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  • 憎しみが良いもの,身の守りとなるとき
    ものみの塔 1971 | 2月15日
    • ているだろうか。エホバを愛しているだろうか」。人に対するわたしたちの関係は,相手がエホバと隣人に対する愛を持っているかどうかによって左右される。この交わりという問題は重要である。なぜなら,悪事を行なう人々といっしょにいることを楽しむようでは,やがて,彼らの行ないを憎まなくなるからである。―コリント前 15:33。

      積極的な物の考え方がきわめて重要であることは,言うまでもない。ことは,単に悪を憎むだけといった消極的問題ではなく,善に対する積極的な愛もまた必要なのである。ゆえに,悪を憎むことには,使徒パウロがきわめて簡潔に言い表わしたように,二つの要素が関係している。「悪はにくみ,善はしたし(め)」。(ロマ 12:9)良い考えで思いを満たすことによって,悪を憎んでいることを示し(ピリピ 4:8),さらに,悪いことをしたいという欲望を心臓にたくわえる代わりに,良い動機で心臓を満たすことが必要である。―マタイ 15:19。マルコ 7:21-23。箴言 4:23。

      あなたは悪を憎まれるであろうか。神のことばはそうすることを勧めており,そうするのは正しく,賢明で,愛のあることである。では,悪を憎み,善を愛していることを,だれと交わるか,何を考え何を話すか,また,どうふるまうかによって示そうではないか。

  • 四日のあいだ死んでいた人
    ものみの塔 1971 | 2月15日
    • 四日のあいだ死んでいた人

      親が子どもとともに読む特別な記事

      生きているのはすばらしいことではありませんか。あなたの生活は楽しいものですか。わたしは生きていることを楽しんでいます。生きていれば,いろいろおもしろい事がたくさんできます。

      えいえんに生きた人はだれもいないことを知っていましたか。人はみな,いつかは死んでしまいます。なくなった人をだれか知っていますか。愛している人がなくなると,とても悲しい思いをします。それは,愛している人がいなくなって,もう見ることも話しかけることもできないからです。

      イエスがたいへんしたしくしておられたある家族のなかのひとりが死にました。そのため,みんなが悲しみました。ところがイエスは,その悲しみを大きな喜びに変えることができたのです。そのことをお話ししましょう。このお話は,人は死ぬとどうなるかを知るのにやくだつでしょう。

      イエスのその友だちは,エルサレムから遠くない,ベタニヤという小さな町に住んでいました。それはラザロとふたりの妹姉で,ひとりはマルタ,そしてもうひとりはマリアという名前でした。

      ある日ラザロはたいへんおもい病気になりました。イエスはその時,遠くはなれた所におられたので,マルタとマリアは,兄弟のラザロが病気だということをイエスに知らせました。ふたりはなぜそうしたのですか。なぜなら,イエスが兄弟をなおせることを知っていたからです。イエスは医者ではありませんでしたが,神からの力を持っていたので,どんな病気でもなおせたのです。

      でも,イエスはラザロとその姉妹たちが住んでいる所へすぐには行かれませんでした。ラザロは病気がたいへん重くなって,死にました。人びとはラザロをほら穴にほおむって,ほら穴の前に大きな石をおきました。

      ラザロが死んだとき,イエスにはそのことがすぐにわかりました。それはなぜかというと,イエスはそうしたことを知る力を神からあたえられていたからです。イエスは弟子たちに,ラザロはねむっているが,ラザロを起こしに行くといわれました。

      イエスが言われたいみは,ラザロが死んでいるということだったのですが,弟子たちにはそれがわからず,ラザロはねむっているなら,病気がなおるでしょうと言いました。それでイエスは,ラザロは死んだのだと,はっきりおっしゃいました。

      死とはふかいねむりのようなものです。それはたいへんふかいねむりなので,ゆめさえ見ることはありません。人は死ぬと,なにも感じませんし,苦しむこともありません。ですから,ほんとうは死んでいるラザロのことを,ねむっている,とイエスは言われたのです。これで死とはどんなものかがわかります。

      イエスがマルタとマリヤをたずねて行くと,そこには,ラザロの家の友だちもおおぜいいました。兄弟をうしなったマルタとマリヤをなぐさめるために来ていたのです。

      イエスがやって来ることを聞いたマルタは,イエスをむかえに行きました。まもなくマリヤもイエスにあいに来ました。マリヤはたいそう悲しんで,泣きながらイエスの足もとにひれ伏しました。マリヤについてきた友だちも泣いていました。イエスはみんなが泣いているのを見て,悲しい気持ちになり,ごじぶんも泣きだされました。

      偉大な師はラザロのからだがどこにあるかおたずねになりました。そこで人びとは,ラザロがほうむられたほら穴にイエスをあんないしました。するとイエスは,そこにいた男たちに,『ほら穴の前にある石をとりのぞきなさい』と命令されました。そんなことをしてもよいのでしょうか。

      マルタは,そうするのはよくないと思って,こう言いました。『主よ,死んでから四日たっているので,ラザロはもうくさくなっています』。たしかに,死んだ人のからだは,しばらくたつとたいへんくさくなります。

