンをあなたがたに与えるのは,モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは,わたしの父なのである。神のパンは天から下ってきて,この世に命を与えるものである」。わたしが天から下ってきたのは,自分のこころのままを行うためではなく,わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」。「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は,いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは,世の命のために与えるわたしの肉である」。「わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。天から下ってきたパンは…」。多くのユダヤ人たちはイエスのこれらの言葉に対して,つぶやいたので,イエスは彼らをもっと驚かすことを言われました,「このことがあなたがたのつまずきになるのか。それでは,もし人の子が前にいた所に上るのを見たら,どうなるのか」。―ヨハネ 6:32,33,38,51,57,58,61,62,新口。
39,40 (イ)別の時にイエスはご自分をどこからの者だといわれましたか。(ロ)そのため,イエスは神に何を祈り求めることができましたか。
39 後日イエスは,信仰のないユダヤ人に,ご自分が去ることについて話された時こう言われました,「あなたがたは下から出た者だが,わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが,わたしはこの世の者ではない」。「神があなたがたの父であるならば,あなたがたは私を愛するはずである。わたしは神から出た者,また神からきている者であるからだ。わたしは自分からきたのではなく,神からつかわされたのである」。(ヨハネ 8:23,42,新口)そういう理由でイエスは,ご自分の忠実な使徒たちの聞いているところで神に次のように祈り,また言うことができたのです。
40 「父よ,世〔人類の〕が造られる前に,わたしがみそばで持っていた栄光で,今み前にわたしを輝かせて下さい。わたしはもうこの世にはいなくなりますが。彼らはこの世に残っており,わたしはみもとに参ります。聖なる父よわたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためであります。…あなたがわたしに賜わった人々が,わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって,わたしに賜わった栄光を,彼らに見せて下さい」。―ヨハネ 17:5,11,24,新口。
41 ですから,天からのかたは何について話し,あかししましたか。
41 イエスは,言葉すなわちロゴスとして天にいたとき,父のみそばで栄光をもち,み父に愛されていました。それは,世が造られる前のことです。使徒ヨハネはイエスのこの言葉を聞きました。ですから,つぎのように正しく説明することができたのです,「上から来る者は,すべてのものの上にある。地から出る者は,地に属する者であって,地のことを語る。天から来る者は,すべてのものの上にある,彼はその見たところ,聞いたところをあかししている」。(ヨハネ 3:31,32,新口)イエスが,人間になる前に存在しておられたことに疑問の余地はありません。言葉すなわちロゴスとして,「初めに」神と共におられたのです。
信仰をもったユダヤ人は彼をこう呼んだ
42 イエスに使徒と呼ばれるようになるまえに,12使徒はだれを信じていましたか。そこで,このことについてどんな質問が生じますか。
42 地上におられた時イエスは,12人の使徒を召し,選ばれました。この人々は,生来のユダヤ人で,「ユダヤ人の宗教」すなわちユダヤ教の中で育てられ,ただ一つの神エホバを信じていました。(ガラテヤ 1:13,14)イエスは,彼らの教師として,三位一体を教えましたか。ご自分も,第二の位格あるいは「子なる神」として含まれている三位一体を信ずるように,彼らを改宗させましたか。使徒とほかの弟子たちは,イエスを「子なる神」と考えるようになり,またイエスをそう呼ぶようになりましたか。彼らはイエスをなんと呼びましたか。ではヨハネの伝えていることを調べてみましょう。
43,44 ヨハネがイエスに洗礼を授けたのち,ヨハネはイエスについてどんな事実を証言しましたか。
43 イエスが洗礼をお受けになったのち洗礼者のヨハネは,自分の弟子たちをイエスに紹介しました。ヨハネは,洗礼を授けるために神よりつかわされていました。また,神はヨハネに何を待つべきかをお告げになっていたのです。ではヨハネは,自分の弟子であるユダヤ人たちにイエスを紹介するに際して,洗礼を受けたイエスのことをなんと説明したでしょうか。
44 これに対する答えとして,ヨハネ伝 1章32-34節(新口)を読んでみましよう。「ヨハネはまたあかしをして言った『わたしは,御霊がはとのように天から下って,彼の上にとどまるのを見た。わたしはこの人を知らなかった。しかし,水でバプテスマを授けるようにと,わたしをおつかわしになったそのかたが,わたしに言われた,『ある人の上に,御霊が下ってとどまるのを見たら,その人こそは,御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれを見たので,このかたこそ神の子であると,あかしをしたのである」。