      ところがイエスはマルタに言われました。「信じるなら,神の栄光を見るでしょう,とわたしは言いませんでしたか」。神に栄光をもたらすようなことがらをマルタが見るといういみで,イエスはそう言われました。イエスはなにをしようとしておられたのですか。

      石が取りのぞかれると,イエスは大きな声でエホバに祈られました。イエスに力をあたえるかたが神であるということを,そこにいた人びとに知ってもらいたかったからです。それから大きな声でこう言われました。「ラザロよ,出てきなさい」。ラザロは出てくるでしょうか。出てくることができましたか。

      びっくりすることが起きました。四日のあいだ死んでいた人がほら穴から出てきたのです! その人は生きかえっていました! もういちど,こきゅうをしたり,歩いたり,話したりすることができたのです! そうです,イエスは,四日のあいだ死んでいたラザロを復活させたのです! それはすばらしいことではありませんでしたか。―ヨハネ伝 11章。

      でも,死んでいたラザロは,四日のあいだどこにいたのですか,とあなたはたずねるかもしれません。ラザロは良い人でした。イエスは良い人たちだけをしたしい友だちになさったからです。ラザロは死んだとき天へ行って,そこで神や天使といっしょにくらしていたのですか。

      では,つぎのことを考えてください。もしラザロが四日のあいだ天にいたなら,天について何か話したはずではありませんか。天でくらすことはあまりにもすばらしくて,だまっていられなかったはずです。ところがラザロは,天やそのほかの場所にいたなどということについて,ひとことも言いませんでした。

      ラザロはねむっている,とイエスが言われたことを思い出してください。ねむっているとはどんなじょうたいですか。

      たいへん深くねむっているときには,まわりでどんなことが起きているかわかりませんね。そして,目をさましたとき,とけいを見るまではどれほど長くねむっていたかわかりません。

      死とは深いねむりに似ていますから,死んだ人は何もすることができないということになります。その人は無意識です。けれども多くの人はそのことを知らないので,死人をおそれて,墓地にちかずくことさえこわがります。でも死人をおそれる理由がありますか。いいえ,すこしもおそれることはありません。人は死ぬと,良いことも,害をあたえることもできないのです。

      あなたは,ねむっている人を起こすことができますか。そうです,大きな声で呼ぶと,ねむっている人は目をさまします。でも死んでねむっている人を起こすことができますか。いいえ,どんなに大きな声で呼んでも,死んだ人には聞こえません。あなたや地上のほかの人がどんなことをしても,死んだ人を目ざめさせることはできません。

      ところが,エホバ神は死人を復活させる力をイエスにおあたえになりました。イエスは死人を生きかえらせることができます。そしてイエスは,まもなく,神の王国の支配のもとで,死人を生きかえらせると約束しておられます。それはなんと幸福な時となることでしょう!

  • エホバのさとしの道を歩む
    ものみの塔 1971 | 2月15日
    • エホバのさとしの道を歩む

      ドン・バートの経験

      私の現在の任地はペルーです。1954年の秋以来,私はここで奉仕しています。ペルーというところは,昔も今も,奉仕するのに実におもしろいところです。私はこの国での生活を退屈だと思ったことは一度もありません。年中,何か新しいことが起きているのです。私は過去のことを思い出すとき,よく自分に尋ねます。私はいったいどういうわけで,ペルーのような伝道の機会に恵まれた国で,ものみの塔協会を代表する宣教者という特権にあずかるようになったのだろうと。

      事の始まりは,1932年ごろ,私の祖母が,ものみの塔協会刊行の「生命」と題する赤い表紙の本を,長老教会の会員だった両親に送ってきたことでした。当時私は10歳でしたが,母がその本を教会へ持っていき,引用されているたくさんの聖句の中のひとつを牧師に見せたのをおぼえています。それは,神は『いたずらに地球をつくられたのではなく,人間のすみかとしてつくられたのである』という内容の聖句でした。(イザヤ 45:18)この聖句と,地球は世の終わりに崩壊する,という教会の教えとはどのように調和するのだろうか,と母は考えたのです。

      牧師は母の質問に答えるかわりに,「あなたはその本をどこで手に入れましたか。捨ててしまいなさい。あなたを混乱させるばかりだ」,と言いました。母にそういうことを言ったのは,確かにまちがっていました。というのは,それっきり私たちは教会と完全に交わりを断ったからです。しかし,祖母はその間にも,どんどん手紙をよこし,自分が聖書について学んでいることを私たちに教えてくれました。父と母は例の赤い本を,聖書と比較しながら調べ,学んだ新しいことを必ず私たち子どもに教えてくれました。ですから,私たちは,父母といっしょに勉強しているように感じました。

      当時,私たちはアメリカのオハイオ州リービッツブルクに住んでいました。私たちは,その地域で,ものみの塔の出版物を読む人をひとりも知りませんでした。母はいつも,あの人たち ― 当時,彼らは「聖書研究生」と呼ばれていました ― は

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