45 ヨハネはだれが自分のところに洗礼を受けにくるのを期待していましたか。それで彼は,何であることを否定しましたか。
45 洗礼者のヨハネ自身,母親の胎内にいた時から,聖霊にみたされていました。ヨハネは,イエスはエホバであったとか,イエスは神であったなどとあかししましたか。そんなあかしはしませんでした! 洗礼者ヨハネは自分の弟子にこう告げています,「このかたこそ神の子である」。ヨハネは,「子なる神」ではなくて「神の子」と言っています,この表現はまったく異なった意味をもっています。ヨハネは,エホバ神が自分のところにこられて水の洗礼をお受けになることなど期待していませんでした。ヨハネが待ちうけていたのは,キリストになるかた,メシヤ,あるいは油そそがれた者,神が聖霊をそそぐかたでした。ですからヨハネは,彼自身がキリストであるなどと,だれにも思わせないようにしました。彼は弟子たちにこう言っています,「『わたしはキリストではなく,そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは,あなたがた自身である。…彼は必ず栄え,わたしは衰える」。(ヨハネ 3:28-30,新口)ヨハネは,自分が見たことから,イエスがキリストであり,神の油そそがれた者であることを知っていたのです。
46 ヨハネが彼の弟子たちをイエスに渡したあと,弟子たちが,イエスについて言ったヨハネの言葉に対し,考えを変えたかどうかは何でわかりますか。
46 洗礼者のヨハネは,弟子たちにそのことを教え,イエスを「神の子」として彼に従うように,彼らをイエス・キリストに渡しました。この弟子たちは,聞き,観察し,イエスと共にいたあと,イエスについての考えを変えましたか。これらの弟子たちは終始イエスをなんと呼びましたか。イエスがナタナエルに初めて会って,その先見の明で彼を驚かした時,「ナタナエルは答えた,『先生,あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』」。(ヨハネ 1:49,新口)ヨハネ第一書 4章15節,5章5節で使徒はこう言っています,「もし人が,イエスを神の子と告白すれば,神はその人のうちにいまし,その人は神のうちにいるのである」。「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」。ヨハネ第二書 3節では,「父なる神および父の御子イエス・キリストから…平安があるように」と述べています。
47 マルタは,イエスを何と信ずると言いましたか。また,イエスの敵は,イエスが彼らの律法にもとづく死に価する理由を何と述べましたか。
47 イエスは,死んでからすでに4日たっていたラザロを復活させるまえに,ラザロの姉妹マルタに,自分がいま言ったことを信じるかとお尋ねになりました。マルタはこう答えました,「主よ,信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト,神の御子であると信じております」。(ヨハネ 11:27,新口)それよりもっと注目に価するのは,イエスの血に飢えていた敵どもの証言です。ローマの総督が,自分もイエスの無実を知ったので,死刑執行といういやな仕事をユダヤ人に押しつけようとしたとき,ユダヤ人は総督にこう答えました,「わたしたちには律法があります。その律法によれば,彼は自分を神の子としたのだから,死罪に当る者です」。(ヨハネ 19:7,新口)このように,洗礼者のヨハネ,イエスの使徒たち,ラザロの姉妹マルタ,そして敵どもでさえ,イエスは神そのものではなく「神の子」であったと証言した点で一致しています。
48,49 (イ)弟子たちを喜びをもってイエスに渡すことにつき,ヨハネはどんな比較をしましたか。(ロ)花嫁はだれとの結婚を期待していますか。
48 洗礼者のヨハネは,なぜ自分が弟子たちをもつという点でおとろえ,イエスが洗礼を受けた追随者を多くもって栄えるかを説明したとき,イエスを花婿にたとえました。そしてこう言っています,「若嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き,その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして,この喜びはわたしに満ち足りている」。(ヨハネ 3:29,新口)ヨハネは,洗礼を受けた弟子たちをイエス・キリストに渡すことに大きな喜びをもっていたのです。
49 象徴的にいってイエスは花婿ですから,洗礼を受けた,油そそがれた彼の追随者のグループは全部イエスの花嫁であるはずです。彼らの希望は,イエス・キリストを天の花婿として彼と婚姻することです。彼らは神と婚姻することを期待してはいません。しかし,もし神が三位一体であるとすればそれを期待していることになります。また彼らは,そのような三位一体の,ある特定の位格,すなわち三位一体の第二の位格,いわゆる子なる神と婚姻するとも考えていません。そんな三位一体とか,三位一体の第三の位格と婚姻することなど彼らは想像もしていません。霊感によって書かれた聖書はシャムの双生児(身体の接合した双生児)と結婚するようなことを教えてはいません!
50 花婿はだれと婚姻しますか。黙示録によると何人いますか。
50 花婿であるイエス・キリストは,何億という全人間種族とではなく,人間種族から取られた限定された数の者とだけ婚姻されます。黙示録の中で使徒ヨハネは,花婿と花嫁が一諸にシオンの山 ― ダビデ王が支配したエルサレムのシオン山によって予影されていた ― と呼ばれる天の政府のあるところにいるのを幻で見ています。そしてこう述べています,「なお,わたしが見ていると,見よ,小羊がシオンの山に立っていた。また,十四万四千の人人が小羊と共におり,その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。…彼らは,御座の前,四つの生き物と長老たちとの前で,新しい歌を歌った。この歌は,地からあがなわれた十四万四千人のほかは,だれも学ぶことができなかった。彼らは,女にふれたことのない者である。彼らは純潔な者である。そして,小羊の行く所へは,どこへでもついて行く。彼らは,神と小羊とにささげられる初穂として,人間の中からあがなわれた者である」。―黙示 14:1-4,新口。
51 花嫁級が処女であること,ひたいにしるしがつけられていること,買われたことについて述べなさい。
51 花嫁級は,このように処女級として表わされています。彼らは,この不道徳な世の友となることによって霊的姦淫を犯した人々,もしくは組織で身を汚しませんでした。彼らはひたいに,花婿の名と,花婿の父の名をもっていますが,そのほかの名,すなわち三位一体の第三の位格である聖霊なる神という名はもっていません。14万4000人の成員で成るこの花嫁級は,天に行くために地から取り出されてきました。そうです,霊者として永遠の生命をもつように肉と血をもつ人類の間から取られたのです。どのように? 彼らの花婿「世の罪を取り除く神の小羊」のあがないによって買い取られることにより,取り出されました。
52 花嫁級はどのように「神に…ささげられる初穂」に似ていますか。このことは,一般の人類にとって何を意味しますか。
52 彼らはイスラエル人が,収獲物から初穂を取って宮の僕を通してエホバにささげた初穂のようでした。ペンテコストの日に大祭司は2個の,種を入れて焼いた麦粉のパンを「ヱホバへの初穂として」神にささげました。花嫁級だけが唯一の「神と小羊とにささげられる初穂」であるからには,天ではなく地上で救われて永遠の生命を与えられる人類の数はずっと多いに違いありません。なぜですか。それは神の小羊が,花嫁級だけの罪ではなく,「世の罪」を取り除くからです。―ヨハネ 1:29。ヨハネ第一書 2:1,2,新口。
53,54 黙示録 19章6-9節によると婚姻はだれのものですか。花嫁はだれのものですか。婚宴はだれのためのものですか。
53 花嫁級すなわち油そそがれたクリスチャン会衆が,天でだれと婚姻するかについては,使徒ヨハネは少しも疑いを残していません。黙示録 19章6-9節でヨハネはこう書いています,「わたしはまた,大群衆の声,多くの水の音,また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った。『ハレルヤ,全能者にして主なるわれらの神は,王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ,神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて,花嫁はその用意をしたからである。彼女は,光り輝く,汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は,聖徒たちの正しい行いである』。それから,御使はわたしに言った,『書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は,さいわいである』。またわたしに言った,『これらは,神の真実の言葉である』」。新口。
54 この婚姻は,神の小羊のもので,全能者にして主なるわれらの神の婚姻ではありません。花嫁は神の小羊のもので,全能者なる神のものではありません。婚宴も神の小羊のものです。そして,イエスが話された預言的たとえは,み子である小羊のために婚宴をもうけるかたが,全能にして主なるわれらの神であることを示しています。
55 黙示録 19章11-16節は,神の小羊をだれと同じに見ていますか。それで,14万4000人はだれの花嫁になりますか。
55 それより2,3節あとの黙示録 19章11-16節で,使徒ヨハネは,神の小羊を,言葉すなわちロゴスとしています。というのは,ヨハネは小羊が馬に乗って,彼の父の敵との戦いへと出で立つのを見ているからです。ヨハネは彼をこんなふうに描写しています,「彼は血染めの衣をまとい,その名は『神の言』と呼ばれた。…その着物にも,そのももにも,『王の王,主の主』という名がしるされていた」。こういうわけで,14万4000人の彼の忠実な追随者たちは,神の花嫁になるのではなく,神の言葉の花嫁になるのです。
56,57 黙示録 21章では,花嫁級に関してだれとだれとの区別がされていますか。どのように?
56 婚姻している者たちは,さらにあとのまぼろしの中で示されています。ヨハネはそのまぼろしを描写してこう言っています。「また,聖なる都,新しいエルサレムが,夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて,神のもとを出て,天から下って来るのを見た。最後の七つの災実が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて,わたしに語って言った,『さあ,きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう』。この御使は,わたしを御霊に感じたまま,大きな高い山に連れて行き,聖都エルサレムが神の栄光のうちに,神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。また都の城壁には十二の土台があり,それには小羊の十二使徒の名が書いてあった。わたしは,この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主(エホバ神,新世)なる神と小羊とが,その聖所なのである。都は,日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし,小羊が都のあかりだからである」。―黙示 21:2,9-11,14,22,23,新口。
57 私たちはいつも,小羊と,全能者にしてわれらの主である神との間に区別が設けられていること,また,14万4000人の花嫁の成員が婚姻しているのは小羊であることを知らされています。彼女は小羊の花嫁になるのです。もし,三位一体というようなものがあったなら,14万4000人は,神すなわち位格の一つである神と婚姻せざるを得なくなったでしょう。そしてそれによって神と一つになったでしょう。しかし,聖書はそのようなことを教えていません。
自己を証明する
58 ニコデモとの話で,イエスはご自分をだれだと言われましたか。
58 洗礼者のヨハネは,花嫁級のために,花婿が神の小羊と同一であることを示しています。しかし花婿は,自分が花婿であることを花嫁その他にどのように示したでしょうか。彼は,自分が神とどんな関係にあることを主張しましたか。洗礼者のヨハネは彼を神の子と宣言しましたが,花婿は自分がそれ以上のものであることを主張したことがありますか。これに対する答えとして,イエスがニコデモに言われた,人々に非常に好まれている言葉にまず耳を傾けてみましよう。「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは,世をさばくためではなく,御子によって,この世が救われるためである。彼を信じる者は,さばかれない。信じない者は,すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである」。―ヨハネ 3:16-18,新口。
59 イエスが生まれつき目の見えない男をいやされたあと,イエスをだれと信ずると告白しましたか。
59 ある時イエスは,生まれつき目の見えないひとりの男をいやされたことがあります。いくつかの聖書訳によると,イエスはあとで彼にこう言われました,「なんぢ人の子を信ずるか」。その男は答えました,「主よ,それは誰なるか,われ信ぜまほし」。イエスはお答えになりました,「なんぢ彼を見たり,汝と語る者はそれなり」。イエスは,ご自分,すなわちイエスが,神の子以上の者であると信ぜよとはその男に言われていません。その男もそれ以上を信ずると告白したのではありません。―ヨハネ 9:35-37。欽定訳,ドウェー訳,アメリカ標準訳,エンハチック・ダイアグロット,ラムサ訳,マードック訳。
60 イエスは,ラザロを復活させるまえに,だれが栄光を受けるべきだと言われましたか。それ以後マルタは,イエスをだれと信ずると言いましたか。
60 病気の友ラザロのために,ベタニヤの村へ行く前にイエスは使徒たちにこう言われました,「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため,また,神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。ラザロが死んで横たわっている墓にイエスが行き着くまえに,ラザロの姉妹マルタは,イエスがご自分について言われたことに対する信仰を告白し,こう言いました,「主よ,信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト,神の御子であると信じております」。―ヨハネ 11:4,27,新口。
61 テアテラの会衆にメッセージを送るにさいして,イエスはご自分のことをなんであると言われていますか。
61 栄光を受けたイエスは天においてさえご自分のことを神の子と言われています。黙示録 2章18節で,テアテラの町にあるクリスチャン会衆にメッセージを送る時,栄光に輝くイエスはヨハネにつぎのように言われます,「テアテラにある教会の御使に,こう書きおくりなさい。『…神の子が,次のように言われる。…勝利を得る者,わたしのわざを最後まで持ち続ける者には,諸国民を支配する権威を授ける。彼は鉄のつえをもって,ちょうど土の器を砕くように,彼らを治めるであろう。それは,わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である」。―黙示 2:18,26,27,新口。
62 イエスは,祈りの中で,ご自分を神とどんな関係において話されていますか。
62 神とのそういう関係に基づいてイエスは,ご自分を子として神に話しかけ,また祈られました。「父よ,時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように,子に栄光をあらわして下さい。あなたは,子に賜わったすべての者に,永遠の命を授けさせるため,万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。(ヨハネ 17:1-3,新口)こうしてイエスは,ご自分が「唯一の,まことの神」であることを主張されませんでした。
63 ユダヤ人はなぜイエスを石で打ち殺そうとしましたか。そうすることが,ユダヤ人にとって正しいかどうかを示すために,イエスは詩篇からどんなことを引用されましたか。
63 しかし,そんなことをいうのは,ヨハネ伝 10章31-39節を忘れているからではありませんか。この聖句によると,ユダヤ人は,イエスが「わたしと父とは一つである」と言われたので,イエスを石で打ち殺そうとしています。私たちはべつにそれを忘れているわけではありません。エホバという名の唯一の神を信じていたユダヤ人は,イエスを石で打ち殺してやりたいと思ったのです。なぜでしょうか。イエスが,三位一体とか,自分は三位一体の三分の一だなどと教えたからではなく,ご自分を神の子,彼らの神であるエホバの子と言ったからです。イエスは,石をにぎりしめている彼らに言われました,「わたしは,父による多くのよいわざを,あなたがたに示した。その中のどのわざのために,わたしを石で打ち殺そうとするのか」。ユダヤ人は答えました,「あなたを石で殺そうとするのは,よいわざをしたからではなく,神を汚したからである。また,あなたは人間であるのに,自分を神としているからである」。(新口)そこでイエスは,ユダヤ人の注意を,彼らの聖書の詩篇 82篇6節に向けさせて言われました,「あなたがたの律法に,『わたしは言う,あなだがたは神々である』と書いてあるではないか。神の言を話された人々が,神々といわれておるとすれば,(そして聖書の言は,すたることがあり得ない)父が聖別して,世につかわされた者が,『わたしは神の子である』と言ったからとて,どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。もしわたしが父のわざを行なわないとすれば,わたしを信じなくてもよい。しかし,もし行っているなら,たといわたしを信じなくても,わたしのわざを信じるがよい。そうすれば,父がわたしにおり,また,わたしが父におることを悟るであろう」。―新口。
64 (イ)この場合イエスは,ご自分が何であると論じられましたか。(ロ)詩篇 82篇が,「もろもろの神」と述べているのはだれのことでしたか。
64 このイエスの論議はまさに,彼が自分は神であると主張しなかったことを証明しています。イエスがもし神であると主張していたなら,ユダヤ人が彼を神を汚したといって石で打ち殺しても間違いではなかったでしょう。しかしイエスは,自分は神よりも小さいと主張した,と論じておられます。この点を証明するためにイエスはつぎのように書かれている詩篇 82篇1,2,6,7節(欽定訳)を引用されました,「神〔エロヒム〕は,力ある者の会衆の中に立ち給ふ。彼はもろもろの神〔エロヒム〕のなかにさばきをなしたまふ。なんぢらは正しからざるさばきをし,あしき者の身をかたよりみ幾何時をへんとするや。……われいへらく,なんぢらは神〔エロヒム〕なり,なんぢらはみな至上者の子なりと。されどなんぢらは人のごとくに死にもろもろの君のなかの一人のごとくたふれん」。この詩篇の中で,至上者であられる神は,地上のさばき人 ― 単なる人間 ― に話しかけておられます。そして彼らを,「もろもろの神」,すなわちヘブル語でエロヒムと呼び,さばきの仕方を是正せよと告げておられます。それらのさばき人が,自分の職務を正しく行なっていないので,至上者であられる神がお立ちになって,地上の人々をさばく必要が生じたのです。
65 「もろもろの神」であるにもかかわらずそれらのさばき人にはどんなことが起きますか。そういう種類のユダヤ人の「もろもろの神」は,だれの死に責任をもちますか。
65 彼らがいかに「もろもろの神」と呼ばれていても,また彼ら自身が自分たちは「至上者の子」あるいは神の子たちであると考えていても,そのことはこのさばき人たちを救うものではありません。そのことが彼らに不滅性を与えるわけではありません。彼らはやはり滅びる者であって,他の人間と同じように死んでいきます。また,地上の他のさばき人である君たちと同じように死にたおれます。これは,神のさばきによります。神の言葉は,不正なさばきをとがめています。ローマ人の手でイエスを殺させたのは,ユダヤ人たちの間のこのような人間の神々でした。―出エジプト 22:28。
66,67 イエスはだれであることを主張しませんでしたか。み父とご自分とについて,イエスはユダヤ人に対し何を言われませんでしたか。
66 詩篇 82篇6節は,ある人間たち,すなわちいく人かのイスラエル人のさばき人を「もろもろの神」と呼んではいましたが,しかし,イエスは,彼を石で打ち殺そうとした者たちに向かって,自分は神だとかあるいは一つの神だとは主張しなかったと告げておられます。イエスはユダヤ人たちに,神のことをご自身の父として語られます。ということは,彼すなわちイエスが,神の子であったことを意味します。イエスは彼らに言われました,「彼ら〔わたしの羊〕をわたしの手から奪い去る者はない。わたしの父がわたしに下さったものは,すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から,それを奪い取ることはできない。わたしと父とは一つである」。
67 イエスがこう言われたのちに持ち出された論議は,彼が神であると主張していなかったこと,また,彼と彼の天の父とが一つの神,すなわち三位一体の神 ― 彼と父とが二つの位格で,「聖霊なる神」が第三の位格 ― であるとも言われなかったことを証明しています。イエスは,私と父と聖霊とは一つであるとは言われませんでした。「聖霊」についてはなにも言われていません。―ヨハネ 10:28-30。
68 イエスは,詩篇 82篇6節を用いて,「私と父とは一つである」と言ったことが,神であるという主張ではなかったことをどのように証明されましたか。
68 「わたしと父とは一つである」という声明は,神であると主張していることにはならないとイエスは論じています。なぜですか。なぜならイエスは,ご自分をみ父なる神よりも小さいものと呼び,そのことをユダヤ人たちに告げられたからです。詩篇 82篇6節のユダヤ人自身の律法は,神の言葉によって批判されている人間を「もろもろの神」と呼んでいます。ユダヤ人たちが,人間のさばき人を「もろもろの神」という名称で呼んでいるこの聖句を取り消すことはできません。またこの聖句がそういうことを言っているという事実を否定することも,この聖句を霊感された聖書から取り除くこともできないのです。イエスはこれらのことをユダヤ人に告げられました。それにもかかわらず,はなはだ多くのすばらしい良いわざをされたイエス・キリストが,ご自分の父として神のことを話し,ご自分を単なる神の子として語ると,ユダヤ人たちは彼は神を汚したと言い,神を冒潰した者として彼を石で打ち殺そうとしたのです。それでもイエスは,詩篇 82篇が「もろもろの神」と呼んでいる人間どもよりすぐれていました。なぜなら,彼すなわちイエスは,彼の天の父が聖別して世におつかわしになったかただったからです。アサフが,イスラエルのさばき人たちを「もろもろの神」と呼んで一つの詩を作っても,神を汚したことにならないのなら,イエスがご自分を一つの神ではなく単に神の子と言ったことは,なおさら神を汚したことにはなりません。―詩 82篇。(表題)
69 (イ)これまで資料として用いてきたヨハネの書物の中で,私たちはイエス・キリストに関し何を見出すことができませんでしたか。(ロ)読者も私たちと一緒に,ヨハネの書物を資料にさらに検討をすることをすすめられているのはなぜですか。
69 以上のようなわけで,ヨハネの書物から取った前記のすべての資料のどこにも,イエス・キリストがご自分を神と呼んだり,人にご自分を神と呼ばせたりしておられるところは見あたりません。しかし,三位一体論者は,ヨハネの書物の中のこれに関係した聖句は,まだ全部検討されていない。これらの聖句は,イエスが,ご自分を神と言われたこと,人にも自分を神と言わせたことを証明し,さらにヨハネ伝 1章1節を「言葉〔あるいはロゴス〕は神であった」と訳している点で,多くの聖書は正しいことを証明するというでしょう。それで,「言葉」に関するこの記事のつぎの三つの部分で,そういう聖句を取りあげてみます。読者の皆さんも私たちと一緒にそれらを検討して下さい。
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「また幼い時から,聖書に親しみ,それが,キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を,あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたものであって,人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である」。―テモテ後 3:15,16,新口。
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神の目的とエホバの証者(その48)ものみの塔 1962 | 10月15日
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神の目的とエホバの証者(その48)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる」― イザヤ 43:10,新世訳
トム: 法廷における公正な聴問の権利に対するこの恐ろしい打撃をうけて後に,エホバの証者と協会は戦いを断念しましたか。
ジョン: いいえ,彼らはだんことして断念しませんでした。協会の弁護士は,他の多くの件における妨害物を取りのぞこうとつとめました。その中の二つの件では,エホバの証者は列の終りに行って,就任局の役人と爪先立ったことがありました。南カロライナ州のスミスとペンシルバニア州のエステップの二人の証者は就任することを拒絶しました。彼らは告訴されて,二つの別々の控訴院が弁護を認めぬと述べたため,その後の処罰は確認されました。この二つの件は,それから最高裁判所に提出されましたが,その間に,戦争は終了しました。1946年2月4日,最高裁判所はエホバの証者に有利な判決をくだしました。最高裁判所は次のように裁定しました。すなわちエホバの証者に公正な聴問の権利を拒絶し,証者たちが弁論する前に中立を妥協して,まず軍隊にはいらねばならぬと裁定したアメリカ合衆国の下級連邦判所は間ちがっていたというのです。最高裁判所は次のようにも論じました。すなわち徴兵委員会は条例と規定に違反行為をなし,事実に反して奉仕者の類別を否定したので
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